朱鳥元年の僧尼献上記事批判 (三十四年遡上問題) 正木裕(会報78号)
日本書紀の編纂と九州年号(三十四年の遡上分析) 正木裕(会報79号)
日本書紀、白村江以降に見られる「三十四年遡上り現象」について 正木裕(会報77号)
盗用された「仁王経・金光明経」講説 正木裕(『古代に真実を求めて』第十九集)../sinjit19/niokonnu.html
正木 裕
『書紀』斉明六年(六六〇)五月には次のような記事があります。
①斉明六年(六六〇)夏五月是の月に、有司つかさ勅を奉りて、一百の高座、一百の衲袈裟を造りて、仁王般若の會おがみを設く。
一方、その三十三年後の持統七年(六九三)十月に次の記事があります。
②持統七年(六九三)十月己卯(二十三日)に、始めて仁王経を百国に講よましむ。四日ありて畢おはりぬ。
両記事の内容は極めて似ているうえ、時期が遅い方の持統七年の方に「始めて」とあるのも不自然といえるでしょう(註1)。また、仁王経は金光明経・法華経と並ぶ「護国三部経」のひとつですが、持統七年に百国(全国的と言う意味)に護国経を講説すべき時代背景・理由は特段見当たりません。
ところで、持統紀には六八九~六九七年にかけて三十一回もの「吉野行幸」記事があります。吉野山は寒さの厳しいことでも知られますが、行幸は季節を問わず、厳冬期(旧暦十二~二月)にも八回行幸しており、「行楽」には相応しくありません。持統は五十歳にもなる高齢ですから、なおさらです。
また、退位の歳(六九七年)の四月以後はぴたりと止んでしまいます。
更に吉野宮行幸の際に柿本人麻呂が詠んだ歌に、「大宮人は 舟並めて 朝川渡る 舟競ひ 夕川渡る ・水激る 瀧の宮処(万葉三十六番)」とありますが、奈良なる吉野宮比定地の宮滝付近には滝はなく(*吉野資料館による)、川幅も舟を並べ、競える規模ではありません。
一方、九州佐賀には、「吉野ケ里遺跡」で知られる「吉野」があり、古代から「軍事上の要所」となっていました、また、吉野山を源流とする大河「嘉瀬川」は、上流には落差七十五mの名瀑「清水の滝」があり、下流は遣唐使船を浮かべる記念行事が行われる川幅を誇っています。
そして、『和名抄』に「肥前国神崎郡宮処」、『肥前国風土記』に「宮処郷みやこごう、郡(*神崎郡)の西南に在り。同天皇行幸の時、此村に行宮を造り奉る。因りて宮処郷と曰う」と「吉野宮」の存在が伝えられ「肥前国庁」も嘉瀬川沿いに存在していました。こうしたことから、古田武彦氏は、
◆持統紀の三十一回の「吉野行幸」記事は、持統の「奈良なる吉野山」への行幸ではなく、白村江戦以前、三十四年前に遡る九州王朝の天子の「佐賀なる吉野」への軍事基地視察記事の盗用である。
とされました。(註2)
「三十四年前」とは、最後の行幸の六九七年四月の三十四年前は六六三年四月で、白村江直前にあたり、敗戦後は「軍事視察が途絶えた」と考えれば、突然行幸記事が消えたことが合理的に理解でき、更に持統八年(六九四)四月の帰還日の干支「丁亥」は六九四年四月には存在せず、三十四年前の斉明六年(六六〇)四月には存在することから導かれたものです。
そして、持統七年(六九三)記事②が、同様に三十四年前の斉明五年(六五九)から「繰り下げられたもの」と考えれば、斉明五年(六五九)に全国に仁王経を配布・講説し、翌斉明六年(六六〇)五月に、各国に高座を設けさせ、法衣(衲袈裟)を造り、始めて全国的に「仁王般若會」を実施したという記事になります。因みに②記事の直後の十一月庚寅(五日)にも吉野宮行幸記事があります。
そして、斉明五年(六五九)なら、次のように「始めて百国に仁王経を講説する」という意味・内容が明確になるのです。
斉明五年(六五九)の年末には、唐は、高宗が「来年必ず海東の政あらむ」と勅したように、新羅と連合し高句麗・百済を攻撃する準備を整えていました。そして六六〇年三月には蘇定方が十三万の兵を率い「黄海」を渡り百済に出撃しています。そして新羅の武烈王も五月に参陣し、八月には百済王都(扶余城)ほかを陥落させ、百済・義慈王らは降伏しました。百済と密接な関係を保っていた倭国・九州王朝にとって、これは国家存亡の危機ともいえる事態でした。
従って「斉明六年(六六〇)五月」に全土を挙げ「護国祈願祭」を行うというのは、誠に時機に相応しい行事と言えます。しかも、
③持統八年(六九四)五月癸巳(十一日)に、金光明経一百部を以って諸国に送り置く。
との記事がありますが、この三十四年前は、ずばり「斉明六年(六六〇)五月」にあたるのです。つまり仁王般若會を行うと同時に、同じ「護国三部経」の金光明経も百国に配られたことになります。
『金光明経』には陀羅尼が経文を読み唱えることで国家の安泰が図れるとありますが、持統十年十二月には、その金光明経講説のための出家がおこなわれています。そして、この三十四年前は天智元年(六六二)で、倭国は百済遺臣の支援のため半島に参戦し激闘を重ねていたのです。
④持統十年(六九六)十二月己巳(一日)に勅旨して、金光明経を読ましむるに縁りて、年毎の十二月の晦日に、浄行者十人度いへでせしむ。
そして、翌持統十一年(六九七)六月には、京畿諸寺での読経や幣帛頒布、仏像造立等の法要・宗教儀式が盛んに執行されています。
⑤持統十一年(六九七)五月癸卯(八日)に、大夫・謁者ものもうしひとを遣して、諸社に詣まうでて請雨あまごひす。
六月丁卯(二日)に、罪人を赦す。辛未(六日)に、詔して経を京畿の諸寺に読ましむ。
辛巳(十六日)に、五位以上を遣して、京の寺を掃はらひ灑きよめしむ。
甲申(十九日)に、幣みてぐらを神祇あまつかみくにつかみに班あかちまだしたまふ。
辛卯(二十六日)に、公卿・百寮、始めて天皇の病の為に所願こひちかへる仏像を造る。
六月癸卯(*この月にない干支)に、遣大夫・謁者を遣して、諸社に詣でて請雨す。
この記事中に「六月癸卯」とありますが、六九七年六月に「癸卯」の日は無く、三十四年前の天智二年(六六三)なら「癸卯」は六月二十三日に存在します。この誤りは、六六三年「六月癸卯」記事を三十四年繰り下げて盗用する際、そのまま「六月癸卯」として張り付けた事で生じたもので、これは、前述の「丁亥」不存在と同じ誤りと考えられるのです。
そして、六六三年六月は、まさに九州王朝が命運をかけた、「白村江」での唐・新羅との一大決戦直前に当たり、全土を挙げて「護国・戦勝」を祈願するに、これ以上ないほど相応しい時期なのです。
そして、旧暦では「梅雨」にあたる五月・六月に「請雨(雨乞い)」とあるのは不自然で、結局、この一連の記事は、六六三年に九州王朝が執行した護国・戦勝祈願法要記事を、三十四年後の六九七年に盗用したもので、実際には「白村江の戦いの必勝祈願法要」の潤色であり、「仏像造立」の真の理由は、唐突な「持統天皇の発病」などではなく。戦場における九州王朝の天子の無事・平安を祈念するものだったと考えられるのです。
しかし、こうした護国経にすがった必勝祈願も空しく、八月には白村江で大敗北、天子と考えられる「薩夜麻」は、唐により捕囚の身となり、倭国・九州王朝は滅亡への大きな淵に沈んでいくこととなりました。
ただ『書紀』編者の潤色により、九州王朝の命運をかけた白村江戦を前にして全土で実施された「戦勝祈願の大法要」は「持統の病平癒祈願」にすり替えられ、東アジアで唐・新羅と覇を競った九州王朝の事績も、九州王朝の存在自体も隠されてしまっていたのです。
(註1)岩波版『日本書紀』の注釈では「己卯より始めて」と「より」を入れ「読経が始まった日」と解釈していますが、原文には「より(自・従)」はありません。他の条では「より」の無い「始」は殆ど「□□したのは○○が始めて」という意味に解釈していますから、「仁王経を百国に講ませたのは己卯が始めて」とすべきでしょう。
◆天武二年三月是月、聚書生、始写一切経於川原寺(是の月に、書生を聚へて、始めて一切経を川原寺に写したまふ。)
◆天武九年五月是日、始説金光明経于宮中及諸寺(是の日に、始めて金光明経を宮中及び諸寺に説かしむ)
(註2)古田武彦『壬申大乱』(ミネルヴァ書房二〇一二年八月)。古田氏は「佐賀なる吉野については新庄智恵子氏からヒントを頂いた」とされている。
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