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古田武彦
今日は、せっかくの連休のお休みのところをおいでいただいて、私たちの話を聞いていただくということで、非常に感憾無量なものがございます。
私はかつて、この福岡大学で学会があって、西日本歴史学会でしたか、研究発表をいたしまして、その時の結論として、この邪馬台国ならぬ邪馬一国「それはここです。」とこういうふうな言葉で結んだことを覚えております。それを博多のかたでしょうか、聞き伝えておられるかたがいらっしゃって、古田は福岡大学が邪馬一国だと言った、というようなお話も伝わってきて、びっくりしたのですが、勿論、私としてはこの筑紫の国、特に筑前、博多湾岸を含むこの地が邪馬一国の中心地ですと、そういう意味で申し上げたことをいま思い出しております。
その後『「邪馬台国」はなかった』という本を朝日新聞社から出しましたが、そこで、「博多湾岸および周辺山地」、それが邪馬一国の中心部であるということを書きました。周辺山地という言葉を使ったのは、今の太宰府あたりも、この山地にあり現在丘陵部になっております。それと、「基山」というものを非常に意識しておりまして、そこら辺も含む表現として、周辺山地という言い方をしたわけでございます。それと博多湾岸という言葉を使ったのは、ひとつ理由があるわけです。というのは、この現在の地形と弥生時代の地形はかなり違っていると。つまり現在の福岡市のかなりの部分は、弥生時代には海中にあった、ということがあるわけです。
当然ながら弥生時代の話ですから、「弥生時代の博多湾岸、および周辺山地」と、こう言えば狂いが無いだろうと。福岡市などと言ってしまうと、福岡市のかなりの部分は、弥生時代海中だったという問題が入ってくるだろうから。そういうことで、いろいろ悩んで、というか、考えて、そのような表現を使ったことを覚えております。
さて、その後考古学的な見解を導入しまして、志賀島から朝倉に至る線、この途中には春日市太宰府あたりがありますが、それを中心部に含んで志賀島から朝倉に至る線、この弥生のゴールデンベルト、弥生期のものなら何が出てきても不思議はありませんよというのが、ゴールデンベルトと私が名付けました次第なんですが、このゴールデンベルトの地帯が邪馬一国の中心であると。ですから、糸島郡とこの弥生のゴールデンベルトを結ぶ領域、すなわち「筑前中域」を邪馬一国の中心部であるという事を述べるに至ったわけでございます。なおその際、「筑前中域」という言葉を使いましたのは、北九州市の方を筑前東域という言葉を使いましたので、「筑前中域」という、この地帯が邪馬一国の首都圏の中心部であるということを述べました。
さらに、もうひとつの表現としましては、やはり私の本にその後書いたものなんですが、この邪馬一国で太宰府近辺は「表座敷」であると、朝倉のあたりは「奥座敷」であると、そして八女(やめ)のあたりが、「離れ座敷」である、というように、俗っぽい表現のようですがそういう表現を使ったことがございます。勿論現在でもそう思っております。
つまり、邪馬一国というのは現在の筑前から筑後にかけての領域である。戸、七万戸というのはですね。そして中心部は、先程言いました「筑前中域」が中心部に存在すると。糸島から朝倉に至る「筑前中域」ですね。というのが私が何回もくり返し書いているテーマでございます。
さて、それに関する考古学的な裏付けといった問題もあるわけでございますが、これはまた明日もありますのでその折に申しあげることにしまして、もうひとつ重要なことは、この邪馬一国は三世紀で終わってはいなかった、と。七世紀の終わりまで続いたと。つまり七世紀の終わりまでということは、あの倭の五王、この筑紫の王者である讃、珍、済、興、武もですね。
それから日出づる処の天子・・・と称した多利思北孤(七世紀)、これもまた筑紫の王者である、と。「通説」のような、いわゆる「定説」のような近畿の天皇家ではないと。それは実質的には七世紀の後半、白村江の戦い(中国側では白江の戦い)ここにおいてその命脈が絶たれた。形式的には、といったらおかしいのですが。最後的には七世紀の終わり、八世紀の初めの時点でその九州王朝は終結し、九州年号もそこで終わり、で、寸刻を置かずといいますかすぐ翌年から大宝元年、八世紀初め、文武天皇の大宝元年という連続年号が始まったと。だから、あの大宝元年という連続年号も完全に九州年号を受けて、継承して、その九州年号が終わった次の年から天皇家は“安んじて”といいますか連続年号を開始しているわけです。と、言うことを述べたわけでございます。
但し、これは従来の教科書で教わってきた、特に明治以後のですね、明治以後は申すまでもなく新しい天皇制の時代に入ったわけですが、この明治以後においては、禁句とも言うべき物の見方であった。江戸時代では必らずしもそうばかりではなかったわけです。早い話が、九州年号も、かなり大っぴらに言われ論争されていたわけです。それが、明治に入ってからぴたりと表面の論議から消えたというようなことでございました。しかし、それはそれなりの理由があるのでございましょう。
そのひとつの理由は自分の体制に有利な歴史観を、その統治下に流布しようとする、また、教科書とかそういう公的な文書の名前で自己の体制を支持するような、それに役立つような歴史を民衆に教えようとする、これが、洋の東西を問わず、時の久遠を問わず、どの権力も政権も行なってきたことであろうと。私はそう思います。そのone of them(ワンノブゼム)が我々の今住んでいる時代に過ぎないと。姿に過ぎないと。我々はよくソ連とか中国とかいうものを見る場合、「あれはあのイデオロギーで、皆つつまれているのだ」とよく言う人がありますね。これは確かにそういう事が言えるんでしょうけれども、その場合、そういう他(ひと)の事はよく見えても、自分のところはそういうイデオロギーの幕に包まれて生活しているとか、歴史観や教科書も全部それで作って、子供にも全部それが教えられているという、その姿には眼をむけようとしない。これもまたどの時代でも存在する通弊、共通の盲点でもあるわけです。洋の東西を問わず、中国文明であれ、イスラム文明であれ、キリスト教文明であれ、いつの文明もそのようであったわけです。
私、そのような要素を“離れた”文明というのを、まだ寡聞にして知ることが無いわけです。まあ、未来はそういうものでない社会が誕生するかも知れません。また私は、それを望みますけれども、少なくとも、今までの人類の文明ではその例外を、多く見出すことはできないわけでございます。と言うようなことは、人類史にまつわる大きな話でございますが、本日は、私が今まで本に書きました事以外に、以後いくつものテーマが見出されてきました。幸いに、私は昨年から今年にかけて非常に幸せな毎日を過ごしております。と言いますのは、次々に新しい発見が枚挙に暇(いとま)が無いと言いたい位連続してまいっております。
つい昨日あたりもこの博多駅で、そういう問題にぶつかったような次第でございました。橋田さん(九州王朝文化研究会)も私のそう言っている事を聞かれましたので、私に時間をやろうという事で早く切り上げていただいたのではないか、と推察しているのでございますが、時間の許す範囲でそれらをお話し申しあげたい。でも今日もし時間が不足しましたら、幸いに明日がございますので、その際に残った所を隅無(くまな)く申しあげる事ができれば幸であると、こういう風に思っているわけでございます。
さてそれでは、具体的な本題に入ってまいります。
いわゆる邪馬台国問題、私が言うところの邪馬一国問題において、案外論争されていない、これだけ百花争鳴、いろいろ、日本列島のありとあらゆるところが邪馬台国の候補地になったと言いたいくらいになっている、それだけではない、この日本列島以外のジャワとかそういうところまで候補地になっていると、こういう状況にもかかわらずですね、案外盲点がございます。
と言いますのは、肝心の女王、卑弥呼(ヒミコ)と従来読まれていましたが、私はヒミカと発音する方がいいと申しておる者でございますが、その「ヒミカに関する論争」は意外に少ないのです。このヒミカが何者であるか、誰であるかと。『三国志』が言っているヒミカ、『三国史記』の朝鮮側もヒミカと書いておりますが、字はちょっと違いますが、それは日本側の文献に表われている誰なのか、あるいは表われていないのか、という論争は意外に少ないわけですね。先程の、「土地」がどこかという論争に比べれば本当に僅かであると言ってもいいだろうと思います。しかし、これは当然のことながら、“負けず劣らず”というか、どこにこの国があったかということと同じくキィー・ポイントになる、これはもうわかりきったことでございます。だいいち、考えてみますと、あれだけ中国や朝鮮半島の歴史書に鳴り響いた女王が、日本側の文献に全く姿を見せないとすれば、これは奇妙キテレツなことでございます。「そんなはずはない」と一言でいっても、そう反対なさる方はいないだろうと思うのです。なおもう少し細かく言いますと、中国の歴史書に姿を表わす倭国の王様というのはそう多くは無いといえましょう。実名が現われているのは、さっき言った多利思北孤とかがありますけれども。古くは、帥升(「そっしょう」あるいは「すいしょう」)と『後漢書」の倭伝に出てくるような人がありますが、まあ讃、珍、済、興、武を入れましても、一〇の指で勘定できるくらいのものでしょう。名前がわかっている倭国の王様自身がですね。『旧唐書』『新唐書』以後になると、ずらっと天皇の名前を書いたりしますから、それは別にしまして、『宋史』とかは別にしましてね。古代ではそうです。中でも、名前があるだけじゃなくて、いろいろその事跡とか人柄とかそのようなことが書いてある人物となると、五本の指じゃ数えられません。もう、一人か二人という事になります。その中でも一番良く書かれているのがヒミカに間違いないのですから・・・。
もうひとつ、今度は朝鮮半島の『三国史記』に、今日の藤田さん(市民の古代研究会)のお話にもあったと思いますが、倭の事はもうくり返ししつこいくらい、倭が侵入してきていて、その中で時には平和的な交渉の記事などもでてくるわけです、新羅本紀を中心にして。それだけしょっ中書かれている倭国、その中で倭国の王様の名前がどれだけでていますか。もうほとんどでていない中でヒミカはでているんです。これだけお隣の国々に名をなり響かしているこの人物が、この日本側の本にまったくありませんということは一寸考えられません。じゃあ、それは誰か。「最初の研究書」というと、語弊がありますけれども、「比定」した、“比べ定めた”のは、いうまでもなく『日本書紀』。誰にあてているかというと、これは、いうまでもなく神功皇后にあてているわけでございます。神功皇后の「神功紀」を独立させまして。『古事記』には「神功紀」というのはないのです。単なる“奥さん”ですね、仲哀天皇の。それを『日本書紀』では主人公のように「独立」させまして、そこに『三国志』の倭人伝などの記事をくり返し四回も挿入(そうにゅう)しているわけです。しかもここには明白なトリックが用いられております。というのは、「倭の女王」、「倭国」、「倭王」、「倭の女王」という形で出てきます。ところが、これを我々は倭人伝を持っておりますのでそれと対照してみると、あきらかに最初に出て来る「倭の女王」や「倭王」は、これはヒミカであります。ところが最後に出てくる「倭の女王」は、いうまでもなく壱与でございます。これは倭人伝と文章を対照したらすぐパッとわかるわけです。ところが、「神功紀」では、その「倭の女王」という ーーヒミカ、壱与という名前は実名は出していないのです。ーー 称号というべき、この「倭の女王」、「倭王」という言葉で出しているのですから、ちょっと見ても ーーよく見ても、ですがーー 『日本書紀』を見る限りはその「倭王」、「倭の女王」というのは神功皇后であるという、それ以外に読みようがないという形で記されているわけです。だから、八世紀の『日本書紀』の作者は、「読者が『三国志』を読むことを予想していない」わけです。今の我々が考えたらまさかと思うのですが。今の我々は岩波文庫を、三〇〇円前後のお金を払えば、「魏志倭人伝」なんて、簡単に手に入るわけです。ところが八世紀はそうはいかないわけですね。倭人伝だけ抜き刷りにして売ってもいないし、まして今のように『三国志』全体をあちこちの図書館に行ったら見れるわけじゃないのです。
だから、読者は原則として『三国志』は見ていないわけです。で、『日本書紀』の編者、著者はそれを自明の前提として想定しているわけです。そこでトリックを用いてこの「倭王」、「倭の女王」を神功皇后にあてたのです。この倭人伝関係の記事は、後世の人の挿入ではないかという説が出たことがございました。しかしそれに対して反論が次々出されまして、結局そうではないと、本来存在した文面であるという事が証明されて、以後反論を見ないわけでございます。
田中卓さん、神宮皇学館大学の学長をしておられるこのかたなんかが非常に明確な論点を書かれました。さて、そうなりますと今はっきりしている事は、『日本書紀』の作者自身は明らかに「神功皇后は卑弥呼ではない」という事を知っていたわけです。
で、卑弥呼という実名を出したら神功皇后に卑弥呼なんて実名は無いですし、いうまでもなく、卑弥呼と壱与という二人の女王が神功皇后という同一人物であるはずもないこともよくわかっているわけです。だからこそ実名を抜いて、倭の女王という形で同一人であるかに見せかけたわけです。今の「神功紀」を独立させた、もっとも大きな理由の一つも“卑弥呼、壱与と結びつけることにあった”と考えられます。
これも、大森志郎さんなど、それを非常に明確に論じた方がいらっしゃいます。(大森「魏志倭人伝と日本書紀の成立」『日本文化史論考』創文社刊所収)私もそう思います。今の『日本書紀』の編年を考える上で最も大きな支柱、キーポイントはここなんですね。なぜかと言いますと、神功皇后といいますと、我々の頭では実在の人物とすれば、 ーー私は実在だと思いますが、その論証は今日は省きますーー いわゆる四世紀半ばの人物であることはもう我々はよく知っております。一方、卑弥呼は当然ながら三世紀前半の人物として出てきますから、それが同一人物であるはずがない。我々の頭で言えばもう簡単なことです。だから、神功皇后は卑弥呼ではないのである、なんて論文を今あまり書く人がいないのは、もう論ずるまでもないからです。「無論」という文字通りなのですね。しかし、にもかかわらずここで大事なことは、神功皇后を、皇暦 ーー皇暦というのは私なんかより年上の方々はよくご存知のことですが、神武天皇の即位がBC六六〇年である、「紀元は二千六百年」という、私の少年時代の行事を記憶しておりますが、あれが皇暦でこさいます。ーー あの皇暦によりますと、当然『日本書紀』は皇暦で書いてあるわけでこさいます。西暦なんてまだないですからね。あれは「明治以後」の話ですから。皇暦によりますと、なんと神功皇后は三世紀前半にあたっているわけです。西暦でいう三世紀前半にあたっているわけです。これは今あまりお持ちになっていないと思うのですが、それを見られたい方は、例えば『東方年表』なんてものがございます。京都の平楽寺書店で出しており、専門家にはよく使われている年表なんですが。これを見ると今の西暦も皇暦も書いてありますので、すぐそれがわかります。神功皇后が皇暦で言えばいわゆる三世紀、西暦に換算して三世紀に一致しているということは、つまり卑弥呼が実在していたのは当然三世紀ですから、そこにあうようにあの暦(こよみ)は、『日本書紀』の皇暦は作られているわけです。ですから、よく言われる例の神武天皇のところを「辛酉」の年、「辛酉」革命の年だという、那珂通世が言った話は有名です。最近では、那珂通世は言いすぎたのではないか、というような反論が出されたりしておりますがそれももっともだと思います。「辛酉」が神武の即位年だというのは動かせないですけれど、推古天皇九年という、聖徳太子のときの「辛酉」(六〇一)の年を原点にしての計算で大革命の年(二一度目の辛酉)だ、といっていると見ていいかどうかは疑問があるわけです。それ以上に、この「辛酉」問題以前に重要な視点は、今問題の「神功皇后と卑弥呼を結ぶ設定」だったわけです。日本書紀にとって・・・。ということは、つまり、私が今言いましたような日本列島のまわりの歴史書の中で、「倭国の王、女王」というと一番目立ったのが卑弥呼だ、というのは、私たちが見てすぐわかるように、『日本書紀』の編者も当然『三国志』を読んでいるわけですからわかっていたわけですね。だからそれに何かあたるものを作らなければいけない、ということが、『日本書紀』編成作業の、ひとつの出発点になっていたと、こう考えられるわけでございます。この事の持っている意味は予想以上に深いわけです。端的に言いまして、我々文献の方の研究者の目から見ますと、この問題を正面からみつめればもう「邪馬一国」いわゆる「邪馬台国」、これは近畿ではありえないわけです。なぜかといえば、八世紀の天皇家の人たち一人や二人の歴史家ではないですからね。総動員で探したけれど結局、神功皇后以外にあてたくても、あてられそうな入物が見つからなかったわけですよ。それを一九世紀や二〇世紀になって新たに発見できる方がおかしいわけです。やはり近畿天皇家のある系列の中には卑弥呼にあたる人物はいないわけです。という事は、「卑弥呼にあたる人物はいないけれど、あそこが邪馬台国だった」というわけにはいかないわけです。やっぱり、邪馬台国は近畿ではないとしか言えません。これも余りいろいろな意見が出るとかえって目が眩(くら)むんですが、よく問題をじっと見つめれば、やっぱり「卑弥呼はあの近畿天皇家の一員ではない、あの系列ではない」ということは、この神功紀問題からはっきりさし示されていたわけでございます。
ということは、言いかえると、その後出てきたいわゆる倭迹迹日百襲姫(やまとととひももそひめ)、あるいは倭(やまと)姫説が現在でもございますが、これもはっきりいって無理なわけです。なぜなれば、それを比べる場合、後でも問題になりますが、「比べる条件」として、何を比べるか、ということがあるのです。
その場合、最も重要な資格のひとつとして、「その当人が、卑弥呼にあたるといわれる当人が、主権者すなわち、権力中心の第一人者であった」という事は動かせないじゃないですかね。「倭王」と呼ばれ「倭の女王」と呼ばれているのですから。ところが、倭迹迹日百襲姫や、倭姫はどうみたって『古事記』『日本書紀』どっちを見ても、権力中心者、第一人者とは書かれていないのです。巫子ではあるでしょうけどね。巫子はいくらでもおりますから、巫子であるからイコールで結べるというのでは、いくらでも結べる相手が多すぎて困ります。
これに対し、権力の中心者であるというのは、比べるさいのもっとも重要な条件だ、と言っても、これに恐らく反対は無いと思われます。その条件をとってみても、近畿の天皇家では倭迹迹日百襲姫も、倭姫も、権力の中心者いわば天皇ですね、それにあたっていないですからね。
これをもってしても近畿説は無理なんです。いろいろ議論をガチャガチャやっていると、一番簡単なことが、肝心の探究の目から失われてゆく、これはそういう例、そのひとつの大事な例だろうと私は思います。
それに比べれば、天照大神に比定する説がございますね。天照大神の方は「権力の中心者」といってもいいわけでしょうから、この点はいいわけです。しかし、私はやはりこれも端的に申しまして、結論として具合が悪い、と思うのです。
今、時間の関係で二点ばかりその理由を、上げさせてもらいますと、天照大神には中国に使いを派遣した記事がない。これももうわかりすぎていて、『古事記』『日本書紀』を読んだ人も読まなかった人も、日本人なら論ずるまでもないことなのです。ところが、この場合もやはり考えてみますと、天照大神の記事がちょっとした断片に出ているのなら、それは「中国の事までは、この断片では扱わなかった」そういう事が当然ありうるわけです。
しかし、『古事記』『日本書紀』の神代の巻で神々がたくさん出てまいりますが、あの中で、天照大神ほど詳しく述べられている神様はいないですよ、他に。まあ「大国主にあらずんば天照」という感じでしょう。その説話というかストーリーは日本人なら皆どこかで聞いて知っているわけです。一番詳しく書かれている、その天照の物語なのですから。一方、卑弥呼にとってやはりいろいろな事があったでしょうが、彼女にとって最も重要な事件のひとつは、中国に使いを遣わしてそれに成功したこと、であることに恐らく反対されるかたはないと思うのです。ところが、そのことが片鱗も姿を現わしていないというのは、これはやはり先ほどの適格条件において、大きなくい違いです。これも余りわかりすぎて、いろいろ理屈を並べていると忘れてしまう、簡単な事柄なのですね。これがひとつ。
第二番目にはですね。これは私が書いたことがあるのですが、錦と布との問題です。倭人伝でみますと卑弥呼は、「錦の女王」と呼ぶべき女王である。中国からおびただしい錦をもらっているのです。鏡百枚が非常に有名になっていますけれども、実際は、倭人伝を読んでみれば鏡百枚は四文字しか書いてないのですが、絹のことはもっとしっかりと書いてあります。だから、錦をもらったということは非常に大きな事件である。また、だいたいその値打ちからしまして、鏡というのは中国側から見たら「女の人のお化粧品」という感じですね。しかし錦は、中国側でもやっぱり貴重品ですからね。“重さ”も全然違うわけですよ。その“重さ”にふさわしく文章の分量も多いわけです。だから卑弥呼は中国の錦をたくさんもらったわけです。で、卑弥呼の側も倭国の錦を作ってそれを中国側へ贈っているわけですね。壱与も贈っているわけです。だから、ようするに倭国産の錦、中国産の錦の両方を持った王者が卑弥呼なんですね。だから、晴れがましい席には当然誇り高い倭国で作った錦さらには中国の錦を羽織って現われたであろうと、こう考えて何の疑いもないと考えます。ところが、『古事記』『日本書紀』の神代の巻で、天照大神が錦を纏(まと)って現われた、ことに中国の錦を纒って現われたなんてありますか。全然ないですね。
まあ、あそこに出てくる、機織女(はたおりめ)が死んだという話なんかもありますが、いずれも素朴な布に関する話です。白丹寸手(しらにきて)、青丹寸手(あおにきて)が絹じゃないかという、原田大六さんの意見がありましたが、まあそうであったとしてもその程度で、中国の錦を纒った豪奢(ごうしや)な天照大神なんてイメージは、我々日本人たちに伝えられたイメージではない。『古事記』に語られているイメージではないのです。
つまり、「錦以前の王者」といいますかね。この時期の存在としての女性が天照であることは、これは疑うことはできない。そうするとやはり時代が違うわけです。同じ弥生時代でしょうけれども、卑弥呼の方は三世紀ですから弥生の終り近く。天照の方は弥生の前半期ということで。「錦の時代」と、「それ以前の時代」とこの両者の時間帯はハッキリ分かれる。こういう風に私は考えざるをえないわけです。
ですから、他にも理由はいろいろ言えますが、今日は時間の関係で省略します。この二つを取りましても、天照を卑弥呼と結ぶことは、やはり私は無理であろうと、こう思います。
さて、それでは卑弥呼は誰であるか。これは私は実は、『古代は輝いていた』の第一巻の最後に、ひとつのハイライトみたいな感じで書いていたわけでございます。それは、この「筑紫風土記」、筑後の風土記といってもいいのですが、ここに出てくるわけでございます。そこには、甕依(みかより)姫という人物のことを書いております。彼女は筑紫の君らの祖先であるという形で登場してまいります。その『古代は輝いていた』で述べました論証、お読みになっていない方もあると思いますので簡単に申させていただきます。従来これを卑弥呼(ヒミコ)と読んでまいりました、江戸時代から。これもまた不思議なことに、あれだけ邪馬台国論争が行なわれながら、これを卑弥呼(ヒミコ)と呼んでいいのかどうかという論争はほとんどされていないわけです。これは私は大きな盲点だと思うのです。ヒメコであるとか、あるいは日の御子であるとかということが江戸時代に言われたままで、「ヒミコ」という言葉が定着してきたわけです。ところが、私はこれは「ヒミカ」と呼ぶ方がいいであろうと。その理由はいわゆる「大海国」「一大国」の長官に卑狗というのが出てまいります。卑しいという字に、獣偏に俳句の句、これはヒコで私の名前のタケヒコのヒコと同じヒコであろうと。という事は恐らく疑うことはできないと思います。獣偏に俳句の句は、クという音とコという音と両方あるのですが、ここではコの音が使われていると。こういう風に見ざるをえないのです。だから釜山の方にあったという倭地の中にあった狗邪韓国も、よくクヤカンコクと言われていますけれでも、やはりクヤカンコクとこう読む方が私は正確であろうと思っているわけでございます。ところが一方、この呼ぶという字、卑弥呼の最後にある呼という字ですね、これも辞書で、諸橋の大漢和辞典などで皆様がお引きになりますと、これにはコという音とカという音と二つあるわけです。コは呼ぶとか呼吸するとかいう意味です。ところがカというのはちょっと変わった意味がございます。「犠牲」。神にささげる生贄(いけにえ)のことを「犠牲」と申しますね。その「生け贄」にたくさん傷をつけて神様に捧げる、その「切り傷」という意味がある。これもちょっと面白い話があるので、さしはさませていただきますが、私の今おります学校 ーー昭和薬科大学という学校ですがーー そこの先生で、いつも学生をかわいがる先生がいらっしゃいまして、学生といっしょにコンパをやろうとされた。その時思いつかれて、子豚をまるまる買って来て、特に注文して、それを庭先で串ざしの丸焼き、よく西部劇でやりますね、あれをやってバーベキューみたいなものですが、コンパをやろうとされたわけです。ところが結局、後でお聞きしますと失敗されたそうです。というのは、外がまっ黒になってもうコゲくさいぐらい焼いたのに、いざ切ってみると、中は全然焼けていないので食べれたものじゃなかった、という話がございました。
これは、私が後で聞いて勝手に想像したのでございますが、それはおそらく切りくち、つまり、傷をいっぱい入れておかないといけない。普通のソーセージなどでも切り口をつけておくと、非当に早く火が通りますね、あんな薄皮のものでも。ましてや生(なま)の、生きた、という感じの子豚ですから、かなり傷口をつけておくと火が通りやすいんじゃないかと思うのです。それを傷つけずに外からいきなり焼いたら、外はコゲくさくなっても中は焼けていないということになるんじゃないかなと。実験はしませんけれど、そのように想像したのです。西部劇では見ていますけれど、そういうノウハウまでは教えてくれませんからね。しかし、我々のような農耕民族というか海洋民族とは違いまして、いわゆる騎馬民族というか放牧のヨーロッパ人とかああいう人達は、そういうノウハウというのはよく親から子に伝わっているのではないかと思うのです。だから西部劇でも、前もって一定の、必要な操作をやっているから、ちゃんと焼けてちゃんと食べられるのだろうと、私は思うのです。
以上は余計な話ですが、中国でも、中国というのはやっぱり料理の発達した国だから、そういうノウハウは当然受け継がれている。その場合に、結局傷を入れるということは食べやすいわけです。だから、神様に捧げても傷を入れておけば、神様がすぐ焼くんだかどうか知りませんが、食べるだろうと。傷つけなけりゃいくら神様でも食べにくいだろうと。変な考え方ですけれどもね。恐らくそんなところで傷を入れるんじゃないか。別に残虐趣味とかその他の趣味で入れるわけではないと私は思うのですが。まあとにかく生け贄につける傷のことをカという。呼という字を書いて、カと発音する時はそれを意味する。こう書いてある。だから同じように、私はやはり江戸時代からもし本当に学問的に議論するなら、これはヒミカと読むのか、ヒミコと読むのかどっちだろうか、という議論もやって欲しかったですね。ヒミは私は間違いないと思うのです。これは今の、ヒコのヒで、卑はヒであります。それからまた、ミはミミ。投馬国の長官がミミで副官がミミナリとありますので。ミミというのはやはり神様の名前や地名で、かなり現在残っていますからね。地名では「仁徳陵」古墳とされる大仙陵(だいせんりよう)古墳のあるところが、耳原というように、そのまま残っております。だから、ヒもミもいいと思う。ただ、「コ」か「カ」ということはやはり論争があるべきであった。ところがなぜか、論争を素通りして皆んな「ヒミコ」と読んで来たわけですね。日本中に卑弥呼という名のつくお酒とかお店はずい分あります。渋谷にも靴屋さんがありますけれども。にもかかわらずこの論争は素通りしてきていた。で、私は先程のように倭人伝では獣偏と俳句の句を使っているとすると、これは、呼ぶの「呼」は、コではなくてカの方に使われた可能性がある。しかも意味内容からすれば、鬼道をもって衆を惑わすという、ヒミカのイメージと非常に合いますね。今、犠牲の生け贄の傷というのは、宗教的な儀礼のものですから。そういう面から見ても「カ」と呼ぶ可能性の方が強いと。そういう風に私は考えたわけでございます。少なくとも「両方あり得る」という発想で考えるのが公平客観的だろうと、こう思うわけです。
で、「カ」と読んだらどうなるかというと、「ヒ」は太陽の「ヒ」、「ミカ」は神に捧げる酒や水に入れる甕を「ミカ」といいます。これは恐らく甕(カメ)と別物ではないでしょう。といいますのは「ミカ」と「カメ」とは「カ」が共通しております。「ミ」はカミを意味する「ミ」、或は「御ーーオン」という敬語の「ミ」だろうと思います。「カ」が実態であって「メ」というのは接尾辞でどういう意味かわかりませんが、ようするに後尾についた言葉である。実体は「カ」であろうと思います。明治以後の考古学者が甕棺といいましたが、あれは実際はミカ棺と私は呼ぶべきものであろうと思います。ともあれ、太陽の「ミカ」とこういう意味の名前である。不思議なことに、現在でも日本の女の人にミカという名前の人はずい分多いですね。ヒミカはそういう意味なんで、だから太陽のというのは形容の意味で、太陽の神聖なるミカという意味でございます。一方、筑後の風土記に出てきます甕依(みかより)姫という存在は、玉依姫という有名な存在がありますように、ヨリ姫というのは、巫女を意味する、高い身分の巫女の称号であるらしいですね。一般の巫女というよりかなり中心的な権威ある巫女でしょうけれども。その称号である。すると、この固有名詞部分はこの場合もミカである。そうすると、両者の固有名詞がまず一致したわけです。これは、やっぱり大変なことだと思うのです。自分で言っておいて自己コマーシャルのようで変なんですが、率直に言えば、私大変なことだと思うのです。なぜかというと、今までの比定、卑弥呼に当てる場合は、「名前が一致する」事はなかったわけです。先の神功皇后に当てるなんて論外で、ややこしい実名を二人分“抜いて”おいて当てるなんて、こんなムチャは論外ですが、他の倭迹迹日百襲姫(やまとととひももそひめ)とか、倭姫(やまとひめ)、どれをとっても実名が一致しないわけです。もっとも、天照大神の場合はいわゆるヒミコ、つまりヒノミコだったらだいたい似たような話じゃないかと。こう言う人があるかも知れませんが、意味にたよったら駄目なんですね。もしここに、「猛夫」という字があって、これをタケオと読む人がいたとしますね。これは“非常に武勇にすぐれた男”の意味だと、一方、古田武彦というのもあれの名は“武勇の優れた男だ”と。意味が一緒だから猛夫(タケオ)と武彦とは同一人だと、こんな馬鹿な話はありませんね。意味が同じだからいっしょだなんて、そんな事はあり得ないわけです。やはり、同一人である場合は発音が、使っている字ぐらいは変わったにしても、発音が一致してくれないと同一人とは言えないわけです。だから「日のミコ」と天照と何となく感じが似ていますな、同じかも知れませんよ、ということは、今の、猛夫(タケオ)と武彦(タケヒコ)は意味が似ていますな、同一人かも知れませんよ、という話と同じなんです。だからこういう意味ではなくて「発音が一致する」という点は、これも言うのもおかしい位ですが、「同一人」という場合に大事な条件であるわけです。
その大事な条件を充たす、私の知った限り初めての人物は甕依姫なんです。これがひとつ。さらに次の問題としましては、当然ながら巫女である。この話は簡単に言いますと、ようするに、あらぶる神が、これは私は麁猛(そもう)の神という字ですが、イソ猛(たける)の神、大国主の子供であると思います、それを祭る部族が坂の上におって、非常に人々を苦しめ、「半死半生」の人々がおびただしく出て来たという事件が書かれているわけでございます。それに対して従来の読みとしましては筑紫君、肥君らが、これにもうほとほと困り果てて、その結果、この筑紫君の祖先の甕依姫というのを「祝はふり」にして、そしてこれを祭った・・・と。その結果、いわゆるタタリといいますか「半死半生」事件は終り、解決できたと。こういうふうに『岩波古典文学大系』「風土記」なんか、その他の「風土記」なんかも皆そうですが、一応読んでいたわけです。一応それで考えてみますと、まず名前が一致する。次は時代が一致する。時代というのは、結局今の甕依姫の、ミカというのは、ご存知のように弥生時代のこの博多あたりを中心に、今の釜山あたりにまでかけて、盛んに栄えた棺の形式です。私の言います甕棺(ミカカン)の時代ですね。つまり、あの甕棺(ミカカン)というのはあれに入ることによって、死後の永遠の生命が保証されるというように、一種の宗教的な魔術が流行して、その為にああいう、ここのご当地の方は誰もがご存知のおびただしいカメ棺、実は甕棺(ミカカン)が現われてくるとこう考えて間違いないと思います。
で、一方甕依姫(ミカヨリヒメ)は甕を寄りしろとして、この巫女の術をふるった人物ですからね。これは、弥生時代のしかも筑紫中心の地域の人物に他ならないと、こうなるわけです。弥生時代という点において、卑弥呼(ヒミカ)と甕依姫(ミカヨリヒメ)とは時代が大まかですが一致する。これが二番目。三番目は、今言った「巫女」であることが共通すること。で、四番目は、この筑紫君らの「祖」であると。単に一巫女でなくて筑紫君等の祖先であるという事は、本人も筑紫君であった可能性が強いわけです。つまり、権力者、中心者であった可能性が強い。そういう書き方になっている。本人は普通の巫女のひとりとして終ったんだが、いきなり子孫が筑紫君になりました、というケースも無いじゃないけど、不自然ですね。これは甕依姫も又筑紫君における権力者であった、という書きぶりだとして読むのが自然な読み方です。
そうすると、先に言いましたように第一権力者という条項にも合っている、と。この四点をあげたわけです。『古代は輝いていた」の最後のところで、私は「両者が同一であっても不思議ではない」という程度のことは言えるだろうと。つまり、「同一だと断言はできないが、もしこの両者が同一であるとしても矛盾は無い」という程度に止めるべきだ、「しかし、そういう矛盾は無いという程度の人物を発見したことを私は非常に深い喜びとする」というかたちでこの第一巻の実質上の終りを結んだわけです。ところがその後、問題が進展いたしました。実は、ここの文章は“大変な読み違い”がされてきていた。私を含めて、今までの他の学者もいっしょだと思うんですが、そのようなことに気がついてきたわけでございます。だいたい、『岩波古典文学大系』の「風土記」というのは本文を見る上でほとんど唯一、「風土記」を見る上ではあれしかないといったような感じなのですが。これはもう全面に著しい「原文改定」というか、書き直しに、書き直し、また書き直し、と、これでもかこれでもかという感じの連続なのです。
これは、また時間があれば明日でもいくらでも申しあげたいところなんですが、ここにもまた、たった一字ですが「重大な書きなおし」があったわけです。今私が言いましたのは、その『岩波古典文学大系」の文章、それを読んで見ますと、『昔、比の境の上に、麁猛神あり。往来の人、半ば生き、半ば死にき。其の数極いたく多さはなりき。困りて人の命尽つくしの神と曰いひき。時に、筑紫君、肥君等占へて、筑紫君等が祖甕依姫を祝はふりと為して祭らしめき。爾それより以降このかた、路行く人、神に害そこなはれず。是ここを以もちて、筑紫の神と曰いふ。』こうあったわけです。これは今先に、私が解説したような意味なのです。ところが実はここの中で一字直されている所があります。原文は「干時レ筑紫君肥君等占之令8ニ筑紫君等之祖甕依姫為レ一祝祭之」とあり、この漢文で書いてあるところに 8 と振ってある。『岩波古典文学体系』にですよ。その上の、上欄を見ますと、『底「今」。新考によって訂す』と。新考というのは、井上通泰という人が『西海道風土記逸文新考』というのを書いたのですが、昭和の初めに。それのことです。明治、大正、昭和の学者ですからね。それによってこの「今」という(底本、古写本はひとつしかない、その古写本の)箇所を「令」に直した、こういうことが上欄に書いてある。これを確かめるために、井上通泰の新考を東大の図書館に行って見て、私はもう本当になんともいえない気分がしました。彼はいとも簡単に“直し”ているのですね。「〜せしむ、という表現が他にもあるからここもおそらくそうであろう」ということだけで直しているわけです。
ところが、意味は全然かわってくるわけです、じゃ、「今」でこの文章を読んでみましょう。次の原文(古写本のまま)がそれです。『時に筑紫君・肥君等之を占う。今の筑紫君等が祖、甕依姫みかよりひめ祝はふりと為りて之を祭る。』こういう読みになってくるわけです。
で、「今」というのは、風土記では副詞に使っているのと形容詞に使っているのがありますが、ここでは形容詞に使っている例です。さてそこで、前の従来の解釈、私を含んで皆んなが疑っていなかったその解釈におかしいことがあった。というのは、時間の順序で考えてみますと、まず「筑紫の国風土記」の成立時という現在がありまして、それより過去に荒ぶる神麁猛神が半死半生の事件を起こしたと。それで筑紫君、肥君等が、「等」というのですから、日向君とか、豊後君とかいうのが加わっていると思うのですが、それらが困って占いをしたと。その結果、筑紫の君等の祖先にあたる甕依姫を祝(はふり)にしたと。ここでは甕依姫は、過去の過去ですから、まあ古くさい英文法で大過去というのがありましたが、言ってみればその大過去にあたるような時間帯の人物で、当然もう死んでいる人物。それを呼び出して亡霊になってもらって祭ったという。なにか妙に不思議な神秘的な話ですね。古代だからそんなこともあるんかなあ・・・という感じで私も読んでいた。皆様も今まで読まれた時にそうだったと思うのです。ところが、私が疑問を感じて「祝はふり」という例を『古事記』『日本書紀』から全部抜き出して調べてみた。大変簡単なんですね。どれも全部生きている人なんです。神主と同じようなものなんですから。「祝」(はふり)というのは生きている人で当り前なんですよ。大田田根子だってあれは生きている人なんです。全部生きている人なんですよ。亡霊を呼び出して「祝」になってもらったなんて例は一例もないんです。
さてそこで、この、「今」という原文で考えて見ますと、これは「筑後の国風土記」というものの成立時点が「今」である。当然ながら、それが「今」の筑紫君だと言う話の「今」はこの時点に属する。で、過去のある一時点、麁猛神というのが非常にあばれて人々を苦しめた。実際その麁猛神をいただく人々が反乱を起したというか、その当時のノーマルな統治組織に従わなかったということになるんでしょう。で、それに対して一応ノーマルな当事者達が「万策尽きた」ということになって、当時生きていた、当然ながら当時生きていた甕依姫にこの解決を依頼した、と。甕依姫が「祝はふり」になって、生きた「祝」になってそして祈ったところ、この件が解決した、と。まあ、祈ったところというのは、文字通り“魔法で解決した”ということではなくって、恐らく、その麁猛命をいただいて自分達が無視されている事を怒って反乱を起こしたその人々に対する和解の儀式、あるいは和解すべき新しい宗教儀礼、そういうものを創造することに成功した、と。こういうことだろうと思うのです。まあ、変な話ですが、最近フィリピンあたりで現在の政権ができていながら、過去のマルコス政権ですかその系列の軍隊というものが、なかなか承知しないという話がありますが、ああいうのを参考に思い浮かべていただければ、こういうのはよくわかるかと思います。日本でもそうです。明治にああいう明治政府ができて以後、佐賀の乱とかなんとかいう言葉で表現されていますが同じようないろいろ事件がありました。まあそういうような類のことでしょう。
この場合は、大過去なんて変な文法用語を持ち出さなくてもよろしい。何よりも“亡霊を「祝ハフリ」にする”というような、他の用例に全く無い無理な理解をとる必要もないわけでございます。
こういう「新しい」というより原文通りの、古写本通りの理解に立ってみますと、面白い問題が出てまいります。
なぜかと言うと、まず先ほどは四つあげました。第五番目にですね。実はこれはもうまぎれもなく九州の北中部を中心にするいわば大騒乱。それはどうも出雲系の権力をバックにした、大騒乱が起きた話であるようです。これは例の「国ゆずり」、「天孫降臨」というのは言葉はきれいですけれども、実際は、私の理解では、壱岐・対馬あたりで天照大神を主神とした人達が筑紫にパッと降りて来たわけで、「出雲の大国主の了解を得たよ」と言って、“ボス交渉”みたいなものでここに乗り込んできたわけです。
だから、これもまた後で出ますが、そこに従来の神々は当然居たわけです。また、従来の支配者もいたわけです。それは追っ払われたわけです。ということはつまり、一旦は追っ払われてもそれだけで解決はしないわけです。そのまたあふりがやって来るわけですね。これは五年一〇年でなくかなり、あふりがつづく可能性があるわけです。そういう系列に立つ事件のようですね。
その大国主の子供の麁猛神をいただいた者のようでありますから、ついでに今言うと言いすぎになるかも知れませんが、後で、出てきます「部」の問題にも関係するようで、麁猛(そたける)とは猛部の長が猛なんです。ソというのはどうも地名で、イソないしソというのは地名部分と思われます。その猛部の長という、軍団の長みたいな名前を持った神様のようでございます。そのへんもなかなか示唆的でございます。いよいよフィリピンの話に似てくるようでございますが。とにかく、そういう九州北中部の大騒乱という間題が前提になっているという問題が出てまいりました。
それから今度は、第六番目ですね。生きている彼女の登場によってその大騒乱が終結した。この場合大事なことは、今までの当事者たち筑紫君、肥君等、恐らく他に豊君とか日向君とか、そういう人々、彼等の手ではもう収められないような大規模な大騒乱だったわけです。そこへ新たなひとつの方法論を、宗教的な方法論を持って登場した、彼女ひとりじゃないでしょうけれど、支える権力があったのでしょうけれど、登場した彼女の実力によって収まったというわけです。これがその第六番目のテーマ。最後の第七番目のテーマはですね、その後、彼女の血を継いだ末裔が筑紫の君になって現在に至っていると。これは、また後でも出てきますが、「県あがた風土記」という九州における最初の風土記は六世紀〜七世紀にできたと。それを近畿の天皇家の元明天皇の時に真似して、「郡」を単位にする「郡こおり風土記」、全国の風土記は「郡風土記」ですが、それを作ったところが、九州だけはなぜか、その郡風土記、「郡」を行政単位とした「郡風土記」に先立って「県」と書いた、県を行政単位とした「県風土記」が成立していたというテーマがあるわけです。これは私が「九州王朝の風土記」であるとして、論証したものです。詳しくは『古代は輝いていた』第三巻にも出ております。その「県風土記」というのは六〜七世紀の間に筑紫で成立していた、とこう考えます。それをもとにして、現在地点の筑紫君まで、この甕依姫の血筋がずっと連綿と続いてきているというわけです。
さて、これをいわゆる、倭人伝の卑弥呼(カ)と比べてみましょう。そうすると、卑弥呼の登場以前男王がいた。七、八○年。これは私が言います二倍年暦というものだと思いますので、実際はその半分、現代の我々の暦(こよみ)でいえば三五年ないし四〇年だと思いますが、その男王が統治していた。彼が死んで後、次いで男王が出て来たがそれに対して反対が起こって、もう倭国の中が乱れに乱れて収拾がつかなくなった。そこへ卑弥呼が登場した。で、「鬼道をもって衆を惑わす」という、その呪術をもって、混乱を防ぎ、収めるのに成功した、ということが述べられております。今の甕依姫の第五番目、第六番目の状況と一致しますね。
九州の北・中部に大騒乱があった。で、それを甕依姫の登場で鎮圧というか解決できたという。一致していますね、二つとも。しかし、見逃せないのは、卑弥呼が死んだその後、また男王がでてきた。しかしまた混乱が起こった。だから卑弥呼の宗女、宗女というのはこれは一族の娘ということですね。つまり、その彼女のストレートな娘である必要はないんです。しかし一族の娘ですから血はつながっているのです。姪とか、おばさんのなんとか、孫とかね。そういう血がつながっている一族の娘が「宗女」なんですね。だから壱与は卑弥呼の血がつながっている娘なんです。それが、また選ばれて、その結果再び倭国が収まった。で、彼女の名のもとに、中国、当時の魏から西晋に禅譲した直後だったようですが、絢爛たる貢物が贈ってきたという話で倭人伝は終わっているわけです。そこから後の話は残念ながらいわゆる『三国志』の対象ではないものですから、書かれてないわけです。しかし、卑弥呼は一代では終わりませんでしたよ、その血を継いだ女性が後を継ぎましたよ、と倭人伝は書いてあるわけです。で、その点も、甕依姫のこの話と、先頭部分は一致していますね。そして第二番目、時代が弥生時代という意味で一致している。第三番目、巫女であるという性格も一致している。第四番目に筑紫君等の祖という、つまり中心にいる第一権力者という点も一致していると。これは、私が『古代は輝いていた』第一巻ですでに述べたことである。ところがさらに、第五番目として、九州中北部の大騒乱の後に登場したという。で、第六番目に、彼女の呪術によってその大騒乱が終結したという。それから第七番目に、その後新筑紫君が、先程の半死半生の大騒乱が起こるそれより前を、旧筑紫君と仮に名をつけますと、今度は彼女の、甕依姫の登場以後が新筑紫君で、それがいわゆる皇統連綿じゃないですけれど、血筋が一貫してこの六〜七世紀現在に至っている。こういっているのです。この七項目において、甕依姫と卑弥呼は実によく一致もしくは対応しているわけです。私、これはもう不必要に遠慮する必要はないと思いますが、ここでも私は、両者が一致すると「断言」はしませんが、大変一致の確率は高い、九五%だか九九%だか知りませんけれども、大変高い比率をもって両者は一致すると考えていいと思います。断言はしませんけどね。先のように断片的資料だから中国の話までは出てきていない。これはまあ止むをえない性格の断片資料ですからね。断言はしませんけれど、非常に高い比率で両者は一致する。これに対して、いやそうじゃないやっぱりそれは違いますよと、言いたい人がいるのなら、いる事は大歓迎ですからね、その人は私が示したその一致より、もっと高い比率で一致する人物を、日本の文献の中から出してみて下さい。それを出して反対するのでなければ、「古田が言うから、駄目ですよ」、「あれは無視しておきましょう」。そこで「やはり卑弥呼は神功ですよ」、「倭迹迹日百襲姫ですよ」、「いや天照ですよ」、という議論を、「あれはのけにしておいてやりましょう」というんじゃ、私は本当の研究は進展しないであろうと。まあそういって言いすぎではないと思います。
これも余計なようですが、論をかみあわせるために申しますと、安本美典さんが最近『邪馬台国ハンドブック』というのを出されました。さっそく私も買って拝見しました。で、この間、つい一週間足らず前に東京の新宿の朝日カルチャーで、邪馬台国のシンポジウムめいたものがありまして、討論がやっぱり無いのですね。安本美典さん、水野正好さん、私、と二時間ずつやったのですが、その時も私は述べたのですが、このハンドブックは非常にわかり易くて便利ないい本だと存じます。ただし残念ながら、その今の卑弥呼(ヒミカ)、安本さんはヒミコですね、誰とが具体的に一致するかという事を最後に書いておられる中に、今の神功皇后、倭迹迹日百襲姫、倭姫を扱って、これは駄目だと。天照がいいんだと。もちろんご自分の意見ですからお書きになって結構ですが、ところが甕依姫と同一人物だという意見がある事は、書いてないわけです。私は、あの『古代は輝いていた』の第一巻を安本さんのところにお送りいたしましたし、で、そのハンドブックの最後に『古代は輝いていた」の三巻、ちゃんと参考書目録に出ているのです。で、その第一巻を見れば、その中の最後のハイライトは今の話ですから、最初のあの四項目の一致をもとに両者がイコールとみて矛盾は無いと、断言はしないが。こういうのですから、少なくとも「ハンドブック」だったら、反対は勿論結構なんですが、「こういう意見がある」ことは書いていただかないと「ハンドブック」として私は余り妥当じゃないのでは、と、こういう気がするのですが、どうでしょうかね。というようなことで「あいつはもうのけておけ。こっちで議論しましょう」という熊度がもしあるとすれば、それはやはりフェアーでないと思います。だから、第二版ででもなんでも追加してもらっていいですから、それを入れてそしてこれはこういう理由で駄目だと、これに対して自分が主張するこの人物の方がより対応性が高いと、こういう議論を私は今後やってほしい。こう思います。私自身としてはさっき言ったように、両者の一致性は極めて高度である、という風に思っているわけでございます。
さて、その次にもうひとつ触れておきたい点は、いわゆる狗奴国(くぬこく)と従来読まれておりました、私はコウヌコクと読んだ方がいいと思うのですが、これについてもちょっと面白い意見が見つかりましたので、これも時間を省略してちょっと付け加えさせていただきます。三觜(みはし)明彦さんという、変わった字ですが、この方から、いわゆる大三島(おおみしま)、広島県の南、そこは愛媛県に属しますが、ここの大山祇神社(おおやまつみじんじや)の資料を送っていただきました。ここの祭神というよりこの神社を造った人が、小千命であると、弥生時代の人のように書かれています。これも参考にならないかということです。いろいろな方が私を一生懸命励まして下さるのでしょうか資料を送って下さるわけなんですが、三觜さんから送っていただいた資料があります。これも非常に興味深いわけですが、その際私が考えておりますうちに、この狗奴国男王卑弥弓呼(ひみくか)、これも「弓」を何と読むか迷っていたのですが、これも「キュウ」ないし「ク」という『諸橋大漢和』などでは、そういう二つの音になっています。そうしますと、私はやはりこれは「ヒミクカ」ではないか。「ヒ」は例の太陽、「ミ」は例の神、ミカのミですね。神聖なる太陽の神聖なる神。「クカ」とは何かと言うと、「盟神探湯クカタチ」という有名な言葉がございます。「クガタチ」と濁って読むこともありますが。これはようするに、瓶の中に熱湯を入れておいて手を突っこませて、焼け爛れたらこれは悪い奴だと、間違っていると。焼け爛れなければ正しいと。こんなものはだいたい温度調節をちょっとやれば、どっちを勝たせるか、場をしつらえる人間の腕しだいだと思うのですけれども。ま、とにかくこれを「クカタチ」ということは有名でございます。タチというのは判断する、審判するという意味のタツという断定の断という字を書いた、その名詞形だと思います。そうしますと、クカというのはこれは要するに神意を伺って審判することを言うんだと、『岩波古典文学大系』の『古事記』のところにも註がでておりますね。このクカであろうと。つまり「太陽の神聖なる審判」という意味の名前であろう。だから、男王として王者として非常にふさわしい名前ですね。これも断定はできないけれども、まあこういう意味を持つ名前ではないかということまではいえましょう。例えば武彦なんて、“武勇の男”なんていう意味があるわけでして、何の意味かわからない名前っていうのは、あんまり無いわけですね。そういう意味で、やっぱり一応意味が納得できるってことは最低限必要なことだと思うのですが。そういう面で私はこの人物の名前はそういう意味を持つのではなかろうか、というひとつの試案を得ましたので報告させていただきます。これは場所はどこかという「議論」は、今日は抜きにしまして、場所についての結論だけを言いますと、瀬戸内海領域であろうというふうに思っているわけです。平剣領域。ところが私が“気持が悪い”のは、大三島の北の方ですが、そこに広島県、少年時代に過ごした三次(みよし)盆地との間ですが、そこのところに「甲奴郡」というのがございます。真中は「甲奴町」でございます。あれ、コウヌと読むんですね、コウナでなくて。あまりに音が一致しすぎるので何か“気持が悪い”ような感じでございます。もちろん類似の言葉はほかにもあります。「甲立こうたち」という、私の友人の住んでいる町も近くにあります。また、有名な高知県というのも、あれは土佐の方が古くて高知の方が新しいなんていうと、とんでもないことですよ。県名に使われたから新しくみえるだけで、高知という地名は非常に古い地名でございます。私の本籍地でございますがね。ああいう「コウ○○」という表現が瀬戸内海領域にかなりございます。さて、その話はこのくらいにさせていただきます。
次はですね。その魏西晋朝短里による九州王朝の立証ということですね。これも非常に耳なれないひとつの標題を立てさせて頂きました。私の『「邪馬台国」はなかった』以後の本をお読みの方はご存じのように、私は『三国志」の倭人伝に表われた里という言葉につきまして、従来の見解とは違った見解を出したわけでございます。従来の見解というのは、例えば白鳥庫吉、東大の白鳥庫吉が明治に内藤湖南と論争をやりました。その際にこの里に触れまして、これはいわゆる通常の里、いわゆる漢代の里なんですが、通常の里から見てみると約五倍の誇張の値であるということを述べて、だから五分の一に縮小して考えるべきだということを言ったわけです。相手の内藤湖南、京大の内藤湖南はそんな誇張した里なんかは相手にしない方がよろしいと。だから里の論議はいっさいカットして近畿説を導こうとしたわけです。ところがですね、私はこれに対して、いやそうではないと。これは『三国志』全体がこの短里と言うべきもの、一里が約七六メートルないし七七メートルの短里で書かれているんだと。私は『「邪馬台国」はなかった』では、まず七五ないし九〇の間と書いております。韓国の方四千里からその数値を導いて、次いで壱岐の島、一大国の方三百里から微差調整をして七五と九〇の間であり、かつ七五に近い数値という結論を出しているわけでございます。その後、谷本茂さんという京大の自然科学を出られた自然科学の研究者ですが、この方が『周髀算経しゆうひさんけい』という中国の周代の天文数学書、これは後漢末に編纂、註付きで編纂されたようですが、これに表われた里を三角法によって計算、これは純粋な数学計算をやられましてその結果得た数値が実は一里が七六ないし七七メートルであるということでございました。ということは、私が申しました非常に大まかな方法でやった目(め)見当が狂っていなかったということを裏づけされる、幸(さいわい)を得たわけでございます。私はこれに対して、魏・西晋朝の短里という言葉を使いました。なおくわしく申しますと、周代にこれが既に使われた形跡があると。周王朝全体かどうか知りませんがね。ある時期、ある時間帯、ある地域に使われた形跡がある。少なくとも『周碑算経』はその短里で書かれている。ところが、秦の始皇帝がこれを長里、一里が約四三五メートルという約五・六倍の長い里単位に直した。「新制度に変えた」とちゃんと『史記』にはそういうかたちで書いてある。それを前漢、後漢の漢が受け継いだ。ところが、魏、西晋朝はこの「周の里単位に復帰する」という立場をとった。それにもとづいて倭人伝も書かれたのである。ところがその西晋が終わったのが、三一六年。以後東晋になってから、西晋は洛陽に都があったようですが、東晋は建康、今の南京に都を移し、中国の南半分になったわけです。この東晋になってからは、再び秦・漢の長里に復帰した。それ以後現在まで中国ではこの長里が続いている。現在の中国では一里が約五〇〇メートル。日本の里とは全然違いますね。現在の、江戸時代・明治以降の日本の里とは全然違いまして、一里が約五〇〇メートル。ということは、四三五メートルをちょっと“水増し”して来たという感じの、ほぼ同系列の里単位で、これを私は長里 と呼んでいるわけです。日本の場合は、超(ちょう)長里ということになりますね。ウルトラ長里ってことになります。ところが、この私の理論に対して反対意見が次々と出てまいりました。そして「古田の論証は間違いである。三国志全体が短里で書かれているということはありえない」。ということを主張する人が出てまいりました。ところがこれに対して、私の方は、まず私の考え方が間違っていないという証拠はいっぱいあるのですが、その中で二つだけあげてみたいと思います。
『三国志』の「呉志」、の中に、「江東方数千里」という言葉が出て来る。「方」というのは正方形を考えて一辺が、数千里、それの二乗というわけですね。ところが『史記』に例の項羽をめぐる有名な文章にですね。「江東は方千里」という表現がある。「数千里」というのは、私の理解では「五、六千里」を意味すると思います。そうすると里単位が五、六倍、あるいは五、六分の一違うということが示されていると論じたわけです。ところがそれに対して反論があって、「いや数千里』というのは『一、二千里」のことだろうと、数歩歩く」とは、私は『一、二歩歩く」ことを言うんだ。」という人がでてきましてね。水掛け論めいて見えておったのですが、実は『史記』の中からはっきりした証拠が出てまいりました。それは、楚の国、これは洞庭湖の近所ですが、「楚の国が方五千里」といてある。これは『史記』に出てまいります。何力所か出てまいります。「楚の国が方数千里だ」ということを言っていっている箇所が出てまいります。としますと、「五千里」と「数千里」はほぼ同じというわけです。つまり「数千里とは、約五千里」と考えられていることは『史記』を見て対照すれば明らかであります。だから「数千里は一、二千里のことだ」「私はそう思う」「いや、私はそう思わない」と。これは水掛け論のようだったのですが、客観的な資料の示すところでは「数千里は約五千里である」と。だから「五、六千里」ということですね。ということははっきりしてまいりました。で、『三国志」を書く人は必ず『史記』を読んでいる人でありまして、『三国志』を読む人もまた『史記』を先ず読んでいる人が読むわけです。『史記』は読んだことがなくて、初めて『三国志』を読むなんて人はあまりいないわけです。そうしますと、「数千里は約五千里である」ということはもう常識、洛陽の読者にとって常識になっている。しかも一方で『史記』に項羽のところで「江東方千里」と書いてある。これは有名な名文句であります。その同じ江東について、「方数千里」と書いているところを見れば、もうそれは里単位が五対一というような感じで違っているということは明らかであったわけです。この点、楚の例を出して私が『古代は輝いていた』第一巻で論じて以後は、それについての反論を見たことがありません。
もうひとつは、「赤壁の戦い」。有名な「赤壁の戦い」。洞庭湖の近所ですが。この場所で、『江表伝」という本の中に、これは『三国志』とほぼ同じ時期、西晋の時期につくられた本のようでございますが、いわゆる揚子江の北岸に曹操の軍が、魏の軍がきておった。そして南岸に呉の軍が滞在していた。その時に、黄蓋という名前の勇猛、知謀の武将が一案を案じて、枯れ草に魚の油を沁みこませてその上に幔幕(まんまく)をかけた、一〇隻の船を揚子江の真ん中へんへと漕ぎだした。相手側の曹操の軍はいったい何ごとが起きたかと、こう思って緊張して見ていると、真ん中くらいの所に来た時に、「降服する」、「降服する」と、皆いっせいに叫んだ。「あ、そうか」と思って緊張はゆるむ。さらに近づいて来て、「北軍を去る」、北軍というのは魏ですね、「北軍を去る二里余」のとき、その時にいっせいに火を放った。魚油の沁みた枯れ草にですね。そして兵士達は皆、もやいしてきたボートに飛び乗って南岸に逃げ帰った。特攻隊ではなかったのですね。そして無人の火だるまの船が、北岸に突入してその岸に縛られていた、流れが速いですから流されないように鎖で縛っていた魏の船に次々と突っ込んで、そしてその船は炎上していった。のみならず南から北に風が吹いている時に、それをやったわけですが、その岸辺においてあった曹操の陣屋、これにも火が飛びうつって炎上してしまった。その時曹操は見事にその軍を集結、さっと洛陽の方に逃げ帰った。この時形勢利あらずというときにモチャモチャせずにパッと退却するという、この見事さが、またのちのち魏の勝利につながってゆくのでしょうけれども。まあ中国人には有名な、人気のある“戦わざる戦い”でございます。ところが、ここにある「二里余」という表現がいったい何を意味するか。短里ですと、私の言う短里ですと、計算しやすいために七五メートルと考えますと、その二倍で一五〇メートル。「二里余」となれば、まあ一五〇から一八○メートルぐらいと言ったらいいですかね。そのくらいの距離を指すでしょう。そうしますと、あの真ん中へんで降服すると叫んだ中江(ちゆうこう)、真ん中の川というのはだいたい二〇〇メートルから二五〇メートルぐらいの距離がどっちからみてもあると。そうなりますと、南岸と北岸の間はほぼ、四、五〇〇メートルあることになるわけです。ところが、長里の場合はだいたいこの五、六倍ですから、二千メートルから三千メートル、そういう両岸の幅がないと、この話はなりたたないわけです。いったいどっちだろう。私もその当時戦争中にここへ行った方を、関西で尋ねましてですね、「あなた、赤壁へ行かれましたか」「ええ行きましたよ」。「川幅どのくらいでしたか」「いや一夜通ったのでわかりません」というような、今思い出すと本当に馬鹿みたいな話ですがそういう苦労をしたことがございました。ところが、北京の「人民日報」の日語版部に問合わせていましたら、半年近くかかりましたが返事がきまして、「赤壁の川幅は四、五〇〇メートルです」と。その時は、びっくりして飛び上がりましたですね。「ああ、やっぱりそうだったか」と。この点も『古代は輝いていた』等に何回か書いたのですがこれに対して、「いやこれも長里でいけますよ」という反論は誰の論文にも出ていないわけです。「古田の短里論なんて問題にならん」ということは、よく書いてあるわけです。季刊『邪馬台国』なんかにも、よく書いてありますけど。しかしそう書いてあるだけで、今のように、「右の点を長里で、こう説明できます」という話はまったくないわけです。だから言葉だけで“やっつけている”人たちがいても、私にはカエルのツラになんとかという感じで、結構でこざいますけどね。と言いますのは、こちらが大事だと思っているその論証に対して、「この古田の論証は間違っている」「正しく考えればこれも長里だ」と、それがあってこそいくら悪態じみた言葉はなくとも、それはこちらの心臓に一番突きささるわけです。それなしにいくら悪口めいたことを言ってもらっても、これはやはりカエルのツラになんとかということにならざるを得ないわけでございます。まあ以上、他にもいろいろこの短里の論証はしつこいぐらいやってきたわけですが、今日はこの二点だけ代表的に申させていただきました。
さて、本日のメインテーマはその方じゃなくて、朝鮮半島から旧本列島、それも九州、それも北部、筑紫界隈にこの短里は延々と使いつづけられております。
結論から言いますと弥生時代の一世紀頃から、八世紀初めまで使いつづけられていたという、この結論に至る論証を今からのべさせていただきます。まず『三国史記』に(脱解王ーー多婆那国)「其の国、倭国の東北一千里に在り。」と記されています。脱解王、新羅の第四代の国王です。これは倭人でこざいます。倭国の東北千里、そこに多婆那国という国がある。当然、これは日本列島の中にある国でこざいます。広い意味で倭人もしくは倭種の国でございます。その倭人ないし倭種の人物が、新羅国王になったというのは、全新羅の歴史中たった一人だけ、それが脱解王なのです。で、そこに非常に面白い話が書かれておりまして、その多婆那国の妃が子供を産んだ。産んだのはいいが、その子供は卵だった。で、非常に恥じてこれを船に乗せてその沖合に流した。それがまず金海、釜山の近所ですね、ここに流れ着いた。ついで慶州、新羅の都・慶州の海岸に着いた。おばあさんがこれを拾って帰って床の間においていたら、パシンと割れて、桃太郎みたいな話ですが、その中から輝くような男の子が出てきた。で、それを育てて後、彼を宮中に仕えさせた。彼は非常にその能力を発揮して第二代の国王の娘と結婚させられた。そして第三代の国王の遺言によって第四代の国王となった。で、非常に多くの治績を残したことが語られております。これが脱解王。その脱解王の話のさいに、多婆那国のことをのべる時に、その国は、「倭国の東北一千里にあり」と、書いてある。これも、もう私が書いたことですからくどくは申しませんが、結論から言うと、この倭国は、博多湾岸と考えざるを得ない。これは当然です。なぜかと言うと、脱解王の即位した一年目というのは、中国でいえば、建武中元二年、ご存知でしょう西歴五七年、そうです、志賀島の金印の年です。光武帝が金印を授けたというその年が、脱解王即位元年なのです。その当時金印というのは、その種族の統一の王者に与えられるものですからね。副王だったら銀印でそのもうひとつ下だったら銅印ですからね。金印を与えられているのは倭人の中ではあそこだけです。志賀島だけです。当然それが倭国の中心と東アジア世界、中国から見なされていたと考えるのが当然ですね。そうでしょう。で、『古事記』・『日本書紀』に金印の話がでてこないのはおかしいわけですよ。これも、先の話に戻るようですが、苦労して「一人が二人と同一人」というような、インチキのトリックを使って卑弥呼に神功皇后を比定するのはいいが、どうせそれをやるのなら、「誰が金印をもらった天皇か見せて下さいよ」ということになるのですが、それは全然ないようですからね。ということを見ましても、当然一世紀段階にに志賀島、別に志賀島そのものが都ではないのですから、博多湾岸、さっき私が言いました意味での弥生のゴールデンベルトを含むこの博多湾岸、筑紫の地帯にいた者が倭人の統一の中心の王者であった。と言うことは一番素直な理解です。
事実、朝鮮半島側の金錫亨さんなんかは、やっぱりそういう解釈をしておられますけれどもね。そういう解釈しか恐らくしようがないわけです。なぜとなれば、今のようにこれを博多湾岸とした場合、これは第一条件。第二条件としてこの千里をさっき言った短里とします。倭人伝でも同じような千里が出てきます。その東に千里また倭種ありと。私はだから関門海峡からむこうの、山口県よりむこうも、やはり倭人と同じ種族であると、倭種と表現していると、こう理解しましたがね。短里だと博多湾岸から関門海峡あたりまでが千里になるわけです。するとここも同じ表現でございますから、この「多婆那国」というのは、まず遠賀川の下流域から関門海峡にかけて、北九州市、下関市とその界隈が私は多婆那国であると、こう考えたわけです。で、これをそこからちょっとでも東へずらすともう駄目なんですよ。なぜかというと、「海流の論理」によって。と言うのは、つまりさっきの説話ではその沖合いに無人の卵だけ乗せた船を流したら、金海に着いた、慶州に着いたというのでしょう。たとえば、これを出雲あたりから流せば、対馬海流を逆流して、そんなところへ流れません。ところが、関門海峡より西でしたらね。皆さん博多の方はご存じだと思うんですが、我々はこの対馬海流といえば出雲へ流れているとこう思っているのですが、実はそれが大きく福岡県の北の海上で分岐する、分かれる。その分かれたものが今の釜山の沖合いを通って、朝鮮半島の東岸を北上する。そして東岸部の真ん中へんで、ウラジオストックの方から南下してきた寒流ですね、これとぶつかって、日本海でまざって沖合いに出る。だから、竹島のへんで暖流と寒流がまざりあうから魚がたくさん取れると。そこであの辺に出て行っては、ソ連船に捕まったり、朝鮮民主主義人民共和国の側に捕まったりする悲劇がくり返されていることは皆さまご当地でよくご存じのところです。つまり、この場合、「対馬海流が分かれて北上している。」というのがキイーポイントなんです。だから問題は今の関門海峡より西だったら、今のように流して、当然風が関係しますが、南から北に吹いていないといけませんけれども、南から北に吹くシーズンであれば、分岐する北上海流に乗れるわけですよ。そうすると或いは金海、或いは慶州の海岸に着けるわけです。ところが出雲からだったらもう海流を逆に廻らないといかんですから発動機や漕いでいけば別ですがとても無理なわけです。だから、この倭国がたとえば「大和の倭国」だったら、だめですね。そこから東へ千里なんて言えばね、短里だろうが長里だろうがもうその辺から、逆流して金海や慶州に着くのは、無理ですね。と言うことでございますので、条件的に非常に限定されるわけです。「倭国は博多湾岸」これは金印の問題から言っても明らか。で、この千里は短里。「多婆那国」は関門海峡止まり。東限が関門海峡止まり。「多婆那国」は、そういう性格を示しているわけです。これはお話ではあるけれど朝鮮半島の人たちはこの辺の皆さんと同じように、向こう側からこの海峡をよくご存じなのですから、その「海流の論理」に反したお話なんか話しても、聞く方は満足しないわけです。まあそういうことでございます。だからここにもまた短里が使われている。朝鮮半島側の『三国史記』にも短里が使われている。これが第一。
第二はですね、『日本書紀』。ここで崇神紀のところに、「任那は筑紫国を去ること二千余里北海を阻(へだ)てて[奚鳥]林(新羅)の西南に在り」と。任那のことを筑紫を原点として語っている場所に出てくるわけです。『日本書紀』にあるからこれは天皇家のものか、というとそうじゃないですね。なぜかというと、天皇家で『日本書紀』ができたの八世紀初めです。八世紀初めの近畿天皇家が長里であったことはもう明らかです。その証拠にいわゆる風土記、さっき言った『郡風土記』、全国の風土記は皆九州を除いては郡風土記一本槍。九州だけが二本槍になっているのですね。その『郡風土記』はもう全部長里です。それはそのはずで、当時の唐、中国の唐の長里ですから、それと同じ里を、里単位を用いているわけです。八世紀の近畿天皇家が、唐代の長里であることは誰も異論は無いわけです。その近畿天皇家が作った『日本書紀』の中に不思議にもですね、それとはまったく別種の里単位が現われている。それが今の箇所なんです。で、これは短里なら理解できますよ。だって倭人伝の中で有名な狗邪韓国から、対海国、一大国、末盧国とくるのが、千里、千里、千里でしょ。あれは、折れ曲がり、千里・千里・千里・計三千里。折れ曲がり三千里。ここは筑紫からの直線距離です。任那まで。真北二千里ですから。折れ曲がり三千里と、直線二千里ですね。だいたい対応する里単位なのです。だから、ここもまた、短里で書かれているわけです。私はこの『日本書紀』の中には九州王朝の「筑紫資料」が大量に使われている、朝鮮半島関係出兵の記事がそうです、と言うことを今まで述べてきました。『盗まれた神話」などでも述べてきましたがね。これもそのひとつであるということが考えられる箇所でございます。
さて、第三番目。日本の『古事記』『日本書紀』と同じように、朝鮮半島の『三里史記』『三国遺事』、『日本書紀』にあたるのが『三国史記』で、『古事記』にあたる説話を主としたものが『三国遺事』です。その内容については非常に信憑性が高いといいますか、後で造作して、デッチアゲた記事なんていうのはほとんど見あたらないわけです。年代のズレとか間違いは時にありますけれども。そういう『三国遺事』の中に「駕洛国記からくこくき」というのがありまして、これが数ぺージにわたって掲載されている。これが書かれたのは一一世紀という遅い時代ですが、その内容は伝承された内容であると書かれてあります。実に弥生時代の伝承を書いたものであるようです。この国の第一代の駕洛国の国王、これが立安と書いていますが、建安の四年のことのようです。建安四年は、一九九年、二世紀の終わりです。この時は卑弥呼は生きているのです。おそらく少女時代だと思います。この建安四年に第一代の国王のことが書かれている。彼が死んだ年が一五八歳。奥さんも一〇年前に死んでいますが、同じように一五七歳で死んでおります。ですからこれもいわゆる、二倍年暦、実際の人間でこれだけ生きるはずはありませんから。二分の一なら可能ですよね。だから倭人伝と同じ二倍年暦であると私は考えております。さて、今の問題はこの国王の墓を造った記事です。「平地に殯宮ひんきゆうを造立す」と書いてある。「殯宮」とは、何か建物みたいですがそうでないことはその高さを見ればわかります。「高一丈、周三百歩而葬之。号首陵廟也。」と書いています。後漢の尺で一丈といいますと、二・三五メートル。二メートルちょっとの高さの宮殿なんてのは無いですよ。だからこれは古墳なわけです。いわゆる古墳、あるいは古冢(こちよう)、塚(つか)というべきものです。で、問題は周三百歩。三百歩(ぶ)と訓(よ)んでもいいんですが、これはその一里が三百歩であることはよく知られているんですが、長里だと四三五メートル、短里だと七七メートルと書いておきましたが、七六、七メートルですね。で、この時形態が書いていないんです。格好が書いてないんですが、まずこれを円、と考えます。円と考えて見ますと三・一四で割りますと直径が出てくるわけです。そうすると、長里の場合には直径が一三九メートルぐらいになる。短里の場合には二五メートルぐらいになる。だいたい日本では、円墳で弥生時代、古墳時代を総なめして最大の円墳というのは、関東の埼玉県にあります。あの金文字の鉄剣が出たので有名な稲荷山古墳の西隣りに、丸墓山古墳というのがありましてこれが直径一〇〇メートル。関東、近畿等、日本列島最大の円墳でございます。一〇〇メートル。それに対して、一三九メートルなどというのはありませんし、第一、一三九メートルも直径があって高さが二メートルちょっとというんじや何だか変な、何とも言いようのない平べったい感じで、こんなものは想像できません。現実に日本列島にも朝鮮半島にもありません。ところが、直径が二五メートルで高さが二メートルちょっとと言うと、これはまさに弥生時代の権力者の墓として大変ふさわしい。我々はよく「甕棺かめかん」実は甕棺(みかかん)が、畑の中から出て来ると言いますけれど、現在は平地ですが、もともと、あれだけの宝物を持った甕棺を平地に、犬でも猫でも飛びぬけられるような平地の下に埋めているはずはないわけです。当然盛り土があったわけです。しかし若干の盛り土なんていうのはお百姓さんが簡単に平地にならして畑にしてしまうわけです。だから、一見畑の下から出てくるように見えているだけなんですね。で、それはだいたい高さが一メートルとか二メートルとか、まあ三メートルもあれば大変高いぐらいのものなんですね。それが弥生の権力者の墓なのです。そう見てまいりますと、短里ですと非常にふさわしい。これから五〇年ちょっと後に、対岸の筑紫、博多湾岸と、私は考えており、春日市の近辺じゃないという気がしているのですが、そこにあった卑弥呼の墓が、倭人伝によりますと径百余歩。これを短里で計算すると、約三〇メートル。「余歩」があるから、三〇ないし三五メートル。そうすると半世紀前の対岸で権力者の墓が直径二五メートル。卑弥呼も恐らくそこへ行って見たことがあるかも知れません。少女時代に・・・。ちょっと大きくなってからね、二〇代前半ぐらい・・・。そして彼女が死んだときには、三〇ないし三五メートルの墓がこちら側にたてられた。時代として全く無理がないですね。というふうに見てきますと、この『三国遺事』の駕洛国記の記事も短里で書いてある。ですからこの場合は「二倍年暦と短里」、倭人伝と同じなんですね。そういう性格の資料である、ということをご報告申しあげます。
さらに今度は、第四番目に『翰苑かんえん』。これは中国で七世紀の半ば白村江の直前に作られた、唐代に作られた本ですが、中国に原本が無くて太宰府にだけ残っていた、写本が残っていたという有名な本でございます。ただし全体じゃなくていわゆる夷蛮伝にあたるところ「蛮夷の部」というところだけが残っていたわけです。この中で新羅の瞬で「地ちは任那みまなを惣すぶ」という本文がありまして、それに対する註釈として〔唐書云『加羅国三韓種也」。今訊二新羅耆老一云「加羅、任那、昔為ニ二新羅一所ルレ滅サ、其ノ故、今並ニ在二国南七、八百里一」〕と。この註もだいたい本文と、それほど離れていない時期に作られたらしいですが、張楚金という人によって作られたようです。その中に現在新羅のおじいさんに聞くと「この任那という国は昔、新羅に滅ぼされた。その任那の故地こち、遺跡は、現在の、新羅の都慶州の南、七、八〇〇里にある」と。韓伝では韓地が「方四千里」です。つまり、東西幅は「四千里」です。これに対して、この新羅から任那のところまで七、八〇〇里というと、だいたいバランスがとれています。これがもし七、八〇〇里が長里だったらもうこれは博多なんかはるかに越えて熊本とかあっちの方まで届きます。五、六倍ですから。ということですから長里ではやはり理解できない。短里ならまことにバランスよく理解できる。七世紀半ばよりもうちょっと遅い時期の新羅の耆老(きろう)が短里でしやべっている、と言うその資料があるわけでございます。で、さらにですね。今度は第五番目。先ほど中しました『県風土記』、九州にだけ全国の『郡風土記』に先立って存在した『県風土記』というものが実は短里でできているということがわかってきたわけです。
[巾皮]揺(ひれふり)の[巾皮]は、JIS第3水準ユニコード5E14
第一にこの肥前の松浦の県の[巾皮]揺(ひれふり)の峯のことを書いたところで、「県の東六里に[巾皮]揺の峯あり」と。ところがですね、『岩波古典文学大系』には例によって漢文のところに「県ノ東六里」とありまして、その上欄の註に「 ーー底『三十里』概数記載とはしがたい。実距離によれば、六里または七里とすべきである。しばらく『六里』としておく」と。つまりこれは古写本はひとつしかないのですが、その古写本にはちゃんと『三十里』と書いてあるんです。ところが実際に『岩波古典文学大系』の編者が測ってみたら六、七里しかどうもないと。だからここは「六里」に私は訂正しておいた、と。こんなやり方をしていいのですかねェ。ちょっと驚きますね。この手法でやるんでしたら『三国志』の倭人伝だって、あの千里、千里、千里、なんてのを、私は測ってみたらまあだいたい二百里ちょっとしかなかった、なおしておく・・・。一万二千里こんなになかった、三千里になおしておくとか、二千里になおしておくとか、できそうですなァ。こんなことをやっているんです。皆さんは、私も含めて、これで読んできていた。ところが、実際考えてみますとこの編者はいわゆる長里(漢里は約四三六メートル。後世は五三五メートル)で計算したわけなんです。ということは、奇しくも六対三〇。つまり五対一になる、これは。つまり短里なら三〇里でほぼ合うわけなんです。そういうことがわかってきました。さらにそのつぎ。今度は熊本県の球磨の里のところですね。「県の乾いぬゐのかた七十里、海中に嶋あり。積ひろさ七里ばかりなり。名づけて水嶋と曰ふ」。岡山県の水島臨海工業地帯じゃないです。ここは熊本県の方です。熊本県にも二つございまして、山地の方にあるのとこの海岸近くにあるのと。海岸近くの方です。ここでも同じことでありまして、実は原古写本は、最初の方が七里、あとの方が七十里なんです。それをひっくり返したんです。『岩波古典文学大系』の編者が。それは何故かというと、水嶋の大きさが大きくなりすぎるというのです。積七十里というと、七十里、七十里の二乗でしょう。現実の水嶋よりうーんとでかいと。この場合また測ってなおすというのは余りにも気がさしたのか、上にある七里と七十里をひっくり返して七里にしておけば大体いいでしょうという。で、県からの距離、県がはっきりわからないものだから、平野部だからうんと離れた、とすればいいのだから、こっちを「七十里」にして、それで限定されている島の広さの方を「七里」にしたと。これはもう、校訂などという権限をずっと越えたものにしてしまっているように思うんですが、どうでしょう。しかし江戸時代以来このやり方でやっているのですよ。みんながやってきているのですよ。『出雲風土記』なんかあちこち、ずいぶんやっています。
さて、そこでですね、結局これも原古写本では短里だとやっぱり無理がないわけです。面積なんて特にそうですよ。一辺が五倍になっていたら面積は二五倍にふくれあがります。一辺が六倍になったら、面積は三六倍にもなり、どでかいものになってしまいますからね。一番目だちやすいわけです。と言うことで、つまり私が六、七世紀につくられたと考えるこの『県風土記』、これも実は短里でつくられている。近畿天皇家の採用した長里ではなかった。と言うことがでて来たわけでございます。さて最後、第六番目。『万葉集」。ここで「筑前国怡土いと郡深江の村子負こふの原に、海に臨める丘の上に二つ名あり。・・・深江の駅家を去ること二十許里にして、路の頭ほとりに近く在り。・・・右の事を伝へ云ふは、那珂郡の伊知の郷簑島みのしまの人建部牛麿なり」、ここに深江というのは皆様ご存じでしょうが、前原(まえばる)から今の松浦、唐津、そこへ行くちようど途中に深江というところがございます。神功皇后がここで石をあてて出産を遅(おそ)めようとしたという、あの石があるところなのです。そこで問題は、「深江の駅家を去ること二十許里にして・・・」とこうあるわけです。ところがですね。これもまた、今の鎮懐石神社、鳥居が書いてあるところがそうなんですね。私もこの前行ってまいりましたが、で、深江の庄、深江駅とは、ここは皆さんご存じのように二丈町に現在入っています。そこの文化財地図というのを、お亡くなりになった原田大六さんがお作り下さっているわけです。地図の下に、原田大六監修とちゃんと名前が入っております。それが非常にありがたかったのですが、それで見ますとまさに鳥居のあるところからこの深江駅のあるところまで、一五〇〇メートルないし二〇〇〇メートルという領域に「深江庄、深江駅」遺跡があるわけです。ということはつまり、一里を七五メートルにしますと、それの二〇倍というと一五〇〇。距離はプラスアルファーというと一五〇〇メートルないし二〇〇〇メートル。これにピシャッとあたっているわけです。これがもし五、六倍になりますともう糸島郡の前原(まえばる)の方へ行ってしまいます。とてもこんなところに深江庄や深江駅はないわけです。ということで、何と、『万葉集』にもまた短里が表われているという思いがけないことがでてきたわけです。でもこの場合は、ありがたいことに、ここにはこの時間帯がはっきりわかっている。巻五で天平元年ないし天平二年という時間帯の話であることが前後からわかるわけです。言いかえると、これは七二九年、『日本書紀』ができて九年目。天平年間です。しかもこの説話を誰が伝えたか。これは山上憶良が記録したのだろうという話や、他の誰かだろうという話があるのですが、それを伝えた人間ははっきり書いてある。最後に「那珂郡の伊知の郷、蓑島みのしまの人建部牛麿なり」と。これは福岡の方はご存じのように、福岡市内に蓑島本町というところがありまして、そこがこれであろうと言われているのです。つまり博多のおじいさんが八世紀の初めに短里でしゃべっているわけです。それを大和から来た官人(山上憶良たちが)が記録したわけです。ということは何かというと、この時点の大和朝廷は長里に決まっているのです。もうさっき言ったように、何回も言ったようにですね。『郡風土記』でちゃんと証明できるのですから、その他でも証明できるのですから。にもかかわらず、それと異質の短里でおじいさんがしゃべっているわけです。ということは私が最初に言いましたように、九州王朝は七世紀の終わりまであって、それが短里を使っていた、とします。今の『県風土記』が短里ですから・・・。そうすると、九州王朝が滅亡したのが七世紀終わりでありましても、それから三〇年後のおじいさんはなおかつそれでしゃべった。これは、現在でも、「里」が廃止されてメートル法になって何年たちましたかね(昭和三七年以降、完全実施)。もうかなり何十年かたったでしょう。それでも田舎へ行ったらおじいさんあたりが、「隣の村まで何里です」というようなことを言うでしょう。ちゃんと、江戸時代以来の里がなお生きているわけです。そういうケースが何十年かつづくわけなんです。そういう現象がここに起きているわけです。さてそこで、まとめて申しますと、私はよく言うことなんですが、二、三年前にテレビで見た実際の話なんですが、ニュージーランドの近く南太平洋のある島の、テレビ放送がありました。その島のお正月だったのですが、儀式が、行列が放送されていたわけです。それはなんとですね、英国のビクトリア王朝の儀式どおりにその行列が今も行なわれている、現地の人々に。それはもう、ロンドンに行っても、今は無いのです。ロンドンではもうそんなビクトリア王朝の儀式なんてやっていないわけです。ところが、そのニュージーランド近くのその島では、毎年厳重に行なわれているわけです。理由ははっきりしているのですね。つまり、その島はビクトリア女王の時に植民地になったわけです。だからそれ以来その儀式が延々とつづけられているわけです。と言う解説で放送がされておりました。これは文化人類学で有名な「ドーナツ化現象」という現象でございます。つまり、ロンドンという中心ではもうなくなったものが、周辺部の南太平洋の島で生きて二〇世紀に現在行なわれている、というケースですね。ほかにもございます。
例えば、日本語でわれわれが使っている漢音、呉音というもの、これはかつて中国本土で使われていた発音。少し訛(なま)ってはいるでしょうけれども。その系列なんです。ですから、さっきからやっている倭人伝、かなり現代のわれわれの知っている「読み」で読めるでしよう。ヒコなんていうのはね、ヒなんていうのはわれわれがどう見てもヒでしょう。あれでいいんですよ。ところがあれを現代中国語で読んだら、全然違うものになりますよ。だから、現代中国音よりわれわれの知っている音の方が、うまく読めるのが案外多いのです。もちろん全部じゃないですがね。これもやはりドーナツ化現象なんです。中国本土ではすでに失われた発音が日本列島の中に保存されているわけです。冷蔵庫みたいにね。同じくこういう里単位というものは、個人の趣味で使えるものではございません。当然、権力中心が一定の制度として施行して初めて使われるべきものです。としますと、朝鮮半島から、日本列島、この九州の筑紫あたりに、この短里が使われているということは、当然ながら中国本土にもかつて短里があったということです。里という概念自信が中国語の概念ですから・・・。で、それはいつだというと、さっき私が言いましたように、周にあらずんば魏・西晋朝です。それ以後は無いわけです。全部長里なわけです。中国本土は。にもかかわらず延々とこの朝鮮半島南辺、九州北岸近辺では短里が使われつづけられてきた。とすればその地域が短里の影響を受けたのはどこからか。それは魏・西晋朝からである。いいかえれば魏・西晋朝の影響を濃厚に受けた「邪馬一国」卑弥呼の国は筑紫である。しかもその「邪馬一国」筑紫の地では短里を延々と七世紀末まで使い続けていたのが九州王朝。だから八世紀になって、近畿天皇家が長里を施行しても、なおかつ、博多のおじいさんは短里で語っていた。こうなるわけですね。
思いがけない里単位問題からいわゆる、「邪馬一国」が近畿か九州かという、その答えも出てきた。のみならず「九州王朝」という概念もまたここで裏付けられることになったというわけです。私自身にも、この問題にとりかかったころ、『「邪馬台国」はなかった』なんかでは、思いも寄らないような結論にあうことができたわけです。もっといろいろお話ししたい点もございますが、また明日時間をとっていただけることもあるようでございますので、その時に申しあげるとしまして、本日は以上をもって私の話を終わらせていただきます。どうもありがとうございました。(拍手)
司会者(略)
日本国が建国されたのは(名前と実質が)天智一〇年である、六七一年である/天照と卑弥呼はイコールでない/『三国史記』『三国遺事』の倭/出雲朝廷を原点とする部/沖の島金の龍頭
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