若草伽藍跡と宮山古墳・千早・赤坂村 ─古田先生同行記─ 伊東義彰
釈迦三尊の光背銘に、聖徳太子はいなかった(解説)へ
釈迦三尊の光背銘(写真は釈迦三尊の下にあります)
「法華義疏」の史料批判(国宝、伝聖徳太子真筆本の史料批判です。)
『古代に真実を求めて』
(明石書店)第9集 講演記録「釈迦三尊」はなかった 古田武彦
二〇〇五年一月十五日(土) 大阪市中の島中央公会堂
一 「釈迦三尊」はなかった 二 大八島国と出雲 三 筑紫都督府と評督 四 沈黙の論理 -- 銅鐸王朝(拘奴国) 質問一~五
案内 『盗まれた「聖徳太子」伝承』(古代に真実を求めて 第18集)
YouTube講演 「釈迦三尊」はなかった in 法隆寺 古田武彦
古田武彦
年末に法隆寺に行って参りました。そのときに水野さん、伊東さんのお二人に先導して貰って参りました。行きました理由は簡単でして、法隆寺の門の前近くが発掘されたとき、(以前の)法隆寺が焼けたときの瓦や壁画の断片がある壁の部分が出てきました。その経緯は皆さんよくご存知だと思いますが、ようするに正門の前、向かって右横に老舗の商店があったのを取り壊して、そこに記念館として法隆寺関係の博物館を造ろうとした。それで伝統もある商売なので立ち退きにさいして裁判なども行われたようです。それは立ち退かされる方々にとってはとうぜんの言い分だと思いますが。それが博物館を建てるために整地しているときに溝の中から発掘された。それは現在の法隆寺ではなくて、前の若草伽藍と言われるもので、それに関連するものが溝に放り込まれていた。われわれ研究者にとって大変ありがたいものが出てきました。
わたしは法隆寺は何回も行っていますが、発掘された場所の位置関係がどのあたりか不明確なので、発見された溝がどこなのか。(金堂と)どのくらいの距離が離れているとか、現地の間取りがやはり新聞を見ただけではよく分からない。やはり現地に行って確認したいと参りました。
その結果知りたいことが、よく分かったわけです。とくにわたしが知りたかったのは、金堂と五重の塔、その間がどれぐらい離れていたか。現在の法隆寺ではなくて、焼ける前の建物である若草伽藍です。わたくしは現地説明会に参加したわけではないが、伊東さんが現地説明会に参加されており、その時のことを本当に詳しく再現して説明していただいた。伊東さんは大和の遺跡のことは自分の庭のことのようによくご承知ですので、これもちょっとしたエピソードですが、伊東さんが今回溝のところに入り込んで説明しておられると、わざわざボランティアの腕章を付けた説明員のかたが一生懸命聞き込んでいた。そのかたにも別の見方がないか確認しようと思いまして、声をかけまして聞いたところ「私より、いやいやあのかたの説明で十分でございます。私も勉強しているところです。」と答えられた。ある意味では当然ですが。それだけ各地の現地説明会や講演会に出られており、また橿原考古学博物館の説明員(ボランティア)もされている伊東さんならではです。
それで結論から言いますと、若草伽藍の金堂と五重の塔の間の距離が約八メートル。斑鳩町教育委員会の方は、八.五メートルぐらいと言われたそうです。伊東さんがご自分で計算されたところによると七.五メートル。その計算の基礎は、中央公論社の直木孝次郎さんの本により計算されたようです。どちらが正しいのか分かりませんけれども、誤差が一メートル弱です。大体八メートル前後と言っておけば間違いはない。
なぜこの八メートル前後の距離を知りたかったかのか。新聞で見ますと、それは焼けたのは五重の塔である。金堂ではない。新聞を見た雰囲気では、そのような感じで記事が書かれてある。
と言いますのは一番関心があるのは(金堂の)釈迦三尊像である。「法興元」という、いわゆる九州年号が入っている銘板を持つ仏像として、わたしが論じた仏像である。九州年号が入っている銘板を持っている以上、あのような仏像がほんらい大和で造られたはずがない。銘板に記載されている年月日が、『日本書紀』に書かれた聖徳太子が亡くなった年月日と違っている。一番違っているのは分かり切ったことで、お母さんや奥さんが相次いで亡くなった一番の大事件が『日本書紀』には書かれていない。このような印象的な大事件を、あれだけ聖徳太子のことを推古紀に書いておいて、書くのなら何をさておいても書かなければならないことが、ぜんぜん書いていない。
なによりも法隆寺が焼けたことが『日本書紀』天智紀に、ハッキリ書かれている。「一屋余無」と有名な言葉が書かれてある。
それで戦前に有名な論争として「法隆寺再建論争」がある。この論争では大多数の学者は、「法隆寺は焼けなかった」という立場にたった。その証拠に現在法隆寺があるではないか。あれは飛鳥様式である。『日本書紀』は、あまり当てにならない。『日本書紀』には、法隆寺は焼けたと書いてあるけれども、法隆寺は焼けなかったのだ。建築史の専門家や歴史学者は、そう主張していた。若き日の家永三郎さんも「焼けなかった」という立場に参加して頑張られた。そのように総体としての学者が、「法隆寺は焼けなかった」と論陣を張った。これに対し孤軍奮闘に近い形で「法隆寺は焼けたのだ」と言ったのが喜田貞吉。わたしの好きな学者ですが、この人が一人頑張った。喜田さんは相手が何か言ったらすぐ反論する。それを二〇回前後短い論文であれ本格的であれ、すぐ書いて反論する。それが喜田さんの特徴です。そのように凄まじく論争が起こったが、喜田貞吉本人が言っているように、わたしの立場は一つだけだ。『日本書紀』に「一屋余無」とハッキリ書いてある。『日本書紀』が焼けたものを嘘を書く必要はどこにもない。これは人間の理性から言って分かりやすい当たり前の考え方でしょう。わたしは傍証としていろいろな示していますが、結局のところ私にはそれしか理由はない。何回もそれを言う。しかし、そんな理由ではダメだと専門家が寄ってたかって袋だたきの目にあう。しかし若草伽藍の発掘ということがありました。現在の法隆寺の規模とよく似た大きさの遺跡が、別個にずれた形で出てきた。だから、ほぼ決着が付いた。だから大多数のほうが間違っていた。孤軍奮闘の喜田貞吉の、「再建説」のほうが正しかった。
このように再建説のほうがたいへん有力な説になったが、法隆寺のほうは頑として説を変えなかったようです。わたしも覚えがありますが何回か法隆寺に行ったときに、フランスかどこかの外国の旅行団が来ていました。そこで法隆寺側の説明するかたがおられ、わたしも側で聞いていました。そのかたは「このお寺は聖徳太子がお建たてになられ、現在までそのまま残っております。」、そういう説明をされていました。もちろん若草伽藍の発掘より、もっと後の二十数年後の話です。説明された時は黙っていましたが、終わって別れましたときに「学問的には、法隆寺は焼けたことになっていますが」と言いました。そうすると「私はこのように言うように言われています。」と答えられました。それ以上その人に言っても仕方がないので終わりにしましたが、国際的にはそのように説明されているようです。そういう経験がありました。
ですが(法隆寺が)焼けたこと自身は、分かり切ったことで、事新しいことでもない。新しいことは壁画の断片が出てきた。これは大変なことです。なぜなら、もし金堂の壁画の断片ならどうしようもない。何がどうしようもないか。凄い高熱です。この断片は千度以上の高熱で熱せられている形で出てきた。もちろん全部ではありませんが。もっと低い温度で焼かれた瓦や壁土もあるのですが。一番高い温度で焼かれた壁土は、ちょうど陶器や磁器のような固さに変色していた。そのように新聞でも報道されていた。そして原因は、雷が落ちたという形で報道されていた。それがもし金堂に落ちたら、釈迦三尊を運び出す余裕は絶対にない。三つあって台座もあり光背もある。それを運び出す余裕はまったくない。ですが釈迦三尊は運び出された。今の学界のわたし以外の定説は、すべてその考えである。ですからわたしは今孤軍奮闘で、あの釈迦三尊は(法隆寺が)再建されたとき後から、ハッキリ言えば九州から、持ち込まれたと主張している。他の人は皆ノーコメント。論争さえしない。酷いものです。
わたしの書いた本は目録に載せない。「法隆寺論争」の総目録のようなものが出来ている。しかし、わたしと家永三郎さんと論争したものも載っていない。『聖徳太子論争』は題だけ載せられていて、わたしの名前はない。わたしと家永三郎さんの論争です。まして『古代は輝いていたIIIー法隆寺の中の九州王朝ー 』(朝日文庫)は、一切目録に入れられていない。後生の歴史家が「古田武彦はいなかった。」と。いたならば目録に載るはずである。そういう議論がされるかもしれない。そういう状態です。
この問題に対する、わたしの論拠は簡単なのです。法隆寺が焼けて、本尊が運び出されて無事だった。それなら『日本書紀』のあの書き方はない。「一屋余無」とあれば全焼したという意味です。本尊が助かったのなら「本尊無事」と書けばよい。たった四字です。絶対に書くべきです。金堂が焼けたとき、みんなが必死になって運び出したわけでしょう。遠い九州や関東の話ではない。足元の大和の真ん中です。本尊が助かったことは、嬉しいことです。それを『日本書紀』が知らん顔をして書かない。そのようなことは、どのように考えてもおかしい。いろいろ言うが、喜田貞吉とまったく同じ考え方です。
ところがわたし一人を除いては、あらゆる歴史学者・建築学者・教育委員会総掛かりで、わたしの説を認めない。知らない顔をして、法隆寺は焼けたけれども本尊は無事である。今の法隆寺に本尊として存在するという立場を取り続けている。もちろん外国の人にも、そういう説明をしているでしょう。ですが金堂に落雷が落ちたら、一挙にその考えはダメです。
しかし言うならば、金堂ではなくて五重の塔に落ちたということにしたい。そのように新聞がリードしている。皆さん帰って保存してある新聞を見てください。そのように新聞が、いかにも五重の塔が焼けたかのようにリードしている。はたして、そんなことが分かるのか。壁画は五重の塔にあるかもしれないが、金堂には絶対にある。五重の塔になくても金堂に壁画がないことはありえない。第一現在の法隆寺にも、壁画は金堂にある。もちろん現在の法隆寺には五重の塔にも少しはある。しかしこの壁画は、金堂のコピーのようなものが若干あるぐらいで、金堂とは比べ物にならない。これは今回確認したことです。ですから壁画が焼けて出てきたといえば、すぐ金堂の壁画が焼けて出てきたと、思うところです。
それに対して焼けた壁画は、教育委員会などの表向きの見解は、これは五重の塔が焼けたのだろう。これは推定です。焼けた壁画自身からは、五重の塔のものが焼けたのか金堂のものが焼けたかは分からない。しかもこの問題に対して会議が行なわれた。教育委員会だけでなくて橿原考古学研究所や国立博物館の専門家がきて合議した。その合議の結果は、結局この壁画は、五重の塔の壁画か金堂の壁画かは分からない。そういう結論になりました。教育委員会の方に聞きましたら、そのように言われたました。これは正しく、分かりやすい結論です。
しかし新聞はそのように書いていない。読んで「出てきた壁画は、金堂のものか、五重の塔のものか分からない。」と書いてあれば、その新聞は立派です。何となく五重の塔のみが焼けて、金堂は助かった。そのようにミスリードというか、国民をリードしている。つまり釈迦三尊を助かったように、見えるような記事に仕組んでいる。おそらく、この話を聞くまで皆さん分からなかったと思います。それが怖(こわ)いのです。つまり新聞というものは、そのような役割をはたす。新聞は正しいほうに導くこともあるが、誤ったほうに導くこともある。このことは戦前の話だと思ったら大間違い。今でもある。
そのことが確認できたことは、行ってたいへんよかった。教育委員会のかたが、明確にそう言われた。会議では結論は出ませんでした。出ないのが普通である。だから雷が、五重の塔に落ちたか金堂に落ちたかは、仮に五分五分とします。しかし落雷で五重の塔に落ちたとします。それで五重の塔が燃え上がったとします。千度以上の高熱で塔が焼けたとして、金堂がどれだけ無事でおれたか。
結論としては、焼けたことは決まっている。『日本書紀』に書いてあるとおり「一屋余無」ですから。しかし火がどれぐらいの速さで、ノロノロと一時間や二時間の間に火が移ったのか、あるいは一五分や三十分のうちに火が移ったのか。そういう問題が出てくる。それは分かりませんが、たとえば金堂と五重の塔が五〇や一〇〇メートル離れていれば、それは時間がかかる。しかし八メートルの距離では、片方の五重の塔が落雷で千度以上の高熱で燃え上がっていたとすれば、金堂に移るのにどれだけ時間がかかるのか。
これは落雷炎上の実験を行なってもらえばよい。東大に防災研究所がある。研究室に金堂と五重の塔のミニチュアを作って、人工的に落雷を落として試みる。千度以上の高熱で塔が焼けるような落雷を落とす。どのぐらいのスピードで燃え移るか。やはり科学的に検証すればよい。もちろんドンピシャリでないけれどもこれくらいの時間差で燃え移ったというデータが出ると思う。
もちろんもう一つ大事なのは風です。どちらの方向に風が吹いたか。これも大和に詳しい伊東さんにお尋ねすると、すぐにご返答をいただきました。
「季節は、いつ頃ですか。」
「それは『日本書紀』に書いてあるとおり、五月の終わり三十日か三十一日です。これは陰暦ですから太陽暦だと六月の終わりです。」
「その時期でしたら南への風。南から東南にかけての風が吹く時期です。」
まさしく、それだったら(若草伽藍では)五重の塔から金堂に向かって風が吹く時期です。五重の塔から金堂に向かって風が吹いていれば。五重の塔の火は、それこそアッという間に金堂へ移ります。
この問題も気象の専門家のかたにお聞きしたいと考えています。気象問題と文学作品との関係を研究されている専門家のかたもいますから、そのかたにもお聞きしたい。その本も注文してあります。あるいは奈良県の気象台のかたにお尋ねしたい。そんなことはよくご存じだと思う。雷による落雷炎上実験も、いろいろな風の条件をいれて実験すればよい。
これは結果がどうなろうと、わたしの古田の説が有利になろうと、従来説のなんとか本尊を助けたい方が有利になろうと、それはかまわない。自然科学の実験ですから。ぜひとも、やってほしい。また皆さんお知り合いの方がおりましたらお勧めください。
以上、別に結論が出たわけではありませんが、言えることはいよいよ本尊が助かったという話はアウト。今回のことがなくても本尊は無事であるという話はダメなのに、今回のことで、いよいよダメになった。
今日述べたことは、「いよいよ本尊が助かった。」という話がダメになったということですが、絶対に本尊が助からなかったと考えたのは先ほどの理由です。本尊が助かったのになぜ『日本書紀』が、そのことをカットするのか。本尊が助かった。聖徳太子のお蔭である。そのように書けばよい。それがいっさい書かれていなくて、「一屋余無」では、本尊が助かったということはあり得ない。
それに漢文の解釈として「一屋余無」で、本尊が助かった用例はない。わたしも中国の漢文で用例を探してみたが、これは全部無くなったときの慣用句です。その慣用句を知らずに、『日本書紀』の編集者が「一屋余無」と書いたとはわたしには信じられない。『日本書紀』全体が信用できるかできないかという話とは、別の次元の問題です。
いくら家永三郎さんが若いときのように『日本書紀』は信用できないと頑張ってみても、それとお膝元の法隆寺が焼けた時に本尊が助かったのに、普通見たら本尊が助からなかったように見える文章、そういう文章に意地悪して書く理由はどこにもない。これがわたしの、言ってみれば理由のすべてです。もちろんすべてというのは言い過ぎで、もちろん『日本書紀』の記事から見たすべてです。
一番の理由は、もちろん釈迦三尊像の存在そのものです。後背銘の銘文には九州年号、『法興元」という近畿天皇家にはない年号が書かれている。また「上宮法皇」という言い方は、(『日本書紀』では)聖徳太子にはされていない。また亡くなった年は『日本書紀』と一年ずれている。それを一年ぐらい違っていても、我慢しようというわけにはいかない。お母さんや奥さんが亡くなったということが釈迦三尊の後背銘の銘文には書かれているのに『日本書紀』にはない。これが、根本の理由です。
それにプラスして『日本書紀』の「一屋余無」は、本尊は無事という意味ではないよ。誰でも分かる理由です。
その面では今回の法隆寺調査は、お二人のご協力を得て現地に見ることが出来ました。もちろん(斑鳩町)教育委員会の方からも、正確にお知らせいただいて大変ありがたがった。これでこの件は終わります。
(参考)
斑鳩町教育委員会
『若草伽藍跡西方の調査』
今回の発掘調査において、聖徳太子建立の若草伽藍跡と称されている「斑鳩寺」に関連する飛鳥時代の遺物が多量に出土しました。
それらの遺物の多くは瓦類であり、出土した軒丸瓦には金堂所用の九弁素弁蓮華文軒丸瓦や、塔所用の八弁素弁蓮華文軒丸瓦のほか、小型品で新種の軒丸瓦も見つかっています。また軒平瓦では手彫り忍冬唐草文軒平瓦があり、鴟尾の破片も見つかっています。その一方で、焼成を受けたとみられる「赤い瓦」や、金属を含む溶解したものが付着した平瓦のほか、葺士と思われる土が焼けて付着している平瓦など、法隆寺罹災記事を証すると思われる瓦の一群が見つかりました。また焼けた壁材が多量に出士しており、その多くに藁スサの痕跡が観察できます。壁材の多くは橙色や赤褐色を呈しておりますが、よく焼けたものは灰色を呈しており1000℃以上の熱を受けたようです。これらの色の違いは、建物の内壁と外壁との違いだと考えられ、灰色のものは建物内において還元焼成されたものと考えられます。
さて、これまでの昭和14年の石田茂作氏等による発掘調査や、昭和43・44年の文化庁による発掘調査においても、焼失を示す考古資料の発見が期待されていましたが、明確に焼失を示す出土遺物がありませんでした。また斑鳩寺の焼失年代につきましては、推古天皇十八(610)年説、皇極天皇二(643)年説、天智天皇九(670)年説があり、今後も論議の呼ぶところではありますが、これらの遺物が明治時代以来約百年間続いております「法隆寺再建・非再建論争」の歴史におきましても、貴重な調査成果になることは間違いありません。
また、それら焼けた壁材のなかに、赤色・黄色・青緑色・白色などの色に彩られていたとみられます壁画の断片が出土しました。どの建物に伴うかは不明でありますが、現在の法隆寺西院との比較からも、塔または金堂と考えてほぼ問違いないでしょう。それらが小片であることから、図柄を判断し難いのですが、中宮寺天寿国繍帳のほか、法隆寺金堂壁画や上淀廃寺跡(烏取県淀江町)出土の壁画との比較からも、仏教的なものと想像されます。
『日本書紀』には、崇峻天皇元(588)年の条に「画工白加」や推古天皇十二(604)年の条に「黄書画師・山背画師を定む」の記事を見ることができ、既に飛鳥時代の寺院造りにおいて、壁画を描く技術者が存在したことが伺えます。しかし、現在までに飛鳥時代初期の寺院において壁画が確認されていないことから、現時点で日本最古の寺院壁画と言えます。また、この壁画の発見により、なぜ法隆寺に壁画が存在しているのかという考察の答えは、壁画の描かれていた斑鳩寺の焼失後に、再建する際に塔や金堂に壁画を再現したとする推定ができそうです。
石製品では、仏像の台座と思われる蓮華の弁端部が出土しております。石質については今後調査する予定でありますが、既に『日本書紀』に朝鮮半島から贈られた石像の記事がみられますので、飛鳥時代初期段階に銅造や木造だけでなく石造の仏像が存在した蓋然性が高くなりました。
遺構としましては、調査区の東端部において、谷部の堆積層を掘削した磁北より西側に偏向する「斜行溝」の西肩を検出しております。溝の幅や時期や角度など正確な確認は今後に実施する予定ではありますが、伽藍の中心軸線と、「斑鳩条里」に合う法隆寺東大門の東側の斜行道路との距離関係が300尺(高麗尺)でありますことから、西に同じく 300尺あったとすれば、ちょうど西側の推定線がこの付近にあたることから、従来考えられていたよりもさらに西側に寺域西限の溝の可能性もあります。
以上のように、今回の発掘調査成果が、考古学だけでなく、文献史学、美術史学、建築学などの多岐にわたり重要な意義を有しますことから、今後色々な分野において飛鳥時代の諸研究が前進することでしょう。
制作 古田史学の会
編集 横田幸男
参照:
『法隆寺』ー日本仏教美術の黎明 奈良国立博物館
『若草伽藍跡西方の調査』斑鳩町教育委員会
『法隆寺論争』(家永三郎・古田武彦)新泉社
『聖徳太子論争』(家永三郎・古田武彦)新泉社
『古代は輝いていたIIIー法隆寺の中の九州王朝ー 』(朝日文庫)
二〇〇四年十二月 二日
産経新聞
毎日新聞
読売新聞
朝日新聞
闘論へ
若草伽藍跡と宮山古墳・千早・赤坂村 ─古田先生同行記─ 伊東義
釈迦三尊の光背銘に、聖徳太子はいなかったへ
「法華義疏」の史料批判(国宝、伝聖徳太子真筆本の史料批判です。)
ホームページへ