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『シンポジウム 邪馬壹国から九州王朝へ』(新泉社 古田武彦編) 自由討論

3:23 午後の部

筑紫舞の上演(巻頭口絵)

司会者 (略)

舞「三夕さんせき
舞「七段」
舞「初瀬川」
舞「雲井弄齋」
舞「七段」

司会者 (略)

自由討論

司会者
 大変長らくお待たせいたしました。ただいまから始めます、いわゆる自由討論、これについて少し司会者の方でご説明したいと思います。
 今日は、講師の席と皆様の会場をひとつにしましてマイクを会場に二本用意いたします。皆様がた、まずどなたでも結構でございますから、先生をご指名されて、きっかけを作って下さい。どのような角度からでも構いません。ご質問をまずきっかけにして、討論を始めたいと思います。その場合、必ず、お尋ねになりたい、あるいは討論をしたい相手の先生をご指名下さい。ただし、お答え出来る範囲と、出来ないところがあると思いますが、それは先生方の専門外のところに触れた場合になります。その時はご容赦いただきたいと思います。どうぞ肩の力を抜いて、これからの二時間ほどを、九州王朝、邪馬壹国、それから皆様独自のお説、邪馬壹国説や九州王朝説とは異なるお説で討論なされても結構ですので、反論多いに結構、同意も多いに結構、自由にディスカッションをしていただければと思っております。それでは、緞帳を上げることにいたします。

司会者
 では、ただいまから自由討論会を開始させていただきます。よろしくお願いいたします。
 さて皆様、会場の皆様から、我一番にということで、火をつけていただきたいと思いますが、どなたか挙手をお願いいたします。どうぞご遠慮なく。マイクがくるまでちょっと時間がかかりますのでお待ち下さい。

会場より
 それでは、古田先生にお願いします。先ほど私の質問にお答えいただきましたが、三番目の白村江の戦いに、九州王朝の筑紫君はでかけるのですけれど、その後に、斉明天皇等の大和朝廷の軍隊が朝倉あたりに常駐するわけです。これが、先ほどの回答から言いますと、またちょっとわからなくなって来たのです。と言うのは、継体天皇が大和朝廷(武烈までの王朝)を滅ぼしたわけです。で、その後に、こちらの磐井の後継者たちはと思っているわけです。と思っていたら、どうして白村江の時には、九州にまで軍隊を率いて来ているのだろうかと。そこがちょっとわかりませんので教えていただけないでしょうか。

古田
 回答させていただきます。さっきお話をいたしましたのは、六世紀の前半における継体時点の問題なんですね。ところが、その後どうなったかというと、結局、和睦したわけです。葛子との間で。『日本書紀』の伝えるところでは「糟屋の屯倉」献上ということで。近畿側もなんらかの代償を献納したかも知れないのですが、要するに、そこで和睦が成立したというのが結論です。それは、必ずしも九州王朝側に不利ではない条件だったようですが。その後、白村江まではだいぶ時間が経っています。その間に、多利思北孤 ーー「日出づる処の天子」というのは多利思北孤という名前ですがーー この王者は、「阿蘇山あり」という表現のしめす通り、九州王朝の王者であるというふうに、私は年来主張しているわけでございます。この論証はここでは繰り返しません。本で何回も申しましたので。多利思北孤は男帝である。推古は女帝である。両者は同一人ではない、というふうに。
 さて、そのようなことがあって、白村江の段階になったわけです。その時には、九州王朝と、いわゆる近畿天皇家側、近畿分王朝と言ってもいいのですが、これは必ずしも、正面切った対立関係ではなかったようです。その証拠には、今ご指摘になったような朝倉宮に斉明天皇が入ったということを見ましても、当然、朝倉宮は九州王朝の磐井の本拠、筑紫君等の本拠ですから。そこに入ったのですから、両者は協力して、唐・新羅の連合軍にあたるという、少なくとも建前はそういう体制であったようです。
 ところが、これも結論から申しますが、どうも、近畿天皇家側は、斉明・天智側は本気で戦う気持は無かったようです。と言いますのは、それを示します文献上の証拠は、『風土記』にございます。逸文の中で、備中の国の風土記の断片がひとつだけ残っています。そこに、非常に興味深いことが書かれています。今の岡山県ですが、そこに邇磨(にま)の郷(さと)という箇所、そこだけが残っています。それは、斉明天皇の時白村江の戦いがあるというので、軍勢が集められた。二万人集まった。ところが、少し待っておれというので待たされていた。そのうちに朝倉宮で斉明天皇が亡くなられた。そこで、その後、中大兄皇子が、もう軍勢を解散していいと、こういうことで、結局解散してしまったので、白村江には行かなかったと。こういう話が述べられておりまして、その二万というところから、邇磨という名がついたということです。最後のところはオチみたいなもので、地名説話の常であり、コジつけでありますが、そのコジつけの基礎になっているのが、白村江の話です。
 そこで不思議なのは、「斉明天皇が亡くなったから、もうよろしい、解散しよう」は結構なのですが、その後に白村江の戦いは行なわれているのです。大激戦が。「斉明天皇が亡くなられた。喪に服するから戦争を止める、だから解散する」なら分かるのです。ところが、戦争は続行どころか、大激突が行なわれているのです。にもかかわらず、その大激突の時には、いわゆる近畿側で招集した備中の二万の軍隊、かなりの軍隊は解散させられているのです。要するに、白村江の時には、近畿天皇家側は戦う意思を持っていないわけです。この風土記、逸文ですけれども、風土記の中では非常に信憑性の高いものです。それが引用された時期が、他のいかなる風土記よりも早い時期に引用されて、それで残っている文章なのです。それに述べられている。このことは、別の状況からも裏づけできます。
 これは、わかりきったことなのですが、近畿天皇家の、斉明や中大兄などの周辺の誰も、主だった臣下は戦死していないのです。大和朝廷の、大和界隈の豪族は。あの辺に登場する蘇我氏も。藤原鎌足もいますし、藤原氏一族もいるでしょう。ところが、ああいう人達で白村江で死んだと書いてあるのがありますか、まったく無いでしょう。つまり、大和界隈の、言わば、斉明・中大兄の、鎌足に最も近い人達は、誰一人死んでいないのです。戦死していないのです。しかも、それが些細な戦いだから死ななかったのだ、と言うことはできません。大激突で、中国側の歴史書や『三国史記』側に詳しく書いてあるように、本当に火の出るような大部隊、大軍船の大衝突であった。それは、見事にという言葉は変ですが、倭国と百済の連合軍は完敗をして、それこそ、負傷者多数どころではなくて、海の底に多く沈み、捕虜にもたくさんなった。第一、筑紫君自身が捕虜になっているわけです。にもかかわらず、涼しい顔をしているのが大和朝廷側で、誰も戦死したり捕虜になったりした気配がないわけです。これは不思議な話なのです。
 しかし、それは、今のそれを直接伝えた資料というべき、備中の『風土記』を見れば、その秘密、カラクリがわかる。つまり、大和朝廷側は実際には“降りて”いたのです。なぜ“降りた”のかと言うと、これもわかってきました。それも、細かい論証は抜きにして結論のところだけ申しますと、『隋書』イ妥国伝、普通倭国伝と言われていますが、イ妥国=タイコクと言うのが本来の原文です。ところがその最後に、結びに、「この後ついに絶つ」と。つまり裴世清がやってきて、多利思北孤と交歓、非常に歓迎されたとあって、倭国の使いを伴って帰るという話があって、その結びが、「この後ついに絶つ」と、この後両者の国交は無かったと、こう書いてあるわけです。ところが、『日本書紀』では、その後大いに天皇家は中国側と交際、国交を結んで、唐の使いなどを歓迎しております。だから、あれを見ても、「日出づる処の天子」多利思北孤が推古天皇では困る、聖徳太子では困るわけです。
 さて、その直後、唐の初め、唐初に、唐側は推古天皇に国書を送っています。これは『日本書紀』に載っております。その国書に曰く「倭皇」と。倭国の倭と天皇の、「倭皇」と、こういう名で推古天皇を呼んでいます。あなたの方から朝貢を持って来た、我々は非常に歓迎する、ということが書いてあります。完全に朝貢外交です。中国から見て、いわゆる臣下と見て「倭皇」と扱っているのです。これに対し、喜んで、またその答の国書を送った。その国書も『日本書紀』に載っております。部分ですが。ということは、「九州王朝」に対しては、“「日出づる処」と「日没する処」の天子どうし”というようなことでは、中国側では相手にできないわけです。「二人の天子」という概念は無いのですから。
 だから、そういう相手に対して、“偵察のため”の裴世清を遣わした後、「国交断絶」といいますか、「国交無し」の状態に陥ったのです。そして、その後、偵察してきた時にわかったのでしょうが、東の方に有力な、実際、実力においては大古墳が示すように、九州王朝以上に強大な勢力を持った豪族がいると。分家ではあるけれど、母家から出て、母家以上の勢力を築いている。これに対して国書を送って、「これからは、アナタを我々中国は『倭皇』とみなす。」そういう国書を送っている。朝貢と書いてあるのに、これに対して天皇家側は、喜んで応じたわけです。「日出づる処」と、「日没する処」の「天子」だったら、「朝貢」ということはあり得ないのです。九州王朝はそれを拒否した。そこで「対等を要求する九州王朝とは、もう平和的交渉無し」と。だから、白村江の戦いに至るのは、論理必然だったわけです。それに対して、近畿の天皇家は「朝貢関係」を受諾したのです。
 だから、聖徳太子の「対等外交」なんて大嘘でして、『日本書紀』がはっきり示しておりますように、聖徳太子は「朝貢外交」を展開したわけです。そこに重大な布石があった。推古天皇・聖徳太子の布石というのは非常に重要だったのです。「朝貢外交」を受け入れたという。その後ずっと、舒明紀の高表仁の来日などかが示しますように、近畿天皇家側は大唐国と友好関係にあったわけです。ところが、九州王朝は「天子天子」の立場ですから、ついに白村江の戦に突入したわけです。ところが、同じ倭人であり倭種でありますから、分家でありますから、近畿天皇家側は、いわば“応援”という形をとったのです。しかし、先ほどの備中の『風土記』が示しますように、また近畿天皇家の誰も主だった者が死んでいない事実が、何よりも雄弁に語りますように、実質上は“降りて”いたのです。だから、倭国側の大敗戦、「筑紫君」が捕虜になると。これは、ある意味では、近畿側にとってはチャンス到来といいますか、予想どおりの展開が出てきたわけです。
 白村江の翌年に、冠位を天智が制定したという話は有名です。
 あんなに大敗戦して半年後に、きらびやかな冠位を制定するのもおかしいということを、私は『古代は輝いていた』第三巻でのべましたが、さらにその八年後、今までの「倭国」、この「倭国」というのは、九州王朝です、これについても、また後で述べますけれども、“この「倭国」を廃止して、この大和中心の「日本国」と名称を変える通知を行なった”ようです。何でわかるかというと、朝鮮半島の『三国史記』、それの新羅の文武王の一〇年、西歴で六七〇年、その年に“「倭国」を「日本国」と改む”“「倭国」を更えて「日本国」と号す”という記事があります。それは、六七〇年の一二月なんです。この一二月という点も大事です。どうしてかと言いますと、年が明けて、月明けて、六七一年正月、天智一〇年、この時天智は大きな催し物をやりまして、いわゆる「大化の詔勅群」、大化の二年、三年というところにズラーッと十数個の詔勅が並んでいますが、それを施行した、という記事があります。時間が無くならないうちに、大事な問題を真っ先に言わしていただきます。
 実は「大化改新」という、我々が良く知っている言葉ですが、あれが実は“明治政府のスローガン”なのです。正確に言うと、明治二〇年に杉浦重剛等が書いた、『日本通鑑』という本で「大化改新」ということを言うわけです。で、それを言うのは、当然明治維新のためです。“かつて「大化改新」で、蘇我氏の壟断(ろうだん)を押え、天皇親政に戻したと。同じく、江戸幕府の壟断に対して、「明治維新」が行なわれて天皇親政に戻った。”こういうわけです。日本の歴史を一言で言えば“古いにしえの「大化改新」、今の「明治維新」”これで全部、日本史は終わるわけです。そういう“スローガン”を立てたのが明治政府です。杉浦重剛等が始め、それ以後ずっと皆さんが習ってきたのも。「大化改新」というのは、必ず教科書でお習いになったと思います。
 ところが、『日本書紀』には「大化改新」という言葉は無いのです。確かに、大化時点に「詔勅」は次々に出ていますが、よく読むと「詔勅」が出ているだけで、「それを施行した」と書いてあるのは、天智一〇年です。だから、元明、天正なんかの即位の詔勅が『続日本紀』に出て来ます。聖武とか、孝謙、桓武とかは全部、「私たちは近江の大津宮にしろしめす、天智天皇がおつくりになった『不常典』によって即位します」と、こう言っているのです。決して、「孝徳天皇の大化改新」なんて言わない。要するに、“天智天皇が天智一〇年に、「大化の詔勅」を実行した。そして、いわゆる「日本国」を創建した。それを受け継いでゆきます”と、こういうわけです。ところが、なぜ、それでは、「倭国」をやめて「日本国」を創建したという記事が、『日本書紀』の天智一〇年に無いのかという問題になります。これは私の『古代は輝いていた』をご覧になった方は、第三巻の最後に「郡評論争」について書いてあります。と言うのは、実際は、「評」という制度が ーー私はこれは九州王朝系の制度だと思うのですがーー 七世紀末までつづいていた、八世紀初めから「郡」になった、ということはもう「郡評論争」の結果はっきりと答が出ているわけです。ところが、本当の問題はまだ終わっていないわけです。
 なぜなら、そういう場合、自然発生的に「評」が止められ、自然発生的に「郡」が始まるわけはないのですから、当然、「廃評建郡」の詔勅が大宝元年(七〇一)頃に出たはずなのです。ところが、それは『続日本紀』に無いわけです。なぜかと言うと、『日本書紀』の頃から、ずっと「郡」であったように書いてありますので、つまり「評」という制度が、あたかも存在していなかったかのように扱っておりますので、実在したはずの「廃評建郡」の詔勅は、見事に除かれているのです。同じく、『日本書紀』という本は「日本国の正史」です。それはもう、神武天皇から日本国だ、という体裁になっている。神日本磐余彦というように、「神・日本」となっているでしょう。あの辺の天皇は、「日本」、「日本」と書いてあるのです。「全部、最初から日本国です」という“建前”にした歴史書を作った。だから、今さら、“今までは「倭国」でした、今から「日本国」にします、中心点も移りましたぞ。”という詔勅を掲げるわけにはいかないわけです。だから、それは省かれているのです。しかし、“隣国”はそれを記録したわけです。新羅が自分勝手に、「あの国は国号を変えました」ということを作って載せるということはあり得ないことです。年代を全くまちがえるなどということも、この時期では容易には考えられないですから。それは、“正月にこれをやるから、お宅も出てきてほしい。もう戦争も済んだし修復しましょうや”、と、そういう連絡を一二月に行なったから、向うは一二月の記事に出ているわけだ、と思います(もっとも一年誤差」問題はありえます。白村江の戦の例から見て。 ーー別述)。
 と言うようなことで、この辺のところも非常に面白い。特に私が今言いました、いわゆる、日本国が建国されたのは(名前と実質が)天智一〇年である、六七一年であるというテーマ。
 この一週間程前の日曜日に、東京にいた時に発見したテーマでございますが、この場ではじめて申させていただきました。

司会者
 以上、古田先生からの回答でございます。さて、次の方、先生をご指名の上お願いします。

会場より
 司会者の方から、反論も大いに結構という話がありましたが、私は「卑弥呼研究会」の熊本県支部長の「徳満」でございます。私は熊本県生まれで、根底に熊襲精神が入っているように思います。だから、私は九州王朝論に非常に賛成ですが、その時期とか終末については、多少異論があります。私は基本精神として、卑弥呼に相当するのは、日本神話で伝わっている「天照」以外にないと思います。だから「天照」と「女王」は同一人物だという見解から考えております。その後、狗奴国と相い戦うという記事が倭人伝にありますが、あの結果については何ら書いていないのです。他の文献を見ても、狗奴国との戦争がどうなったかということは書いていません。しかし、これは、実は狗奴国が勝った。その狗奴国王の援助によって壹与女王が始まった。そして、それ以後、邪馬台国の正当派は狗奴国、いわゆる肥後王朝として西日本全体を制圧しておった。これこそ本当の九州王朝だと私は思うのです。
 その九州王朝の中から、この狗奴国の制圧に不満を持っていた、邪馬台国の系統を受け継いだ神武一派が東征して、大和方面に政権をうち立てた。そして、それが強大になって来ると、今度は逆に自分の本国であるところの九州王朝を征服にかかった。そして、いわゆる熊襲征伐の時の、邪馬台国の本流であった、田油津媛とか八女津媛とか、あれこそ本当に邪馬台国の女王の系統を受け継いでいったのだと私は考えています。その本国を逆に征服しているのだから、大和朝廷こそ本当の反逆者だと思うのです。そして最後に残った熊襲は、次第に制圧され、力によって押えつけられていったわけです。

司会者
 ご質間の主旨、要点を少しまとめて講師をご指名下さればと思います。

会場より
 本当の九州王朝は熊襲征伐が終わった頃に大和朝廷に制圧されたから、四世紀半ばごろまでに終わったと。だから「磐井の乱」というのは九州王朝の反乱ではなく、いわゆる今まで大和朝廷と九州邪馬台国の残党とが平和共存していた時、たまたま九州内部の不満が爆発して、磐井を仕立てて反乱したというふうに、私は考えています。

古田
 ありがとうございました。今のお話について、まず第一点。これは、自分の信念としてそう思いたいとおっしゃるのなら、天照は卑弥呼であると。これは勿論結構でございます。
 ただ、これは学問上の議論であるということである場合は、天照と卑弥呼はイコールでないという理由を昨日申しました。昨日お話したところは、「錦」の問題。天照は「の女神」ではない。「布ぬのの女神」と描かれていると。織物にまつわる女神としては描かれているが、その織物は「錦」ではない。しかし卑弥呼は「の女王」である、これは時代が違うと。次に、「天照」については、「中国へ使いを送った」という事には ーーあれだけ『古事記』『日本書紀』の神代の巻で最も詳しく書かれている神であるにもかかわらずーー いっさい触れられていない、これも卑弥呼とはちがう、ということを申しました。その他にも理由がありますが、そういう点について ーー今日でなくても結構ですがーー 、ご反論をいただき、「古田が『甕依姫』と結びつくのを見つけたと称するのは、“ここが間違いである”」と、言っていただくと大変有難い、と思います。この点は、「卑弥呼研究会」で頑張っておられるというのですから、できれば研究会の方で私を呼んでいただければ、私は大いに皆様の「集中攻撃」を受ける中で、ひとつ、ひとつ答えさせていただきたいと、こう思います。
 それから、第二点ですが、いわゆる弥生時代の邪馬一国はどうかという問題は、この前言いましたように、国の名前はともあれ、考古学的なの面から見ると、やはり糸島・博多湾岸から太宰府、朝倉に至る、「筑前中域」というところに中心がある。と言うことですから、卑弥呼の時代は、その辺の地帯が中心だと考えざるを得ないと、こう思うわけです。それが弥生時代の邪馬一国段階の話です。それから、次の「九州王朝」という名前ですが、これは、私が作った名前ですので、これを、“熊本中心の権力こそ九州王朝と考える”と言われるのは結構ですが、ただ私がつけた名前ですから、筑紫を中心の王朝、しかも弥生時代から七世紀終わりまで続いた王朝を、私が「九州王朝」と名付けただけですから、“熊本中心の惑る時期の権力を、私は九州王朝と呼びたい”と言うなら、それはそれで結構でございます。例えば、鹿児島の方は、“やはり鹿児島の勢力を九州王朝と呼びたい”と、これも結構なんです。これはネーミングの問題ですから、どれを九州王朝とお呼びになるかは自由であろうと、こう思います。ですから、これは論争でどっちが九州王朝かとは論じられません。文献に「九州王朝」と書いた文献は無いのですから。これは、ご自由でいいと思います。
 その次の問題は、いわゆる、“四世紀でもう卑弥呼の王朝は滅亡したのだ”というお話でございますが、その点も非常に大事な問題ですので、一言申させていただきます。と言いますのは、朝鮮半島側の歴史書、いわゆる『三国史記』『三国遺事』、そこには、藤田さんも言っておられるように、倭国・倭の記事がたくさん出てきます。繰り返し、巻き返し出てまいります。ところが、その中に倭の首都を示している記事が、私の見ますところ、少なくとも二回は明確にあるわけです。一回は、昨日も申しました、いわゆる「脱解王」の所で、「倭国の東北千里」というあの記載はどう見ても、あの倭国は博多湾岸と考えざるを得ない。しかも、時期が志賀島の金印の時期で.こざいますから、当然、博多湾岸が東辺の多姿那国に対する中心である、そう見なければ理解できない資料でございます。ですから、金印が、「倭の奴の国」と読んでいるのは間違いです。「倭の国の中の傍国」という読み方ですから。三宅米吉は“邪馬台国近畿説”の方ですが、その人が読み始めた読み方なのです。そうではなくて、やはり、倭奴国と、匈奴と同じように倭奴と、倭人の中心国という形の理解で金印をくれたわけでございます。これが第一点。
 第二点は、五世紀の初めです。いわゆる「朴堤上」に関する有名な説話がございます。『三国史記』『三国遺事』に出てきますが、『遺事』では金提上です。これは、新羅の訥祇王(四一七〜四五七)のときのことです。彼が国王の位についた時に、楽しい顔をしていない。臣下が「どうしたのですか」と聞くと、「私の兄弟が人質にやられている」と、一方は高句麗へ、一方は倭国へやられている。それを思うと、私だけが国王になったからといって喜ぶわけにはいかない」と。「なるほど」ということで、臣下たちが協議して、古老の知恵を借りて、“知謀、膽略の人”朴堤上を選んで、彼に任せる、ということを決めたわけです。で、朴堤上はまず高句麗へ行って、説得して王子を返してもらった。これは『三国遺事』の方では、説得してではなく、「夜ひそかに脱出して来た、王子を連れて。」と書いてあります。帰って来ると、今度は倭国へ乗り込んで行って、「自分は新羅国王に愛想が尽きた、倭国に味方をしたい」と言うわけです。倭王は、初めは信用しなかったが、いろいろ、朝鮮半島の最近の情勢のことを述べた。しばらくしていると、果たして彼が言うとおり、百済とかその他の動きが始まってきた。そこで彼の言うことを遂に信用した。そこで、彼は行動を起こすのです。
 つまり、倭国の都は海に臨んでいた。湾に臨んでいたのです。そこで魚を釣って、倭国の人たちと夕方、宴をやって楽しくベッドについたと見せかけて、その王子を逃がすわけです。船を用意してあるから逃げなさいと。私が残りますと。で、王子はためらったけれども、彼にせき立てられて船に乗って脱出した。夜が明けてきた。ふだん王子が起きてくる時間になっても起きないので、倭国の番兵がのぞいてみると、人がもう変わっていた。朴堤上になっていた。驚いて船で早速追いかけた。ところが、煙霧の中に船は逃げて新羅の領海に入ってしまった。そこでついに追手は断念せざるを得なかった。夜明けのことです。というふうに書かれています。その後、倭国王は朴堤上を引き出してなじった。朴堤上は、“私は新羅国王の臣下だ。お前、倭国王なんかの言うことは、まったく聞くつもりはない。”と言った。で、倭国王は怒って、鉄板を焼いて彼をそこで炙り、手足をバラバラに斬って殺した。朴堤上の妻子は、その倭国の見える新羅の巌頭に立って、袖を振って嘆き悲しんだと。こういう話でございます。
 これは韓国にせよ、朝鮮民主主義人民共和国にせよ、その人々は誰でも知っているのです。我々が桃太郎の話を知っているように、あの人たちは皆な子供の頃から聞かされている話なのです。ところが、問題は、この説話、有名な、あまりに有名な、この説話に出てくる「倭国の都」はどこか、ということです。五世紀初めです。四一七年です。そうすると、これがもし、近畿天皇家でしたら、仁徳天皇などの時代ですから、当然、大和ないし難波である。大和は海に面していない。仮に難波にしましょう。しかし、難波から船で脱出して、夜明けに気がついて、追手側は追っかけて、もう諦める。駄目だと、諦める。新羅の領海に入ったと。そんなことがあり得るでしょうか。これは、早馬で山陽道を走るなり、狼煙(のろし)で合図を送れば、関門海峡にそれが到着して、“通せんぼ”をしているとか、簡単なことのはずなのです。少なくとも関門海峡をいかにして突破したか、というのが、スリルある英雄譚になるのですが、それは全くないのです。だから、大阪湾は失格。
 じゃ、何処かというと、これは、まず九州北岸と考えねばならない。その中で、恐らく、博多湾岸は最も適当です。ここらあたりの海辺で船遊びをする。そして、そこを一夜脱出して志賀島から湾外に出る、夜に紛れて。追手が行く。その時要するに、対島海流なのですが、ご当地(博多)の方はご存知のように、出雲へ行くのと、慶州の方へ行くのとが分岐しているわけです。東朝鮮暖流ですね、分岐している。だから、もう、これに乗ってしまえば、追手は駄目なのです。これ以上追っかけていったら、いっしょに慶州へ行ってしまうのです。だから、問題は、この海流に乗るまでの勝負。それが“深夜から夜明けまで”の勝負なのです。これは、土地勘というか海勘にぴったりなわけです。だいたい、朝鮮半島側の人はどこの、よその国の人よりも、この日本列島のことを知っております。地理を知っております。海流を知っております。大阪湾だって、昔からよく知っているのです。だから、大阪湾を「倭国の都」としたら、あんな話にはならないわけです。
 ですから、この「倭国の都」はまず海に面している、で、それは九州の北岸部である。こういうことが示されている。言いかえると、例の「脱解王」の時の倭国と同じように、博多湾岸を含む筑紫の倭国である、ということになるのです。これは五世紀初めですから、「倭の五王」の時代です。だから、「倭の五王」は近畿天皇家ではあり得ない、九州の王者である。私の諭証はここにも強い裏付けを持っで、いるのです。だから、“いや、倭の五王はやっぱり近畿天皇家です”と言いたい人があるのなら、回避せずに、“古田が出した問題は知らない。それは逃げておきます。古田なんて相手にしません。”というようなことをやらずに、この説話に正面から取り組んで、これが大阪湾でもいいんだとか、有明海でもいいんだとか、そういう論証をやらなければいけないわけです。という事が私にとっては非常に大事なのです。で、要するに『三国史記』は、この二つの説話が、倭国の都の位置のはっきりわかるケースです。それ以来、都が移ったという話は全く無いのです。だから、「邪馬台国東遷」なんてやったら、たとえ余所(よそ)の国は知らなくても、新羅が知らないはずはないのですよ。韓国が知らないはずはないのです。夜逃げするのではないのですから。「都が移る」ということです。今まで交渉され、侵略されている相手ですから。“それを知らずに記載しない”ということはありえません。それほど、隣の国を馬鹿にしてはいけません。
 やっぱり向こうは“わかっている”わけです。その“わかっている”向こうの証言、これは天皇家と違って自分の方の利害は無いのですから。その第三者としての情報によれば、要するに、弥生時代も、古墳時代も、いわゆる博多湾岸を含むこの筑紫の地こそ倭国の地なのです。勿論この場合、どうも古墳時代に入ると、バックの筑後川流域の方に中心が移った形跡は十分にございます。ご質問にもありましたが、いわゆる磐井の岩戸山古墳などもバックにきています。これも、もしかしたら、これから先は私の推察ですが、やはり、朝鮮半島側での戦闘との関係があるのではないでしょうか。博多湾岸だったら、敵がパッと上陸作戦で入ってこれますから、だから、中心をその後背地に移した、という事ではないかと思うのです。とにかく、倭国というのは、要するに、弥生時代も古墳時代も、いわゆる博多湾岸が中心である。それが変わるのが、先ほど言った、文武王一〇年、六七〇年。「倭国」が「日本国」に変わったという記事までは、「変化」は書いてないわけです。
 なお一言、最後に面白い問題を申しあげますと、初めて申しあげることなのですが、私は、高句麗の好太王碑文に関する情報は、五世紀の初めに倭国に伝わっていた可能性が高いと、こういう発見をしたのです。言ってみれば、わかりきった話なんですが、今の「朴堤上」の話、この朴堤上が人質回復劇をやったのは、四一七年から四一八年のことなのです。ところが好太王碑が建設されたのは、好太王が死んだのが四一二年ですから、その子供の長寿王がそれを建てたのが四一四年。四一四年の三年後にこの人質奪回事件が起こっているのです。
 つまり、朴堤上が最初に高句麗王の所へ、人質をとり返しに交渉に行ったのは集安へ行ったのです。まだ長寿王が平壌の方へ遷都する前ですから、集安へ行って交渉しているわけです。だから、あの麗々しい石碑が建って三年目ですから、藤田さんが苦労された碑文も全部朴堤上が傍に立ったときは“そのまま見えていた”のです。それで、得々として向う側は説明をしたでしょう。「我々は倭を完全にやっつけたんだぞ」というようなことを説明したと思うのです。あれを見ずに集安に入って帰るわけにはゆかないと、私は思います。その朴堤上が今度は、倭国へその翌年ぐらいに入ったのです。そして、朝鮮半島の情勢について、倭王が知らない情報を詳しく伝えたというのです。それを倭王が初めは信用しなかったが、その後の動きを見ていると、なるほどそうだ、と、彼の情報は正確だ、ということで、信用したのでしょう。朴堤上は前に行ってきた集安の話、その時建っていた巨大なる石碑の話、それは必ず話しただろうと。これは想像だろうけれども、私はほとんど間違いがない想像だと思います。
 そうすると、その時倭王、これは多分倭王あたりの時期のようですが、あるいは倭王の王子が讃であったぐらいのところですが、その倭王は好太王碑の情報を、このときキャッチした可能性が高い。ところが、『古事記』『日本書紀』とも、好太王碑の話はまったく出てきません。これも、この時代の倭王が応神や仁徳ではなかった、という事実の裏づけもしくは“補いの証拠”になるかも知れません。そういう面白い問題がございます。

司会者  (略)

西山村光寿斉 “ご挨拶”  (略)

司会者
 古田先生、一言、ご挨拶をお願いいたします。

古田
 本当に、今日はよくきていただきまして、すばらしい舞を拝見して、どうもありがうございました。中小路先生といっしょに、と拝見していたのですが、本当に感銘をおぼえました。いつも拝見していた「翁の舞」以外に、こういう舞があったのかと。で、私はやっぱり、いわゆる九州王朝というのは、今も言ったところなんですが、ほんの僅かな短命なものではなかったと、少なくとも弥生から、縄文からだと思うのですが、少なくとも弥生から七世紀の終わりまで、連綿と筑紫の地を中心に繁栄した文明であると。それも王朝の文明であるから、当然、いわゆる“洗練された舞楽”が存在していたはずである。それは、『続日本紀』にも、ちゃんと天皇家側もそのことを記録しているのですから。と思っておりましたら果たして、という感じで、この前も「翁」を見て本当に胸にせまって涙したわけですが、今日も、非常に深い感動をおぼえながら、拝見しておりました。しかも、今おっしゃいましたように、この筑紫の地にこられて、まだ短い間に、こういうすばらしい若い方々が、お弟子さんがたがお出来になりましたことは、もう何とも言いようのない喜びでございます。どうぞ、今後も末永く頑張って下さいますよう、お願いいたします。どうもありがとうございました。(拍手)

司会者  (略)
〔西山村流一同退場〕

司会者
 それでは、マイクを会場の方にお戻しいたします。つづいて進めてまいります。

藤田(略)

会場から(略)

藤田(略)

司会者
 その点で、ちょっと補足をお願いします。

古田
 今の問題の補足をさせていただきたいのですが、要するに、藤田さんの言われた点と同じことになると思うのですが、今の質問された方は非常に重要なことを言われたわけで、好太王碑だけからはあのの正体はわからないという、これは非常に重大な指摘だと思うのです。これを今までは、戦前も戦後も、わかっている、と扱ってきたわけです。これは井上光貞さんがやられた有名な論証で、この好太王碑を論証に使われたわけです。つまり、津田左右吉によって、『古事記』『日本書紀』の説話は信用できないと。じゃ、どうかという時に好太王碑を見ればわかると。あそこにと出てきていると。大和朝廷が出てきているではないかと。それで、あそこに大和朝廷が四世紀終りか五世紀初めに出兵している以上は、当然、九州も、少なくとも九州は支配していたと考えなければならない。となると、東も関東まで支配していたと考えていいだろうと。つまり、大和朝廷はすでに少なくとも四世紀の終わり以前の段階に、東は関東から西は九州までの統一をなし遂げていた、とみていいと。こういう有名な戦後の論証の出発点になったのです。
 ところが、その場合、お聞きいただいてわかりますように、あそこに出てくるは大和朝廷だということは何の論証もされなかったわけです。これはもう“自明なこと”のように思われていた。ところが、今、質問者が指摘されていましたように、あの金石文だけからは、あのが何者かはわからない、という、これは絶対に正しい考え方なのです。これを原点にすべきだったのです。そうすると次は、あのが何者かという論証が必要になってくるのです。そうすると、今、藤田さんが言われましたように、あそこではに関して何の説明もなしにいきなり「以辛卯年」と始まっている。ということは、碑文を書く人も、見る人も、もう倭が何者かはわかりきっていたのです。ということは、『三国志』に書かれている「邪馬一国」の国であるわけです。だから、「邪馬一国」の国がどこであるかということは、もうストレートに好太王碑文の倭が何者であるかに、実は結びつく性格を持っていた。
 今度は文献を離れて「物」からいきますと、弥生時代の日本列島で中心は、さっき示しましたように、から言っても、から言いましても、この、糸島から博多湾岸、朝倉に至るこの地帯なわけです。あれはやはり朝鮮半島の人も知っているわけです。すると、倭人どもの中心は博多湾岸、糸島から朝倉に至るこの線だというのは、やはり三世紀・四世紀の朝鮮半島の人達の常識であったのです。それがあのとなっているのです。そういう点から考えても、倭はやはり博多湾岸を中心にする筑紫と。を日本語で読めと言えば筑紫(ちくし)と読んだらいいわけです。これがひとつ。次に、もうひとつの論証が今私が出しました例の『三国史記』の朴堤上の話、あそこの倭王、朴堤上を火あぶり、鉄板で焼いたという倭王は、当然、好太王碑に出てくる「」の倭王です。同時代ですから。好太王が死んで五年目の話ですから。そうすると、好太王碑に出て来る「」を支配する倭王は、少なくとも九州北岸、おそらく博多湾岸、特に『三国史記』は脱解王の時の倭国を博多湾岸と書いていますから、あれと同じ倭国・倭王だと思います。
 こういう周辺の確実な資料、それとの対比で、あのを決めていくというのが、私は論証だったと思うのです。それを本当は敗戦直後に、井上光貞さんがやられればよかったのです。ところが、やはり、「皇国史観時代」以来の常識で「とあれば大和」という、その概念で出発したのが、大きな問題を生じたと、こう思うわけでございます。

司会者
 もう一度だけマイクを先ほどの方にお返しいたします。

会場より
 あまり私が時間を取るとまずいので、一言だけ申し上げます。実は、今おっしゃったようなことを昨日お聞きしたかったわけなんですが、つまり、なぜこういうことを申しますかと言うと、九州王朝ということを、これだけ盛大にやっておられて、たいへん立派なことだと思うんですけれども、例えば「好太王碑」と「九州王朝」を結びつけるということは結構ですが、その場合、誰それも言っております、中国でもこれは九州の方だと言っておりますという言い方は、定説では、邪馬一国とあるのは邪馬台国ですというのと同じことだと、私は思うのです。これから、こういうすばらしいテーマを何べんもお話になると思いますけれども、その場合、ご自分の立てられた論議の根拠はどこにあるかということを、いちいちご面倒でもご発言いただきたいと思うわけです。

藤田(略)

司会者
では、話題を次に移したいと思います。

会場より (略)

中小路(略)

会場より
 今の質問に関連するかも知れませんが、これは、古田先生、中小路先生、藤田先生、それぞれの立場でお答えいただきたいと思います。今日の朝、中小路先生にお尋ねしていた間題ですが、万葉の地域を分類しますと、筑後と大隅の歌が出てこないと。例えば筑後守葛井大成(フジイノオオシロ)が太宰府の旅人の家では二首歌っている。それから、大隅の住人も太宰府では旅人の歌二首歌っている。で、大隅とか筑後という言葉は確か万葉の中にその二人の歌人として出てきますが、筑後の歌ば無いと。大隅の歌は無いと。私は、これは何か抹殺されたのではないかと。後で。というような感じがしきりにしてなりません。
 それで、そういうことが頭にあってかも知れませんが、自分でこの筑後というのを非常に、ある時覇に全てが失われた地域だというように感ずるようになっていた矢先に、「高良山」、筑後一ノ宮の「高良山」に神様が誰か解からないと。日本列島の中で、久留米の郷土史家古賀さんという方が、筑後一ノ宮は国幣大社(こくへいたいしゃ)ですから、そのお宮の神様が誰だかわからないというのはここだけだろうと、言っておられますが、戦前、それでは困るということで地元が太田博士にお願いして調べまして、古田先生はご存知のように、「高良山史」と十四のあれじゃないか、これじゃないかということを出されております。
 最近は、また他の人が入れて十六か七程の神様を並べたてていますが、今、神功皇后、何とか言いますけれど、“高良王垂命コウラタマタレノミコト”という、得体の知ない神様を真ん中において、右側に住吉さん、左側に八幡菩薩さんを祭って、皆んな拝んでいます。それでも、困るということで久留米の市長以下、先般からいろいろ調べていますが、さっぱりわからないと、『高良山神び書』という中には、ひもといてゆくと、どうも海の神様らしいという。例えば“アズミノイソラ”とかそういう者も出てきますが、それを辿っていって、私は古田先生の九州王朝というものに辿りついているのですが、神功皇后は実在らしいと、昨日古田先生はちょっと言われたのですが、神功皇后は実在じゃないんだと、いう人がいっぱいいます。先程の広開土王碑文は高句麗ですから、神功皇后の三韓征伐なんていうのは新羅ですので、ずっと後なんですが、いずれにしても、大和朝廷、天皇家といってもいいのですが、神功皇后の頃が、九州を分析してゆく上でもわからなくなってしまう。
 神功皇后というものがちらちらして、古田先生のおっしゃった、「魏志倭人伝」の卑弥呼の問題が出てきますね。神功紀に。そのあたりが、九州を議論する場合に一番大事なところだろうと。そこらあたりについての古田先生のお考え。もうひとつ突っ込んで藤田先生に。倭人集団と倭、例えば『山海経』にも、倭は燕に属すとか古くから出てきますし、また最近中国の安徽(あんき)省の某県でという言葉が彫られているお墓がみつかった。という広がりはそうとう昔からあった。橋田先生の昨日の話の中にも、狗邪韓国というのが対馬国の前に出てきます。この狗邪韓国というのはいったいどこにあったのか。狗邪韓国は九州にあったのか。朝鮮半島にあったのか。狗邪韓国は倭に属している。ということは、というのは古くから、ずっと七世紀ぐらいまで朝鮮半島の中にもあったのではないかと。九州王朝というのは朝鮮半島の一部を支配しておったのかどうか。神功皇后が高良山とのかねあいで、地元でいろいろありますがそうではないと。大和朝廷がどこかで、本当の高良山の神様を奪い去って、失われた高良山というか、失われた地域になっていると。万葉集にしてもしかりと。いうような感じがしきりとします。そのあたりをお願いしたいと思います。

司会者
 では、それぞれ先生方は分担されて、要点の回答をお願いいたします。

橋田(回答省略)

藤田
 好太王碑およびその時代の文献で、倭と倭人についてということですが、昨日申しあげましたように、という字は九つ、まちがいなく碑文に出てきます。いずれも、高句麗を相手にした対戦相手であると。で、倭人とが使いわけられているのではないかと。そういう考え方が確かにございます。丹念に調べた方がいまして、これは『三国史記』に見えるの関係記事をすべて拾われたわけです。田中俊明さんという方ですが。倭人が四四回、倭国が二七回、倭兵が十回、倭王が六回、倭国王・倭賊・倭船・倭山が各一回と「高句麗本記」に出ています。今のところまだ不明ですが、を使っているケースが三、そしてだけが八。合計倭の字が一一〇です。この調査、私も実際にやっていたのですがまちがいないと思います。このについで、倭兵、倭人、倭国がそれぞれ使い分けられているかどうか。文献資料と解釈で、組み立ててみますと、こういうことが言えると思うのです。
 についてはどう考えても、朝鮮半島南部に一定のというものが使われたとしか考えられない。そしてまた、九州あたりを指すものと基本的には考えられると。ですから、いろいろな説が可能だと思われるのですが、文献『三国史記』によりましたら九州を中心に、朝鮮半島の南部にもを認める方が正解だろうと。これは勿論、時期によって違うわけです。細かく議論をすれば。使い分けについては、その文体とか、その時代によりますが、基本的には、というのは、当然朝鮮海峡をはさんだ地域名として使っていると。それから碑文からだけでは、「その国境」、これは古田氏が既に発表しておられますので、その国境というそのは何を指すか。それは新羅とというものが朝鮮半島内になければ理解できない文体として使っている。
 それから、狗邪韓国は、やはり朝鮮半島の南部に考えることが出来ると思います。その時に、当然、朝鮮半島内に倭地があると。これが自然に朝鮮半島内にありますから、先程の問題の渡海破の上に、倭は辛卯年に来ると、スッときていますね。これがわざわざ海を渡ってということを言っていないわけです。朝鮮半島に来てると。来たるというのは、我々の領地内にも来ているから問題なのだと。だから、今度は渡海破と。その点が今までの論者では、倭は大和だったから、海を渡らないといけないから、というふうになります。けれども、碑文を丹念に読めば、来てるという者に対して「渡海破」するのは高句麗というふうになります。もし、倭が大和であれば、来てるのに渡海するとは、逆に日本に帰ってしまうというような、非常に奇妙な文章になります。さらに詳しくは続けて他の方にまわしたいと思います。

中小路 (万葉集の件 略)

古田
 今、おっしゃっていただいた問題は私も中小路さんと同じように理解しているわけです。今日お聞きした、「よそ者が作った歌さえも無いのはなぜか」と、はっきり言えば、そういうご質問なんですね。それをひとつの課題として今日いただいて帰ろうと思います。ただ、今までの私の理解では、よそ者が、大和の人間がきて歌を作った、だからもう安心ですと。土地の人間の歌は無くてもいいですという姿勢もあるでしょうね。しかし、それはあまり本筋ではないのではないかと。やっぱりその土地の人が歌を詠まない県や郡はないわけですから。その土地の人の歌が載せられていないのはなぜか、というのが本質的な問いだと、私は思うのです。
 そうすると、昨日中小路さんがおっしゃいましたように、これ、中小路さんのご発見なんですが、万葉集の中で瀬戸内海、九州の人が作った歌はほとんど無いと。これはなぜだという、これが一番本質的な問いかけだと思うのです。と、私はそれについて、ひとつの試案を書いたのですが『古代は輝いていた』で。それは、その地域こそ「倭国」である。九州、瀬戸内、そこには「倭国万葉集」とも言うべき、仮に名前をつけると、歌集が既に存在していた。その領域は原則として、ノータッチにしているのではないか、我々の知っている「大和万葉集」では。と言う答ですね。東国には東国の問題があるのですが、今はふれません。中小路さんからもおっしゃっていただきましたので。よそ者さえ作ってくれなかったのはなぜだ、という今日のお話は課題として持って帰りたいと思います。
 さて、私がお答えしないといけないテーマは、神功皇后の問題だと思います。これは、非常にいい問題を指摘して下さっていると思います。これを架空だと言ったのは戦後の津田左右吉の造作説なのです。『古事記』『日本書紀』は原則として嘘だと。ところが、その中で五世紀以後は信用できるだろうと。それは倭の五王と名前がだいたい合うんじゃないかと。実際は合わないのですが、合うんじゃないかと。だから、五世紀以後の系譜は信用できる。かつ、好太王碑を見れば大和朝廷が出兵していると。これは有名な井上光貞さんの論証なのです。そういう論証に洩れてきた四世紀以前、これは架空だ。こう言ってきたわけです。しかし、この論証方法自身が、私はやはり基本的にまちがっていると。「倭とあれば大和朝廷だ」という発想がまちがっている。「倭」の字は決して安易に近畿天皇家とイコールでは結べないと、こうなりましたので、いわゆる四世紀の説話は架空だ、だから神功皇后など架空だと言っている説はやはり崩れてゆくべきものです。私の論証を無視して、「あれは架空だ」とただ言い続けているだけです。私から見ると。
 さて、今のご指摘の問題について言いますと、非常に興味深いですよ。なぜかといえばご存じのように、『古事記』の中で神功皇后が、仲哀天皇に対して提案をするわけです。新羅へ行きましょう。神がかりしたというわけで。お告げだという理由で。ところが、仲哀天皇が海岸に出てみると、「そんな国は全然ないぞ」と言ってその提案を拒否するわけです。これ、とぼけた話ですよ。年代からすると四世紀の半ばです。あるいは後半です。ということは、つまり好太王碑が証言するところ、高句麗はもう死ぬか生きるかの死闘を演じつづけていた時期なのです。その時期に、仲哀天皇が“そんな国なんて無いよ、海岸に出ても無いよ、それはまちがいと違うか。”なんてそんな馬鹿な話はないでしょう。もし大和朝廷が好太王碑の「倭」であれば。だからこれひとつとっても、もう、あの好太王碑に出てくる「倭」は大和朝廷ではないということは大変よくわかるという筋あいの話なのです。
 一方、神功皇后はなぜ知っていたかというと、神功皇后のお母さんの系列が新羅の国王の血を引いているという話がありますので。そこで、神功皇后がさかんに新羅へ行きたがったわけです。これも申しあげておきますが、要するに、『古事記』によりますと、神功皇后は朝鮮半島で別に戦争をしていないわけです。だから、『三韓征伐』なんて、明治政府が作った“教科書用の宣伝用語”でありまして、『古事記』によります限りは戦争していないのです。ところが『日本書紀』はなぜか、ゴチャゴチャと戦争の記事がいっぱいあるのです。これも今日は論証は省きますが、これは実は「九州王朝の記事」をそこに挿入しているのです。だから、『古事記』にはそういう記事はスッパリ何もないのです。これは、昨日申しましたように、神功皇后のところで、卑弥呼・壱与の記事を挿入しております。倭国の王、倭国の女王の記事を挿入しております。あれと同じ手口をその後でもつづけてやっているのです。
 朝鮮半島に出兵したのは、博多湾岸を中心とする倭国の王です。あの「訥祇王」の時の。朴堤上の時の。あの関連の筑紫の記事を、『日本書紀』の中に挿入したわけです。だから、昨日私が言いましたように、筑紫から任那の距離も、筑紫を原点に短里で測っている、魏晋朝の短里で測っているのです。『日本書紀』の中にそういう記事が挿入されているわけです、さて、それで、私にとって、ぜひお話したいテーマをひとつここで申させていただきたいと思います。
 それは「出雲朝廷と部民制・神宅みやけ制」というテーマでございます。これは私が一年前からとり組んできている重要なテーマでございますので、これも極めて簡単に、本筋だけ申させていただきます。と言いますのは、『出雲風土記』の中に二回ばかり、「朝廷」という言葉が出てまいります。それも、「国造と朝廷」という“ペアの形”で二回出てまいります。で、当然ながら、従来は江戸時代以来、国学者以来これを“大和朝廷と出雲国造の記事”と理解してまいったわけでございます。ところがこれに対して疑問を生じたのが昨年の一月前半でございました。と言いますのは、『出雲風土記」の中のウルトラ・スーパースターというべきは大穴持命、天の下を造らしし大神、大穴持命。ところが、彼の子供が五、六人出てき、孫が二人出てくる。曽孫(ひまご)はいない。こういう状況は、一人の人物の晩年におとずれる。子供が五、六人いるが孫はまだ二人だという状況は。それからもう少し時間が経つと、ずっと孫の方が増えるわけです。と言うことは、『出雲風土記」は、大穴持命の晩年の一時点を下限として、それ以前のストーリーがメインストーリーになっていると。としますと、そのメインストーリーの中に出てくる、国造・朝廷というのは、はたして大和朝廷関係のことであろうか。
 これは大穴持命の第一回の発言の中に、「私は国々を造って統治してきた。」という言葉があるわけです。「国」と書いてありますが、文脈からいうと複数の意味です。その「国」というのは、八世紀では、仁多とか意宇(おう)というのを大穴持命は「国」と呼んでいるのです。そうすると、そういう一国造というか小国造というか、それを統治するのが「天下造」、天の下を造らしめしし大神、「天下造」としての大穴持命であるという、位どり、術語の使い方になっているのです。つまり、ここで言う「朝廷」とは大穴持命がいる出雲大社、杵築の宮、ここを「出雲朝廷」と呼んでいるわけです。従来から見ると、びっくりするような話ですけれども、論理的にそういう答が出てきた。これも、もう、くり返し巻き返し、いやというほど証拠が山積してきました。論文に書き終わりましたのでやがてご覧いただけると思います。
 そういう結論に達しまして、次の問題。この『出雲風土記』にという、何々というのがかなりたくさん出ております。『出雲風土記』を見れば「何々部」というのがたくさん出ています。ところが、その「」は、実は「出雲朝廷を原点とする」である、ということがわかって参りました。これは「忌部いむべの神戸かむべ」という、意宇郡にありますが、ここの記事がまさに、玉造温泉でできた玉を出雲朝廷に貢物として献上するという記事だった。ところが、それを、そういう記事になると、大和朝廷関係にうまく合わないので、そこを国学の荷田春満(かだのあずままろ) ーーいわゆる国学の四大人の一人ですーー 、彼が書き直して、大和朝廷に合う文章に直しているわけです。それが『岩波古典文学体系』なんかで使われている、皆さんがご覧になってきた、原文と思わさせられている文面だった。この辺も詳しいお話を今日はもういたしませんが、要するに、その『出雲風土記』に出てくるは、大穴持命、出雲朝廷を原点に造られたである、原則的に、という答が出てまいりました。
 そうしますと、あの「国譲り」、大穴持命が最初に出てきた時に、“私は皇御孫、瓊々杵ににぎ命ですね、それに国を譲って出雲の国、 ーーこれは出雲ですーー がそこへ隠退します、玉を守って暮らします”というのが第一回の発言なんです。で、その大穴持命の晩年を下限としてストップしているというのは、国譲りでストップしている。それ以後の話は原則的には書かれていない。ということは、「国譲り」の後、今度は瓊々杵命が降りたのは今の筑紫の国の、高祖山連峰の[木患]触峯(くしふるたけ)、これは黒田藩の青柳種信なんかはやはり筑紫だ、と考えていた、「筑紫」と書いてあるんですから。「筑紫の」、「筑紫の[木患]触峯」となっているのですから。それを本居宣長が皇国史観で神武天皇を直系、天照大神の直系にするために、高千穂の峰を宮崎県の高千穂に持っていたわけです。ところが、そこには[木患]触峯なんて無いのです。筑紫というのは九州全土が筑紫だと、ものすごい拡大解釈をやって持っていってしまったのです。これは、いわゆる皇国史観によるわけです。
     [木患]触峯(くしふるたけ)の[木患]は、JIS第3水準ユニコード69F5

 ところが、そういう皇国史観じゃなくて、文献実証主義の立場によりますと、当然、「筑紫の」「筑紫の」と出だしがあるのですから、この福岡県の中にあるわけです。で、終着点は[木患]触峯だとあるのですから。福岡県の中の[木患]触峯と呼ぶところなのです。高千穂のというのは、“高くそびえたつた峰の”という形容詞だから。途中をとってきて議論してはいけない。で、日に向かうという「日向ひなた」。日向(ひなた)峠があることは皆様ご存知ですね。日向(ひなた)山も黒田長政の書状に出てくるわけです。そうすると、今の高祖山連峰の中に天孫降臨したと、こうなるわけです。そうなってきますと、要するに糸島から博多湾岸、筑前中域、ここが筑紫朝廷の地になるわけです。で、この概念がはっきり出ていますのが、なんと祝詞(のりと)なのです。天孫降臨の話から始まって、皇御孫、瓊々杵命が、“皇御孫の朝廷”と書いてある言葉が出てきます。そこで、今までいた神を追っぱらったから、その神様が腹を立てないように、ここに並べたお供物で我慢して下さいと。そういうセリフなのです。

     「崇神たたりがみを遷うつし却る」
 「高天たかまの原の神留かみづまりまして、事始めたまひし神ろき・神ろみの命みこともちて、天の高市たけちに八百万の神等かみたちを神集かむつどへ集へたまひ、神議り議りたまひて、我が皇御孫すめみまの尊は、豊葦原の水穂の国を、安国と平らけく知ろしめせと、・・・・大倭おおやまと日高見ひたかみの国を安国と定めまつりて、・・・・」

 と言うことは、この祝詞は、実は弥生時代に作られた祝詞なのです。どこで作られたか。筑紫で作られた祝詞です。そういう性格を持っているということを私は知ったわけです。で、同じ性格を持っていますのが、いわゆる「大祓の祝詞」です。六月と一二月の大祓の祝詞がございます。これをお知りになりたい方は、『岩波古典文学体系』で、『古事記・祝詞』というのが一冊の本になっていますから、それで「祝詞」をご覧になれば註釈つきでわかります。で、大祓の祝詞を見ればよりはっきりしております。それには、罪を祓うという話で、要するに、山の上から川に罪を流す。何かの御供物を流すのでしょうが、それが海に出る。海を風に乗せて潮流で流す。根の国、堅州国、つまり出雲へこれを流す。そこで罪を祓う神様がいて罪を消してくれると。こういう筋書に後半部はなっています。
 ところが、よくお考え下さい。この祝詞の「大倭日高見の国・・・」というところで、従来は大倭というのを“おおやまと”と読んで奈良県と読んだわけです。だから、梅原猛さんなんかは、これは大和川で、奈良県から大阪湾に流すんだろうと。大阪湾から、今度はぐるっと瀬戸内海をまわって、関門海峡を通って出雲へ流れていくのだろうと。こういう解釈をしておられるわけです。実際、実験考古学でやってみればいい。そういうふうに物が流れるかどうか。私はちょっと無理だと思いますね。ところが、この“おおやまと”と訓(よ)んでいるのは“おおちくし”。そして今の日高見の国というの、いわゆる瓊々杵(ににぎ)の尊称が天津日高日子、アマツは天国の津。天国は私の『盗まれた神話』でのべましたように、壱岐。対馬を領域とする海上領域を天国と呼んでいる。「の国」「海人の国」であると。その天国の港です。日高日子の「日子」は長官、「日高」とはどこか。対馬の北端の東海岸に比田勝というのがある。ご存知ですね、ご当地の皆さんは。字面に騙されてはいけません。あれをひらがなで書いてみると、ひたかつ、つまり、は港。ひたかが地名です。ひたかの港なのです。だから瓊々杵はそこの長官を名乗っているのです。
 従って日高の国と、いう「見」は、“海”ですから、あの皆さんが親しんでおられる朝鮮海峡・玄海灘という、この海域を「日高見」と呼んでいる、「日高海」と呼んでいるのです。その、「大倭だいわ」という「大ちくし」というのは、北岸が朝鮮半島南辺にあり、南岸が九州北岸部である、そういう国なのです。だから、“真中に日高見の国を持っている”という国なのです。そこの中心である筑紫に瓊々杵は降りた、こういう表現です。だから、そう考えると、この表現は先ほどの「崇神を遷し却る祝詞」にも、「大祓の祝詞」にも両方出てきますから、それを「筑紫」ととると、そこから流すと、出雲に行くのはあたりまえです。だから、初めて素直に読めるわけです。それを“大やまと”と読んで“大和”のように改作・改読み・改訓して使っていたわけです。そういうことがわかってきました。
 しかも面白いのは、これが今のように、弥生時代に筑紫で作られたとなりますと、ここは二倍年暦六月と三月にお祓いをしている。一年が二つに分かれている。「倭人伝」と同じ世界なのですね。我々があまりにもよく知り過ぎていた、この祝詞が、そういう、非常にすばらしい資料であったということを私は知りましたので、これを皆様にご報告したいわけです。
 で、最後にひとこと付け加えます。この「国造制」や「部制」また「神宅制」、神宅制も『出雲風土記』の最後のところに出てきますが、これらは出雲朝廷中心に作られた制度であった。それが筑紫中心の制度に移し変えられた。「国譲り」というのは、中心点が出雲から筑紫へ移るだけでは駄目なのです。国家社会制度がそのまま、ほぼその継承されるから、国譲りなのです。国家社会制度が全部変わってしまえば、中心点が変わっても「譲り」とは言いません。それは出雲中心の「国造制」「神宅制」「部民制」を、筑紫中心の形で継承したという意味です。その一端が日向、宮崎県なんです。神武のお父さん、“鵜葺草葺不合尊”これはそのように天つ日高日子で始まります。これは“瓊々杵の系列の血を引いております”というのが先頭に付くわけです。その次が波限建(なぎさたける)。「」とは、「建部の長」です。軍事集団の長なんです。どこのかといいますと、「波限」とは海岸部です。海岸というのは。我々は単に観光的な海水浴の場所のように思っていますが、昔は防衛、軍事防衛線です。侵入をいつも恐れないといけないところです。事実、神武は大阪湾に侵入しました。
 そうすると、その海岸には軍事集団が必ずいるわけです。その長が波限建、日向の軍事集団のなのです。そのものではないのです。それに属している人物が“鵜葺草葺不合”なのです。「鵜葺草葺」、これは、茅(かや)で屋根を葺きます、ところが「の羽で葺く」というのは、庶民ではなくて神殿とか貴族の宮殿が「鵜の羽」で葺いたようでございますがそれを葺く“職能”なのです。つまり、「作の止利」というようにいわば「鵜葺草葺」の家柄なのです。つまり波限建のもとに鵜葺草葺の職能の集団がいるわけでけです。そこの姓(かばね)として。天皇家には無いなんて大嘘です。明治政府の流布しようとした一個の一大迷信です。ちゃんとがあるのです。「鵜葺草葺」です。その「不合」とは名です。“それに似合わないいい子に育ちますように”という親の願いでしょうか。で、面白いのは、神武は大和で歌を唄っている時、お腹が空いてもう飢え死にしそうだという時の歌がのっています。それは、その最後が「鵜養うかひが伴が、今助けに来ね。」と終わっています。伴というのは、と同じ意味の言葉なんです。で、助(す)けに、助(たす)けに来てくれと言っているのです。それを「鵜養が伴」に呼びかけている。
 というのは今の我々の「友達」という概念と共通の要素をもっている言葉ですが、“同じ部民どうし”なのです。片方は、「鵜葺草葺」、こちらは「鵜養」、これは“助け合わ”なければ両方生活できません。だから、“助けに来ね”とは、「家来」だったら言いません。早くワシを助けに参れ、となりますが、“今助けに来ね”とこう言っているわけです。その辺にも、“神武が実は鵜葺草葺の家柄である”ことがしめされているのです。従来の解釈では歌自身の持つリアリティを全然見失っていたわけです。と言うことでありまして、血筋は瓊々杵から引いているといいながら、実際は「鵜葺草葺」の家柄ですから、それに絶望した、あの兄弟達が、その日向を捨てて、そして銅鐸圏に向かった。その場合、やはり水軍が必要てす。宇佐の水軍とか、安芸の水軍、吉備の水軍、これは自分が日向の波限建、海岸防衛武装集団のに属している家柄だからそれができたのです。それ無しに、あわてて自分が船を造ったら行ける、というようなものではないのですから。
 要するに、天皇家中心の「部民制」というのは、天皇家は今度は大和で、最初は筑紫の分流であることを誇りとしたわけです。神武が名乗っている「神倭伊波禮毘古」というあのは、これも論証を、今はいちいちいたしませんが、「筑紫の倭」なのです。筑紫の系列を引く、現在、磐余(いわれ)の長官なのです。こう名乗ったわけです。と言うようなことで、その分流を受け継いだのが近畿天皇家になっている。ところが、今のように、唐の初めに「アナタが倭皇だ」と、唐から言われました。で、白村江を契機にして「日本国」に変えていくわけです。実力上は、すでに銅鐸圏を支配していたから、四世紀〜五世紀において、実力はトップだったと思いますが、「母家」以上だったと思いますが、しかし大義名分上はあくまで「分家」であった。これは英国と米国の関係と同じなのです。と言うようなことが、いわゆる「部民制」という問題からも理解できるわけです。
 ところが、現在の「戦後史学」は違います。津田左右吉はいつも強調した。“とあれば全部大和朝廷の政治組織である、説話にあるのは全部嘘だけれど、しかし、とあれば全部大和朝廷である”と。戦後、彼は言いました。“戦前、右翼が私を攻撃したがあれは勘違いしているのだ、私は天皇家に一番有利なことをしたのだ”と、こう言っているのです。その通りなんです。「この『部」は『古事記』『日本書紀』に書いてあるから、天皇家のものと考えていい」という、従来の立場は、一見よく見えるのですが、それでは、「書いて無い場合のは天皇家以外の部ですか」という問題が出てくる。一般の人は思わないけれど、学者は絶えずその問題にぶつかる。
 ところが、津田左右吉のように、『古事記』『日本書紀』に書いてあるは全部嘘です、造り物ですと、ただし現実に存在する部は、全部大和朝廷の政治組織ですと。こうやれば、どこの木簡からが出てこようと、どこの『風土記』に出てこようと、『日本書紀』『続日本紀』に出てこようと、全部「大和朝廷の下部組織」になるわけです。これほど天皇家にとってありがたい話はないわけです。文化勲章をあの人も貰いましたが、まさに正解ですね、恐らく。坂本太郎さんがつづいて貰いましたが。とにかく、津田左右吉の“造作説”というのは表面に反して、いわゆる近畿天皇家一元王義徹底できた、最後の道標なんですね。ところが、日本側でいくら「徹底」できても、お隣りの中国の文献、さらにお隣りの『三国史記』などの文献とは、完全に矛盾していたわけです。
 大変長くなりましたが、このことだけは、ぜひ皆様に申しあげたいと思っておりましたので、長々と申させていただきました。(拍手)

司会者
 時間が余すところ一五分から二〇分取れるかな、というところになってしまいましたが、先程からお待たせの方もいらっしゃいますので、もう少し進めてまいります。

会場より
 この自由討論の一番取初にありました、古田先生の白村江の戦い、それから、天武天皇に関してすぐお尋ねできるとよかったのですが、「壬申の乱」、これをどういうふうに私どもは理解すればいいのか、先生方はどう理解していらっしゃるのか。皇国史観における最大のタブーでありました。戦後の史学から言っても最大の問題と思います。しかし、近畿朝廷が非常に小さなスケールだということになると、壬申の乱も小さなスケールで考えればいいのか、それとも、そうじゃないのか。(以下、中小路氏への質問は略)

中小路 (アヅマについて)略

古田
 今のご質問の件ですが、壬申の乱、非常に大事な点でございます。ただ、ご質問の時にどうも今日の話だと、壬申の乱とか天皇家はスケールが小さな話になるという話がありましたが、お間違いがないように。大義名分上はあくまで九州王朝が本家であって、近畿天皇家は分家であると、または分家であることを久しく誇りにしてきておった、これは確かなのです。しかし、それと、実際の支配領土、あるいはというものから見ますと、近畿天皇家の方が非常にその富裕を誇って、また実力を誇っていただろう、スケールも大きかっただろうということとは矛盾しないことであると。近畿天皇家自身が非常に貧しくて、軍事力も少い存在だった、という話では全くないわけですから、その点は誤解ないようにお願いいたします。
 ただ、対外戦争をやらなかったということが、近畿天皇家にとっては非常によかったのですね。あれだけ大きな古墳が造れたのは、対外戦争をやらなかったからなのです。その証拠に、高句麗はぜんぜん大きな ーー応神陵や仁徳陵みたいなーー 古墳を造っていません。だいたい岩戸山古墳よりも小さいようなものばかりです。
 それから、壬申の乱。私はまだ正面からこれに取り組んだことはないのですが、ひとつ、私の立場から注目すべしという点があるのです。それは、天武ののひとり。宗像の君の娘(胸形君徳善が女、尼子娘)をにもらっています。あれはやはり重要なポイントではなかろうかと私は感じております。と言いますのは、いわゆる“沖の島”、これをバックにし、宮地嶽古墳を控え、そういう重要な地帯でございます。で、私は従来の「天皇家一元説」がいいか、あるいは私の言う「九州王朝説」がいいかというのは、文献的証拠としては昨日から今日申しあげたところで、かなりはっきりしていると、私は、実は確信を持っているわけです。今度は、同時に考古学的遺物の方ですが、弥生時代のことはもう申しあげました。私は博多にひいきする義理は全然ないのです。しかし、とかとかとかガラスとか、どれを見ても、筑前中域が中心だったと考えざるを得ない、と言っているだけなのです。同じように、今度は古墳時代はどうだということになるわけです。これも、今日申しあげたいことはいろいろありますが、ひとつだけ絞って申しあげます。
 最大の論点は「沖の島」にあります。あそこから出てきて、続々国宝になっている、一連のものですが、皆様たいてい一回はご覧になったことでしょう。あれが従来言われておりますように、“近畿天皇家から奉納されたものだ”という説が本当なら、九州王朝は雲散霧消です。あれだけのものが大和朝廷のものならば、それは、九州王朝は見すぼらしいものです。ところが、あれが九州王朝のものなら、もう、“九州王朝説絶対”です。大和側にあんなすばらしいものは無いのですから。だから、あの「沖の島」の国宝とされた出土物を、どう理解するかということは、ひとつの重大なキイ・ポイントなのです。ものに関する。古墳時代のものに関するキイ・ポイントです。やはりその点を井上光貞さんは、ちゃんと着眼されていた。やっぱり非常にポイント、ポイントは、 ーー頭のいい方なのでしょうか、ーー 見ておられるわけです。だから、東大の最終講義は、「沖の島」の問題だったのです。本になっていますけれど。で、私家版を記念に自分で出されたときも、その論文をみんな(記念の会の出席者)に配られました。それくらい「沖の島」を重視しつつ亡くなられたわけです。
 で、要するに、その論点は、「沖の島」のものは全部大和朝廷が奉納したものだという、従来の見解を、また独自の論法で確認された、あるいはしようとされた、論文なのです。ところが、私がそれを拝見して、どうも、正直言って「これは私には承知できない」と感じたわけです。この論文は今年、夏以降に書く論文の大事なひとつなのですが、それを、ポイントとして今申しあげます。論争する時は隠しておくのがいいという話がありますが、それは私の趣味ではないので、私は、持っている「」を全部さらけ出していくしか能の無い人間なのですから、今日もさらけ出しますが、今のところ私が感じているところの論点は五点あります。第一は、三角縁神獣鏡。あれが「沖の島」からかなり出て参ります。
 ところが、あれが皆いわゆるイ方製といわれているものなのです。舶載といわれているものはほとんど出てきていないわけです。ところが、、こ存知のように近畿には舶載がいっぱいあります。例の有名な京都府の、椿井大塚山古墳からは、舶載ばかりが三〇枚ばかり出てきました。おそらく、天皇陵古墳は開けていないが、開ければ舶載がいっぱい詰まっているだろうとは、みんな思っていることです。そういう、舶載をいっぱい持っている近畿の天皇家が「沖の島」に奉納する場合に、舶載は惜しんでイ方製、鋳上がりの悪いイ方製ばかりを奉納した、なんて、そんな話がありますかね。ところが、九州では舶載もありますが、それ以上にイ方製が多いわけです。例えば、糸島郡の銚子塚古墳には、いわゆる漢式鏡には金が表面に塗ってあります。裏も表も。「塗金鏡」です。これも重大な論点です。今日はもう言いませんが。それといっしょに出てきている三角縁神獣鏡はイ方製なのです。だから、いわゆるイ方製というのは九州で大いに造られたものであるようです。これは、大ざっぱな理論ですが、舶載というのは、渡来の工人が出雲や近畿へやって来て造ったもののように私は思っております。ともあれ、これは、九州の権力者が奉納したのなら、あれでいいわけです。ところが、舶載だらけの近畿の権力者が奉納したら、まことにおかしいのです。これが第一点。
 第二点は、伊勢神宮との比較です。伊勢神宮が天照大神を祭るものとして、天皇家が重視した神社であることは、ご存じの通りです。宗像は「天照」の娘さんたち三人を祭神にしております。その娘さんたち三人を近畿天皇家が尊重して奉納することは結構です。それは結構ですが、ならば、それ以上に、お母さんである「天照」を祭った伊勢神宮に、それ以上の神宝が奉納されていなければいけません。ところが、ありますか。無いのです。「沖の島」のようなものは無いのです。僅かにといったらおかしいのですが、例の織機、そっくりさんがあるというのは有名ですね。あれもどこから伊勢神宮に奉納されたか知りませんが、とにかく、あることは確かですから。その外、例えば有名な「沖の島」の龍頭二対が伊勢神宮にありますか。ありません。金の指輪、ありますか、伊勢神宮に。ありません。こういった、次々国宝になった沖の島の神宝のようなものは伊勢神宮にはないのです。親神の尊重よりも、娘さんの方を大事に思いましたという話が通じますか。私はそんなことは信じません。これは、今までそういう議論を書いたことはないですよ。今、初めて出す議論ですが、わかりきっていて言わなかった、井上光貞さんも触れていな論点ですが、これに反論するのは、大変だと思います。恐らく、反論する方の人が。これが第二点。
 それから、第三点。これもわかりきった話なのですが、『日本書紀』の中に、「沖の島」にこれを奉納しますという記事が無いわけです。金の龍頭金の指輪を奉納しましたという記事は無いのです。『日本書紀』は造作です。信用でできません。これで逃げられましょうか。しかし、ああいうものは、六・七世紀のものだと言われています。金の龍頭が四世紀、五世紀という話は無いのです。ところが、造作説の場合も六、七世紀は信用できるということなのです。井上光貞さんの立場も。では、その信用できる六、七世紀の時の『日本書紀』に全然そんな記事、ないじゃないですか。枝葉未節のものなら、そんなものをいちいち奉納しているのを書いていたなら、『日本書紀』はパンクします。しかし、金の指輪や金の龍頭というのはありふれていますか。どこにも無いじゃありませんか。金の指輪があるのが、新沢千塚。新羅、朝鮮半島のものとそっくりで、渡来人が来て埋めたと考えても不思議でないもの。その由来はわかりませんが。
 今度は埼玉県の西よりのところから出てきている、これは銅に金メッキという、稚拙ですが、それはそれなりの、あの地帯に中心的な王者がいたことを示す。だから、稲荷山鉄剣を考える場合も、それと、ミックスして考えないといけないのですけれど。それがありますのと、それと「沖の島」です。私はあの指輪を、見て見て、見抜きました。あの金の指輪を。「沖の島」展があった時、あっちこっち開催があれば、そこに追いかけて行っては、朝から晩まで、あれと、金の龍頭とを、眼が痛くなるほど見て見抜きましたが、朝鮮半島のものとは似ているが本当は似ていません。「造り」が違います。で、時間がございませんので、結論を簡単に申し上げますと、「倭国製」のものであろうと思います。これは大変なものでございます。こういうものを奉納するのなら、『日本書紀』にあれだけいろいろと書いてあるのだから、書いてもよさそうなのに書いていないのです。金の龍頭も、もちろんです。これは“『日本書紀』は造作ですから書きませんでした。”ではすまないのです。これも、今まで論じられたことはないことですが、あれを近畿天皇家の奉納とするには大きな障碍です。
 第四点。井上光貞さんが決め手にされたのは、非常に、井上さんらしい、きっちり始まった慎重な論文が、最後の決め手になったのは、何かというと、あの「沖の島」から出てくる車輪石璧玉製腕輪。あれが「沖の島」から出てくる。ところが、あれは有名な、近畿中心でたくさん出てくるものなのです。それが「沖の島」から出てくると。だから、これをもって見ても「沖の島」の出土品が近畿天皇家の奉納物であることは確認できると。こういう決めどころになっているのです。ところが、私の方から見ると、全然これは決めどころになっていない、失礼ながら。というのは、その物が近畿天皇家から奉納された、ということです。それは天照のお子様たちですから、近畿天皇家が敬って奉納されても、別に不思議はないわけです。しかし、そのことをもって、金の指輪や、金の龍頭まで天皇家が奉納した証拠になりますか。要するに、「沖の島」は近畿天皇家とは全然関係がありませんという議論の人が誰かいましたら ーーそういう議論の人を私は一回も見たことはありませんがーー その議論に対しては、有効なのが、この論証です。
 車輪石や璧玉製腕輪は、あきらかにこの近畿、 ーーこれも、厳密に言えば、天皇家でなくてもいいのですが、周辺の古墳から出てきますから、近畿の豪族であればいいのですがーー 近畿からの奉納物です。これはいいのです。そういうことのための反論なれば。でも、そんなことは、誰も言っていないのです。あれが近畿の天皇に無関係、近畿の豪族は無関心、なんて誰も言ってないのです。問題は、“”あの金の指輪や金の龍頭というもの、ああいうものは何物か“”が焦点なんですから。その論証には全くなっていない。部分と全体を間違えておられる。これは、井上光貞さんのお弟子さんがいたら、ごめんなさい。悪口を言うつもりはございません。率直に言わせていただくと、部分と全体の論証が混乱している。というようなことでございます。これが第四点。
 最後の第五点。これは皆様ご存知の宮地嶽神社、すぐ目の前の。ここから、金の龍のデザインのついたが出ております。これは対岸ですから、こちらとの関連のものと考えるのが、どこの、世界のどの国の学者が見ても、そう考えるのが筋です。ところが、金の冠なんか近畿から出ていないのに、その近畿から、金の龍頭を奉納した、などと言うのは、これは無茶です。ついでに、“宮地嶽のも近畿天皇家が奉納したのだ”という言い方が出ていますけれども、もう、そんなことを言いだしたら、何が出たって全部大事なものは、近畿天皇家の奉納物にしてしまえばいいのですから、これでは「論理」とは、私は言えないと思います。だから、今の金の龍頭は、すぐ近くにある宗像の金の冠、あるいは、今の観世音寺の鐘にも龍頭が付いておりますけれども、こういうようなものとの関連で考えられるのが当然である。つまり、九州王朝のものである。
 最後にもうひとつ。あのおびただしい沖の島からの出土物は、出るまで宗像神社の宮司さんたちはご存じなかった。これは、私が直接お聞きしたのですが、あれは、せいぜい、江戸末期か明治初めに、行事に使ったものが捨ててあるゴミ捨て場だと、私たちは思っていましたと。ところが、出光さんのスポンサーで調べて、次々とものすごい国宝級のものが出て来たので、びっくりしておりますと。最初にお伺いしてその話を聞いて非常に強い印象を受けました。もし、これが近畿天皇家からの奉納物だったら、宗像大社が、他の何を伝承すまいと、忘れようと、このことを忘れるはずはないと、私は思うのです。近畿天皇家からこれだけのものをいただいております。「沖の島」にありますと。それだけは、伝承の神髄として伝えてきていたはずです。ところが、事実はそうではなくて、ゴミだと思っておりましたと。これほど有力に、「これが近畿天皇家からの奉納物ではない、すでに滅びた別の王朝のものである。だから神主さんも変わっていますし、一旦、伝承が断絶している。」ということを証言する事実はない、と思います。
 以上の点が、私が言おうと思っていますことです。「あの沖の島の神宝は近畿天皇家のものではない、九州王朝のものである。」という論証でございます。だから、“いや、そうじゃない”という方がいらっしゃるならば、今、私が申し上げた論点を反論して頂ければ、結構でございます。ひと言つけ加えますが、今出ておりますおびただしい国宝は、あれは「沖の島」に埋蔵されているものの一部であると、私は思います。この前、現地へ行きましたが、ほんのごく限られた、わずかな所しか出土地でないのです。やたらに掘り探すのは良くない、ということで、焦点を決めて発掘なさったわけです。これも、非常に正しい発掘の姿勢だと思いますが、その結果だと思います。ということは、あれ以外に、やはりあの島の中にはかなり出てくる所があるだろうと私は思います。あのおびただしいものは、まだ一部であると、この点付け加えさせていただきます。(拍手)

司会者 (略)

古田
 感想を申す前に、実は私の心残りは、ここにいただいたご質問に、まだ答えていないのがあるという点ですので、できるかぎりお答えさせていただきます。

 (一)「卑弥呼の墓の径百歩の一歩の長さはどれ位ですか。」
 二六センチメートル位でございます。今の、一里七七〜八メートルを三〇〇で割っていただけると出てまいります。これは大変ナチュラルです。皆さんお歩きになってみて下さい。お帰りになって、一歩を計ってみて下さい。二〇数センチではございませんか。だから一歩というのが二〇数センチという、周代の歩は非常にナチュラルです。それの五、六倍の長さ、足を、股を広げてお歩きになれますか。だから秦の始皇帝の定めた長里長歩というのは「拡大版」でして、ナチュラルな人間の歩くではない。「」と読み変えてもいいのですが、元は歩くという意味から出たということに間違いないわけでございます。

 (二)「狗邪韓国は北岸ではないのではないか。」
 これは、この前に申しましたように、『三国志』の用例によると、揚子江の北岸南岸という言い方をしています。倭国を両岸にまたがった国と考えて、狗邪韓国をその北岸と呼んでいるのでございます。

 (三)「卑弥呼の発音の点がびっくりした」と。
 “邪馬のは、に、八女やめには読めないか”。これは研究させていただきます。

 (四)「一大率を置いて検察する伊都国」の問題です。この点のご質問があります。
 簡単に申しあげますと、いわゆる伊都国を糸島郡にしますと、伊都国は「千余戸」ですから、あれだけの糸島郡で、あれだけの財宝がでてくるところが、たった「千余戸」というのはおかしいわけです。で、それを原田大六さんは「一万戸」のの間違いだと直して使われましたが、この「直し」はいけません、やっぱり。で、私はやはりあそこの大部分は、奴国(ヌコク)と呼んで「二万戸」のそれだと。「二万戸」といえば、えらい濃密だと、いわゆる筑前から筑後にかけての邪馬一国より濃密じゃないかと。その通りですね。東京都でも、今は飛行機ができましたから違いますが、船で来ていた時には、横浜というところは、大へんにぎやかで、おそらく東京都の北部分や西部分、多摩部分よりは入口が多かったのではないでしょうか。それと同じような情況だと思います。

 (五)「壹与とは何者か。卑弥呼の比定はあったが壹与の比定はなかったじゃないか。」と。
 私もこれに一生懸命に取り組んだのです。結論は出ません。しかし、私はやはり甕依姫のように名前は残っているのではないかと思うのです。ただ壹与というのが、壹(いち)が国名で与(よ)が中国風一字名称なので、その点、和名である卑弥呼とは違うようなので苦しいところ。例えば、佐賀県の皆さんがよくご存知のヨド姫というのがありますが、あれなんかもそうかなと考えてみましたが、まだ結論は出ません。皆さんにまたお教えいただければありがたいと思います。

 (六)「狗奴国か、という甲奴こうぬ郡と神武東遷の多郡理たけりの宮との距里はいくらぐらいか。」
 これは広島県の地図を開いてご覧になればわかりますように、現地では遠いけれど、我々の方から見ると近いですね。広島市近辺と、甲奴郡というのは地図でご覧になったらわかります。福山の北の方です。(もちろん「狗奴=甲奴」は、名前からの一試行錯誤にすぎません。)

 (七)「日本通史を書いてほしい」と。
 ありがとうございます。宿題にさせていただきます。ぜひ私もそうしたいと思います。

 (八)「九州王朝の王者の名前を教えてほしい。磐井もそうか。」
 そうでございます。で、「九州王朝の中心は八女に想定できないか。」その通りです。先ほど言いましたように、古墳時代には中心部がバックグランドに、築後川の流域に移っている感じが強うございます。「表座敷」は、もちろん太宰府でしょうけれども。それで、九州王朝代々の名前。帥升すい(そつ)しょう、あれも九州王朝の主の名前だと思います。それから、先ほどお話が出ました高良山の社史、私もいただいて帰りましたが、さっきもちょっと紹介されましたが、面白い名前というか、『古事記』『日本書紀』に無い名前があります。あれは、私は九州王朝の代々の中の何人(なんびと)かである可能性が十分にあるのではないかと、こう思っておりますので、またいろいろお教え下さいますように。

 (九)「通史をしてほしい。中高校生のための通史をしてほしい。論争もいいが先へ行ってほしい。」
 こういうお話でございます。ありがとうございます。

 (十)「なぜ、東夷伝の中で、倭だけ倭人なのか。」
 これは、答えは簡単でございます。いわゆる倭人伝の先頭に、「倭人は・・・」で始まっております。最初の二字を取って伝名にしたようでございます、当初は、だから穢*伝と今なっていますが、皇室書陵部本では、南宋の紹煕本といわれたものですが、その書陵部本では、あそこは「穢*南伝」となっています。なぜかというと、先頭が穢*は南・・・と文章が始まっている。だから最初の二字をとって「穢*南伝」と言っています。『論語』の篇名はみなああいう言い方です。先頭の二字をとって篇名にしております(「学而篇」など)。それで「倭人伝」になっております。他意はございません。倭人を、余り松本清張さんのように仕訳けすると、かえって不自由でこざいます。なぜかというと、『三国志』では魏人をそんなに分けておりません。魏の人間を魏人と書いております。
     穢*(わい)は、禾編の代わりに三水偏。JIS第3水準ユニコード6FCF

 (十一)「津古生掛つこしようがけ古墳発掘後、学会の動向はどうしているか。」
 学会は困っているでしょうね。今まで近畿が前方後円墳の中心だなんて言っていたのです。その一番が巻向古墳です。ところが、“あれはどうも怪しいんではない”という話がさかんに近畿の考古学者などの間から出てきていたのです。ちょうど、その時期に九州からバーンと前方後円墳が出てきたのです。私はこの筑前中域の領域が前方後円墳の、やはり始まりであろうと、弥生の甕棺墓なども、それのバックになっているだろう、と言ってきたのですが、はたして、ということでございます。この関係も時間があれば、前方後円墳の議論もやりたいのですが、今日は省略させていただきます。

 (十二)「卑弥呼は“ピミカ”ではないか。」
 それは、それでいいのです。我々が“ヒコ”と発音しているのに、当時の人に“ヒコ”と言って下さいと言ったら“ピコ”と言ったという可能性はありますので。これも、「音韻論」の問題です。また詳しく申しあげる時には詳しくお話させていただきます。

 (十三)筑紫舞のことを詳しく書いておられて、その次に「私は太宰府内に必ずあると思います」と。
 筑紫野市の方が書いておられる。私もそう思います。これも、全部さらけ出しますが、「『菊邑検校』を探す手がひとつあるのじゃないか。」と、東京の方から提案が出ました。太宰府の戸籍を調べてみたら、「菊邑」さんがいるのではないか。戦前の、この間のことですから。だから戸籍を調べる、これ一番本道すぎて、私もやっていなかったのですが、皆さんひとつやって下さいませんか。私なんか遠くにいて、焦っているよりも、現地の方が本気でやって下さったら、「菊邑検校」は今なら必ず見つかります。もうこれで、一〇年、二〇年経ったらわからなくなります。さらに、もうひとつ。三日前に「朝闇神社」に行ってまいりました。と言うのは、あそこの「絵馬」が無くなったという(誤報だったのですが、幸いに)。それを聞いて、これを保存したいというので、「恵蘇よそ八幡宮」、あそこの神主さんが兼務されておられるので、そこへ行ってご相談申しあげました。「我々の方で費用は喜捨させていただきますので、カラー写真で代わりのものを造って、本物はお宅へ保存していただけませんか」、とお願いに行きましたら、「わかりました」と。「総代の方に相談してご返答を申しあげます」と、こういう快いご返事をいただいてまいりました。そういうことで、OKが出ましたら、ぜひ皆さまもご協力をお願いいたします。東京や大阪の方もぜひ寄付しますよ、ということでございますので。(その後、この計画は実現した)
 以上、非常に急ぎ足でございました。大変申しわけございませんが、一応、お答えとさせていただきました。本当にこの二日間、私としては非常に嬉しい、長く記憶し、人々に語り伝えたい二日間になったことを、深くお礼申しあげます。(拍手)

司会者(略)

中小路(略)

司会者(略)

藤田(略)

司会者(略)

橋田(略)

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(終了)


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