『古代に真実を求めて』第十八集へ
盗まれた「聖徳」 正木裕
聖徳太子の伝記の中の九州年号 岡下英男(『古代に真実を求めて』 第十七集)../sinjit18/syoukyus.html
「俀・多利思北孤・鬼前・干食」の由来 正木裕(『古代に真実を求めて』第十九集)
正木裕
『日本書紀』推古紀には、一般に「聖徳太子」とされる「厩戸皇子」が、国政では摂政として冠位十二階や十七条憲法を定めるなど、天皇中心の集権国家体制の確立に努め、また崇仏施策を推進するとともに、自らも篤く仏教を崇拝したと記されている。更に、対外的には「日出る処の天子」を自負し、隋(『書紀』では「唐」)と対等な立場での交流を進めたのも「聖徳太子」であるといわれている。
そしてこうした太子の事績は、さまざまな伝記・伝承として今日まで広く伝えられている。
しかし、同時代のわが国の歴史・実情を記す『隋書』俀たい(倭)国伝には、「聖徳太子」は勿論「推古天皇」の名も見えず、俀王は「姓は阿毎あま、字は多利思北孤たりしほこ」であり、俀国には阿蘇山があるとされている。
また、法隆寺釈迦三尊像光背銘には「上宮法皇」が法興元三十二年(六二二)に登遐とうかしたとあるが、没年も太后や王后の名も聖徳太子のものとは異なっている。(註1)
そこから古田武彦氏は、『法隆寺の中の九州王朝』、『聖徳太子論争』をはじめとする数々の著書において、『隋書』の俀王多利思北孤や光背銘の上宮法皇は近畿天皇家の聖徳太子ではなく、本来九州王朝の天子であることを明らかにされた。(註2)
本稿では、こうした古田氏の研究を踏まえ、『聖徳太子伝記』に記す「聖徳太子の六十六ヶ国分国」や、能楽の大成者である世阿弥の『風姿花伝』に記す、能楽(申楽さるがく)の元祖としての「聖徳太子」の事績は、九州王朝の天子「多利思北孤」の事績であり、「多利思北孤が聖徳太子に擬せられている」ことを明らかにしていきたい。
初めに『隋書』と『書紀』を比較し、聖徳太子と多利思北孤の関係について、その概要を簡単に述べておく。
『隋書』俀国伝に俀王が隋の高祖(文帝)へ遣使し、「日出ずる処の天子、書を日沒する処の天子に致す。恙つつがなきや」という国書を送った有名な記事があり、これは聖徳太子の隋との対等外交姿勢を示すものとされている。
◆『隋書』開皇二十年(六〇〇)、俀王、姓は阿毎、字は多利思北孤、阿輩雞彌あはきみと号す。使を遣わし闕けつに詣でる。上(文帝)、所司をして其の風俗を訪わしむ。使者言う、『俀王は天を以て兄とし、日を以て弟とす。天未だ明けざる時、出でて政を聴き跏趺かふして坐し、日出ずれば便ち理務を停め、云う、我が弟に委ねん』と。高祖曰く、『此れ太だ義理無し』と。是に於いて訓令して之を改めしむ。王の妻は雞彌と号し、後宮に女六七百人有り。太子の名を利と為す。歌彌多弗かみとうの利なり。
『隋書』では、多利思北孤は妻や後宮を持つ「男帝」と記されているから、当時の近畿天皇家の「女帝」推古に充てるわけにはいかない。そこで通説(近畿天皇家一元説)では、開皇二十年(六〇〇・推古八年)当時『書紀』で摂政の地位にあったとされる厩戸皇子(聖徳太子)を「多利思北孤のこと」とした、或は“そうせざるを得なかった”のだ。
しかし、聖徳太子は俀王(天皇)ではなく、「阿毎」という姓や、多利思北孤という字などはなく、「雞彌」という妻や「利(利歌彌多弗利)」という太子もいないから、そうした比定はそもそも無理なのだ。
加えて、『隋書』に「彼の都に至り、其の王、清(裴世清)と相見え」とある通り、大業四年(六〇八)俀国を訪れた裴世清は、「俀王」多利思北孤に謁見している。「多利思北孤は聖徳太子」だとするなら、俀国は王でもない人物を王と偽り、裴世清もこれに気付かず国書の交換を済ませたことになる。
それだけではない。『隋書』に推古の名は一切見えないし、「女帝」が存在した“気配”も記されていないから、裴世清が通過した半島諸国も、真の俀国王が誰であるか口を閉ざし、隋に派遣された遣隋使も、沙門數十人も「俀王は推古女帝である」という真実を語らず、隋をだまし通し、隋も騙され続けたことになるのだ。
そのような「説」は、全く非常識な“空想上の産物”としか言いようがない。
結論はただ一つ。「俀国」とは近畿天皇家の統治する国ではなく、隋に国書を送った多利思北孤は、聖徳太子でも推古天皇でもなかったということだ。
『隋書』には「光武時、遣使入朝」とあるように、俀国は紀元五七年に漢の光武帝から金印を授かった「委奴国」を承継する国家として認識されている。そして、光武帝から賜った「漢委奴国王」印は筑紫博多湾岸(志賀島)から出土しているのだから、遣使入朝した「委奴国」も、それを承継する「俀国」も「九州を本拠とする国家」だったことになる。
そして、これを裏付けるように、『隋書』に、俀国には「阿蘇山」があると記されている。
◆阿蘇山有り。其の石、故無くして火起り天に接する者、俗以て異と為し、因って禱祭とうさいを行う。
また「気候は温暖、草木は冬も青く」「水辺が多く陸地は少ない」という気候風土は、到底近畿大和には合わず九州、それも海や川に沿った地域に相応しい。
つまり六〇〇年当時、隋と交渉を持ったのは、近畿天皇家ではなく「九州なる俀国」即ち九州王朝であり、俀王「多利思北孤」とは九州王朝の天子だったことになる。
これを『日本書紀』では、「近畿天皇家の聖徳太子とその事績」であるかのように装ったことになるのだ。
そうした『書紀』の“偽装”の影響もあってか、本来は多利思北孤の事績であるものが聖徳太子の事績とされている書物・事例が多く見受けられる。太子の生涯を編年体で記す『聖徳太子伝記』(*文保二年一三一八年頃の撰とされる。以下『伝記』という)と、そこに見える「六十六ヶ国分国」もその一つだ。
『伝記』によれば、太子十八才(己酉・五八九年)の時に、聖徳太子は国政を執行し、倭国を六十六ヶ国に分国した(分国を奏した)と記されている。
◆『伝記』太子一八才御時。
春正月参内して国政を執行したまへり。神代より人王十二代景行天皇の御宇に至るまでは国未だ分れず、十三代成務天皇の御時に始めて三十三ヶ国に分らる。太子又奏して六十六ヶ国に分ち玉へり。(略)今三十三ヶ国を六十六ヶ国に分ちて、々々より直に王城に至る様に大道を付けしめたまふ。
『書紀』には、この「六十六ヶ国分国」の信憑性を示す記事がある。
◆崇峻二年(五八九)の秋七月壬辰の朔に、近江臣満を東山道の使に遣して、蝦夷の国の境を観しむ。宍人臣鴈を東海道の使に遣して、東の方の海に浜そへる諸国の境を観しむ。阿倍臣を北陸道の使に遣して、越等の諸国の境を観しむ。
「六十六ヶ国分国」とは、新たに地方統治制度を創設・整備し、諸国の領域を定めることを意味するから、東山道・東海道・北陸道の「諸国の境を観る」との記述は、まさにそれに当たることになる。また、ここから律令制での「各道を構成する令制国」に繋がっていくような諸国の存在も推定されるだろう(註3)。そして「王城に至る様に大道を付け」とは「集権体制の整備」を意味するものだ。
『隋書』によれば、「俀国の境は東西五カ月行、南北に三カ月行で、各々海に至る。」とあり、多利思北孤の俀国の“支配領域”が、東山道・東海道・北陸道を含むことは明らかだ。また、「竹斯国より以東は、皆俀に附庸す」とあり、「附庸国」とは「宗主国に従属して、その命令に従う小国。属国。(*『大辞林』より)」を意味するから、各道を構成する諸国は「俀国の命令に従う従属国」だったということになる。「俀国の境」とは、こうした“従属国を含む俀国の支配領域の境”を指すものといえよう。
従って、『伝記』記事は、崇峻二年(五八九)に、“俀国の支配領域全域に及ぶ集権体制整備”を企図し、新たな地方統治制度の構築が提案された(奏された)ことを示すものと言えよう。
この年(五八九年)は、九州年号では「端政たんじょう(五八九~五九三)」元年にあたる。「端政」年号の意味は、「正しい政治の始め」となるから、「初めて国政を執行した年」即ち「即位した年号」に相応しい。『書紀』崇峻二年には聖徳太子の国政執行も、天子の即位も一切記されていないし、そもそも「九州年号の改元」だから、これは九州王朝の天子の即位を意味するものとなろう。
◆【端】❷ただしい❸ただす❿はじめ。【政】❶ただす❷まつりごと❸おきて❼おしへ(人の道)(*諸橋轍次『大漢和辞典』より)
そして、多利思北孤の第一回の遣使は六〇〇年だから、年代的に見て、五八九年とされる「六十六ヶ国分国(奏)」は、新たに即位し「国政を執行」した多利思北孤の事績と考えられよう。
そもそも「端政」は、中国南北朝時代の浄土教の第一人者「曇鸞」(四七六~五四二)が「菩薩の顔容げんよう」として用いた用語であり、「海東の菩薩天子」を自認した多利思北孤に相応しい言葉なのだ。(註4)
「奏」とあるが、天子たる多利思北孤であれば「奏上」ではなく「詔を下した」ことになる。そして、こうした改革は、新天子多利思北孤の“目玉事業”として、積極的に取り組まれたことになろう。
古賀達也氏は、高良玉垂命や「法興」年号の研究を踏まえ、
①『伝記』には金光・勝照・端政などの「九州年号」が散見され、これは九州王朝系資料からの引用と考えられること。
②『伝記』では聖徳太子の生年を九州年号「金光」三年壬辰(五七二)年としており、太子が「国政を執行した」十八才は五八九年・九州年号「端政」元年となること。
③『太宰管内志』によれば、筑後遷宮期における倭王の称号と考えられる高良玉垂命がこの年(端政元年)に薨去していること。(註5)
④「法隆寺釈迦三尊像光背銘」から多利思北孤の年号と判断される「法興」の元年が五九一年であり、玉垂命は多利思北孤の前代と思われること。
等から、端政元年(五八九)に「多利思北孤は自らの即位と同時に九州の分国と天子の呼称を用いたのではあるまいか」と述べている。(註6)
つまり『伝記』で端政元年に六十六ヶ国分国を奏した「聖徳太子」のモデルは、『隋書』の記事から見ても、時代的に見ても、隋に国書を送った俀国、即ち九州王朝の天子「阿毎多利思北孤」だと考えられるのだ。
こうした推測を補強するものとして、我が国には次のような「六十六部廻国巡礼」という風習があり、その起源は古代まで遡るとされる。(註7)
◆六十六部廻国巡礼とは、法華経を書写して全国の六十六ヶ国の霊場に一部ずつ納経して満願結縁する巡礼行をいい、巡礼に従事する行者を六十六部行者、六部行者、廻国聖などと呼んだ。(註8)
なぜ「六十六」かについては、釈迦入滅後、弥勒菩薩が出現するまでの無仏時代に、経典は六十六ヶ国に保管されたことから、その霊場を巡って納札する六十六部信仰が生まれたとされる。そして注目すべきはこの風習が『法華経』信仰と深く結びついている事だ。ここではその資料を二つだけ挙げよう。
◆『太平記』巻第五(時政参籠榎嶋事)
北条時政の前世は箱根法師で『法華経』六十六部を六十六ヶ国の霊地に奉納したとする。
◆『日寛上人(一六六五~一七二六)伝記』
師(日寛上人の事)修行者に問うて云く、笈おいの後ろに書き附けある「納め奉る大乗妙典六十六部」とは如何なることぞや、
行者答へて云く、日本六十六箇の観世音菩薩に法華経一部充を納め奉りて後世得楽を祈るものなり。(大石寺第四八世法主日量上人著一七七一~一八五一)
そして『法華経』伝来も、九州年号とともに九州王朝の事績を記した『二中歴』によれば、六十六ヶ国分国奏のあった端政年間(五八九~五九三)とされているのだ。。(註9)
◆『二中歴』端政 五年 己酉 自唐法華経始渡
また、六十六部巡礼で『法華経』は観世音菩薩に奉納されるが、多利思北孤が「海東の菩薩天子」を自負していた事は『隋書』から明らかだ。多利思北孤は分国と同時に、六十六国に対し自らを“菩薩として見立てさせた”と考えられよう。
◆『隋書』「俀国伝」大業三年(六〇七)、その王多利思北孤、使を遣わして朝貢す。使者いわく、「聞く、海西の菩薩天子、重ねて仏法を興すと。故に遣わして朝拝せしめ、兼ねて沙門数十人、来って仏法を学ぶ」と。
多利思北孤が「菩薩天子」を自負したのは、単に仏教を篤く崇拝した事を誇示するだけではなく、政治上で自らを「天子」として服従させるとともに、六十六ヶ国全体において、宗教上でも「菩薩」として崇拝させるという「仏教による統治」を目指したことを示すものだろう。
『伝記』には「聖徳太子二十三歳(五九四年・九州年号では告貴元年)」条に、六十六ヶ国に国府寺を建立した記事がある。
◆『伝記』六十六ヶ国に大伽藍を建立し国府寺と名づく。
また、『書紀』でも同年(推古二年・五九四)には、競うように寺(佛舎)が作られたとある。
◆『書紀』推古二年(五九四)の春二月丙寅の朔に、皇太子及び大臣に詔みことのりして、三宝を興して隆さかえしむ。この時に、諸臣連等、各君親の恩の為に、競いて佛舎を造る。即ち、是を寺という。
九州年号「告貴こっき(五九四~六〇〇)」は法華経が渡来した「端政」の次の年号にあたる。そして、その意味は「貴い教えを告げる」と理解でき、まさに「三宝興隆」を詔し、諸国に大伽藍(佛舎)を建立させるに相応しい年号だ。
古賀達也氏は、「『伝記』の記事は、九州王朝による『国府寺』建立詔の反映ではないか」とされる(「古賀達也の洛中洛外日記」第七一八話二〇一四年五月)が、『伝記』と『書紀』が一致し、しかもこの年改元された“九州年号の意味とも一致”するということは、この二つの記事は同じ九州王朝による「大伽藍(佛舎)建立」の事績を記したものといえよう。
さらに「大伽藍建立」に関し、『書紀』では、蘇我馬子・廐戸皇子らは、守屋討伐の暁には「寺塔てらを起立たてる」誓いを立て、崇峻元年(五八八)には百済から僧・舎利・寺工・瓦博士・鑪ろ盤博士等が倭国に招かれ、崇峻三年(五九〇)に「山に入りて、寺の材を取る」、崇峻五(五九二)年に「大“法興寺”の仏塔と歩廊とを起つ」とある。そして、その間の「五九一年」は、釈迦三尊像銘に記す「上宮法王」、即ち多利思北孤の年号である「法興元年」にあたるのだ。
従って、これらは全て多利思北孤の事績であり、ここでも多利思北孤が聖徳太子(廐戸皇子)と「入れ替え」られていることになる。
こうした六十六ヶ国における国府寺建立などの「三宝興隆」施策は、当然ながら六十六ヶ国分国と“セット”を成すものであり、多利思北孤が「仏教による六十六ヶ国統治」を図った証左となろう。
六十六部廻国巡礼の風習は、多利思北孤が即位以後各国に国府寺を建て、伝来直後の法華経経典を配布し、仏教を流布すると共に、自らも菩薩天子として信仰の対象とさせた、その名残なのではないか。
釈迦三尊像光背銘文の「上宮法皇」の「法皇」、あるいは伊予温湯碑に記されていたとする「法王大王」とはまさに宗教上・政治上両面での最高権威であることを宣言した名称だったのだ。
ところで『伝記』の撰年の少し後に生まれた世阿弥(一三六三~一四四三)の著『風姿花伝』(以下『花伝』)では、日本国の能楽の祖は聖徳太子であり、秦河勝に命じ「六十六番の遊宴」と「六十六番のものまね」及び「六十六番の面の製作」を行わせたと記される。
また、能楽の由来を神道や仏教に求め、祇園精舎建立供養に際し、釈迦如来が十大弟子の一人舎利弗しゃりほつに六十六番のものまねをさせた説話を記す。
◆世阿弥『風姿花伝』
【序】それ、申楽延年のことわざ、その源を尋ぬるに、(略)、推古天皇の御宇に、聖徳太子、秦河勝におほせて、かつは天下安全のため、かつは諸人快楽のため、六十六番の遊宴をなして、申楽と号せしよりこのかた、代々の人、風月の景を仮って、この遊びのなかだちとせり。そののち、かの河勝の遠孫、この芸を相続ぎて、春日・日吉の神職たり。(略)
【第四神儀云】(略)
一、仏在所(インド)には、須達長者、祇園精舎を建てて供養のとき、釈迦如来御説法ありしに、堤婆だいぼ、一万人の外道をともなひ、木の枝・篠の葉に幣をつけて、踊りさけめば、御供養のべがたかりしに、仏、舎利弗に御目を加へたまへば、佛力を受け、御後戸おんうしろどにて、鼓・唱歌をととのへ、阿難あなんの才覚、舎利弗の知恵、富楼那ふるなの弁舌にて、六十六番のものまねをしたまへば、外道、笛、鼓の音を聞きて、後戸に集まり、これを見てしづまりぬ。(略)
一、日本国においては、欽明天皇御宇(五四〇~五七二)に、大和国泊瀬の河に、洪水のをりふし、河上より、一の壺流れくだる。三輪の杉の鳥居のほとりにて、雲各この壺をとる。なかにみどりごあり。貌かおだち柔和にして玉のごとし。これ降り人なるがゆゑに、内裏に奏聞す。(*秦河勝の出自略)
上宮太子、天下すこし障りありし時、神代・仏在所の吉例にまかせて、六十六番のものまねを、かの河勝におほせて、同じく六十六番の面を御作にて、すなはち河勝に与へたまふ。橘の内裏の柴宸殿にてこれを勤す。天治まり国しづかなり。(略)河勝、欽明・敏達・用明・崇峻・推古・上宮太子につかへたてまつる。(略)
上宮太子、守谷の逆臣をたいらげたまひし時も、かの河勝が神通方便の手にかかりて、守谷は失せぬと云々。
『伝記』も『花伝』も「聖徳太子」の事績を記しており、六十六という数字が一致しているなど両者の共通点は多い。そして、秦河勝が欽明期の生まれで、「崇峻・推古・上宮太子につかへた」という『花伝』の記述と、『伝記』の六十六国分国奏記事のある「端政」元年(崇峻二年・五八九)頃は時期的にも一致する。(註10)
「ものまね」とは、「鼓・唱歌・踊り」であるとの記述から「歌舞劇」だと考えられ、これが「申楽(能楽)」の始めであるという。
そして、「六十六番のものまね」の始め、即ち「申楽」の始めは、「天下すこし障りありし時」であり、その結果「天治まり国しづか」となったとされる。文面上でそのような例は「守谷の逆臣をたいらげたまひし時」以外には見当たらない。 蘇我・物部戦争で物部守屋が滅んだのは『書紀』では用明天皇二年(五八七)で、「端政元年(五八九)」は、守屋討伐とその後の混乱(天下すこし障りあり)を鎮め、「天治まり国しづか」となった時期にあたる。従って、世阿弥によれば、申楽は端政年間に始まったことになるのだ。
つまり、『書紀』『二中歴』『伝記』を併せれば、五八七年に聖徳太子らが物部守屋を討ち、守屋の本拠難波・河内一帯を勢力圏に収め、直後の五八九年に、九州年号が「端政」と改元され、六十六ヶ国分国が行われたことになる。 そして、六十六ヶ国分国を奏し、大伽藍を建立した「聖徳太子」のモデルが多利思北孤なら、守屋討伐も、当然九州王朝・多利思北孤だということになろう。
『隋書』の記述から、多利思北孤が“崇仏勢力の首魁”であることは疑えないから、“排仏勢力の首魁”の物部氏を討伐したというのは十分な必然性を有するのだ。
尤も、多利思北孤は“宗教上の権威と政治上の権威を兼ね備えた菩薩天子”を自負し、かつ物部氏排斥後「六十六ヶ国分国」という地方統治制度改革に取り組んだというのだから、名目上は仏教を巡る争いであっても、その本質は「集権体制」を強めようとする九州王朝と、これに反対する地方勢力との攻防であったと考えられよう。この勝利を契機に九州王朝は、旧物部守屋の勢力下だった難波・河内地域一帯(註11)を支配下に置き、東山道・東海道・北陸道など「東国」の統治権をより強化することが出来たことになる。
それでは、何故九州王朝はこの時期難波・河内に進出し、かつ集権体制確立と地方統治制度整備(六十六ヶ国分国)をはかったのだろうか。
その最大の要因は「隋」の脅威だ。
九州王朝の臣従していた南朝では、五五七年梁が滅び、江南に陳建国。後梁(西梁)とに分裂する中で勢力は衰退した。一方北朝では五八一年に文帝が隋を建国し、江南支配に向け準備を重ねていた。そして五八八年に文帝は、楊広(後の煬帝)を指揮官とし陳へ遠征。翌五八九年に陳の都・建康が陥落、陳は滅亡し南朝は途絶えた。
多利思北孤の前代の九州王朝の天子が高良玉垂命とすれば、その本拠は筑後有明海沿いで、隋とは“一衣帯水”、直線距離では、五八九年に“境を観させた”とする「東海道」の東端常陸や、「東山道」の蝦夷との境信濃よりも近距離にあるのだ。つまり、東シナ海を挟んだ対岸“鼻先”の地が、従来臣従してきた南朝を滅ぼした国、いわば仮想敵国となったといえる。
こうした状況の下、九州王朝は隋の脅威に備え、物部を討伐し難波・河内(或はこれに繋がる斑鳩も含むか)に「新たな拠点」を設けた。そして国力の涵養のため集権体制の確立を目指し、「仏教」を梃子とし、自ら「菩薩天子」と号して宗教と政治の両面で権力の掌握を図りつつ、地方統治制度再編に取り組んだ。これが“六十六ヶ国分国の背景”だろう。六十六ヶ国分国に際しては、『豫章記』の端正二年(五九〇)に越智氏の百男が立官とあるように、新たな地域支配者の選任と、九州王朝への臣従が当然のこととして要請されたろうから、こうした再編を通じ九州王朝の地方統治は強化されたはずだ。
◆『豫章記』越智氏系図中、十五代目「百男」細注
端正二年(五九〇)庚戌崇峻天皇時立官也。其後都江召還。背天命流謫也。
(*『豫章記』は十四世紀末に編纂された伊予の豪族河野氏の史書)
なお、このほかにも瀬戸内の九州年号資料には、「端政」年間に「神」の来臨記事が多く見受けられる。六世紀末だから”神話的な神の話“ではなく、これは「貴人」即ち九州王朝の天子等の、瀬戸内を挟んで筑紫と畿内(東国)間での頻繁な移動があったことを裏付けるものだろう。
◆『万福寺子持御前縁起』(防長風土注進案・一七二八年)
推古天皇御宇端正元癸丑年ここなる銀鎖岩の上に鎮座し給ふ(*「癸丑」は五九三年推古元年。端正五年)足引宮は彼の飛車に打飛て大日本国長州厚狭あさ郡本山村に到着あり、頃は推古天皇御宇端正元年癸丑十一月十三日午の刻とは聞へけり(*「子持御前」とは子安観音又は厳島明神。「厚狭郡」は宇部市付近)
◆『伊都岐島神社縁起』(厳島神社)
推古天皇の御宇端正五年戊申十二月十三日厳島に来臨御座(癸丑の誤りか)
◆『伊予三嶋縁起』(一五三六年)
端政二(五九〇)暦庚戌自天雨降給。自端政二年至永和四年以七百十九年也。崇峻天皇位此代端政元暦配厳島奉崇。
九州王朝は唐・新羅の脅威に対抗する為、九州年号常色・白雉期の、六四九年頃全国に評制を敷き、六五二年に難波遷都を行ったが、その先例は端政年間の多利思北孤によるこうした難波・河内進出と東方経営、集権体制の整備といった対隋防衛施策だったのだ。
こうした経緯を「申楽の始まり」との関連で『花伝』に即して言えば、物部守屋討伐後の端政元年(五八九)は、九州王朝・多利思北孤にとって“物部氏の抵抗”という「天下すこし障り」があり、その鎮圧によって「天治まり国しづか」となった時期であり、それは「六十六番の遊宴と、ものまね」が始まったとする時期だったのだ。
先述の通り、『伝記』と『花伝』は共に「聖徳太子」の事績を記し、六十六という数字も共通しているが、『伝記』に「六十六番遊宴譚」は無く、また何故「六十六」国なのか、その理由は記されていない。一方、『花伝』には「六十六ヶ国分国」譚はないが、「六十六番遊宴譚」があり、これを読めば、『伝記』では不明な「六十六」という数字も仏教説話によることがわかるのだ。
そして『隋書』では、多利思北孤は自らを「菩薩天子」になぞらえ、仏法を興したと自負し、「結跏趺坐けっかふざ」という仏教の修行の姿勢をもって「まつりごと」を行ったとある。『隋書』『伝記』と『花伝』を併せて考慮すれば、「六十六ヶ国分国」と「六十六番の遊宴とものまね」は、ともに仏教説話と“崇仏施策”に基づくものであり、「端政」年間における九州王朝の「菩薩天子」多利思北孤に相応しい行為となるのだ。
加えて、『隋書』俀国伝に「其の王、朝会には必ず儀仗を陳設し、其の国の楽を奏す。(略)楽に五弦の琴、笛有り。」とある通り、九州王朝では朝廷儀礼として「楽」が演奏され、また、楽の演奏にあたっては五弦の琴と笛が用いられていることも記されている。これらの記事から、九州王朝では、その儀礼に於いて「楽」が重要な役割を果たしていたと推察できる。
また、古代の雅楽全般について詳細に記す音楽書『體源抄たいげんしょう』(豊原統秋著。一五一五年成立)では、雅楽の“国風歌舞”の代表ともいえる「東遊あずまあそび」の起源として「教倒きょうとう六年丙辰歳(五三六)の、駿河ノ国宇戸ノ浜での天人の歌舞」を挙げている。
◆『玉勝間』(本居宣長)が引用する『體源抄』豊原統秋著。永正十二年(一五一五)
丙辰記ニ云ク、人王廿八代安閑天皇ノ御宇、教倒六年(丙辰歳)駿河ノ国宇戸ノ浜に、天人あまくだりて、哥舞し給ひければ、周瑜しゅうゆが腰たをやかにして、海岸の青柳に同じく、廻雪のたもとかろくあがりて、江浦の夕ヘの風にひるがへりけるを、或ル翁いさごをほりて、中にかくれゐて、見傳へたりと申せり、今の東遊あずまあそびとて、公家にも諸社の行幸には、かならずこれを用ひらる、神明ことに御納受ある故也、其翁は、すなわち道守氏とて、今の世までも侍るとやいへり、(岩波文庫『玉勝間』下、十一の巻。村岡典嗣校訂)
「天人」とか「天降る」とあるが、九州年号「教倒六年」という具体的な年号付の事件だから、「現実におきた事件」のはずだ。
そして『二中歴』では、その「教倒」年間に「舞遊が始まる」と記されているのだ。
◆教倒 五 元辛亥 五三一~五三五 舞遊始
これは、『書紀』安閑元年(五三四「教倒四年」)に、「楽うたまひを作おこして、治まつりごとの定まることを顕す(略)」とあるのと合致する。因みに『書紀』安閑二年(五三五)五月条に十三国二十七箇所の屯倉が設置された記事があり、これは「治の定まった」ことを意味する事績だろう。
その屯倉の中に、「駿河国稚贄わかにへの屯倉」がある。稚贄屯倉は静岡県吉原市(現富士市)の吉原川付近にあったという(岩波補注)。そして、「駿河ノ国宇戸ノ浜」もその吉原にある(吉原宇東川東、宇東川西)。宇東川は和田川・滝川と合流し、その流出先は羽衣伝承で有名な田子の浦港だ。
つまり天人が舞い降りた駿河ノ国宇戸ノ浜と駿河国稚贄屯倉が設置された場所はほぼ同一だ。時期も”天人の天降り”は五三六年、屯倉設置は五三五年と近接している。従って「稚贄屯倉の設置に伴い駿河で『東遊』が作おこされた」と考えて支障は無いだろう。
そして『二中歴』「教倒」の細注は九州王朝の事跡を示すものであるから、この時期九州王朝が全国に屯倉を設置し、その「治の定まった」記念に「舞遊を始めた」と考えられるのだ。。(註12)
稚贄屯倉が教倒五年(五三五)設けられ、その翌年教倒六年(五三六)に、筑紫から九州王朝の貴人が楽人を引き連れ訪問し、その地で舞曲を奏した。それが『體源抄』中引用の『丙辰記』に「東遊」の始めとして記録されたのではないか。このように『二中歴』や『體源抄』によれば、雅楽中の「東遊」等の「国風歌舞」の起源も九州王朝の事跡に由来すると考えられるのだ。
ところで、我が国には「筑紫・大宰府に奉納された舞楽」が存在する。それが古田武彦氏が見出した、故西山村光寿斉氏(二〇一三年二月没)らが今に伝える「筑紫舞」なのだ。
「筑紫舞」の存在は『続日本紀』にも記されており、筑紫舞には国内の「雑楽生」の中で、圧倒的に多い人数が記され、八世紀にあっても唐・百済・新羅の舞楽と比肩する位置を占めていたことが分かるだろう。
◆『続日本紀』天平三年(七三一)七月乙亥(二九日)。雅楽寮の雑楽生の員を定む。大唐の楽三十九人。百済の楽二十六人。高麗の楽八人。新羅の楽四人。度羅の楽六十二人。諸県の舞八人。筑紫舞二十人。
この筑紫舞との直接の関係は不詳だが、光寿斉氏は筑紫傀儡子くぐつによって代々伝承されてきた筑紫舞を、菊邑検校から教えられたという。このエピソードは古田氏の『よみがえる九州王朝』「幻の筑紫舞」に詳しい(註13)が、筑紫舞の中心演目である「翁」では、“諸国の翁”が集まって諸国の舞を舞い、十三人立・七人立・五人立・三人立などの演出があるとされる。
その中心の「七人立」では『肥後(西海道)の翁』『加賀(北陸道)の翁』『都の翁』『難波津(畿内)より上りし翁』『尾張(東海道)の翁』『出雲(山陰道)の翁』『夷(東山道か)の翁』の七人が舞う。五人立ちは、『肥後の翁』『加賀の翁』『都の翁』『難波津より上りし翁』『出雲の翁』の五人。三人立は『肥後の翁』『加賀の翁』『都の翁』の三人が舞う。
これはまさに「六十六ヶ国分国」と密接に関連する、「五畿七道・六十六ヶ国にあたる地域」からの舞の奉納の姿そのものなのだ。
「筑紫舞」が“筑紫の人物に奉納されていた”ことは中心演目の「翁」の構成によっても明らかにできる。十三人立・七人立・五人立・三人立全てに『都の翁』が登場し、かつ舞の基本形である三人立では『都の翁』が中心だ。「筑紫舞」と称し、筑紫に伝承されてきた以上“筑紫の人物”の登場・活躍は舞に不可欠の要素であり、従って『都の翁』とは『筑紫の翁』であると考えられる。
また、①菊邑検校のもとには「太宰府よりの御使者」が訪れていたこと、②筑紫舞の伝承者は大宰府北東の宝満山を源とする「宝満川」から“拾われた”子供で全て九州の子供とされること(註14)、③筑紫舞の“晴れの舞台”は宮地嶽古墳の岩窟で、筑紫から楽人が来ていたということ(註15)、④「都」とあるが、筑紫大宰府には「都府楼」があること等から、“諸国の翁”が参集したのは筑紫であり、諸国が舞を奉納する相手は筑紫・大宰府にいたことがわかるのだ。
宮地嶽神社で演じられた筑紫舞「翁」-三人立-(2010年御遷座80年記念大祭)
中央の「都の翁(浄見宮司)」の前で、舞を奉納する「肥後の翁(広渡権禰宜)」(右)と、「加賀の翁(野中権禰宜)」(左)
六十六ヶ国分国(地方統治制度の再編)は、必然的に新たな官の任命を伴う。また、「集権体制の整備」により、定期的な六十六ヶ国の代表の招集も行われることになったはずで、その際には、必然的に饗宴や禄賜の「朝廷儀礼」行事が伴うことになろう。
『隋書』の記述等を踏まえれば、九州王朝の朝廷儀礼に於いて、天子の前で「その国(筑紫)の楽」が奏され、「筑紫の舞」が披露された。そして、諸国の「舞楽(国風歌舞)」の奉納もあっただろうことが推測される。
そうした多利思北孤の事績が「聖徳太子」の事績にすり替えられ、『伝記』の「六十六ヶ国分国」譚と、『花伝』が「申楽(能楽)の始め」とする「六十六番の番のものまね」譚として伝承されたものと考えられる。
以上、『隋書』俀国伝、『伝記』に記す「六十六ヶ国分国」や、能楽の由来を説いた、世阿弥の『花伝』中の聖徳太子の「六十六番の遊宴とものまね」譚、『二中歴』の「法華経伝来」記事及び法華経を六十六国の菩薩に納める六十六部廻国巡礼の風習の考察などから、次のことが言えるだろう。
「海東の菩薩天子」を自負する多利思北孤は、「排仏」を“旗印”にして九州王朝による集権体制の強化に反対する物部氏を五八七年に討伐し、その後高良玉垂命の崩御を受け、五八九年に俀国(九州王朝)の天子に即位し、「端政」と改元した。
そして隋の脅威を背景に、守屋の旧領域も含め、全国的な地方統治制度の創設・再編に取り組み、法華経伝来や仏説に触発され、倭国を六十六ヶ国に分国した。その際、六十六ヶ国の代表を筑紫に参集させ、式典や諸行事を執り行い、そこでは、「筑紫の楽・筑紫の舞」の披露があり、参集した諸国からも、その国の歌舞が奉納された。この伝承が『花伝』や『伝記』に「聖徳太子の事績」としてとりこまれ、「聖徳太子」こそ申楽の祖であるとされたのだ。
しかし、本来「六十六国分国」を詔し、「六十六番の遊宴、ものまね」を命じたのは九州王朝の天子多利思北孤であり、彼こそが世阿弥の言う「申楽の祖」だった。そして筑紫舞は、そうした諸国から九州王朝への歌舞の奉納の姿を今に残すものといえるのだ。
(註1)多利思北孤と聖徳太子が別人であることは法隆寺釈迦三尊像光背銘文(巻頭の資料集を参照)からも知られる。銘文では「上宮法皇」の登遐年月日は「法興元三十二年癸未(六二二)二月二十二日(*甲戌)」とされるが、『書紀』に記す聖徳太子の薨去年月日である「推古二十九年(六二一)春二月癸巳(五日)」と相違するうえ、「鬼前太后」や「干食王后」も太子の母・妻の名と合わないのだ。またそこに使われている「法興」年号は近畿天皇家には見えず、「海西の菩薩天子、重ねて仏法を興すと聞く」と自ら「仏法を興した」と自負する多利思北孤の年号に相応しい。
(註2)『法隆寺の中の九州王朝』(古代は輝いていたⅢ・朝日新聞一九八三年・ミネルヴァ書房より二〇一四年六月に復刊)、『聖徳太子論争』(市民の古代別巻一・新泉社一九八九年)、『法隆寺論争』(同別巻四・同一九九三年)
(註3)律令制下の五畿七道の令制国は次の通り六十八で、『伝記』では、壱岐・対馬を除けば六十六ヶ国となると“数字合わせ”をしている。
①「畿内」山城・大和・河内・和泉・摂津(五国)
②「東海道」伊賀・伊勢・志摩・尾張・三河・遠江・駿河・伊豆・甲斐・甲斐・武蔵・安房・上総・下総・常陸(十五国)
③「東山道」近江・美濃・飛騨・信濃・上野・下野・出羽・陸奥(八国)
④「北陸道」若狭・越前・加賀・能登・越中・越後・佐渡(七国)
⑤「山陰道」丹波・丹後・但馬・因幡・伯耆・出雲・石見・隠岐(八国)
⑥「山陽道」播磨・美作・備前・備中・備後・安芸・周防・長門(八国)
⑦「南海道」紀伊・淡路・阿波・讃岐・伊予・土佐(六国)
⑧「西海道」筑前・筑後・豊前・豊後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩・壱岐・対馬(十一国)
『書紀』推古十七年(六〇九)に「肥後国」とあることは、多利思北孤時代に、これらの「令制国に“繋がる”分国」があったことを裏付けるものだ。
ただ、一支国、都斯麻国は『隋書』に記され、逆に令制国の大隅・出羽・能登・丹後・美作・加賀等は律令施行以降の成立とされる。多利思北孤時代と律令時代の間には、九州王朝による評制施行など地方統治制度の改変があるから、多利思北孤の「六十六ヶ国名と領域」が、「令制国名とその領域」と“直ちに”結び付くものではないと考えられる。
(註4)『讃阿弥陀仏偈』(曇鸞)
安楽の声聞菩薩衆、人天、智慧ことごとく洞達せり。身相の荘厳殊異なし。ただ他方に順ずるがゆゑに名を列ぬ。顔容端政(正)げんようたんじょうにして比ぶべきなし。
(註5)『太宰管内志』三瀦郡。
御船山玉垂宮 高良玉垂大菩薩御薨御者自端正元年己酉(五八九)
(註6)古賀達也「国内資料に見える九州の分国」(『九州王朝の論理』二〇〇〇年五月明石書店)古賀氏は、「『続日本紀』では和銅六年(七一三)に大隅国が設置されたとあるが、それ以前の慶雲三年(七〇六)に「大宰府言さく、所部の九国・三嶋」とあるから、「九州の分国」は九州王朝により、推古時代に行われていたと考えられる」とされている。
(註7)田代 孝「六十六部回国納経の発生と展開」(『巡礼論集Ⅱ六十六部廻国巡礼の諸相』巡礼研究会二〇〇三年一月)
(要旨)六十六部聖が古代の法華経を信仰する山岳修行者・聖の系譜を引くものであり、鎌倉時代前半にはその活動が社会的に定着していたことを示した。(須永敬氏の評釈より引用)
(註9)古賀氏は、「この法華経伝来は多利思北孤の出家や法興年号公布の動機になったのではないか」と以下の通り述べている。(『九州王朝の論理』より)
◆『法華経』の伝来については『二中歴』古代年号部分に興味ある記事が記されている。端政 五年 己酉 自唐法華経始渡
端政年間(五八九~五九三)に『法華経』が唐より初めて渡ったと読めるが、その間の五九一年より法興年号は始まる。初めて見た『法華経』への感動が、自らを法王と名のらせ、それまでの「俗世」の年号と並行して法興年号を公布した動機となったのではあるまいか。(*己酉は端政元年・五八九年)
(註10)但し『書紀』で秦河勝は、推古十一年(六〇三)、推古十八年(六一〇)、皇極三年(六四四)に記述あり。欽明期(五四〇~五七二)に生まれ、推古十一年当時既に「大夫」とあるので、皇極三年記事に「東国不尽川辺の大生部多を打つ」とするのは年齢的に不審。『花伝』には河勝の子孫が代々芸を継ぐとあることから、芸能の世界ではよく見受けられる「襲名」の可能性がある。後世、能役者を「大夫たゆう」と称したのはこれによるか。
(註11)守屋の本拠は難波・河内であることは『書紀』の「物部守屋大連の資人捕鳥部万、一百人を将て、難波の宅を守る」「餌香川原(河内国古市・現在の羽曳野市)に、斬されたる人あり。」等の記事で知られる。また『書紀』の記述から奈良盆地にも勢力を有していたことは明らかだ。
(註12)因みに安閑二年(五三五)の屯倉設置の翌年、宣化元年(五三六)五月には、「筑紫国は、遐く邇く朝で届る所、去来の関門所なり。是を以て、海表の国は、海水を候ひて来賓き、雨雲を望りて貢き奉る」としたうえで、茨田・尾張・新家・伊賀の屯倉ほかの穀稼もみいねを筑紫博多湾岸(那津の口)に運べとの詔が出されている。
つまり、筑紫こそ「海表の国の朝で届る所」、即ち「朝」の存在するところであり、そこに新たに設置された屯倉の穀稼を運ばせたということになる。
そして、宣化二年(五三七)に大伴金村に新羅討伐を命じているから、「筑紫の朝」即ち九州王朝は対新羅戦に備え、全国に屯倉を設置し、軍事物資を筑紫に集めたことになろう。
なお「教倒」は五年間だが、「僧聴」への改元が六年中であれば、それまでの間「教倒六年」が存在することになる。
(註13)「筑紫舞では各国の翁が貴人の前でそれぞれ舞を披露する演目があるという。」(古田武彦『よみがえる九州王朝』「幻の筑紫舞」角川選書一九八三年。ミネルヴァ書房より二〇一四年三月復刊)
また同書で、古田氏は「筑紫舞は九州王朝の舞楽」とされている。
(註14)筑紫舞の「宝満川に捨ててある子を拾って舞をおしえる」との伝承は、『花伝』中、申楽の遠祖秦河勝は河上より流れ下った壺から拾われたとする記述と附合している。
(註15)その宮地嶽神社により一九八四年に筑紫舞が復活されている。二〇一四年三月には「よみがえった筑紫舞三〇年記念イベント」が開催され、筑紫舞が奉納された。(なお、その模様は古田氏の講演「筑紫舞と九州王朝」とともに、古田史学の会HP等よりユーチューブで見ることが出来る。)
(参考)なお、多利思北孤の六十六ヶ国分国については、文中で触れたもののほか、以下を参照されたい。
◆阿部周一『「国県制」と「六十六国分国」(上・下)』(「古田史学会報」一〇八号二〇一二年二月、一〇九号二〇一二年四月)。(阿部氏は『常陸国風土記』や『隋書』記事、『書紀』で隋代に「唐の使人」記事があるなどの「十二年ずれ」、隋の「州県制採用」、九州年号資料の遺存状況等の分析から、六十六国分国時期は「倭京遷都の六一八年が最も有力」とされている。)
◆拙稿『九州年号「端政」と多利思北孤の事績』(「古田史学会報」九七号二〇一〇年四月)。
また九州王朝の舞楽が能楽の演目に残されていることについては拙稿「能楽に残された九州王朝の舞楽」(「古田史学会報」九八号二〇一〇年六月)(*「古田史学会報」は、順次古田史学の会ホームページ(HP)「新古代学の扉」で公開)
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