『古代に真実を求めて』第六集 神話実験と倭人伝の全貌2
弥生の土笛と出雲王朝(古田武彦 2003年3月講演記録)

『古代に真実を求めて』 (明石書店)第9集 講演記録「釈迦三尊」はなかった 古田武彦
二〇〇五年一月十五日(土) 大阪市中の島中央公会堂
一 「釈迦三尊」はなかった 二 大八島国と出雲 三 筑紫都督府と評督 四 沈黙の論理 -- 銅鐸王朝(拘奴国) 質問一~五


四 沈黙の論理 -- 銅鐸王朝(拘奴こうぬ国)・質問

古田武彦

四 沈黙の論理 -- 銅鐸王朝(拘奴こうぬ国)

 まだおもしろい問題もたくさん残っているので、後十五分ぐらい話させていただきます。今日も来ておられる四国松山の合田さん。彼が三年前ぐらい前に、長距離電話で盛んに質問をされて来られた時期があった。その中で『三国志』魏志倭人伝の中の「拘奴国」がある。これは、どこでしょうか。このように聞かれた。
 わたしは、それは『魏志倭人伝』については分かりませんとお答えしました。つまり「奴国」が二度出ますが、二回目の「奴国」が倭国の境界の国にあり、その南に「拘奴国」がある。このように書いてある。しかし女王国がどのように広がっているか分からないから、端の南と言われても把握の仕様がない。初めは九州熊本辺りであると九州説の人に強かったですから、そのように感じたこともありチラッと書いたこともありますが、『「邪馬台国」はなかった』でも触れている程度で根拠も特に論証もなかった。それで今のような『魏志倭人伝』からでは分かりません、そのような結論になった。ところが合田さんの質問に応じてお答えしているうちに、待ってください、お答えできるかも知れません。そのように言いました。

『後漢書』倭伝
自女王國東海度千餘里至拘奴國雖皆倭種而不屬女王

 なぜなら『後漢書』倭伝には「拘奴国」に関する新しい情報がある。拘奴国は女王国の東にある。千里のところにある。このように書いてある。これはわたしは『魏志倭人伝』でも(短里の)「千里」があり、これは関門海峡付近である。それから叉東へ千里倭種の国がある。それと同じように九州の東岸部で千里。それから東の瀬戸内海のどこかにあると感じた。それで香川県を探し回ったこともあるが、結局のところ分からなかった。ところが、今の合田さんのご質問を受けて、待ってくださいよ。『後漢書』は、漢代の史料で書いてある。
 もちろん『「邪馬台国」はなかった』で書きましたように、著者の范曄(はんよう)はかなり自分の判断で書き換えているところもある。たとえば「会稽東治かいけいとうち」を「会稽東冶かいけいとうや」と書き直したり、卑弥呼の前に男王が七・八十年居た。これは二倍年暦だと思うのですが、それを二倍年暦だと気が付かず七・八十年戦乱が続いたと解釈して、「倭国大乱」という言葉を新しく造った。これらは誤解だと思う。これらについては何回も論じてきました。このように范曄には、判断ミスが各所にある。そういう目で『後漢書』倭伝を見ていましたが、それでは『後漢書』倭伝が全部インチキかというと、そうはいかない。漢代の史料をそのまま使ったものもある。たとえば有名な志賀島の金印の記事。この有名な記事は、『三国志』魏志倭人伝にはない。それが明確に書いてある。あの記事は、漢代の史料によって書いてある。だから正しかったわけです。志賀島から実物の金印が出てきたのは、その証拠である。『古事記』『日本書紀』には金印のことが書いていないのは、インチキというか大事なことをカットしている証拠になる。その点では『後漢書』倭伝は、正しい貴重な史料を挿入していた。
 そのように考えてきますと「拘奴国」の記事も、魏志倭人伝を改訂したら東千余里になることはない。そうすると漢代の独自史料を手に入れて、それにより書いた。『後漢書』ですから、ほとんど漢代の史料で当たり前ですが。それと同様志賀島の金印のような漢代の史料で書いたのではないか。そのように、わたしは電話でお答えしながら気がついた。
 そうすると違ってきます。長里と短里があって、漢代は長里、魏の六倍の距離。短里は周代と、魏・西晋で、間の秦と前漢・後漢が長里。東晋以後が長里。これは何回もわたしが論じていることです。後漢は間違いなく長里です。するとこれは瀬戸内海ぐらいに納まらない。近畿地方に入る。そうしますと大阪府茨木市東奈良遺跡を囲む銅鐸圏に入って来るかもしれない。「まさか!」と電話の向こう側で、合田さんが言われたのを覚えています。電話を切りましたが、やはり論理的にはそのように考えざるをえない。それで「拘奴こうぬ国」と大阪府交野(かたの)市の交野(こうの)山が関係しているのか。籠(この)神社も「奴国」に関係しているのか。そういうことを追求していた。
(『古代に真実を求めて』明石書店 第六集、<講演記録>神話実験と倭人伝の全貌 参照。)
 ところが最近わたしにとって大発見があった。それで話が飛びますが、実は松本郁子さんから乃木将軍の話を調べさせられている。京都大学大学院の方ですが、たいへん良く質問されて来られる。若いから向こう見ずというか何でもいちいち質問してこられる。こちらは困るわけです。たとえば楠木正成をご存知ない。わたしなどには百も承知の人物ですが、若い人は知らないわけです。ところが聞かれているうちに、エッと思ったわけです。驚くことには楠木正成は天皇の敵なのです。わたしは、そんなことは思ったことはない。皆さんも、そんなことを思いますか。わたしなどは天皇に忠節を尽くした人物と思い込んでいた。戦争中の教育で。しかしそうではない。今の天皇は北朝系です。楠木正成は南朝系です。北朝と戦った人物のほうです。ですから北朝系の天皇から見れば、楠木正成は敵なのです。言ってみればその通りで、それ以外にない。ですが、そのような考えは、わたしの頭にはなかった。天皇の無二の忠実の家来かのように、戦争中は教え込まれた。教育というものは恐ろしいものです。そんなことをやり取りしながら、エッと思ってきた。
 これも余計なことですが、ついでに言います。昭和天皇の敗戦の時の談話、それを岩波新書や中公新書で読んでびっくりした。なぜ昭和天皇は敗戦を決意したか。それは日本の制空権をアメリカに握られて、伊勢神宮も熱田神宮もその下にある。いつアメリカ軍が伊勢神宮の鏡や熱田神宮の剣を奪うかもしれない。わたしは北朝の身である。(わたしは昭和天皇がそういう台詞を言うとは思いもしなかった。)三種の神器がなければ天皇で居ることは出来ない。だから降伏を決意した。わたしは敗戦の時(一九四五年)一九歳だったから、歴史は現代史だから知っているとばかりと思っていた。大嘘ですね。新聞はそのようなことを書かなかった。「やむなく民を思って、・・・」、新聞もラジオも、全てそういう記事ばかりだった。しかし御本人が白状している。「自分は北朝の出であるから、三種の神器を奪われたくなかった。だから降伏した。」と、ちゃんと喋っている。書かれている。
 何か「北朝の出身」とは歴史的なことで、現実のこととは思っていなかった。ところが昭和天皇には現実だった。
 これも経過を言えば長くなるが、短絡して言うと乃木将軍は山鹿素行の『中朝事實ちゅうちょうじじつ』という本を非常に尊重していた。これは長州吉田松陰がはじめた松下村塾系統の教育です。『中朝事實』を全部書き写して、それを昭和天皇に差し出した。乃木希典は学習院の院長だった。昭和天皇は学習院の生徒です。その少し後自決している。わたし乃木が死んでも、この『中朝事實』をご覧戴ければ大丈夫です。そういう姿勢だった。
 わたしはこの『中朝事實』(山鹿素行全集思想篇 第十三巻)を読んでいなくて、読み下しはあったけれども漢文がなくて、この間京大に行って手に入れて読んで分かりました。何が分かったか。結局『中朝事實』というのは、天地開闢から始まり、多くは天孫降臨を書いて、三種の神器もたくさん書かれて仁徳天皇まで終わっている。
 これは何かといいますと、皆さん良くご存知なのは北畠親房が『神皇正統記』で、「三種の神器」について南朝の正当性を説いた。これは有名な話です。これは北畠親房が南朝に「三種の神器」があるから、南朝が正統であることを『神皇正統記』で主張した。そして同じく山鹿素行は「三種の神器」を理由にして、江戸時代は北朝系の天皇で南朝は滅んだから、現在(江戸時代)の天皇が正統の天皇だと言おうとした。よく言われているように『神皇正統記』では、南朝の天皇は○○天皇、北朝の天皇は○○院と書かれている。北朝の天皇は、「院」扱いされていて天皇ではない。南朝が存在した時は、南朝が正統の天皇です。北朝の天皇は「三種の神器」を渡されてから、正統の天皇となった。このように理解されている。
 だから山鹿素行は、天皇は天孫降臨以来連綿と一貫している。万世一系である。朱子学の立場で彼は大義名分論を学んできた。それを日本に当てはめて、日本の大義名分論で「三種の神器」を持った万世一系に忠節を尽くすべきだ。このようなことを説いた。それが吉田松陰に影響し、また乃木希典に影響して昭和天皇にも影響した。このようになっている。『中朝事實』を読んで、そのことがよく分かった。
 そこで、わたしは考えた。なるほど「三種の神器」は、そういう意味で大義名分の道具でありシンボルだ。そうしますと『古事記』『日本書紀』は、何回もあれほどくどく「三種の神器」のことに触れているのか。あれほど「一書に曰く」と出てくる。今は熱田神宮にあるとか、伊勢にあるとか、何回も書いてある。あれだけくどく書くのはなぜだ。こう考えた。そうすると初めて分かってきました。
 なぜなら『古事記』『日本書紀』の一番の不思議は、「銅鐸」の記事がないことです。かれらはうっかりミスで銅鐸の存在を知らなかったか。そんなことはあり得ないことです。今出ている銅鐸だけでも三〇〇を超えている。わたしや森浩一さんが言っている公式に、「一つ出たら、その五倍・一〇倍の実物があったと考えなければならない。」がある。出てきたものが全てであると、考えてはいけない。わたしが大阪の朝日カルチャセンターで言ったら、直ぐ後で森浩一さんが書いたので、わたしと森さんの公式であると言っていますが、常識的に考えてもそうです。三〇〇個の五倍あったとして一五〇〇、十倍あったとて三〇〇〇個あったことになる。狭い日本の近畿日本の中にこれだけあって、誰も気が付かなかったということがあり得ますか。わたしはそんなことは、あり得ないと思う。
 また「三種の神器」そのものを考えてみても、たいへんリアルである。九州福岡県吉武高木遺跡、須久岡本遺跡などに見事な実物の「三種の神器」が出てきています。ですから「三種の神器」は空想の産物ではない。
 そうすると、これだけ「三種の神器」の記事を書きながら、「銅鐸」の記事がないのは、銅鐸を意識しなかったのではなくて、銅鐸を意識しすぎたからである。
 これも実は、松本郁子さんの行なった乃木将軍の仕事に、突き動かされながら考えたことです。乃木将軍の自決、それの理由が実は、乃木将軍の遺書の先頭に書かれてある。これは西南の役の時に軍旗を失った。その責任を取って死ぬ。これが最初に書いてある。後は長い、家は誰にやるとか、・・・・最後は眼鏡は誰にやるとかまで書いてある。こまごまと書いてある神経の細かい人である。ところが死ぬ理由は最初は「西南の役」のことしか書いていない。後世の歴史家が研究すれば、乃木将軍が日露戦争に参加したというのは嘘である。二〇三高地のことは、まったく遺書に出ていない。こういう研究をする人が出てきてもおかしくはないくらいです。この話は、嘘ではありません。遺書は活字本にもなっています。写真版の実物大も見ましたけれども、その通りなのです。
 これは何か。もちろん乃木将軍が一番責任を感じていたのは、日露戦争の旅順の「二〇三高地」に決まっています。これは松本さんの得意な分野ですが、日本の若い青年だけでなくロシア側を含んだ青年をおびただしく殺した。その責任を痛感していることが、彼の漢詩でも出ている。ところが、そのことは一切出てきていない。たくさんの青年を殺した責任のことは、一切書いていない。なぜか。それを書くと自分だけで終わらない。児玉源太郎、山県有朋も出てくるだろうし、最後は明治天皇の責任に行きます。おそらくあの時こうしていたら、この時こうしていたらと考えることは、そのようなことを書けばいくらでもある。だから、このことは、いっさい書かなかった。この一切書かなかった「たくさんの青年を殺した責任」を、当時の乃木将軍は「二〇三高地の乃木」なのです。ですから「沈黙の批判」と彼女は言っていますが。つまり書かないことが重大な意味をもつ。

 同じく『古事記』『日本書紀』が銅鐸に対し、いっさい書かなかったことに重大な意味がある。
 これから先は失礼な言い方だと言って、怒る人が居るかもしれないが、ざっくばらんに言わせていただきます。
「三種の神器」というものはチャチなものです。玉は縄文時代から、いくらでもある。剣は権力者で持たない人物をいない。鏡は中国に注文して一〇〇枚手に入れた。中国では日常品レベルの品物です。日本でも後に作れるけれでも。それを寄せ集めて「三種の神器」と言っているだけです。
 これに対して銅鐸は立派なものです。燦然(さんぜん)たる輝きを放ち、存在感がある。これの元は出雲で、その大元の祭祀の道具は、中国の陶[土員]です。弥生の土笛として出土しているのは東は舞鶴、西は大島、そこまで広がっています。楽器でありシンボルの土器です。ところが金属器の時代になり、銅鐸という楽器、それを祭祀のシンボルにしていた。その国を倭国は「国譲り」と称して、国を乗っ取ってしまった。だから出雲に準ずる勢力圏をもっていた近畿の銅鐸圏の勢力は、これに対して非常に不満を持っていた。だから銅鐸国家は、九州王朝と共に天を戴かざる敵対関係にあった。それをまた神武が熊野から超えて大和に入り込んだ。そういう状況なわけです。
 そうしますと、「三種の神器」をあれだけ書いた本当の背景は「銅鐸」にある。このテーマです。今ごろ気が付くのは、遅いのですがやっと気が付いた。もちろん近畿天皇家の場合は、八世紀になってからそれにプラスします。ハッキリ言えば近畿天皇家の場合は、九州王朝から「三種の神器」をもらっては、いなかった。だから「三種の神器」を受け継いでいると言うために、熱田神宮や伊勢神宮を持ち出したりして、くどいほど記事を出している。くどく書いているのは、「三種の神器」を持っていない証拠である。 それを大義名分のために、『古事記』『日本書紀』で、くどく書いている。
 『中朝事實』に書いてあるように「三種の神器」には役割がある。山鹿素行は万世一系の証明に使った。『古事記』『日本書紀』も、いたずらにおもしろがって「三種の神器」を書いているのではない。『古事記』『日本書紀』を前半と後半に分けますと、最初九州王朝の前半には、「三種の神器」を書く理由があった。銅鐸王朝(拘奴国)に対して、九州王朝側は遅れています。天孫降臨以後(弥生中期以後)ですから。我々のほうが正統だよ。そのように言おうとして「三種の神器」を持ち出したのが九州王朝。それを受け継いで、我々のほうにもあるよ。熱田神宮や伊勢神宮を持ち出したのが近畿天皇家。そのような関係であることが分かった。
 銅鐸がないことが問題だということは、わたしも何回か書いています。しかし門前の問題意識のみに止まっていて、その本当の意味をいままで知らなかった。
 この「沈黙の証拠」とも言うべき論証と、先ほどの『後漢書』倭伝を長里によって考えるという結論が一致した。そうすると偶然結論が一致したということは考えられない。やはり『後漢書』倭伝の「拘奴国」は銅鐸国家である。それは九州王朝よりさらに淵源の古い輝ける王朝の人々であった。これに対し九州王朝は引け目を持っていた。国譲りという簒奪(さんだつ)を行なった。この簒奪に引け目を持っていたから、それで「三種の神器」という寄せ集めで誤魔化すというか、自分たち新興勢力の正当化に使った。
 これも同じことを言いますが、これは近畿天皇家に賛成であるとか、反対であるということではない。ましては九州王朝に味方するとか、あるいは手を課すとか、また正当化を批判することでもない。そのようなことではなくて、あくまで歴史の事実として見た場合、そのように考えざるを得ない。そのことに数日前に気が付いた。どうもありがとうございました。

質問

(質問一
 先生は以前銅鐸圏を東[魚是](とうてい)国と考えておられたようですが、今はどのように考えておられますか。

(回答)
 東[魚是]国が出ましたので、一言言います。以前東[魚是]国を銅鐸国だと、わたしは誤解していました。書いたこともございます。現在はそれは間違いで、東[魚是]国は、現在薩摩にあると理解しています。後の『魏志倭人伝』の「投馬つま國」、南九州であると考えています。先ほど話題になりました大きく薄い平らな石器の矢である速矢(はや)の伝統をもつ隼人(はやと)の国。縄文の一二〇〇〇年ぐらいに遡る、それが東[魚是]国である。七万戸に対して五万戸ですから、いかにも服属した国に見えるが、たとえ服属していても歴史はズッと古く、淵源は邪馬一国とは比べ物にならないくらい古いのが「投馬つま國」であると考えています。

(質問二) 
 最初に出雲を中心とした大八島国があります。出雲が銅鐸をシンボルにしていたら、「拘奴国」も大八島国に入るのでしょうか。銅鐸圏が「拘奴国」の一部として入っていた。それでは出雲に、天照大神も銅鐸国家も入っていたのでしょうか。その兼ね合いはどのように整理して考えて理解したら良いのか。
(出雲王朝と、九州王朝そして銅鐸国家の関係をどのように理解したら良いのか。)

(回答)
 質問されている意図が必ずしも明確に判りませんが、縄文時代を一応外して考えます。これは弥生前期とします。出雲において中国の[陶土員]を模した弥生の土笛が祭祀の道具として表れる。中国の殷・周で祭祀の道具だった。それが日本では弥生前期に表れる。それは西の端が福岡県の大島、東は京都府舞鶴のすこし南。下関にもありましたが、その中心は松江にある。圧倒的に中心として表れる。これが一番元の形です。これに対して銅鐸が造られてゆく。銅鐸が造られた後、「国譲り」という名の簒奪が行われる。それで出雲は筑紫の支配下に入る。その時に銅鐸や何かを埋めるわけです。八千矛の銅剣、これは剣ではなく矛と思いますが、それを埋めるわけです。それが荒神谷の発掘です。
 その時はもう銅鐸は出雲だけではなくて、近畿に分布してきている。弥生の土笛の時は、そうではなかったですが。銅鐸になると近畿から東海に分布してきている。銅鐸が分布していった後に、出雲は簒奪された。だから出雲の配下にあった簒奪されなかった人々が、九州王朝と対立した。そういう筋道になる。そうしますと大八島国の中に「拘奴国」が入っていた可能性もある。

(質問三) 
 大八島のお話の中で、文脈がよく分からない部分があるのですが。八千矛の神がオベンチャラを言うのなら、中心である出雲の国を探したが良い女はいなかった。次に大八島の国を探したが良い女がいなかった。そして越なら、越に良い女がいると聞いたので探しにきたと言えばオベンチャラになると思いますが、一番肝心な出雲の国で探したという文章が出てこない。本当のオベンチャラになっているのかどうか疑問に思われる。

(回答)
 これは詩ですから、幾つかに答えを取ることは可能だと思います。(あなたが)言われたように、最初はそのように考えていました。しかし大八島の中に出雲が入っているならば、国生み神話の七種類の中で、どこか出雲が出てきて欲しい。それで「大洲おおくに」と考え、これが出雲であると考えました。今のわたしから見ると、半分正しくて、半分違っている。なぜなら大国というのは、石見国としての大国村(訪問当時は、仁摩町)で、その大国は出雲でなく石見である。だから、その「大洲おおくに」は、今は石見であると言い換えることは出来る。そうすると出雲は、依然として全くない。まったく無いのが他の方法で説明できればよいが、それはない。それが一つです。
今あなたが言われたように、最初出雲で奥さんを探してまったくいなかったと考えるのが、それは順序として当然のことです。ただその場合、出雲が大八島に入っているという解釈も可能である。その解釈の場合、七種類の国生み神話の中で出雲が一つぐらいなければならない。ただその場合一つだけでなく、「筑紫」と「出雲」の関係から「筑紫」が全部出ているのに、出雲も全部出てきて欲しい。それがないのがおかしかった。ただ出雲で奥さんを探した話もあると思う。
 これも同じ話を何回もしますが、大国主を探して島根県に行きました。わたしが古代史をやり始めて間もない頃です。三十年ほど前ですが、島根県へ行きました。島根県は、ご存じのように東三分の二ぐらいが出雲で、西の三分の一が石見の国です。その石見の国でも出雲よりのところに大国村がありました(訪問当時は、仁摩町)。わたしは、ここが目見当ですが、大国主となにか関わりがあるのではないか。大国主というのは、字面どおり「大国」という場所の主人と名乗っています。島根県を調べましても、他に「大国」というところはありません。周りを調べましても、ここにしか「大国」というところはありませんから、大国村が大国主の名前と関わりがあるのではないか。そのように想像しました。想像そのものはいくらでも出来ますが、やはり現地に行ってみなければならない。そのように考えて妻と一緒に大国村へ行きました。そこには旅館が一軒しかなかった。その村の旧家の方が、旅館というか、人を泊める生業を営んでおられた。すばらしい建物の家でした。そこで夕食の時、お聞きしました。
「この土地の古い謂れを、ご存じの方をご紹介いただけないでしょうか。」とお聞きしました。そうすると御主人の奥さんが「おばあさんが良く知っております。」と言われましたので、お願いいたしました。品の良いおばあさんが、階段から下りてこられました。
 わたしが、「大国主命について、お話が何か残っていないでしょうか。」と、お聞きしました。そうすると「その方はわたしの家でお泊めした方でございます。」と、おばあさんが答えられました。わたしは、本当にそうか、訝りました。
 その人がさらに言われたのは、「その方は賊に追われて逃げてこられ、私の家でお匿い申したことがございます。」と答えられ、いよいよ、これは大丈夫なのかな、勘が狂ったのではないかと思いました。
 それで、さらにこの村の郷土史に詳しい方をご紹介いただいて、お会いしました。しっかりした感じのおじいさんが居られました。わたしは、さらに大国主命についてご存じのことはありませんかと、同じことをお聞きしました。
 ですが、その方の言われることには、「あの方には、私どもはたいへん迷惑致しました。あの方は、たいへん女好きな方です。あちこちの女を、自分のものにしては、それを拠点にして勢力を広げる。そういうことを繰り返し、繰り返し行った、たいへんお上手な方です。われわれ村の者は、たいへん迷惑いたしました。」
と言われました。これで二人の方に同じようなことを、お聞きしました。
 また近くの洞穴に案内していただき、そこに大国主命が住んで居られたと言われました。わたしも行って入り口の写真を取りました。洞穴には、マムシが出るというので入りませんでしたが。
 さらに私が「大国主は、この村の方ですか」と尋ねると、「いえ、いえ!この村の方では決してございません。よそから、お見えになった方でございます。」と答えられ、とんでもないことを言う、そのような応答だった。再度、「よそと言われるが、どこですか。」と尋ねると、「それは、どこから来られたか分かりませんが、村の方では決してございません。」と、そこだけ念を押す奇妙な問答をかわした。
 今お話ししたのは、聞き取った話の、エキスの部分です。それでわたしが感じとったのは、どうもこの村の人にとっては、大国主は非常にリアルな存在である。しかもお聞きのように、たいへん誇りにするというよりも、たいへん迷惑至極な存在としてとらえられている。そういうイメージである。どうもそのような人物だった。
 聞いていて、まるで戦国時代やり手だった若い頃の秀吉の話を思い浮かべながら、大国主の話を聞いていた。明治は遠くなりにけり。それはとんでもない話だ。弥生はいまだに生きている。その村の人にとっては、弥生はまだ近いのです。
 その話を聞いて、わたしは大国主は実在の人物で記憶が残っている。そのように感じた。そのようなわけですから、大国主は、出雲以外の大八島で女漁りをしたことは、石見の現地伝承で証明されている。出雲・大八島の女漁りが済んで、さらに大八島の外に女を求めた。そういうことでございます。

(質問四)
 間違いかも知れませんが「・・・鎮将劉仁願、熊津都督府・・・筑紫都督府・・・」の一説について、わたしは、以前このように考えておりました。「熊津ゆうしん都督府」とか「筑紫都督府」というものは、占領した唐が現地を支配するために設置した政府・役所のことではないかと考えて読んでいたのですが。ですが「都督府」がもともとあったものなら、「筑紫都督府」とは言わずにたとえば「倭国都督府」と言ったと思うのですが。「筑紫都督府」というのは唐の側から見て、言う時に付ける名称ではないのか。先生のお話を、このように理解したのですが。

 (回答)
 その通りです。まず「筑紫都督府」と「都督府」は分けて考えたほうがよい。「都督府」は、中国が任命した都督がいるところが都督府です。中国南朝を中心にする下部官庁です。ところが「筑紫」は、あくまでも実在の地名ですから「筑紫都督府」は南朝が任命したものではない。倭国側には「都督府」だけです。「筑紫」も「倭国」もいらない。他方、現地は都督府だけです。「筑紫都府楼跡」とか「倭国都府楼跡」とか言っていません。言わないのが当り前です。ですから「筑紫都督府」という言い方をしているのは、あくまでも中国側、より正確には百済側の文章なのです。ですから「筑紫」が必要なのです。ですが倭国の「都督府」ではない。もう倭国は実質的には滅ぼした。都督府はその時点では存在しない。ですが地理的には筑紫ですから。
(だから強いて言えば「筑紫にあった都督府」という意味で、言葉を使っている。)
 これを北朝側、唐の設置した「都督府」と考えて都合の悪いことがある。なぜなら北朝側の歴史書に出た来なければならない。「熊津都督府」は唐の歴史書に出てきます。これは良いけれども「筑紫都督府」は、歴史書に出てこない。出てこないけれども、ひそかに唐は任命した。これは禁じ手です。都督府のあるのは、やはり『宋書』倭国伝の都督府しかない。
 これはいろいろ悩んだ時期があるので、ご質問の意味は良く分かります。このように考えております。

(質問五)
 国生み神話についてうかがいます。まず淡路洲(あわじしま)。「淡路島」という名前は、これは京・大阪から阿波に渡る道すがらの島という名前の気がします。阿波の人にして見れば「淡路島」ではなくて「京路島」と言う気がします。淡路島の人は「淡路島」とは言わない。阿波へ行く道ですから。「淡路あわじ」という名前は、九州ではなくて近畿で付けた気がする。
 なぜ(国生み神話に)最初にかならず「淡路洲」が出てくるのか。阿波の国がないのに、なぜ淡路が出てくるのか。これが不思議なのです。阿波の国が出来てから「淡路洲」が生まれるのなら分かりますが。「淡路洲」が出来てから阿波の国が生まれる。なぜ「淡路洲あわじしま」なのか。以前から気になっていたのですが。

(回答)
 たいへん良い質問をいただきました。昨日新しい発見がありましたテーマです。ですがすこし唐突で、今話せば皆さん混乱されると思うので、話そうか迷っていました。ですが質問が出たからには話します。
 要するに淡路(あわじ)は、わたしもそうなのですが、漢字に引きずられて阿波への路すがらと考えてしまう。漢字は当て字です。これも上岡さんと一緒にお造りした本『「姨おば捨伝説」はなかった』(新風書房)に載っていますが、神様のことを「チ」と言います。手名椎(てなづち)、足名椎(あしなづち)、八岐大蛇(やまたのおろち)。これらの「チ」はすべて神様です。それでわたしは、ウラジオストックまで行ったのですが。とにかく「チ」は古い段階の神様の表現なのです。ですから「アワヂ」の「ア」は接頭語、「ワ」は祭りの場を表す。祭祀の場に居られる神様が「アワヂ」なのです。
 それでわたしが悩んでいたのは、『古事記』の「淡道之穗之狹別あわぢのほのさわけ」です。その「穗之狹別ほのさわけ」について考えていて、淡路島が見える小豆島出身の水野さんに「穗」はどちら側だろうか。淡路島の神戸・明石側なのか、それとも四国側なのかとお聞きしたことがございます。水野さんからは、分からないとお答えを頂きました。
 考えてみると、わたしの疑問は両方とも間違っていました。「穗之狹別ほのさわけ」の「穗」は秀でたという意味です。「サ」は接頭語ではないか。「ワ」は、先ほどと同じ祭祀の場。「ケ」、これもまた神様。「タワケ」とか「オバケ」の「ケ」は、神様を意味する言葉です。
 ですから漢字の「淡道之穗之狹別」は当て字です。一番古い最初の層が「ヂ」を神様とする「アワヂ」となっている。それが次の段階で、「ケ」を神様と考える第二層が付け加えられて「ホノサワケ」と言っています。
 だれが言ったか。とうぜん瀬戸内海の海底の人々。(笑い)なぜかと言いますと瀬戸大橋を造るときに大発見があった。それは香川県からでるサヌカイト。瀬戸内海、岡山から高松へ渡る橋が、最初に出来ました。その橋桁の下を掘ったら、旧石器時代のサヌカイトを削った石器がつぎつぎ出てきました。この橋は二階建の橋ですから、橋桁を深く掘らなければならない。そうしますと旧石器層にぶつかった。橋が完成した直後に資料館に行きますと、その時は二十万点近く出ていました。そして 「もう五十万点を超えており、おそらく百万点ぐらいにはなるでしょう。」と香川県の資料館の館長さんに言われました。高松への終着点の一つ手前の坂出、橋のそばにシックでスマートな資料館がありました。そこの館長さんにお会いして、お聞きしました。
 「だれが使ったのですか。」そうお聞きすると、「今の海底の人々が使ったのではないでしょうか」とお答えになりました。つまり旧石器の時代には、今の瀬戸内海は海ではなかった。もちろん池や湖はあったでしょうが陸地だった。そこは旧石器時代の人々が住んでいた。国(洲)があった。もちろんこれは館長さん一人の見解ではなくて、アルバイトを含めて頑張っておられた五十人以上いた発掘された方全体の共同の結論です。毎月一度会議を開いて、何年も発掘した結果、そのような結論に達した。それはそうでしょう。あのような何点かの橋げたの下に居た人々だけが使った。そういうことはありえないでしょうから、海底の人々が使ったという考えが一番自然なのです。今は海底になっているが当時は陸地であり、そこに住んでいた人々、旧石器の人々がサヌカイトを使ったと考えるのが自然なのです。
 その人たちは石器だけ作って、神様には関心はなかったのか。無神論者たちだったのか。そんなことはないと思う。 かれらにとっては石器も大事だが、石器以上に大事だったのは神様であった。このように考えても間違いではない。すると当時の人々がいたら、今は島と言っていますが、当時の瀬戸内海の底に居た人々から見れば、そこは屋島のような平らな山や山裾です。しかも東で太陽が出るところです。そこを神のいた場所と見たのが「淡道之穗之狹別あわじのほのさわけ」です。これは、旧石器・縄文の呼び名ではないか。そのことに昨日気が付きました。よくぞ聞いて頂いた。
 それで途中の話は、書いたことがございます。金属器、矛(ほこ)や戈(か)が出てくる。博多湾の能古島(のこのしま)中心の話として出てくる。ところが金属器が出てこない話が、一つだけある。

岩波古典文学体系
『日本書紀』巻一第四段一書第十
 陰神(めがみ)先ず唱えて曰く、「妍哉あなにゑや、可愛少男えおとこを」とのたまふ。便(すなわ)ち陽神(おがみ)の手を握(と)りて、遂に為夫婦(みとのまぐはひ)して淡路洲を生む。次に蛭児(ひるこ)

 陰神(めがみ)が、「あなにゑや、えおとこを」と言い、陽神(おがみ)の手を取って、為夫婦(みとのまぐはひ)をして、淡路洲を生み、次に蛭児(ひるこ)を生んだ。蛭児は太陽の神です。ここでは、女が先に言ったから失敗したのだ。そういう変な話ではない。女がリードして大成功。淡路という素晴らしい神様の島が生まれ、蛭児という太陽の神が生まれた。「ヒル」は、昼間の意味。「ヒルコ」「ヒルメ」は太陽の神様。この神話には、金属器がない。間違いなく、縄文・旧石器の神話です。

 ですから博多湾中心の話の前に、その以前に淡路洲中心の神話があった。その淡路島中心の神話をもとにして、博多湾中心の話に仕立て直した。これは何回か言ったことです。
 今日のお話はその淡路島中心の神話の、一段階古い神話が『古事記』の「淡道之穗之狹別あわぢのほのさわけ」。これは「淡路洲」が、まさしく太陽の輝く神聖な洲であった。その段階の古い神話である。
 よくぞ上岡さんが聞いていただいて、ありがとうございました。
(『古代に真実を求めて』明石書店 第六集、<講演記録>神話実験と倭人伝の全貌 参照。)


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釈迦三尊の光背銘に、聖徳太子はいなかった

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