海の古代史』(海の実験場ー序に代えて 原書房)へ

『古代に真実を求めて』 (明石書店)第十集
古田武彦講演 「万世一系」の史料批判 -- 九州年号の確定と古賀新理論の(出雲)の展望
二〇〇六年二月十八日 場所:大阪市中央区電気倶楽部

一「万世一系」の史料批判 二「国引き神話」と黒曜石 三九州年号 四筑紫の君薩夜馬と九州年
五「藤原宮」はなかった 六大海長老と「浦島伝説」 七出雲の神話 八「サマン」と「サマ」 質問一~四


六 大海長老と「浦島伝説」

古田武彦

もう一つおもしろい問題で、皆さんに申し上げたいことがある。

『魏志』(部分)
東夷伝
書稱東漸干海被西
・・・
踐粛慎之庭東臨大海長老説有異面之人近日之出所出遂周観
「粛慎の庭を踏み、東のかた大海を臨む。長老が説くには、異面の人あり。日の出るところに近し。・・・」
・・・

倭人伝
倭人在帶方東南大海之中依山島(*1)爲國邑舊百餘國漢時有朝見者今使譯所通三十國
・・・
女王國東渡海千餘里復有國皆倭種又有侏儒國在其南人長三四尺去女王四千
餘里又有裸國黒齒國復在其東南船行一年可至參問倭地絶在海中洲島(*1)之上
或絶或連周旋可五千餘里

 「粛慎の庭を踏み、東のかた大海を臨む。長老が説くには、異面の人あり。日の出るところに近し。・・・」

 この長老が、どこの長老か論争がありましていろいろな意見が出ました。最初わたしはこの「長老」は、中国の長老、「都の長老」と考えていました。その段階では「異面之人近日之出所」の理解は、倭国のことを言っている。このように理解していました。ところがその後、『魏志』東夷伝の序文を検討していくと、魏の軍隊が高句麗を追って、粛慎の庭を踏み大海に臨んだと理解したら、この長老は「粛慎の長老」ではないかと考えを代えた。粛慎の長老が、裸國黒齒國の伝承を伝えていたのではないか。第二段階では、このように考えた。この考えに対しておかしいという意見もあった。それで次に、東京古田会が『古田武彦の百問百答』を企画されたなかに、この問題もあった。それで今取り組んでみると、比較的簡単に答えが出ました。。
 それで「臨大海長老説」とあり、長老の直前は「粛慎」だと思っていましたが「大海」である。以前は「大海」を無視していました。再度検討してみれば「粛慎」でなく、「長老」の直前は「大海」であることを今さらながら知りました。
 そして『魏志倭人伝』を見ますと、「倭人在帶方東南大海之中」とあり、ここに「大海」と書かれている。それで『魏志東夷伝』全体を検討すると、他のところでは「大海」は出てこない。『魏志倭人伝』のなかに「在(帶方東南)大海之中」という表現が出てくる。そうすると「大海の長老」とは、倭人の長老ではないか。いまさら、そんなことを言っているのか。そういうかたもおられるかも知れないが、わたしは最近気がついた。
 倭人の長老が言っているなら「異面之人近日之出所」の人は、言うまでもなく「裸國黒齒國」の人である。「東南船行一年可至」のところの人である。「異面」の人には、(現代の理解では、アメリカインディアンなど)いろいろ居られるが、裸国・黒歯国の人である。「異面」の人には、いろいろな人がいる。なによりも「日の出ずる所」に近く、「船行一年」の場所がふさわしい。
 これに対応する事実が『漢書』西域伝に「安息の長老」として出てくる。船で八十四日かかるところに陸地があり、「近日之没処」とある。これもやはり、わたしはアメリカ大陸だと考えています。安息の長老は、トルコ・イランの長老です。八十四日なら三ヶ月近くです。そこまで行ったところに陸地があって「日の没する所」に近いと言っています。これはやはりアメリカ大陸の西側だと考えています。これもアメリカ大陸の西側の認識だと論ずる人が少ないのが不思議です。わたしは以前から、そのように考えてはいました。とにかく『漢書』西域伝には、そのように書かれてある。
 それに対して『三国志』は向こうを張って、漢は西の端を認識できた。それに対して魏は東の端を認識できた。そう『三国志』は書かれている。魏の誇りである。『魏志倭人伝』の(最終)目的は、倭国ではない。裸国・黒歯国が目的である。東の端を、(大海の)長老によって認識することが出来た。空想では歴史は無理である。やはり現地に行って、信頼できる長老の言葉として把握しなければ、歴史書に書く値打ちはない。それが中国人の考えかたです。倭人の長老に聞いている。それでようやく分かったのは、(中国の使いは)侏儒国にまで行って聞いている。なぜならば四千里と里数が書いてある。行かないところは里数が書いていない。九州では今の不弥国、博多湾止まりで里数は書いていない。
 これも一言言いますと、近畿大和への里数が書いていますか。邪馬台国近畿論者は里数問題を避けて、わたしと論争しない。とにかく近畿大和への里数は書かれていない。これに対して侏儒国への里数は書かれている。船で東へ千里行って下関近辺になり、そこから南三千里行って倭国から合計四千里と書かれてある。それでは、なぜ侏儒国まで魏の使いが行くのか。ちょっと考えられないことだ。しかし魏の使いは、倭国の女王卑弥呼(ひみか)はおもしろい話ではあるけれども、それが目的ではない。東の端の認識が目的である。だから侏儒国、わたしの考えでは四国足摺岬近辺になる。そこに行った。わたしは計算上そこになったが、それまで足摺岬のことは知らなかった。わたしの両親は土佐高知出身ですが西側の、足摺のことは知らなかった。ですが足摺岬に行ってみますと、日本列島で黒潮がぶつかる唯一の場所なのです。小笠原諸島など通るところはあるけれども、ぶつかるところはここのみです。それで亀さんが黒潮に乗って行くわけです。その伝承の地へ魏の使いが到っています。そして、東の端を確認しています。
 これも余計なことを言いますが、築後山門説や近畿説の人は、侏儒国の場所について何も言えない。論じない。あんなものは、デタラメだらか論じる価値はないと言って論じない。これはおかしい。結果として偽りであるとか、デタラメであるとか論証して言うのならよいですが、場所を位置づけできないから、インチキだから位置づけしなくともよいとしか言わない。しかし四千里と里数も書かれている。侏儒国について論争すれば、不利だと分かっているから論争しない。頭の良い人は分かっていると思う。
 とにかく魏の使いは、侏儒国へ行っている。足摺岬に行って黒潮を見ている。つまり「大海の長老」の言葉を聞いて記録している。
 このようにお話すれば、今までの話が「倭人の長老」の話とします。するとすぐ気がつくことがある。これは「浦島伝説」ではないか。このことを最初に書かれたのは、古田史学の会の会長である水野さん。これは凄い卓見です。もちろん『日本書紀』には、雄略天皇のときのことだと書かれてある。しかし、それは信用できない。『日本書紀』は九州王朝の歴史書を使って書かれていて、年代を横滑りさせて書かれているとありがたいですが、年代は自由に変えて書かれてある。『風土記』は『日本書紀』に従って書かれている。絶対年代は信用できない。
 そのように目のうろこを払って考えますと、「浦島太郎の話」と『日本書紀』雄略紀の「浦島伝説」とはイコールではないか。正確に言いますと「浦島伝説」のウルテキスト、原「浦島伝説」を聞いて、魏の使いは足摺岬に行った。このように理解すべきではないか。
このような確認点を背景にして、おもしろい問題がぞくぞく出てくる。一言言いますと、ペルー・エクアドルに日本語(倭語)が残っていないか。地名です。地名は先ほど言いましたが縄文の地名もまだ残っている。また倭人が太平洋を渡った証明として遺伝子によるインディオと日本列島の太平洋側の人とは遺伝子は同じだという証明や、これとは別に糞(ウンチ)による証明もあります。そうする縄文の時代に行ったわけですから。糞(ウンチ)や遺伝子が日本人と同じで、言葉はぜんぜん別の言葉を喋っていた。そんなことはありえません。
 それで地名としての縄文語を調べた。それでさきほど言いましたように日本でも縄文語は残っている。現地でも日本語は残っている。インディオの言葉は、いろいろスペイン語と交じってはいるけれども、単語は以前として残っている可能性がある。日本の言語学者は、インディオの言葉を研究すべきだ。だれかやってほしい。わたしもやりたいけれど年を取りすぎているので、今からでは無理なので。わたしは研究すれば意外な発見や業績が残せると思う。言語学も大切な問題で、このような問題意識から「浦島伝説」に取り組まれたらよいと思います。


闘論

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