四 九州年号と神籠石山城(『古代に真実を求めて』 (明石書店)第九集)
『古代に真実を求めて』
(明石書店)第十集
古田武彦講演 「万世一系」の史料批判 -- 九州年号の確定と古賀新理論の(出雲)の展望
二〇〇六年二月十八日 場所:大阪市中央区電気倶楽部
一「万世一系」の史料批判 二「国引き神話」と黒曜石 三九州年号 四筑紫の君薩夜馬と九州年号
五「藤原宮」はなかった 六大海長老と「浦島伝説」 七出雲の神話 八「サマン」と「サマ」 質問一~四
古田武彦
それでは後半に移らせていただきます。
まず後半の最初にとんでもないを話させていただきます。みなさん聞かれたら何を言うか。ばかばかしい。そう思っていただいたら、わたしとしては大成功です。
ようするにわたしは、大阪でも神戸でも良いのですが、銅像でも良いですが、祀(まつ)りの場を二ヶ所建てて欲しい。だれを祀る場なのか。その人物一人は安重根。伊藤博文を暗殺した安重根。これは昨年の九月京都で申し上げました。もう一人は張作霖。この二名の記念塔でもよいし、または祀りの場を設けて欲しい。今空港が、三つもひしめいていますが、そのどれかに設けてほしい。
理由は今省略しますが、無念の思いをのんで没した人を祀(まつ)る。これが日本の祀りの伝統です。
これは前回申し上げましたが、卑弥呼(ひみか)が、敵を祀るというキーワードを元にして、彼女はあれだけの名声をえた。その伝統は祝詞(のりと)のなかにも、また(比叡山延暦寺の開祖である)最澄が作ったと言われる祈りの文章にも現れている。あるいは楠木正成は、千早城で自分たち以上に敵である北条側の兵士をりっぱな五輪の塔を建てて祀っている。あるいは高野山にも豊臣秀吉の朝鮮征伐の際の死者を敵見方区別なく祀る碑がある。
東京で靖国神社で戦死者を祀ることは結構ですが、安重根・張作霖をはじめとする無念の思いをのんで没した人を祀る。靖国だけでは、よその国はわからない。それは現在の政権に役立った人を死んでから祀る。それは結局自分の権力をほめ称えているだけのことです。
そうではないのだ。敵味方を問わず、無念の涙をのんで亡くなった人々を祀りつづける伝統。これが日本の伝統であることを示していただきたい。これらの記念碑に黙々と毎年市長さんが詣り、そのうち総理大臣や天皇がお参りすればよい。これを行なえば、どんなに外国から苦情が出ても、やがて理解する。文句を言うほうが精神的に劣っている。宗教的な精神が低い。そういうことを外国は知るだろう。日本のほうが精神的に世界をリードする立場にならざるをえない。
そのような場として、安重根と張作霖の像あるいは祀る場を設けていただきたい。蛇足ですが、作る場合は、若い時の美男子で造ってほしい。安重根は若いからなかなか美男子ですが、張作霖は年を取っているからそんなに美男子ではないと思いますが、若い時であれば立派なものであったとおもう。いい顔で造ってほしい。もう一つは、中国や朝鮮の祀りかたで祀る。つまり中国人や朝鮮人が違和感を覚えない祀りかたを行なう。それは調べればすぐ分かる。この点も大事なことです。
これを行なうのは空港がいちばんよい。いま三つの空港があってお客の奪い合いをしているが、そんなことをしていても仕方がない。このようなことを行なえば世界的に名声を博し精神の中心になれますよ。もっとも深い意味で街おこし。当て込んだ町おこしではなく、人類の歴史をリードする街おこし。わたしはそう思います。ばかばかしいと思われたらけっこうですが、聞かれた皆さんが本気でいま市長さんや知事さんなどに、本気でこの考えを勧めるかたが出てきたら嬉しい。後半の冒頭にまず述べさせていただきます。
『二中歴』 年代歴
二中歴 年代暦 (付西暦年数)
年始五百六十九年内丗九年無号不記支干其間結縄刻木以成政
継体 五 元丁酉 五一七~五二一 善記 四 元壬寅 五二二~五二五
(同三年発誰成始文善記以前武烈即位)
正和 五 元丙午 五二六~五三〇 教倒 五 元辛亥 五三一~五三五
(舞遊始)
僧聴 五 元丙辰 五三六~五四〇 明要 十一 元辛酉 五四一~五五一
(文書始出来結縄刻木止了)
貴楽 二 元壬申 五五二~五五三 法清 四 元甲戌 五五四~五五七
(法文〃唐渡僧善知傳)
兄弟 六 戊寅 五五八~五五八 蔵和 五 己卯 五五九~五六三
(此年老人死)
師安 一 甲申 五六四~五六四 和僧 五 乙酉 五六五~五六九
(此年法師始成)
金光 六 庚寅 五七〇~五七五 賢称 五 丙申 五七六~五八〇
鏡當 四 辛丑 五八一~五八四 勝照 四 乙巳 五八五~五八八
(新羅人来従筑紫至播磨焼之)
端政 五 己酉 五八九~五九三 告貴 七 甲寅 五九四~六〇〇
(自唐法華経始渡)
願転 四 辛酉 六〇一~六〇四 光元 六 乙丑 六〇五~六一〇
定居 七 辛未 六一一~六一七 倭京 五 戊寅 六一八~六二二
(注文五十具従唐渡) (二年難波天王寺聖徳造)
仁王 十二 癸未 六二三~六三四 僧要 五 乙未 六三五~六三九
(自唐仁王経渡仁王会始) (自唐一切経三千余巻渡)
命長 七 庚子 六四〇~六四六 常色 五 丁未 六四七~六五一
白雉 九 壬子 六五二~六六〇 白鳳 二三 辛酉 六六一~六八三
(国々最勝会始行之) (対馬採銀観世音寺東院造)
朱雀 二 甲申 六八四~六八五 朱鳥 九 丙戌 六八六~六九四
(兵乱海賊始起又安居始行) (仟陌町収始又方始)
大化 六 乙未 六九五~七〇〇
覧初要集云皇極天皇四年為大化元年
已上百八十四年々号丗一代(不)記年号只人傳言
自大宝始立年号而巳
翻刻追文 飯田満麿
監修校訂 古賀達也
平成十四年五月二二日
訂正 平成二十四年七月二十一日、関西例会での討議による。
それでは後半に入らせていただきます。最初は九州年号の問題、九州年号は実在である。この問題は、本日聞いておられるかたがたには、いまさらながらの話です。分かっているよ。そう言われると思う。しかしわたし自身が、この問題の持っている意味をしっかり理解していなかった。そのことを、別の観点からもう一度言わせていただきます。
まず第一に九州年号が間違いないということは、終りかたです。九州年号は七〇一年に終っている。
まず『二中歴』を見て下さい。これは『二中歴』のなかの「年代歴」といわれるものです。そこに「継体五年 元丁酉(517)」とあるのは、この「継体」という年号が、五一七年から始まった。それが五年間続いた。そういう意味でございます。それで終っているのが「大化」。「大化六年」とあるのは、大化元年が六九五年ですから、あいだが五年。それで五年を足せばよいですから、大化六年が七〇〇年。正確には大化七年(七〇一)の三月末までが「大化七年」。それから文武天皇の「大寶」に入ってゆく。この七〇一年に終っていることがたいへん重大です。
なぜならば現在、奈良の藤原宮や浜松伊場の木簡などで明らかです。七〇一年までが「評」で七〇二以後が「郡」。これは確実な事実です。有名な坂本太郎氏と井上光貞氏の「郡評論争」が、この形で決着した。しかしこの決着はお二人にとって意外だっだ。井上光貞氏は、当初は七〇一年まで続いているというイメージでおられたが、論争しているうちに譲ってきて、最後は天武天皇の飛鳥浄御原(きよみがはら)時代の段階に郡になったと考えても良いという意見に後退というか、その意見を認めてもよいと考えられていた。坂本氏はもちろん、大化の改新(六四五)までが評の制度であり、その後から郡の制度と主張された。しかし出てきた木簡によれば、坂本説も間違いだし、その時点における井上説も間違っていた。井上光貞氏が最初考えていた七〇一年が正しかった。だからその意味では、井上光貞氏も坂本太郎氏も意外の結果だった。
意外でないのは、九州年号を支持する人にとって意外でない。九州年号は七〇一年まで続いていると、『二中歴』では書かれている。これが正しかった。
九州年号については、坊さんや誰かが中世に造ったという的外れな意見が横行している。またいまでも言っている人がいる。しかし中世に年号を造った人たちが、事前に藤原京の木簡を掘りだして年号が変わったことを知って、九州年号を作ったのか。そんなことはありえないことです。これを偶然の一致だと言うのか。強弁する人は舌が乾かないか。とうぜんこれは必然の一致。九州年号が終った時点から「評」が終って「郡」が始まったことが、九州年号が通説のようにいい加減なものではないという、はっきりとした証拠である。これは以前から申し上げたことです。
新たに申し上げるのは、九州年号の始まりの時期の問題です。九州年号の始まりは五一七年。五一七年という年、これは何を現すか。『梁書』帝紀と倭伝をご覧ください。
『梁書』 帝紀
天監元年夏四月 戌辰
高句麗王高雲、進號車騎大将軍、鎭東大将軍百済王餘大、進號征東大将軍。・・・・・・・鎭東大将軍倭王武。進號征東将軍。鎭西将軍河南王吐谷渾休留代、進號征西将軍。
『梁書』 倭伝
興死 立弟武。齋建言元中 除武、督倭百濟新羅任那加羅秦韓慕韓七國諸軍事、鎭東大將軍。高祖即位 進武號征東将軍。
『梁書』帝紀には、倭王は「征東将軍」とある。同じく『梁書』倭伝にも「征東将軍」とある。ところがその前後にある百済は「征東大将軍」です。そして高句麗は「車騎大将軍」です。つまり百済や高句麗は大将軍です。ところが倭王だけは、「大」がなくて将軍になっている。これは大変動です。
例の有名な『宋書』倭国伝では、倭王は「使持節都督六国諸軍事鎮東大将軍」とみずから名乗りをあげた。つまり新羅や百済を含む六国を統治支配するのが倭王であるというかたちで名乗られている。ところがなぜか中国は百済を入れたくなくて、他の国名(任那)を持ってきて六国にして帳尻を合わせたような形で任命をしている。とにかく倭国側は百済を入れている。新羅は倭国側も主張しているし、中国側も配下にあることを認めている。百済についても、倭国が支配を主張していることは『宋書』では記録している。倭国の主張自身は明らかにしている。とうぜん倭国は、新羅や百済の上に立つ立場で支配する立場にあった。ところがなぜか南斉の次の梁になると(立場が)逆転しまして、倭国は百済や新羅の下位になる。これはたとえば南京での儀式に参列する時、大将軍が先に並んで、将軍は後に控える。そういう後に控えさせられる位置に倭国はなった。それ以後倭国は『梁書』に姿をあらわさない。天監元年(五〇二)に倭国は姿を見せただけで、それ以後中国の史書に姿をあらわさなくなった。以後いっさい倭国の名前はない。しかし百済や高句麗や新羅は盛んに出てくる。そして南朝の最後は『陳書』。そこにも高句麗や新羅や百済は出てくるが、倭国は一切姿をあらわさない。
ですから中国の南朝と関わりが深い。南朝に帰服してきたと、今まで言われていましたが、それは正確ではない。南朝劉宋とその次の南斉には、南朝の臣下の立場に立っていた。ところがなぜか梁、禅譲と称して臣下がひっくり返したのでしょうが、その梁は政策を一変して倭国軽視というか倭国を蔑視して侮辱政策に転じた。それで倭国は憤然(ふんぜん)として南朝に使いを送らなくなった。これが正確な歴史事実です。
ところがそのような事件が起こって、まもなく九州年号が始まる。九州年号が始まるということは、南朝の年号を使わなくなるということです。ですから九州年号が始まりも、非常に意味が深い。この事実を、鎌倉時代のお坊さんか誰かが勝手に造って思いつく話ではない。その証拠というべきか現代までの例があります。わたしは現在でもいちばん最良の写本である『二十四史』(百納本)で『梁書』を見て考えています。ところが現在の中国、北京も台湾も標点本として『二十四史』を出しています。点や丸をつけて読みやすくしてある。そのことはありがたいのですが、この標点本の『梁書』を見ると、「大将軍」と、なんと「大」が付いてある。そして最後の註のところに、「原本 大なし」と書かれてある。倭国にだけ「大」がない。そんなはずはない。見落としたのであろう。ケアレスミスだろう。ご親切に現在の台湾・中国の学者が「大」を入れて直している。これは現在時点ですから、現在の中国人も『梁書』の倭王には「大」があると思っている。
いわんや鎌倉時代の僧侶がそのような事情を察知して九州年号を五一七年、そこから始めるはずがない。歴史事実から見ると、まことにふさわしいタイミングなのです。中国の南朝年号天藍元年(五〇二年)から、十数年後から始まっている。たいへんなショックを受けた証拠です。中国の南朝から自立すべきだ、いやすべきではない。年号を造るかどうか方向性を議論しているうちに、これぐらいの時間は準備を含めてかかる。
この九州年号の始まりと終わりを見ると、偽物とはとんでもない。明治時代の学者は、水戸学の言われた口移しで鎌倉時代の僧侶が造ったぐらいにしか考えない。だからほんとうに学問上の議論は出てこなかった。
それで九州年号は実在である。それをまず確認したわけです。
次の点に移ります。そうすると、このような問題が出てくる。いきなりですが天武天皇は生涯、九州年号の中で生活をしていた。天智天皇もそうです。天智や天武はいっしょう九州年号の中で生活をしていた。今の九州年号(『二中歴』)が正しいとなるとそのようにならざるを得ない。
それでは何回も話を出しますが、『古事記』序文にある天武のスローガンとして「削僞定實」という有名な言葉がある。その「偽」とは何か。従来は小さい考証学的な訂正だと考えていた。第二子の子供と書かれてあるが、これは第三子の子供であろうとか。こちらの女性の子供と書いてあるが、つぎの女性の子供であろうとか。その他そのような間違いがあったのを正しく訂正して記録する。そのようなレベルで一〇〇パーセント従来の学者は考えていた。大学の専門家もそのように理解していた。本居宣長も、もちろんそうです。
岩波日本古典文学体系準拠
『古事記』上卷并(あわ)せて序
臣安萬侶言(まを)す。夫れ、混元既凝(こ)りて、氣象未だ效(あらは)れず。
・・・
是に天皇詔(の)りたまひしく、「朕われ聞く、諸家のもたる所の帝紀及び本辭、既に正實に違たがひ、多く虚僞を加ふと。今の時に當りて、其の失(あやまり)を改めずば、未だ幾年をも經ずして其の旨(むね)滅びなむとす。斯れ乃ち、邦家の經緯、王化の鴻基なり。故(かれ)惟(こ)れ、帝紀を撰録し、舊辭を討覈して、僞(いつは)りを削り實(まこと)を定めて、後葉(のちのよ)に流(つた)へむと欲ふ。
・・・
焉に、舊辭の誤り忤(たが)へるを惜しみ、先紀の謬(あやま)り錯(まじ)れるを正さむとして、和銅四年九月十八日を以ちて、臣安萬侶に詔して、稗田阿禮の誦む所の勅語の舊辭を撰録して獻上せしむといへれば、謹みて詔旨の隨に、子細を採り[手庶ひろ]ひぬ。
齎*は、(もたら)すの意味。強いていえば[喪]の下が貝編、士編に口二つ入れます。ユニコード8CF7、齎の略字。この字は有名な字です。
しかしわたしは、それは違うのではないかと考えた。つまりあの天武の時代の「偽」とはなにか。南朝が「偽」で、北朝が「正」です。北朝が正しい。隋・唐は北朝系で、これは「偽」ではない。北朝が正しい。中国南朝系列が「偽」ですから、九州王朝・九州年号が「偽」。あの時代の中国の歴史は、北朝が南朝に対抗して天子を名乗った。その南朝が滅亡して倭国が天子を名乗ったことは「偽」の最たるものです。ですから九州王朝は九州年号や都督を使ったりしたように、かなり南朝の制度が元になっているというか南朝の制度を原点にして造られている。それを天武は除けと言った。この「偽」と言われているものは、東アジアにおける「偽」である。気がついてみれば当り前の話ですが、そのことに結論をえました。
そうなりますと『古事記』自身についても、その継体のところで伝承が終っている。それ以後の伝承がないのはおかしい。それ以後の伝承もあったはずだ。それをなぜ『古事記』は、あったはずの継体以後の伝承を記録しないのか。『日本書紀』と比較すれば、そのように言える。その事実には誰も回答が出来ていない。ところが今の立場から考えると回答できる。つまり九州年号がある時代は、九州王朝が支配している時代だから「偽いつわり」の時代である。だから載せない。あまりにも明確だから、簡単すぎて困る。「偽いつわり」の歴史だからカットする。
それでは『日本書紀』をどのように理解するか。これは繰り返しになりますが、七〇一以後、山沢に亡命した九州王朝の残党を征伐した。元明・元正の時、その九州王朝の歴史書を回収してその主語を取り換えた。とうぜん九州王朝の天子なのですから倭王です。それを近畿天皇家の天皇名に主語を置換して、移し替えて『日本書紀』ができた。
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