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シンポジウム

倭国の源流と九州王朝

新泉社

古田武彦 編

始めの数字は、目次です。「 はじめに」のみ下にあります。

【頁】【目 次】
001 はじめに 古田武彦

007 「九州年号」とは何か・・・・・丸山晋司

009 「九州年号」の諸実例/ 019「九州年号」に対する従来の見方/ 025「九州年号」実在論の根拠/ 035補足報告〔上村氏の質問・意見(1) 上村氏の意見(2) 中国の情勢と改元 これからの遺跡発掘と「九州年号」〕

 

047 好太王碑と倭・・・・・藤田友治

047好太王碑とは/ 049最近の碑文研究の動向と課題 (一)碑文の論理 (二)拓本等の研究 (三)現地調査 056 /好太王碑文にみる高句麗の対外戦争/ 059  辛卯年条の解沢をめぐって 062倭とは何か/ 068藤田試釈 / 071補足報告〔勾玉の論証 「三種の神器」の意味〕

 

079 海と人と王権と・・・・・中小路駿逸

080私の方法/ 083心得二つ/ 087『創世記』の「天地創造」 創造の順序 人間の順序では考え出せない/ 096原型としての体験〔おおって動いているもの 嵐の海 まず夕方、次に朝 嵐の海の漂流と漂着 体験者はだれか〕/ 104海進災害・漂流・標着〔「天地創造」とは何か 『詩論』に傍証例あり 『ヨブ記』に傍証例あり 『新約聖書』に傍証例あり 古説ルネッサンス ”無からの創造”説のこと 無理な訳 無理な本文改訂 複数の天と単数の光 秩序と安定との付与 進化論に対抗できない 権威よりも事実が強い 海進の傍証例について〕/ 115日本にも海進の話がある〔巨大な水面 陸をさがす 原型は人間/ 121人間の起源は? 「神人」と「人」 「神」は神、「人」は人 ヒルコの問題 先祖のカットされた例 子孫のカットされた例 天照も夫婦の子 イザナギにも先祖あり〕/ 133伝承の多元性 人の話から神の話へ/ 137補足報告〔 『聖書』と進化論のこと 『日本書紀』の書名について 筑紫舞について 学問の方法について〕

 

161「君が代」と九州王朝・・・・・古田武彦

162「君が代」の起源/ 172天神の起源/ 179『東日流外三郡誌』と九州王朝/ 186朝鮮半島の「倭地」問題 191補足報告〔「君が代」問題の進展 古賀達也・「君が代」の伝承 “法隆寺”釈迦三尊像と九州王朝 釈迦三尊像台座墨書の解読〕

 

208 筑紫舞上演・・・・・西山村光寿斉

210榊葉/ 212謎の舞「虫の音」/ 215「夕顔」/ 217「越後獅子」/ 220筑紫舞伝承の意義

 

223 討論

224 絹の出土と九州王朝/ 226こうやの宮人形/ 228吉備の貨泉/ 230九州王朝の貨幣/ 232筑紫舞との出会いと意義/ 238筑紫舞の証言/ 245神話学と歴史的事実/ 251魏志倭人伝と吉野ヶ里/ 253九州王朝の物証/ 255史料の読解/ 256吉野ヶ里遺跡は邪馬台国ではない/ 259考古学の編年の問題性

269 シンポジウムの記録とメッセージ

シンポジウム開催の意義 ーー司会者挨拶・・・・・ 市民の古代研究会事務局長 高山秀雄

主催者あいさつ・・・・・市民の古代研究会会長 藤田友治

あいさつの言葉ーー九州支部発足の経過・・・・・市民の古代研究会・九州支部 灰塚照明

真実の古代史を・・・・・元参議院議員 中山千夏

天皇家一元史観への批判・・・・・社会科学研究所代表運営委員 瀬戸 長

歴史の実像を掘り起こす・・・・・近畿南九州史談会 常任幹事・会誌編集長 山田 勇

古田説の生みの大地・・・・・古田武彦と古代史を研究する会会長 山本真之助

埋もれた古代の真実・・・・・市民の古代・青森支部代表 鎌田武志

九州王朝と蝦夷国・・・・・仙台・市民の古代研究会 斎藤隆一

メッセージ・・・・・市民の古代研究会・丹後支部一同

確固たる地盤を・・・・・市民の古代研究会・顧問 中谷義夫

多元史観と古田説 ーー閉会のあいさつ・・・・・司会者 高山秀雄

[10 参 考]九州支部発足記念 シンポジウム「続・邪馬壹国から九州王朝へ」
      主催:市民の古代研究会   1990年(昭和65年)3月23〜24日

     装幀 勝木勇二
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シンポジウム

倭国の源流と九州王朝

1990年11月20日第1刷発行

編者 古田武彦
著者=古田武彦・中小路駿逸・丸山晋司・藤田友治
発行所=株式会社 新泉社
印刷=太平印刷社
製本=根本製本所


はじめに

 二十年前、わたしは孤立の探究の道へと出発した。
 倭人伝の中の中心国は「邪馬台国」ではない。原文通りの邪馬壹国である(三国志)。
 「日出ずる処の天子」の風土として、ただ一つ、阿蘇山が書かれている(隋書)。阿蘇山は大和にある山ではない。九州だ。だから、この天子を中心とした王朝は大和にはなく、九州にある。すなわち、九州王朝である。
 この道理を認める限り、「邪馬台国、近畿説」や「邪馬台国、東遷説」、また「倭の五王、近畿天皇家説」など、いずれも成り立ちえない。なぜなら、七世紀前半の「日出ずる処の天子」が九州なのであるから、それ以前は、論ずるまでもない。
 また、日本の阿倍仲麻呂を高官として擁していた唐側の記録では、旧来の「倭国」と新興の「日本国」を別国とし、その日本国(小国)が倭国を併合した、と明記されている(旧唐書)。日本国出身の「阿倍認識」等による報告と見なされる。そしてそれはまた、「倭国」と白村江で激戦した唐朝側の認識であった。
 このような自明の道理を、一切無視してきたのが、明治以降の日本の学界であり、日本の教科書だった。この肝心の一点において、戦前も、戦後も、何等の変更も、進展もない。日本の歴史的認識の閉塞状況をしめすものであろう。日本の歴史を「天皇家中心」の一元主義で“塗りつぶそう”とした、薩長政権以来の因襲の歴史学だったのである。
 それゆえ、学会の大会も、シンポジウムも、この「九州王朝」問題を回避し、決して正面から論じようとはしなかった。これに反し、敢然と、前回のシンポジウム「邪馬壹国から九州王朝へ (1)」、今回のシンポジウム「続・邪馬壹国から九州王朝へ (2)」を開催されたのが、市民の古代研究会 (3) をなどの民間研究団体だったこと、偉とすべきであろう。後世の心ある研究史家は決してこれを忘れず、特筆しよう。孤立の一探究者たることを全生涯の面目とすべき、わたしにとって、「この世のこととは思われぬ」一大感銘事であった。
 しかも、今回、刮目すべき一大発見があった。「君が代」の真の誕生地が判明したことである。灰塚照明・鬼塚敬二郎・高山秀雄・藤田友治氏等の達眼、そして古賀達也氏の明察を得て、この一大真実が解明されることとなった。すなわち、これは「九州王朝内の神歌」にして、さらにその王朝への讃歌だったのである。
 この点、すでに『「君が代」は九州王朝の讃歌』(新泉社刊)として上梓したところであるけれど、その実、今回のシンポジウムにおいて、先ず闡明されたものであることを、後代のために明記しておきたい。
 しかも、当シンポジウムの成果はそれだけではなかった。読者が一瞥せられれば、直ちに了得されるように、丸山晋司氏の「九州年号」論、藤田友治氏の「好太王碑」論、さらに中小路駿逸氏の「バイブル」論と、他の学会・シンポジウムには到底見出しえぬていのテーマ、そしてそれに対する大胆にして斬新な探究が充溢しているのを確認できるであろう。
 もちろん、ここでのべられたものは、すべて決して「断案」ではない。むしろ探究の「出発」点である。そしてそれこそいわゆる「シンポジウム」なるものの目途、真の面目なのではあるまいか。当シンポジウムはまさにその任務を果しているのである。
 さらに、本書は、第二日に実演をえた、西山村光寿斉さんの伝統される、筑紫舞に関する、幾多の資料を収載しえたことを喜びとする。この舞は、日本の芸能史上、出色の一大文化財であり、九州王朝の舞楽の“生き証人”ともいいえよう。後世の人々は必ず、その一片の伝来・記録すら、無上の珠玉として珍重するであろうから。
 このようなシンポジウムを支えて下さった、当日の出席者、聴講者の方々、また当書を通じて、旧来の「一元主義」史観のイデオロギーという迷いの森を出て、真に多元史観を真面目に“考えよう”として下さる読者に、わたしは深い謝意をささげたいと思う。なぜなら、この人々こそ、日本文明の新たな夜明け、その未来に一手をさし出して下さった方々だからである。わたしにはその一事を疑うことができない。
     一九九〇年一〇月一八日
                          古田武彦

〈注〉
(1) 一九八七年、三月二二、二三日(新泉社より同名書として刊行)。
(2) 一九九〇年、三月二四、二五日(当書では、『倭国の源流と九州王朝』をもって、書名とした)。
(3) 本部及び九州支部。


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