『古代に真実を求めて』第七集
「楽府」の成立 -- 「来目歌」から「久米舞」へ 冨川ケイ子

大宝律令の中の九州王朝 泥憲和(古田史学会報68号)

十五太宰府の素性 ーー 『宋書』をめぐって 『邪馬一国への道標』(古田武彦)

九州王朝の「楽府」

神武歌謡の史料批判

古賀達也

はじめに --冨川論考によせて

 『隋書』イ妥国伝によれば、九州王朝では朝廷儀礼として「楽」が演奏されていたとされる。「其の王、朝会には必ず儀仗を陳設し、其の国の楽を奏す。」とある通りだ。また、楽の演奏にあたっては五弦の琴と笛が用いられていることも記されている。これらの記事から、九州王朝では「楽」が重要な位置を占めていたことが推察できることから、恐らくは宮廷雅楽を司る雅楽寮に相当する部署があっであろうこと、想像に難くない。
     イ妥国のイ妥(たい)は、人偏に妥。ユニコード番号4FCO

 近畿天皇家においては、『養老律令』によれば治部省下に雅楽寮がおかれ、その概要を知ることができるが、九州王朝における同様の組織・官職など今となっては知ることは不可能と考えてきた。ところが冨川ケイ子氏 注(1) により『日本書紀』神武紀に見える「楽府」は九州王朝のものではないかという仮説が発表された。注(2)
 その根拠は、近畿天皇家の舞楽に関する役所は雅楽寮であり、楽府ではないという点であった。この仮説の場合、『日本書紀』編纂者が雅楽寮を楽府と書き換えたとする従来説(注(3) よりも説得力があるものの、論証上いま一つ決定力不足の感があった。しかしながら魅力的な仮説でもあり、検討を続けた結果、冨川仮説は成立するという結論に達した。ここに報告し、読者のご批判を賜りたい。

 

 一  『古事記』と『日本書紀』の神武歌謡

 冨川氏が指摘された楽府とは神武紀の次の記事に見える。

 「宇陀うだの 高城たかぎに 鴫罠しぎなわ張る 我が待つや 鴫は障さやらず いすくはし 鯨くじらさやり 前妻が 肴乞はさば 立蕎たちそばの 実の無なけくを こきしひゑね 後妻うわなりが 肴こはさば いちさかき 実の多けくを こきだひゑね
 是これを来目くめ歌と謂ふ。今、楽府に此の歌を奏うたふときには、猶なほ手量たはかりの大きさ小ささ、及び音声の巨ふとさ細さ有り。此これいにしえの遺式なり。」(『日本書紀』神武天皇即位前紀)

 古田武彦氏によれば、この歌は本来は神武らの故郷、糸島半島の宇田川原における鯨の身の分配の歌で、神武らが大和盆地に侵入する時、故郷と同じ地名の宇陀に遭遇して歌った、いわば「糸島カラオケ」であるとされた。注(4)  「今、楽府に此の歌を奏うたふとき」とあるように、従来説のようにこの「今」を『日本書紀』編纂時の八世紀初頭とした場合、大和朝廷内部の「楽府」でこの来目歌が伝承されたと解することになる。しかし、冨川氏が指摘されたように、同じく八世紀初頭に設立した『養老律令』に楽府はなく、あるのは雅楽寮であることから、楽府は雅楽寮のことと理解せざるを得なくなるのである。しかし、この歌は大和朝廷内部で正確に伝承された来たとは考えにくい。なぜなら、『古事記』にはこの歌謡が次のように記されているからだ。

「宇陀うだの 高城たかぎに 鴫罠しぎなわ張る 我が待つや 鴫は障さわらず いすくはし 鯨くじらさやる 前妻こなみが 肴乞なこはさば 立蕎たちそばの 実の無けくを こきしひゑね 後妻うわなりが 肴こはさば いちさかき 実の多けくを こきだひゑね ええ
 しやごしや 此はいのごうぞ。 ああしやごしや 此は嘲あざわらふぞ。」(『古事記』神武記)

 歌の大部分は『日本書紀』と同様だが 注(5)、『日本書紀』にはない囃し言葉と思われる次の部分におかしな現象が見えるのだ。

 ええ しやごしや 此はいのごうぞ。 ああ しやごしや 此は嘲あざ咲わらふぞ。

 囃し言葉の「ええ しやごしや」と「ああ しやごしや」の後に、その言葉の解説である「此はいのごうぞ」「此は嘲あざわらふぞ」が歌の一部として記されているのである。この史料状況は、『古事記』編纂時に大和朝廷内部ではこの来目歌の歌詞が理解されておらず、どこからか入手した囃し言葉とその解説文付きの歌謡史料をそのまま歌本文と誤解して引用した、恐らくは盗用した結果生じた現象と考えざるを得ないのである。注(6)
 すなわち、大和朝廷はこの来目歌を伝承していなかった。少なくとも囃し言葉の意味を理解できず、かつその説明文さえも歌詞ではなく説明文であることを理解できていなかった。したがって、もし『古事記』や『日本書紀』編纂時に大和朝廷内部の雅楽寮で奏じていたのなら、こうした現象が発生するとは考えにくく、やはり神武紀の「今の楽府」とは大和朝廷ではなく九州王朝の楽府であったと考えるべきであろう。
 そうすると、『日本書紀』に盗用された歌謡史料は歌詞部分に留まらず、「是を来目くめ歌と謂ふ。今、楽府に此の歌を奏ふときには、猶なほ手量たはかりの大きさ小ささ、及び音声の巨ふとさ細さ有り。此これいにしえの遺式なり。」も含むことになり、ここでいう「今」とは、『日本書紀』に引用された九州王朝歌謡史料の成立時点を指すと考えられる。また、九州王朝の楽府成立時期は、神武紀の断片史料からは判断し難いが、一つの可能性としては、『隋書』イ妥国伝の記述から、七世紀初頭には成立していたと推定してもよいのではあるまいか。あるいは、倭王自らが「府」を開設したとする、「開府儀同三司」 注(7) を自称した倭の五王の時代かも知れない。現時点では断定を避け、今後の研究課題としたい。

 二 来目歌は九州王朝宮廷舞楽

 神武紀のこの来目歌は、「今、楽府に此の歌を奏ふときには、猶なお手量たはかりの大きさ小ささ、及び音声の巨ふとさ細さ有り。」とあるように、歌だけではなく舞いも伴っていたようである。とすれば、舞いは「来目舞」とよばれていたと思われるが、来目舞については『令集解』に次のように記されている。
 「大伴弾琴、佐伯持刀[イ舞]、即斬蜘蛛、唯今琴取二人、[イ舞]人八人、大伴佐伯不別也」
     [イ舞]は、人偏に舞。JIS第4水準ユニコード551B

と見え、楽器として琴が用いられている。ところが『養老律令』によれば雅楽寮で用いられている楽器は笛と腰鼓だけで、琴がないのである。従って、『日本書紀』成立時に大和朝廷の雅楽寮には琴を用いる来目舞は伝承されていなかったと考えるべきであろう。この点からも神武紀の楽府を雅楽寮のこととする通説は成立しがたいのである。
 『隋書』イ妥国伝にイ妥国の楽を演奏する楽器として「五弦の琴」が紹介されており、この使用楽器の一致からも、来目舞やそれが演奏された楽府は九州王朝のものであるとする冨川仮説は有力である。
 それでは来目歌が大和朝廷に取り込まれたのは何時頃であろうか。先の『令集解』の記事から、『令集解』成立(八五九~八七七年頃)以前であるが、『続日本紀』によれば、孝謙天皇の天平勝宝元年十二月に宇佐の八幡大神が東大寺を拝した時、天皇や太上天皇(聖武)列席のもと、久米舞が舞われたとある。
  大唐・渤海・呉の楽、五節田[イ舞]、久米[イ舞]を作さしむ。」『続日本紀』天平勝宝元年(七四九)十二月条

 なお、この久米[イ舞]は天平勝宝四年の東大寺大仏開眼供養でも舞われている。したがって、この時期には久米歌や久米舞が大和朝廷内に取り入れられていたことがわかるのである。

 三 九州王朝の「楽府」

 『養老律令』によれば、雅楽寮は治部省所属する下位組織であり、その長の官位も治部省の卿が正四位で、雅楽寮の頭(かみ)は従五位と三ランク下であり、組織関係によく対応している。対して、九州王朝では「楽」を職掌とする組織が寮ではなく「楽府」と称されていることから、「楽」が王朝内において重要な地位を占めていたことが推定できる。『隋書』イ妥国伝にて特記されている通りである。
 九州王朝の行政組織についてはそのほとんどが未知の分野であり、史料的制限もあって究明は進んでいない。わずかに『日本書紀』に記された「太宰府」「都督府」「任那日本府」等か知られているばかりである。今回、新たに「楽府」がこれにらに付け加えられたわけであるが、こうして見ると、九州王朝では「府」が多用されているようだ。今後も九州王朝中枢領域の地名注(8) や伝承などにより、王朝の組織構造の調査研究が望まれるところである。

(注)
(1) 古田史学の会々員。相模原市在住。
(2) 二〇〇三年七月十九日の古田史学の会関西例会にて、「神武天皇紀の舞台はどこか」にて発表。(於大阪市東梅田学習ルーム)
(3) 岩波日本古典文学大系『日本書紀』頭注では、「集解・標註に雅楽寮のことをいうとある。持統元年正月条に楽官(うたまひのつかさ)とあると同じか。」とある。
(4) 古田武彦ほか『神武歌謡は生きかえった』(古田武彦と古代史を研究する会編。一九九二年、新泉社)
(5) 歌詞の表記に使用された漢字も『古事記』と『日本書紀』では異なることから、それぞれ別史料からの引用と思われる。
(6) 古田武彦氏の御教示による。
(7) 『宋書』倭国伝の倭王武上表文中に「自ら開府儀同三司を假し」とある。
(8) 福岡市には行政機構の名残と思われる地名が現存している。たとえば、「老司」「薬院」などである。これら地名が古代まで遡れるのか、後世成立のものであるか、今後の研究課題としたい。


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