『古代に真実を求めて』第二集(一九九八年十月 明石書店)へ
難波収
古田武彦さんが一昨年古稀を迎えられ、十二年の教授職を終えて、京都で「生涯探究」のご生活に戻られたことをお慶び申し上げる。そして、これからのご健勝(奥様との)とご研究の進展とをお祈り申し上げる。私は一九九六年十一月下旬に母の他界で不時の帰郷をしたが、そのあと古田さんのお宅に伺って歓談の機を持ち得たのはこの上ない喜びであった。そのとき見せて頂き、またお送り頂いた御本の中に、土佐清水市文化財調査報告書『足摺岬周辺の巨石遺構』があり、そこに古田さんの物理学者顔負けの着想と実行力の結実を見て感嘆した。
日本にはあちこちに大きな石を使った支石墓やストーンサークルなとが知られているが、私は今回は ーー日本古代史と直接の関係はないがーー オランタの「ヒューネベット」と呼ばれる巨石遺跡のことを簡単にお知らせしたい。日本でのオランダ史の書をひもとくと、粗略な古代の記述の中にこの語に出くわすこともあるが、写真の一枚もなく実体は全然わからない。恐らく拙文が初の紹介記事ではなかろうか。
まず写真1を見ていただきたい。これはオランダ東北部のドレンテ(Drenthe)州のボルガー(Borger)という村の外れにある遺跡で、まるで恐竜の化石のように見えるのが、オランダでいう「ヒューネベット」の、例である。Hunebedと書き、終わりの d は清んで t と発音する。複数形はHunebeddenで、ヒューネベッデンと発音する。この例では、二十六個の支石がほぼ東西方向に二列にならび、両端はそれぞれ一個の石で閉じられている。そして九個の扁平な大石がかぶさっている。南側の中央には左右二個ずつの石が門を成している。内部は今はがらんどうで何もない。この例は長さ二二メートルあり、オランダ最大のものである。
オランダにはこのような巨石遺跡ヒューネベットが五十三基現存している。その分布は図1に示す如く、ほとんどが「犬の背中」(Hondsrug ホンツリュッフ)と呼ばれる海抜一〇~三〇メートルのなだらかな丘陵地に集中している。日本の概念からすると、とても丘陵などとは呼べないのだが、東側のグローニンゲン州ならびにドイツとの国境に接する海抜〇メートル或いはそれ以下の低地から見ると、なるほど寝そべった犬の背を連想させる。
これらのヒューネベットには概ね西北から時計回りに一連番号が付けられている。グローニンゲン(Groningen)州には唯一つあって G1、他の全てはドレンテ州にあってD1からD54まで一連の番号が付いている(図1参照)。写真1の例はD27である。但しD33とD48とは痕跡程度で正式のヒューネベットとは最早認められず、リストから除外された。このように失われたヒューネベットは少なくとも三十基を数える。跡形すら留めず消えたヒューネベットもあるに違いない。砂や粘土のオランダでは格好な石材として流用されたのである。現存のヒューネベットは、私有物一基を除き、全ては国有か州有の史跡として保護されており、ドレンテ州のツーリズムの目玉となっている。
「犬の背中」は、三度目の氷河時代リス(Riss)期、別名ザーレ(Saale)期に、大氷河の末端が押してきて形成した砂質の丘陵地で、石は北のスカンディナヴィアから氷河によつて運ばれた花崗岩の漂石である。石質の分析から石のお里が知れるのだそうだ。どの石にも人工的に刻まれた模様は全く見られない。
ヒューネベットには大きさ、形状いろいろあるが、それが墓地であったことは確かである。しかし現在見られる姿は形骸に過ぎない。本来どんな形態だったのであろうか。エンメン(Emmen)市にあるヒューネベットD41が完全な状態で発見された直後にそれを調査した人の報告書の挿絵を図2に示そう。それが今では十四個の石の積み重ねしか残っていない。
図3、写真2、写真3はヒューネベットD49で、半分あまりが復元してある。ほぼ東西方向に一〇メートル余りの半地下の墓室は、漂石の平らな面(氷河と一緒の旅路で削られた面)を内側に向けて並べ、両端はそれぞれ一個の石で塞いである。大石の隙間は小さい石で塞ぎ、なかなか整然と構築してある(D41のスケッチでもわかる)。南側中央に入口がある(入口は本来一個の石で閉じられていた)。この石組み構造を、さらに二十八個の環石が平らな面をこんどは外に向けて、ほぼ楕円形(腎臓の形)にとりまいており、それを外郭として盛り土が施されている。この塚の大きさは長径二〇メートル、短径一〇メートル程である。このヒューネベットは「パーペローゼ・ケルク」(Papeloze Kerk カトリック教徒のいない教会、即ちプロテスタントの教会)と呼ばれている。むかし、プロテスタント信者が禁制をおかしてこの遺跡で隠れた集会を持っていたという。
累々たる列石は、大昔にはミステリーとして、聖書の物語やギリシャ・ローマ神話に結びつけて考えられた。それが、いつ頃からか「ヒューネベット」と呼ばれるようになった(古くはHunnebedと書き「ヒュンネベット」とも言った)。それはどうやら、第四~五世紀にヨーロッパを震憾させたフン族( Hun' 匈奴の一部。オランダ語ではヒュン、複数形ヒューネン、或いはヒュンネン)から来ているようだ。連なった巨石は、野蛮で獰猛な巨人、フン人どものbed 寝床ということらしい。
ヒューネベットが死者を埋葬する塚であると判ったのは、一九世紀に入って学術的な研究が行なわれるようになってからである。ヒューネベット内部の発掘で人骨そのものは発見されていない。しかし図4に例示したような数多くの陪葬土器の中に、漏斗型壷(Trechterbeker)と呼ばれる器があり、オランダではヒューネベットの時代をこれで代表させて「漏斗型壼文化」と呼んでいる(或は「漏斗型土器文化」と呼ぶべきか)。この種の壷や皿や急な直斜面をもつバケツ形の鉢などは、死出の旅に食物や飲み物を供えたもので、火葬した死者の骨片や灰を入れたものではない。首付きの瓶は水筒だったのだろうか。これらの土器の素朴な形は、日本の縄文時代前期の土器に似ている。死者へのお供えとしては、他に火打ち石(フリント)の斧や矢じりや琥珀の装飾品などもある。
ヒューネベットは、例えばフランスはブルターニュ地方で見られるドルメンよりずっと大きく、何人もの死者を葬る集団墓地であることが直ちに推測される。またヒューネベットなしに平地に溝を掘って葬られた死者に一個ないし数個の土器が供えられたのに対して、幾つかのヒューネベットでは数百個という大量の土器が見つかっていることからしても、これが何代にもわたる共同墓地であることが判る。
「漏斗型土器文化」民族の居住の痕跡は、図1に三角形で示したように、二十箇所ほど見つかっており、その多くはヒューネベットの近くにある。当時は気候は既に暖かく広葉樹が繁っていた。多くの集団(大家族単位の?)は、適当に土地を分割し、それぞれ比較的高い乾いた砂地でしかも水に近い場所に住居を建て、程近い畑で麦の類の耕作や牛・豚・羊・山羊などの牧畜を営んでいた。一つ一つの集落(村)はかなりの広さをもつが、はっきりした家の跡は認められておらず、恐らく数年で耕地が痩せると新しい耕地を開拓してそこへ移住したとみられる。その際、ヒューネベットは集団の中心核の役割を果たしたのであろう。村の戸数や人口は判らないが、戸の家は相当大きかったらしい。一千基以上の支石墓が遣っているデンマークには、一戸が八〇乃至一〇〇メートルの長さの家々の遺構があるそうだ。
ヒューネベットの構築には、言うまでもなく智恵と技術と多くのマンパワーが必要である。数トンから二十五トンにも達する大石を運ぶには、ころや木橇が使われた。牛に曳かせたかもしれない。支石を立てるには、まず土砂を盛って穴を堀り、そこへ石を下ろす。支石構造ができると、一旦それを砂で満たして、その上に天井石を移して蓋せる。それから中の土砂を取り除いて墓室を完成させる。床は小さい扁平な石で舗装する。まあ、このように造られたと考えられている。埋葬者で墓室がいっぱいになると、骨はまとめて外に片付けられ、陪葬品は残された。また誰でもがヒューネベットに埋葬されたのではないらしい。こうした大事業を成し遂げるには、集団として、いや民族として、かなり進んだ社会的な組織がなければならぬし、強い祖先崇拝という宗教的な観念がなければならぬ。どんな社会だったのだろうか。
「漏斗型土器文化」の年代は西暦紀元前三五〇〇から二七〇〇年、つまり今から五五〇〇年前から四七〇〇年前まで続いていた。新石器時代の中期から後期にあたる。「漏斗型土器文化」の民が何故、また如何に消え去ったのかは判っていない。図5に「漏斗型土器文化」の広がりと、同時代ヨーロッパの巨石文化の広がりとを比べてみよう。両者の重なっている領域は、オランダのドレンテ州を西限として、ドイツ西北部から北はデンマーク全体を含みスウェーデン南部に、また東はポーランドまで及んでいる。「漏斗型土器文化」の人々は、少し前から流行していた西南ヨーロッパの巨石墓地のことを耳にして、手近な材料を使って永遠の墓所ヒューネベットを造るようになったのだろうか。
紀元前三〇〇〇年頃から始まる新石器時代後期には、ヒューネベットと並んで、小人数を葬るのに石組みを伴わない円形の盛り土の塚が造られるようになり(人口増加か)、例えばドレンテの西北部のヒースの野原の中に「九つ塚」という遺跡を私は見た。こうした塚の構築は中世の一〇世紀まで及んでいる。
農耕民族としてオランダに居住したのは「漏斗型土器文化」民族が最初ではない。彼等が東から(北ドイッから)やって来るより一七〇〇年程前、即ち紀元前五三〇〇年頃には、オランダ東南部のリンブルフ(Limburg)州に東から農耕牧畜の民族が入ってきて、オランダにおける新石器時代の始まりとなったが、この文化は「帯状文様土器」を遺して四百年ほどで俄かに消えている。また当時のリンブルフには、日本での黒曜石と同様な役割を果たしていた火打ち石のヨーロッパ屈指の鉱山があり、石器文化の一中心であった。
私たち家族がドレンテのある村で一週間の夏休みを過ごしたのは一九七一年のことだった。そのとき、私自身の好奇心で、現存ヒューネベットの半数ほどを車で見て回った。その後一九七四年夏には、ブルターニュ半島を巡って数多くの巨石文化の遺跡を眺めた。天文観測と関係のあるらしい列石もある。調べてみたいと思いながら、未だ果たせないでいる。人生の半ば以上を厄介になっているオランダの国土と国民についても、もつと確かに知りたい、巨石文化についても系統的に勉強したい、などと思っている。今回は、風車と木靴とチューリップ以外に、オランダに巨石文化ありと知ってもらいたく敢えて駄筆を弄した。素人の不得要領、ご容赦いただきたい。
(オランダ・ユトレヒト在住)
『古代の真実を求めて』第2集(目次)へ
和田家文書「偽作」説に対する徹底的批判1、2 、3 、 <補(追補)>
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