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筑紫舞上演 解説・筑紫舞宗家・・・西山村光寿斉(『シンポジウム 倭国の源流と九州王朝』)
市民の古代第11集 1989年 市民の古代研究会編
回想
筑紫舞宗家 西山村光寿斉
一
大正十年に生をうけた私は此の度の改元で、三世代生きた事になる。御崩御、御大典と二度経験する事になった。
大正天皇の御崩御の折の、国の沈痛ムードは幼なかった私には知るすべもないが、御大典の賑々しさは忘れる事は出来ない。何故ならば、その時を期に舞との関わりが出来たからである。けたたましく、華やかな御大典の何日間か、引屋台で舞わされたのが初舞台であるから・・・・・。
昭和天皇を語る時、すべての活字は激動の昭和を生きた天皇と云う。私達庶民にとっても後から考えると、確かに激動の昭和であったような気がする。
物心ついた頃から、五・一五、二・二六の事件、満州事変、日中事変、大東亜戦争(かつてはそう呼んでいた)と・・・・・。しかし今のように、一般庶民が政治を批判する事も、関与する事もなかった。どんな大事件があろうと、我々の生活の外で、すべては「お上(カミ)のする事やさかい」で済んでいた。また、二・二六事件等の大事件が東京で起ったと知っても、神戸の私達の囲りは「えらいこっちゃナア、どないなるんやろ」でしまいである。本当に切実に我身の事と思い初めたのは、太平洋戦争に突入した時、また、食糧難が初まった頃からである。だからそんな中で、昭和十五、六年頃迄は、わりかた呑気に暮していた。
氏神さんの祭礼では派手に神輿(ミコシ)が練り歩いたし、山伏の行列や巡礼姿のお遍路さん、そんな昔乍らの風物が神戸の街では見られていた。
そんな初期の頃に、菊邑検校(けんぎよう)が私の前に現れたのである。その経緯は他の本や話等で度々書いているので省くが、僧形の汚れた風体に堂々とした検校が、世にも美しいが粗末ななりをしたケイさんを連れて訪ねて来た時も、別に特別奇異な感じは受けなかった。そんな姿を見る事は度々あったからであろう。
しかし、筑紫舞の稽古から初まって十二年間親しく接し、そして別れが来た時にはやはり常人ではないと思った。特に現在の私にとって、検校の言った事、教えた事がどんな重大な事だったかを思い知らされ、その頃の自分に歯がゆさ、すまなさをさえ感じるのである。
二
六年生の頃だったか、近所に藤間流の舞踊を習っている子がいた。おさらい会があるとかで招かれて見に行ったら、長唄の「娘道成寺」を踊っていた。
綺麗な裾引きの着物、派出な鳴物等で華やかで美しい舞台だった。踊った子の上手下手は判らぬが、私は元々の山村流も地唄舞だし、筑紫舞ときたら神社専門で着る物も決っている。面白くなくて、次に検校が来た時に、「私もあんなん教えてほしいワ。踊って見たい」と云うと、検校は「娘道成寺ねえ、いいですよ。教えましょう」と云ってくれた。とたんに嬉しくなって、「ほんま!嬉しい。早よ早よおけいこしよう」と云ったが、検校の教えだしたのは、私の頭の中にある“道成寺”とは似ても似つかぬ地味なものだった。私は「これ、違う・・・・・」と云うと、「いえ、そうですよ。あちらのは之を元にして居るのです」と云う。なるほど、歌詞は 鐘に恨みは数々ござる・・・・・・と初まる。「え? これ娘道成寺?」と聞くと、「いや、九州釣鐘草と云います。まあ今頃は處の名前を取って“鐘ケ岬”と云って居りますがネ」・・・・・ そして「九州に鐘崎と云う所があるのですが、そこの伝え話です。岬に鐘樓があり、ある時船で鐘を運んで来てそこへ釣ろうとしたんですが、どうしても船が岸に着けない。無理にすると大波をかぶり船の人も危ない。之は海神を慰め鐘を上げなければ・・・・・と附近の村の美しい娘を人柱に海へ沈めたのです。船は動き、鐘は無事釣る事が出来ましたが、その娘の母親が気が狂って、毎夜毎夜鐘の囲りをまわって恨みをのべ、あげくに海へ身を投げて娘の後を追ったと云う事です。その後、その地方は洪水がおこり悪病が流行ったりしたので、これはあの母娘のたゝり、恨みだと母娘を手厚く祭り、鐘を下ろして元の所へ返したらすべての悪事(マガゴト)がおさまった、と云う話が伝わって、それがこの歌になり舞が出来たんです。それを巡業に来ていた江戸の役者が一つの狂言にして、紀州道成寺と一緒にして舞台にかけて大当りを取ったと云われています。しかし、筑紫舞としてはこのまヽ覚えて下さい。これが元の姿ですから・・・・・」と私に聞かせた。私の心の中では、ちょっぴりではあるが「検校さん、あの踊り知らんもんやから、他(ホカ)のもん教えよ思て・・・・・まあいいや・・・・・」と云う位の気持と、その話が可哀想で、華やかな方を忘れて習おうと思ったのである。
しかし、九州へ来て、実際に鐘ケ岬と云う所があって、鐘にまつわる話があると聞いて愕然(がくぜん)とした。矢張り本当だったんだと・・・・・・。
現在でも私は“鐘ケ岬”として教えているが、何時もその悲しい話を忘れた事はなく、今教えている娘達に検校と同じように云い聞かせている。
また、何回か夜中の一時、二時に起され、「ちょっと今日のおけいこの所の間(マ)が気になるので起きて下さいませんか?」というような事があった。そんな時、冬の寒い冷たい廊下にじっと坐って待って居る検校を見ると、心の中では「もう!いやだ・・・・・風邪でも引いたらどないするん・・・・・・」と思っていても、やはり「ハイ」と起きて、眼を覚ますため便所の入口に置いてある手水鉢の氷を割って顔をつっこみ、ブルブルッとしてやっと目がさめ、けいこ場へ入って三十分程やり直しをさせられた事がある。当時は「何でこんなに迄して・・・・・」と恨みがましい気持があったが、今、筑紫舞専一に教えていると、技(ワザ)の未熟はまあがまん出来ても、間の合わないのはこちらの身体がおかしくなって気分が悪くなるのである。「ああ、あの頃の検校はこれだったんだナ」と初めて気付いた。自分がその身にならねば判らないものである。
検校という人は寡黙な人であったが、舞にまつわる話をする時は熱っぽく、また心持ち顔を上げて、しかも遠い九州の海の彼方を見えぬ眼で見つめるようにしんみりと語った。しかし、世間の事には全く無関心でまったくと言っていい程無知だったように思う。
舞の解説で、男女の情愛にまつわる話は私が女学校三年生位になる迄しなかった。そんな所はやはり常識人だったのかも・・・。また云っても判ってもらえないと思ったのだろうか。
普段、検校は私以外の家人とあまり話をしなかった。両親とは聞かれた事に返事をする程度には話をしていたが、祖母はるが生きている内は、祖母とは割合話をしていたみたいである。
その時に、くぐつにまつわる話や、筑紫舞の伝承の事等くわしく話をしたのだろうと思う。それがはるの日記に残っていたのである。
私がそれを読んだのは、検校と別れて一年経った空襲警報が毎日のように発令されるようになった昭和十九年の末であった。活字の好きな私は家にある本は読みつくして、新刊書はもう出版されていない時期だったので、ふとおばあさんの遺品の入った行季(コウリ)のあるのを思い出して、押入れから引っ張り出し、中の物を片っ端から調べていると、和紙の綴じた本?があった。何だろうと表紙を見ると、「世間耳学問」と書いてある。西鶴を気取っていたのであろう。パラパラとめくって読んで行く内に、赤い色紙で印のついている箇所に「菊邑検校より聞き書きの事、筑紫くぐつの事」と書いてある。読んで行く内に、何年か前に母が大さわぎして、父に何か言ったり、家の使用人達に「言うたらあかんえ、頼むさかい・・・・・。どないしよう」とざわついていた当時を思い出した。「あヽこれだったんだナ、くぐつ舞と言う事にこだわったんか」と初めて納得した。しかしその頃の父や祖母は母をたしなめ、何も事情は変らなかったのである。
神舞カンマイ・神前カンメエ・宮舞グマイ・公卿舞クギヨウマイ・くぐつ舞等々、二百数十曲に及ぶ伝承の内に、口酸っぱく幾度も幾度も私に伝えた。「判ったアー」とうるさく思った事もあったが、私の頭の中、身体の隅々迄きっちりとインプットされて、現在、五十数年経た今でもスラスラと出て来るのもそのお陰と思う。
三
現在、九州で暮らして驚く事が多い。例えば、「乙の組」と云う舞を習う時「どんな心で・・・・・」と聞く私に対して、「これはネ、島から遠く遠く出かけて行った夫または息子・父を、残された女達が海の彼方に届けよとばかりに歌い、舞う様で、目印になる石は除けないで・・・・・私の木は切らないでほしい、あの人はそれを目印に必ず帰って来る、と言うように切々と訴えているのですよ」と教えた。
だから、目線ははるかはるか遠くへ持って行ってほしい、と言った様な教え方をした。最近何かの新聞に、志賀島の女達が出かけて行った男を偲んで詠んだ歌が「刻まれている石が・・・・・云々」というような文を読んで、「あ、これだ・・・・・」と思った。すべての曲の解説は検校の語った通りの背景を持っていたのである。
私なりの解釈を入れず、検校から聞かされた事のみを語って弟子達に教えよう、それが一番純粋に筑紫舞を残す事なんだと、つくづく思うのである。賢(サカ)しら立てに「これは、きっとこうなんだ」なんて、主観を入れてはいけない。語り部に徹しようと思ったのである。
一緒に暮らした時には何の疑点も抱かなかった検校の出自、没年が調査の対象になったが、不思議な程判らず、判明して来たのはごくわずかである。私自身も、それらしい話を耳にすると、其処へ飛んで行って話を聞いた。そして、私の想像していた検校と、九州での検校は何処か違う生き方をしていたみたいである。
私は最近、ふと江戸時代の謎の画家・東洲斉写楽を思った。外国の藝術家達をうならせる程の絵を、それも大量に残していながら、今日(コンニチ)その正体は謎である。しかし写楽の生きて活躍した当時の人、周囲にいた人にとっては謎でもなんでもなく、はっきりしていた事だろう。それが何百年かたった現在、写楽は何者か判らぬ興味深い謎である。私も本屋の棚で、「写楽は○○であった」とか「写楽の実像は・・・・・」とかいう見出しを見ると、思わず買ってしまう。謎解きを楽しんでいるのだ。菊邑検校と云う人も、思いもかけず同様である。色々な学者や歴史家がその正体を調べるのに一生懸命になって下さった。そして「あの人は、こうこうの人でした」と云うような事を話して下さる。私にとって菊邑検校は、神戸に教えに来ていた師匠、九州の大塚古墳前で何人かの人に奉られていた人、それ以上詮索する気持は薄い。
しかし、写楽の絵と同じように、私の体の中に筑紫舞と云う形と歴史を残したのである。
私の傍に居た検校は、筑紫舞以外の事は一切無関心であった。やがて、召集された人々を見送る列が街を楽隊の音と共によく通るようになった。日支事変に突入したのである。「歓呼の声に送られて・・・・・」という唄声・・・・・、人の足音、万才!の声・・・・・そんな時でも全然関係なく、ゆったりとした声で「この曲や歌は、はるか昔にですね・・・・・」と云う調子で語り、そして「はい、そこはこうしなければ通じませんですよ」というように、徹底的に伝授する事に専念した。太平洋戦争に入ってからも同様であった。
四
足先をピンと立てて、左右左と爪先を動かす動作を、筑紫舞では「三界越え」と言う。母等は、「三界越えたら死んでしまいますガナ、そんな恐い・・・・・」と言っていたが、私は表通りの車、実家である家の内の生活、そしてけいこ場での検校・ケイさん・私の三人だけの世界、これが三界かと思った。そしてそんな事すべて越えねば舞は判らないのかも・・・・・とも思った。よく昔の人が「女三界に家なし」なんて、女をさげすむ言葉を口にしたが、私は「私は何時も三界越えてるもん、私には日本中に家がある」と自信を持っていたものである。
また、舞の振りの中に度々跳躍が出て来る。片足を引いて、パンと高く空中で一回転して着座するのである。その時上体がびりびり動きもしてはいけないのである。
初め私は縄飛びの要領で飛んだ。そうすると飛べるが、片足はぶら下がった形になる。目の見えぬ筈の検校はすぐにそれを見破った。「足を引きつけなければいけません。下っている方の足に世の汚れが付きますよ」。私は見えているように言う検校にも驚いたが、飛ぶ事にも意味がある事を知って余計驚いた。それからは足を引きつけて高く飛び、ぴちっと着座出来るように一生懸命練習した。聞き逃せない説得力と威厳を感じたからだろう。
また、或る時は筑紫箏による“秋風の辞”と云う舞を習った。漢の武帝の詩だそうで、歌い方も何か節があるようでないような、いわば吟じる、そんな歌い方で区切りがない。検校は、「これは大王ですよ、もっと威厳を持って、堂々と、大きく、そして間をくずさぬよう・・・・・」。そんな事言われても、私は大王になった事もないし、自分では大きく舞っているつもりだのに・・・・・とふくれ面をしながら舞っていると、「ダメダメ、それでは一兵卒にも見えません」・・・・・・どんなに一生懸命やっても、決して賞めてくれたり、「ああ、上手に出来ました」とか云ってくれた事は一度もなかった。しかし、他の曲と平行して、“秋風の辞”を舞っている内に、半年程目かに、口をすぼめて「ホウ、ホウホウ」と言った。どうやら検校の思い通りの間が持てたらしかった。
山村の舞を習っている時は、ひさも、ひさの連れのおっしょさん達も、私が踊る度に「ほんまに筋がええ・・・・・」とか「いやあ、お上手どすナア、おひさはん楽しみでんなしとか、口々に賞めたたえ家の者や私を満足させて呉れたものである。
しかし、菊村検校はそういった賞め方は絶対しなかった。たまに世間の評判を聞いた母が嬉しさの余り、「ほんまに、むつかしい舞をよう舞いはると、皆さんほめてくれはりまして・・・・・」と言うと、検校は別に嬉しそうな顔もせず、「あのお子は神のお子ですから、当然です」と言った。母は「そうだすか?」とせいがなさそうに引込んでいた。
しかし、日常生活においては嫌われる要素は何一つなかった。食事の度毎に、また、何か着る物を贈ったりした時には、物の大小に関わらず丁寧に頭を下げて「有難く頂戴致します」と言った。家の奉公人達も「ほんまに行儀のええお方だんな、面白い事ないけど・・・・・」と言って粗末にはあつかわれなかった。
世の中がどんどん戦時色が強くなり、何となく家の中も落着かぬ日が来た。私の家は酒店の他に、母の内職や父の道楽でやっていた塩の専売店や、砂糖、雑穀燃料とチェーン店式にずらりと並んでいたため、統制になってすべての配給所になってしまったからである。母も慣れぬ店先での商売にてんやわんやになり、男の奉公人は次々と召集令状が来て、兵隊に取られてしまった。しかし、けいこは日増しに激しくなって来た。まるで自分の命をつぎ込む様にビシビシと厳しくなって来たが、私はへこたれなかった。「負けるもんか!」の気持から、この人を裏切ってはいけない気持に変化して行ったのである。
五
よくよく考えて見れば、本当に昭和と云う年は目まぐるしかったと思う。しかし、いやな年であったとは私には思われない。少くなくとも今よりはましだったような気がする。
人情もあった。道徳もあった。移り行く世情に精一杯ついて行った人々、そして菊邑検校のように一つの事に執念を燃やし続け、しかも高僧のように無私無欲、またその検校に“陰の形に添う如く”の形容そのままのケイさんの姿に、殉教者を見るように思える。
最後の別れの時、見送りを断って去って行く検校の背に寂しさを感じたのは、安易に暮せる場所を捨てて出て行くと考えて見送った者の心にあっただけで、今思うと、その背は何も彼も置いて、本当に身も心も軽く、清々しい孤高の人の後姿だったのだと・・・・・。その証拠に、二十年四月戦争末期に、私の友人が長崎の町で偶然検校と出会い、思わず声をかけて、「光ちゃんにお言づけは?」と聞いたのに対し、「いいえ、何もありません、あの人が私ですから・・・・・」と答えたと云う。成すべき事を成し遂げ、後は神にまかせる・・・。そんな清々しさだったのだ。
今、私は残り少い年齢になって、やはりかつての検校のように筑紫舞を次の世代の人に教え、伝え、残す事にのみ生甲斐を感じて暮している。他には何も欲しくない。むしろ日一日と、鮮明に一つ一つの検校の動作、語りが思い起される。
初めて筑紫舞の伝承を父に願い出た時の懸命な、そして大きな体を小さくして、ひたすら懇願していた姿、曲の内容や歴史を語る時の、熱っぽく、そして遠くを見つめて独り言を言っているような顔。奉納の神社の神楽殿で琴を前にして、母の作った真白の着物に白いハカマをつけた、堂々と気品のある、何も彼も包みこむような頼もしい坐った姿。七人立ちの翁の名乗りを、一人分づつ朗々と大きな声で何十回となく私に聞かせ、言わせてはダメを出し、またくり返す、そんなひたむきな姿。大塚古墳へ行った時、玄海灘へ向って大きく両手を上げて、「オー」と神呼びしていた姿。しつこく迫る「たまわれたまわれ」に、大きな声で「あせるでない?!」と怒鳴った検校・・・・・。
そして、最後の別れの日に、私に盃を差出し「たまわれ」と言って、素直に泣きながら酒をつぐ私の手をとり、自分が飲んだ盃を渡した時の手のぬくもり。泣きながら酒をついだケイさん・・・・・・。夏、庭での行水の時、ケイさんに背中を流させていた検校の、がっしりしているが意外に白い背中。そんな事が走馬燈のように私の胸をかけ巡る。
昭和は過去の年号になった。そしてまた、思い出も遠い遠い昔のような気がする。でも、おかしな事に、平成と改まって余計に検校が身近に感じるのは何故だろう。神になられた検校が私の直ぐそばに常に居るのかも知れない。時間の空間を越えてやっと検校と一つになったのかも知れない。そう思ってこの手記を書く気になったのである。
最後に、思い出すまま検校の言葉、教えを残して置きたい。
筑紫舞とは
神舞(カンマイ)は上手(ジヨウズ)に舞おうと思ってはいけません。人は、見物人は何人いようと、皆、神のお相伴です。神様が満足されればそれで宜しい。
くぐつ舞は、体の極限迄動くのです。どれ程激しく舞えるか。そして、それは見る人がいるのです。最高の技を見せれば、一族全部が一年間食べられたのですよ。え? 見る人ですか? それはその時その時違いますが、高位高官の人です。また、別の板舞(ハンマイ)はその人物になり切って、心を、魂を出さねば見る人が感動しません。だから、どんな人がどんな心を舞っているか教えているのですよ(つまり自己満足の舞がないと言う事らしい)。
筑紫舞を伝承していた人達の文字の事
検校が家へ来る事になった理由は、嵐璃班(リカク)と云う歌舞伎役者が、“竹生島”と云う曲に筑紫振りをとり入れたく、振付を頼む為検校を神戸へ呼んだのである。その時、振付けて行く途中、翌日間違っていたらちゃんと指摘した。なぜなら、母から麻縄の束をもらって、それに間を結びコブにして、手でさぐりながら教えていたからである。不思議に思って聞くと、「昔はこうして、縄を結んで文字の代りにしたり、木をけずって意志を伝えていたのです。私達の中には今だに、そうして居る時もあります。」(右の結縄、刻木の話は、古田武彦先生の御調査の途中、『二中歴』とかにその文があったという)
アマテラスの事
「りんぜつ」とか「神迎えの舞」等習っている時、アマテラスに感謝して、お塩を戴くのです、と言う。私は小学校で、天照大神(アマテラスオオミカミ)という神様が国の初まりと聞いていたので、その神の事と思い、そう言うと、「ええ・・・・・そう云う神様もありますね。しかし、この場合のアマテラスとは、海を照らすと書きます。つまり、月の光、日の光の御余光で海の幸がとれる。その光、波にキラキラと光る、その光を言うのです」と答えた。私は高マガ原にいられる天照大神の他に、海にも同じ名前の神様が居るんだと思った。
塩がまさんの事
古神舞(コカンマイ)を習う時には、笹の長いのを持ち、海面をすくうようになぜるようにする。どうしてと聞くと、「塩をとっているのです」。こんな笹で塩がとれるの?と聞くと、「笹の葉はザラザラしているのでしょう。海の水をつけて浜に立てかけて陽に当てると、水分だけ蒸発して笹の葉に塩が残るのですよ。その塩を敷物の上にたたいて落してカメに入れてためて置くのです。人間が生きて行くには塩が一番大切なものなんですよ。それをためて入れるカメを、人が勝手にさわったり使ったりしないように、カメと口の辺りにぐるっと〆縄を張って、神様としてうやまったのです。それが塩ガマ神社の事です」と・・・・・成程、海のある所や、小さな島に塩ガマ神社をよく見かける。紀州の道成寺へ行った時も、途中の小島に塩ガマ神社があった。うちは塩を売っていたので、そんな位の塩を・・・・・どうするんだろうと思ったが、播州赤穂へ行って塩田を見ると、竹のササラの束を架にさかさにかけていた。戦後でもそんな製塩法をしているのである。昔の人の知恵に驚いた。
天満系(アマミツケイ)の事
神舞の幾つかの中に「これは天満系(アマミツケイ)です」と言われた。私は天満というと天神さん、すなわち菅原道真公の事と思っていた。これは道真の舞なんだと・・・・・。しかし検校は、天神(てんじん)さんと云えば皆菅原道真と思いますが、道真以前の天に満ち満ちた神の事です。天の神、海の神、地の神とあるのです。一人の人の舞ではありません。それに道真公は仏で、神ではありません。
案山子、蛙、たにし等の事
筑紫くぐつ舞には、右のような題名のものや、孤、狸、からす、ネズミ等のように動物を擬人化した舞が沢山ある。私が「何でこんなに動物ばかり主役なの?第一タニシやからすなんかが、こんなにしゃべっていたら、世の中やかましゅうて、しやない思うけど・・・・・昔は人間おらんかったん?」と聞いた時、検校は珍しく笑いながら「昔々ね、山の神様と田の神様が交替する時期があるんです。その時、カカシが立番していて、烏が今度はどんな神様だろうとさぐりに行って、それをカカシに伝える、なんて話がありましてね。世の中すべての物は人間と同じなんですよ。ネズミも何も皆神様がお創りになったものですから・・・・・言葉もしゃべるでしょうよ」と云った。その時は何となく納得したが、戦後『古事記』を読んでいると、その話が出ているではないか・・・・・。びっくりして、単なるおとぎ話でなく、ちゃんと昔の本に書いてある言い伝えと思うと同時に、菊邑検校と云う人が益々判らなくなった。どれ程の教養があるのか、どんな生れなのか・・・・・。
伴奏の楽器の事
大塚古墳へ来た時は、筑紫箏の他に、カヌーを裏返して、二、三本糸を張ったような琴をたたいて、鼓のようなカスタネットのような音を出していた。その他は、横笛に笙(シヨウ)、大鼓(オオカワ)、そんなわりかた見なれた(たたく琴は別として)伴奏の楽器だった。しかし、海神社の海へ向って舞った時に、ツルツルになった三センチ位の厚みで、七、八センチ位のきれいな石に穴のあいたものを吹いていた。何とも云えぬ高い澄んだ音がしたので、見せてもらった。「これ楽器?」と聞くと、「ええ、私達にはネ」と言って終った後、シマの小袋に大切そうに仕舞っていた。「そんなの見た事ない」と言うと、「じゃあこれは?」とそこらにあったような木の葉を口に含んでピーピー吹いて見せた。草笛は、家にいた丁稚(確か、丹後の方から来た子と思う)が時々、私の遊んでいる原っぱへ来て、何か草を含んで吹いていたのを見た事があったので、「それは知ってる、見た事ある」と言うと、「そこらにあるもの何でも楽器になります」と云う。そう云えば前に、竹のササラのような三十センチ位の、ちょうどお茶の茶箋(チヤセン)をのばしたようなもので、琴のようなものの上をサラーとなぜたり、ササラ同士をこすり合せたりしているのを見たのを思い出した。
後日談になるが、九州へ来て、昭和六十二年に下関の赤間神宮へ祈願に行った事があった。「耳なし芳一」の劇中で公卿(平家の怨霊)になって舞う為、うまぐ行くように祈願に行った。その時、赤間神社独得の祝詞(のりと)は、鈴や太鼓、笛でにぎやかであったが、伏して聞いている内に身内がおかしくなり、日を改めて神社へ行き、その伴奏のままで訳が判らぬまま神まかせにして舞った。見ていた弟子達や後援者の人が、まるで屋島の合戦を見るようだと云ったが、不思議な事に、楽が終るのと舞が終るのが一秒も違わなかったらしい。私はその時、筑紫舞には伴奏楽器っていらないのではないか? 風の音でも、水の音でも、鳥の鳴く音ででも舞えるんだ、そう思ったのである。とにかく、手作りの楽器を使っていたみたいだった。ただし、菊邑検校の場合、箏曲は八橋以前の古曲でも何でも弾かれた。そういう格式のものもあるのである。
散所の事
昭和十一年大塚古墳へ集った時、一番年をとった人に検校は「サンショにはもうこれだけしか居なかったのかネ?」と聞いた。その人は「へえ、誰それは○○へ、誰やらは・・・・・・」と云うような事を答えていた。「サンショって何?」と聞く私に、おん使者はんが「はあー」と困ったように云って、「ちる所と書くんですがネ、だから散って仕舞ったんでしょう」と云った。私は町名のようなものと思っていたが、最近その散所が大きな意味を持つ事を知って驚いている。大分県の藝能史、くぐつの伝承の中に“算所”として書かれていたのだ。
人形くぐつの事
ある時、璃班さんに清元の子守を習っていた。たまたま検校が来ている時、まだ私が筑紫舞にとり組んでいない時であるが、璃班さんが「人形箱からお染、久松の人形出して使いますのや」と教えていた。検校が「子守が人形箱持って子守しているのですか? それとも道端に置き忘れのがあったのですか?」と聞いた。璃班さんが「何や知らんけど、型でっさかいな、そう言う事になっとります」といささかムッとしたように答えた。検校は「道理に合わぬ事は教えるべきでない」と云った。璃班さんが「では師匠の方の舞では、こう言う時どないしはります?」と聞くと、「道端の木切れを拾って、それをお染、久松に見立てて使います」と答えた。名人と言われた璃班さんは「なるほど、その方が理屈に合いまんナ。よし、これからはうち(豊島屋)の型として、私だけでもそうしまひょ。こいさん、そうしなはれ」といったので、私はずっとその型を使っている。人形箱を持たぬ子守として、西山村の型にしたのである。
宇治子守の事
京子守という題で曲は残っているが、私が習った時は、“宇治子守”として習った。地歌でもなし、長唄でもなし、祭文であったらしい。
歌詞の中に、普通に聞けば何ともないが、辻つまの合わぬ歌詞が並んでいる。私が、支離滅裂やなア、一体何を言うとんの? と聞くと、事もなげに「忍者ですよ」と言う。「忍者て、あのドロンドロンでガマが出てくるヤツ?」と聞くと、「いえそんなもんじゃありません、あれはお芝居です。たとえば、この歌詞の中に柿の木の下にハチが巣を作り、頭は大カブト、長いヤリであっちゃさしこっちゃさし、私しゃもう恐うて・・・・・と云う所があるでしょう。あれは、柿の木のある場所(聞く方には判っているのです)に蜂須賀の軍が陣をはっている、というような事を子守唄にして、味方の仲間に教えているのです」と言った。私は面白いなアと思ったし、その舞は好きな方なので今でも教えているが、最近、テレビで世阿弥がくぐつだった、そして忍者(お庭番)の役目もしていたと云うのを見て、「アッ」と思った。検校はすべてを知っていて隠さず教えてくれたのだ。
“おそめ”の事
よく、上方舞で“出口の柳”というのがある。私はどんな舞だろうと思って、地唄の師匠に聞いた。“立てまつる・・・・・奈良の都の・・・・・”で初まる、私の方では“おそめ”と云う。現在、大阪、京都で舞われているのは最初の本調子の所だけで、私が習ったのは、その後に二上り(祭文)本調子(催馬楽)とつヾく。そして、中の合ノ手の所の曲、二番から三番へ移る曲が、日向の神楽ばやしであった。検校は、“おそめ”のいきさつをくわしく教えて、「一時気が狂ったようになる、それは風の音がササラの音に聞えて、故郷を思い出し、日向神楽を舞うのです」と教えた。私は合曲を心覚えの節で復曲、上演したが(土居崎検校に依頼して)、初めに習った時の検校の唄、三味線はどうしても出ず、一回上演したヾけで舞う気持がしなくなった。“おそめ”の物語りの哀れさを、やはり、歌、曲で表現しなければ、本物は舞えぬと思った。
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