『古代に真実を求めて』第七集へ
九州王朝の「楽府」 神武歌謡の史料批判 古賀達也
『藝能史研究』No. 144 研究史・『琴歌譜』に記された楽譜の解読と和琴の祖型 増田修
筑紫舞上演 解説・筑紫舞宗家・・・西山村光寿斉 『シンポジウム 倭国の源流と九州王朝』
冨川ケイ子
九州王朝の有形無形の資産は、いつ、どのように近畿王朝へ受け継がれたのであろうか。
小論は、ひとつの舞曲の伝承と変形を通じて、その一端を解明しようとするものである。その曲は九州王朝に生まれた。近畿王朝に伝えられ、現存している。
『日本書紀』巻第三の、次の歌である。
「于[イ嚢]能多伽機珥。辭藝和奈破盧。和餓末菟夜。辭藝破佐夜羅孺伊殊區波辭。區[方尼]羅佐夜離。固奈瀰餓。那居波佐〔麻ノム〕。多智曾〔麻ノム〕能未〔之西〕。那〔奚隹〕句塢。居氣辭被惠禰。宇破奈利餓。那居波佐磨。伊智佐介幾未〔之西〕。於朋〔奚隹〕句塢。居氣[イ嚢]被惠禰。」(注1.)
[方尼]は、方編にムの下に尼。
「ウタノタカキニ、シギワナハル、ワガマツヤ、シギハサヤラズ、イスクハシ、クヂラサヤリ、コナミガ、ナコハサバ、タチソバノミノ、ナケクヲ、コキシヒヱネ、ウハナリガ、ナコハサバ、イチサカキミノ、オホケクヲ、コキタヒヱネ」
「宇陀の高城(たかき)に鴫(しぎ)をとるワナを張って、俺が待っていると鴫はかからず鷹がかかった。これは大漁だ。古女房が獲物をくれといったら、ヤセそばの実のないところをうんとやれ。若女房が獲物をくれといったら、齋賢木(いちさかき)のような実の多いところをうんとやれ」(注2.)
歌詞だけ読むなら、鴫の罠に思いがけずくじらがかかり、二人の妻に分配しよう、という歌である。うれしい大漁の歌である。作られた時期、歌われた時代はいつであってもよい。素朴な民衆の歌と言えよう。
「區〔方尼〕羅」は、文字通りに読めば鯨「クヂラ」である。「鷹」とする説は、百済では「鷹」を「倶知くち」という、とあるのに依っている(注3.)。わざわざ百済語を持ち出すのは、鴫と鷹がともに鳥類であることと、奈良県に海がないからであろう。鴫(しぎ)罠に鷹がかかるのは、くじらが釣れたという時の意外感、ホラ話めいた壮大さに欠けるような気がする。歌としての迫力が違う。
この歌を、「天皇」が「爲御謡」している。歌詞の直前に言う。
「已而弟猾大設牛酒。以勞饗皇師焉。天皇以其酒完班賜軍卒。乃爲御謠之曰。(謠。此云宇多預瀰。)」
この「天皇」は、後世にいう神武天皇である。東征の途上にあって、敵対した菟田の魁帥、兄猾を殺害した後、弟猾が大いに「牛酒」を設けて「皇師」をねぎらい、「饗」した。「天皇」はその酒をすべて「軍卒」に「班賜」し、この歌を「爲御謠」したもうた。「謡」は「宇多預瀰うたよみ」と読む。(注4.)
歌詞の後には、こう続く。
「是謂來目歌。今樂府奏此歌者。猶有手量大小及音聲巨細。此古之遺式也」
来目歌「うだのたかきに」は、「楽府」において、その時代の君主・宮廷が「古之遺式」と考えるスタイルに仕上げられたのであろう。神武天皇の「爲御謠」にふさわしい「遺式」として、「手量大小」(手の拡げ方の大小)と「音聲巨細」(声の太さ細さ)が定められた。
その「来目歌」は、「久米舞」として現存する。「久米舞」は剣の舞、蜘蛛を斬る舞とされている。歌詞は後に示すが、「うだのたかきに」のどこに剣や蜘蛛が出現しているであろうか。伝承の過程に何か問題があったのではなかろうか。
室町中期、久米舞の伝承は途絶えた。大きな危機であったと言える。江戸後期に再興されるが、復元の努力は忠実に行われたように見える。少なくとも、改変の意思が加わる余地はなかったであろう。(注5.)
「来目歌」が「久米舞」に再構成されたのは、八世紀前半のことであったと考える。この頃に、「来目歌」は、恐らくは臨終の床にあったであろう九州王朝から、新興の近畿王朝へと渡された。近畿王朝はこれを改作して「久米舞」とした。
この仮説は、もう一つの仮説を前提とする。すなわち、「来目歌」は九州王朝のものでなければならない。神武東征伝承のあらすじは、神武天皇が軍を率いて近畿へ攻め込み、奈良盆地を征圧し、初代天皇に即位した、というものである。神武の歌「うだのたかきに」は、近畿王朝のものである、という理解は、当然あり得る。むしろ、こちらの方が一般的であろう。
そこでまず、「楽府」とは何か、いつ、どこで成立したのか、という問題を取り上げる。「楽府」が九州王朝の役所であるならば、「来目歌」もまた九州王朝のものということになるであろう。
次に、八世紀、聖武天皇の時代を中心に、「久米舞」の形成に関わる材料を集めたい。史料は残念ながら多くはなく、決め手として十分ではないが、九州王朝がその遺産を失う時期が七三〇年代だったであろうことを窺わせるものとなった。
注 1. 黒板勝美・國史大系編集会編『新訂増補 國史大系<普及版>日本書紀 前篇』(吉川弘文館、昭和五六年 凡例の日付は一九五一年)一一八~一一九頁。以下『日本書紀』のテキストはこれによる。
注 2. 宇治谷孟『全現代語訳 日本書紀 上』(一九八八年、講談社)九六~九七頁。宇治谷氏は「[イ嚢]」を「タ」と清音で読んでいる。坂本太郎他校注『日本古典文学大系六七 日本書紀 上』(岩波書店、一九六七年)(以下、「岩波版」と呼ぶ。)は「ダ」と読む。この問題は小論の課題ではない。当面の表記としては岩波版に従っておく。
[イ嚢]は、 人偏に嚢。
注 3. 『日本書紀』仁徳四三年九月庚子朔条。
注 4. 神武天皇の即位元年は紀元前六六〇年という途方もない年代に置かれている。東征の有無についても議論がある。神武天皇自身が架空であるとの見方も根強い。一方、東征の経路や天孫降臨伝承との関わりからの研究も行われている。小論は、こうした問題や、神武天皇がこの歌を「爲御謠」した事情については扱わない。
注 5. この時期の経緯については、小論は扱わない。
「来目歌」は楽府ではぐくまれた。「今樂府奏此歌者・・・・」楽府がこの歌を演奏するというが、演奏するのは、当然、人である。「楽府」とは、歌い、舞う人々によって構成される組織の名であろう、と考えるのが最初の、そして素朴な理解であると言えよう。
実際、「楽府」とは、漢の恵帝・武帝の頃に設けられた音楽をつかさどる役所であるという。そこに集められた、音楽を伴う歌曲をも楽府といった。唐にいたって役所の意味をなくし、歌うこともなくなり、楽府に由来する歌や詩を指すようになって、擬古楽府が作られた。“がくふ”“がふ”と読む。(注6.)
「楽府」は、漢語であった。ところが、後世の注釈者らによって、“とよのあかり””おほうたどころ”などと王朝風に読まれてきた。このような読みは妥当であろうか。
その前に、『日本書紀』の用例から「府」の性格を考えておきたい。
「府庫」(神功摂政前紀庚辰十月辛丑、仁徳七年九月)、「郡府」(垂仁二年注)、「神府」(垂仁八十八年七月己酉朔戊午、天武三年八月戊寅朔庚辰)の例がある。「府」には「庫」あるいは蔵に当たるものが付属しており、神宝などの大切なものを保管していたようである。「郡府」は「彌摩那國」の「府」である。
さらに、筑紫大宰府(天智十年十一月甲午朔癸卯、天武六年十一月己未朔)、日本府(雄略八年二月、欽明二年四月など)、熊津都督府・筑紫都督府(天智六年十一月丁巳朔乙丑)がある。衛門府(皇極四年六月戊申)もあるが、対外的にも著名な「府」が目白押しである。
「楽府」は、これらの「府」の中で最初の出現例であり、当然これらと無関係とは考えられない。一方、先に挙げた読みはあまりにも“国内的”ではあるまいか。
節を改めて、従来の読み方を検討しよう。類義語かとも思われる「楽官」、八世紀以後の雅楽寮との違いを考える。続いて、『隋書[イ妥]国伝』『二中暦』に「楽」と「舞」の史料を得て、「楽府」の成立年代を考察し、さらに『日本書紀』にある「礼」「楽」の記事を通して、「楽府」の意味を探ろうとするものである。
イ妥国のイ妥(たい)は、人偏に妥。ユニコード番号4FCO
注 6. 諸橋轍次『大漢和辞典』(大修館書店、昭和三二年)
「楽府」を“とよのあかり”と読む史料には、『日本書紀』『日本書紀私記(丙本)』『釋日本紀』などがある。(注7.)
豊明節会(とよのあかりのせちえ)とは、新甞祭の翌日の辰の日(大嘗祭の場合は午の日)に天皇が新穀を召し上がり、諸臣にも賜わる儀式であるという。その時に舞楽を演奏する。『延喜式』巻第七の踐祚大嘗祭の記事に「奏久米舞。」とある。(注8.)
先に述べたように、「府」をごく一般的に蔵とその中身を管理する役所であると解するならば、「とよのあかり」は、国家的な行事であれ、ふさわしくない読みである。「うだのたかきに」の歌詞から大嘗祭での久米舞が想起され、誤って「楽府」にこの読みが振られたのではあるまいか。
岩波版『日本書紀』は「楽府」を「おほうたどころ」(注9.)と読む。宇治谷現代語訳も同様である。「大歌」そのものは、すでに八世紀からあったようである。
役所としては、仁明天皇の嘉祥三年(八五〇年)十一月六日付けの興世朝臣書主の卒伝に、「能弾和琴.仍爲大歌所別当」能く和琴を弾いたので大歌所の別当をつとめた、とあるのが初見という。(注10. )
大歌所が雅楽寮から独立したのが九世紀初めである(注11. )とすると、養老四年(七二〇年)に完成した『日本書紀』の中で、「楽府」が「おほうたどころ」と読まれるのはあり得ないことになろう。
“とよのあかり”でも“おほうたどころ”でもないとすると、「楽府」とは何であろう。雅楽寮の前身という見方もある。ここで、雅楽寮について簡単に触れておきたい。
大宝以後、律令制のもと、雅楽寮は、治部省の下に置かれた一部局である。長官である「頭」の官位は従五位上に相当する。この点、八省のうち、中務省の長官である「卿」は正四位上、七省の「卿」は正四位下である。「府」について言えば、例えば“大宰府”の長官である「帥」は従三位である。
前節で挙げた各「府」は政府組織の中での位置が必ずしも明らかではなく、単純な比較はできないが、「雅楽寮」は、国際的に知られた諸「府」の中にある「楽府」より、かなりランクが低いように思われる。
楽師は、従八位上相当(注12. )で、官判任(注13. )とされる。雅楽寮は、楽師のもと、無位の良民や楽戸出身者を楽人として養成することを目的とする役所だったようである。ここでは、唐・高麗・百済・新羅など外国の楽が「雅曲正[イ舞]」とされ、国内の楽はそれ以外の「雑楽」であるとみなされていた。
王族・貴族の舞楽のためには、「内教房」「歌[イ舞]所」「大歌所」「楽所」が時代とともに設けられていったが、このことも、雅楽寮の役割が限定されており、その位置付けが低いことを示している。
[イ舞]は、人偏に舞。JIS第四水準ユニコード511B。
「楽官」も楽を奏でる役所である。『日本書紀』持統元年(六八七年)正月丙寅朔に、「楽官奏楽」とある。
「うたまひのつかさ」という読みが、「楽官」(注14. )にも雅楽寮(注15. )にもある。同じものであるならば、みやびな読みと言えようが、そうであろうか。
「楽官奏楽」の直前、およそ四か月前の朱鳥元年(六八六年)九月、天武天皇が亡くなり、諸臣により順次「誄」が行われた。ここに、天武の主要な政府組織が列挙される。太政官に始まる第二のグループに、法官、理官、大蔵、兵政官、刑官、民官があるのを“六官”と呼び、後の律令の八省の前身と見る見方がある。
「楽官」は、この“六官”と関わりがないのであろうか。天武紀末尾は「奏種々歌[イ舞]」と結ばれており、楽官は、四日間にわたる誄の主役であったろう。「七官」である。“六官”に並ぶとすれば、「楽官」の役所としての位置は、雅楽寮より高い。「楽府」により近いのではあるまいか。
「楽府」は“とよのあかり”でも“おほうたどころ”でもなく、雅楽寮でもなかった。大宝・養老律令や平安王朝風の理解の外にある。ここまでで、長い歳月の間に降り積もったちり、ほこりを吹き払ったつもりである。次節以降では、近畿王朝の枠の外へ出て行くことになる。
注 7. いずれも『新訂増補 国史大系』に所収。
注 8. 『新訂増補 国史大系』所収、一五六頁
注 9. 前掲書 一九八頁
注10. 『日本文徳実録』(『新訂増補 国史大系』所収)
注11. 『大系日本史叢書二一 芸能史』(山川出版社、一九九八年)第一章古代の芸能 七四頁
注12. 『令義解』(『新訂増補 国史大系』所収)官位令
注13. 『続日本紀』大宝元年七月戊戌
注14. 『釋日本紀』巻第二十二(前掲書 二八五頁)、国史大系版『日本書紀 下』(三九四頁)、岩波版『日本書紀』(一九八頁)の頭注、など。
注15. 『朝野群載』巻第六太政官(『新訂増補 国史大系』第二九巻上、一六九頁)、『国史大辞典』(吉川弘文館)「雅楽寮」の項(亀田隆之執筆)など。
ここで目を移し、国外の史料から「楽府」の成立年代を考えたい。
[イ妥]国の王は、「姓は阿毎あま、字あざなは多利思北孤」、「王の妻、[奚隹]弥きみと号す」、と『隋書[イ妥]国伝』は述べる。妻を持つゆえに、王は男性であり、推古天皇ではあり得ず、王であるからには聖徳太子でもない。「阿蘇山有り」とも記す。奈良盆地の国では、明らかにない。九州王朝である。
「倭人」「倭国」と呼ばれてきた。記事は、後漢の光武帝の時に入朝した事実を挙げ、卑弥呼を想起する。名は変わっても、「[イ妥]国」は、中国皇帝に対して列島諸国を代表する国である。
[イ妥]国には“楽”がある。「樂有五弦琴笛」「楽に五弦の琴、笛有り」と。五弦の琴は、宗像大社の沖津宮のある“神域”沖ノ島からの出土例がある。
音楽や舞踊はどんな民族や国にもあろう。“楽”のない民族はあるまい。『魏志倭人伝』に「喪主哭泣他人就歌舞飲酒」とあるように、葬儀で「歌舞飲酒」するのは、倭人古来の習慣であるが、これは“楽”とは呼ばれていない。秩序もなく、ただ人が集まって歌い、舞うだけでは、中国皇帝たるもの、“楽”ありとは認めないであろう。そこに、“楽”を統括する役所の存在をうかがわせるものがある。
“楽”の直前に、「死」「贓」「流」「杖」などの刑法に関する記事がある。「律」が制定・施行されているように見えるが、はっきり「律」があるとは書かれていない。中国皇帝に由来する現象は、あえて記述する意味がなかったのであろう。むしろ、隋の制度とは異なる、[イ妥]国独特の訴訟のしかたが注目されている。
そうであるならば、隋書が“あり”と認める“楽”は、中国とは異なる、[イ妥]国固有の“楽”である、ということになろう。
奈良時代以降、雅楽寮は国内の楽を「雑楽」と呼び、「雅曲正[イ舞]」である唐楽など外国の楽を習得することに力を入れた。外国の楽にどれほど上達したところで、隋書の観点からは、“楽あり”とは言われないのではなかろうか。(注16. )
隋と[イ妥]国の交流は、隋の開皇二〇年(六〇〇年)に始まり、大業四年(六〇八年)に終わる。「楽府」の成立は、それ以前ということになろう。
注16. 九州王朝は外国の楽を自前で養成する必要性を感じなかったであろう。近畿王朝は、八世紀にはすでに百済・高麗は滅びていた上に、地理的に(恐らく政治的にも)唐・新羅など外国との間に距離がある。
『二中暦』の中の「年代暦」は、いわゆる正史である『日本書紀』には出現しない年号が列記されていることで知られる。年号はある政治範囲の人々に一般的に使われるものである以上、「私」年号という呼び名は不当である。大宝以前に連続した年号が使われていたことは否定できない。その中に、次の二行がある。
教到五年(元辛亥、舞遊始)
朱鳥九年(丙戌、仟佰町段始、又哥始)
「年代暦」は継体に始まり、一八四年にわたって連続しており、大宝元年(七〇一年)につながっている。ここに記された「継体」元年(丁酉とされる)が、大宝元年(七〇一年)の前年から一八四年さかのぼった五一七年であるとすれば、「舞遊始」とされる教到元年辛亥は五三一年に当たる。また、「哥始」とされる朱鳥元年丙戌は、六八六年と考えられる。
「舞遊」「哥」の始まり、というが、それ以前に舞遊や歌がなかったわけではあるまい。ただ、舞遊や歌に関するめざましい出来事があって、それがその前後との画期をなすことになった、という認識を示す記事であろう。すなわち、舞楽振興に関する何らかの施策が行われたか、舞楽にまつわる国家的な行事が催され、それが以後恒例になったことをうかがわせるものである。あるいは、両方であるかもしれない。
『隋書[イ妥]国伝』は、九州王朝では舞楽が盛んであったことを今に伝えている。『二中暦』の二つの記事は、それを裏付ける国内史料であると言えよう。
では、どちらの記事が「楽府」の成立に、よりふさわしいであろうか。教到元年(五三一年)の記事は、隋との交流の開始に先立っている。朱鳥元年(六八六年)では遅いのである。
「楽府」の成立は教到元年(五三一年)であろう、との推測を裏付ける記事が『日本書紀』にある。安閑天皇の元年(五三四年)閏十二月己卯朔壬午、大伴大連(金村)が勅を奉じて次のように述べたという。
「率土之上莫匪王封、普天之下莫匪王域、故先天皇立顯號、垂鴻名、廣大配乎乾坤、光華象乎日月、長駕遠撫、横逸乎都外、瑩鏡區域、充塞乎無垠、上冠九垓、旁濟八表、制禮以告成功、作樂以彰治定、福應允臻、祥慶苻合於往歳矣」
「普天の下、王土に非ざるはなく、率土の浜、王土に非ざるはない。それで先帝は御名を世にあらわし、天地日月にも匹敵する大きさと輝きをもって長駕して民を愛撫(あいぶ)し、都の外へ出でては、領民の上に恵みを行き渡らせられた。御徳は天の果て地の果てまでも及び、四方八方に行き渡った。礼楽を制定して、政治の安定していることを明らかにした。その反応は確かに現れて、めでたく喜ばしいことは、聖王の昔と全く変るところがなかった。」(注17. )
「率土~王域」は『毛詩』から、「故」以下は「先天皇」を除き『芸文類聚』からの抜書きであるという。(注18. )後者は、唐の李淵(初代皇帝・高祖)が六二四年に欧陽詢らに命じて作らせた一種の百科辞典で、その二、三年後に完成したようである。安閑元年になかったことはもちろんである。
では、「大伴大連」の発言もまたなかったのであろうか。『日本書紀』の編者らの造作なのであろうか。もちろん、彼らはそれを名文で飾りたかったことであろう。だが、なぜこの文をこの場所(安閑元年)に置いたのか。それは、この文がこの位置にもっとも似つかわしかったからであろう。拙劣な言いまわしながら、よく似た趣旨の発言がここにあったのかもしれない。「楽」について言えば、まさしく「舞遊始」はこの直前の教到元年(五三一年)と考えられるのであり、『日本書紀』の編者らはそれをよく承知していたであろう。『芸文類聚』からの盗用という事実が、逆にそのことを裏書するのではあるまいか。
文中、「制礼」と「作楽」が一対の句になっている。「楽」だけではない。「礼」も制定されていた。大伴大連はここで勤務考課の結果を発表し、一人を賞し一人を罰して、まさしく君臣の「礼」を説いている。
もう一つ、異本の問題を取り上げる中で、神武紀の「今楽府~」の記事がいつ頃書かれたか考えてみたい。
「今」の落ちた写本がある。筆者が主として参照している国史大系版『日本書紀』には、「今」に異本の注記がないため、古賀氏と西村氏の会話ではじめて知ったのであるが、岩波版では、底本(天理図書館蔵卜部兼右本)に「ナシ。傍書」という。底本にはない「今」を「熱・神・勢」により補ったことがわかる。(注19. )「今」がない写本は、当面、兼右本のみであろうか。
「今」のあるなしで文のニュアンスが異なる。ない場合、「楽府」が長い年月にわたって「古之遺式」を伝承してきた、という響きがあるし、「今」があると、割合に近い過去に「楽府」ができて、「古之遺式」を保存するようになった、という意味合いになろう。
これは、「楽府」の成立時期と、「今楽府~」の記事が書かれた時期とが、どの程度時間的に離れているか、という問題である。
なお、「今」は始めからあったと考える。後から挿入されるとは考えられないからである。
「楽府」という役所ができる。ことが舞楽であるからには、華麗な、盛大な記念イベントが催されたに違いない。その記憶がまだ新しい頃に、この記事は書かれた。以前と以後がくっきりと認識できる時期は、数年から十年といったところであろうか。前述の教到元年辛亥が五三一年であって、その「舞遊始」が「楽府」の成立を意味するならば、記事の執筆時期は五四〇年頃ということになろう。
『日本書紀』の元資料の一つに、『日本旧記』という今日に伝わらない書物がある。雄略二十一年(四七七年)三月条の注に、一度だけその名を現わす。この四八〇年頃を最終記事(一回)とすることから、『日本旧記』は、それからおよそ五十年後の五三〇年頃、六世紀中葉の成立であろう、との古田武彦氏の推論がある。(注20. )
「今樂府~」と書きおろされた時期と、『日本旧記』が成立した時期はきわめて近い。「今樂府~」は『日本旧記』の記事である、と言ってしまって差し支えあるまい。(注21. )
養老四年(七二〇年)、『日本書紀』は、国内外の諸文献を臆面もなく切り取り、つぎはぎして完成する。
さらに歳月を経て、近畿王朝の誰かが、「今」の一文字に違和感を感じる。“久米舞は神武の昔から伝承されてきたものなのに、「今」とはおかしい。”そう思うようになって、異本を生じたのであろう。
『日本旧記』からも、楽府の成立時期は六世紀前半であろうと考えられる。
注17. 宇治谷前掲書、三七二頁
注18. 岩波版『日本書紀 下』五二頁頭注
注19. 岩波版『日本書紀 上』校異六四三頁
注20. 古田武彦『盗まれた神話 -- 記・紀の秘密』(朝日新聞社 昭和五十年)八九頁
注21. 『二中暦』の中の「年代暦」に、「明要十一年(元辛酉、文書始出来~)」の記事がある。明要元年は五四一年にあたる。細注にいう「文書」は『日本旧記』を指す可能性があろう。
『隋書[イ妥]国伝』『二中暦』『日本書紀』により、「楽府」の成立は五三一年であったと考えたい。それは、六世紀中葉に成立した『日本旧記』に、来目歌とともに記事として採録された。さらに後年、『日本旧記』は『日本書紀』編集の際の基本文献の一つとなり、多くの記事が引用元を明示することなく転載された。この結果、来目歌「うだのたかきに」と「楽府」の記事が今日に残ることになったのである。
九州王朝は、儒学的な礼楽の理念に立った国家を目指していた。「楽府」は、礼楽のうち、「楽」を受け持つ役所であった。そこでは「うだのたかきに」のような国内の楽が重んじられていた。そして、その活動は、まさしく“楽”であるとして『隋書』によって認められたのであった。
「楽府」が九州王朝の役所であるならば、そこで演奏され、伝承された「来目歌」もまた九州王朝のものであった、と考えられる。九州には海がある。歌の主役がくじらであっても、何の奇異もないことになる。
ここでは、「楽府」の所在地を追究していない。『隋書』は、「邪靡堆に都す。則ち、魏志に謂わゆる邪馬臺なる者なり」と述べる。太宰府(注22. )の近辺で「楽府」の音に類似する地名を探してみたものの、関東在住で、九州の地名に馴染みが薄く、調べる手段も限られる筆者としては、断念せざるを得なかった。
注22. 『日本書紀』『続日本紀』は「大宰府」と表記する。
来目歌「うだのたかきに」は、「久米舞」に歌詞として取り込まれ、近畿王朝にその痕跡を残した。久米舞は、奈良時代には大仏の前で演奏され、平安時代以降は大嘗祭の豊明節会(とよのあかりのせちえ)に奏される舞楽の一つとして定着している。
現存する「久米舞」は、「来目歌」の面影を残していることは確かであるが、「来目歌」とは異なる要素も持っている。
『古事記』の編者は「来目歌」をどのようなものと考えていたろうか。現存の「久米舞」、奈良・平安時代の「久米舞」は、それぞれどのような舞で、どういう時に舞われたか述べた上で、「久米舞」が八世紀前半の新作もしくは改作であった可能性を探る。これを支える背景として古舞の流行と、九州からの筑紫・諸県の舞の流入を挙げたい。
『古事記』は、序文によれば、和銅五年(七一二年)に完成した。これにも、「うだのたかきに」の歌が載っている。前後とともに引用する。
「大伴連等祖道臣命・久米直等之祖大久米命二人、召兄宇迦斯罵詈云、・・・・然而、其弟宇迦斯之献大饗者、悉賜其御軍。此時、歌曰、
宇陀能 多加紀尓 志藝和那波留 和賀麻都夜 志藝波佐夜良受 伊須久波斯 久治良佐夜流 古那美賀 那許波佐婆 多知曾婆能 微能那祁久袁 許紀志斐惠泥 宇波那理賀 那許婆佐婆 伊知佐加紀 微能意富祁久袁 許紀陀斐惠泥
亜ゝ躍(音引。)志夜胡 志夜 此者伊能碁布曾(此五字以音。)
阿ゝ(音引。)志夜胡 志夜 此者嘲笑者也
故、其弟宇迦斯、(此者宇陀水取等之祖也。)
自其地幸行、到忍坂大室之時・・・・」(注23. )
『日本書紀』にはない文が記録されている。「亜ゝ志夜胡志夜」「阿ゝ志夜胡志夜」は囃子言葉とされ(注24. )、それぞれ「此者伊能碁布曾」「此者嘲笑者也」という“しぐさ”が指定されている。これは脚本の“ト書き”にあたるものであろう。すなわち、『古事記』の編者は、この歌について、ト書きのついた資料を参照したのである。
ところが、「宇陀能」で始まった歌詞がどこで終わるのか、必ずしも明らかではない。「この時に歌ひけらく 宇陀の~(中略)~嘲笑ふぞ。 とうたひき。(注25. )」とする訓読文もある。「亜ゝ志夜~」の行と「阿ゝ志夜~」の行は、一種の対句と理解することができよう。「此者伊能碁布曾」「此者嘲笑者也」は本文と同じサイズの文字で書かれている。歌と同様の発音文字五つを含む。細注もある。「此五字以音」という類の細注は『古事記』に多くあり、「此者~也」とする文も、本文・細注ともに出現している。また、ト書きが歌詞を兼ねて、「こはいのごふぞ」と歌いながら「いのごふ」しぐさをするのは、あり得ないことではない。
「亜ゝ志夜」以下は囃子言葉とト書きなのであろうか。それともすべて歌詞に含まれるのであろうか。『古事記』の編者はどこまでを歌詞と考えていたのであろうか。なぜここに、このような紛らわしい文面ができたのであろうか。
堂々めぐりの思案の末、次のように考えるに至った。
まず、『古事記』の伝写者に誤記があったというより、編者自身が明確な理解を示していない。
次に、「此者伊能碁布曾」「此者嘲笑者也」は元資料の注であり、細注「音引」と「此五字以音」は編者によるものであろう。元資料では、恐らくやや小さめの文字による注意書きであったのではなかろうか。それを『古事記』の編者は本文扱いとし、「此五字以音」の細注を付けることで念を押した。
もし「亜ゝ志夜~」の行のみであったら、「此者伊能碁布曾」はどういう書き方をされようと、注として読まれたであろう。ところが、次に「阿ゝ志夜~」の行が続いた。間に挟まれた「伊能碁布曾」は、「此者」を含め、歌詞か注か曖昧になった。末尾の「此者嘲笑者也」に至っては、歌詞として読むには違和感があり、注とするには前行との対句的な対応関係に苦慮することになる。
編者にも奇妙な文であるとの印象はあったかもしれないが、次の行にはそれ以上に理解不能もしくは不都合な記事があった。「故其弟宇迦斯」の行は、「此者宇陀水取等之祖也」の細注のみで、後文はすべて削除されている。「亜ゝ志夜」以下は、文面はともかく内容は不都合ではなかったので、今日に残ることができたのであろう。
編集の過程をこのように推定した時、もう一つのことに気がつく。編者はこの歌の演奏・上演を視聴したことがなかった。書かれた元資料のほかに知識がなかったため、紛らわしい文面を後世に残してしまったのであろう。『古事記』の編纂期、“古来の伝承”に取材した舞楽は、行われていなかったらしい。
注23. 青木和夫・石母田正・小林芳規・佐伯有清校注『日本思想体系1 古事記』(岩波書店、一九八二年)一二四頁
注24. 青木『古事記』頭注一二四頁、補注三六八頁。
注25. 倉野憲司校注『古事記』(岩波書店、一九六三年)八四~八五頁。
久米舞は、室町中期の後土御門天皇の頃に途絶え、江戸後期の文政元年(一八一八年)仁孝天皇の即位の大礼の時に、四人舞として再興された。明治十一年(一八七八年)より昭和二十年(一九四五年)までは、二月十一日の紀元節の賀宴に豊明殿で演奏されていたという。(注26. )
以下、この節の叙述は、雅楽の専門家である芝祐泰氏、多忠麿氏の解説を参考にしている。(注27. )
現在の久米舞は、歌のほか、楽器として笏拍子、龍笛、篳篥、和琴が使われる。「久米歌壱具くめうたいちぐ」と呼ばれ、七部構成で、「久米歌合音取くめうたのあわせねとり」「參入音聲まゐりおんじゃう」「揚拍子あげびゃうし」「和琴」(多氏は「抜劔ばっけん(和琴独奏)」とする)「伊麻波豫いまはよ」「阿阿」「退出音声まかでおんじゃう」に分かれる。舞人(まいにん)は六人とする。歌詞は次のようである。
「宇陀(うだ)の高城(たかき)に 鴫(しぎ)わな張(は)る わが待(ま)つや 鴫(しぎ)は障(さや)らず いずくはし 鷹等(くぢら)さやる。前妻(こなみ)が魚(な)乞(こ)はさは 立(たち)そばの實(み)の 無(な)けくを 扱(こ)きしひえね 後妻(うはなり)が 魚(な)乞(こ)はさばいち さかき實(み)の 多(おほ)けくを こきたひえね。いまはよ いまはよ あ あ しやを いまだにも吾子(あこ)よ いまだにも吾子(あこ)よ。」
前半は「うだのたかきに」である。後半の「いまはよ」は、『日本書紀』巻第三に、道臣命が歌った歌として載っている。
雅楽の諸歌は、貴族の教養として諸家に伝承されてきたものと、古来の楽人に由来する諸家に伝承されてきたものとがある。伝習そのものにしきたりがあって、曲によっては親族会議や許可を要したという。「堂上神楽之家」「地下楽人」の語に見るように、身分格差で細分化し、秘伝化することにより長年月の保存を可能にした面もあろうが、民衆的な広がりを欠くことになった面もあろう。冷凍庫である。
多氏は、音楽監督として、神楽歌のおよそ八割を収録する四枚組のCDを作ったが、神楽歌はこれまで、宮中の秘楽(ひがく)として、「神聖にして侵すべからず」とタブー視されてきたという。
曲目の並び順にも昔からのきまりがある。「我々雅楽演奏家は、日常の演奏生活の中で、古来より定められた「曲の格」というものを無意識に尊重している。いや、無意識ではなく、教えられた曲の格が、自然に曲の序列構成となり、頭の中で組み立てられているのである。この序列は、長い歴史の中で、曲のもつ品格、長さ、目的、使用する場と時などにより、先人たちが考慮のすえに決めたものであろう。」
このCDでも、基本的には品格の高い順に並べられている。久米舞は三枚目の二八曲中十五曲め以降に収められている。中の下の“格”であると見るべきであろう。
注26. 『国史大辞典』(吉川弘文館)「久米舞」の項、蒲生美津子執筆。
注27. 芝祐泰『五線譜による雅楽総譜 巻第一 歌曲篇』カワイ楽譜)及び演奏・東京楽所、音楽監督・多 忠麿(おおのただまろ)『日本古代歌謡の世界』(一九九四年、日本コロンビア株式会社)と題する音楽CDに付属の同名の冊子(総論、曲目解説とも多氏の執筆)。両氏の説明には、若干の差異がある。
前節で、伝承されて現代に至った久米舞について述べたが、八世紀中葉、久米舞は奈良の大仏とともに登場する。平安時代には、田舞、吉志舞、倭舞、五節舞と並んで、大嘗祭の舞楽の常連になった。六国史から関連する記事を拾ってみよう。
A『続日本紀』天平勝宝元年(七四九年)十二月二七日
B『続日本紀』天平勝宝四年(七五二年)四月九日
C『日本三代実録』貞観元年(八五九年)十一月一九日
D『日本三代実録』元慶八年(八八四年)十一月二五日
Aは、大仏が完成した年の十二月、九州の宇佐から来た八幡大神(祢宜尼大神朝臣杜女)が奈良の東大寺を拝した時、天皇(孝謙)、太上天皇(聖武)、皇太后(光明)が行幸し、請僧五千人が「礼佛讀經」した。さらに大唐・渤海・呉の楽を演奏し、国内の舞楽としては五節田[イ舞]、久米[イ舞]を演奏している。
九州王朝との関わりでいえば、この記事は、宇佐八幡神が近畿王朝と手を結んだ瞬間でもあろう。(注28. )
Bは、大仏開眼の儀式の記事である。請僧は一万人と、Aを上回る規模であった。庭を東西に分け、雅楽寮、諸寺、王臣諸氏の種々の「音楽」を演奏した。その中に久米[イ舞]もあった。仏法が「東帰」してから、「齋會之儀」がこれほど盛んであったのは未曾有のことである、と記す。
CとDは清和天皇、光孝天皇の大嘗祭の記事で、日付以外は同文である。悠紀(ゆき)主基(すき)両帳を撤去した後、天皇が豊樂殿の広廂におでましになり、百官と宴をした時、「旧儀」の通り、諸氏族がそれぞれの舞楽を演奏した。伴(大伴)・佐伯両氏は久米舞を演じた。
久米舞はどのような舞曲であったろうか。雅楽寮の大属尾張浄足は次のように描写している。(注29. )
「久米[イ舞]。大伴弾琴。佐伯持刀[イ舞]。即斬蜘蛛。唯今琴取二人。舞人八人。大伴佐伯不別也。」
久米舞は大伴が琴を弾く。佐伯が刀を持って舞う。即ち蜘蛛を斬る。ただ今は琴取が二人、舞人が八人である。大伴と佐伯は「不別」である。
『釋日本紀』巻九(注30. )に、「大嘗會儀式」からの引用文があり、大伴・佐伯の両氏で五位以上の者二十人が、左右二列に分かれて舞う、という。同様の記事は『儀式』『北山抄』にもあるそうであるが未見である。
舞人の人数は二十人から四人までと、史料によって異なるが、基本的に久米舞は、琴による伴奏がつき、剣(刀)の舞であり、蜘蛛を斬るしぐさをする、というスタイルのようである。現代に残る久米舞にも「抜剣」の場面がある。(注31. )すなわち、奈良時代から今日に至るまで、中断した時期があったにもかかわらず、久米舞は一貫した様式を伝承してきたと言ってよいであろう。
注28. 中野幡能『八幡信仰』(塙書房、一九八五)は、八幡神は「総国分寺としての東大寺を通じて全国分寺を常住守護する神になった」「皇室の先祖伊勢太神宮を凌ぐ神封を施入された」「文字通り鎮護国家の神になった」(一一二~一一三頁)と述べる。
注29. 『令集解』(『新訂増補 国史大系』所収)巻第四 職員令に所引
注30. 前掲書一二八頁
注31. 蒲生美津子氏によると、「特に「伊麻波予」における和琴の弾奏はきわめて神秘的な効果をもっており、この時舞人はいっせいに太刀を抜き、敵を切り伏せる形をなす。」(『国史大辞典』(吉川弘文館)久米舞の項)という。
『古事記』の編者は「来目歌」を視聴したことがなかったようである。「来目歌」と「久米舞」の間には溝がある。近畿王朝は、いつの時点でか、「久米舞」という名で新作、あるいは「来目歌」の知識を仕入れて、自分たちのイメージに合うように改作したのではなかろうか。
その時期は、『古事記』以後すなわち七一二年以降である。史料上の最初の登場は、前節のAに見るように天平勝宝元年(七四九年)であるから、この間のどこかで作られたのであろう。
新作ということがあり得るのであろうか。Aで久米舞とセットになっている五節田[イ舞]を見よう。
『続日本紀』によると、五節舞が最初に登場するのは天平十四年(七四二年)正月壬戌(十六日)の条である。聖武天皇が大安殿で宴を行なった時、五節田舞などを奏したという。
ついで天平十五年(七四三年)五月五日、五節舞は脚光を浴びる。群臣を呼んで内裏で宴を催した時、皇太子阿倍内親王(後の孝謙天皇)がみずから五節を舞った。この時、五節舞の趣旨について、聖武天皇の詔を奉じた右大臣橘宿祢諸兄と元正上皇との間で、やり取りがあった。ここで五節舞は、天武天皇が天下の人々に君臣と祖子の秩序を教えるために作ったものであることが明らかにされる。君主の舞として後世に伝承されていくことを期待して、皇太子に習わせ、舞わせたのだという。(注32. )
五節舞は後に、諸臣の娘たちが舞うものとなった。価値の下落である。橘諸兄(聖武天皇)と元正上皇のせりふが、舞の値打ちを越えて大げさだったのであろう。
天武天皇紀に「五節[イ舞]」の記事はない。新作の舞に箔をつけ、新しい伝統を作るために、天武天皇の名を借りたのではなかろうか。 「五節[イ舞]」がそうであるならば、一方の久米舞も同じ頃に作られた可能性があることになろう。
『日本書紀』の成立後、神武紀に「来目歌」というものがあり、「大伴氏」の先祖が関わったことが知られるようになったに違いない。
近畿王朝の大伴氏は、何者であろう。神武紀の大伴氏ともし同系であれば、「来目歌」を伝承していないことがいぶかしい。『古事記』の編者らに協力しなかったことが不審である。(注33. )
大伴氏が新しい久米舞の制作に関わることになったのは、おそらく同姓同名であるがゆえであろう。舞を大伴氏とともに担う佐伯氏は、大伴氏と同祖とされる。(注34. )
素材としては、『日本書紀』の歌詞を元にしたのであろう。『古事記』にある囃子言葉(ああしやこしや)が現在の久米舞には残っていない。『日本書紀』に残る別の来目歌「いまはよ」を、後半部に使っている。
制作に当たっては、雅楽寮が全面的に協力したであろう。大属尾張浄足が雅楽寮にある曲として久米舞を挙げている。(注35. )後に五節舞とともに大仏の前で披露されたところを見ると、その制作は、聖武天皇の意向に添う“公務”に近いものであったかもしれない。
来目歌を知っている人を探し、呼び寄せたであろうし、可能な限り資料も集めたことであろう。
大宰府は存在しない時期があった。天平十四年(七四二)正月、廃止されたのである。(七四〇年の藤原広嗣の乱の影響といわれる。)「辛亥。廢大宰府。遣右大弁從四位下紀朝臣飯麻呂等四人。以廢府官物付筑前國司。」と『続日本紀』は述べる。天平十五年(七四三)十二月二六日設置の「鎮西府」が、天平十七年(七四五)六月辛卯(五日)、“復活”大宰府となるまで、三年半にわたって、大宰府という役所はなかった。
この間に失われたのは「官物」だけではあるまい。そこに育まれた人々のまとまりもまた解体された。新しい都へ移住しようと考える人々もあったことであろう。
律令制下の雅楽寮が伝習する舞楽の中に、筑紫舞、諸県舞がある。その名称から、九州王朝に由来する舞楽が近畿王朝に受け継がれたことは明らかである。
『続日本紀』によると、天平三年(七三一年)七月乙亥、筑紫[イ舞]生を、度羅楽・諸県とともに楽戸から取ることになった。この記事が筑紫舞の初見である。舞生は二十人。「師」を九州から招いたのであろうか。
『万葉集』一〇一一番の歌の前書きに、天平八年(七三六年)以前、王族貴族の間に古[イ舞]が流行している、との記事がある。
「比来このころ、古[イ舞]こぶ盛りに興おこり、~」
「古[イ舞]」は「日本古来の舞。」であるという。(注36. )「来目歌」が「古」に属することは間違いない。
このように、「古[イ舞]」の流行が、古さを装った新曲が作られていく背景にあったであろう。しかし、「久米舞」制作の過程を知る手段はもはや失われている。わかっていることは、神武紀から得たイメージを元に、剣の舞として構想されたのであろうということであり、もう一つは、大仏と宇佐八幡神との提携記念式典(七四九年)に間に合っていることである。
注32. 『続日本紀』(『国史大系』所収)一七二頁。
注33. 志田淳一氏は「大伴氏には問題が多い。」と書く。(志田淳一『古代氏族の性格と伝承』(雄山閣、一九七二年)一六七頁。)「大伴氏はなぜ阿倍臣・吉備臣・物部連・小子部連・三輪君・上毛野君やその他の氏族のように、大物主神に関連する伝承が顕著でなく、抽象的な観念神である高皇産霊神とのつながりをもつのであろうか。」と自ら問い、「それは神代紀下の一書に大物主神が皇祖神に帰順する「首渠」とされていることと関係があろう。つまり天皇に随従し、警護する任務をもつ大伴氏が「帰順の首渠」を奉ずるわけにはいかないので、六世紀以降に、皇祖神とされる高皇産霊尊と密接に結びつくことになったものと思われる。」と自ら答える(同一七四頁)。大伴氏の正体は、その一歩先にあるであろう。
注34. 久米舞に久米氏が関わらないのはなぜであろうか。『続日本紀』には、朝臣や直の姓を持つ久米氏が何人か現われている。津田左右吉氏の『日本古典の研究 上』(岩波書店 昭和二三年 一九七二年改版)は、大伴と久米の間に上下関係や対立関係を想定する(二二七頁~二三〇頁)が、大宝以後の両氏の関係には言及しない。
注35. 『令集解』(前掲)
注36. 小島憲之他校注・訳者『日本古典文学全集3 万葉集 二』小学館、一九七二年)一七一頁。
くじらや女性たちが登場しない。久米舞がどことなく来目歌「うだのたかきに」とは違っているような気がするのは理由がある。「うだのたかきに」は、神武東征や兄猾殺害が背景にあるとはいえ、歌詞そのものは戦闘歌ではない。(注37. )「古之遺式」に「手量大小」「音聲巨細」のきまりはあるが、剣の舞や蜘蛛を斬る動作については言及していない。『古事記』の「此者伊能碁布曾」「此者嘲笑者也」は「手量」「音聲」に関する記事であると考えられる。歌詞についても、神武天皇の「古之遺式」を尊重するなら、臣下(道臣命)の歌と接合したりはしないであろう。
伝承に途切れ目がある。いつの時点でかノイズが入った。「古之遺式」へのこだわりは途絶えた。それは八世紀のことであったかもしれない。近畿王朝に臣属する『古事記』の編者や大伴氏は、来目歌の実演に接したことがなかったらしい。残念である。
天平三年(七三一年)が筑紫舞の初見とされるように、この頃、九州王朝の舞楽が近畿に流入し、王族貴族の間で古舞が流行した。そうした中で新しい舞曲が作られ、久米舞もその一つだった可能性を考えてみたものである。
久米舞は、平安期以降は、大嘗祭に関わる舞の一つとして宮中に定着した。神武天皇にちなむ舞曲ということでほどほど大切にされたようであるが、神楽歌としての“格”に見るように、『日本書紀』のいう「古之遺式」とは待遇が異なる。その理由として、一つはやはり「来目歌」の出自は九州王朝であって、近畿王朝とは本来無関係であることが考えられる。(注38. )もう一つは、歌詞が素朴で古風ではあるが雅びやかではない(“雅曲正舞”の理念に添わない)上に、曲の制作が八世紀と比較的新しい(と見なされたのであろう)ことである。伝承が一時中断したことも含め、長い時間をかけての“品格”評価は信頼できよう。
注37. 高木市之助氏は記紀に見える来目歌十四曲について、戦闘的な行為がたとえられている、とする。「いまはよ」を除く「他のすべての歌謡は」「所伝から切り離してもなおかつ」「戦闘もしくはこれに関連する事項を主題とするいわば一種の戦闘歌謡である。」(同「日本文学における叙事詩時代」一九三五年(『高木市之助全集』第一巻、一九七六年、講談社)七九~八〇頁)。比喩は慎重に解釈したい。
注38. 神武天皇の“帰属問題”がからむことになろうが、近畿王朝は神武王朝の後継者を“自認”するからには、久米舞を持たないわけにはいかなかったのであろう。
小論は、「うだのたかきに」という舞曲を切り口に、二つの王朝の間での「来目歌」から「久米舞」へという伝承と変形の過程を明らかにしようとしてきた。全体として史料の不足は否めない。ただ、久米舞が受けた変形と待遇は、近畿王朝一元論では説明しにくいのではなかろうかと思う。
九州王朝では、「礼楽」振興のために「楽府」を設置した。六世紀半ば頃は、年号の制定、「舞遊始」や、史書「日本旧記」の完成など、充実期にあったように見える。
およそ二百年後、八世紀半ば、近畿王朝が年号や律令を制定し、史書を編纂し、同様の発展期を迎える。ただし、年号や律令を開始した七〇一年に比べれば、筑紫舞の近畿への移入の始まり、古舞を始めとする舞楽の隆盛が七三〇年頃からというのは、ずいぶん遅いように思う。九州王朝の文物がその頃からようやく流入し始めたのであるとすると、それ以前のおよそ三十年は何だったのであろう。(注39. )
九州王朝の有形無形の資産は、おそらく七三〇年代以降、近畿王朝に吸収された。大仏の完成が目標とも画期ともなった。それが奈良の都の繁栄を支える一つの要因であったに違いない。
この年代は、久米舞に関連する史料を求めるうちに出てきたものである。舞楽のみから九州王朝の消滅期を論じようというのは、もとより無理な話である。もっと多くの側面から材料が集められて初めてわかってくるのであろう。今後の研究に際して留意していきたい。
筆者は生来、舞楽や音楽の素養を持たない。文中にも書いた雅楽CDを聞いてはみたが、それだけのことである。「久米舞」の上演に接したことがないのはもちろんである。「楽府」は九州王朝の役所であろうとの発案は、当初、『日本書紀』の記事のみを頼りにした思いつきに過ぎなかった。ところが、古賀達也氏は論拠として『隋書』『二中暦』『古事記』などをたちどころに列挙された。筆者は驚きながらありがたくこれらを学び、若干ふくらませ(久米舞を加え)、九州・近畿両王朝での「うだのたかきに」の扱われ方を対比しつつ小論としたものである。まとめるに当たっても、古田史学の会の皆様のご援助を賜わった。鴫(しぎ)罠でくじらを釣りあげたようなものであろう。筆者一人の力ではかなわなかった。心から感謝する。
注39. 天平十年(七三八年)の筑後国正税帳に、造銅竃工、鷹養人、犬を貢上し、白玉・紺玉などの玉類を売った、との記事がある(竹内理三編『寧楽遺文 上』(東京堂出版、訂正版一九六二年)二六七~二六八頁)のに対し、“極めて異例にして出色”の内容である、との指摘がある(古田武彦『日本の秘密 -- 「君が代」を深く考える』(五月書房、二〇〇〇年)八二~八五頁)。毎年献上する内容ではあるまいから、この年代に注目したい。
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九州王朝の「楽府」 神武歌謡の史料批判 古賀達也
『藝能史研究』No. 144 研究史・『琴歌譜』に記された楽譜の解読と和琴の祖型 増田修
筑紫舞上演 解説・筑紫舞宗家・・・西山村光寿斉 『シンポジウム 倭国の源流と九州王朝』
五弦の琴は、第四部 失われた考古学 第二章 隠された島 古田武彦 参照
制作 古田史学の会
著作 古田武彦