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『シンポジウム 倭国の源流と九州王朝』(新泉社 古田武彦編)
解説・筑紫舞宗家・・・西山村光寿斉
司会
ただいまから筑紫舞の上演をいたします(巻頭口絵参照)。
筑紫舞は文献的には『続日本紀』に登場します。「〈聖武天皇・天平三年七月〉乙亥、雅楽寮の雑楽生の員を定む、・・・」という記事に見ることができます。筑紫舞は八世紀には確かに存在していたのです。それがいつしか歴史の変転と、忘却の中で表舞台から姿を消してしまいました。もはや、私たちの記憶からも消え、深く暗い歴史の闇の中に眠らされる宿命にありました。しかし、歴史の女神はその闇に眠らされる「この世にあって優れて美なるもの」をそのままに葬りはしなかったのです。幸運にも現代に生きる私たちの目の前に、すばらしい歴史の謎と真実を秘めて、その姿を甦らせてくれました。九州の地の、真実の歴史の証言者として。
我々の祖先たちが、幾星霜の時を越えて自らの身命を賭けて、語り継ぎ、言い継ぎ、身体に記憶させて伝承してきた伝統芸能「筑紫舞」とはどのようなものだろうか。
ここにご覧いただきます筑紫舞が、変化することなくこんにちまで途絶えずに続いてきたかどうかについては、私どもが躍起になって研究をしているところでございます。古代史、民俗学、あるいは芸能史や古代歌謡史など、いろいろな学問の角度から研究が進められています。
昔、くぐつと呼ばれた人から、太宰府にいた琴の名人、菊邑検校が伝承され、それが今から五十年ほど前に、現在福岡にお住まいの西山村光寿斉氏に伝承されました。西山村氏は神戸でこの筑紫舞の伝承を受けました。そして今、筑紫舞を九州・筑紫の地に残すため、六年前から福岡・香椎に住まいを移して伝承に励んでいらっしゃいます。
『続日本紀』以来、芸能史からも消えてしまっていた、いわゆる「幻の筑紫舞」が現代に甦ったということが言えます。日本の伝統芸能の中でも一級の芸能性を持った舞が現代に生き続けているのです。日本の国際化が叫ばれる中で、日本民族が世界に誇れるすばらしい芸能がこの福岡に存在しているのです。
この筑紫舞を福岡に残すために、西山村光寿斉氏は故郷を捨ててこの地に参ったわけです。福岡の皆様は、毎年、大濠の県立能楽堂で筑紫舞の発表会をご覧になっている方もおられることと思います。今日は市民の古代研究会への後援として、歴史的な意味を多く示唆した舞を四曲舞っていただきます。
九州の地に、民族の伝統としての筑紫舞をぜひ残していくこと、これも市民の古代研究会のひとつの大きな役割ではないかと思っております。今日は西山村光寿斉宗家がご自身で曲目の解説をされながら、お弟子さんたちの舞をご披露して下さいます。
それでは西山村宗家にマイクをお渡しして、筑紫舞の上演を進めて参ります。
西山村光寿斉
西山村光寿斉でございます。本日はこのシンポジウムの華添えといたしましてお招きいただきました。そして、歴史に縁(ゆかり)があると思われる曲を何曲か選ばせていただき、ご披露させていただきます。
筑紫舞もいろいろと時代の変遷を経まして、『続日本紀』に載っていたまま現在につながっているかどうか。それはそうではないと、多分その後いろいろと手が加えられまして現在に至っていると思います。曲の歌詞と舞の振りが離れているような部分もございます。これは、その後、歌詞が江戸時代あたりで何らかの形で徐々に変えられていった、でも舞はそのままの形で残されているのではないかと、わたくしは信じて、皆様にこれを九州の地に残していただきたいために、主人と二人でこの福岡にやって参りました。ご覧になりまして、これはちょっとおかしいのではないかと思われる点は、多分わたくしも疑間に思っているところではないかと思います。
ただ、ひとつはっきり言えますことは、昔の人はすべて神の思し召し、いわゆる神事につながる芸能としてまずそれを土台にして、「くぐつ」にしましても、「神官」にしても、それを土台として舞っていたようでございます。まず神を崇めて、そしてご余徳を皆様にお分けするというような、卑届な気持ちでない大道芸、そういうものも含まれていると思いますので、その点をご留意いただきまして、ご覧いただきましたなら幸いでございます。
最初に舞いますのは、そのような古式にのっとりまして、神前に奉納する「榊葉さかきば」という舞です。「榊葉」というのは箏曲の中では四季の曲としてあり、その中の冬の部でございます。これは完全な説明を要するものではなく、ご神前に奉納いたします巫女(みこ)舞、筑紫舞では巫子(きね)舞と申しますが、巫女舞そのものでございますので、ご覧いただきましたら一目瞭然でございます。演じますのは西山村透寿、西山村津奈寿、細谷依子、この三名で勤めさせていただきます。最後の部分は天鈿女尊ということになっておりますので、とくとご覧下さい。本日の琴、並びに三絃をご協力下さいましたのは、北九州にお住まいの熊法子先生、そして琴は尾田桂子先生、尺八は大和流お家元の大和聚童先生でございます。どうぞよろしくお願いいたします。
舞人 西山村透寿
西山村津奈寿
細谷依子
一、霜八度おけどなほ、枯れせぬものは榊葉の、
立ち栄ゆべき蔭深く、まします神の巫女かも。
二、雪降れば山里に、冬ごもりせし草も木も、
匂ふばかりに春もまだ、知られぬ花ぞ咲きける。
三、千早振る神の在す、賀茂の社の姫小松、
万代経るとも葉も茂み、緑の色は変らじ。
つぎは「虫の音」でございますが、これは、九州ならではのお話かもわかりません。わたくしがいろいろと注釈を加えますよりは、菊邑検校からわたくしが噛んでふくめるように教えられました通り申し上げますと、筑紫に皇子(みこ)がいて難波に皇子がいた。二人はひじょうに仲が良くって、一年交替で筑紫へ難波の皇子が来たり、筑紫の皇子が難波へ行ったり、というようなことをずっと続けて友情を深めあっていた。ところが、その年はじつは難波の皇子が筑紫へ来る年にあたっていたのに、ある晩筑紫の皇子の枕元に難波の皇子が現われて、私は行けなくなった。貴方のところに行きたいけれども行けなくなった。でも私がこよなく愛でていた松虫を、ひとりおいているのがかわいそうなのだ。どうか私の屋敷へきて松虫を見てやってくれないか。そして私に逢いに来てくれないかと言って、枕元に立ったそうでございます。筑紫の皇子はそれを夢と思わず、これは何かの報せではないかと思い、急遽難波のその屋敷へ参りましたところ、だれもいず、ただぽつっと松虫の入った虫籠が置かれていた。そして、亡くなったのだろうか、どうしたのだろうと心配をしてあたりを見回しておりますと、彼が来たということを知って、難波の皇子が、亡霊という言葉はあてはまらないと思いますが、幻の姿で現われて、来てくれたことを非常に喜んで、そして久闊を叙して手を取りあって、いつもそうしていたように、遊び楽しむというような風景がございまして、やがて夜がしらじらと明けて参りますと、その場にはおれない身だからということで、袖を振りきって明け方の野辺へ消えて行く、跡には松虫だけが残されている、というようなお話だったそうでございます。
それで、わたくしも、松虫の好きだったという難波の皇子とは誰だろうと、いろいろな方に聞いてみましたのですが、謡曲の方でも松虫というのがありまして、上方舞の方で松虫、この「虫の音」を井上流かどこかが上演なさったそうですが、その場合は男女の色模様といいますか、男女の恋い慕う、そういう愛情物語でなさって、それが常設のような感じを受けておりました。わたくしは男同士の友情というふうに聞いておりましたので、これまで上演を差し控えて、一回も舞ったこともございませんし、舞わしたこともございませんでした。謡曲の方では「松虫」は男同士の友情であると、ただその一行だけが書かれていた、ということでした。それではわたくしが聞いた話がそのままあてはまるかどうかわかりませんが、そのように男同士というふうに上演してもよいのだと思いまして、お稽古をしていましたので、皆様にお目にかけて、またそれが誰であるかをご調査願えましたら、一石二鳥と思った次第です。
曲の方は、浮世とか何とか、江戸言葉が随所に出て参りますが、舞と離れた感じの歌詞がでて参ります。それはこの曲ができまして、この中に二人が遊ぶ部分で虫の相方という手事がございます。非常に長い手事でございますが、この曲の相方が江戸中期に、長歌の「秋の色草」とか、いうような長歌ものの中に、この虫の相方が取り入れられたということを文献で見まして、じゃこれはもっともっと以前にできたものであるという確信はできております。
そのようなことで、謎というとおかしいのですが、「謎の舞」というような感じも受けますが、そういうものが根にある、ひとつの物語としてわたくしは伝えてもらっております。
どうぞ皆様もよろしくご批判いただきまして、難波の皇子が誰であるか、筑紫の皇子が誰であるか、などがわかればと思います。これは皆様のこれからのご研究に待つところでございます。三絃は熊法子先生と尾田桂子先生です。
舞人 筑紫の皇子 西山村登紀寿
難波の皇子 西山村伶寿
思ひにや。こがれて集(すだ)く蟲の聲ごゑ小夜ふけて。
いとヾ淋しき野菊にひとり。道はしら菊たどりて此處に
合誰をまつ蟲なき面かげを。慕ふこ丶ろの穂にあらはれて。
萩よす丶きよ。寝みだれ髪の。とけてこぼる丶涙の露の
合か丶る思ひを何時さて忘れう合兎角りんゑの拙き此身
はる丶間もなき胸の闇合雨の降る夜も降らぬ夜も。通ひ車の
夜ごとに来れど合逢うて戻れば一夜が千夜合あはで戻れ
ばまた千夜合それそれそれぢゃ。それが實のさ
合ほんに浮世が儘ならば。何をうらみん由なしごとを
合桔梗かるかや女郎花。我は懸路に名は立ちながら。
一人まろ寝の長き夜に合手事おもしろや。千草にすだく蟲の音の。
幾織る音はきりはたりちゃう。きりはたりちゃう。つヾれさせてふ。
ひぐらし蟋蟀。いろいろのいろ音の中に。わきて我がしのぶ松蟲の聲。
りんりんりんりんりんとして。夜の聲。めいめいたり
合すはや難波の鐘も明方の。あさまにや成りぬべし。
さらばよとも人餘波(なごり)の袖を。招く尾花の。ほのかに見えし。
跡絶えて。草ばうばうたる阿倍野の原に。蟲の音ばかりや残るらん。
むしのねばかりや残るらん。
いかがでございましたでしょうか。非常に不思議な舞とお思いになりませんか。わたくしは自分が習ったときは自分の姿を見ることができませんで、教えてみて、前で絵にしてみて、これは何だろうというふうな不思議さを感じました。なんとか舞人もその心を汲んで表現してくれたものと思います。
つぎは「夕顔」でございます。これは“源氏もの”で、皆様よくご存じの『源氏物語』の中の「夕顔の巻」、それを題材にとっております。よく知られております、光源氏が夕顔のもとに通うというような話でございますが、筑紫舞としては二通りございまして、光源氏が現われそして夕顔との出会いがある、という場合は、“源氏もの”を『公卿舞』としてとり上げています。本日上演いたしますのは、夕顔が“雨夜の品定め”の中にでてきて、自分が話題になっていて、世にときめく光源氏の君が自分を所望しているというようなことを、チラリと風の便りに聞きまして、もしかすると自分を迎えに来て下さるのではいか、そうだったら嬉しいなアという気持ちで、車の音に胸をときめかしてちらっと外を見に行く、そして待つ、というような貧しい家でありながら、非常に夕顔の花のように美しい、そういう娘ということで、そのうち、その娘も“呪い殺される”という薄幸な娘です。
筑紫舞としては“源氏もの”は多少あるのですが、こういうものを夕顔ひとりで“女心”・“いじらしい娘心“というものをとり上げる場合は「源氏もの・芝舞」ということで、“くぐつもの”の部類に入ります。そして、昔は現在のようにテレビとか大きな舞台がない場合に、ひとつひとつのそういうのをとり上げて、そのストーリーを芝居にして見せる、そして心を伝えるようなことだったようでございます。
本日上演させていただきますのは、その「源氏もの芝舞・くぐつ舞」、夕顔が娘心を表わすという部分をお見せしたいと思います。
舞人は西山村典寿でございます。最後までごゆっくりご覧下さい。
舞人 西山村典寿
住むや誰
訪ひてや見んと黄昏に合寄する車の音信も
絶えてゆかしき中垣の合
隙間もとめて垣間見や合
かざす扇に薫きしめし合空たき物のほのぼのと
主は白露光を添へて合 ー手事ー
いとど栄えある夕顔の 花に結びし仮寝の夢も
合覚めて身に染む夜半の風
いかでございましたか。わたくしにこの舞を教えてくれたのは、菊邑検校のお供をして、わたくしに舞の手振りを教えてくれた口のきけないケイさんでございました。今、あの子(典寿)が舞っているのを見ておりまして涙が出ました。
つぎはガラリと変わりまして「越後獅子」でございます。越後獅子というのは、世間一般に知られていますのは、越後月形村の子供の獅子、そういう獅子頭(ししがしら)をかぶっての獅子舞を越後獅子と言っています。筑紫舞では非常に高度な“くぐつ芸”、いわゆる「道中言い立てくぐつ舞」というもので、しかも「幣立てくぐつ」といい、神社のお札ふだをもらい、そのお札(ふだ)を持って舞いまして、芸を演じても、投げ銭は受けとらない、ただよければこのお札(ふだ)を買って下さいといって、お札(ふだ)を後で売るというようなものがこの「越後獅子」でございます。「越後獅子」にかぎらず、「ひんだ組」とか、「琉球組」とか、いろいろな三味線曲の中にございますが、「越後獅子」の場合は曲芸に近い軽業芸を見せて、そして、私達の筑紫には、こういう物凄いことをする者たちがいて、でもそれでお金を儲ける者ではない、私達は神様に頼まれて、みなさまの「祓」に来ているのだ、その祓いの証拠にお札(ふだ)を届けているのだ、家内安全であろうが身の安全であろうがお札(ふだ)を買って下さい、そのお金を費用にする、でもやはり商売ですから、ご当地ソング的な、越後へ行けば越後獅子、加賀へ行けば何とか・・・というように、ご当地ソング的なオベンチャラといいますか、そういうふうなものは各所にあったと思います。でも根本の舞そのものは筑紫ならでは、筑紫舞でなければできない技法というか、独特の技法が各所にあります。道中祓いの芸で、道中言い立てということになりますと、いろいろなそれに伴う小道具というようなものは持っては旅はできませんので、白扇二本を持って獅子頭に使い、また晒し布に使うというように、白扇二本の、扇でもっていろいろなものを表わして、それをそれらしく見せるというのがくぐつ芸の自慢であり、誇りでもあったように思います。軽業芸と思われても結構だと思います。
本日は四曲ご覧いただくことになっていますが、それぞれ各一曲ずつ特色といいますかぜんぶ分野の違うものを並べて見ました。バラバラのような感じはいたしますが、初めてご覧になる方はこんなものがあったのか、あんなものもあったかというようなお気持ちで見ていただきましたなら、筑紫舞というものがいかに底が深く幅が広くいろいろなものを持っているか、そういうすばらしい芸能が九州にはあったのだということがおわかりになるものと存じます。
その筑紫舞を、ぜひ皆様のご記憶にとどめおき下さいまして、それをそのまま滅ぼしてはいけないと思ってやってまいりましたわたくし、また、それを伝承しなければいけないと一生懸命やってくれる門弟の者のこともお考えいただきまして、ようによろしくお願いいたします。どうぞあたたかいお気持ちでご声援を下さいます
舞人 西山村透寿
西山村津奈寿
越路こしぢかた。御国名物おくにめいぶつ様々さまざまなれと。田舎ゐなかなまりの片言かたことまじり
しら兎うさぎなる言ことの葉はに。面白おもしろからしそうな。事ことなを
浦うらの海士あまの子こが七ななつ八やつ目め鰻迄うなぎまで。住すむやあみその綱手つなてとは。
戀こひの心こ丶ろもこめ山やまの。富帰とうき浮気うはきで黄連わうれんも。何糸魚川なにいといかはいとうをの
もつれもつる・くさ浦うらの。油漆あぶらうるしと交ましはりて。末松山すゑまつやまの白布しらぬのの。
ちヾみははだのとこやらが。見みえすく国くにの風流ふうりうを。
写うつし太鼓たいこや笛ふえの音ねも。引ひきて謡うたふやし丶の曲きょく
向むかひ小山こやまの紫竹しちくだけ。枝えだふし揃そろへて。きりをこまかに十七しふひちか。
もろのこぐちに。昼寝ひるねして花はなの盛さかりを。夢ゆめに見みて候夢そろゆめの裏方うらかた。
越後ゑちこの獅子ししは牡丹ぼたんは持もたねど富貴ふきはおのが姿すがたにさかせまひ
納をさむ。
今日は皆様のあたたかいまなざしでご覧いただきまして、本当に有難うございました。門下の者たちも一生懸命にこれからも努めさせていただきたいと思います。また、九州の歴史につながる芸能として、皆様の心におとめいただきましたら幸いでございます。どうもありがとうございました。(拍手)
司会
皆様、いかがでございましたでしょうか。この筑紫の地に、かように心深き伝統芸能としての筑紫舞が現代に甦っているのです。「〈聖武天皇・天平三年七月〉乙亥、雅楽寮の雑楽生の員を定む。大唐楽は三九人、百済楽は二六人、高麗楽は八人、新羅楽は二六人、諸県舞は八人、筑紫舞は二十人・・」と、『続日本紀』に記述されて後千二百年余、歴史の表舞台から消え去っていた筑紫舞は、皆様が日々の生活を営む香椎の宮近く、西山村光寿斉氏のご自宅において、日夜お弟子さんたちによって伝授されていたのです。
この現代に甦った筑紫舞は、市民の古代研究会の会員だけでなく、福岡・博多の方、そして九州、日本国に住む私たち全員が、自分たちの祖先が歴史に刻み残した民族の遺産として受け止め、後世に伝え、残していくべきものではないのかと、この舞を拝見するたびに思うのです。
私も先ほど涙をさそわれた場面がございましたけれども、その一曲一曲には、血のにじみでるような思いと、厳しい試練を耐えての伝授が行われてきたからです。西山村光寿斉氏は今から五十年前に、盲目の琴の天才・箏曲の師匠、菊邑検校氏からこの筑紫舞二百曲余りを伝授されたわけです。けれども、この舞は時節がくるまでは世にでることは許されず、西山村光寿斉宗家の胸に奥深く秘められていたのです。しかし故武智鉄二氏や、本日講師でお越しいただいております古田武彦氏によって、するどい直感と学問の目でこの世に、いわゆる“幻の舞”としてではなく、現在に生きる「歴史の証言者」として再生したのです。
福岡には「筑紫舞後援会」がございます。現在三百名ほどの会員が全国におり、筑紫舞を保存し、後世に伝えようと決意を堅くして会を運営しております。ただこの筑紫舞を伝授するには曲数が二百余曲もあり、お弟子さんたちも苦闘を続けております。普通の日舞などと違い、難しいですが、たいへん優れた舞でもございます。それゆえに、このような舞をこの福岡・博多の地に、そして我々日本人の民族文化・芸能として保存し、残していかなければと思います。本日ここにご参加くださいました皆様に、ぜひ筑紫舞の後援を賜わり、西山村光寿斉宗家にご協力、ご支援を暖かく賜われればと思う次第でございます。これをもちまして筑紫舞の上演を終わらせていただきます。(拍手)
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