三 九州年号『古代に真実を求めて』 (明石書店)第十集) へ

『古代に真実を求めて』 (明石書店)第九集 講演記録 君が代前ぜん
二〇〇五年七月三〇日 京都市商工会議所大ホール
[第一部 対談] 古田武彦が語る古代史 古賀達也/古田武彦
第二部古田武彦講演 「君が代(ぜん)」
1歌の始まり “あなにえや、えおとこを” 2『古事記』の「淡道之穗之狹別」 3『古今和歌集』の「古の歌」  4九州年号と神籠石山城 5枕詞について 6古代日本語の甲類・乙類について 7日本書紀の倭(夜摩苔 ヤマト)は、筑紫である 8藤原京はなかった 質問


古田武彦講演会

四 九州年号と神籠石山城

古田武彦

 今のようなお話をしますと、皆さん方すべて、明治以後の(近畿)天皇家一元史観の教育を受けてこられた人ばかりですから、しかも三代・四代は過ぎていますから、そんなことを今さら言われても困るよ。わたしたちの頭の中は、そんなふうになっていない。そう言われる人ばかりだと思う。しかし江戸時代はそうではなかった。わたしのいう九州王朝が本当だという議論もありました。しかもたいへん有力な考えだっだ。しかし明治以後、そのような議論はすべて廃止された。天皇家中心以外の学問は、学問と見なさない。水戸学の学者が東京帝国大学を押さえたので、その方法で歴史の教育・研究が行なわれた。しかし江戸時代は必ずしもそうではなかった。その例を二つ挙げます。
 一番目は、九州年号(『二中歴』)を挙げておきます。これは五百十七年から七百年までの約二百年間、年号が記載されている鎌倉時代の『二中歴』という書物からの抜粋です。「継体」から「大化」という年号が並んでいる。「継体五年」というのは、そこから五年間「継体」という年号があった。最初の干支がならんでいる。そういうスタイルで並んでいます。これは江戸時代は問題にしていたけれども、明治時代はこれはとんでもない、禁止だ。水戸学によって、これは禁止された。だから皆さんは知らずにいた。教科書でもカットされ続けている。
 しかし、この暦(『二中歴』)のように年号があるほうが自然です。なぜなら、この九州年号の真ん中に(聖徳太子が)「日出る処の天子」を名乗ったのはご存知でしょう。また中国でも天子を名乗っています。それに対抗して、「おまえさんは、日没る処の天子である。わたしは、日出る処の天子である。」。そのように言っておいて、年号を造らなかった。そんなことがあるのでしょうか。簡単ですよ、年号を造るのは。一晩考えれば造れる。だから造り忘れたということはありえない。しかも隣の新羅は年号を造っている。九州年号より少し遅れますが、新羅年号を造っている。後で中国に怒られて白村江の前に止めています。とにかく高句麗と平行して新羅も年号を造っている。このことは良く知られている。
 そうしますと、対抗する「日没る処」である中国も年号を造っている。お隣の新羅も年号を造っていることを知っている。それで「日出る処の天子」だけが年号を造ることを忘れました。そんな話を誰が信じますか。日本の従順なロボットが信じていても、外国人は信じませんよ。『二中歴』に記載されているような九州年号があったと考えるがわかりやすい。
 またこの「二中歴」の年号の二つ・三つの年号が抜き出されて『日本書紀』に載せられていますから、余計にだまされやすくなっています。ですが年号がとびとびに載せられていても意味がない。暦ですから連続してこそ意味がある。『日本書紀』に飛んで入っていても意味は一つもないし、ありえないことです。『二中歴』に記載されているような連続した九州年号ならありえる。そのように考えても「九州年号」というものは実在である。江戸時代にはそのような説が強かったのですが明治時代に否定されて、現在では「九州年号」を知らない人々が四代にわたって大量に作られていった。

 二番目は神籠石(こうごいし)山城の分布図です。写真を見れば分かりますように山の中腹に大量の石を煉瓦のように石を切りそろえて、延々と山を囲んでいる。これはようするに山城の木柵の土台です。山を取巻いて、敷石と木柵を延々と並べたものです。ほとんど九州にあります。九州以外は、山口県の石城(いわき)山、これが東の端です。岡山の鬼城山や愛媛の永納山では、神籠石(こうごいし)山城と従来の朝鮮式山城といわれるものを複合した形式のものです。しかし完全な神籠石山城は、九州と山口県の石城(いわき)山です。
 しかし学者の中には、ひどい定義を行ない図を書いている。『日本書紀』に書かれている以外は、すべて神籠石(こうごいし)山城である。そう考えて作成された分布図は、イデオロギー的な図でまったく意味はない。
 ところで石を煉瓦のように切りそろえるというのは、たいへんな技術です。一旦石を切ってしまえば積み上げて揃えるのは楽です。このような例は、まったくない。朝鮮半島にもないし、中国にもない。中国には一部のお墓の石に使われた例はあるけれども、このように山上の城に使われた例はない。ヨーロッパにも。もちろん石質に関係しますが、当時の最先端の石城技術であることは間違いない。この神籠石山城は、兵隊だけでなく、国民を収納する。たいへんな広さだ。水を供給する設備がかならず作られている。もちろん食料その他の倉庫もあるし運び込んでいる。
 その神籠石(こうごいし)山城が囲んでいるのは、九州太宰府・筑後川流域です。図を見たら一目瞭然(いちもくりょうぜん)。大和を囲んではいない。
 そうしますと四・五世紀、倭は高句麗とあれだけ激烈な戦争をしたことは、高句麗好太王碑に書かれてある。また、そのことは「倭の五王」として『宋書』などに書かれてあることはご承知の通りだ。そうしますとあれだけ激烈な戦闘をしながら、倭はまったく軍事的な防御施設を造らなかったのか。もし(近畿天皇家の)大和が、「倭の五王」や「日出る処の天子」なら、そのようになる。あれだけ朝鮮半島に行って戦いながら、まったく(近畿に)大和を囲む軍事的な防御施設を造らなかった。なぜか九州太宰府と筑後川流域を囲む地域に、ばくだいな人力を投入して軍事的な防御施設を造った近畿天皇家。このような話は日本人が信用しても、外国人が信用するはずがない。ところが、現在の教育ではそのようになっている。このような神籠石山城の分布図がないのが日本の教科書です。これにふれても、近畿天皇家がお造りになったと考古学者が解説している。こうなると、もう考古学は弁舌の学であると、悪口も言いたくなる。近畿の権力者はなぜ近畿で造らずに、なぜ九州だけ神籠石山城で囲こんだのかと言いたくなる。
 さてそこで大事なことは、志賀島の金印をご存知だと思う。その金印を神籠石山城は金印を守っている。江戸時代ただ甚兵衛さんが掘って見つけたと言っていますが、金印を埋めた人は権力者ですから自分の中心地とぜんぜん無関係のところに埋める、馬鹿はいない。また祭祀をしないはずはない。先ほど言いましたが、最古の三種の神器が出た吉武高木遺跡でも、お祭りをしていた。次の前原市三雲遺跡。こんどは東側に行って須久岡本(すくおかもと)遺跡、また前原市に戻って平原(ひらばる)遺跡。それらの遺跡から「三種の神器」が出ている。これらの遺跡は、畑を開墾していたら見つかったとかほとんど偶然発掘ですが、初めからこのような状態であったはずがない。とうぜん自分たちに重要な場所にお墓を作り祭祀(さいし)を続けた。われわれがそれを知らなかったということは、天皇家がそれを知らなかっただけだ。とうぜんそれは別の王朝だった。今言いました三種の神器の出てきている遺跡も神籠石山城に守られている。
 さらに言いますと、わたしは四世紀初めだと思いますが、普通は五世紀初めと言われている前原市の西にある一貴山(いっきさん)銚子塚古墳の黄金鏡。後漢式鏡に金を塗ってある(金メッキ)。現在実物は京都大学にあります。先ほど言いました、雷山の北にあります。これも神籠石山城に守られているなかにある。この黄金鏡については新聞も考古学者も、まったく言いません。教科書も取り扱いません。それを取り扱うと、なぜ九州に黄金鏡が出てくるのか。四世紀、別に五世紀でもよいが、あれほどたくさんの鏡が近畿から出たといって騒いでいるが、まったく黄金鏡は出ない。その説明がつかないから無視する。

 以上例として言いましたが、近畿天皇家一元主義では説明が付かないことが、年号でもあるし、考古学的な神籠石山城でもある。知らないのは国民だけです。

 

5 枕詞(まくらことば)について

 皆さんが習ったのは、意味がわからない、説明出来ない言葉がある。枕詞(まくらことば)は意味はわからない。覚えておけば良いと言われたはずです。
 しかし、そんなばかな話はない。意味もなくて誰かがデタラメに考えて、それを意味もなく皆が使い続ける。そんなことがあるのですか。人間はそんなに馬鹿ではない。やはり本来は意味があったと考えるのが自然だ。今は受験に必要だから、それこそ意味もなく覚えて来ただけではないか。

「あしひきの・・・山」、「ひさかたの天(光)・・・」、「飛ぶ鳥の(飛鳥)」「そらみつ大和」など、たくさんある。ところが、これを近畿大和で考えるとよくわからない。しかし九州へ持っていくとサッと解ける。あまりにもあっけなくて、わたしはぼう然としました。

 まず「あしひきの・・・山」。これの解釈も従来はひどいものです。賀茂真淵や契沖が書いているのですが、「山へ上がると、足が痛くなって足を引きずるから」と書いてあります。(笑い)わたしなどは年を取って足ばかり引きずっておりますが。ところがこれを九州福岡県に持って行きます。太宰府の隣に、筑紫野(ちくしの)市というところがあります。現地では「つくし」と言わずに「ちくし」と言います。ここの郵便番号帳を引きますとわかりますが、最初に「阿志岐あしき」という字地名があります。この「岐」は、ほんらい要害の意味の城(き)です。語幹は「阿志あし」です。そして「あしひき」の「ひ」は「日(ひ)」です。そして、この辺りで「山」と言いますと、仏教風に言うと宝満山。古くは三笠山です。文字通り山頂に大きな三列石があり、江戸時代にその一つが落ちるということがありました。あとの二つは残っています。他に女性の陰部をかたどった大きな石もあります。文字通りそういう旧石器・縄文の祭りの場です。三笠山というのは、三列石の御神体を言っています。奈良県の三笠山には、九州から名前だけを持ってきたものですから、そういうものはないようです。問題は、この辺りでは太陽も月も、この三笠山から出る。すそ野の広い山です。ちょうど京都で「山」と言えば比叡山。親鸞が山を降りると言えば、比叡山に決まっている。太陽も東の比叡山の方向から出る。それと同じく、この筑紫野市辺りで「山」と言えば三笠山である宝満山。
 ですから太陽が出る山という意味を入れて「あしひきの・・・山」と言えば宝満山。ですが大和盆地でいくら考えても分からないことが、九州で考えれば簡単に解ける。

 同じく「ひさかたの天(光)・・・」。これも九州博多に香椎の宮があります。そこへ行きますと、その近くに久山(ひさやま)という山があります。そうしますと香椎の宮の前の海岸が久潟(ひさかた)。しかもその対岸の志賀島の志賀海神社の海女(白水郎)さんが、年に二回祭りのとき、舞を奉納に来る。現在でも奉納に来られているし、平安時代の記録にも残っている。だから「ひさかたの天(光)・・・」です。ですから、なんのことはない。久潟(ひさかた)で海女が、舞を奉納に来た。それを表している。(但し、われわれが今考えるような舞ではありません。)
 それでは「光」は何か。これは音通で「御津みつ」のことです。「御津みつ」を漢字で「光ひかり みつ」を当てた。洒落の連鎖のような使い方で、湊(みなと)を表している。このような用法の代表例が「天満宮」です。「天満あまみつ」とは、御笠川が、博多湾に注いでいますので「御湊みつ」。だから天津(あまつ)神を祭っている湊(みなと)としての「天御津あまみつ」。それを言葉の洒落として、「天満あまみつ」と表現して「天満宮てんまんぐう」と呼んだ。同じように「御津みつ」を「光ひかり」で表して、「ひさかたの・・・・天(光)」です。

 もう一つ、「飛ぶ鳥の(飛鳥)」。これは、いろいろな学者が競争で解説を出しているような言葉です。ですが、これはどう考えてもピンとこない。ところが九州に持って行くとよく理解出来る。これはわたしの『壬申大乱』(東洋書林)を、お読みいただければ理解できるとおもいます。太宰府の南、福岡県小郡市に井上という地区ですが、この字地名の図をご覧になれば分かりますように、変な形、飛ぶ鳥のような形をしています。その先に「飛鳥とぶとり」という地名があります。ここが「飛鳥あすか」です。現在は「飛島とびしま」と直してありますが、それ以前は「飛鳥あすか ヒチョウ」と言った。明治になり天皇家の世になって、遠慮して「飛鳥あすか」と呼ぶことを避けた。
 何もそこまでしなくとも、そのようにわれわれは考える。しかしこれには先例がありまして、近くを流れている宝満川を戦国時代までは「徳川」と書いていた。江戸時代になると徳川氏の時代になった。「徳川」と呼ぶのは、恐れ多い。『南総里見八犬伝』で見られるように権力者が屁理屈をつけて攻撃されたら、いくら弁解しても無駄である。そういうことを恐れて、あらかじめ「徳川」を、「得川とくがわ」に名前を変えた。同じ場所でそういうことがありました。読み方は同じです。明治になって人々は解放されたと、われわれは教わってきた。それは現代の国家のピーアールであって、人々にとっては徳川という公方さまの時代は過ぎたが、明治という天子さまの時代が来た。「飛鳥あすか」という言葉を使ってはまずい。人々にとっては、徳川も明治も同じようなものです。時代に合わせて防衛策をたてた。これが人々の知恵です。だから「飛鳥とぶとり」と直した。しかし『明治前期全国村名小字調査書』(ユマニ書房刊)では、「飛鳥」と書いて、「ヒチョウ」と仮名を振ってある。しかし漢語である「ヒチョウ」は、字地名ではあり得ない。やはり「飛鳥あすか」と呼んでいた。これも現地の川宝満川の堤防に立って、「飛鳥あすか」を見てみれば、なにも難しい理屈は要りません。そのように考えます。

 もう一つだけ言いますと、「・・・そらみつ大和」。これも今までの学者は苦労しています。枕詞の歴史を調べてみますと、大和平野は盆地だから、空が一杯見える。ある。だから「空満そらみつ」だ。たいへん苦しい感じがします。それでは瀬戸内海、海の上では空が一杯あるからどうなのだ。そのようにも言いたくなる。わたしも、どのように解決したらよいか悩んでいた。
 ところが、九州博多下山門で考えるとどうなるか。先ほどの『明治前期全国村名小字調査書』(ユマニ書房刊)を見ていますと、近くに「麁原そばる」がある。九州博多下山門の近く室見川のそばです。ここの語幹が「麁」です。「原ばる」は、このあたりの地名は、ご存知の平原(ひらばる)などたくさんある。
 そうしますと、「そらみつ」の「ら」は何か。これも早良(さわら)区の「ら」。本来は沢に接尾語の「ら」を付けて、たくさんの沢がある「沢羅さわら」を表している。今の前原市では、岩に羅(ら)を付けて、井原(岩羅いわら)と呼んでいます。
 ですから語幹の「麁」に接尾語・複数形の「ら」を付けて、「そら」です。そして先ほど言いました「御津みつ」を考えます。そうすると室見川の河口付近ですから「そらみつ」です。「やまと」は、下山門がありますから、文字通りの枕詞としての「そらみつ山門やまと」です。わたしも奈良県では苦労して解けなった。しかし九州へ持って行けば簡単に解ける。

 

6 古代日本語の甲類・乙類について

 この場合も、おもしろい問題がある。
 しかしそんなことを言っても、奈良県「大和」と福岡県「山門」では、甲類・乙類と音韻が違うではないか。このように言われると思う。これが学者先生方の共通の理解です。定説だった。

ところが今回甲類・乙類の問題を見直して、がく然とした。

『古代国語の音韻について』(他二篇 岩波文庫 橋本進吉)

甲類 ト〔清音〕刀斗土杜度渡妬覩徒塗都図屠・外砥礦戸聡利速門
    〔濁音〕度渡奴努

乙類 ト〔清音〕止等登[登邑]騰縢臺苔澄得・迹跡鳥十与常飛
    〔濁音〕杼縢藤騰廼耐特

 これは橋本進吉氏の作られた表がある。
 これを見ますと「甲類 ト」とあって、清音と書いてあり、初めは音を表し、「・外砥礦戸聡利速門」から以降は意味を表す。つまり黒丸(・)以下は意味を表し、「門」は表意です。同じく「乙類 ト」とあって、清音と書いてあり、初めは音を表し、「・跡迹鳥十与常飛」以降は意味を表わす。そうしますと「大和(ヤマト 邪馬臺)」の「臺(ト)」は音を表す。

 ところが「臺」は表音で、築後山門の「ト」「門」は表意である。ですから橋本進吉氏は、表音と表意を一緒にして、この表を作成している。わたしは、これにはたいへん驚いた。やはり純粋に考えれば、表音どうし、表意どうしで比較するのが筋だろう。表意は、意味ですから音に直結しない。これが第一の問題点。
 もう一つ驚きましたのは、先ほど言いましたが、乙類の至の入った「臺」は『古事記』『日本書紀』には、ない。建物の意味の「臺だい」はあるが、表音として「臺」が「ト」として使われた例はない。『古事記』『日本書紀』に、表音として使われた例はム口の「台」だけで「臺」はない。ですから、とうぜん橋本氏は比較するならム口の「台」と比較すべきだ。それを「台」を「臺 ダイ 」に、変更して比較している。これはわたしどもの世代としては、感覚的に良くわかる。わたしも若いときには「台湾」と書くときに、いつも至の入った「臺湾」と書いてしまった。橋本氏の心理もわからないではないが、心理では困る。実際に使われているのは、至の入った「臺」でなく、厶口の「台」です。
 ですから繰り返し言いますと、実際に使われているのは、ム口の「台」です。それを至の入った「臺」にして、しかも表音と表意を一緒にして比較しているのも厳格性を欠いている。

 さらに補として、このように書いてある。
「・・・ともかくも今の所では絶対に例外がないということは出来ない。僅かばかりは例外があるのであります。殊にそれが仮名によって多少の程度の差があるのでありまして、オ段の仮名の方が他のものに比べて比較的例外が多く、オ段の中でも「ト」という仮名には割合に例外が多いのであります。そうしてこれを歴史的に見ますと、平安朝に入るとその例外がますます多く・・・」(『古代国語の音韻について』三 P80 橋本進吉著 岩波書店 )
 つまり、当の橋本進吉氏は、「ト」は割合例外が多いからあまり信用するなと、御本人は書いています。しかし後の人は、奈良県の「大和」と、築後「山門」は違うと言い続けている。橋本進吉氏が聞いたら、良くわたしの本を読んでくれと言うだろう。


7 日本書紀の倭(夜摩苔 ヤマト)は、筑紫である

 それともう一つ、一番大事なことがある。
 基本中の基本の倭(夜麻登 夜摩苔 ヤマト)の例が、違っている。

『古事記』中巻 倭建命
・・・能煩野(のぼの)に到りましし時、國を思(しの)ひて歌曰(うた)ひたまひしく、

やまとは 國のまほろば たたなづく 青垣あをかき 山やまごもれる 倭しうるはし

とうたひたまひき。叉歌曰(うた)ひたまひしく、

命の 全またけむ人は 畳薦たたみこも 平群へぐりの山の 熊白檮くまかしが葉を [髟吉]華うずに挿せ その子

とうたひたまひき。此の歌は國思ひ歌なり。叉歌曰ひたまひしく、

しけやし 吾家わぎへの方よ 雲居くもいち来

うたひたまひしき。此は片歌なり。此の時御病甚(いと)急かになりぬ。爾に御歌曰(よ)みしたまひしく、
・・・

『日本書紀』第七 景行天皇 十七年
・・・是の日に、野中の大石(おほかしは)に 陟りまして、京都(みやこ)を憶(しの)びたまひて、歌(みうたよみ)して曰(のたま)はく、
しけやし 吾家わぎへの方ゆ 雲居くもいち来

やまとは 國のまほらま*2 畳づく 青垣あをかき 山籠こもれる 倭し麗うるわ
命の 全またけむ人は 畳薦たたみこも 平群へぐりの山の 白橿しらかしが枝を [髟/吉]華うずに挿せ 此の子

是を思邦歌(くにしのびうた)と謂ふ。

*2 倍(熱・北) -- 保
                     日本古典文学体系(岩波書店)


 倭(やまと)の表記は「夜摩苔」です。
 わたしも大好きだった歌です。だいたいは同じですが、問題は作者が違う。『古事記』は倭建、『日本書紀』は父親の景行天皇。造った場所も違う。倭建は三重県で、大和に帰る直前に平群(へぐり)で、これを歌って死んだようだ。『日本書紀』の景行天皇は、これから九州大遠征を始める直前の部分で作った歌です。同じ歌が違う作者で別の場所で歌われるということはありえない。これがまず、おかしい。
 時間の関係で結論から言います。まず『古事記』より『日本書紀』のほうが古い形態を示している。理由はいま言います。『日本書紀』の中でも写本により言葉が違っている。問題は「摩倍邏摩 まほらま」、註に「2 倍(熱・北) -- 保」とあります。より古い写本『熱田本・北野本』では、「倍 へ 」とあり、新しい江戸時代の写本や本では、「保」と直されている。写本の新しい・古いという事実から見ると、ここは明らかに古い「倍 へ 」である。ほんらいは「摩倍邏摩 まへらま」と読むべきである。それを後から「まほらま」と書き直している。
 「まへらま」とは何か。「へらま」とは女性の方はよくご存知だと思いますが、毛皮などの脇の下の毛を「へらま」と言います。「へ」は端のことです。「へらま」は端ではあるが良い場所を言い、「ま」はほめ言葉です。それが「まへらま」です。「まほらま」なら中心のすぐれた場所のような受け取り方ができる。それで『古事記』の「まほらば」なら、もっとより良い中心の場所として受け取れる。つまり中心として受け取れるように書き直している。
 本来は「端の良い場所」としての「まへらま」。これが古写本のほんらい示す姿です。

 肝心の問題を言います。『古事記』『日本書紀』では、平群(へぐり)が最終到着地点のように書かれてある。奈良県に北西部に、たしかに「平群へぐり」というところがありますが、ここは何も、古来からの中心地点ではない。古くは長髄彦(ながすねひこ)は居たかもしれないが、天皇家にとって古来からの中心ではない。そこへ帰って最後というか、万事遠征が終わるというのは、話としておかしい。
 ところが九州では、最古の三種の神器が出た吉武高木遺跡があるところが「平群へぐり」なのです。そこに帰れば遠征は万事終わる。これは話がひじょうに分かりやすい。

 この話も省略して結論から言いますと、別府湾から関門海峡を通り博多湾に入ってくる。そして今の筑前下山門(しもやまと)から陸に上がり吉武高木遺跡のほうに行く。その入り口が山門(やまと)です。

愛しけやし 吾家わぎへの方ゆ 雲居くもい起ち来も

“波辭枳豫辭はしけやし”を、ふつう”愛しけやし”という字を当ててあるから、日本語はむかし「愛すること」を「はし」と言ったと思わせられているが、そんなことはない。「はしこい子」とは、愛らしい子供のことを言いません。ちょこちょこ動く、走っている子供のことを言います。「はしけ」という船も、速く動くすばやい船のことす。ですから「はしけ」とは、速い、素早いという意味です。学者が当てた漢字にだまされてはいけない。原文はもちろん「愛」とは書いていない。原文は表音ですから。それで「はしけやし」とは、「速いなあ!。スピードがあるなあ!。」の意味です。
 次に吾ぎ家(ワギヘ)ですが、『万葉集』では自分の家のことを「ワガイホ」「ワガヤ」と呼ぶ場合は庶民が使います。「ワギヘ」という場合は、自分のお城・柵(キ)を呼び、ただの庶民は使いません。自分のお城(柵)・要塞を「ワギヘ」と言います。この場合は吉武高木ではないでしょか。
 そうしますと「雲居立ち来も」も、なぜ雲が速いかとなり、入道雲がふさわしい。これも福岡の気象台に問い合わせると、即座に答えが返ってきた。

「船が北の方から来て博多湾に入り、能古島と糸島の間の海を通って、筑前下山門に近づく船の中で歌っているような歌があるのですが、そのとき雲が速く立ち上がるように歌っているのですが、そのような光景はあるのでしょうか。」

 返事としては、
「それは七月から八月前半は必ずそうです。背振山脈という山がありまして、あそこは入道雲が立ち登る有名な山です。七月・八月は北のあなたが言うコースから見れば、ほとんどそのとおり入道雲が見えますよ。」

 私はピタリで、飛び上がりました。ですから、この歌は

はしけやし 吾城家ワギヘの方よ 雲居立ち来も

 ですからこの歌は博多湾で船から、南側の吾城家(ワギヘ)の方向から入道雲がたち登り、早くお帰りと、われわれを歓迎してくれている。その歌です。
 そして「そらみつ山門」の筑前下山門から上陸して、「山門は国のまへらま」、国の端だが良い場所。青垣に囲まれた良い場所。畳薦(たたみこも)は、字地名に「」とある。そして平群(へぐり)、そこへ帰ってきたら、遠征はもう成功したのだから白橿(しらかし)の枝を髪に挿してもらえ。子供たちに。

はしけやし 吾城家(ワギヘ)の方よ 雲居立ち来も
山門やまとは 國のまへらま 畳づく 青垣あをかき 山籠こもれる 山門し麗うるわ
命の 全またけむ人は 畳薦たたみこも 平群へぐりの山の 白橿しらかしが枝を [髟/吉]華うずに挿せ 此の子

 だから奈良県の大和ではどうしてもちぐはぐ。それを九州山門(やまと)と平群(へぐり)の関係を考え、吉武高木遺跡がある「平群へぐり」を原点にして考えると情景がピタリと収まる。

 先ほど述べた人麻呂の歌と同じく、九州で作られた。ですから九州で作られた歌を奈良県大に持ってきて使った。『古事記』のときは倭建用に使った。『日本書紀』用では景行天皇用にして使った。

 転用というか、良く言って借用。盗用と言われても仕方がない。そういう使われ方をしている。そうなりますと『日本書紀』の倭(夜摩苔 ヤマト)は、奈良県大和の表記だと思っていたものが、実はほんらい筑前山門の表記である。

 そうしますと橋本進吉氏の言っているように、表記は解釈が大事だ。書かれている場所によって、表音を考えなければならない。そのような例がたくさん書かれてある。たいへん興味深い事例です。
 ですから解釈は、このように倭(ヤマト)は、奈良県の歌でなく筑前山門の歌になった。音韻も、これを原点にして考えなければならない。そのように理解すべきではありませんか。表意で書いたら、このように考えられる。表音で書いたら、このように考えられる。このことは今はまったく疑っておりません。

 それで大屋さんというわたしより一つ年上ですが大学は同期の方。東京大学の国文科を出られた方に、その話を京都駅で話しました。そうしますと、とつぜん顔を二〇分近く上げられなかった。顔をうつぶせにして、涙を一杯溜めておられた。わたしがどうされたのか尋ねますと、「わたしにとって橋本先生は、神様のような方でした。その橋本先生も、今日のあなたの説を聞かれて、どんなにお喜びになるでしょう。そう考えれば胸が一杯です。」と答えられた。
 感動しました。わたしは橋本進吉氏の間違いを指摘した。彼女にしてもハワイの公立大学の教員をされている方で、ワシントンとハワイの大学教員を歴任した国際的な言語学者です。その彼女にわたしの話を聞いて、橋本先生を超える説に出会ったと感動していただいた。それまで何分かわかりませんが、うずくまって顔を上げられなかったのが、わたしには印象に残っております。

8 藤原京はなかった

 最後のテーマをもうします。
 今年の三月、奈良県飛鳥の天武天皇の浄御原宮跡の現地説明会に、古田史学の会のみなさんと行きました。見て驚いた。遺跡が ”小さい" の一言につきる。せいぜい一地方豪族の館程度のレベル。しかもかんじん要の「大極殿」がない。ですが学者の一部が見なしているのが東南の「エビノコ郭かく」。しかし大部分の学者がそれには賛成しない。これも、そのとおりです。「大極殿」と言う以上は、中心か北部になければならない。東南の端では位置がメチャクチャ。他にないから、ここだよ。そう言ってみても、他の学者が認めるわけもない。そういう状況です。とにかく「大極殿」がない。
 「エビノコ」というのは、先ほどお話した問題と関係がある。淡路島で生まれたのは輝ける蛭子(ひるこ)。それは恵比須(えびす)と同じであるとされている。「エビス」の「エ」は、輝けるという意味。「ヒ」は太陽の「日」。「ス」は須磨、鳥栖と同じでして住まいの「ス」。「エビス」は「輝ける太陽の住まい」という意味です。先ほどそう言いました。ここの地名は「エビノコ」とあるが、字地名としては、「エビスノコ」です。「コ」は住まいという意味です。ここにおられる神が「エビスノコ」です。この字地名は、神武や天照大神より、ズッと古い。旧石器・縄文にさかのぼる神様の名前です。それが字地名で残っている。そこに建てられていた建物は、もちろん七世紀後半ぐらいの建物です。それを仕方がないので、字地名を取って「えびすのこ」。長すぎるので、これを縮めて「エビノコ」とし、そこにあった建物を「エビノコ郭」と称した。要するに「大極殿」はなかった。
 ところが同じ時期の九州太宰府。紫宸殿があり、内裏があり、朱雀門があった。どちらが同じ時代の都であり、政治の中心なのか。これは『日本書紀』の天武紀に並んでいる官職名や詔勅があるが、あれを出したのはどちらだ。「大極殿」の無いほうが出したのか、紫宸殿がないほうが出したのか。筋から言えば、紫宸殿のある方から、詔勅を出した。それを『日本書紀』の天武紀が取り込んだ。そう考えざるをえない。
 以前から、そうではないかと予想をしてはいたが、たとえば九州年号が連続しているのもその一つですが、もう一つ踏み込む勇気がなかった。現地説明会に訪れて、このような浄御原宮の状況を見て、詔勅を出せるような状況でありえない。

 さらに、現地見学会から帰ってから考えたが、それでは藤原宮はどうか。
 もう一回藤原宮を見直した。つまり浄御原宮が天武なら、次の藤原宮は持統・文武です。あの藤原宮も「大極殿」は本当にあるのか。それを見直した。
藤原宮には何回も行っていました。たとえば有名な持統の歌、「春過ぎて夏来るらし白栲の衣乾したり天の香久山」を検証するために、香久山に反射板を置いて藤原宮から見えるか観察した。(衣は見えない。この歌は大和の歌ではない。)「ゆうざれば・・・」の歌を観察するために、鹿の声が聞こえるか観察しに行ったりしておりました。何回も行きましたが、しかしそれはそれぞれの目的のために行っているので、大極殿があるかないか、考えたことはなかった。それで、今度は藤原宮に行ってみました。行ってみると、やはり無かった。たしかに看板には「大極殿」はあると書いてある。今まで、それを見て大極殿があると疑問をもたなかった。実際に「大極殿」があると言われる所に行ってみました。その場所は一メートル半ぐらい少し小高いところ、石垣に囲まれた神社です。その鴨公(かもきみ)神社があり、そしてその先に鴨公小学校があって子供が運動会の練習をしていた。だから鴨公(かもきみ)は字地名。ですからいろいろの史料を見まして結論から言いますと、鴨公(かもきみ)神社があったところを、学者が「大極殿」と見なした。学者見なし「大極殿」。
 これにわたしは、自分に呆れました。なぜなら、都城の研究の第一人者で亡くなられた岸俊男さん。わたしは大阪で続日本紀研究会があったとき御一緒に研究し議論した仲間。わたしより先輩ですが直木孝次郎さん・田中卓さんなど同席し、わたしは若手だった。そのとき三回に一度ぐらい来られ、実直な研究をされた方として印象が残っている。だから岸俊男さんの行われた都城の研究は間違いはない。そのように受け取っていた。今回京大に行って岸さんの研究された論文を全部コピーして家で読ませていただいた。そうしますとここは都だから、やはり鴨公神社を「大極殿」と見なしている。それはそうでしょう。ここが大極殿でなかったら、鴨公(かもきみ)神社を通り越せば、全体の構図は成り立たない。そして鴨公(かもきみ)神社を図の上で除いて、大極殿を配置して藤原宮の図を作成している。後の教育委員会や博物館の学芸員は、岸俊男さんのお弟子さんですから、それに従った。ですから現地に行けば必ずある藤原宮の看板や資料集が、それを元に出来あがっている。そのことが分かってがく然としました。また岸さんの研究書の中で、中国の都城から朝鮮半島の都城まで研究されたものがある。見ると驚いたのは、いままで何か変だなと思っていたが、新羅や百済の都はあるが、今回見ると太宰府はカット。太宰府があると筋が通らない。太宰府を載せると紫宸殿や内裏、朱雀門があれば説明が付かない。だからカットされている。「日出る処天子」のように、阿蘇山をカットすれば筋は通る。これは考えない人には、筋は通る。わたしもロボットだった。これは岸さんを侮辱するために言っているのではまったくない。
 要するに持統・文武は、中心の権力者ではなかった。そして七百二年に、唐の則天武后から日本国の中心の王者と認定された。それ以後、第一の権力者の実質をもった。
 その証拠に、平城京には「大極の柴」という伝承をもつ字地名があった。そこに大極殿があった。そして八世紀の後半、わたしが住んでいる向日市、そこの長岡京にも大極殿があった。土地の所有者の方に、どうして「大極殿」と言っているのか尋ねた。『わからない。俺のおやじもおじいさんも、そのように言っていた。』という返事だった。ゴボウの良くできる畑だった。発掘に当たられた中山修一さんが長岡京を発掘して、まさに「大極殿」と言われた所に、最後の中心部である大極殿の遺構があった。
 つまり大極殿は、「大極殿」と名前が残っている。八世紀の話であっても。ですが持統や文武はその直前ではないか。彼らにとっては「大極殿」という名前は、たいへん重みのある言葉です。ですが、その浄御原宮・藤原宮には「大極殿」という名前がなかった。名前もなかった。
 しかも鴨公(かもきみ)神社について言いますと、鴨氏の中心の神社である。「公」という感じは、当て字です。鴨氏は京都では下賀茂神社・上賀茂神社が中心である。古田史学の会代表をしておられる水野さんは、下賀茂神社の八咫の烏(やたのからす)のご子孫とお聞きしていた。また同じく以前の市民の古代会長でした中谷さんの奥さんも、やはり八咫の烏(やたのからす)のご子孫とお聞きしていた。
 それはよいのですが、それでは『日本書紀』神武紀との関連はおかしかった。八咫の烏は人間ですが、神武天皇を熊野に迎えに来たのはご存知の通りだ。しかし京都からでは、悪くはないがいくらなんでも遠すぎる。空間の位置関係が問題だった。ところが鴨公神社から一山越えれば南は吉野です。以前に鴨氏の古墳だと言われていた古墳がある葛城を入れても同じです。だから吉野は鴨氏の領域です。吉野を支配している鴨氏が、神武天皇を熊野に迎えに来た。逆に考えれば、外から神武に内通したと言ってもよいでしょう。それが天皇家の成功の淵源の元となった。ですから鴨氏に足を向けては寝てはおれない。
 ですから鴨公(かもきみ)神社の南に藤原宮を造った。わたしどもは、他から来た新参かもしれないが鴨氏をバックにしている。そういうピーアールを行なった。今は簡単に言いましたが、本当はもっと説明しなければことがたくさんありますが。

 とにかく言いたいことは、藤原宮に大極殿はなかった。同じ時期に太宰府に、内裏、内裏岡、紫宸殿、朱雀門があった。どちらが中心であったか、ハッキリしている。とにかく古代史というものは先入観なしに見なければならない。繰り返し言いますが、わたしは親天皇、反天皇から出発しているのではありません。どんなに天皇家が喜んでいただいても大歓迎。あるいはどんなに天皇家が残念がっても仕方がない。そのような立場です。

 それで本日の結論として、「君が代」は『古今和歌集』の「賀哥がか」である。それが「読人しらず」の歌に入っている。「題しらず」の歌に入っている。それは七〇一以前の九州王朝の時代に九州王朝で造られた「賀哥がか」である。だから紀貫之には題も作者も分かっていたが、あえて書いてはいない。この「君が代」は、明治以来の平田神道・水戸学によって推進されてきた天皇一元主義を、事実ではないとして打ち破る貴重な歌である。
 そういうことでございます。

 あと二・三の点について、申し上げます。
 わたしが二・三年ショックを受けましたことがあります。以前『昭和天皇の教科書』(べんせい出版)という本が出ました。これは東大の白鳥庫吉氏が、昭和天皇の青年時代に教えた内容が書かれてある。これを見ると白村江の戦いで負けたことが、きちんと書かれてある。これはみなさん当たり前だと思うでしょう。しかしわたしなどから見ると戦争中の教科書には、白村江の戦いはまったくなかった。ないどころか、日本は建国以来負けたことはないのだ。そういうことを繰り返しそう教えられていた。
 ところが昭和天皇は白村江の戦いで負けたことを知っていた。天皇用の歴史と国民用の歴史は違っていた。しかし、わたしにはこのようなことは良くないことです。このようなことは、行なってはならない。
 その点敗戦後の教科書には、白村江の戦いが書いてあるから、良いと思うでしょう。一応良い。しかし白村江の戦いの原因が書いていない。
 いきなり唐が大軍をもって百済に攻め入っている。百済の国王・大臣・王子などを皆捕虜にして、みせしめに長安まで引きずって行った。これは大侵略としか言いようがない事件です。その理由は新羅が百済との国境紛争が起きている。そんなことを理由に侵略されたのではたまりません。これを行った本当の目的は何か。狙いは倭国である。百済と倭国とは今でいう軍事同盟を結んでいる。片方が攻撃されたら、片方が助ける。そういうことを知っていて、片方の百済を叩いた。これだけ理不尽に百済を叩いたのであるから、倭国は黙っておれるのか。そういうメッセージ。そのメッセージに乗せられて、出て行って戦ったのが白村江の戦い。この白村江の戦いの原因を直接説明するのに、百済の大侵略を書かなければ歴史にならない。
 もちろんこの問題を論じるのに、一番の大元の原因は『隋書』の「日出処天子」です。何回も言ってますが、あの「日出処天子」を『隋書』は誉めているのではまったくない。要するに天子を称して良いのは中国だけです。にもかかわらず蛮族のくせに、天子を名乗った不届きな者がいる。それなのに隋の煬帝は不愉快な顔をしたと書いてあるが、結局へらへらと使いを送り、しかも使いはご馳走になって帰ってきた。見せかけは反乱であるが隋はそんなくだらん中国のメンツをつぶしたインチキ天子だから、我々は我慢できないので反乱を起こして倒した。唐の天子は、隋の一武将です。われわれ唐は、隋とは違う。ぜったい「日出処天子」と言った倭国を完全に叩きつぶす。この一節は開戦宣言でもある。だから事実、百済を叩き白村江で倭国を叩き、「日出処天子」の拠点である九州太宰府へ侵攻して、紫宸殿・内裏・朱雀門があるところを完全に叩きつぶした。もし飛鳥が、「日出処天子」の都なら、そこまで入って叩きつぶさなければならない。そのようなことは一切行なっていない。
 そういうところから見ましても、もし白村江の戦いを書くのなら、少なくとも直前の中国による百済侵略を書くべきだ。中国が日本の侵略に文句を付けるのなら、まず隗より初めよのとおり、わたしたちは百済へ、このような大侵略を行なったことを書くべきだ。(中国が日本の侵略を指摘することは、正しいことである。)韓国もこのような大侵略が行なわれたと書くべきだ。
 これらのことは繰り返し言いますが、何も反中国であるとか、親中国ということではない。右や左のイデオロギーにも関係しない。事実を、事実のままとして見る、そういう立場から言うならば、これには何も恐れる必要はない。そのように考えることこそが、素晴らしい日本の未来が開ける。

 最後につまらないことを申しますが、今インターネットで自殺を呼びかけたり集団で自殺したりして、たまらない事件が起き論議を呼んでいます。しかし、わたしは正直に言うならば、人間は自殺する権利がある。国家が何と言おうと、宗教がどう言おうが、人間はいつでも自殺する不滅の権利がある。その証拠に、即刻誰でも自殺することが出来る。断固そう言い続けます。しかし、わたしは自殺したくない。こんなすばらしい世の中が来る直前に来ている。日本が世界をリードする直前に来ている。わたしは、そう思っている。これは九月に再度お話いたします。こんなすばらしい世の中が来る時期を前にして、自殺する馬鹿がどこにいる。自殺するなら猫の手よりすばらしい手を、わたしに貸して欲しい。遣ってもらいたいことがたくさんある。そのように地団駄を踏んでおります。どうもありがとうございます。

五 「藤原宮」はなかった(『古代に真実を求めて』第十集)へ

 

質問一
 天智天皇、中大兄(なかのおおえの)皇子が、なかなか皇位に就かなかった。これは先生の言われる九州王朝と、なにか関係があるのでしょうか。

回答
 良い質問をいただき、ありがとうございます。これはあると思います。一つには、唐と戦った白村江の戦いの責任者を、天智天皇にしたくない。だからこの時期のことを、曖昧(あいまい)にしておく必要があった。
 それからもう一つは、斉明天皇が亡くなった。どうも彼は九州王朝側に味方をした人物のようだ。先ほど言いましたように唐が百済に対して大侵略を行なったことに対し、理不尽だ、唐と戦うべしという声というか、世論も強かったですから。その声に賛意を表していたのが斉明天皇。
 それに対して、それには否、そういう立場を取ったのが中大兄皇子であった天智天皇。それと、このような政局を造り出した一番の原因は藤原鎌足。彼は良くも悪くも知謀の人物です。彼はどうも唐側の意図を察知していた。唐があのような理不尽なことをしたのは理由がある。倭国が「日出処天子」などと言ったからだ。だからこの戦いに応じたら、たいへんなことになる。そういうように、鎌足は政局を読んだのと思う。だから斉明天皇が亡くなったことを口実にして、軍を引き揚げた。斉明天皇は毒殺だという話しもありますが、それは分かりません。とにかく亡くなった。それを奇貨として、引き上げた。岡山県の『風土記』逸文に、そのことが書かれています。


『風土記』逸文 備中國
邇磨郷
臣、去る寛平五年、備中の介に任ぜられき。彼の國下道の郡に邇磨(にま)の郷(さと)あり。爰(ここ)に彼の國の風土記を見るに、皇極天皇の六年、大唐の将軍、蘇定方、新羅の軍を率て百済を伐ちき。百済、使いを遣はして救を乞ひき。天皇、筑紫に行幸(いでま)して、救の兵を出さむとしたまひき。時に、天智天皇、皇太子(ひつぎのみこ)たり、政を摂(ふさ)ねたまひて、従ひ行でましき。路に下道の郡に宿りたまひ、一つの郷(さと)の戸邑(いへむら)の甚く盛りなるを見まして、天皇、詔を下して、試に此の郷軍士を徴したまふに、即ち勝れたる兵二萬人を得たまひき。天皇、大く悦ばして、此の邑を名づけて二萬の郷(さと)と曰ひき。後に改めて邇磨(にま)と曰ふ。其の後、天皇、筑紫の行宮(かりみや)に崩りたまひて、終(つひ)に此の軍を遣(や)らざりき。


七 斉明天皇が正しい。(斉明天皇は皇極天皇の重祚の諡号)・・・

         日本文学古典体系(岩波書店)

 白村江の戦いにそなえて軍が集結した。中大兄皇子が、斉明天皇が亡くなったので喪に服するとして軍を引き揚げるから、ここの軍も引きあげる。そういう連絡を受けたので引き揚げた。そういう貴重な証言が『風土記』逸文にある。
 ですから岡山ですら引き揚げたので、まして近畿天皇家も引き揚げた。軍を引き揚げたということは、結局唐に協力したということです。どうぞ、やってください。わたしどもは、知らないふりをしていますよ。
 この戦いは本来は、必ずしも負ける戦いではなかった。軍事専門家ではないけれども、わたしはそのように考えています。なぜなら唐が攻めて上陸して来たとします。そうしますと国民を一緒に連れて神籠石山城の中に籠ります。唐の軍隊は、山の下側です。山の上と下との戦いでは、山の上側が有利だ。それで戦争がたいへん長引く。長引けば唐側は食料などの救援物資を、朝鮮半島側から送らなければならない。そうしますとゲリラ戦というか少人数で相手を襲撃すれば、長引けば長引くだけ唐の軍隊が不利になる。水軍は得意ですから相手の補給路を断つ。ナポレオン軍やヒトラーのモスクワ攻略と同じです。戦わずに守って相手の補給路を断つ。これは、たいへんすぐれた戦法だと思います。ところが近畿天皇家が、手を引いた。神籠石の中からも近畿に引き上げる。岡山の勢力も引き揚げる。これでは浮き足立って、とても守れるという状況ではなくなる。そこで乾坤一擲(けんこんいってき)の勝負に出ていった。白村江に出ていって負けた。そのような状況であると考えています。

 

質問二
 今の質問に関連して、唐が百済に派遣した鎭将劉仁願に天智が尋ねて事前の打ち合せをした形跡がある。これは古田先生の説だったでしょうか。それとも他の方の説だったでしょうか。また唐が百済に派遣した鎭将劉仁願、彼が使いを筑紫都督府に送ってきた。これが、記事として浮いている。このような指摘をしていたと思いますが。

回答
『日本書紀』巻二七天智六年(六六七)
十一月丁巳朔乙丑に、百濟鎭將劉仁願、熊津都督府熊山縣令上柱國司馬法聰等を遣して、大山下境部連石積等を筑紫都督府に送る。己巳に、司馬法聰等を罷り歸る。小山下伊吉連博徳・大乙下笠臣諸石爲を以て送使とす。

筑紫都督府 注釈二一 筑紫太宰府をさす。原史料にあった修飾がそのまま残った。

 これも重要なご指摘です。白村江の戦いの後です。唐が百済に派遣した鎭将劉仁願、彼が使いを筑紫都督府に送ってきた。これがキーポイントです。どこへ送ってきたか。「筑紫都督府」へ送ってきたとある。『日本書紀』天智六年の項、ここに「筑紫都督府」という言葉が一回だけ出てくる。これはたいへんな言葉です。なぜなら「都督」というのは官職名。「都督」が居るところが都督府。都督府というのは、倭の五王が名乗っている「(使持節)都督」は、『宋書』の中に出てくる。つまり倭の五王は、都督に任命されている。その都督府はどこにあったか。「筑紫都督府」なら、都督は筑紫に居た。つまり倭の五王は、筑紫にいた。
 だから今の教科書に書いてある「倭の五王」は、すべてダメです。この「筑紫都督府」という言葉を消さない以上。だから消しました。皆さんが岩波古典体系の註をご覧になれば分かります。これは誰かが原史料に間違って書いてあり、それを『日本書紀』の編者が間違って写したものである。これは何のことか分かりませんでしょう。つまり誰かXという人がYという史料にうっかりミスで書いた。それを『日本書紀』の天智六年の項を書いた人がまた間違って、そのまま写してしまった。だから、これはカット。だから『日本書紀』に書いてあっても史料ではない。
 今の歴史学では、ストリーは違っても個々の述語は生かして用いる。井上光貞氏以来、そのような方法です。それならば、この「筑紫都督府」という述語も活かさなければならない。
 なぜ活かせないか。それはこの都督の下にいるのが評督です。金石文などに「評督」という言葉がある。この「評督」のもとにある制度が「評」である。「評」という制度は、筑紫を原点にする制度である。「筑紫都督府」を認めれば、そのような論理に立たざるを得ない。これは日本中の全ての学者、教科書が拒否していることです。

 それで『日本書紀』には大化の改新から「郡」であると書いてある。あれはおかしい、「評」でなければならないと言ったのが若き日の井上光貞さん。恩師の坂本太郎さんと論戦した。最後はお弟子さんの井上光貞さんが勝った。静岡県浜松市伊場と奈良県橿原市藤原宮から出てきた木簡には、「評」と書かれてあった。二つの地域から出てきました。
 だから井上光貞さん側が勝ったのは良いですが、『日本書紀』の、「郡」を「評」と書き直して、孝徳天皇が、「評」制をお造りになった。それが現在の定説です。京大の鎌田さんなどを中心とする現在の定説です。
 しかしわたしから見るとこれはおかしい。ところが論争でその時に負けた坂本太郎さんが、非常に意味深い印象的な発言をされている。「確かに木簡などを見ると事実は評であり、井上君の言ったことが正しかった。それは認める。しかしいまだに分からないことがある。それでは実際は評であったものを、なぜ『日本書紀』は「郡」と書き換えなければならなかったのか。それが私には分からない。」あのかたはひじょうに正直なかたですから、そのように書いておられる。その通りなのです。しかし天下の学者は「負け犬の遠吠え」としか受け取らず、この坂本発言・疑問には学界は正面から答えようとはしなかった。
 しかし、これは非常に鋭い問いです。孝徳天皇が「評」を造ったなら、『日本書紀』に、その通り書けば良い。何も隠す必要はない。しかも「評督」を「郡司」と書き直してみても意味がないし、「郡督」という言葉もない。
 ところが、『日本書紀』には、「筑紫都督府」という言葉がある。現地には、「筑紫都督府」という石碑が建っている。近畿に「飛鳥都督府」などは存在しない。「都督」と言う中国の言葉に、日本の言葉を組み合わせて、「評督」という言葉を造った。「評」という制度が九州から関東まで及んでいるけれども、それの原点は筑紫にある。そうならざるを得ない。
 その筑紫都督府のあるところに、繰り返しますが紫宸殿があり、内裏があり、朱雀門がある。それを都合の悪いところは全部抜いて、都城制を論じている。そのような方法が現在まで続いている。
 しかしわたしは、そんな現在の体制は、そんなに長く続かない。それを無くするのは皆さんの声です。

 ついでにもう一言言っておきますが、それは琉球の侵略についてです。『隋書』イ妥国伝の「日出処天子」の直前です。隋の煬帝が、琉球国に貢ぎ物を要求した。琉球国は断った。それを口実に、隋は大軍をもって琉球をおそった。住民を殺し、宮室を焼き、そして残った男女数千人を捕虜にして連れ帰った。これは侵略そのものです。貢ぎ物を断ったことが、侵略正当化の理由になるはずがない。それでは、このことが中国の教科書に書いてありますか。中国は七世紀に琉球に侵略した。そして大量虐殺と大量捕虜を獲得して帰った。それが書いてあれば立派である。しかし書いていないと、わたしは思う。なぜなら北京に行きまして、社会科学院の副院長と話して、その件を述べた。そうしますと知らないと返事がきました。それは当然書くべきではないか。日本の侵略があったと言うことは正しい。しかし隗より始めよのことわざ通り、中国が侵略をしたことを書くべきではないか。そう言いましたら、その通りですと、返事をいただきました。通訳を介して、かつテーブルの向こう側でしたので、時間がかかりましたが意図は明確に伝わりました。最後は握手するところを抱きあってしばらく離れなかった。お互いに意思が通じあった。中国人も人間ですから、意のある人も居ますので、道理を説けば分からないはずがない。

 

質問三
 先ほど先生が話された中で、『隋書』イ妥国伝に出てくる都が太宰府であるというお話でしたが、このイ妥国伝の中では「竹斯ちくし」については非常にあいまいな説明である。筑紫の領域について、わたしは調べていますが分かりません。また「秦王国」についても書かれていますが、どこに都があったのかはっきりしないですが。それについて、どのように考えておられるのか。

回答
 今「筑紫」について説明がないと言われたが、そのイ妥国自身が筑紫ですので、あの全体が九州の説明だと見れば筑紫の説明はあります。
 それと「秦王國」問題については、ある時期取り組んだことがございます。わたしとしては結論が出ました。これも大きな見逃しがあった。それは『隋書』全体、とくに帝紀を見ていますと、「○○秦王」が盛んに出てくる。これは何かと言いますと隋の天子の弟としての「秦王」です。『隋書』イ妥国伝だけを見ているとわかりませんが、『隋書』全体では「秦王」とは天子の弟をいう。
 そうするとイ妥国の場合も、「阿毎多利思北孤」自身は天子を自称していますから、弟の国が「秦王国」である。わたしもそうでしたが、なにか「秦王国」に特別の意味付けをしていましたが、そうではなかった。

『隋書』イ妥国伝 (部分)
明年上遣文林郎裴清使於タイ國度百濟行至竹島南望タン(*16) 羅國經都斯麻國迥(*17) 在大海中又東至一支國又至竹斯國又東至秦王國其人同於華夏以爲夷州疑不能明也又經十餘國達於海岸自竹斯國以東皆附庸於イ妥

*16:「身」に、「再」の上の「一」を取った字
*17:「迥」の俗字でしんにゅうに「向」

 その関連で「其の人」についても、「秦王國其人同於華夏以爲」とあり、「秦王国の人」は中国人に良く似ていると、従来言われます。ですが「其の人」とは、表題をとって「イ妥国の人」を言います。今まで「秦王国の人」のことであると読んでいましたが、「其人」を全部抜き出して『隋書』を調べてみると分かりますが、「イ妥国の人」であると理解できる。『隋書』イ妥国伝全体の「其人」であって、直前の「秦王国の人」だけのことを述べているわけではない。ですから、これはイ妥国の人が中国人に似ているという話です。

 もう一言申しますと、「イ妥たい国」というのは、人偏に「妥」と書きます。これの一番のもともとは「倭(wi)」です。それが四世紀「倭(wa)」に変わる。四世紀(三百十二年)匈奴や鮮卑が南下して、西安や洛陽が陥落する。それ以後、北朝は天子は匈奴や鮮卑。家来、それも下級の臣下は中国人。上級の臣下は、匈奴や鮮卑。ですから匈奴や鮮卑は、まともな中国語は喋れないし書けない。そういう変則的な状況になる。それで変わった字が出てきて、異体字が氾濫する世になる。字だけではなくて、発音も変わる。天子や上級の臣下が変な言葉を喋っています。
 それでわれわれは、変わった後の「倭 わ い」と言っていますがほんらいは「倭 wi 」です。ですから倭国側は「大倭 taiwi 」という表現を行なった。これは威張った表現ですから、中国側は嫌って「イ妥」という表現に変えた。辞書を見ていただければお分かりになりますが、「イ妥タイには「弱い」という貧相な意味しかない。
初めは日本側の謙遜した表現と考えていたが、おかしいと思って、いろいろ考えてこのような結論になった。これは中国側の表現です。『三国志』でも、高句麗を「下句麗」と書き直している。中国は文字の国だから、文字でおとしめる方法も知っている。文字でおとしめて「イ妥国」と書いた。これに対して、倭国は「大委たいゐ国」と名乗っていた。そのように最近分かってきました。

『隋書』イ妥国伝 (部分)
太子爲利歌彌多弗利

 ついでながら「太子をなして利歌彌多弗利りかみたぶつり」と読んでいますが、これは間違いで、上塔(かみとう カミタフ)という地名が、九州博多にある。元の九州大学のあったところが上塔・下塔の地名があり、塔(とう)は、「タフ」のことです。ですから「太子は上塔にいる利」という人物である。九州博多で考えれば、簡単に解ける。

 それと最近おもしろい問題にぶつかりました。
 井戸の「井」の、発音は「wi」です。ア行の「い」ではない。これはなにを示すか。「井」と「倭」は同じ音(wi)です。倭の五王を見ると、「倭済」と名乗っている。「倭」という国号を、姓に使っている。かれらは、「倭 wi 」という姓を名乗っていた。ところが現在「倭」という姓はありません。電話帳を見てもない。ところが「井」という姓はたくさんある。特に九州にはたくさんあり、中でも熊本県阿蘇山のふもとに、たくさんある。特に産山村・南小国町・一ノ宮町には、濃密です。
 これは、もちろん、おわかりでしょうか。最近中国で墓誌が出ました「井真成」の問題です。「葛井」や「井上」の姓を略したといろいろ言っていますが、これを忘れていないか。「井」の姓がたくさんある。この問題は、九月に報告します。

 

質問四
 熊本県宇土市から産出する阿蘇ピンク石が、継体陵などの近畿の古墳の石棺に使用されていることは有名です。九州の先生が盛り上がりまして、本当に運べるのか実験をしようということになりました。読売新聞社などが主催して、そのピンク石を古代船で大阪府高槻市の今城塚古墳まで運搬するという試みが行われるようです。問題は運べたかではなくて、なぜ近畿の古墳に、とくに今城塚古墳(継体陵)に熊本の石が使われているのか。その理由が大事だと思います。そのあたりについて伺いたい。

回答
 これも時期を得た質問に、ありがとうございます。その通りです。事実関係としては、阿蘇山近辺熊本の石で石棺を作って、それを近畿に運んできて、近畿の古墳の石棺にしている。全部ではないけれども、かなりあるということは明確です。問題は、なぜなのかです。
 近畿天皇家が九州を支配していた証拠として見るか。それとも近畿(天皇家)が九州の支配下であったか、つまり尊敬していた証拠と見るか。その違いだと思う。
 それで九州にしか、よい石がなかったのか。それならわかる。しかし、そうではない。神戸には大谷石(おおやいし)など、よい石がたくさんある。だからよい石が欲しいだけなら近くにある。しかしなぜか、大谷石では満足しない。九州の石がよい。九州の石を持ってきたら死者も安らかに眠れる。そういう姿勢の中に、近畿天皇家が九州(王朝の)分家である。そのことが背景にあると思う。
 文献的には、神武が九州から来た。盛んに言っています。『日本書紀』は南九州日向(ひゅうが)から来た。『古事記』は、九州の筑紫の日向(ひなた)から来た。わたしは『古事記』が正しいとおもいます。三種の神器の原点の地帯から来た。こういう立場に立っています。
 ですから近畿天皇家は、九州を祖先の地、親の地、そういった目で見ていたと思います。それが石棺の問題、九州の石棺を使ったことが、そのような事実の一つであると思います。この問題は、今後阿蘇ピンク石が近畿に運ばれたことをきっかけに議論がさかんに行なわれるでしょうから、その議論を楽しみに参照して、また新しく報告を行ないたい。この問題は倉敷の考古学博物館の真壁夫妻が切り開かれたものです。それが身を結んできています。
 なりよりも、この問題の背後には近畿と九州の関係。これを解決する鍵は放射能年代測定が鍵となります。
 従来の土器の編年は、中国・朝鮮半島から一旦近畿に来て、それから逆戻りして九州へ伝播したと言う、たいへん複雑な構成というか説明になっていた。しかし放射能年代測定をしてみると、九州の方が古い。そうすると九州から近畿への流れとなる。当り前ですが。しかし鏡などは、中国から朝鮮半島に来て、それから九州から近畿へ来た。そういう自然な姿に帰って行く。そういうことです。

 最近新聞で関西経済同友会の幹事の方々が、歴史教育について勉強会を行なうと書いてありました。これは結構なことで大いに勉強してもらいたい。その場合狭い視野でなくて、明治以後の(天皇制)教育ロボットの視野でなくて、今日申し上げたような広い視野に立ってもらいたい。まだ、日本の歴史教科書も、中国の歴史教科書も、韓国の歴史教科書も、まだそこまで到っておりません。まだと言う言葉を抜きにしても間違っている。わたしに、教えろという声があれば、いつでも参ります。
 とにかく日本のすばらしい未来が、目の前が開けている。その扉が開こうとしています。その時に、皆さん悩んでいる。そのようにわたしは考えています。


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