タクラマカン砂漠の幻の海 -- 変わるシルクロード北村泰一 へ
古田武彦の古代史再発見 第3回 独創古代 ー未来への視点 二つの三笠山
『「邪馬台国」はなかった』 補章 二十余年の応答 待望の先例『穆天子伝』
すべての歴史学者に捧ぐ -- 政・宗*・満の法則 へ
『真実の東北王朝』 へ
地球物理学と古代史
北村泰一
古田武彦
コーディネイター/上村正康
録音/鬼塚敬二郎
写真/灰塚照明
記録・構成/兼川晋
古田
今日はインタビュアーのつもりで参りました。九州での七月の講演会の後で初めてお会いしまして、正直なところ、なぜ今までお会いできなかったんだろう、と残念に思うくらいの気持ちで、非常に新鮮なお話は、私なんか、もっと聞きたい、もっと話したい、という感じでございました。『新・古代学』に対談の企画があると聞きまして、これはもう、是非、お願いしたいと、早速、伺ったようなわけでございます。そこでまず、お尋ねしたいのが、地球物理学を専門の分野としてお始めになったのには、青年時代、さらには少年時代、どのような精神史の閲歴がおありになったんでしょうか、ざっくばらんにお聞かせ願いたいと思います。
北村
僕が、今、なぜ、地球物理学か、古代史か、といわれると非常に何ですが、僕は昔からとっても探検が好きでした。これはね、僕は京都で生まれましたが、南禅寺をご存じでしょうか。東山、あの辺で僕は育ちましたので、あの東山に登れば向こうに何があるだろうかというのが、子供の頃の大変な興味でした。ある時、登りましたら、東山の向こうに町が見えるんですね。それが山科だったんです。山科は、子供心に、電車に乗って行く遠い遠いところと思っていたんですが、それが自分のうちの庭から裏山に登って、見下ろしてみたらそこにある。初めて地図が頭の中にできたという、小学校の四年生くらいの思い出です。それ以来、何かごそごそするのが好きで、地球物理学も、古代史も、いずれも山の彼方にある、霧やモヤの中にあって、それを一枚ずつ剥いで行く、という意味で、私の興味にはぴったりなんです。本当は宇宙の彼方の天文学をやりたかった時期もあるんですけど、学生の頃、それでは食えんぞといわれ、それでは地質学をやろうかなという気持ちの中間点をとって地球物理学。ずっと京都にいまして、福岡にきたのが二十年とちょっと前ですけど、ここは古代史で日本文化の発祥地というか、それで、日本の古代史にも興味を持ったというようなわけです。ま、結局、共通のキーワードは、いずれも山の彼方にある、というようなことですね。
古田
なるほど。なかなかロマンチックなお話ですが、よくわかります。ほんとに、私も前に、難波収さんという東大の宇宙物理を出られた方で、今オランダにいらっしゃるんですが、この方が私の本を読んでくださって、何ですねえ、この『新・古代学』の第一集にもお書きいただいたんですが、この方が初めてお会いしたときに、天文学は古代史によく似てますよとおっしゃられましてね。私なんか、どこが似ているんだろうと思いましたが、たとえば星なら星ですね、これがどういう動きをしていたかということを、計算上じゃわかっているんだけれども、これもずいぶん昔の話ですから、現在、本当にそうであったかどうかはわからないわけですよね。そういう、すでに過ぎてしまったことでよくわからないものを、観測や何かを通じてですね、推定想像していくという学問、それが宇宙物理学ですから、その点、古代史も、すでに過ぎ去ってよくわからないものを文献とか伝承とかを通じて推定想像していく。そうするとお互いに共通するところを持っていることになりますよといわれましてね、私もびっくりしたことがありますが・・・・。そうですか。
古田
それでその、今の、探検がお好きだというお話に関連してですが、国内はもちろん、海外にも行かれて、特に印象に残ったようなエピソードがございましたらお聞かせください。
北村
そうですね。古田さんもご存じのように、僕らの学生時代は、戦後で海外には出られませんでしたからね。それにもっと昔なら、国内にもまだ未知なところがあったでしょうが、それもない。だから、何とかして外国に行きたい。そこへ昭和三十年に南極の話が出て、これは行かねばならんと思ったのが僕の探検行動の始まりでした。学生の頃、僕らの仲間は山岳部でしたが、友達は皆、これからの人生を賭けて山に登るといいましてね。当然、高きを目指すわけです。八千まで行こう。当時、八千というのは夢のまた夢でしたからね。ある人は、それを垂直組といいました。もう一組は、地球上の水平を目指してどこまででも行こうという冒険野郎で、これが水平組です。僕は水平組になって、その後も海外にいろいろ行ったんですけど、去年、コンロンへという話がありましてね。遅まきながら垂直組の後を追いかけて、これが誤りでした。それで、水平で終わっておきゃいいのに、僕も六千五百メートルのコンロンの未踏峰を登ろうと思って、コンロンの麓まで行って五千でこんなになってしまいました。(先生は高山病の後遺症で今も言語障害がおありになる)
いろんな話がありますけど、今日は古代史の話ですから、一つね、これは質問をかねて古田先生にお尋ねしますが、奈良に三笠山ってあるでしょう。あれ、何で三笠というか。子供の頃、遠足に行ったときですがね、奈良の若草山(三笠山の別称)というのはわかる、若草が生えているんだろうと。しかし、三笠山というのは、何で三つの笠ですか。学校の先生に聞いても、そんなことは知らんとおっしゃる。それをね、この年になって、これはこういうことではないかと、自分なりの解釈をしていますが、こういう古い日誌をコピーしてきました。これは一九八三年、僕が初めて中国へ行って北京で会議があったんですが、会議が終わった後、僕だけが蘭州に行きたいといって、その途中で西安に降りたんです。当時はまだ日本人だけで旅行はできなかったんですが、通訳と一緒で、ちょうど秦の始皇帝の例の兵馬俑を発掘したときでした。そのとき、そこの食堂に掛け軸がかけてあって、僕がそれを声を出して読んでいたら、これは通訳の中国人ですけど、それは違うといい出したんです。首を翻して東天を望む、云々の詩の中に三笠という字があり、三笠山頂の上と読めるんですが、それは違うと中国人がいう。(1)
古田
はいはい。その軸は私も見た記憶があります。
北村
それは何年ぐらいでしたか。
古田
いや、それは何年だったか・・・・。中国は十何回か行ってますので、ちょっと、その中のいつだったか、覚えていませんが。
北村
当時まだ、写真を撮るという知恵がなかったので、記憶だけで日記に書いて、それを今日、コピーしてきたんですが。これをね、問題は「之」という字なんですが、つづけて書くと「三」に見えるんです。
古田
ほうほう。
北村
その下の「笠」はハッキリ笠なんですよ。それで僕が手帳に「三笠山頂」と書いたら、通訳が「それは違います、笠は略字です」と。西安に驪山というのがあるでしょう、京都でいえば吉田山のような。楊貴妃と玄宗皇帝の恋の物語があったり、蒋介石が逃げ込んだりした、いろんな歴史的に有名な、西安といえば驪山というくらい有名な山ですが、これを略字で書いたら「笠山」と、こういう風になるというんです。(2)
古田
これは驚いた。そうですか。
北村
それで僕は、阿部仲麻呂は、西安におって東の方を眺めたら、そこに驪山があった。驪山に月が出た。それを見て仲麻呂は自分のふるさとを思い出し、奈良の驪山に思いを馳せたのかな、と思ったのですがね。僕の海外旅行で日本の古代史に関係があるというのは、このぐらいのことで、後は、スられたり、身ぐるみ剥がれたり・・・・。
古田
身ぐるみ剥がれたりって、強盗にですか?
北村
ええ。どうぞ皆さんも、ブラジルにお出でになるときは注意なさって。まるで誘導装置のついたミサイルみたいにね、ブラジルに着いたそのときから、ずっと付いてきますからね。だから、逃れっこはないんですよ、女房が友人の九大農学部の先生の奥さんにその話をしてたらね、その後その先生がやはりブラジルに行ったとき、韓国人が日本人に間違えられて襲われ、ホテルに裸足で帰ってきたそうです。そのように日本人と見たら狙われます。危ないですよ。
古田
はあー。
北村
今度も、向こうの友達が、こいこいといってきてるんですが、前、こんなことがあったから、どうも、というと、こんどは僕が護ってやるから大丈夫といってきましたがね。(笑い)
北村
赤道は、南極とか北極と同じように、地球磁場の上で一つの地球の特異点であるので、赤道を訪れることは僕らにとってはおまんまのアレなんです。しかし、赤道は蛭がおったり蛇がおったりして、みんな行きたがらないんですよ。僕も南極、北極から始めましたが、多くの人が南極へゆきはじめたので、南米とかアフリカとかへ転進しました。変なとこばっかり行ったものです。(北村先生は第一次〈一九五七〉、第三次〈一九五九〉の南極越冬隊員だった)
古田
エクアドルにもいらっしゃいましたか。
北村
ペルーとの境まではいきましたが、中までは行っていません。極地ではオーロラなんかが見えますが、それと同じものが赤道付近でも見ることができます。古代史の観点でいいますと、ブラジルよりペルー。ペルーよりやはり中国が一番おもしろいですね。
古田
そうですか。先ほどの三笠山の問題では、私もおもしろい経験をいたしましてね、高等学校の国語の時間にこの歌が出てきまして。というのが、昭和二十三年から六年間、教師をしましたが、長野県の松本深志高校というところで、質問がいろいろ出ていじめられるわけですよ、新米教師ですから。それで、生徒が、例の「天の原ふりさけ見れば春日なる」というねえ、あれを聞くわけですよ。「三笠の山に出し月かも」というのは、仲麻呂は西を向いて座っとったんか。なんでや、というと、あれは話では仲麻呂が帰るとき、どこか海岸近くで宴を開いて詠んだことになっていますねえ。だから、ふりさけ見れば月が見えたということは、西を向いとったんか。それはまあ、そういうことになるなあ、というと、また別の生徒が、東を振り返ると日本は見えたんか。それは見えんだろう。するとまた別の生徒が、春日ちゅうのは中国でそれほど有名なんか。何のこっちゃ、というと、大和なるというんならわかるけど、春日なるというても中国ではわからんのじゃないか、とねえ。いわれてみるとその通りなんですよ。ですから、その場は降参したんですが、これは二十代前半のことなんです。
その後、古代史をやるようになり、何度も九州に足を運んでみると、おや、ここにも三笠山がある。それから、船に乗って対馬に行くときに壱岐の北東の端っこのほうを通りましたら、天の原がある。考古学のほうでは有名で、弥生の銅矛が三本出た遺跡のあるところです。そこが天の原、あるいは天ヶ原というのかも知れませんが、とにかく、天原遺跡。それで、要するに遣唐使が壱岐の東海岸を北上して天の原の沖から振り返ると、九州の春日があるわけですよ、今、春日市ですが。それで「三笠の山」、「出し月かも」。「出し月かも」といういい方は、何ですねえ、そのとき月が出たというより、昨日の晩、春日で泊まった。そのとき当然、月は三笠山から出るわけですね、それで昨日の晩、三笠の山から出た月、あれが、今、振り返ってみると、そこに見えているあの月だ、と。
北村
なるほどねえ。奈良の三笠ではない・・・・。
古田
そうそうそうそう。あのときは、生徒が新米の教師をいじめてやろうと思っていったことでしょうが、私も困って、職員室に帰ってから国語の先輩の石上先生という方に聞くと、先輩も困って、そんなことを聞かれてもねえ、とおっしゃるばかりでした。
北村
すると、あの歌は、阿倍仲麻呂が唐から帰るときではなく、唐へ行くときに・・・・。
古田
そうです。そうすると、なんもかも、一遍に解決してしまうんです。それをわれわれは近畿の土地勘と教養で解釈し、習い、教えられていたから、いちいち聞かれるとわからなくなってしまう。矛盾だらけになるのは、大和の三笠山と考えるからです。(またさらにこれは仲麻呂自身の作った歌ではなく、九州の春日の人が作った歌を仲麻呂が聞き知って「歌った」というケースが考えられます。 ーー後記)
北村
それは、本居宣長以来の解釈で、明治以後も、誰も疑わなかったわけですね。(笑い)
古田
もちろん、これは断言はできませんけれども、そういうことで、私は非常に勉強になったことがあります。それで、私は例の仲麻呂の西安の漢詩も見た覚えがあるんですが、そのときは、すっかり三笠山と思い込んで読んでいましたので、これは近畿の解釈で中国語に訳されているなと考えたんです。しかし、今のはまた、おもしろいですね、笠山は驪山であるという、中国側の新解釈ですね。
北村
そうでしょう。僕もびっくりしました。
古田
しかし、三笠山と読んだ場合は、近畿よりも九州のほうが自然な解釈ができるんですよ。御笠山からは御笠川が流れていますし、ワンセットです。しかし、近畿の三笠山には三笠川は流れていません。これから先は私の推定ですが、おそらく笠というのは、サは宇佐とか土佐とかいう地形を表わす語尾で、カというのは神様のカ、神とか加茂とかいう神聖なことを表わす接頭語、ですからカサというのは、たださえ神聖な土地を表わすところへ、ミという尊敬を表わす接頭語までつけて、ミカサという言葉ができている。それでその、川の名前は大抵、中流の地名がつけられていますが、ミカサを流れるから御笠川、ミカサの上のほうにあるから御笠山、そう考えると非常にナチュラルなんですよ。
北村
それにしても、奈良の三笠山は変ですね。三笠山と若草山と、一つ山なのに名前が二つある。なぜなんでしょう。
古田
おそらく九州のほうはそう思っておられると思うんですが、九州から近畿に移動するじゃありませんか。そうすると、むかし、馴染んでいた名前を新しい土地につける。よくあるじゃありませんか。福岡もそうでしたねえ、岡山の福岡を、こっちに持ってきてつけた。そうすると、案外、三笠山も、九州から行った人たちがつけたのかも知れません。
北村
そういう語源の研究をしている方は何人もおられますが、僕の聞いた範囲ではね、なぜ三笠山というのかという問いに答えられた先生はいないんです。で、やっぱり、これはわからんのかなと思っているんですけど、ま、そんなことでね、これを奈良の驪山と読む中国人がいたのには驚きました。確かに、達筆で書くと、「之」は「三」に見えますよ。
古田
そうですね。確かに、日本人であんな碑を建ててもらっているのは仲麻呂一人ですからね。
北村
あそこ(西安の博物館)には、阿倍仲麻呂のコーナーがありますよね。
古田
はいはい。
北村
後で、友達があそこに行くというので、日本人と見たら売りつける書があるから買ってきてくれとたのんだら、結局、買ってきたくれたのは、これじゃないんですよ。これは、西安で誰かが作った詩でしょうねえ。ここに何か書いてありますが。(3)
古田
そうですね。阿倍仲麻呂が長安で書いた詩や文章が出てきたら、おもしろいんですが、墓の中に、何かありそうですがね。私の場合も、阿倍仲麻呂という人は、何か歴史理解のキーポイントを出してくれている人だと思います。といいますのは『旧唐書』、あそこで倭国と日本国と、二つに分けて書かれている。地形も別々のように述べられていますね。そして倭国は志賀島の金印以来の国であると、それに対して日本は倭国の別種であると、明確に両者の関係が描かれています。そして倭国は小さな島で海に囲まれている。日本国のほうは西と南が海になっている、東と北は大山が限りをなしていると。だから、どうも日本アルプスより西のほうを日本国といっているようなんですね。それで則天武后が初めて日本を認証したと書かれています。ですから、その記事を読む限りにおいて、中国がいわゆる倭国だと考えてきたのは九州の国であると、そして『隋書』にも阿蘇山ありと書いてありますしね。それを読むと、九州の倭国が元々の本家であって、日本国はその分家だったようにしか読めないのですよ。そして、それが誰の情報によっているかというと、阿倍仲麻呂が遣唐使として大きく紹介されています。
北村
「倭国」ではなく、日本国の遣唐使として。
古田
そうそう、日本国の遣唐使として中国に渡り、長安にとどまること五十年、その官職名もちゃんと書かれています。ベトナムの大使にもなっている。そうすると、中国に渡った日本人の中で、一番特筆大書しているのは阿倍仲麻呂であって、彼は七世紀の日本列島に生まれ、つまり倭国の時代に生まれて日本国の時代に遣唐使に選ばれ、しかもその後の五十年は中国の高級官僚として現地で過ごした。倭国、日本国に関する情報の提供者としては、これ以上の人はないくらいです。そうすると、倭国と日本国に関する記録は、彼の認証を得たものと考えてもいいでしょうし、そのようなわけで『旧唐書』の記事を信用すれば、明治以来教えてきた従来の日本の歴史観は一変せざるを得ない。そういうことは私は述べつづけているんですが、日本の学者はそれについて賛成も反対もいってくれません。ところが、中国の北京大学に行きましたところ、そこの日本語学科の助教授(日本の教授に当たる)の潘金生さんが、向こうはあの、これが私の意見とまったく一致したわけです。その方は、私が日本人だとわかると質問をしはじめ、今私がした話を向こうからされました。私が、いや、その通りですよといいますと、たいそう喜んで握手を求められました。
北村
われわれが知らない文献が、向こうにはまだまだあるんじゃないですか。とにかく、それは大賛成で、あるとき、倭国と日本が突然、替わるんで、それが前から二つあったとするとよくわかる。それによく似た話が中国の楼蘭にあるんですよ。
古田
そうですか。
北村
あのね、昔は全部、楼蘭といっていたのが、これがいつの間にかなくなってしまって、その次に善*善国というのが『漢書』から出てきます。この善*善は、いにしえの楼蘭なりと、みんなそう書いてありますが、あそこにはロプノール湖というのがあって、楼蘭はその北で、善*善はその南です。いつか、これの標高を測りたいと思っておりますが、これは僕のタクラマカンは湖であったという話にも関係しますからね、だから楼蘭が滅びて善*善ができたのであって、そういう状況証拠はいくつもあるのです。この話は、倭国が滅びて日本ができたという話に似ているでしょう。二つか、一つか。二つと考えるほうがわかりやすい。倭国はいにしえの日本ではないのですよ。
古田
本当にそうですねえ。中国は昔から、そうした周囲の国々の興亡の姿を記録するノウハウを持っていたと、そういうことですね。
古田
ところで、どうなりましたか。その後、例のロマンチックな湖の話は
北村
これは、それを何とか地球物理学的に裏付けしようと、最近一つわかったことは、少し話が飛びすぎて理解がむずかしいかも知れませんが、昔のシルクロードは今のシルクロードとは違うということです。なぜかといいますと、マルコポーロは素人ですよ、探検家ではありません。昔のシルクロードは商人が家族連れで通っていきました。今は通れません。昔は通りやすかったとすれば、あちこちに木があって、木陰があって休める、水がある。その水が、この二十年くらいに限って比べてみても、少なくなった。昔はもっとあった、というている人が何人もいるんですよ。結局、これは地球環境の変化ということに帰着するんですが、地球環境というものは人間の文明活動によって破壊されるだけではありません。それより、地球そのものの歴史の中で、氷河期が終わってからだけでも、環境は大変化しています。そのスライドを持ってきましたから、ちょっと、それを見てみましょう(と、スライドが始まる)。

北村
これは、海面が上がったり下がったりするのを何万年にもわたって表にしたものですが、この二万年前を見ると、津軽海峡に水がなかった、人が歩いて渡れたということがわかります。一万七千年前には対馬海峡が歩いて渡れました。関門海峡は七〜八千年前まで歩いて渡れました。(北村論文図3参照、インターネット上は上図)地球は四十六億年の歴史があるといわれていますが、恐竜が絶滅したのが六千五百万年前、それ以後の新生代を二つに分けて、二百万年か三百万年前までを第四紀、それ以前を第三紀といっているんですが、われわれの興味はこの第四紀にあります。第四紀の特色は氷河期があったりなかったりすることで、これはヨーロッパの学者がいったことですが、四つほど有名な氷河期があり、最後の氷河期は二万年くらい前に終わっています。そのころ、地球が暖かくなって氷が溶け始め、今まで穴にはいっていた人間がごそごそ出てきて文明を作り出したという話ですが、一万年前というのはついこの間のことです。秦の始皇帝は二千年と少し前ですが、そのころには、まだ氷河期の影響が相当残っていたと考えられます。今からお見せしますが、ゴビの砂漠だって、タクラマカンの砂漠だって、あれは氷河期の大氷河に含まれていた泥と砂礫の残りではないかと僕は思うのです。その証拠もあります。
とにかく、こういう図もあるんですよ。われわれの先祖の猿人というのは、二千万年も三千万年も前だったといわれているでしょう。ですが、直接の先祖である新人類、クロマニオン人は、三万年前、五万年前といっていたのが、つい先日、七万年前までさかのぼれるということでしたね。また新しい発見があると、十万年前ということになるかも知れません。
これからは、南極の写真です。これは雪が積み重なって氷になっているところで、これを縦に掘り出すと、三十万年、四十万年前のことがわかるということです。そのとき、そのときの雪の間に閉じこめられた酸素の同位体を調べると、普通、酸素は水素の十六倍といわれていますが、中には十八倍というのがあるんですね。その二つの酸素が存在する割合が、温度によるものですから、逆にその割合がわかれば、そのときの温度がわかるという理屈です。簡単にいうと、そのときの空気の化石を探せばいいということです。南極の氷は、ちょっと不透明ですが、それは雪の結晶の間にあった微量の空気が、何気圧もの力で圧縮されているからで、オンザロックなんかにすると、ピチッ、ピチッと鳴くという話もありますね。
次は、こっち側が酸素18の割合です。そして年代は、これが十一万五千年前、これが一万五千年前です。そうするとね、この表からわかる地球の温度の寒冷化、温暖化が、前の地球の海水面の上下と相関していることがよくわかります。秦の始皇帝は二千三百年ほど前ですから、この辺です。このころ、秦の将軍・蒙恬が兵三十万を率いて北の凶奴を撃ったといいますが、今の砂漠のような状態で、どうして三十万の兵が動かせるでしょうか。それが、動かせたということは、そこに水があったということです。今の砂漠は、湖だった。その岸辺には、緑が生い茂っていた。
三十万の兵が現地で自給できるほど、というのが僕の結論ですが、とにかく、そんなわけで、『大唐西域記』を書いた僧玄奘が、唐の時代にシルクロードを通ってインドに勉強に行きましたね、そのとき玄奘が通った町が、今、砂漠の真ん中に残っています。玄奘は苦労してインドに行きましたが、砂漠の真ん中を通って行ったわけじゃない。今のシルクロードは自動車でないと走れませんが、昔の道は、とにかく、人の歩ける道だったと思います。そして、千五百年ごとに流れが変わるといわれた「さまよえる湖」も、昔は、氾濫して流れがさまようほど水があったということです。今はさまよいようもありませんけど。それで、また何百年かしたら、氷河期を迎えて、シルクロードは通りやすくなりますよ。
古田
ああ、そうですか。
北村
いやいや、そうなるかも知れない。それまでに、僕は、この口が治ったら、あの砂漠の中に船の残骸や貝殻を見つけて、昔、ここが湖であったことを証明したいと思ってますが、もう遅いかな。
古田
今、おいくつですか。
北村
六十四です。
古田
そりゃ、まだ大丈夫、大丈夫。(笑い)
古田
私も青海省、甘粛省に行ってきまして、そのときは中国の歴史書の『穆天子伝』という、周の五代目の穆王が西域の西王母に会いに行ったという記録があるんです。これは竹簡に漆で書かれたのが墓に埋められていたのを、西晋の時代に盗掘が縁になって発見されるんですね、それが時の朝廷に持ち込まれまして、大篆(てん)小篆で書かれていたものが、漢字に翻訳されて出版されているんです。
北村
それは日本で手に入りますか。
古田
いえ、これは中国の文庫本で、安いのがありますから、今度、送らせていただきます。それで、これが非常におもしろい本来の的確な資料であることがわかってきまして、周の都を出発した穆王は、西のほうへ向西回路を進んで行くんですが、それにいちいち里数が書いてありましていね。途中、青海で西王母の出迎えを受けるんです。その後、ふたたび向西回路に帰りまして、それから敦煌に入るわけです。その敦煌が、西王母の本来の根拠地であって、ここで本格的な歓迎を受けたようなんですが、残念ながら、ここの箇所が欠落してて無いんですね。これはもったいない話で、盗掘したときに、竹簡がぐじゃぐじゃ出てきたんで、夜中ですから、松明の代わりに燃やしたんですねえ。盗掘する人には、竹簡なんか用がないもんだから。ですが、前後の関係から見ると、どうも、敦煌が西王母に一番歓迎されたところらしい。
北村
そういう伝説は多いですよ。
古田
そうですか。ということで、『穆天子伝』のいいところはね、行きと帰りの方角と里程がいちいち書いてあることです。しかも、その書き方が『三国志』の「魏志倭人伝」と同じなのです。ご存じのように「倭人伝」には、魏使が女王国にくるまでの方角と里程がいちいち書いてありますね。あれと同じスタイルで。で、こっちのほうが、当然、古いわけですから、その書き方をお手本にして、「倭人伝」は書かれたと、こういう関係になってくるわけです。しかも、それが出てきたのは、西晋の初めですから、陳寿がそれをお手本にしたということは非常にわかりやすいわけです。私はそれまでに、中国は、北京だとか、西安だとか、河姆渡とか、新彊とか、行ったことはありますけど、それではということで、この実際のルートをたどってみようと、一昨年ですか、参ったわけです。そのときに、この、甘粛省の蘭州で、向こうの大学の学者たち十数人と半日、討論しました。そのあと、青海省の、ここは大学ではないんですが、社会科学院に三十人前後集まってくださいまして、一日中、討論しまして非常に有益な経験でございました。ありがたいことに、今年、甘粛省のほうから反応がございまして、論文と「甘粛日報」という新聞に載せた記事が送られてきました。
その記事には、古田武彦というのが、西王母と穆王が会ったのはこの辺だということで訪ねてきたと。ところが、その人は、私が直接、討論した人ではないんですね。間接的に、私のことを聞かれた方のようで、一部、私の論旨を誤解されたところがありまして、西王母は青海にいて、穆王とは一回だけ会ったと私が考えているようだ。しかし、実はそうではないんだ、敦煌なんだというね。その確証がわれわれにはたくさんあるんだ、敦煌から西安にいたる河西回廊の線には、西王母、穆天子に関する伝承がたくさんある。それがその方の論文の主旨なんです。ですから、これは私のいいたいことの本筋そのものなんですよ。折角、反論をいただきましたが、これでは反論のしようがない。これもまあ、今度の本に、できれば報告したいと思ってはいますが、今、お聞きしますと、先生のほうのご研究でも、敦煌のあたりが中心的だったということのようですが、その辺は・・・
北村
今、敦煌は岩だらけ、砂だらけですが、昔は、あすこにね、木がいっぱいあったという、これが莫高窟の遠望ですよ。これが月牙山、今は砂山ですが、昔はここに木がいっぱいあって、もちろん、水は滔々と流れていたでしょう。流れではなく、湖だったかも知れない。西王母がこの辺に住んでおったという伝説は、中国人が確かに記録しているんですよ。それを日本人が訳していますけどね。だから僕の命題は、莫高窟を掘るのに、なぜこんな不便なところを選んだかということなんです。もう一つは、陽関です。「西の方、陽関を出れば故人なからん」というあの陽関が、なんであそこか。それに必然性はあるのか、ないのか。結局ね、陽関があって、敦煌があって、甘粛でしょう。陽関から先は海だった:・・・・。
古田
先というのは西ですか、東ですか。
北村
西です。その彼方に、楼蘭がある。
古田
ほおう、そりゃいいですねえ。
北村
その状況証拠はいくつかあってね、敦煌のちょっと手前(東北)に橋湾というところがあります。ここの博物館の中に杖があって、僕は見なかったんですが、通訳がいうには、手で持つところに仏さんがいっぱい彫ってある。その仏さんの下に海が彫ってあるというんですよ。そのときは、ただ聞き流しただけでしたけれども、今となってみれば、それは、昔、そこにあった海を描いたものではないかと思うようになりました。

こんな写真が出てきましたがね。これは橋湾にあった巨木の残骸です(北村論文写真7参照、上図)。当時は、水があり、土があり、道があった。清の康煕年間と書いてあるから、それはつい三百年ちょっと前のことです。そんなわけで、紀元前の陽関から先は海、湖。それなら、その先に陽関を作るわけにはいきませんから、陽関があそこにあるのは必然性があるわけです。そして、あの辺にあるたくさんの伝説も、もし、あの辺に海があったとしたならば、古田先生じゃないけれど、いっぺんにわかってしまうんですよ(笑い)。海の地名も多いです。それから、これは、僕の子供の時からの疑問ですけど、太宰府は、なぜ、あんな奥にあるのかという、これは、古田先生でなく、土地の方にお聞きしたいんですが。
灰塚
あの辺には、何々浦とか何々崎とかいう地名がたくさんあります。
北村
やっぱり。
灰塚
今は三笠川が流れていますが、博多湾はあの川に沿って、もっと太宰府の近くまで入っていたのではないかと思います。
北村
これはロードマップで、水に関係のある字のつく地名に赤い印を付けたものですが、真っ赤になるくらいです。私が福岡にきて、初めて住んだところが井尻というところで、この辺にある。市内では草ヶ江、荒江、片江、今いるところが名島。ですから、昔は、ここは本当に水がじゃぶじゃぶ、それが本当によくわかるんですけどね。当時、天智のころは、船がこの辺まできて、太宰府に行ってたんでしょうね。そんな考えは、すでに皆さん、あるんでしょうか(北村論文図5参照)。

灰塚
ございます。
北村
そうですか。僕はそれを考えたとき、しめしめと思ったんですがねえ(笑い)。それと同じことを、中国の地図でやると、この辺がタクラマカンですが、水に関係のある地名がこんなにあるんですよ(北村論文図8参照)。

古田
ほほう。
兼川
酒泉のセンも水に関係ありますね。
北村
そうそう。そのほか、何々湾とかね、何々河とかね。敦煌の近くに南湖という湖があるんですよ。今は小さな湖ですけど、伝承には、昔は大きな湖だったというのがあります。そして、この辺には塩が出るんですよ。すると、その湖は塩湖が考えられますね。そうでなければ、砂漠の中から、塩なんか出てくるわけがないんです。この辺が楼蘭ですが、北が楼蘭で、南が善*善。僕は、楼蘭が高いところにあるんじゃないかと思うんですよ。水が引いちゃうと、真っ先に楼蘭が滅んだ。井上靖が小説に書いた楼蘭の滅亡の本当の原因は、水ではないか。善*善は低いところにあるから、水が引いても、まだ水がある。それで、人々が楼蘭から善*善に移動した。地球物理学的根拠を出したいと思っているんですけどね。今は土地の高さが割合簡単に人工衛星を利用して測れるのです。
善*は、善に邑 (おおさと) 編。JIS第3水準ユニコード912F
北村
敦煌、酒泉、張掖、武威、蘭州・・・・、氷河時代は、この辺に大きな氷河が流れていて、これは武威で撮ってきたんですが、この石、丸いでしょう。よくわかりませんか。帰りに、もっとよく撮ろうと思っていて、倒れちゃったから撮れなかったが、これが丸いということは、氷河をごろごろ転がってきたからですよ。ゴビの砂漠については、人はいろんなことをいいますがね、石が丸いということはいわないんですよ。三角に尖っているのは風も考えられますが、丸いのは水です。砂漠の中で、そんなに水が流れていたかという人もあります。僕は前に、アメリカのウイスコンシンの付近のミネソタに行ったことがありますが、ミネソタはね、全然、山がないんですよ。行けども行けども丘ばかり。そこで、あるとき、ふと石を見たら、石が丸いじゃないですか。よそから運んできたのかと聞いたら、いや、それは昔からある。結局、それは、何万年も前に、カナダのほうから流れてくるウイスコンシン氷河が運んできたものでした。それ以外には、考えられない。
次のスライドは、もう三十年前になりますが、南極の「迷い子石」。この石とこの石は、全然、違うんですよ。それで、この石はどこからきたかというと、それは氷河が運んできたんですね。だから「迷い子石」。元々はヨーロッパのアルプスあたりで、アガシという学者が、これは氷河が運んできたものだ、という学説を唱えて有名になりましたが、それは今から百五十年も前のことです。この人は、地球の歴史の中に、初めて氷河期という考え方を取り入れた学者です。このスライドの中で横に人間がたっていますね。
古田
そうすると、あれですか、高さは二メートルくらいありますか。
北村
ええ。そのくらいあります。これは、ニューヨークのど真ん中の「迷い子石」です。これには氷河の擦痕があります。アメリカでは、氷河が北から流れていたことはハッキリしていますが、中国は、まだやる人がいないもんだから、わかっていません。それをやるのは、九大だ、とハッパをかけているんですがね。ロンドンの大英博物館で、エジプトの王様が、こんな大きな木の寝棺に入っていますが、アフリカの砂漠の国の王様が、どうしてそんなことができたか。ギリシャは今、岩だらけですが、エジプト文明が栄えたころは、どうだったか。アフリカも、ヨーロッパも、そういうことはヨーロッパの学者が全部説明してしまいました。まだ、研究が進んでいないのは中国だけです。あんなに古い文献がたくさんあるのに、ヨーロッパの学者は、漢字で書いてあるから苦手なんですね。ですから、中国の学者もさることながら、せっかく地球物理学のノウハウをもっているんですから、遅まきながら僕も古代史を勉強して、これは日本の学者がやらなければならないことと思っているんですよ。
ついでにこれもご覧ください。今の話は、わずか一万年前に地球の温度が昇りだして、中国の奥地の水が無くなってしまったということでしたが、それが本当かどうか、という証拠の写真です。僕は一九八六年にアフリカのチャドに行きました。これは一九七三年にナサの衛星が撮ったチャド湖の写真です。大きな湖です。四国ぐらいです。
次の写真は一九八六年、十三年しか経っていませんが、その違いをよく見て下さい(巻頭カラー図6、7参照、下図。)。

砂漠化がこんなに進んでいるんです。NHKの最近の番組では、この砂漠の中に捨てられた船の残骸があるそうです。たった十三年ですよ、だから、漢の時代にあった水が今無いのも当たり前の話です。僕はタクラマカンに船を探しにもう一度行ってみたい。地球の環境とは、かくも速やかに変わってしまうものなんです。
古田
もう一回見せて下さい(と、スライドを戻して、改めて見比べる)。
北村
不思議なことがありましてね。アフリカの原住民には、皆さん、それぞれにイメージがあるでしょう。ところが、行ってみると、鼻筋は通って、瞼は薄く、顔立ちがすごく立体的で、二十歳近くの娘さんを見たら惚れ惚れするくらい綺麗です。彼らがどこからきたかという問題は人類学的にも面白いでしょうが、古代史的には、どういう異民族との接触があったのでしょうか、アフリカの古代史も面白いと思います。
これはサワラ砂漠の真ん中から出てきた岩絵ですが、この辺に、昔は人間がいて、動物がいて、もちろん水があったわけです。今は砂漠の真ん中ですよ。それから、これは砂漠の中の峡谷ですよ。昔は水が流れていたのでしょう。水がこれだけ浸食するのに何万年かかったか知りませんけど、それほど長い間、水が流れていたということです。これはまた NASAの写真ですけど、ある種の電波を当てると、砂を通して、底の岩盤に反射して返ってくるんですね。そうすると、この砂漠の砂を何十メートルかはぐってみると、底には昔水に浸食された跡を残した岩盤があることになる。その姿は、今、私たちが見ている地球とはまるで違ったものに違いありません。本当に、今ある砂漠を、砂漠だ砂漠だと思い込んではいけません。
古田
目下、砂漠ですね。
北村
そう。目下、砂漠です。人間の百年というのは短すぎる。一万年くらいは生きないと地球の変化を見届けることはできません。スライドは以上です。ちょっと、話がずれてしまったかも知れませんが・・・・。
古田
いえ、いえ。

古田
さっきも、何ですねえ、伝承の中に歴史事実が残っているというお話があったんですが、それに関連してお伺いしたいと思うのは、日本の古代史料で、『古事記』『日本書紀』というような正史扱いされてきたものと違う文献に、やはり面白い問題があるんだという、何か独自のご研究でお気づきになったということもお聞きしましたが・・・。
北村
それは、中国は四千年というでしょう。チグリス・ユーフラテスは七千年。それなのに日本が二千年。これはおかしいと思うのですよ。それから、人類がアフリカで発生した、それがあちこちに散らばった、これもおかしいと思うのですよ。今は、その証拠がアフリカからしか出ていないかも知れないけれども、人類の伝播は、それも一部はあったろうが、ほぼ時期を同じくして、アフリカ以外にも人類の先祖は発生したのじゃないか。たとえば、これは『上記鈔訳』、うえつふみと読むらしいのですが、これが九大の図書館にあったんですよ。それを読むとね、結局、日本の歴史は二千年どころではないと。これは古田先生のほうがよくご存じでしょうが、頼朝の弟の大友能直という、間違っていたらおっしゃってください、あれは鎌倉時代でしたか、ここの豊後の国守になって、当時まだ残っていた伝承を集めて編纂したという本です。これには、『古事記』『日本書紀』にあること無いこと、いっぱい出ていて、その一つに、アマテラスからジンムまでの間に、ウガヤフキアエズ朝が七十三代あるというんですよ。それを計算すると、二千年どころではなくなる。こういうのがあることを知って、びっくりして、それが何十巻か、大分県の図書館にあると聞きましたが、まだ見ていません。いずれ、それを教科書にして、二千年より古い日本のことを勉強してみたいと思っています。それから、その隣に、『神皇紀』というのがあって、これは三輪義煕という人が書いたものらしいですが、これ見てたらね、これは『富士古文書』というのが富士浅間神社の開かずの蔵にあって、明治何年かに、その三輪某がそこに籠もって要約引き写したものらしいです。数年前にそれが再刊されたとき、何万円かするので僕は買えませんでしたが、先生はお持ちですか。
古田
ええ、僕のは写真版ですが。
北村
そうですか。それが『富士古文書』で、もう一冊が『東日流外三郡誌』というやつ、そのほかに『秀真伝ほつまつたえ』とか『物部文書』。『東日流外三郡誌』には、僕は思い出があります。小学校のときの質問ですが、昔、八幡太郎義家が阿倍貞任をやっつけたとき、その前に坂上田村麻呂が征伐にいったとき、そこに日本人はいたのですかと先生に聞いたら、そんなことはしらんといわれた。で、阿倍貞任て何者だろうと思っていたとき、『東日流外三郡誌』が出たので、あ、これはツボケ族だ、と思い、僕は僕なりに、東北の藤原は日本人だけれども、阿倍や、その前は、日本人というかアイヌ人というか縄文人というか、とにかく、九州から行ったのとは違う、と思うようになりましたね。まあ、その『東日流外三郡誌』と『上記』と『富士古文書』、それに正史の二つ。今、先生に教えてほしいと思っているのは、なぜ本居宣長が認めた『古事記』と、『日本書紀』だけが正史で、あとはみな「偽」といわれているのか、その理由を知りたい。
古田
私もこの前お会いしたとき、『上記』以下の古文書を非常に真剣に扱わねばならんという先生のお話を聞いて、びっくりしたんですが・・・・。
北村
三つのうちの『富士古文書』には傍証があってね、これに述べられている昔々のことが、地球物理学のそれと併せると、わかるんですよ。だから、「偽」ではないんではないか。そうすると、これも偽、これも偽といわれるのが、ちょっと怪しくなってくる。
古田
結局、考えますのに、明治維新以後ですね、薩長政権が新しい体制を作ったわけですが、そのときに本居宣長たちの国学、江戸時代には、それは在野の学問だったんですが、それを正式にオフィシァルな学問として採用したわけです。その結果、まあ、プラスの面もマイナスの面もありまして、プラスの面では、それまで民間の学問に過ぎなかったといいましょうか、そういう学問が大きく体制の中に取り入れられたと、しかし、マイナス面としては、天皇家の息のかかったといいますか、それ関係の文献以外はみな偽物だと、こういう雰囲気になってしまったことですね。これは、学者のほうが部分的な研究から、それを支持する発言をして参りまして、それが一般に受け入れられてきたと、簡単にいうとそういうことだと思うんです。
『上記』なんかについていいますと、「上記文字」というのもあるんですが、それで書かれた新興宗教が昭和の始めに流行りましてね、「天津教」という、これが上記文字と同じ文字で書かれているんです。これの内容が、また、すごいといいましょうか、アマテラスが書いたという文書とか、スサノオの書いた署名とか、ありましてね、そういうのが、当時の上層階級といいますか、華族がたとか大将とか中将とかいう軍人にまで、かなり信者を獲得していきました。それに対してね、これは一高の校長をしていた人ですが、狩野享吉が、長い反論を書きまして、天津教でいっている神代の文書はみな偽物であると、いうことを綿密に論証されたわけです。それを私が読んでみても、それはまったくその通りだと、思うんですね。だいたい、アマテラスの手紙なんて、あればそれは嬉しいけど、あるはずもないものですから。それはそれでよかったんですが、その論文の最後に、だから上記文字で書かれた『上記』なるものも偽物であると、わずか二、三行で結論されている。
私にすれば、そこは大分飛躍じゃないかと、天津教が上記文字を利用して偽の教典を作ったにしても、そのもとをなす上記文字で書かれた『上記』自身が偽物であるというためには、『上記』自身を研究してからでないといえないのではないか。これはおっしゃるように膨大な量の史料ですから、そんな天津教のそれを論証して、すぐ『上記』を偽物として片づけてしまったのは、日本の学界にとって残念だったなと思います。
北村
その片づけた人は:
古田
狩野享吉。一高の校長。阿倍能成の先生です。ですから、当時の秀才にとって影響力は大きな人でした。その後、山田孝雄(よしお)という独学で勉強された有名な国文学者ですが、この方が上記文字を扱って、これを神代文字というのはとんでもない誤りである、なぜならば、古代であるのに、甲類、乙類の別がない。これは、本居宣長のお弟子さんの石塚龍麿が最初にいい出したことです。明治以後は橋本進吉が上古の日本語の大きなテーマにされましたが、それが万葉にもあった甲類、乙類が、万葉より古い時代の文字に無いのはおかしいと、これもかなり長い論文を書かれたのです。私はこれを拝見して、いわれていることは皆本当だと思いますが、しかし、結論はやはり違っているのではないかと、なぜならば、これが神代文字であると誰がレッテルを貼ったか知りませんけど、これが第一間違っている。
上記文字が神代文字でないことは、わかり切ったことで、問題は『上記鈔訳』にもあるとおり、大友能直、これは北村さんと同じ京都の人でしょうが、豊後に赴任して、そこで古い伝承や見聞を記録するようにという命令を出したんですよね。その結果、その地方を中心とする非常に面白い話が収録されるわけです。一例をあげますと、『古事記』『日本書紀』には、星に関する神話がないんです。太陽、月については出てきますが。ところが、『上記』にはちゃんと出てきます。それから、中小路駿逸さんという追手門学院大学の先生がいらっしゃるんですが、この方が指摘しておられる海の神話ですね、大洋の神話が『古事記』『日本書紀』にはないと。これは島の中で生まれた伝記、伝承としては非常に不思議だといっておられる。ところがこれも『上記』にはあると、いうようなですね、これはほんの一例ですが、どうも、正史といわれるものの中にないものが、ナチュラルな感覚からいえば、無ければおかしいと思われるようなものが、正史でないとといわれるものの中から出てくる。もちろん、それには編纂者の主観も入るでしょうから、それが全部本当だとはいえませんけど、彼らが題材とした記録や伝承の中には、なかなか貴重なものがあるんじゃないかと、本当は私が一番研究したかったのは『上記』だったのです。
『富士古文書』も私、非常に関心を持ってましてねえ、富士山は、これはもう昔からあったはずで、あれだけの山が昔から信仰の対象にならなかったはずはないと、いうことを言い換えれば富士山に神様がいなかったはずはないということです。私は、あそこの浅間神社の神様が女神で木花咲耶姫、これがまた不思議な終わりを持つ伝承がありましてね。要するにこれは独身の女神なんですが、九人の男の家来を連れて天上に消えていったという話です。『古事記』にいわせれば、木花咲耶姫はニニギの奥さんです。そして弥生の女性ですが、こちらの話は、それよりもっと古い、縄文の女性でしょう。富士山の噴煙のように天上に消えて行くのですから。この伝承が全部本当だという保証はないわけですが、貴重な何かが含まれている可能性は高いわけですね。で、『富士古文書』も研究したい気持ちを持っていました。
ところが、そこへ『東日流外三郡誌』が持ち込まれて、これがまた面白くてねえ。今日はもう時間がありませんので、一つだけ申し上げますと、例の荒神谷の、三五八本、私はこれを銅矛だと思うんですが、銅剣が出てきましたねえ、それでもう皆はびっくりした。なぜびっくりしたかというと『古事記』『日本書紀』に、荒神谷のコの字も無いわけで、『出雲国風土記』にすら荒神谷は出てこない。ところが、なんと、『東日流外三郡誌』を含む「和田家文書」の中に荒神谷が出てくるのです。しかも、荒神谷に、大国主を祀った神社があったと、そして、そこには神器が置かれていた、ところがその神社が廃止になった、そして神器、神宝はみな土中に埋められたと、そういうことが書かれてあるんですよ。
北村
へええ。
古田
それ一つとってもすごいんですよ。あんまりすごいもんだから、中には、三五八本が出てきた後、所有者の和田喜八郎さんという人が書いたんじゃないかと、とんでもない嫌疑をかける人もあるんですが、まったくのこれは誤りでして、それが書かれているのは、明治二年、喜八郎さんの曾祖父に当たる和田末吉さんという人が、寛政六年に書かれたものを写したわけです。そのころ、大邑土佐守という人が書いたものを、秋田孝季という人が書き写して、それを保存のためにまた書き写したのが明治二年です。言い出すとこれはきりがないんですが、卑弥呼のね、これは片仮名でヒミカと書いてあるんですが、これの生まれた場所が書いてある、これがその伊川という、飯塚の近辺らしいんですが、そこらしいんです。それから、西王母のことも書いてある、ヒミカが尊崇していたのは西王母であると。これもびっくり仰天しましたが、とにかく、ヒミカに関する伝承も記録しているんです。それが本当かどうかは別にしましても、明治の百年ほど前のころには、そういう伝承が残されていたということでしょう、それを記録しているのです。それからさらに私どもの知らない話ですが、龍ノ口で日蓮が首を斬られますね。そのとき、普通いわれているのは、雷が鳴って、刀が折れて、それで役人が首を斬るのをやめて、佐渡に流されたということになっています。それが全然、違う形で残されていて、そのとき、安東船のリーダーであった龍飛十郎兼季という人物が、鎌倉幕府の依頼を受けて中国の揚州に出発することになっていたのに、その水夫たちが、出発前にそんなことをするのは不吉だといって嫌がっていると、だから罪一等を減らしてほしいと願い書を出して、幕府は交易船で儲けたかったわけですから、その願いを聞き入れたと書いてあるんです。非常に淡々とした文章で。
北村
むしろ、リアルですね。
古田
そうそう。雷がちょうど刀に落ちて、それで刀が折れたという、そんなうまい話が本当にあったかどうか、それで斬るのをやめたといっても、それでは代わりの刀はなかったのかということになりますし、それが今の話だと、話としてはわかりやすいんですね。そういう話を、あげればきりがないくらい写し取っているんですよ。秋田孝季という人が素晴らしいと私が思いますのは、古老から話の聞き書きを採る、それも三千何百何十何人から採ったと、書いてある、アイヌの長老から伝承を書き取ったり、津軽の人がお伊勢参りに行って帰った話を全部津軽弁で書き取っているのです。だから、全部平仮名です。
私なんか読んでも、チンプンカンプン、まったくわからんのですがね。ああいうものを、全文平仮名で書き取るということは大変なことで、だいたい、孝季は津軽弁がわかるんですから、聞いて要旨を漢字交じりで書けば、その方が簡単なのに、まあ、本居宣長とほぼ同時代の人ですが、宣長にはなかった、そういういいところを持った人なんです。それで、つい「和田家文書」に一生懸命になってしまって、さらに偽作だとか何だとか言いがかりをつける人が出てきたりしたもんですから、私が初めに本当にやりたかった古文書史料には、まだ手が着けられずにいるんですが。しかし、これは、私が研究しなければならないということではないんですから、是非、日本の学界が、天皇家に関連した文献だけが値打があると、それ以外にも値打がないと、いうような、従来の学者に同調する慣習は破らなければ、本当の学問は発展しないだろうと思うんですよ。
北村
いや、あのね。今の『東日流外三郡誌』ですけど、これと通じ合う古田史学の完成を心から期待しますよ。
古田
本当に私も、後十年、二十年、死ぬまで本来の研究は一生懸命やりますから、その後は若い人たちがつづけてくれれば有り難いと思っています。最近、私が考えることは、あのシュリーマンがですねえ、私が今年、六十九歳ですが、シュリーマンは六十八歳で亡くなっているんです。ところが、彼が六十歳の初めごろから、ほとんど本来の仕事ができなくなってしまった。というのは、シュリーマンに対する大変な、中傷、悪罵が出てきまして、シュリーマンは実にインチキな人物だ、てなことを、情熱を込めて、攻撃して攻撃して攻撃し抜く学者とか博物館長とか、そういう風なかなり名声のある人が出てきましてね、シュリーマンはそれに対する防戦に晩年の時間を使ってしまったような感じなんです。そのために本来の仕事ができずに終わったということを読みまして、これは非常に残念なことだと思い、だから、私も反論が必要なときには反論をしたいと思いますが、それにばかりエネルギーを取られるのではなくて、本来の仕事のほうをやっていくということが本当だと思っていますので、どうぞ、まあ、これからもよろしくお教えいただくようお願いいたします。
北村
シュリーマンは確か四十何歳から始めて、それで、いろいろいわれて六十八歳で亡くなったのですから、先生はこれから始められて、攻められるのは、百歳過ぎにされたらどうですか(笑い)。結局ね、主流、反主流というのがあるでしょう。これはいささか、個人的ですけどね、僕は反主流が好きですよ。与党より野党が、官学より私学が。われわれの学界でも、よくアマチュアが面白い意見を出しますが、天文学でも、古代史でも、考古学でも、共通しているのはね、アマチュアでない専門家の学者が、アマチュアの意見を、よく聞かないということです。専門家はアマチュアの意見を、もっと本気で考えてみる必要があります。
古田
おっしゃる通りです。では、今日はこの辺で。どうも、ありがとうございました。
〈補注〉
対談の後、安倍仲麻呂の詩について北村先生に私見を述べたところ、原稿にして載せるようにとのことなので、以下、簡記する。
私は、仲麻呂の詩は、彼自身の作ではないと考えている。理由は二つあげられる。
(1) この詩は、仄起下平一先韻の五言絶句のようであるが、唐代の近体詩は平仄法に関して、二四不同、二六同、下三連・孤平・孤仄の禁などが厳しく遵守されたはずなのに、この詩を調べてみると次の通りである(平声は○仄声は●平韻は◎)。
○●●○◎
翹首望東天 首を翹して東天を望み、
○○●○◎
神馳奈良辺 神 馳す 奈良の辺。
○●○●●
三笠山頂上 三笠山頂のほとり、
●●●●◎
想又皎月圓 想うは又 咬月の圓。
一句の二字目と四字目は●○で二四不同であるが、二句は○○、三句は●●、四句も●●で不同になっていない。下三連はないが、孤仄○●○、孤平●○●も多い。
古体詩、新体詩の詩体、詩式はよく知らないが、この詩を唐代の近体詩として見る限り、あまりにも反則が多すぎる。
また、三を之の崩し字として読むことは、意味不明になるので無理である。
(2) この軸には「安倍仲麻呂望郷詩 壬申春於長安」として押印してある。この軸と並べて同じように日本人向けにお土産として売られている同一筆跡の「日本晃卿辞帝都・・・・」の軸には「李白詩 哭晃卿衡 壬申於長安」として押印してある。後者の「李白〈作者〉詩〈作品〉晃卿衡を哭す〈題〉」は正式な書き方であるが、前者はなぜ、「晃衡詩 望郷」と書かれてないのだろうか。書家は、実はこの詩が仲麻呂の作でないことを知っているので躊躇したものと考えられる。「安倍仲麻呂望郷詩」という書き方は、そのへんを上手にぼかした書き方である。
因みに「壬申(春)於長安」は書家が揮毫した折りのクレジットである。「於西安」とするところを「於長安」としたのは書家の遊び心だろう。
なお、驪と笠に、本字、古字、誤字、別体、俗字、略字のどの関係もないことは、注にも書き、その後、先生も確認されたということである。(兼川晋)
[注〉
笠=リフ 竹と音符立 かさ
驪=リレイ 馬と音符麗 黒い馬
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