『古代に真実を求めて』第二集(目次)へ
「学問の方法について」〈歴史学と自然科学との間〉 古田武彦
三 『論語』の史料批判 古田武彦講演記録(歴史のまがり角と出雲弁3)
古田武彦
一
今、わたしは古稀を迎えた。だから、本気で勉学をはじめたい。心の底から、そう思っている。今までは準備期間だった。いわば、徒弟時代、修学以前のときをすごしていたのである。
いろいろ、忙しかった。この世の「義理」があった。もう、ない。ない、と決心して、本気で勉学に専念したい。専修学問の時代がついに来たのである。
昨年、三月三十一日、大学(昭和薬科大学)の定年退職を迎え、すでに一年を経た。その間の「新発見」、それは自分にとって“まばゆい”ほどだ。それは、とりもなおさず、過去の“忙しかった”間、いかに粗忽だったか。じっくり物を考えずにきていたか。その一事を残るくまなく立証している。そう考えて、多くはあやまるまい。
今、学問の方法論と、その具体的な成果の一端にふれてみよう。もちろん、そのはじまり、入口に立って内側にのぞきこんでいる。その程度にとどまること、百も承知なのであるけれども。
二
今を去る、半世紀前。一九四六年の秋、わたしは二十歳、東北大学の日本思想史科の学生だった。文学部だから、卒業論文の「題目」の提出を事務局から求められた。わたしは迷わず、次の題目を提出した。
「August Baeckh の Philologie の方法論について」
その理由は次のようだ。広島(旧制高校)より、笈(きゅう)を負(お)うて仙台に来た。その目的は、村岡典嗣(つねつぐ)先生の下に学問を学ぶ。その一点に尽きた。広島高校の恩師、岡田甫(はじめ)先生から村岡先生へ紹介の書簡がとどき、わたしの到着を待っていてくださった、とのこと。後日、奥様からお聞きした。
しかし、接しえたのは、わずかに“足かけ三カ月”。四月下旬より、六月上旬まで、実質一ヵ月強にすぎなかった。勤労動員、敗戦、広島の原爆投下。広島の自宅に帰り、翌春四月、再び仙台に来たところ、すでに村岡先生は亡き人となっておられた。
「亡師孤独」、この四字がその後の大学生活をおおうたのである。
そのため、生前、村岡先生が常日頃言っておられた一言、
「私の学問は、アウグスト・ベエクの学問です。その方法に基づいています」
これが、その後の大学生活の指針となったのである。すなわち、ベエクの主著、
“Encyklopädie und Methodologie der Philologischen Wissenschaften”。(「フィロロギイ学のエンサイクロペディアと方法論」)を読み、その方法論を紹介し、もって日本思想史学の根本を樹立する。これが先生の遺志に応える道。そう信じたのであった。
三
けれども、翌年の秋、九月。思いがけぬ障害が現れた。事務局から呼び出しがあり、「日本思想史らしい題目に変えるように」との指示があったのである。
心外だった。しかし、溶(い)れられず、その「指導」という名の“命”に従うほかなかった。村岡先生亡き、悲哀を痛感した。
「大学教授」の職を終えた今、考えてみると、日本思想史の学生の論文審査を依頼された教授方(国文学・仏教学)の「杞憂きゆう」にすぎなかった、と思えるのだけれど、当時のわたしにとって、結局“通過しがたき関門”となった。
もはや、卒業論文の提出まで、数力月もない。別のテーマをえらんで、じっくり研究する時間など、全く残されていない。
そこで、窮余の一策。広島時代から“なじんで”きた、道元について、一テーマをめぐり、“物語風”に仕立てて、もって(「論文に非ざる」ものを)「論文」に代える。この方針を立てた。
“こんな短期間に、研究論文なんて、書けますか”という、精いっぱいの皮肉、一種の青年らしい抵抗の表現なのであった。
四
「道元における、利他思想の徹底」
これが、新しい題目だった。年明けて、間もなく行われた論文審査は、無事通過したけれど、わたしの中に“通過せぬ”テーマがあった。それが、先述のベエクの著述の研究である。
半世紀間、怠けに怠けつづけてきた。そして今、ようやくこの、宿願の一書に立ちむかう、そのときが来たのである。
五
この勉学をすすめる上で、二つの格率がある。
その一つ。なるべく、ゆっくりと読む。遅々としてぺージをめくる。これが肝要だ。なぜなら、忙しく読むこと、それには、もう倦(あ)きた。粗忽のもとだ。一字を辞書で引いて、一時間考える。一文を認識し終って一日考える。このぺースで行きたい。習学が未完で終わることを恐れてはいけない。どうせ、一人の人生など、未完に決まっている。もっとも、この本全体は、くりかえし眺める。ぺージをめくりつづける。それは、当然のことだ。だが、本質は、遅々としてすすむこと、この一点が肝心だ。
その二つ。読みまちがい、を恐れぬこと。ベエク先生の意図をありのままに読みとる。それは、もちろん重要だ。フィロロギイの真髄、学問の骨子と言っていい。これは、のちに村岡先生の言として敷衍(ふえん)する通りだ。
だが、今は、さらに踏み出してみたい。ずっと、深く、降りてみたい。先にのべたように、一字・一字と対面しつづけるうち、或いは、原著者、ベエク先生の思わざる領域、思わざる深読み、とんでもない誤読へと足を踏み入れるかもしれぬ。それを恐れない。
親鸞は、誤読の達人だった。
たとえば、論語の原文は次のようだ。
「季路問事鬼神。子曰、不能事人、焉能事鬼神。」
通例、左のように読まれている。
「季路、鬼神に事つかうるを問う。子曰く、人に事つかうること能わず。焉いずくんぞ鬼神に事つかえんや。」
季路が孔子に問うた。「鬼神に事つかえる」には、どうしたらいいか、と。彼にとって孔子は「礼の大家」だ。
たとえば、先進篇で、求(再有)が「礼楽」の必要なき小領域
(「方、六・七十(里)」乃至「五・六十(里)」)
において、己が適地を求めん、とのべたのに対し、孔子がこれをたしなめ、いかなる小領域でも、組織のある限り、「邦」であり、「礼楽」は不可欠、として追求した、あのエピソードにも、孔子の面目が見られよう。(この小領域の広さについて、ここの「里」が長里か短里かによって、右の状況設定に大差の生ずること、すでにのべた。)(1)
そのような孔子だから、季路は右のような問いを発したのである。しかしながら、孔子は、この問いに対して正面から立ち向かうことを避けた。
「まだわたしたちは、人に対する事え方すら、会得できていない。それなのに“鬼神に事える”あり方なんぞ、とても、とても」と言うのだ。この「わたしたち」を「お前は」と言い直しても、いい。季路には、そう聞こえたであろう。
この一文に対しても、論語の各篇に対してと同様、古来、種々の論説・注解がなされているであろうけれど、その解説の主流はやはり「人に事える」こと、この一事の重大さを説いたもの、その点に孔子の真意を見る。 ーーそこに理解の中心があったのではなかろうか。
しかし、今のわたしの目には、別の側面が見える。孔子は「前五五一~前四七九」の人とされているから、約七十歳頃まで生きたこととなろう。つまり、現在のわたしと同年齢だ。だから、右の問答は、それより“若い”時期の一こまということになろう。
そう思ってみると、この問答で、孔子は明らかに「避けている」ようである。何を。もちろん「鬼神に事える」という、肝心の問いを。
もちろん、「人」に事えることは重要であろう。それは当然「現代」つまり、「周の人」だ。「鬼神」とは、何か。「周以前より、伝来し、伝承された神々」だ。「人」に事えることが“完了”したあと、余分なものとして、取り組めばいい、そんなものではなかろう。
これに対し、現代人は「孔子の人間主義」といった美名を付して評価しようとするかもしれぬ。それは、現代風の“好み”にすぎまい。今は、簡明に、わたしの目に見えるものを言おう。
孔子にとって、周の天子を中心とする、周の大義、これが原点だった。これを「礼楽」と称した。これを問われれば、もちろん答えた。先の“求”のケースのように、当人が回避しようとしても、許さず追求した。
しかし、「鬼神」とは何か。決して、周の天子の制定による、制度的存在ではない。当然、周より前、すなわち「夏・殷、以前」の存在なのである。「夏」「殷」といった「国家」の中に“収め切れなかった”存在、すなわち民衆の中に、深く遠く根ざしていたものだったのである。
これに比すれば、西方(シルク・ロード入口)から、匈奴・鮮卑たちに追われて、殷の天子に亡命を求めて許され、やがてその大恩ある殷に反逆して「天子」を称した「周」など、その制度など、明らかに「侵略者の新制」「忘恩者の侵制」に他ならなかった。
しかし、孔子の「学」は、「周の礼節」を絶対至上としたため、右のような歴史の真相を指摘することは、決してなかったのである。
いわんや、その「夏・殷以前」の「先夏文明」に根ざすべき「鬼神」などとは。孔子が季路の問いを“避け”ようとしたのは、極めて賢明だったと言わねばならぬ。ここで「賢明」とは、一方では“己を知る”こと、他方では“視野の狭窄”をしめす。
六
親鸞は、孔子の“苦渋”も“賢明さ”も、無視した。むしろ、そのような“技法”は、親鸞の資質に合わなかった、といっていい。そこで、大胆に誤読した。
「論語に云う、季路問はく、鬼神に事へむかと。子の曰く、事うること能わず。人焉んぞ能く鬼神に事へむやと。」(教行信証、化土文類末)
親鸞のライフ・ワークたる教行信証の「本文」の末尾、それは何と、右の論語の一節で閉じられているのである。
しかも、誤読によって、明快な「鬼神に事える」ことの否定を“読み取り”、自家の専修念仏ひとすじ論への「援軍」としたのであった。
わたしは、親鸞ではない。フィロロギイの道を歩む者である。眼前の文面の「本来の姿」「真実(リアル)な姿」を捉えようとする。当然だ。当然だが、その上でなお考える。あえて、誤読を恐れまい、と。問題は、より“深く”誤読するか、それとも、より“浅く”誤読するか、それが問題だ。
右の親鸞の論語誤解は、いわば御愛嬌、教行信証全体にとって、枝葉というべきテーマにすぎないけれど、親鸞思想の本質をしめす一大誤読がある。大無量寿経の中心とされる、十八願に対する、根本テーマ「逆謗闡提ぎゃくぼうせんだい」問題だ。この一点の「誤読」を通して、親鸞は、聖なる経典を“越える”認識を獲得したのである。改めて触れることがあろう。(『失われた日本』原書房、参照)
ともあれ、今のわたしは、ベエクが一語るところから十を得、十語るところから百を得たいと思う。そのさい、決して「誤読」を恐れまい、と思うのである。
地下のベエク先生は、このようなわたしの読み方を、莞爾(かんじ)として寛容してくださることであろう。先生は一八六七年、ベルリンに没した。一七八五年、カールスルーエに生れた、とあるから、八十二歳。かなりの長寿の中で学問的生涯を終えたようである。おそらく、没後百三十年にして、東洋の果ての国に、わたしのような愛読者、そして熟読玩味の徒の出づること、けだし予想もされなかったところではなかろうか。人の寿命は短く、書物のいのちは永いのである。
七
村岡先生は言った。
「フィロロギイとは、認識せられたものの認識です。“認識せられたもの”とは、人間が行なったこと、触れたこと、知ったこと、それらのことです。それらのすべてが、人間によって“認識せられたもの”なのです。それらを“再び認識する”こと、それがフィロロギイです」
こう語った。講義において、研究室において。先輩の梅沢伊勢三さん(助手)や原田隆吉さん(上級生)も、同じように聞いておられたのだった。
さらに、村岡先生は言った。
「だから、対象は文献だけではありません。絵画も、建築物も、考古遺物も、人間の認識したものはすべて、この学問、フィロロギイの対象です。しかし、わたしはその中の、文献だけしか扱っていません」
本来のフィロロギイの、学問としての研究対象が、きわめて広汎であること、しかしながら、現在の自分にできうるのは、その中の一つ、文献にだけ限られていること、それをつつましやかに、かつ明嚇に語られたのであった。
わたしは、それを聞いた。十八歳の春であった。魂に沁(し)みた。
八
ベエクの主著は、次の二篇に分かれている。
第一篇、フィロロギイ学の、形式としての理論
第二篇、古代研究の、資料としての分野
右の「形式」に当たる言葉は。“Formal”、「資料」に当たる言葉は“Material”が用いられている。
ギリシア哲学において、一個の実体を「形相」と「質量」に二分して考察する、その伝統的術語だ。ベエクの学問観は、ソクラテス・プラトン・アリストテレス等の哲学的概念を背景にしていることが、明瞭にうかがえよう。
その第一篇は、さらに次の二章に分かれている。
第一章、解釈学の理論
第二章、批判の理論
その第一章において、フィロロギイの学問としての性格を論じている。そのさい、哲学と比較し、両者の共通点と差異点が指摘せられる。
哲学が、「愛知学」“Philsophie”として、諸方面に分岐し、専門化した各領域の学問の根元にして、その統轄かつ者の地位に立つ、と評されているのと似て、フィロロギイも、あらゆる「人間の認識」が、学問の対象とされている。いわば、諸学問を統轄する“百科全書”のような位置に立っているのである。
けれども、それは決してそれらの諸領域の認識“寄せ集め”ではない。そのためにこそ、フィロロギイ成立のための根元をなす、一定の「概念」。“Begriff”の存在が不可欠とされるのである。
ベエクは言う。
「要するに、自然と精神、もしくはその展開が“歴史”である。それは、すべての認識の普遍的な材料となっている。」〈p4〉
従ってベエクにとって、フィロロギイの対象は「古代」に限らない。むしろ、「古代」「近代」といった区分は、本質的に“気まぐれな”ものだ、とさえ断言している。
空間的にも、当然同様だ。
第二篇のIIIで、具体的な分析を展開しているけれど、「礼拝と礼拝式」といった宗教的テーマと共に、「体育」「音楽」「戯曲」「絵画」など、各テーマが表題として掲げられている。それらは皆、「人間の認識」の表現だからである。
さらに、IVでは、ギリシアやローマの文学史がとりあげられ、「歴史的散文」や「哲学的散文」「雄弁家の(修辞的)散文」等の項目が並ぶ。そして最後は「歴史的様式(文体)論」に及んでいる。
人は疑うであろう。“こんなに、風呂敷を拡げたのでは、七~八百ページの書物の中に入り切らないのではないか。たとえ、入ったとしても、その一つ、ひとつは、まことに大ざっぱなもの、としかならないのではないか”と。
まことに、もっともな疑いだ。これから、ゆっくりと、一ページずつ、否、一行ずつ、一句ずつ読みすすむ中で、“お手並み拝見”と、ゆく他はない。他はないけれど、今まで読んだ中で、一つの「予想」は立つ。誤読を恐れず、わたしの考えをのべてみよう。
十七世紀から十九世紀へ、ヨーロッパの学問は、疾風怒涛のような発展をとげていった。その発展とは、すなわち、「分化」であり、「専門化」であった。それはまことに、すばらしい“成果”であった。
あったけれども、ベエクの目には、その“成果”の反面の一大欠陥が見えていたのではあるまいか。それは、何か。
「細分化によって、全体像が見失われる」
この一点ではなかっただろうか。「全体」とは、“部分部分の寄せ集め”ではない。逆に、「部分」とは“全体の一表現”なのである。
ベエクが「部分」“Theile”という単語をくりかえして用いた上、それらの“寄せ集め”ではなく、一個の「概念」“Begriff”「に基づくべきこと、それへと達すべきことを、力説し、強調していること、その真意は、右の欠陥の克服を目指したのではなかろうか。わたしは、そう考えた。
九
もちろん、ベエクは万能ではない。右のように、フィロロギイの本質を思惟し、規定したからといって、その学問の実行が、宇宙と自然と人生の万般に及びえたはずはない。当然、その一部を“自己の主張”の一サンプルとして実行しえたにとどまるであろう。
ベエクの場合、その得意とした中心領域は、ギリシア・ローマの文学史であったように見える。この本の項目を概観する限り、そうだ。当然、そこにはギリシア語やラテン語の用語が散りばめられている。それどころか、それらはすでに最初から散見する。
わたしはかつて、東北大学に入学したとき、村岡先生に問うた。
「単位は、何を取ったらいいですか」
先生は答えた。
「何でも、いいです。ただ、ギリシア語だけは取ってください」
十八歳のわたしは驚いた。日本思想史で、なぜ、ギリシア語、と思ったのだ。だが、先生の金言、ギリシア語とラテン語を取った。『アミエルの日記』(岩波文庫)などの翻訳で知られた河野与一先生、「語学の天才」と言われた方だった。
たいした勉強をしたわけではないけれど、好きなことは、滅法、好き。定年退職でやめるとき、学校側(一般教養はじめ、全校の先生方、事務の方々)から『イリヤッド・オデッセイ』オックスフォード版のギリシア語原文(全)をいただいた。
「多元的古代・関東」の会からは『プラトン全集』オックスフォード版のギリシア語原文(全)をいただいた。いずれも、わたしの“勉学の再出発”のためである。“要望”させていただいた。だから、ベエクの書物の中に、ギリシア語やラテン語の単語が出てきても、“待ってました”という感じで、辞書にとり組む。楽しい。
村岡先生は、すでに半世紀前、今日のわたしの必要を“予知”しておられたのであろうか。先生の視野ははるかに、一個のわたしの人生をおおうている。
十
早速、わたしの実行に入ろう。アジアにおける、フィロロギイ学の実行だ。中国と日本の歴史の探求である。
司馬遷の史記、この天下の名著の冒頭部、夏紀の末尾に、次の著名な一節がある。
「虞夏の時より、貢賦備わる。或いは言う、禹、諸侯を江南に会し、計功して崩ず。因りて焉ここに葬る。命じて会稽と曰いう。会稽は、会計なり。」
ここに書かれているポイント、それを左に列記してみよう。
第一、夏王朝(虞夏)の時から、貢賦の制がととのった。
第二、或いは、次のように言われている。夏王朝の始祖、禹は諸侯を、この江南の地に集会せしめた。
第三、その直後、ここで死んだので、ここに葬った。
第四、そこで、この山に命名して「会稽」と言うことにした。
第五、「会稽」とは、「会計」のことである。
右の五項目中の問題点を記そう。
第一に述べるところは、「夏王朝」という、黄河文明の筆頭をなす王朝において、はじめて「黄河中心の貢納制度」が完備した、と称しているのだ。
このような「大前提」に立ちながら、「或いは言う」と前置きして述べるところ、きわめて“アン・リーズナブル”(不道理)である。なぜなら、黄河流域に非ず、揚子江下流域以南、すなわち「江南」こそ“夏王朝、貢賦制の淵原”の地であるかのごとき、筆法をしめしているからである(禹は「西夷」の人と伝えられ、蜀(四川省波川県)の出身である、とされている。蜀王本紀等)。
もちろん、そこには次の三点が力説されている。
(1) 禹がここ(江南、会稽山の地)に天下の諸侯を集めたこと。
(2) そこで彼は、諸侯の「計功」(功績を計る)を行った。
(3) 彼はここで死んだ。そしてこの山上に葬られた。
しかし、不審だ。なぜなら、「天下の諸侯を集める」のに、どうしてこんな“へんぴ”なところ、中国全土、ことに夏王朝の中心をなす黄河領域から遠く“かけはなれ”た、ここ会稽山などに集めねばならぬのであろうか。
その上、彼がここで行なったことは「計功」だという。いわば、“手柄を立てた配下の人々への表彰と叙勲、授領の類”だ。それを一回行なったからといって、それにちなんでその「山名」が新たにつけられる、というのは、いかにもわざとらしい。不自然である。さらに、「会稽」の「稽」とは、「稽古」という術語もあるように、“古の歴史や由来を深く考える”といった、いわば宗教的・政治的・道徳的な意味合いと響きをもつ動詞である。従って“戦功や策略の成功などを計り、彼らを叙勲・表彰する”といった内容にふさわしい「計功」などの用語とは、おのずから意義と用語の奥行きを異にしている。
もし、その真意が「会計」にあるならば、そのまま「会計山」と命名すれば、よいはずではあるまいか。そうすれば、司馬遷による“言い換え”的解説、注言の類は一切不要なのである。
十一
では、歴史の真相は何か。
わたしたちは、すでに知っている。
ここ江南の地、会稽山の周辺は、絢爛(けんらん)たる古代文明発祥の地、その一源泉であったことを。すなわち、放射能年代の上限、六六〇〇年前をしめす、河姆渡(かもと)遺跡がこれである。壮大な水稲稲作文明が堅牢な土木工事をともなって構築され、石[王夬]([王夬]状耳飾り。多くは日本列島に分布)を伴なう壮麗な古代文明中枢がここに存在したことを明瞭にしめしていた。会稽山周縁の地である。
石[王夬]の[王夬]は、JIS第3水準ユニコード73A6
一方、司馬遷が史記の冒頭に記した夏・殷・周の中国文明は、四千年前(BC二〇〇〇~一〇〇〇の間(2) )以降である。
従って“新しき王朝建立者”となった禹が、当地、会稽山に来たったとき、それはすでに二~三千年をさかのぼる、悠遠なる歴史の由緒深き一大古代文明の故都の地へと訪れたこととなろう。
しかもそのとき、黄河流域(河南省禹県。洛陽の東南に当たる)から「南下」してきた禹は、おそらく揚子江流域になき“一大利点”を有していたと思われる。それは、金属製の武器だ。
銅文明は、トルコでは紀元前数千年にさかのぼる、という。その結果、前三、四千年には、黒海沿岸・カスピ海北岸部・バルト海沿岸に銅と金の文明が伝播し、繁栄していた。そこを南下すればすなわち、中国の黄河領域である。そこは豊富なる水脈・豊醇なる沃野・多大の人口を支えうる大河領域だ。だからこそ、金属器文明のノウハウがここに到達したとき、従来になき一大爆発を生じた。その発端が夏王朝であった。
一方、すでに揚子江文明は、豊穣なる先進文明圏を形成していた。豊富な水量と共に温暖なる気候に恵まれ、黄河流域に作しがたかった水稲一大文明をいち早く形成しえたからである。
これに対する、金属器をもつ黄河文明なる夏王朝の征服、それが「禹が会稽山に来た」ことの意味ではなかったか。わたしはそう考える(もし、「禹」一個人を架空と見なしたとしても、夏王朝さらに殷王朝が金属器文明の始源文明であったことを否定する論者は、ありえない)。
以上は、わたしの考察による全体像であるけれど、確実な一点、それは、
「禹(黄河文明側)の到達以前に、江南には一大先進文明圏が先存した」
この一点だ。これはすでに疑いえぬ史実である。
しかし、司馬遷はこの史実を無視した。「夏王朝以前」の江南の歴史を記さなかった。それは、たまたま彼が、その知識を“欠いて”いたためか。さに非ず。それは史記という歴史書のもつ本質にして、一般的限界であった。
その第一は、黄河領域においても、半坡(はんぱ)文明のような「夏王朝以前」の先進文明には筆が及ばなかった。いわんやシルクロードの方向、向西(河西)回廊をめぐる玉文明、青海・甘粛・新彊に及ぶ一大先進文明に対しても、一切筆を向けなかった。ために、後進の黄河文明たる「夏王朝以降」、なぜ「玉」が天子のシンボルとなりえたか、という肝心の一点に対する解明をついに不可能にさせているのである。
その第二は、右にもすでにしめされているごとく、「黄河文明以外」の地に対する、無視乃至軽視である。彼の壮麗なる揚子江文明の馬王堆に関し、いかに史記の語ること少なきか。人々を一驚せしめたのは、このためである。近年発掘された、長江上流の古代文明(三星堆等)に関しても、同じだ。
以上のような、史記のもつ一大欠落は偶然生じたものではない。それをしめすもの、それは、論語に現われた、次の一言だ。
「禹は吾れ間然すること無し。」〈泰伯〉
「夏の時を行ない、殷の輅ろに乗り、周の冕べんを服し、(後略)」〈衛霊公〉
右の文言はしめしている。
「夏・殷・周王朝“以前”にも、“以外”にも、先進文明は存在せぬ。」
これが中華思想の骨髄をなすイデオロギーだ。このイデオロギー、すなわち儒教思想を「国教」とした漢王朝の「正史」として、史記は成立した。右の一大欠落が偶然ではなかったことが知られよう。
人類の名著としての、史記の名声は、右の一大欠落の存在を、多くの人々に“忘れ”させた。少なくとも、史記に対する史料批判の基礎をここに置く、その必要不可欠性を忘却させたのである。
十二
この史料批判の立場から、問題の「禹の死亡」記事を分析しよう。
第一、萬が江南の地、会稽山の近辺で死んだ。これが基本の史実である。
第二、右にのべたように、当地は「先夏文明」の中枢地であった。
第三、それゆえにこそ、禹は当地を“侵略と征服”の対象としたのである。
第四、右の「先夏文明」時代、当地(会稽山近辺、河姆渡)の中心権力者は、ここ(会稽山)に地方の中・小権力者を招集するを常とした。
第五、それゆえこの山(苗〈びょう〉山)に対し、「会合して古を稽かんがみる」という、蒼古たる政治地名を付した。祖先崇敬の聖地である。従ってその「会合」と「稽古」の中心人物は、当然、当地(河姆渡近辺)の代々の権力者、A1・A2・A3・・・・AXである。
第六、史記は、このA1・A2・A3・・・・AXを削り、主体を侵入者「禹」に“切り換え”た。江南の人物群を、河南の人物へと「主語」を換骨奪胎したのである。
第七、「先夏文明の中枢地」たる、この会稽山に、征服者たる「夏王朝の始祖」の禹の墓を築いたのは、「河南による征服完成の証」であった。
第八、従って「会稽」ならぬ「会計」、すなわち“征服のために活躍した配下に対する論功行賞”がここで行なわれた、という伝承は、きわめて真実(リアル)であると言えよう。
以上が、わたしの分析だ。
十三
かつてわたしは、日本書紀の景行紀を分析した。景行天皇が東部九州(豊前)や南部九州(薩摩)を征服し、周行した、というこの説話は、いかにも“とってつけた”ていのものだった。数々の矛盾点が目だった。ところがこれを、「筑前の征服者」に「主語」を置き換えると、俄然、文脈が生きかえる。数々の矛盾点は消え去り、それらの「矛盾」が逆に生き生きとした真実性(リアリティ)をもち始めるのである。たとえば、「筑前の空白」問題、九州討伐に行きながら、なぜ中枢の筑前に立ち寄らぬのか、という疑問。「九州西部歓待」問題、“大和”から来た征服者が、なぜ西部(肥後や筑後)で歓待を受けながら、東部(豊前)が未征服なのか、という疑問、等々である。『失われた九州王朝』(現在、朝日文庫)に記した通りだ。
さらに近年、記・紀の倭建命説話を分析するうち、そのほとんどが「現地説話」からの換骨奪胎であり、「現地の英雄」を倭建命へと「主語」を取り換えることによって「成立」していることを知った。「神話乃至説話の盗用」である。
以上のような認識を獲得していたわたしであったから、今回、史記への分析の中で、
「司馬遷よ、お前もか」
の歎を深くする他はなかったのである。
十四
わたしはすでに、二回、会稽山を訪れた。山高五十メートル前後、平凡な一丘陵だった。あの有名な“会稽山”の名にふさわしからぬもの、とも見えよう。
しかし、さに非ず。この地の中心権力者が中・小権力者を「会集」せしむるには、格好の地なのである。その理由は、
〈その一〉高峻の地では、中・高年乃至老年の権力者にとって“登頂”しにくい。
〈その二〉頂上部で「会合」中の諸権力者を“守衛”するためには、広大な裾野をもつ一大丘陵では不適切である。
〈その三〉「小」なりとも、周辺の平野部が“見下せる”程度の“高さ”が“権力者会合の場”にとって、似つかわしい。
一見平凡な、小丘陵地「苗山」は、右の諸点を十分に兼ねそなえているのであった。
十五
このような、旧来の権力者にとっての「聖地」を“ふみにじ”り、その頂上に新権力者、すなわち黄河領域からの“侵入者”たる、禹の墓を築くこと、これもいわば「侵略者の常」である。
たとえば、近畿のいわゆる「天皇陵」古墳群、その広大な敷地の「下」には何があったか。これが問題だ。(3)
奈良県の「イトクノモリ」と呼ばれるところ、そこにある前方後円墳の下から“”土器と石器“”のみの墓が見出されたという。当時、それを「殉葬墓」(陪塚)と解したけれど、現在の「陪塚」理解ではその解釈は成り立たない。実は、弥生墓(もしくは縄文墓)の「上」に、前方後円墳が建てられていたのである。
“九州からの侵入者”であった天皇家は、「弥生以前」の聖域の「上」に、次々とあの前方後円墳を建てていったのではあるまいか。
一般にも、古墳の下に弥生墓あり、弥生墓の下に縄文の領域が横たわる。このような累積の存在すること、発掘担当者の熟知するところだ。だが、その境界問題、すなわち「両時間層間のかかわり」の歴史的意義いかんの探究こそ、今後の興味深い研究領域となるのではあるまいか。
その点、この「会稽山上の禹家」問題には、興味深い根源のテーマが隠されているように思われる。(4)
十六
「禹以前」の世界をうかがうべき、さらに興味深い一節が、史記の「五帝紀」に存在する。
「(舜)以御魑魅。
以て魑魅ちみを御す。」
この「魑魅」について、従来、
「人面獣身四足」〈服虔けん、後漢注〉
といった注釈がなされているけれど、先に孔子が、
「焉んぞ鬼神に事えんや。」
と言った、「鬼神」に類する存在がこれなのではあるまいか。
この点、興味深いのは、次の一点だ。
わが国の古事記・日本書紀において、神聖なるものを「かみ」と呼ぶこと、周知のごとくである。「かも」「かみ」と、共通する接頭語が「か」であるのに対し、“神聖なる存在”の語幹は「み」である。
いざなぎ・いざなみ
とあるように、「女神」に当たるもの、それが「み」だ。縄文は女神中心の時代であった。縄文土偶がほとんど“女性”(乳房をもつ)であることがそれをしめす。
記・紀には、もう一つの「神の呼び名」がある。「ち」だ。
あしなづち・てなづち・やまたのをろち・おほなむち
などの「ち」。これもまた、神を意味する、もう一つの言語世界の表現であること、記紀研究界周知のところである(梅沢伊勢三氏等の研究による)。
東海(東シナ海)を間にはさんで、両岸に共通の「ち・み」がある。神々を指す言葉が一致しているのである。これは果たして偶然であろうか。
「先夏文明」としての江南・河姆渡遺跡から「石[王夬]」([王夬]状耳飾り)が出土している。上海・南京等に及ぶ「石[石夬]文明」だ。
一方、この「石[王夬]」([王夬]状耳飾り)は、縄文時代の日本列島内に広く分布している。
この中国と日本列島にまたがる「石[王夬]文明」の人々は、自分たちの神的存在を一体何と呼んでいたのであろうか。
その両地が「共通の、神への呼び名」をもっていたとしても、何の不可思議もないであろう。
わたしたちは、孔子が触れることを避けた「鬼神の時代」、史記が“御し去った”結果のみしか記さなかった「魑魅の世界」、「夏・殷・周以前」の古代信仰文明世界。その探究の入口に新たに立つこととなったようである。
十七
フィロロギイ学は「人間の認識の再認識」である。「史記」という一個の史書は、「漢王朝の認識」の表現である。すなわち儒教を国教とするという、「公的認識」の中から生み出された「公的史書」である。この点、司馬遷という個人の偉大さをいかに賛美するにせよ、いささかも無視乃至軽視さるべき問題ではないであろう。
いいかえれば、「儒教的認識の中の史記」という基本性格が存在し、その一点こそ史記に対する史料批判の根源とならねばならぬ。
その基本性格のため、あえて史実より「カット」されたり、「換骨奪胎」された、重大な史実の存在の有無、これがフィロロギイ学の視野の及ぶべき重要領域である。
ベエクは、先述のように、その主著の末尾を「歴史的様式(文体)論」を以て結んでいるけれども、その視野と分析の手は、ギリシア古典のしめす、いかなる領域へと及んでいるのであろうか。楽しみだ。
雑事に追われることなき、或いは少なき、今の境遇を楽しみつつ、ベエク先生の論ずるところ、論ぜざるところ、その一行・半句を朝夕に熟読玩味させていただきたいと思う。そしてその半途の道すがら、このいのちを終えんこと、それを無上の幸としたい。(5)
一九九七・四月十二日 夜半 記了
(注)
(1) 長里=約四三五メートル、短里=約七七メートル(谷本茂・古田武彦『古代史の「ゆがみ」を正す』新泉社刊、参照)。
(2) 通例の理解では、夏(BC二〇〇〇~一五〇〇)殷(BC一五〇〇~一一三四)周(BC一一三四~一五〇)のようであるが、もし「夏・殷」を「二倍年暦の時代」と見なすときは、夏王朝・殷王朝の「時限」は、当然「二分の一」に短縮されよう。(この件については、別述する)
(3) 古田「天皇陵の史料批判」(『天皇陵を発掘せよ』三一新書、共著)参照
(4) 会稽山は、「先夏文明」における遠祖の聖地だった可能性があろう。
(5) 一九九七年三月十六日午前、博多のホテル(天神センターホテル)で中小路駿逸氏と対話中、氏から「禹は江南の豪族ではないか」との御意見をお聞きした。この一言から、本稿末尾の「禹」に関するテーマが出発した。特記して、氏に深謝したい。
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