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『古代に真実を求めて』 第二十五集

「聖徳太子」と「日出づる処の天子=多利思北孤」論文一覧

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     「聖徳太子」の実像 -- 「日出ずる處の天子」とは誰か 正木裕 https://www.youtube.com/watch?v=5WyCRQNb6rA


二人の聖徳太子「多利思北孤たりしほこと利歌彌多弗利りかみたふり

正木裕

一、多利思北孤・利歌彌多弗利と、唐と礼を争った王子

 本稿では、六世紀末から七世紀前半にかけて、中国史書に我が国の代表者と書かれる「倭国」の大王(天子)の系列は、『隋書』に記す阿毎多利思北孤(あまのたりしほこ 在位五八九~六二二)、その太子とされる利歌彌多弗利(りかみたふり 在位六二三~六四六)(注1)、常色じょうしき元年に即位した利歌彌多弗利の王子(在位六四七~六六一)であること、併せて多利思北孤は法隆寺『釈迦三尊像光背銘』に見える「上宮法皇」であり、多利思北孤・利歌彌多弗利の親子は共に「聖徳太子のモデル」だったことを述べる。

 

二、倭奴国以来の我が国の代表者は倭国(九州王朝)

 『後漢書』から『隋書』『旧唐書』に至る中国史書に記す倭国の王(『後漢書』の倭奴国王・帥升すいしょう、『三国志』の俾弥呼・壹與、『宋書』の讃・珍・済・興・武、『隋書』の阿毎多利思北孤)は、『古事記』『日本書紀』に一切登場しない。そして『旧唐書』には、「倭国」と「日本国」は別の国(別種)であり、歴代中国王朝と交流していたのは、紀元五十七年に光武帝から金印(*志賀島出土の「漢委奴国王」印)を下賜された、倭奴国ゐぬこくを継ぐ九州の倭国(九州王朝)で、後に、「大和朝廷」を指すと考えられる「元小国の日本国」に併合されたと記す。(注2)
◆『旧唐書』
 (倭国)倭国は古の「倭奴国」なり。京師を去ること一萬四千里、新羅の東南大海の中に在り、山島に依りて居す。東西五月行、南北三月行。世々中国と通ず。四面小島。五〇余国、皆付属す。

  (日本国)日本国は、倭国の別種なり。・・日本はもと小国にして倭国の地をあわせたり。その人朝に入る者、多くは自ら大なるをおごり、実を以って対せず、故に中国はこれを疑う。その国界は東西南北各数千里西界と南界は大海にいたり、東界と北界には大山ありて限りとなす。山外はすなわち毛人の国なり。(注3)

 

三、七世紀初頭の倭国(九州王朝)の天子は阿毎多利思北孤

1、『隋書』(俀たゐ国伝)の阿毎多利思北孤

 『隋書』(俀国伝)(注4)には、開皇二十年(六〇〇)に「俀王」阿毎多利思孤が高祖文帝(楊堅)に使節を派遣し、大業三年(六〇七)には再び煬帝(楊広)に、「日出る処の天子」を名乗って遣使した。これに対し煬帝は裴世清はいせいせいを遣わして王と面談させたと記す。
◆『隋書』漢の光武の時、使を遣して入朝す。自ら大夫と稱す。・・・魏より齊・梁に至り代々中国に相通ず。・・・開皇二十年(六〇〇・推古八年)、俀王、姓は阿毎(あま)、字は多利思北孤(たりしほこ)、阿輩雞彌(あはきみ)と号す。使を遣わし闕けつに詣でる。上(文帝)其の風俗を訪わしむ。使者言う、「俀王は天を以て兄とし、日を以て弟とす。天未だ明けざる時、出でて政を聴き跏趺かふして坐し(注5)、日出ずれば便ち理務を停め、云う、我が弟に委ねん」と。高祖曰く、「此れ太はなはだ義理無し」と。是に於いて訓令して之を改めしむ。王の妻は雞彌と号し、後宮に女六七百人有り。太子の名を利歌彌多弗利(りかみたふり)とす。氣候温暖にして、草木は冬も青し。土地は膏腴にして水多く陸少し。・・・阿蘇山有り。其の石、故無くして火起り天に接する者、俗以て異と為し、因って禱祭を行う。・・・新羅、百済皆俀を以て大国にして珍物多しと為し、並びにこれを敬仰す。恒に通使・往来す。

2、多利思北孤は倭国(九州王朝)の天子で厩戸皇子ではない

 通説では多利思北孤とは、「厩戸皇子で、かつ、聖徳太子」だとする。
『書紀』で、厩戸皇子は、用明二年(五八七)に蘇我馬子らと共に排仏派の物部守屋を滅ぼし、崇仏施策を推進、推古元年(五九三)に四天王寺を造立し、同年に推古天皇の摂政として「万機をことごとく委ね」られた。
◆推古元年(五九三)夏四月に廐戸豐聰耳皇子(うまやどのとよとみみのみこと)を立てて、皇太子とす。仍りて録つぶさに政を摂つかさどらしむ。万機悉く委ぬ。

 そして、推古十一年(六〇三)に冠位十二階、推古十二年(六〇四)に十七条憲法を定めるなど、天皇中心の集権国家体制の確立に努め、また、篤く仏教を崇拝した。また、「厩戸皇子」は『書紀』に「東宮聖徳」(敏達五年条)「豊耳聰聖徳」(用明元年条)とあるように、「聖徳太子」だとされており、八世紀以降の太子信仰の広がりの中で、その事績が『上宮聖徳法王帝説』(九世紀ごろ成立)や『聖徳太子伝暦』(十世紀ごろ)などに記されるようになっていく。
 しかし、『隋書』では、多利思北孤の俀国は、金印を下賜された九州の倭奴国の後継国で、阿蘇山が噴火し、気候は温暖で水多く陸少ないとある。これは、俀国は「ヤマトではなく九州の国」であることを示している。また、厩戸皇子には「阿毎」という姓もなく、「多利思北孤」という「字」もない。通説(直木孝次郎ほか)は多利思「北」孤は多利思「比」孤の誤りとするが、諸版本は明確に「北」で、「比」とは書き分けられている。(注6) 仮に「タリシヒコ」と読んだとしても、厩戸にそうした字は無い。さらに、厩戸に「利歌彌多弗利」という太子はおらず(*嫡子は山背大兄王)、推古から委ねられた政務を、「朝に弟に委ねる」という事績も見えない。
 そもそも、天皇ではないヤマトの厩戸皇子が「天子」を名乗り、隋の皇帝に使者を派遣し国書を届けることなどあるはずもない。厩戸皇子を、阿蘇山下の天子「阿毎多利思北孤」に比定するのはどうしても無理なのだ。

 

法隆寺法隆寺釈迦三尊像光背銘

法隆寺法隆寺釈迦三尊像

(図1)法隆寺『釈迦三尊像』と『光背銘』

 

3、上宮法皇も多利思北孤であり厩戸皇子ではない

 また、法隆寺『釈迦三尊像光背銘』には「上宮法皇」の登遐と母太后・妻王后の薨去や、法皇の病平癒と往生祈願に止利仏師により「等身」の釈迦像が建立されたことが刻まれている(図1)。通説では、『上宮聖徳法王帝説』に「上宮厩戸豊聰耳命・厩戸豊聰耳聖徳法王」とあるように、「上宮法皇」も「厩戸皇子で聖徳太子」だとされている。
◆『釈迦三尊像光背銘』法興元丗一年(六二一)歳次辛巳十二月、鬼前(きせん)大后崩ず。明年(六二二)正月二十二日、上宮法皇、枕病して悆(よ)からず。干食(かんじき)王后、仍りて以て労疾し、並びに床に著く。(略)二月二十一日、癸酉、王后即世す。翌日、法皇登遐(とうか)す(略)。(*読み下しは古田武彦氏による)

 しかし、
➀『光背銘』の上宮法皇の登遐は六二二年二月二十二日で、厩戸皇子の逝去の「六二一年二月五日」(『書紀』)と矛盾する。
◆『書紀』推古二十九年(六二一)二月癸巳(五日)に、半夜に厩戸豊聡耳皇子命、斑鳩宮に薨かむさりましぬ。

➁また、鬼前大后・干食王后(注7)とあるが、『書紀』で厩戸皇子の母は間人皇女、皇后は菟道貝蛸皇女であり名が異なるうえ、「太后・王后」は天皇(天子)の母と后(正室)の意味で、皇太子の母や妻の呼称ではない。

③推古二十九年十二月に大后、推古三〇年二月二十一日に王后が逝去しているが、『書紀』はそのことを一切記していない。

➃『光背銘』の『法皇』は「仏教に帰依し僧籍に入った天子(天皇)」を意味するが、厩戸皇子が「法皇」になったことはない。

 一方、『隋書』で多利思北孤が自称した「菩薩天子」とは、仏教上の権威「菩薩」と、政治上の権威「天子」を併せ持つ称号で「法皇」と同義となる。従って、「上宮法皇」も多利思北孤のことだと考えられよう。
◆『隋書』大業三年(六〇七)其の王多利思北孤、使を遣し朝貢す。使者曰はく、「海西の菩薩天子、重ねて佛法を興すと聞く。故に遣して朝拜せしめ、兼ねて沙門数十人、来らせ佛法を学ばす」といふ。其の国書に曰はく、「日出ずる處の天子、書を日没する處の天子に致す。恙無きや云云」と。帝これを覽て悦ばず。鴻臚卿に謂いて曰く「蛮夷の書に無礼あり。復た聞くことなかれ」とのたまう。

4、「聖徳太子」のモデルも厩戸皇子でなく多利思北孤

 それだけではなく、聖徳太子の伝記の内容も厩戸皇子の事績と合わない。
 『聖徳太子伝記』で、太子は五八九年に十八才で国政を執行した(政治を始める)とある。しかし、『書紀』で厩戸の皇子が太子となり「万機を委ねられ」たのは五九三年で「聖徳太子」の事績と異なる。
◆『伝記』太子十八才(五八九)御時。春正月参内して国政を執行したまへり。
◆『書紀』推古元年(五九三)夏四月己卯(十日)に、厩戸豐聰耳の皇子を立てて皇太子とす。仍りて錄まつりごとを攝政ふさねつかさどらしめ、萬機を以て悉く委ぬ。

 そして、五八九年は九州年号「端政たんじょう元年」にあたる。「端政」の『端』は「ただしい・ただす・はじめ」、『政』は「ただす・まつりごと・おきて・おしへ(人の道)」などの意味だ(*諸橋『大漢和』の抜粋)。従って、「端政」とは「正しい政治の始め」となり、天子が新たに政治を始めた年(即位年)に相応しい。
 つまり、聖徳太子の「国政執行年」は、厩戸の立太子年ではなく九州年号「端政」と整合することになる。

 ちなみに『伝記』等で太子の誕生は九州年号「金光こんこう三年(五七二)」とされ、『正法輪蔵(注8)』では、太子の生涯が年次を追って「九州年号」で記されている。
◆『聖徳太子伝記』聖徳太子ノ御誕生之時代ヲ上古ニ相尋侍レバ年号ハ金光三年壬辰(五七二)歳也。
太子の生涯が九州年号で記され、その年号の意味と太子の事績が整合するのは、太子のモデルが九州王朝の天子多利思北孤であることを示している。

(表1)『二中歴』(年代歴)(表1)『二中歴』(年代歴)

 

5、多利思北孤は在位中に法皇となり法号を得ていた

 多利思北孤(上宮法皇)の「法皇」称号だが、後世、天皇が菩薩戒を授かり法皇となるのは退位(譲位)してからだ。しかし、五世紀に成立した『梵網経ぼんもうきょう』では「王位に就くときにはまず菩薩戒を受けねばならない」と戒めている。これによれば、「菩薩天子」を自称する多利思北孤は、在位中に菩薩戒を授かり法皇と称されたことになろう。
◆『梵網経』(盧舍那佛説菩薩心地戒品第十卷下)佛言。若仏子。欲受国王位時。受転輪王位時。百官受位時。応先受菩薩戒 一切鬼神救護王身百官之身。(仏弟子が国王・大臣・官役に就くときには先ず菩薩戒を受けなさい。そうすればすべての鬼神が王・百官の身を護るだろう)。(注9)

 そして、仏教において受戒し僧籍に入った者には、戒律を守る証として師より法号が授けられる。(注10)
 実際に、隋の初代楊堅(文帝)は、在位中の開皇五年(五八五)に法経法師から「菩薩戒」を受戒。国寺としての大興善寺を建立し、多利思北孤が「重ねて仏法を興す」とした楊広(煬帝)も開皇十一年(五九一)に、天台宗の宗祖智顗(ちぎ)から「菩薩戒」を受戒し「総持」という法号を得ていた(*初唐の護法僧法琳の『弁正論』による)。また、半島諸国の王も仏教を尊重し、新羅の法興王は法空、真興王は法雲といった法号を得ていた。(注11)
 こうした皇帝・諸王の受戒は、六世紀の東アジアにおける「仏教の権威を利用した統治策(仏教治国策)」の反映といえる。
 こうした『梵網経』や、煬帝が受戒し法号を得て、在位していたこと、さらに半島での実例から、多利思北孤も在位中に受戒し法号を得た可能性が高い。

6「法興」は法皇多利思北孤の法号

 上宮法皇は「法興(元)」という年号を用いているが、『書紀』に「法興」という年号は見えない。ところが、『隋書』で多利思北孤は煬帝に「重ねて仏法を興す」と述べ、自らも「仏法を興した」ことを誇っている。(注12) この「重ねて仏法を興す」を要約すれば「法興」となり、多利思北孤が用いる年号に相応しい。
「法興元年」が五九一年であり、多利思北孤の即位が「端政元年(五八九)」なら、『梵網経』に則って即位後速やかに菩薩戒を受戒し法号を得て、法皇・菩薩天子を自称したことになろう。その法号が「法興」だと考えられる。
 加えて、「法興(元)(五九一~六二二)」は、最も整った九州年号史料とされる『二中歴』には見えず(表1)、次の端政~倭京と重複し、上宮法皇の登遐の翌年六二三年に「仁王」と改元されている。つまり「九州年号と並行する年号」となっている。
◆端政(五八九~五九三)、告貴(五九四~六〇〇)、願転(六〇一~六〇四)、光元(六〇五~六一〇)、定居(じょうこ 六一一~六一七)、倭京(六一八~六二二)、仁王(六二三~六三四)

 こうしたことから、「法興元」とは、法号の「法興」を「元号」すなわち、多利思北孤が即位してからの年紀として用いたもの、つまり仏教上の「法皇」としての年紀で、法皇即位後の年数を示すものと考えられる。従って、九州年号が「『天子としての』多利思北孤が定めた倭国年号」であるのに対し、「法興元」は「『法皇としての』多利思北孤一身の年号」だと解釈出来よう。(注13)

 

四、次代の倭国(九州王朝)の天子は利歌彌多弗利

1、『隋書』に記す多利思北孤の太子「利歌彌多弗利」 

 そして多利思北孤には利歌彌多弗利という太子がおり、上宮法皇にも臨終の枕頭に王子がいたと記す。多利思北孤が上宮法皇ならこの王子は利歌彌多弗利で、上宮法皇の登遐の翌年に九州年号が「仁王」に改元されているから、そのまま次代の天子に即位したことになろう。
◆『隋書』太子の名を利歌彌多弗利と号なづく。
◆『釈迦三尊像光背銘』時に王后・王子等、及び諸臣と與に、深く愁毒を懐き、共に相ひ発願す。

 つまり七世紀初頭の倭国(九州王朝)の天子は「法興法皇」たる多利思北孤であり、法興元三十二年(六二二)(*九州年号「倭京五年」)に登遐し、仁王元年(六二三)に利歌彌多弗利が即位したことになる。

2、聖徳太子没後に「聖徳年号」が存在

 「法興」と同様『二中歴』には見えないが、数多くの史書に六二九年を元年とし、六三四年を末年とする「聖徳」年号が記されている。(注14)
 そして、聖徳太子の誕生した金光から没した倭京までの一年号あたりの平均年数は五.三年、仁王の次の僧要から白村江前の白雉までは六.五年なのに、仁王だけは十二年間続いている。九州年号中に「聖徳」年号が実在するなら仁王六年間(六二三~六二八)「聖徳」六年間(六二九~六三四)で、前後の九州年号の年数の分布と整合する。(注15)
 誰もが聖徳太子の没後とわかる六二九年に、わざわざ「聖徳」年号を「創作(偽作)」するとは考えづらく、逆に「『二中歴』では聖徳太子の没後に聖徳年号は不自然なので削除した」と言う方が考え易いだろう。
 九州年号が「聖徳」年号の終わる翌年の六三五年に「僧要」に改元されていることからも、九州年号中に「聖徳」が存在するのはほぼ確実と言えよう。

3、「聖徳」は「仏法を興した父」を継ぎ、仏教に帰依した王に相応しい

 そして、前述の新羅の真興王は「仏法を篤く信仰した」父法興王(*戒を授かっているから法皇)の「徳を継ぎ聖を重ねて(継德重聖) 即位した(『三国遺事』(注16)」とあり、「聖徳」は「継德重聖」の要約だ。
 真興王の在位は五四〇~五七六年で、多利思北孤の直前の人物だ。利歌彌多弗利も、真興王同様「仏法を興した」父「法興法皇(多利思北孤)」の後継者として仏門に帰依し、受戒して法皇となった。その際、「父の徳を継ぐ」ことを示す「聖徳」を「法号」として用いたのではないか。『隋書』に多利思北孤の「太子」とある利歌彌多弗利の方が、多利思北孤より「聖徳太子」の称号に相応しいのかもしれない。(注17)

4、「聖徳太子のモデルは利歌彌多弗利」を示す「南岳禅師後身説話」

 鑑真和上も知っていた「南岳禅師後身説話」では、南岳禅師(慧思。五一四~五七七)は倭国王子に転生し仏法を興隆し衆生を済度したとする。(注18)
 つまり慧思は「聖徳太子」に転生したというのだが、「聖徳太子」の生誕は五七二年(伝記ほか)または五七四年(上宮聖徳法王帝説ほか)で、禅師の逝去以前となり「太子への転生」はなりたたず、転生した王子は利歌彌多弗利にあたる。
 このことも、利歌彌多弗利もまた「聖徳太子」のモデルであることを示している。

 

五、利歌彌多弗利の次代の天子

1、唐の高表仁と「礼」を争った倭国王子

 『旧唐書』倭国伝には、貞観五年(六三一)倭国が朝貢してきたので、翌六三二年に高表仁を使者として送ったが、表仁には綏遠(すいえん 遠隔の国との関係を取りまとめる)の才が無く、王子と争い、任務を果たせず帰国したと書かれている。
◆『旧唐書』(倭国伝)貞観五年(六三一)使を遣して方物を献ず。太宗(李世民)其の道の遠きを矜あわれみ、所司に勅して、歳ごとに貢せしむる無し。又、新州の刺使高表仁を遣し、節を持して往きて之を撫せしむ。表仁、綏遠の才無く、王子と礼を争い、朝命を宣べずして還る。

 「節」とは「符節」で、天子の命を受けた使者(持節大使)が授けられるしるしであり、唐の太宗直々の使者であることを示している。『旧唐書』は歴代中国と交流していた「倭国(九州王朝)」と、新興で元「小国」の「日本国(大和朝廷)」は別国とし、それぞれ別伝に記している。高表仁の遣使は「倭国伝」に記され、かつ、「大国」の倭国を無視して、小国の日本国に勅使を派遣し朝命を述べさせるはずもないから、高表仁が訪れたのは当然倭国(九州王朝)となる。
 この高表仁の来朝は『書紀』にも記されているが、友好的雰囲気で「礼を争った」記事など見えない。これは『書紀』が高表仁の九州王朝来朝記事を剽窃し、かつ「友好的」な記事に潤色したことを示すものだろう。
◆『書紀』舒明四年(六三二)秋八月。大唐高表仁を遣して三田耜みたすきを送る。冬十月甲寅(四日)、唐国の使人高表仁等難波津に泊す。則りて大伴連馬養うまかひを遣りて江口に迎へしむ。船卅二艘及び鼓・吹・旗幟・皆具に整飾よほえり。便ち高表仁等に告げて曰はく、「天子の命のたまへる使ひ、天皇の朝みかどに至る聞き、迎へしむ」といふ。時に、高表仁對こたへて曰はく、「風寒之すさまじき日に、船艘ふねを飾整よそひて迎え賜ふこと、歡び愧かしこまる。」
五年(六三三)の春正月甲辰(二六日)、大唐の客高表仁等帰国す。

2、多利思北孤時代「隋」と断交

 多利思北孤の時代、隋の裴世清が帰国して後、隋と断交している。
◆『隋書』(俀国伝)大業四年(六〇八)復た使者を淸(裴世清)に随い来らせ方物を貢ぐ。此の後遂に絶つ。

 「断交」の原因は、俀国が使者を送った大業四年におきた煬帝の「琉球侵攻」だ。『隋書』(琉球国伝)では大業四年に煬帝が「琉球」に侵攻、宮室を焚き男女数千人を捕虜とした。そして侵攻の際奪取した布甲(*布製の鎧の類)を俀国の使者が見て、「これは夷邪久国人の布甲だ」と述べたとある。これを契機に琉球国は隋と断交している(「爾これより遂に絶つ」)。俀国の使者が夷邪久国の装備を了知しており、大業四年の琉球国侵攻のあと同様に「此の後遂に絶つ(関係を絶つ)」とあることは、九州の俀国と夷邪久国・琉球国といった南西諸島の国々が深い関係を持ち、隋の脅威を共有したことを示している。。(注19)
◆『隋書』(琉球国伝)大業四年(六〇八)帝、復た(朱)寬をして之を慰撫せしむ。琉球從はず。寬、其の布甲(*布製の甲冑)を取りて還る。時に俀国の使来朝し、之を見て曰はく、「此れ夷邪久国人の用る所なり」といふ。帝、武賁郎將陳稜、朝請大夫張鎮州を遣して、兵を率て義安(現在の広東省潮州)より浮海し之を撃たしむ。・・・進みて其の都に至る。頻に戦ひ皆敗り、其の宮室を焚き、其の男女数千人を虜とし、軍実に載せ還る。爾(これ)より遂に絶つ。
◆『隋書』(俀国伝)大業四年(六〇八)。復た、使者を淸(*裴世清)に随い来らせ方物を貢ぐ。此の後遂に絶つ。

3、成功しなかった国交回復

 唐の二代目皇帝として即位した太宗(在位六二六~六四九)としては、隋と断交し、唐代になっても長く関係が失われていた倭国が貞観五年(六三一)に朝貢したので、冊封を受けさせるべく使者を派遣したと考えられる。その際、武徳四年(六二一) の初めての朝貢で、既に冊封を受けていた新羅は、以後毎年朝貢していたが、倭国には遠国を理由に毎年の朝貢を免除し優遇することとした。
◆『旧唐書』貞觀五年,使を遣して方物を献ず。太宗其の道の遠きを矜あわれみ、所司に勅して歲ごとに貢することなからしむ。又、新州刺史高表仁を遣し節を持し往きて撫しむ。

 高表仁はそうした太宗の計らいにもかかわらず、強硬に外交交渉を進め、関係を悪化させた。そのことが、「表仁、綏遠の才無く」との非難の言葉から推測できる。新羅の例から、「礼を争う」とは冊封を受けるか否かの争いだった可能性が高い。
 その際、表仁と礼を争ったのは、時期的に見て「利歌彌多弗利の王子(太子)」であり、彼は多利思北孤の「対隋外交」の例に倣い、「唐との対等外交」を主張したのだと考えられる。王子も対等外交については譲らぬ「強硬派」だったことになろう。ただ、「朝命を宣べずして還る」とは、唐側だけでなく、倭国(九州王朝)にとっても、初めての対唐外交が不調に終わったことを意味する

4、「仏教治国策」の転換

 さらに唐の成立により、仏教をめぐる東アジアの状況も多利思北孤の時代とは大きく変わっていた。菩薩戒を受けた煬帝は滅ぼされ、唐の高祖李淵は六二六年には仏教・道教の二教を廃毀する詔を発した。さらに、玄奘三蔵の訳経事業を支援した次代の太宗も、国内政治では貞観十一年(六三七)に「道先僧後」の詔を発し、道教を上位におき仏教抑圧施策をとる。
 こうした唐の仏教施策の変化を踏まえると、倭国王子と高表仁の対立には、冊封問題に加え、

➀唐朝の仏教冷遇方針に従い、菩薩天子の権威を認めない唐の高表仁と、

➁多利思北孤以来の「仏教治国策」即ち、天子が「法皇・菩薩天子」として仏教上の権威を併せ持ち統治する「宗政一致」体制の倭国(九州王朝)の対立が加わっていたことになる。

 利歌彌多弗利が「聖徳」年号に示されるように、父多利思北孤・上宮法皇の徳を継ぐ(継德重聖)ことを目指していたなら、仏教治国策を簡単に放棄できなかったのは当然だろう。
 しかし、高表仁の帰国の翌年六三四年に、法皇の年紀である「聖徳」は、九州年号「仁王」とともに終る。これは、隋代の仏教による統治の破綻と、唐の仏教冷遇姿勢を実感した利歌彌多弗利は、表仁帰国後、唐の仏教抑圧政治に対応するため、六三四年に僧籍から離れ「法皇としての年紀『聖徳』を用いる」こともやめ、政治と仏教を分離したことを意味するのではないか。そして、以後は倭国(九州王朝)の天子として、唐との関係悪化に備え、唐と礼を争った王子を中心に据え、武力の充実と国内での集権体制の確立を急いだのだと考えられる。

 

六、利歌彌多弗利の崩御と「王子」の天子即位

1、『善光寺文書』が示す利歌彌多弗利の崩御

『善光寺縁起集註』には命長七年(六四六)の九州年号と「斑鳩厩戸勝鬘いかるがうまやどしょうまん」の署名の入った文書が存在する。
◆『善光寺縁起集註』(善光寺文書)
御使 黒木臣 
名号称揚七日巳 此斯爲報廣大恩 
仰願本師彌陀尊 助我濟度常護念
   命長七年丙子二月十三日
進上 本師如来寶前
  斑鳩厩戸勝鬘 上

 古賀達也氏は、『この「命長」文書こそ、法興三十二年(六二二)に没した多利思北孤の次代にあたる利歌弥多弗利のものと考えたのであるが、その内容は死期せまる利歌弥多弗利が、「我が済度を助けたまえ」という、いわば願文であり、ここにも「病状とみに悪化」「命、旦夕」のもう一人の倭王の姿を見るのである。
 おそらく、利歌弥多弗利は永く病に臥していたのではあるまいか。なぜなら、「命長」という九州年号に、時の天子の病気平癒の願いが込められている、と見るのは考えすぎであろうか。』と述べている。(注20)
 この指摘通り、『書紀』舒明十二年(六四〇)(九州年号「命長元年」)五月には、僧恵穏等による無量寿経講話記事がある。
◆舒明十二年(六四〇)五月辛丑(五日)に大きに設斎(をがみ)す。因りて、恵穏僧を請せて、無量寿経を説かしむ。(略)

 これは、当然ヤマトの舒明の為の法要のように記されるが、この年九州年号は「命長」に改元されている。そして、『無量寿経』は無量寿仏(阿弥陀仏)の功徳を説く経典。阿弥陀仏の梵名「アミターユス」は、「無限の寿命をもつもの」の意味で、その漢訳が無量寿仏だ。従って「無量寿」は「命長」を意味し、そこから、九州年号「命長」改元は、倭国(九州王朝)の天子利歌彌多弗利の長寿を祈念した「無量寿経講話」にちなむものとなろう。九州年号「命長」が六四六年で終わり、翌年の六四七年には「常色」と改元されていることも、利歌彌多弗利の崩御を示すものだ。
 そして、「常色元年」には、唐と礼を争った利歌彌多弗利の王子が即位したと考えられる。

2、隠された利歌彌多弗利の長寿を願う法要

 実は、同じ無量寿経講話記事が『書紀』白雉三年(六五二)四月壬寅(十五日)にも見え、講話僧も同じ恵穏で、経典も無量寿経であることから、岩波『書紀』注にも「白雉三年四月十五日条の前半と酷似する。同事の重出か。」としている。
◆白雉三年(六五二)(九州年号「白雉元年」)夏四月壬寅(十五日)に、沙門恵隠を内裏に請せて、無量寿経を講かしむ。沙門恵資を以て、論議者とす。沙門一千を以て、作聴衆(さちょうじゅ)とす。丁未(二〇日)、講くこと罷む。

 「設斎」は、天皇らが仏事を行うにあたり、僧らに食事をふるまう行事で、恵穏らはこれを終えた後、長期の講話に入ったことになる。
 五月辛丑(五日)と四月壬寅(十五日)では月日が異なるので、重複記事のようには見えないが、「辛丑」の次の日の干支は「壬寅」だ。
 そして、『書紀』白雉三年(六五二)(九州年号「白雉元年」)五月には「壬寅」がなく、四月十五日が「壬寅」にあたる。従って、「九州年号『命長元年』五月『辛丑』(五日)の設斎」の翌日の、「五月壬寅(六日)の講話」記事を、「日の干支(暦日干支)付き」で九州年号「白雉元年」に移せば「四月壬寅(十五日)」となる。
 つまり、『書紀』編者は九州年号「命長元年」(六四〇)五月辛丑(五日)の設斎に続き、翌日の五月壬寅(六日)から始まり、丁未(十一日)に終わる「無量寿経講話」という一連の「利歌彌多弗利の長寿を祈念する行事」を「二分割」し、設斎記事はそのまま残し、「沙門一千人」による講話記事を九州年号「白雉元年」四月壬寅(十五日)~丁未(二〇日)に張り付けたことになる。
 この九州年号「命長と白雉」の「元年同士の入れ替え」は、元記事が九州年号付きで記されていたこと、すなわち倭国(九州王朝)の事績だったことを示している。

(図1)前期難波CG宮(制作大阪市教育委員会)
出典:2014年大阪歴史博物館「大阪遺産難波宮」のパンフレットをもとに筆者作成

(図1)前期難波CG宮(制作大阪市教育委員会)

3、隠された倭国(九州王朝)の宮

 では、何故『書紀』編者はそういった「潤色」を施し、講話記事の部分を『書紀』白雉三年条に移したのだろうか。
 その理由は「難波宮」と「沙門一千」にある。舒明十二年(六四〇)五月記事には「設斎の規模(人数)」記事が無く、寺院か小規模な宮でも行うことができる。
 これに比べ、白雉三年記事では、「内裏」で「沙門一千」という大規模な講話行事が行われたと記されている。舒明十二年(六四〇)当時のヤマトの王家の宮は、舒明八年(六三六)の岡本宮の焼失により、臨時に移った「田中宮」か、舒明十二年(六四〇)四月に遷った厩坂宮で、百済大寺・宮室の着工は皇極元年(六四二)だから、田中宮・厩坂宮のいずれも臨時の仮宮であり、ヤマトの王家には「沙門一千」を収容できる内裏は存在しない。
 一方、『書紀』白雉三年(六五二)なら、前年の『書紀』白雉二年(六五一)十二月には、二千百人の僧尼による一切経講話記事があるため、当然「難波宮」での孝徳の長寿を祈念する行事と解釈されることになる。(図1)
 つまり、『書紀』編者は、命長元年の利歌彌多弗利の長寿祈願の儀式を分割し、大規模な講話記事を『書紀』白雉三年(六五二)に移すことで、

➀利歌彌多弗利の長寿を祈願する儀式を、舒明の為の儀式とした。

➁当時ヤマトの王家には「沙門一千」を収容する「内裏」が存在しなかったことを隠した。これは、逆に六四〇年当時倭国(九州王朝)には、「沙門一千」を収容することにできる「内裏」があったことを示している。

③難波宮は孝徳の造った宮であり、そこで孝徳の為の長寿祈願の儀式が行われたことにした、

 となろう。
 一方、九州年号「倭京」(六一八~六二二)や、出土土器の編年(注21)から、六四〇年当時倭国(九州王朝)には「太宰府」にあたる政庁や内裏の存在が伺える。六四〇年に「内裏で沙門一千による法要」が行われたとすれば、難波宮の1/2~1/3程度の規模を持つ内裏が存在したことになる。『書紀』編者は、こうした「多利思北孤が造営・遷都した倭国(九州王朝)の太宰府」を隠し、「太宰府は七世紀後半以降に大和朝廷が建設した地方統治の役所」だとしたことになろう。

 

七、常色元年に即位した倭国(九州王朝)の天子

 九州年号常色元年(六四七)に即位した天子の在位期間と考えられる九州年号常色(六四七~六五一)~白雉(六五二~六六〇)では、『書紀』では孝徳・中大兄による「大化の改新」とされる大改革が行われたと書かれており、倭国が白村江の戦いに向かっていく年代にあたる。
 しかし、六四九年には全国に「評制」が施行され、全国統治機構に相応しい「難波宮」が造営されるが、「評制」は、大和朝廷が律令を施行した七〇一年を期して「郡制」に変えられ、『書紀』では初めから「郡制」であったように書き換えられている。そこから古田武彦氏は「評制は九州王朝の制度」だとする。
 また、宮城についても、舒明・皇極以前の、不整形できわめて狭く、小規模な内裏や朝堂類似施設しか持たない飛鳥の諸宮から、一気に十四棟の朝堂と巨大な内裏・内裏前殿を備え、京域の北部に宮が置かれる北闕型ほっけつがたの「難波宮」に発展し、斉明・天武時代には、また狭小な浄御原宮に戻った。これは宮の発展順序・状況から不自然であり、古賀達也氏は「難波宮は倭国(九州王朝)の副都」だとする。(注22)
 また六四七年には位階を服飾の色で区分する「七色十三階の冠」と「礼法」が制定されるが、「常色」の「常」は「のり。典法」。「色」は[色法]仏・物質の法をいい(諸橋漢和大辞典)、「常色」年号は「律令・法令・宗教」全般の大改革の行われた年号として相応しい。
 従って、孝徳期の大改革(俗に「大化の改新」)は、常色元年に即位した倭国(九州王朝)の天子の事績であり、『書紀』編者はこれを剽窃し、ヤマトの天皇家の事績としたと考えられる。
 その天子は『書紀』で「伊勢王いせのおおきみ」と呼ばれ、その事績の一部は幸徳・斉明紀に残され、その他は天武・持統紀に繰り下げられたと考えられる。古田武彦氏が「壬申大乱」で述べた「持統天皇の吉野行幸は三十四年前の九州王朝の天子の佐賀吉野への行幸が剽窃された」のは、その一例となる。(*こうした「伊勢王」の事績については別稿で述べる)

 

(主な参考図書)

 古田武彦「失われた九州王朝」(朝日新聞社。一九七三年)、「法隆寺の中の九州王朝」(朝日文庫。一九八八年)、「古代は沈黙せず」(駸々堂出版、一九八八年)(*いずれもミネルヴァ書房より再刊)ほか多数。古田武彦・家永三郎「聖徳太子論争」(新泉社。一九八九年)、「法隆寺論争」(新泉社。一九九三年)。

 (会誌)『古代に真実を求めて』十八集『盗まれた「聖徳太子」伝承』(明石書店。二〇一五年三月)等。

 

(注1)通説では「多利思北孤」の「北」は「比」の誤りとし、「たりしひこ」と読むが、『隋書』の版本は「北」と「比」はかき分けられ紛れはない。古田武彦氏は「足りし鉾」と解釈し銅矛の中心地九州の天子にふさわしいとされる。「利歌彌多弗利」を「利、歌彌多弗かみとうの利なり」と読んでいる。

(注2)通説では、「倭奴国」を「わのなのくに」と読み「倭国の中の博多湾岸(那の津)の一つの国」とする。しかし、「倭」の上古音は「ゐ」で意味は「従順・おだやか」、金印にも「『委』奴国」とある。また「奴」に「な」の音は無く「ど・ぬ・の」で、「匈奴」のように夷蛮の蔑称に用いる字だ。従って「ゐぬ(ど)こく」と読み、一地方の小国ではなく、「倭国=倭人の国そのもの」を指すことになる。
 また「日本国」が大和朝廷(及びその前身の国)であることは、七〇三年に武則天(則天武后)から「日本国」の使人粟田真人(大和朝廷の遣唐執節使に任命され「文武天皇」から節刀を授けられている)が位階を授かっていることからも明らか。
◆長安三年(七〇三)、その大臣・朝臣真人(*粟田真人)来たりて方物を貢ぜり。朝臣真人はなお中国の戸部尚書の如し。
『続日本紀』慶雲元年(七〇四)七月朔日条にも、粟田朝臣真人が、初め唐に至った時に、「何処の使人ぞ」と問われ、「日本国の使なり」と答えたとある。

(注3)「東西五月行、南北三月行」は、『後漢書』南蛮伝の「軍行一日三〇里(約十三㎞)を程とす」「吏員五日一休沐制」(五日ごとに一日休む)」から換算すると、五月行は約一七〇〇㎞で九州の西五島列島から津軽海峡まで、三月行は約一〇〇〇㎞で対馬から尖閣列島の距離にあたる。その反面、「山島に依りて居す・四面小島」は九州島に相応しく、「東西五月行、南北三月行」は列島全体に相応しい。
 また、「五〇余国、皆付属す」とあるが、八世紀のいわゆる「令制国(およそ六十八国)」から八世紀に設けられている志摩・伊豆・安房・出羽・能登・丹後・美作などと、九州の十国(「周辺島」の壱岐・対馬込み)を除けばちょうど五〇余国となる。
 従って、倭国の本拠は「九州島」であり、付属(*従っている)する五〇余国の範囲が列島全体に及んでいると解釈できよう。
 一方、「東西南北各数千里」は唐の一里五三〇ⅿなら二〇〇〇~三〇〇〇㎞四方になり、唐も日本国の領域になる。従ってこれは『魏志倭人伝』の一里七十五ⅿの短里で、日本アルプスを境にその西三〇〇㎞四方となり、後の大和朝廷の畿内国(大和国・山城国・摂津国・河内国・和泉国)と、その周囲の諸国で、現在の関西(三重・福井を含む)とほぼ同程度となる。また、アルプスの東には上毛国・下毛国といった「毛人」の国がある。

(注4)「列伝(俀国伝など)」の原文は「俀たゐ」。「帝紀」には「倭」とある。これは歴代の中国王朝は「倭国ゐこく」(倭の上古音は「ゐ」)と呼んでおり、帝紀ではその慣例に従い「倭」を用いた。しかし、法華義疏に「大委上宮王私集」との署名があるように、多利思北孤は自らの国を「大隋」に対し「大委」と自称していた。隋の高祖文帝(楊堅)はこれを嫌い、当時の国名として音の似た「俀たゐの文字を用い、それが列伝に採用されたのだと考えられる。

(注5)跏趺かふは「結跏趺坐けっかふざ」の略で、仏教での最も尊い、釈迦三尊の釈迦如来・上宮法皇の座り方。

(注6)『隋書』の「百衲本」で明確に「北」と読める北が九十五、「背」の冠の「北」が一。一方、「比」が六、「皆」の冠の「比」が三十四、「昆」の「脚」の「比」が一で、まぎれはない。(東海の古代の会林伸禧氏による)

(注7)「鬼前太后」・「干食王后」について、通説では「鬼前太后」とする厩戸の母穴穂部間人皇女には「鬼前」の名はないので、通説では「キサキ」と読む。しかし「キサキの太后」という変な呼称はどんな史料にも無い。また、干食王后について、『書紀』で厩戸の后は敏達天皇と後の推古天皇の娘「菟道貝蛸皇女」だが「干食」 の名はない。そこで通説では、「干食」を「かしはで」と読み、「膳大娘」を「膳部かしはべ傾子臣の女菩岐々美郎女ほききみのいらつめ」とする。
 しかし、
➀「干食」は「析薪者(薪木を割る者)」で「炊烹供养(養)雑役」つまり雑役夫の下で、彼らに炊烹を供する最卑職であり(『尚書正義』など)、これを王后名とするのは不自然。
➁菩岐々美郎女を「妃とした」とあるのは、十世紀に成立した「聖徳太子伝暦」で『書紀』には見えない。
③四妃中最も出自が低い美郎女を「王后(皇后)」 とし、臨終の床を共にしたとする等、通説には無理がある。
(出自の高低) ➀菟道貝蛸皇女(敏達天皇と推古天皇の皇女)➁橘大郎女(推古天皇の孫)③刀自古郎女(蘇我馬子の娘)④膳部菩岐々美郎女(膳傾子の娘)

 一方、太后・王后・法皇が連続して没したのは当時猖獗を極めた天然痘によると考えられる。そして天然痘の苦痛は『書紀』敏達十四年(五八五)三月条では、「其の瘡を患む者言はく、『身、焼かれ、打たれ、摧くだかれるが如し』といひて、啼泣いさちつつ死る」とある。
 一方、『正法念処経』では「鬼前・干食」は、そうした「天然痘の苦痛」と同じ地獄の苦役の象徴として使われる。
(地獄品)「熱鉄野干食其身中」。熱鉄の野干其の身中を食う。是れ常に焼かれるが如く、是れ常に食われるが如し。
(餓鬼品)「諸餓鬼前身」諸の餓鬼前身の時(の悪行の罪で)腹中に火起き、其の身を焚焼す。地に棘刺生じ、皆悉く火燃し、其の両足を貫く。苦痛忍び難し。

 こうしたことを踏まえると、「鬼前・干食」とは太后・王后の陥った地獄の苦しみを示す諡号(あるいは法号)だった可能性が高い。そうであれば「悪諡」といえるが、卒時の状況をそのまま反映しており、逆にその地獄からの釈迦如来による救済を願って付けられたものとなろう。釈迦三尊像の脇侍が「薬王菩薩・薬上菩薩」であるのは、願いのとおり釈迦如来となった上宮法皇に救済された太后・王后の姿と考えられよう。
 これについては「俀・多利思北孤・鬼前・干食の由来」(古田史学会報一三〇号二〇一五年一〇月)に詳述した。

(注8)太子の五十一年の生涯を一年一帖にまとめて五十一帖に記す伝本。四天王寺の絵伝の絵説本で一三一七年以前に成立し四天王寺で書写されたもの。

(注9)『梵網経ぼんもうきょう』は鳩摩羅什(くまらじゅ 三四四~四一三)漢訳とも五世紀に中国で成立とも言われる。

(注10)宗派により法名・戒名ともいう。ここでは『二中歴』端政年間の細注に「唐より法華経始めて渡る」とあることから、法華系仏教宗派の「法号」を用いる。
 天皇では、聖武天皇が天平勝宝元年(七四九)に孝謙天皇に譲位し、行基から菩薩戒を受戒した(あるいは、天平勝宝六年(七五四)四月に鑑真から受戒したとも)のが初で、聖武天皇は「勝満」、光明皇后は「萬福」、中宮は「徳満」との法号を得たとされる。(『扶桑略記』『濫觴抄』『鑑真和上東征伝』他による)
  『書紀』での一般人の最初の受戒記事は、敏達十三年(五八四)に、司馬達等の娘(斯末売・嶋)らが、蘇我馬子が播磨から招いた還俗僧恵便により得度し、「善信」ほかの法号を授けられている。

(注11)法興王は「王、位を遜きて僧と為り」とあるが、退位は崩御によるから法号を得たのは在位中となる。
◆ (法興王) (在位五一四~五四〇) 王、位を遜きて僧と為り、名を法空と改め、三衣と瓦鉢を念い、志も行いも高遠にして一切を慈悲せり
  (『海東高僧伝』巻第一釈法空条。『三国遺事』巻第三興法、原宗興法条にも同趣旨を記述)
◆ (真興王) (在位五四〇~五七六) 「王、幼年にして柞に即きたれども、一心に仏を奉じ、末年に至り祝髪し浮屠(*仏教徒のこと)と為り、法服を被り自ら法雲と号し、禁戒を受持し三業清浄となり、遂に以て終焉せらる」(『海東高僧伝』巻第一釈法雲条)

(注12)「海西の菩薩天子、重ねて佛法を興す」とは、多利思北孤は「煬帝と同じく(あるいは「より先に」)仏教を興した海東の菩薩天子」だと自称するもの。

(注13)「法興(五九一~六二二)」年号は『光背銘』のほか、聖徳太子に関連する『伊予国風土記逸文』『長光寺縁起』『上宮法王帝説』『聖徳太子傳私記』『太子像胎内納入文書』他に残っている。
➀『伊予国風土記逸文』「伊予温湯碑」(『釈日本紀』巻十四)
◆法興六年(五九六)十月、歳在丙辰。我法王大王、与恵忩(総)法師及葛城臣、逍遥夷与村、正観神井、歎世妙験。欲叙意、聊作碑文一首。(略)

➁『蒲生郡志 長光寺縁起』法興元廿一年壬子の年二月十八日 (*長光寺は滋賀県近江八幡市長光寺町にある聖徳太子建立とされる寺。)

③『上宮法王帝説』釋曰法興元世一年此能不知也

➃『聖徳太子傳私記下』法興寺者(略)其時在法興元世一年號

⑤『聖徳太子伝古今目録抄』法興元世一年

⑥『太子像胎内納入文書』法興元世一年

 なお、『隋書』に「我が弟に委ねん」とあることから、「二年号並列」は「兄弟統治」の現われとする見解がある。ただ、年号を定めることができるのは、あくまで天子・多利思北孤だから、「並行する九州年号」を「弟の年号」とすることはできない。

(注14)
①『海東諸国記』舒明天皇敏達孫名田村元年己丑(六二九)改元聖徳六年甲午(六三四)八月彗星見七年乙未(六三五)改元僧要三月彗星見二年丙申大旱六年庚子(六四〇)改元命

②『襲国偽僭考』舒明天皇元年巳丑(六二九)聖聴元年とす。如是院年代記に聖徳に作る。一説曰舒明帝之時聖聴三年終

③『如是院年代記』「聖徳元」(第三十五代舒明)忍坂大兄皇子之子。敏達之孫。己丑(六二九)即位。

④『麗気記私抄』第卅五代舒明帝治元号聖徳元己丑(六二九)也

⑤『茅窻漫録』聖徳〈舒明帝即位元年己丑紀元、六年終、年代、皇代、暦略、諸国記皆同、古代年號作聖聽〉

⑥『防長寺社由来』舒明天皇之御宇聖徳三歳経七月役小角誕生自聖徳三年辛卯(六三一)

⑦『金峰山寺古年皇代記』舒明天皇聖徳三辛卯(六三一)役小角誕生是縁起ニ見タリトアリ

⑧『講私記』(心鑑抄修要秘訣集)役行者舒明天皇聖徳三年辛卯(六三一)十月二十八日降誕

⑨『長吏由来之記』欽明天皇御宇聴徳三歳辛卯(六三一)年

⑩『園城寺伝記』欽明天皇御宇聖徳三年辛卯(六三一)九月廿日辰尅⑪『君台観左右帳記』聖徳六年戊巳(甲午か)

⑫『箕面寺秘密縁起』役行者・・舒明天皇御宇正徳六年甲午(六三四)春

⑬『役行者本記』(帝王編年記)役小角行者舒明天皇聖徳六年甲午正月(一説に十月)朔日降誕。

(注15)金光六年・賢称五年・鏡當四年・勝照四年・端政五年・告貴七年・願転四年・光元六年・定居七年・倭京五年・仁王十二年・僧要五年・命長七年・常色五年・白雉九年

(注16)◆『三国遺事』(巻第三)真興すなわち徳を継ぎ聖を重ね、袞職こんしょくを承け九五に処り(*「袞職・九五」は天子の座の意味)、威は百僚を率い号令畢(ことごと)く備はる。因って額を大王興輪寺と賜ふ。前王の姓は金氏、出家して法雲といい法空と字す。

(注17)ただし、「法興」と異なり「聖徳」は九州年号史料に数多く見受けられる。また「六年間」というのも九州年号の年数に相応しい。従って利歌彌多弗利は「法皇としての年号」ではなく、天子として九州年号に組み込んだと考えられる。

(注18)南岳禅師(なんがくぜんし 慧思。五一四~五七七)は倭国王子に転生し仏法を興隆し衆生を済度したとする。
➀『大唐国衡州衡山道場釈思禅師七代記』(七一八年書写)「(南岳禅師)所以生倭国之王家、哀預百姓、棟梁三宝」

➁ 『唐大和上東征傳』(七七九)「(*鑑真)答えて曰く、昔聞く、南岳恵思禅師遷化の後、倭国王子に託生し、仏法を興隆し、衆生を済度す」

(注19)九州年号が六一一年に「定居じょうこ」、六一八年に「倭京」と改元され、その間の六一六年には夷邪久国人多数が来朝している。これは、多利思北孤が南方からの隋の脅威を避けるため、都を有明海沿いの筑後あるいは肥後から、北方の太宰府に遷都し、これを祝賀するため、南方諸島の人々が太宰府に来朝したことを示すものと考えられる。その根拠として、『聖徳太子伝暦』推古二十五年(六一七)の「北方遷京」記事があり、これは倭京元年(六一八)の太宰府遷都を示すと考えられる。
◆『聖徳太子伝暦』推古二十五年(六一七)此地を帝都とし、気近けぢかく(*親しむこと)今一百餘歳在り。一百年を竟え、北方に遷京し、三百年の後まで在らん。

(注20)古賀達也『「君が代」の「君」は誰か―倭国王子「利歌彌多弗利」考』古田史学会報三四号一九九九年)

(注21)「(政庁Ⅰ期の)整地層には六世紀後半から末ごろの土器を多く含んでいる(略)。Ⅰ期での大規模な造成工事に伴い、古墳群や丘陵が切り崩されたためにこうした遺物が混入したのであろう」赤司善彦「筑紫の古代山城と太宰府の成立についてー朝倉橘廣庭宮の記憶」(『古代文化』六一巻四号二〇一〇年)
古賀達也「条坊都市の多元性―太宰府と藤原宮の創建年」(『発見された倭京―太宰府都城と官道』古田史学論集二十一集二〇一八年)ほか。

(注22)「難波宮は九州王朝の造成による」との説は古賀達也氏が二〇〇七年に研究会で発表し、『古田史学会報』八十五号に「前期難波宮は九州王朝の副都」(二〇〇八年四月)を投稿して以来多くの論文を発表している。考古学的論点では「前期難波宮の考古学⑴⑵⑶」(古田史学会報一〇二号・一〇三号・一〇八号。二〇一一年~二〇一二年)がある。
拙著では「白雉年間の難波副都建設と評制の創設について」(古田史学会報八十二号。二〇〇七年一〇月)ほか。


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