『倭国の源流と九州王朝』(目次) 筑紫舞との出会いと意義 神話学と歴史的事実
「君が代」と九州王朝 古田武彦

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『シンポジウム 倭国の源流と九州王朝』(新泉社 古田武彦編)

討論

 絹の出土と九州王朝

 古田
 まず、宮本健太郎さんのご質問で、「絹の出土について、先生は邪馬壱国論争で、近畿説と九州説との大いなる論点は絹の出土状況だと説明されましたが、春日市の教育委員会の平田定幸氏の話では、絹の出土は、銅剣を巻いたと思われるものとして、少量しか事例がなく、絹であるとの確認をするには技術的に非常に困難だそうですが、先生の資料はどのようにして調査されたものでしょうか、ご教示いただきたい」ということです。
 このお答えははっきりしておりまして、布目順郎さん、京都工芸繊維大学の名誉教授の方で、富山市ご出身で、今はもう富山に帰っておられますが、この方が恐らく世界唯一と言っていいぐらいの、いわゆる弥生の絹の専門家でございます。この方でないと、ここにあげられた教育委員会の学芸員の方とか、考古学者とかいうのではじつは判定しかねる。布目さんがその点素晴らしい研究をしておられまして、『絹の東伝』とか、絹に関する本を出しておられますが、その中に示されたところを私は、たとえば『吉野ヶ里の秘密』というカッパブックスの本にも引用させてもらっております。その他何回か引用させてもらっております。
 それによりますと、いわゆる博多湾岸とその周辺に集中しているわけです。特に注目すべきは、最古の絹の出土地が、ご当地博多湾岸の有田遺跡、室見川下流の有田遺跡から出たかめ棺、私が言いますミカ棺の中から出た絹が、日本列島最古の絹でございます。シルクロードの東の到達点は有田である。正倉院ではございません。正倉院はもうずっと、八世紀、九世紀という後になって正倉院に現われるわけです。最古に日本列島に到達したのは、現在のところ有田でございます。それから今度は、弥生で一番遅いのが唐の原と言いまして、志賀の島の半島、突き出したあのつけねのところにあります唐の原、これが弥生の末、古墳の初期の遺跡から出た絹です。これが弥生時代で一番遅い絹である。ですから、弥生時代、まあ六百年くらいを弥生時代に当てておりますが、前期、中期、後期、その弥生の中で一番早いのが有田、一番遅いのが唐の原、いずれも博多湾岸でしか出土していないわけです。なお、もうひとつ注目すべきものが春日市、福岡市のベットタウン春日市の須玖岡本遺跡。明治時代に農家の庭先から出ましたものですが、この遺跡のやはりかめ棺から前漢式鏡、き鳳鏡が三十面前後出ておりますが、もちろん剣や矛や戈や、勾玉も出ています。ここからやはり絹が出ています。絹はもう博多湾周辺では珍しくないんですが、ここでしか出ないものが中国の絹でございます。だから、倭国の絹と中国の絹と両方出てきたのは、この春日市の須玖岡本だけでございます。その須玖式かめ棺、吉野ヶ里の大部分の七、八割のかめ棺が須玖式かめ棺でございます。吉野ヶ里からは倭国の絹がたくさん出てきました。中心から西寄りのかめ棺から出てきましたが、中国の絹は出ておりません。というようなことです(正しくは「みか棺」です)。
 今言ったように、一番新しいもの、古いもの、それから中国と倭国の絹を含んだもの、これらがいずれも福岡市、春日市に集中しているわけです。このことは倭国の中心がどこであったかということを端的に示しているわけです。倭人伝の中で、鏡などは銅鏡百枚これだけ、絹のことはこれでもかこれでもかというぐあいに書いてあります。中国から錦をもらっているわけです。卑弥呼は倭国の錦を献上している。壱与も献上している。倭国は絹の産地であった、とこういうわけでございます。非常に大事な絹の問題についてご質問いただいてありがとうございました。

 

 こうやの宮人形

こうやの宮人形  討論『シンポジウム 倭国の源流と九州王朝』(新泉社 古田武彦編)

 次は、高田浩二さんのご質問で、「こうやのみや人形。 一、百済の武人が捧げ持つ七支刀は、本物が石上神宮に収納されていて、銘文に『倭王旨のために造る』とあると聞いております。二、かかる複雑な説話が構成、構築されたとは考え難いし、地方から王朝に参上するという史実にして、同時代に人形が作製されたと見るのも無理なことでしょう。倭王旨(四〜五世紀のことでしょうか)の時代の作品となると、失われた九州王朝時代の貴重な木造作品ということになります。三、瀬高町では文化財として、邪馬台国瀬高説の根拠のひとつにしているようですが、傾きかけた田圃の中の古い社に収納されているだけでは、保存その他が気がかりなものです」
 例の『九州の真実60の証言』という本の写真、カラーの美しいのを作っていただきまして、その中に非常にいい写真が載っております。つまり、瀬高町に「こうやの宮」という小さな社がありまして、そこの中に五体の木造のご神体がある。一体が一番大きくて、座っていらっしゃって、衣冠束帯みたいな感じの方ですが、これが胸に桐のご紋章をつけている。そして、その隣りが、例の百済の官人のような人が立って七支刀を持っている。ちょっと一部欠けておりますが、そしてその隣りが美少年みたいな感じで、聖徳太子の若いころみたいな感じの木像で、これがその鏡を儀礼のように捧げ持っている。これはやはり鏡を日用具ではなくて信仰対象にしていた、近畿天皇家からの使いであると私は考えました。その次が背が高くてマントみたなものを着た人物で、これは恐らく寒い国から、まあ高句麗であるとか中国であるとか、そういう北方から来た使者であろう。で、最後が一番向かって左側なのですが裸である。しかし、両腕に金の釧(うでわ)を二つずつ巻いておりますので、やはり王子かなんか、そういう南方の国の王子が魚のようなものを(紐で引っぱっております。先が切れておりますが)、それを持って使いにやって来たと、そういう感じでございます。
 だから、要は一番大きくて一人だけ座っているその人物が「こうやの宮」の主人公である。そこにそれぞれの地方からというのですか、遠方から祝いの使いがやって来た、そういうことを示す、記念した木像です。それはまあ同時代に作られたかどうかはわかりませんが、恐らくそういう伝承を木像で表わしたものではないかと思います。だから、中心の人物というのは向かって右端の座っている人で、「こうやの宮」の主人公だと思いますが、これは要するに、現在は田圃の中にありますが、その中の奥宮にあたる、奥御殿に当たるそこが今の社になって残っているのだろうと思います。
 この人物の身元は幸いにほぼわかるわけですが、そばの高良山、こうやの宮のすぐそばに高良山という神護石で有名な山、神社がございます。ここが桐のご紋章、四つある紋章のひとつは桐なんですね。そこの代々であると。しかもそこの初代である。いわゆる四世紀半ば、皇歴では仁徳五五年という年に高良大社の歴代の第一が出た。こういうふうに伝承しているわけです、それを祝って各地からやって来たという形になっている。百済からもやって来た。その百済の使いが七支刀を持って来た。おもしろいことに、すぐそばに物部磯上神社というのがあるんですね。物部磯上神社、これも灰塚さんに教えていただいたんですが。例の大和の石上神社、あそこに本物があるわけです。石上と書いて、あれはふつう「いそのかみ」とは読めませんけどね。ということは、もうおわかりだと思うのですが、百済から来たのは四世紀半ば、こうやの宮、その時は瀬高町あたりに宮殿があって、私の言う九州王朝の王だった。そこへ百済からも近畿からも祝いが来た。南方からも来た。高句麗か中国からも来たんです。それを記念して木像を、いつの時代か知りませんが造った、と私は理解しているわけです。この点、今のカラフルな冊子で本物をご覧ください。あれくらい正確に写されたものは今まで例がないと思います。プロの写真家を旭印刷社から出していただいて撮影された本ですが、これは初めて、ということでございます。まあその辺大事な問題を早口に申しましたが、私があの『失われた九州王朝』(朝日新聞社、角川文庫)で予言、発見というとおこがましいが、「予言」しましたように、七支力は九州王朝にもたらされた物であろう。なぜなら、『古事記』にはまったくこの記事がない、といったような論証をやったのです。それが裏付けられた思いがするわけでございます。
 保存の問題はおっしゃるとおりで、また今後保存のための処置をしていただくという、これには費用がかかりますが、やはりその点は九州の方々のバックアップがほしいと、こう思います。

 

 吉備の貨泉

 さて、その次、秦政明さんでございます。「最近の報道によりますと、吉備の中心地とも思える弥生遺跡から貨泉が多数発見されたとのことです。これは解説によると金属材料に使われたとのことですが、貨幣としての認識はなかったのでしょうか。」
 その点で、じつは私、今日これが済みましたら、明朝、博多を立って岡山に途中下車して、岡山市の高塚遺跡、ここを拝見したいということを教育委員会に連絡をとっています。どうぞおいでください、という話し合いができているところです。朝日新聞、私が東京で見るかぎりは出ていなかったので知らなかったんですが、この新聞を見せていただいて、これはもう是非行こうと思って飛んで行くわけでございます。
 この貨泉というのが注目されるのは、「新」の王莽、この王莽の時に発行された貨幣なんです。で、その新の王莽というのは、イエス・キリストの時分、前後二、三十年しかなかった国です。だから、少なくとも造られた年代がはっきりしている。その二〜三十年間に限定されます。そういう点で非常に値打ちがあるわけです。ところが、二十五枚という、今まで全部出てきたものでも十何枚ですから、いっぺんに二十五枚出てきたというのはすごいわけです。これは私はやっぱり非常に注目すべき発見であろうと思います。
 しかも、新聞報道にはそれに触れたものがないようですので申し上げさせていただきますと、文献との対応があるわけです。あまり知られておりませんが、『漢書』の「新の王莽伝」というのがあり、そこに「東夷王、海をわたりて国珍を献ず」という、こういう記事があるのです。東夷の王というんですから、朝鮮半島だか日本列島だかわからないわけですが、しかし、「海をわたりて」というのは、言葉を見ると、朝鮮半島からは海をわたって行けますが、陸を通っても行けます。ところが、日本列島からはもう海をわたらないと行けないわけです。だから、わざわざ海をわたってという言い方をしているのを見ると、この東夷の王というのは日本列島である可能性が強い。
 私は前々から講演会などでその話が出たときには言っておったわけです。その時は私は、倭人の話は例の『山海経』以来出てきておりますので、倭国の王かな、倭人の王かなというふうに思っていたのです。ところがその場合、ちょっと引っかかるのは、倭人の王なら倭というのは知っているのだから、「倭人の王国珍を献ず」と言えばいいのです。それを倭人の王とか倭国の王とか言わずに、「東夷の王海をわたりて国珍を献ず」というのが、何だろうという感じがしていたのです。それからまた、私の感じではこの二十五枚という圧倒的な量の貨泉というのは、その時の王者が新からもらったものではなかろうかという、そういう感じを持ちまして、それで飛んで行くわけなんです。
 まあ、これは先入観になってはいけないから、間違ったら間違ったと言うんですが。つまり、この場合は吉備の国ですけれども、これは倭国ではなくて倭種の国です。倭人伝言うところの倭種の国の吉備の王者、弥生時代の。これを「東夷の王」と表現したと考えればよくわかる。つまり、倭国王とか倭人王とか倭の国王とかいうのではない、東夷の王だということになると思うんです。行って明日の楽しみだと、こう思っておりますので、またわかりましたら詳しく申し上げる時があると思います。年代の点は新聞には弥生後期初頭の遺跡だから、これはその新の王莽の時代の遺跡だったと書いているのがありますが、これはちょっと早とちりだと思います。だって、新聞記事にもありますように、古墳時代からも王莽の貨泉がだいぶ出てきているんです。すると古墳時代というのはイエス・キリスト前後にあったという話になります。そう短絡的に結び付けることはできません。「伝世」という問題もありますし。ですが、とにかく非常に興味深い、今までわからなかった、私なんかわかりたくてわかりたくて困っていた、吉備の状況がひとつわかることは間違いないだろう、先入観を持たずにそれを探索しお聞きして来ようと、そう思っております。どうもありがとうございました。

 

 九州王朝の貨幣

 さて二番目、同じ秦さんで、「天武系の王朝は、七〇一年に年号を建て、続いて律令を定め正史を編纂し、また貨幣も造っています。九州王朝も年号、律令、正史を持っていましたが、貨幣は持っていなかったのでしょうか。先生のお考えを聞かせてください」と。
 これも非常にいいご質間で、この点もじつはさきほど話が出ました、例の「君が代」の問題にリーダーシップをとられた古賀さんが、やはりこの問題に非常に熱心になっておられた時期がございます。で、私もいろいろ議論したのですが、結論から言うと、九州王朝では当然貨幣が造られていたと思います。その証拠に『続日本紀』で文武天皇のところになって、「始めて貨幣を造る」という言葉が出てくるわけです。誰が読んでもこう書いてあるんですから、「始めて貨幣を造る」と。天皇家は八世紀になって初めて貨幣を造った、それ以前は造っていなかった。ということになるんです。にもかかわらず『日本書紀』には結構貨幣の話が出てくるんです。天皇家が造る以前なのになんで貨幣が出てくるのか。好きや道楽で貨幣を造る、造りたいのがいて造ったから、それが貨幣として通用した、なんてことはありえないのです。貨幣というものの性質からいうと、制度的に造らなければないですから。するとやはり天皇家以外に、天皇家以前に、貨幣を造る存在がいたということです。そうするとこれは、九州王朝であるという問題になってくるんです。
 で、そういう実物はあるのかというと、なくはないんですね。というのは、例の近江朝、あそこの神社、近江神宮のところでしたか、そのお隣りのお寺ですか、再建というか、修理、建造しなおした時に、その柱の下のところから貨幣が出てきたんです。どうもこれは、天智天皇のころ、いわゆる七世紀の半ば、天智天皇のその時期の物ということになっているんです。それで私は飛んで見に行ったんです。実物を皆見せてもらって、写真に撮らしてもらったんですが。皆何か擦り潰されているんです。文字があったかどうかはわかりませんが、文字があったはずのところです。貨幣には何もないのっぺらぽうの、銅だけという貨幣はないわけです。この場合は貨幣の格好をしているのに、模様もデザインも字もないわけです、擦り潰されて。あれはやはり、もとあったものを消し去ったのではないかという感じを私はもったのですが。これがしかし、これ以上の証拠はないのです。これはまた、話し出すといろいろある、古賀さんなんかもいろいろご意見があると思うのですが、今後、やはりさきほどの九州年号の問題と同じように、その気になって探すと出てくると思います。九州王朝の造った貨幣が。

 

 筑紫舞との出会いと意義

 司会 (略)

 古田
 それでは改めて西山村光寿斉さんとご一門の方々をご紹介申し上げます(会場から拍手)。もう蛇足でございますので手短かに私の感想といいますか、ご紹介の言葉を申させていただきます。先ほど拝見させていただいて、非常に感慨深いものがございました。と言いますのは、西山村光寿斉宗家は、姫路でご自分で精進され、そしてそこでも若い方々、ご自分の娘さん方を含めてお鍛えなさったわけです。そこで「七人立」の「翁」というものを上演なさった。私も姫路とか東京とかで拝見してほんとうに荘厳な、口では言いようのない素晴らしい姿に、ほんとに恥ずかしいんですが、思わず涙を流して拝見した記憶を忘れることができません。
 ところがまあ、故あって、その時の方々が解散されて、そして西山村さんは初めて「筑紫」、現地でいう「ちくし」の地にお出でなさったわけです。もうずいぶんお年になられていたのですが、旦那様のお力添えを得てお出でなさったわけです。それから多くの日が流れたとは思わないのに、今日のような見事な舞を舞われるお弟子さん方を筑紫の地で得られたということを思うと、ほんとにまたあの日とは別の胸がこみあげるものを感じるわけでございます。特に最初の「榊葉」を拝見していますと、あれはやはり、私のような舞にはほとんど、芸術的には能力のない者のいうことですから、あてにしないで聞いていただきたいんですが、私にはあの「翁」と非常に、共通したものを感じました。もちろん、「翁」はもう非常に見事に完成したものです。その部分といいますか、淵源といいますか、そのようなものを、私は「榊葉」という舞に感じて、その辺もとても深い感銘を覚えました。
 そこで、今日は上演されませんでしたが、「翁」という舞について申させていただきます。西山村さんが京都におりました私のところに電話でご連絡いただいたのは、この「翁」をめぐる不審からだったんです。といいますのは、「翁」七人立ちというのがメインでございますが、諸国の翁が都に集まって舞を舞うという姿のものである。ところが、それは肥後の翁とか、出雲の翁、越の翁、それから今度は瀬戸内海の方へ行って難波津より上がりし翁、それから名古屋の尾張の翁、それからえびすの翁、これはどこだろうと私は悩んでいた時期があるのですが、やっぱり関東でいいだろうと現在思っております。なぜかと言いますと、越の国というのは、あれは「えみし国」でございます。越のえみしです。だからあれは、えみし国で一番西に近い所の越の翁が、えみしの翁として来ている。こう、やはり見るべきものだろうと思います。
 さて、それはいいんですが、一番の問題はこの都の翁で、都というのはどこでしょう。というのが西山村さんのご質問であった。いわゆる九州のあの京都(みやこ)郡のみやこはどうでしょう、ということをおっしゃった。で、私はいやそれはそうではなくて、やはりその都は筑紫でしょうと、つまり太宰府でしょうと。でないと、筑紫のど真ん中といいますか、そこの翁がいなくて「筑紫舞」とは言えないでしょう、というお答えを申し上げたのが、私とのおつきあいの始まりなのです。しかも、これを一々お聞きしていますと、次々に不思議なことが出てまいりました。というのは、三人立ち、五人立ち。三人立ちというのはやはり都の翁を中心にといいますか、肥後の翁中心といってもいいのですが、肥後の翁、都の翁、越の翁、こういうことになっている。ところが、私の研究の中で九州王朝の、弥生前半期の九州王朝の分布範囲なんです。それが三人立ちで表現されている。恐らく一人立ち、一人立ちということはないと思いますが「源流おぎな」というのを拝見しましたが、この源流おぎなというのが筑紫舞である以上は、筑紫の翁、都の翁ではないかという感じがするんです。というようなことで、これは私が言います九州王朝の舞楽というものと非常に深いかかわりを持つ、あるいは、そのものではあるまいかと、空恐ろしいような気持ちになったわけでございます。
 しかしまあ、空恐ろしい気持ちはその時は「なり始め」でして、次々にいろいろと、西山村さんから、菊邑検校から教わったことを逐一身につけておられるんですが、お聞きするごとに空恐ろしい震えあがるような思いを絶えず繰り返して今に至っているという、こういうわけでございます。今日も、やはり私拝見しておりまして、「榊葉」というのは『古今集』に同じ歌詞はあるというのですが、しかし何か私は古い淵源のものじゃないかなという、ひとつの疑問というか問題を感じました。で次のいわゆる筑紫の皇子と難波の皇子〔注「虫の音」を指す〕、これはまさに不思議な舞でございます。なぜかというと、私はあれは非常に政治的な舞のように感じました。何を、と思われるかも知れませんが。だって、日本列島の中で筑紫と難波を二本柱のように置いて、それぞれの皇子が深い人間的な交わり、お互いを尊重し合う交わりを結んでいたのでありますよ、ということを言おうとしているんです。そういう印象なのです。ということは後々、後々というのは八世紀以後です。天皇家がもういわゆる日本列島の統一支配を、少なくとも関東から九州の方まで拡げてきた以後において、あんなものを作る必要はないし、作られるのが許されるべくもない、と思うんですよ。難波の皇子といえば天皇家の中の方でしょう。それと筑紫の皇子とが全く対等です。やっぱりあれは私は、これも細かい話はいいませんが、ずばり申しますと、六世紀の半ば以前ではないか。
 はっきりいいますと、磐井の乱、私は「継体の乱」と言っていますが、あれ以前に遡るストーリーではないかと。つまり、九州王朝と分家の近畿天皇家の蜜月時代ですね。あれは筑紫で当然演じられるわけですから。しかし難波の皇子というのはこんな人情味のある男らしい人なんだよ。だから近畿の王朝はまあわれわれの分家の王朝なんだが、これとは仲良くしていかねばいかんのだよ、という、それを語っている舞のように私には思われる。まあ実在の人物が題材としてはあるかも知れませんが、しかし、あの舞自身はそれを一生懸命言っているようにしか私には見えなかったのです。というのは、私の理解では、あれは磐井以前でなければ、磐井以後でも、ああいうことがあったが仲良くしましょうという解釈はできますが、それだったらもっと屈折が入る。いろいろなことがあったが、しかし、お互い人情のわかり合うお互いだからという形、テロップででもそれが出てきてほしいところです。ところが、全然ないでしょう。もうのっけから仲良しであるというのを見ますと、私はやはりどうも六世紀前半以前、五世紀とか、そういう時代に言葉は、別として、言葉は光寿斉さんが解説で言われたように、もっと後世のものかも知れませんけれど、この舞の本来の原形は、どうもその辺にできあがっているのではないかと、そういう感じがいたします。
 そして、あの源氏の件も、これはやはり私の突拍子もない言い方としてお聞きいただいたらいいのですが、もしかしたらあれは地方舞であるかも知れない。ええ、民俗舞。あれも筑紫舞なのです。で、近畿の源氏もとり入れますよ、中央筑紫だけでじゃなくて、いわゆる地方の源氏もとり入れますよというような意識で入れているのかも知れない。これはわかりませんが、ちょっと私はそんな疑問を感じました。それから、今の政治的勢力としては終結した後も、かなりそういう何か筑紫が中心だという意識が、菊邑検校は昭和になってもそういう意識をお持ちだったようなんですが、それが基本にある、もしかしたらあるかなという感じを、それは絶対に断定はしませんが、クエッションマークで感じました。
 で、最後の「越後獅子」ですが、これは私非常に感銘を受けたのです。なぜかというと、越後獅子というのはご存じないかも知れませんが、あの獅子というのは権現様という東北地方などの神様、主神なんです。これはあのいわゆる、岩手県の早池峰(はやちね)神楽、それの最後に出てくるのが権現舞といって、あの越後獅子の獅子の顔がありますね、あれと同じ真っ黒い顔をした権現様が舞っておしまいになる。それまでは、天照とか、素佐之男とか、そういうわれわれのよく知った神様が出てくるのですが、天細女とか出てくるんですが、最後に『古事記』『日本書紀』に出てこない獅子頭の権現様が出てくる、だから、越後獅子のあの獅子は権現様なのです。だからそういう意味では、「越後獅子」は神舞なのです。本来、越後では。
 ところが、それがご覧になったように越後獅子と名乗りながら、一番大きな違いは獅子が抜けているわけです。権現さまが抜けているわけです。まあ、頭の冠のところにそれを表現していると見ることはできますが。しかし、あの特徴ある獅子顔はなくなっている。名前だけ「越後獅子」となっている。ということは、これは筑紫から見ての「地方舞」として、筑紫があの越後獅子をとり入れて、そして権現様はとり除いて、それを筑紫のくぐつが舞を舞っているという、そういういきさつであろうと思って拝見していたんです。
 私はたんに今拝見して、貧しいひとりよがりの感想かも知れませんが、やはり今後研究すればするだけ、思いがけない歴史の真相が現われてくるだろうと思います。しかし、今日も来ていただいておりますが、鈴鹿千代乃さんが非常に素晴らしいご研究を続けておられまして、ご研究を続けておられるだけじゃなくて、お弟子さん、神戸の大学のお弟子さんが今、西山村さんの内弟子になっておられるという、そういう非常にありがたいお力をいただいているんですが、その鈴鹿さんが言っておられるいわゆる、あまびとの、海人族の舞だという、これは私もそれは言えると思うんです。海人族の舞といいますのは、例の「あまくに」という、天の国と書いた、あまくにというのがじつは「海人の国」だというのが私の理解です。壱岐、対馬を中心にして、これが九州王朝のいわゆる淵源であると私は考えております。そういう意味では、まさにその「あまくに」淵源の舞であるということもいえるわけです。だから、ちょっと誤解されやすいように、あま族の舞というのは、近畿天皇家の家来・配下のあま族の舞と、こういう意味ではなくて、むしろ近畿天皇家が家来で、そのご主人格の九州王朝の淵源のあま族の舞と、あま族の舞という言葉が使えるならば、使えると思いますが。
 これはやっぱり鈴鹿さんたちがいっておられる見解は一つのすぐれた見解ではないかと、こう思うのです。
 それと中小路さんが、いわゆる国文学の立場から非常に鋭い観察や分析を、最近もう日に日に鋭く、していただいております。とにかくこの素晴らしい筑紫舞を、幸いに西山村さんがこの筑紫の地においでになった訳ですから、是非ともこの筑紫の皆様方も、日本中の皆様方を背景にしまして、これを守り育てて、そしてこの筑紫の地でやはり「翁舞」が演じられる、翁・七人立が演じられる日を見なければ、私は死にたくないと、六十ちょっと過ぎですが、死にたくないとこう思っております。ここに並ばれましたお弟子さんの方々のお力と同時に、やっぱり学問と同じで、こういう舞はやはり後援するとか、後押しする人々が部厚くなればなるだけ素晴らしい、いわゆる芸術が成立するということは、もう言わなくてもよく解ります。ルネッサンスなどを見ますとよくわかります。そう意味で、是非このチャンスに、この筑紫の方々が筑紫舞を後援していただきますように、それをお願いするために、長広舌を言わせて頂きました。どうも拙い言葉を失礼致しました。(拍手)

 司会 (略)

 

 筑紫舞の証言

藤田(略)
中小路(略)
藤田(略)
中小路(略)
 古田
 私が前に問題にしたテーマが、これもやっぱりなぜか『古今集』と関係があるのですが、『天の原振りさけ見れば春日なる三笠の山に出でし月かも』という有名な歌ですね、阿倍仲麻呂が作った歌ったという。ところが、私が高等学校の国語の教師をしていた二十代の頃、教えていて、生徒に質問されて立往生したことがあるんです。「天の原ふりさけ見ればという、何で天の原をふり返って見れば、中国から大和が見えるのか」と。いやまあ、こちらはその辺適当にこじつけて返答したのですが、返答しながら自分で非常に満足していなかったのです。
 ところが古代史をやり出して、壱岐・対馬に行きまして、壱岐の東北端に天の原というところがありまして(天の原遺跡 ーー銅鉾が三本出ております)、そこを通ると、ふり返って見ると、それまでは博多湾の方が見えている、天気が良ければ。あれを通って壱岐・対馬の間の水道に入って行くと、振り返っても筑紫は見えなくなるわけです。筑紫というのは何かと言うと、筑紫には春日市、春日神社、春日原があります。そこには御笠川があって、御笠山があるわけですよ。天の原、振りさけ見れば春日なる御笠の山に出し月かも、どうせそこに船で行くには、前の晩そこに、春日あたりに泊る訳です。博多近辺で泊るわけです。そうしたら、春日なる御笠の山に出し月を見るわけです。それで翌日船に乗って行くと天の原で振り返ったら、もうここから先は春日なる御笠の山は見えなくなる、という話がピシャッと合うわけです。そうすると、今まで私が国語の教師として教えて来たのはウソを教えていたのではないかと。あれを春日というのは、奈良県の春日山、春日があって御笠山があるではありませんか。あそこだと教えて来たんです。そしてその時に、天の原、ふりさけ見れば、に困ったのです。「中国から言うのでしたら、春日なる、といきなり言うよりも、大和なると言ってほしい、言うべきではないんですか」と、生徒に聞かれて、こっちもまた困るわけです。ところが、今度は全然困らないんです。今のこの、いわゆる玄海灘で詠んだものとしますと。
 そういう目で見てみると、あれは別に阿倍仲麻呂は自分で作ったとは言っていないのです。それは、いわゆる宴会の席で詠ったと言っているのです。ならばすでにあった歌を、筑紫の人か誰かは知りませんが中国へ向かって行く、朝鮮半島に向かっていく人が作った歌を、いい歌だと思って聞いて、それを別れの宴会の席で、歌ったのかもしれないのです。自分は自分の故郷の大和の春日に気持ちをなぞらえながら。それが『古今集』にのっている。それで、私が教えたのが別に私の独断ではなくて、どの『古今集』の解釈書を見てもそう書いてあるのですから。奈良県の春日だ、御笠だと書いてある。それで教えて来たのです。じつはこの玄海灘にその母なる里は、歌の作者は誰か知らないけれども、作られた場所はあったのではないかと、今私は思っているのです。
 同じテーマが昨日の「君が代」です。あれも『古今集』に出て来るのです。『古今集』の歌だと我々は思っていたら、どうしてどうして、この博多湾岸と糸島郡を母体にした固有名詞を背景にした歌だった、と。となると、少なくともここで、博多湾・糸島郡で作られたのは、『古今集』成立より前です。それを『古今集』が「詠み人知らず」という形で、作為か偶然かで入れたということがある訳です。そうするとやはり、『古今集』の性質も、だいぶん昔に私が教師でウソばっかり教えていたのを思うと、もう一回考え直さなければならないのではないかというような感じを私はしているのです。だから、中小路さんがおっしゃつたことに私は全く異論も、反対もないんです。別に緊迫もしないんです。ただしかし、やっぱり今言ったような問題を含めて、『古今集』と共通すれば、『古今集』が淵源だと、これはもう今の国文学の許された手法ですから。しかし、その手法をもう一回考え直すという時期が来ているのではないかというような感じを持っているんです。そして、これなら本日の「榊葉」はどうかということは、とてもとてもまだ私には判断する能力はございません。そんなところでよろしいでしょうか。

 中小路 (略)

 司会 (略)

 古田
 今の問題、君が代の問題も非常に大事な問題で、古賀さんにも申し上げたんですが、やはりこれから先、写本を探るという、今の山田孝雄(よしお)さんの“君が代の研究”をコピーして持っておられるんですが、その山田孝雄さんからもう一歩進んだ、その写本の追求ということをやってみられたらよいのではないでしょうかと申し上げたんですが、これはもしかしたら、もし仮に君が代が、いわゆるご当地で作られたとすれは、ご当地にその写本があるかもしれません。もちろん写本のまた写しでも結構ですが。こういうことにもまた皆様もご注意頂けたらありがたいと思います。

 

 神話学と歴史的事実

 古田
 次はまた非常に大きな間題、ご質問を頂きました。堺淳子さんでございます。ワープロでご質問をちゃんとこう長文を打って来ておられますが、先頭だけ読ませて頂きましょう。
 「比較神話学を、事実の伝承としての神話との係わりについて教えてください。こんなことをここでお尋ねしてよいものかどうか迷いましたが、他に質問するところもなく、思い切って書かしてもらいます。管轄違いでしたら申し訳ありません。古田先生のお説に私が興味を持ったのは『記・紀』神話についてのお話からです。出雲神話、天津神神話、それぞれに生々しい現実の背景があることを始めて知りました。ただそれまでは吉田敦彦(あつひこ)氏等の神話の本を読んで認識していました神々の姿と、その捉え方が異るようで悩んでいます。」
 と、要するに吉田敦彦さんは、ギリシア神話とか、中近東の神話とか、その辺と同じタイプで日本の神話も捉えられるという比較神話学の立場、神々の三機能、主権の神・戦闘の神・生産の神が出ているのは皆同じ神話の換骨奪胎だというような立場の御本をたくさん出しておられます。これ、じつは私の経験から申しますと、ソ連のウラジオストックの極東大学の助教授の方、ワシリエフさんが私に質問して来られたんです。というのは私の本『多元的古代の成立』(駸々堂)を読まれて、多元的に日本の古代を理解すると言うことは、これは今後いろいろ議論することはあっても、最後は疑いないところだろうと思うという趣旨の論文に近い感想を書いて来られました。ところが、古田が考古学的出土物と、神話についてどう考えているか知りたい、ということが書いてあった。それでちょうどその時私の『古代は輝いていた』(朝日新聞社)が出まして、今は朝日文庫に入っていますが、この三巻が出来たところだったのでお送りしたわけです。そうしたら、今度は日本語でお返事がありまして、「わかった」。「古田の論証によると、『古事記』『日本書紀』の神話は、歴史的事実と対応しているようである」。天孫降臨とか、ああいう問題です。「とすると、『古事記』『日本書紀』の神話というのは、じつは神話でなくて、説話であろうと思う」。「なぜならば、私がモスクワ大学で習ったところでは、神話は歴史事実とは関係ないということに我国ではなっている」とこういうお手紙があったのです。ちょっと私には何のことかわからなかった。皆さんも今お聞きになって何のことかよくわからないと思うんですが。
 ところが調べて見るとわかりました。というのは、結局ヨーロッパの神話学、これは結局バイブルと言うのは、侵すべからざる、まあ中小路さんは昨日侵されたわけでございますけれど、侵すべからざる領域なんです。だから、あれは神話とは言わないんです。あれは事実です。バイブルに書いてあるのは皆「本当」のことです。そうでないと信仰の対象にならないんですから。と言うことは、言い替えたら、諸国民の神話はウソだと言うことになる。そうでしょう。諸国民にも天地創造の話があるではないですか。バイブルが本当だったら、他の諸国民の神話もみんな本当だと言えば、これはナンセンスです。これはバイブルの天地創造が本当だということになれぱ、その他の諸民族の天地創造神話はウソであると、こうなるんです。事実にもとづかない。そこでその事実にもとづかないウソの神話を研究しましょうと言うので、 ーー今非常に簡略化していってますかーー これがヨーロッパ、西欧の神話学なんてす。その際に、諸国民の神話をタイプ別にして、今の三機能であるとか、この二つの神のペアであるとか、そういう色んなタイプに分類して、同じタイプのものはそのウソ話が次々伝わって行ったものでしょう。こういう処理をしたものであると。非常に遠慮なく言うと、そういうことが私には見えて来ました。
 それに対して、批判したのがソ連の神話学です。なぜかと言えば、ソ連の神話学は、バイブルに遠慮する必要はないわけです。だからバイブルの神話もまたウソであると。だから人類の生んだすべての神話はウソ、偽りである、歴史事実とは関係がないという。このテーマがソ連の神話学で完成したわけです。西欧の神話学ではバイブルを除いてそう言っていたんです。しかしバイブルについては言えなかった。ソ連神話学はそれも言えたと。これがそのモスクワ大学の神話学の教授が言っているテーマなんです。ところが、ちょっとおかしいと皆さんは今の話を聞いてお思いになりません? なぜかと言うと、西欧の神話学で、諸国民の神話はウソだと言うことを、そういう風に見なした論拠は、バイブルはリアルである、神様のお告げであるからという、ところが根拠なのに、根拠がペケになったら、その根拠にもとづいた判断もペケになるはずではないですか。そうではありません? なのに、根拠がペケになって、その根拠を基にしてにペケした方もペケとして生かして、全部ペケだというのは明らかな論理矛盾じゃないでしょうか。これは誰が考えても、高校生が考えても、今の理屈はおわかりと思うんですが、なぜソ連の大学者がわからなかったかと。私の、これは、ここから先は想定ですがやはりレーニンに“惑わされた”んです。なぜならば、マルクスも含めてもいいですがね、宗教は阿片であると、宗教はインチキであると、有名な若き日のマルクスの言葉があります。あれも、私はある意味では素晴らしい、いわゆるキリスト教専制社会への挑戦の言葉だと思うのですが、それが今度は教祖様になって絶対化されてしまった。だから、宗教は阿片だから、神話というのは宗教に関係がありますから、あれは皆ウソだ、インチキだというようなことを言って、みんな、あっ、そうでしょう、そうでしょうと。やはりマルクスの言うとおりでした、という感じで、学生・モスクワ大学その他の学生は聞くという、そういう状態になったと思う。しかし、実際は明らかに論理矛盾があった。
 さて、私は『古事記』『日本書紀』の今の国ゆずり神話、天孫降臨、これは皆リアルであると。これは今の「筑紫の日向ひなたの高千穂のクシフル峯に天降りき」「その高千穂の山の西に代々の墓は、御陵はあり」と。その通り三雲・井原・平原は出て来たわけですから。私は「シュリーマンの原則」と呼ぶんですが、神話に対するそのままの解釈、的確な解釈と、考古学的出土物が一致したという、これがシュリーマンの原則。これはトルコにだけ、トロヤのあるトルコにだけ適用されるのではなくて、この筑紫でもまた適用されるのである。で、昨日お話したところによると、津軽でもまた適用されるのであると。『東日流つがる外三郡誌』に対する分析と弥生の水田という出土物とが一致したわけです。シュリーマンの原則は、津軽でもまた貫徽されねばならないと。こうなって来た。そうすると、これは神話が歴史的事実だったと、こうなるわけです。
 そうすると、これは日本列島の神話だけが歴史事実で、世界中の、後は全部インチキかというと、そんなことは私には想像できないんです。なぜか、なれば、日本列島の神話も世界人類の神話の「ワン・ノブ・ゼム」にすぎない。良かれ悪しかれ。私はそう思います。そうすると、日本列島の神話がりアルであるということは、他の諸民族の神話もリアルなのではないか。それぞれの民族の人間の節目を語っているのではないか。語り口は他から影響を受けることはあるかもしれぬが、肝心な語りそれ自身は、リアルなのではないかと、こういう問題に進展する。だから同じくバイブルもまたリアルなのではないか。ただしバイブルを信仰に“酔っぱらっ”て、ごめんなさい、クリスチャンの方に。信仰の色眼鏡で見たのを、リアルだと言ってはいけない。
 ちょうど日本でも、天の瓊戈(ぬか)、瓊矛(ぬぼこ)、これを神様が突きさした。引き上げた。あれが歴史的事実だと言うとバカみたいなもんです。それと同じように、ただそれを神話によって、自己の支配を正当化した筑紫の権力者が弥生時代にいたということが、歴史事実なんです。同じようにバイブルを正当に分析して、私も昨年からバイブルの分析に夢中になってるんですが、中小路さんもやっていると言いましたが、そういう醒めた目で、リアルに分析すれば、私はやはり歴史事実を語っていると思うのです。バイブルもまた。というのが私の立場でございます。だからヨーロッパ・アメリカの神話学、ソ連の神話学に対して、ノーと言う言葉を私は言いたいわけです。私が『古事記』『日本書紀』に対して分析したところの方法と同じ方法で、いわゆる、ゲルマンの神話や、バイブルの神話、また日本の神話を分析していくことができるというのが、私の非常に大それたという風にお聞きになるかも知れませんが、この四月から一段とまた書きたいと思っているテーマでございます。これが堺さんのご質問です。いいご質問をありがとうございました。
 それから次は山田京さんです。クリティークと現地調査の関係、「小生は清水書院の『親鸞』に新鮮な驚きを今も持ち続けているものです。聖書学などに比べ、日本では経典の原典解明が徐々にしか進まないように思われる理由は、原典批判はかなり行っていますが、日本人は苦手のようです。日本人の権威に対する弱さか、中国語の古語も現代語も知らないままに和訳する漢文のせいか、古代の写本を正確ときめつける学者の自惚れか、岩波文庫にある以外に何かよいテキスト的な“書物”はありませんか。」
 これは非常に大きな問題で、これも時間の関係で簡単に答えさせて頂きますが、いわゆる『大正大蔵経たいしようだいぞうぎよう』あれは本当に私は未発掘の宝庫だと思っております、今後研究すべき。さっきと同じ、仏典もやはりさっきの話で言えば、神話なんです。お釈迦さんが実際に喋ったのはごくわずかでしょう。後はのちに造られたものですから。だから、それを今のリアルな醒めた目で分析すれば、あれはどの経典だって、ある時間帯のある空間帯で作られなかった教典はないわけです。ということは、すなわち特定の時間帯の特定の空間帯の、その地の文明と認識をリアルに反映しているわけです。そういうリアルな資料として『大蔵経』を使うということは、あえて「使う」という大それた言い方をさせて頂きますが、私はまだほとんどなされていないと見ております。これもじつは今後取り組みたいテーマの一つでございます。立入って申すと、いろいろ言いたいことがあるのですが、今は省略させて頂きます。

 「『邪馬壱』と市内西区『壱岐』との関連を一時おっしゃってましたが」 ーーこれは要するに姪浜あたりが不弥(フミ)国で、それは邪馬壱国の玄関と言うのが私の立場です。『「邪馬台国」はなかった』(朝日新聞社、角川文庫)で述べました。最近吉野ヶ里を経て感じたことですが、不弥(フミ)国から邪馬壱国に入る境は何処か、私は室見川ではないかという感じを持っています。要するに、「筑後川の一線」という私の論文が、『東アジアの古代文化』の昨年の秋の号に出ましたが、お読みになってない方は是非読んでいただきたいのですが、それと同じ目、川というのは最大の軍事要塞線であったと言う目で見ると、じつは室見川を越えたら本当に邪馬壱国に入ったのではないかと。そして今の有田遺跡というのが、ちょうど吉野ヶ里の墳丘墓のような位置にあたっているのではないかという風な感じを持っております。これもいろいろ申し上げたいのですが、今はそのくらいでご勘弁ください。

 

 魏志倭人伝と吉野ヶ里

 次は武岡浩然さんのご質問です。「魏志倭人伝を読んでも松浦に上陸したとあるが、何処にあるかわからない、肥前名護屋なのか唐津か、呼子なのか、伊万里なのか、それが確定すると上陸後のコースが推定しやすくなると思うが」
 そのとおりです。 私は『「邪馬台国」はなかった』では、いわゆる唐津湾、松浦湾の中の唐津湾、その辺と理解しました。東南陸行の問題と関連しまして、詳しくは『「邪馬台国」はなかった』を、角川文庫で今は手に入りますので、お読みいただければありがたいと思います。
 次に、「壱岐にはカラカミ遺跡や原ノ辻遺跡があり、朝鮮から九州への途中コースで、地域の確定がしやすいので、町当局に調査させると発掘もはかどるし、時代の特定も容易になると思う。」
 そのとおりです。原の辻遺跡は発掘されているわけです。あれは弥生の前期・中期・後期・末期までズラーッと、カメ棺墓があるわけです。ところが残念ながら、後は全部潰してしまったんです。町の当局の人が残念がってると聞きました。吉野ヶ里を見て、私たちもあれを置いとけばよかったと。後の祭りでしょうけれども。しかし、原の辻は最大ですが、そのあたりを掘るとまだまだいろいろあると思います。さっきの天ノ原遺跡もそうですが。カラカミ遺跡も非常に古い。原の辻遺跡よりもう一つ古い重要な遺跡です。壱岐を発掘すべしというご意見、全く私は賛成です。
 続いて、「魏志倭人伝から見ると、魏は吉野ヶ里あたりまで来たと思われる。そうすると、邪馬壱国は八女の磐井の墓の近くであったのではないかと思われる。隼人族との戦いがあったことを考えれば、糸島半島ではなかったように思われる。」
 こうありますが、私の立場はハッキリしておりまして、邪馬壱国は博多湾岸とその周辺。なぜかと言えば、吉野ヶ里と共通で、副葬品の一番秀れているもので、これは糸島郡の三雲であり、井原(いわら)であり、平原である。さらにそれより古いものとしては、福岡市の吉武高木遺跡があります。何れも三種の神器、また春日市の須玖岡本遺跡、これも三種の神器です。これらは抜群の墓であって、何れも私は倭国王墓であると思います。これを伊都国王墓とか、早良王墓とか、奴国王墓であるとか言っている限りではもう日本の古代史は解けない。ああいう立札をいくら立てても、事実に反する立札はいずれ朽ちる。あれらは倭国王墓であるという風に私は思っております。これも私の『吉野ヶ里の秘密』というカッパブックスの本を読んで頂ければありがたいと思います。
 今の筑後川を南に越えますと、弥生に関しては遺跡はがた落ちになるんです。鋳型も出てこないし、絹も出てこない。中国の絹も出てこない。三種の神器セットも出てこないのです。だから、私は何処にもひいきしたつもりはないのですが、出土事実によってみると、やはり筑後川以南ではなく、筑後川以北、その中でも糸島郡、福岡市、春日市、これを除いて邪馬壱国の最中心はありえない、と私には思えています。終始一貫、私はそう思って述べております。

 

 九州王朝の物証

 次は、佐藤肇さん。「北九州は三世紀くらいまでは考古学的出土物も多いが、四世紀以後はぐっと少なくなる。それに比べて近畿には大型古墳などが出現し、河内、大和王権などの成立が論じられています。そこから、邪馬台国東遷説神武東遷なども論じられています。九州王朝が引き続き存在していたとしたら、邪馬台国との関係、政権の理念、支配領域、社会関係、法制などを、具体的事実、史実についてご教示くだされば幸甚です」と、書いてあります。
 たとえば、今の平原ですね、これは原田大六さんはいわゆる弥生の中期末、後期初頭と考えられて、一世紀末、二世紀始めぐらいにおかれたわけです。ところが、『早良王墓』という本が福岡市教育委貝会から出ていますが、この本ではどうもそうじゃないんじゃないかと、これは弥生の末くらいか古墳の初めか、その辺ではないかと思う、と書いてあります。私もそう思うんです。つまり弥生時代はかめ棺の時代ですから。ところが、平原はかめ棺ではありません。つまり、かめ棺の時代がすんでも、あれはやっぱり倭国王墓ですね。平原が倭国王墓でなかったら、あれ以上の倭国王墓がどこにありますか。倭国王墓は糸島郡です。銚子塚古墳から黄金鏡が出ております。あのカラフルな今度出していただいた『九州の真実』にありますように、後漢式鏡に黄金が一面に塗ってあるわけです。黄金が塗ってある鏡の出土する確実な遺跡というのは、わかっている遺跡はほとんどないんですね。これは、地方豪族が黄金鏡など持っていたらおかしいのです。もし地方豪族が黄金鏡を持つのだったら、日本列島はあちこちに黄金鏡が出ていないといけないんだが、出ていないのです。ということは、数が少なくなっても黄金鏡をもっているのは倭国王墓である。つまり、この場合はあのいわゆる弥生時代のような、一つのかめ棺から二十面、三十面、四十数面というような、割り竹式木棺から四十数面、平原。こういういわゆる無駄、軍事的無駄、これができなくなったんです。なぜならば、高句麗との激突の時代を三一六年以後迎えたからです。だから、多数の鏡を埋納しなくなったわけです。それに代わって王者にふさわしい黄金鏡一面。それから他の鏡を数面です。それが銚子塚古墳。逆に言えばあの山城の椿井大塚山古墳。いわゆる三角縁神獣鏡四十数面。あれだけの、まだ無駄ができるというとおかしいが、軍事的無駄が、できるのが近畿なのです。というように私は理解しております。
 さらにまた、その後はさっきも丸山さんから出ましたが、沖の島の出土物です。あそこから出た金の龍頭一対、これは明らかに東アジアでは天子のシンボルです。金の龍というのは。ところがこれは近畿では出ておりません。正倉院のは八世紀以後がほとんど。もう七世紀はわずかですね。六世紀はほとんどないんです。だから、六〜七世紀の金の龍なんてのは、正倉院どんなに捜してもないんです。ところが沖の島にはあるわけです。沖の島だけではなくて、そのお向かいの宮地岳古墳からも、金の龍の冠、これが出てきているんです。正確に言えば、宮地嶽古墳のすぐ隣りにどけてあった感じです。骨壷といっしょに。森浩一さんは、六世紀末。小田富士夫さんは、七世紀末。小田富士夫さんが七世紀末といわれたのは、どうも大和の道昭の火葬より後、少なくとも近くにもっていかないと具合が悪いというような判断があったように、私は報告を拝見しましたが、「火葬は大和から」という概念がもし根本にあるとすれば、これもやはり先入観である。森浩一さんにその点を確認しましたが、物それ自身からは、やっぱりあれは六世紀末ですよと、こういうお話でございました。
 これは、おもしろい問題があるんです。六世紀末というと、藤の木古墳と同じ時期です。藤の木古墳は、私は崇峻天皇である可能性は十分ある、と思うのです。森浩一さんも同じご意見でした。崇峻天皇ですよ、と言っておられました。まあ時代の問題などおもしろいんですが、時間がないから立入りません。崇峻天皇だとすれば、あそこには龍がないのです。同じ時代の宮地嶽には龍の金の冠を持っているわけです。お向かいさんの沖の島にも龍、当然それは一連の物と考えるのが、これは常識です。ところが、今の考古学界はそうは考えない。あれは近畿天皇家が奉納した物である、出たのは九州の地だけど、持ち主は全部近畿の王者である。こういう処理をするんです。こんな処理ってあります? そんな処理をするんだったら、何が今後九州から出てもだめです。いい物が出たらこれは全部近畿がやった物ですと、こういう「解釈」をすればいい。今の宮地嶽のも、恐らくはこれも近畿から与えた物じゃあるまいかと書いてあるのです。考古学者が。こういうのは私はっきり言って考古学の堕落だと思うのです。なぜかといえば、もしそういうことを言いたいのならば、いわゆる沖の島のような金の龍、一対のああいう物が近畿から、正倉院でもいいです、正倉院の六世紀の物から十ぐらい出てくると。で、ひとつが沖の島から出てきた、という出土状況なら、これは近畿天皇家がひとつを与えたんでしょうと言っても、考古学者としてたいへんな自然な説だと思うんです。そう思いませんか。金の冠が、龍のついた金の冠が近畿からたくさん出ておりますと。で、その一つが宮地嶽から出ましたというんなら、近畿天皇家が龍の冠を、というのも、一応わかります、それでも龍の冠を与えるというのは変ですがね、天子のシンボルなのに。ところが、近畿には金の龍の冠はゼロなのです。金の龍頭もゼロなのです。ゼロのところが与えたものでしょう。与えたでも奉献したでもいいのですが、中国に行く時に航海の安全を祈って奉献したでしょうという話、これは私には非論理としか見えないのです。皆さんはこれが論理と見えますか。私は九州から出た物は九州の権力者の物だと考えるのが本筋だと。それがそうではない。どこか他の土地から与えたと考えたいなら、それを裏づける出土事実を提示するのが学問である。提示せずにいうのが皇国史観である。こう思うんですが、言い過ぎでしょうか。

 

 史料の読解

 それから、次は、西村佳樹さんでございます。「倭王興は他の王と違って世子として使いを送っているのは、倭王武の上表文に、ともに父兄をなくす時点の波及、反映ではないかと、武の父兄は済の皇太子のことであり、興は皇太子ではなかったために他の王とは違い、即位してから改めて中国皇帝の封冊を受けるのではなく、皇帝からの封冊をたてにとって国王の地位を固めたのではないか」
 まあ、これはありうることですね。あそこに一つだけ世子という、世の子ですね、言葉が出てきている。これはやはり、中国側が勝手に書いたのではなくて、こちらがまだ王になっていない世子であるという形での段階で中国がキャッチしたから、そのとおり書いたと、こう見るべきものであろうと思います。
 次は、野口義廣さん。「止利仏師の件。平仮名の字源(字の源)の点からいくと下記のようで、止→と、利→り、であり、やはり『とり』と読んでも問題がないのでは」と。
 これは結構なんです。「とり」と読んでもいいんです。しかし、「とり」でないかも知れない。つまり、「しり」とも読めるわけです。また、「とまり」とも読めるわけです。そういう選択の幅を広げて考えたほうがいいでしょうと、こう申し上げただけでございます。「とり」とは読めない、ペケと、こういうようなつもりではございません。

 

 吉野ヶ里遺跡は邪馬台国ではない

 次に、窪田悦二さん。
 「(1) 吉野ヶ里に関する著書の中で、特に安本美典氏が古田先生を中傷するような記事が目立ちます。ご感想をお聞かせください。」
 ありがたいご質問です。安本美典さんには非常に感謝しているわけですが、なんたって、『「邪馬台国」はなかった』に対して『邪馬壹国はなかった』、『失われた九州王朝』に対して『古代九州王朝はなかった」。そういう一人の人間に対して、一人だけを対象にした本を書いてくださった、これは願ってもそうはないことですね。他の方でもそれだけの幸福を得られた方はそうお見受けしないのですが。ですから、足を向けては寝られないというような、そういう感じを持っているんです。皮肉ではございません。
 ところが、今回のあの吉野ヶ里は、あれはもうたいへんな大ポカをやられたですね。なぜか私の説を誤解されまして、私が吉野ヶ里が邪馬台国の中心であると述べたように、どこかで錯覚されたのです。どうもこれは、あの『週刊文春』の見出しのせいみたいです。『週刊文春』が「吉野ヶ里は邪馬台国だ・・・古田武彦」というあの題をつけましたので、私は見てびっくりしたのですが、それで私も「困りますよ」というので、『週刊文春』編集部に申しましたら、「いや大丈夫ですよ、内容を読んでもらえばわかりますから」と、こういうことだったのです。内容を読んでみたら、そんなことはないんですから。要するに、倭国の中心はこの博多湾岸、そしてその一端が朝倉や吉野ヶ里に至っていると、この一帯が倭国の中心であるとこう言っているわけです。この一帯が倭国の中心であると言っているのは、その直前に書いた、糸島、博多湾岸、朝倉、吉野ヶ里と、この一帯であることはもう文法的にいって、「その国境」問題じゃないですが、好太王碑の「其の国境」は倭との国境を指すと同じように明らかです。それを、なぜか安本さんは、吉野ヶ里一帯が邪馬台国、倭国の中心だというように、なにか読み違えられたのです。だいぶ急いで読まれたのか知りませんが。人間てこわいものです。いったん思いこむとそれでずうっともう思いこんでしまうんです。ということで、もう何冊出ましたか、私をそういう形で攻撃される本が。古田の変節だという形で。新聞社に、朝日新聞社にまで電話をかけて、古田はけしからん、朝日新聞社の本に書いたのと違うことを言っておるぞ、あんなもの本に出させていいのか。というような、なかなか熱心なまめな方で、電話をかけてくださるんですね。これはもう全くの誤解でして、私は吉野ヶ里を見るにつけても、やはり邪馬壱国は博多湾岸とその周辺であったと、先ほど申し上げたとおりですね。そういう確信を深めてきたわけです。今まで申さなかった証拠を一つ挙げますと、吉野ヶ里から出てきた、外濠からたくさん出てきた、小型イ方製鏡、その鋳型は春日市から出てきているのです。鏡の鋳型というのは今のところ一つしかない。それは春日市なのです。須玖岡本から三百メートル北側に出てまいりました。これを見ましても、小型イ方*製鏡の生産地は春日市だと。こういう親子関係といいますか、それははっきりしているわけでございます。
     イ方*製鏡のイ方*は第3水準ユニコード4EFF

 「(2) 同様に奥野正男氏の吉野ヶ里説についての古田先生のご意見を聞かせてください」
 奥野さんは、私が非常に九州の在野の考古学者として敬意を持っているかたでございます。素晴らしい業績をあげているかたでございますが、ただ吉野ヶ里が邪馬台国の中心だと、この奥野さんのお考えはやはり無理でしょう。なぜかといえば、中心の、墳丘墓の中心かめ棺、ミカ棺から出てきたのは銅剣一本。これはもう、銅剣一本というのは北部九州から瀬戸内海にかけてかなり出ております。そういう意味では、この吉野ヶ里の中心は、この倭国の三十国の一つに過ぎないと。これははっきりしております。だがしかし、次の子供の代、南側のかめ棺は子供の代であると思うのですが、分離式銅剣。西側のかめ棺が今のところ一番すごいんですが、有柄銅剣、一枚銅剣です。これに当るもので現在まで出てきたのは一つだけ、山口県の向津具遺跡、山口県の日本海岸。
 なんであんなところから出てきたかというと、『古事記』『日本書紀』の神話を見ればわかるんです。神話では出雲と筑紫、博多湾岸と出雲大社これが二大中心。ここから国が出雲から筑紫へ譲られるかたちですから。ということは、当時の弥生時代のメインルートはいずれも大社と博多湾岸の線といってもいいです。その間にあるわけです。その中点に当る位置が今の向津具遺跡なのです。今で言えば東京と大阪が二大中心であり、その中点に当たる、まあほんとうに真ん中でなくてもいいんですが、中点的なところに当るのは名古屋である。だから、昔の名古屋に当たるようなところで向津具遺跡の有柄銅剣が出てきているわけです。これはもう、中国、朝鮮半島にはありませんからね。有柄銅剣は。日本独特ですから。これと同じ物が今回出てきている。ということは、もうこうなると、三十分の一ではなくて、十指を屈するどころではない、五指を屈するですね、倭国の有力者の一人になっている。なぜなったかというと、巴型銅器で示されるように、またたくさんの絹が出てきたことで示されるように、銅器生産そしてまた絹生産、それからもう一つ、管玉のガラス生産、こういう最新のノウハウを管理したり、支配したりする、技術者集団を握る位置に立つことによって、このベストファイブに入るようになってきたと。これがその吉野ヶ里の位置なんです。だから、おやじさんよりも子供、子供よりも孫と、富が急速に拡大してきた姿を示しているわけです。
 「(3) 吉野ヶ里が徐福伝説と関連づけて論議されているのですが、ご意見をお聞かせください」
 これもおもしろい問題ですが、徐福伝説も今後大事にして追跡していくと、非常に思いがけない成果を産むかも知れません。吉野ヶ里もある意味では徐福伝説のおかげともいえるんです。徐福伝説のシンポジウムがあって、今日のように開かれて、そこに近畿から来た学者に、ついでといえばおかしいのですが、今掘っている吉野ヶ里を見てくださいといって連れて行って、ああこれはすごい、倭人伝に出ている物見櫓ですよ、という話に発展したんですから。徐福伝説にも私は非常に関心を持っているのですが、ただ断定はしないほうがいい。そして先ず日本全国あちこちにある徐福伝説を冷静に集めて資料化する。伝承を、資料化する。それが大事であると思っております。

 

 考古学の編年の問題性

 次に宮本健太郎さんから、「編年について。古代編年には近畿説、北部九州説とあり、各学者によって異なり、その分類も墳墓、土器、銅鏡、銅剣、銅矛、銅戈、と数多くの説があり、我々初心者には何を基準に考えればよいか迷いますので、ご教示ください」と。
 大事な問題なのですが、時間の関係で長くは申せません。先ほどのカッパブックスの『吉野ヶ里の秘密』をご覧いただければ論じてあります。一つだけキーポイントのことを申させていただきます。さきほどの春日市の須玖岡本遺跡。中国の絹と倭国の絹が出たという、そこから前漢式鏡が二十数面、三十面前後、出ているのです。その前漢式鏡以外に、鳳鏡というのが二面出ています。ところが、その鳳鏡について、これを発掘し、調査報告書を書かれた京大の梅原末治さん、助手時代に富岡謙蔵教授の手伝いでもっぱら自分で書かれたんですが、この梅原さんが発表した例の京大の報告にもとづいて、考古学者は弥生の前期、中期、後期の編年をするようになったわけです。まあおおざっぱにいうと、。BC三〇〇年からBC一〇〇年までを前期、BC一〇〇年からAD一〇〇年までを中期、AD一〇〇年からAD三〇〇年までを後期と、こうしたんです。最近もそれが使われて、まあ前期を少し一〇〇年間に縮めるとか後期を一〇〇年あげるとかいうことは学者によってありますが、中期はだいたいその辺になっているわけです。ところが、その編年のもとを作ったのが、富岡、梅原さんなんですね。その富岡さんが亡くなられて、梅原さんが京大の教授で、晩年といっても私より若い五十代の半ば過ぎのころ、それを、あれは大きな間違いであった、とこういう発表をされ、その後その論文を『古代学』という雑誌に発表された。長い論文ですが。これは私はほんとうに考古学論文の典型だと、名論文だと思います。要するに、あそこから鳳鏡というのが出てきて、それを調べて全世界をまわったわけです。ストックホルムにある鳳鏡まで見に行かれたんです。あのまだ外国に行けない時期に。ほんとうにこの人は考古学の鬼ですから。そしてもちろんベトナムヘも行かれた。中国へはもちろんです。それをずうっと編年してみたところ、意外にも、あの須玖岡本から出てきた鳳鏡は、どんなに遡っても二世紀の後半を遡ることはできない、ということがわかったんです。そうすると、それを含むあの須玖岡本の遺跡は、このかめ棺の遺跡は、魏、西晋の時代の遺跡であると考えざるを得ない。これは今どう調べてみても、あの鏡は他の遺跡から出てきたのではないかと思ってやってみたが、だめだ、と。その当時やはり関係者が生きていますから。名前もあげてあるんです。嘘だと思うなら聞いてご覧、という感じでね。そして、実際の観測の結果も須玖岡本から出てきた他の物と同じ特徴を備えている。朱の付き方とかその他。だから、どうしてもあのかめ棺から出てきた物と考えざるを得ない、という。最初、それをうんと短い文章だけど念を押して書いている。そして、編年をしてみれば、年代の入っている鳳鏡があちこち、全世界に散らばっているので、並べてみるとどう見ても二世紀の後半以前には行かない。だから、それを含むんだから、魏、西晋の時代の遺跡だと須玖岡本を考えざるを得ないという、私が今まで発表した、考古学界に編年の基礎を与えた、それは誤りであったということを、ここで補正する、と。なかなか自分の書いた論文、それも全考古学者が採用してくれた基準を撤回するというのはできないことです。ところが、それをあえてしている。これは非常に血のにじむような思いが簡潔な文章ににじみ出た名論文なのです。
     き*鳳鏡のき*は、インターネットでは説明表示できません。冬頭編、ユニコード番号8641き*鳳鏡のき*は、インターネットでは説明表示できません。冬頭編、ユニコード番号8641

 ところが、これを見事にその後の考古学者、また、教育委員会の学芸員の方々を含めて、全員が無視しているわけです。なぜならば、今の吉野ヶ里の七〜八割は須玖岡本と同じ須玖式かめ棺なんです。先ほどの南側の分離式銅剣を持った分も、西側の有柄銅剣、管玉がたくさん出た、あれも須玖式かめ棺なんです。ところが、あれは一世紀だと言っているでしょう。邪馬台国の時代じゃないと言っているんです。それは要するに「梅原さんの補正を信用しない議論」なんです。ところが、それを梅原さんのあれを受け入れれば、あれをあれだけ実際にタッチしてやられたのは梅原さん以外にないんですから、現在生きている人の中には。簡単に否定できないわけです。世界中見てまわった人もいないんだから。そして、それを受け入れれば吉野ヶ里はいわゆる邪馬壱国、ヒミカの時代の遺跡になるんです。考えてみればそうでしょう。だって、さっき言った「倭人伝」は中国と倭国の絹のある時代だということになるんです。どう見たって「倭人伝」を見れば。そして、日本列島で中国と倭国の絹が一緒に出てきているのは、須玖岡本しかないんですから。それが三世紀でなかったらおかしいわけです。こういうわかりきったことを、やはり私がいくら言っても、プロの考古学者は知らん、知らんという顔をして、現在も知らん、知らんとやっているわけです。私など、九州博多へ来て、昨日も話したように考古学者と五人でも十人でも討論やりたいというのが、今の問題なのです。それをどう考えるんだ、あれはなにか間違いでしょう、ぐらいの答えでは私は満足できない。こういう非常に大事な問題を、宮本さんから聞いて頂いたわけです。ありがとうございました。

 「万葉集」は韓国語で読めるか(略)

 三種の神器の鏡(略)

 九州年号論の相違点(略)

 司会 (略)
 丸山 (略)

 藤田 (略)

中小路(略)

古田
 さきほどからご質問に答えるのに一生懸命になって、私自身のちょっとまだ言い落としたことに気がつきましたので、最後になって申し訳ないんですが、例の「筑紫の日向の高千穂の」という言葉で始まる資料です。じつはその『東日流外三郡誌』で安日彦、長髄彦の系図がそこに出ておりますね。それを見ますと、八人とも「山」がついている。「山」で始まる。山大日之国命、山祇之命、山依五十鈴命、山祇加茂命、山吉備彦命(やまよしびだと思いますが、まあきびと読んでもいいですが、ひこのみこと)、山陀日依根子命、山戸彦命、で安日彦、長髄彦と。その下が荒吐五王、これは東北を五つに分けて統治したという。で、その安日彦、長髄彦までは全部「山」がついている。津軽へ亡命して安日彦、長髄彦のところで「山」がなくなっている。そうなりますと、安日彦、長髄彦がいたところは「山」といわれる地帯であったと。これは私が『失われた九州王朝』で述べましたテーマに奇しくも一致するんです。『邪馬台国』これは『後漢書』については正しい。つまり、五世紀に書かれた『後漢書」の「邪馬台国」は間違いではない。ヤマトではなくて、ヤマタイ国。で、それの共通部分は「邪馬」である。だから、中心国名は「山」であるということを、『失われた九州王朝』で述べましたね。ここでもまた「山」であった。私これを見てぞっとしました。やっぱり。
 それでもう一つおもしろいテーマ、今のいわゆるニニギノ尊がこの山祇の神の娘、あるいは大山祇の子、木花咲耶姫と結婚したという有名な話が『古事記』『日本書紀』に出てくる。で、大山祇の神についての説明がないわけです。ところが、ここにあるわけです。安日彦、長髄彦は山祇の神の子孫で、その山祇の神のお父さんお母さんがこれはもう実態のない美称のような形で、私はこれは両親だと思いますが、妹と書いてあるのは藤井伊予の解釈です。元禄年間の。両親を美称で書いてある。そういう形なんです。というのはつまり、これももうずばり言いますが、ニニギノ尊は「賊」であった。「侵略者」としてここに入って来た。武力は強かった。しかし、正当の王者はヤマツミ(山祇)の神の子孫であった。だから、その山祇の神の子孫の、娘と結婚することによって自己の正当性を主張した。ちょうど、神武が大和に行って大和の娘さんと結婚する。あるいは継体天皇が武烈天皇の姉と結婚する。あるいは秀吉が信長の妹の子と結婚する。足軽の時分の賎しい身分を打ち消すために。あれと同じですね。そのやり方をニニギノ尊がやっているという。これもこわい話が出てまいりました。
 もう一つ、私が今年の一月半ばに気がつきましたのは、安日彦、長髄彦は稲穂を持って津軽へ行ったんです。これはまあよろしい。では、神様を忘れて稲穂だけを持っていったんだろうか。私にはそういう光景は想像できない。神様をやはり、何よりも先ず、奉じて行ったのではないか。で、その神さんの名前は『東日流外三郡誌』に繰り返し出てまいりまして、荒吐(アラハバキ)の神というのです。アラハバキの神。これはもう時間の関係で詳しい説明は省略いたしますが、「ハバ」というのは途中に「神の場」という意味でつけられていみ。固有名詞部分は「アラ」である。そして「キ」は城、要害のキである。だから、アラキの神、もっと詰めればアラ神である。アラ神、聞いたことありませんか。「荒神」という字を、神社で。それを誇らしく言って、「アラハバキの神」と東北で言っているだけである。これも『古事記』の中で天孫降臨の前に「ちはやぶる、あらぶる国つ神」という、こういう言葉がある。ところが、ちはや(千早)というのはありますよね、この博多の近くの香椎宮のところに千早という地名が。それで今度は博多の中です。で、「あら」というのは、福岡城の前が荒戸、その先が荒津でしょう。その西側が荒江でしょう。その後ろ側が荒平山でしょう。福岡城周辺は「荒」だらけです。アラの中心地は福岡城や平和台のところではないかという感じがするのですがね。こういうこわい問題が出てまいりました。
 それにもう一言。おとつい鬼塚さん、灰塚さんに連れられて糸島をまわっていましたら、荒神様という名のその説明が出ていたんです。荒神様は竃の神である。あ、そうかと。竃神社、太宰府の裏にある。宝満山。上宮、中宮、下宮、一番いいところを取っているじゃありませんか。取っているといっては悪いですが。竃の神、あれがアラ神なんです。あまり大事な問題をひとくちで言って、うまく頭に収まらないかも知れませんが、またの機会に、また私が書きましたものによって、このテーマをご理解いただければありがたいと思います。

(終了)


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