『邪馬一国への道標』 へ
五 陳寿とピーナッツーー『晋書』陳寿伝の疑惑 へ
六 陳寿と師の予言 ーー『三国志』と『晋書』の間 へ


 『邪馬一国への道標』(角川文庫)

第二章 三国志余話

古田武彦

七 陳寿の孔明への愛憎
    ーー『三国志』諸葛亮伝をめぐって

孔明伝の嫌疑

 事のついでにと言ったら、何ですが、陳寿(ちんじゅ)の生前、『三国志』に向けられた、もう一つの“なまぐさい嫌疑けんぎ”について話してみましょう。
 次の格言をご存じですか、「泣いて馬謖(ばしょく)を斬(き)る」。そう、蜀(しょく)の名相・諸葛孔明(しょかつこうめい)が自分の愛する部将馬謖を斬った、という話です。軍事行動(街亭がいていの戦)のさい、孔明の作戦に従わず、いわば“軍の法”を犯した罪のために、泣きながら彼を処断したという話。馬謖自身が死に臨んで、孔明に手紙を送り、「あなたは、わたしを自分の子供のように可愛がってくれ、わたしもあなたを父のように慕ってきた。だから、わたしは、今回処刑されてあの世へ行っても恨むところはない」と書いた(襄陽記じょうようき)と伝えられています。ですから“冷酷な処刑”というよりも、むしろ「愛するにもかかわらず法を曲げることができなかった」孔明のつらさ。その機微を強調した“美談”として格言化されているようです。
 陳寿の父は、あの馬謖の参軍(参謀)だった、というのです。そこでこのとき、同じく“指揮上のミス”の責任をとらされ、「髟/几こん」という刑に処せられました。これは“髪をそりおとす”刑で、『史記』『漢書』にも出てくる、古くからの刑罰のあり方です。
[髟/几](こん)は髟の下に几。JIS第四水準ユニコード9AE0

 “たかが坊主頭になるだけじゃないか。軽いさ”と思われるかも知れませんが、これは“社会的見せしめ”の一形態です。「人の賎(せん)する所」(易林)とありますから、要するに従来の社会的身分を奪われ、罪人として世の嘲弄(ちょうろう)の中に生きねばならない。こう考えると、かなり残酷な刑とも言えましょう(もっとも、孔明は、馬謖の子供たちを従前と変らず可愛がった〈襄陽記〉と言いますから、処刑後の陳家に対しても、「古の刑法」通りだったか、どうかは疑問ですが)。

 さて、当時の少年、今は『三国志』の著者たる陳寿に対して西晋朝、荀勗(じゅんきょく)派から向けられた嫌疑は、次のようだったのです。
 「寿、亮(りょう)の為に伝を立てて謂(い)う。『亮の将略、長に非ず。応敵の才無し』と」

 つまり、陳寿は、孔明の処断によって父が辱(はずかし)めを受けた往年の恨みを忘れず、『三国志』の中で、“筆で”復讐(ふくしゅう)した、というのです。つまり、蜀志巻五の諸葛亮(孔明)伝の中で、「孔明は“将略”に長じていなかった。敵の出方に応ずる“応敵の才”も無かった」と書いてあるのは、そのせいだ、というのです。
 もう一つ。孔明の死後、その子・諸葛瞻(せん)が蜀の宰相の地位を継ぎました。ところが、その瞻は青年陳寿の才能を認めず、これを軽んじた、というのです。そこで後年西晋朝の史官となった陳寿は、またもや『三国志』の中で“私怨(しえん)を晴らした”というわけです。孔明伝につづく諸葛瞻の短い伝の中で、
 「瞻は惟(ただ)、書に工(たくみ)にして、名は其の実に過ぐ」

 つまり、「瞻という人物は、ただ字がうまいだけだった。それなのに、名声の方がその実体を越えていた」。そう書かれているのが、それだ、というのです。
 中国の西隅の蜀の話ともなると、日本の古代史とは、えらいかけはなれた話のようですが、『三国志』、ひいては倭人伝の信憑(しんぴょう)性に関することですから、もう少し耳を傾けていて下さい。
 わたしは『晋書』陳寿伝に書かれた、このエピソード(例の「わいろ」の件の次に列記されているのです)を見て、ここから“くさいな”と思いはじめたのです。わたしは『三国志』中この孔明伝は特に注目して読みかえしていました。なぜなら、この伝は全『三国志』中、異彩を放つ一巻だったからです。
 孔明は名宰相であると共に、当代屈指の文人でもありました。従って死後、おびただしい著作が残されていたのです。陳寿は西晋の史官として天子の命によってその著作集の編纂(へんさん)を命ぜられているのです。全二十四篇、十万四千百十二字。その内容も軍事、法律、度量衡、書簡等、多岐にわたっていたようです。
 その中でいま伝えられている「木牛流馬ぼくぎゅうりゅうば法」というのは、一種の“器械装置による運搬車”の工夫だったようで、孔明の才の広汎(こうはん)なのに驚かされます。いわばレオナルド・ダ・ビンチ風の“万能の天才”型の人物だったのではないでしょうか。
 さて、陳寿はその著作集を完成したあと、天子への上表文を書き、それが全文、孔明伝に掲載されています。これは大変貴重なものです。なぜなら、『三国志』自体には序文や上表文が残っていません。先ほどのべたように、『三国志』は一応完成されながらも、“天子への上呈”を待たず、張華(ちょうか)に代った荀勗派の圧力をうけることとなったからです。
 これはまことに残念です。『三国志』著述の意図や当時の状況及び著者の留意点などが聞けないのです。この点、ここの上表文は、孔明著作集に関するものではあるものの、陳寿の史筆の基本の立場をあらわしています。余談になりますが、一例をあげてみましょう。たとえば、
 「敵国誹謗(ひぼう)の言と雖(いえ)ども、成(みな)其の辞を肆(ほしいまま)にして革諱(かくき)する所なし」

 これは「孔明が蜀の敵国であった魏を非難攻撃したときの文章でも、すべてとがめをうけず、変改することなく収録できた」と言い、その寛容を西晋の天子(武帝・司馬炎しばえん)に感謝しているのです。
 これは現代人から見れば“当り前”のことのようですが、孔明は終生、魏を不倶戴天(ふぐたいてん)の仇敵(きゅうてき)として戦った人ですから、魏晋朝の祖となった人々を面罵(めんば)する、といった文面の多いのは当然です。それらの文面を変改させず、そのまま寛容したこと、これは考えてみれば大変なことです。

 

真実(リアル)な迫力

 この点、『三国志』自体の中でも、同じです。たとえば孔明伝の中で、
 「今、曹(そう)氏、漢を簒(つ)ぎ、天下主無し」
 と孔明が言うところがあります。
 建安二十六年(二二一)洛陽(らくよう)では漢から魏(ぎ)への「禅譲」が行われました。それを孔明はズバリ「簒奪さんだつ」と称しています。そしてその「奪」を許さぬために、すみやかに劉備(りゅうび)に対し、この蜀(しょく 成都)で帝位に即(つ)くことをすすめる、というくだりです。こういう種類の言説は、当の魏晋(ぎしん)朝側にとっては到底許しがたいところです。しかし逆に言えば蜀側の建国時の意気ごみをありありと語っているわけです。
 「こんなふとどきな帝室(曹氏)侮蔑(ぶべつ)の言葉は、正史に記載、相成らん」。こう言われれば、万事休す。『三国志』の魅力は、半減したこと、疑いなしです。のちの中国の『三国志演義』や、吉川英治の『三国志』などで大衆化される、あの“臨場感”や人間対立の真実(リアル)な迫力、それは出るべくもありません。
 今、わたしの言おうとしていることを、もっとハッキリ言えば、次のようです。『古事記』『日本書紀』、さらに“史実を伝えた”と称する『続日本紀』以下の、日本の「正史」類(六国史等)を見て下さい。
 たとえば、天皇家への敵対者が、“天皇への面罵(めんば)の言”を真実(リアル)に吐(は)く。そんな描写が、一体あるでしょうか。全くありません。では、そんな「史実」はなかったのか。とんでもない。同じ人間同士ですから、限りない愛憎が、たとえば皇位継承一つとっても、露骨に衝突しあったはずです。「簒奪」ともなれば、ましてです(たとえば、武烈 ーー 継体の間にも、その問題はありえましょう)。しかし、“天皇への面罵など、書くのは不謹慎だ”。この一言でそのすべては天皇家の「正史」から消し去られているのです。
 このような体裁の「正史」が、わたしたち日本人の歴史認識をながく曇らせ、反真実(アンチリアル)なものにしてこなかったかどうか。こう考えると、陳寿のこの歴史記述法を“当り前だ”とわたしたち日本人が言い捨てることは到底できないでしょう。

 

応変の将略

 さて、本筋にもどります。このような『三国志』の中でも、孔明伝は、もっとも光彩ある伝です。
 孔明がいかにすぐれた名宰相であり、すべての民衆から慕われていたか、それが筆を尽くして書かれているのです。もし、陳寿(ちんじゅ)のこの筆致が彼の個人体験と関係ありとすれば、 ーーそれはかつて孔明がいかに少年陳寿にとって“すばらしい偶像”であったか、それを物語る以外にはないように思われます。そのような印象をわたしはもっていましたから、この孔明伝で、陳寿が“孔明への私怨(しえん)を晴らした”との説に接したとき、“ハテナ?”と眉(まゆ)につばをつけたのです。
 では、史家陳寿は少年時代の憧憬(どうけい)のまま、孔明への冷静な目を失ってしまったか。そんなことはありません。孔明のもっていた長短をハッキリ見つめ、描破しています。
 「評に曰く、諸葛亮(しょかつりょう)の相国たるや・・・(中略)・・・識治の良才と謂(い)う可(べ)し。管・簫(しょう)の亜匹(あひつ)なり。然(しか)るに連年衆を動かして未(いま)だ成功する能(あた)わず。蓋(けだ)し応変の将略、其(そ)の長とする所に非(あらざ)るか」
「評」というのは、各伝の終に必ずおかれた、著者陳寿による“総括”です。今日の「批評」の語の淵源(えんげん)とも言えましょう。陳寿は、右の「中略」部分で、孔明の人柄、識見を絶讃したのち、右の一文でしめくくっているのです。
 「孔明こそは民衆を治めること、すなわち“政治とは何か”という本質をしっかりとらえた人だった。まさに歴史上名宰相と言われた管仲(かんちゅう)や蕭何(しょうか)にも匹敵する人物と言えよう。ただ、長年にわたって出兵し、魏軍と対戦しながら、結局その目的(蜀中心の天下統一)をとげることができなかった。思うに、“応変の将略”については、必ずしも彼の長所とする所ではなかったのではあるまいか」と。
 ここで「応変の将略」と言われているものは、何でしょう。「臨機応変」という言葉がありま,すように、“天下の形勢が変化したとき、機略・大胆にそれに即応した手を打つ”ことです。たとえば、『三国志』中、他に次の用例があります。魏の荀或*(じゅんいく)が、袁紹(えんしょう)と曹操(そうそう)の人物比較論をしている所です(魏志巻十)。
或*は、表示できず。 JIS第三水準ユニコード5F67

「紹(袁紹)、遅重少決、失は機に後(おく)るるに在り。公(曹操)能(よ)く大事を断じ、応変、方無し」
 衰紹は決断力がにぶかった。これに対し、曹操は大事を決断するに果敢だった。形勢の変化に応じて策を変じ、縛られる所がなかった(「方」は“常”“縛”の意)。
 孔明がライバルとして対戦したのは、西晋朝の始祖とされた司馬懿(しばい)でした。彼は孔明に“自己以上の将才”を見出し、“孔明と戦わぬ”という、徹底した“待ち”の作戦に出たことは有名です。「死せる孔明、生ける仲達(ちゅうたつ 司馬懿)を走らす」の故事のように、“孔明の軍を徹底して避け通した”のです。そして病弱な孔明の死を確認してはじめて決戦に出たのです。孔明亡きあとの蜀に“人無き”を知っていたからです。しかも彼は孔明の死後、その軍常の配置を見て、「天下の奇才なり」と絶讃したことが、孔明伝に書かれています。将軍としての孔明の才能には、司馬懿も深く脱帽していたのです。
 では、「応変の将略」とは何か。思うに、魏側にもしばしばピンチはありました。ことに漢の天子を無理に「禅譲」させた弱みは、天下に周知された所でした。また明帝のあと、三少帝(斉王芳せいおうほう・高貴郷公髦(ぼう)・陳留(ちんりゅう)王奐かん)の間、皇位継承をめぐって魏の帝室内には内紛がつづいていました。従ってその動揺をついて、一挙に“攻め”に出れば、どうなったか分らない。少なくとも、自分の死後に人無きを知りつつ、“待ち”に終ったのは、機に後(おく)れたものではないか。 ーー陳寿の観察は、ここにあったのではないでしょうか。
 歴史に「if」は禁句です。しかし、司馬懿の“待ち”のぺースに乗ぜられたまま、死を迎え、その後間もなく蜀(しょく)の滅亡を味わった事実を思えば、陳寿の孔明逸機説も、あながち無体な論難とは言えますまい。むしろ、西晋朝にとって“神のごとき始祖”であった司馬懿の敗北(すなわち魏晋朝の滅亡)のケースを予想するような「if」を裏にふまえた孔明論。このような「評」を、よく陳寿は行った、そして西晋朝も寛容したものだ。わたしはこれに驚嘆せざるをえません。
 こうしてみると、現代の「陳寿、御用学者論」はいよいよ色あせてきますが、それはともあれ、いま確認したいのは、次の一点です。“この個所を陳寿私怨(しえん)論に利用するなど、とんでもない濡れ衣(ぬれぎぬ)だ”と。

 

虚名の息子

 諸葛瞻(しょかつせん)の問題は、もっとハッキリしています。蜀志の孔明伝につづく諸葛瞻伝のはじめに次のようなエピソードが紹介されています。
 健興十二年(二三四)に孔明が兄の瑾(きん)に出した手紙の中で、次のように言っている。「瞻は今すでに八歳。聡明(そうめい)で智恵づき、可愛らしい。しかし、いささか、早く大人びすぎているのが、問題です。恐らくは“重器”(重厚の人物)にはなるまいと思います」と。この書面について、陳寿(ちんじゅ)は一言の説明も付していません。しかし、孔明の死後、そのあとを継いだ瞻について、次のように書いています。
「瞻は書画に工(たくみ)にして、識念彊(つよ)く、蜀人、亮(りょう)を追思し、咸(みな)、其の才敏を愛す。朝廷に一の善政・佳事(かじ)有る毎(ごと)に、瞻の建倡(けんしょう)する所に非ずと謂(いえど)も、百姓皆伝え、相告げていわく『葛侯の所為なり』と。是(これ)を以(もつ)て美声溢誉(いつよ)、其の実に過ぐる有り」
 ここでは、蜀人が死せる孔明を慕うあまり、蜀朝内に善政めいたものがあれば、すぐ(事実のいかんにかかわらず)“孔明の子、瞻のおかげ”と言いあった。そのため、瞻は実質以上の虚名をうることとなった、と書かれています。
 わたしたちには、その真否を確かめることはできませんが、あまりにも偉大な人物の死後、きわめておこりやすい現象ではないでしょうか。たとえばナポレオンの人気復活を後光として登場した、あのナポレオン三世のように。ところが、瞻はその短慮の故に、蜀、亡国の悲述を早く招き寄せたようです。
 魏将登*艾(とうがい)は、彼の性格を見抜き、蜀域に侵入した直後、彼に次のような手紙を送りました。「もし、お前が降服したら、必ず魏の天子に上表して琅邪王(ろうやおう)としてやろう」と。瞻は怒り、艾の使を斬り、出でて艾の軍に応戦し、まんまと艾の計略通り、決定的な大敗をして、蜀の命運をみずから絶ってしまったのです。やはり父の「予言」通り、彼は三十七歳となった今も、「軍器」とはなっていなかったようです。
登*艾(とうがい)の登*は、登に阜偏。JIS第三水準ユニコード9127

 さて、陳寿はここで、孔明が八歳の子供を見てすでにその将来を予言した、その先見の明を讃美しているのでしょうか。確かにそれも、ことの、よりささやかな半面ではありましょう。しかし、より重要な半面は、次の間いにあったはずです。 ーー「そのように“重器”ならざる瞻に、なぜ孔明は、蜀の命運を托(たく)したのか」と。
 この問いをさらに反転させれば、「異才として孔明が期待していた馬謖(ばしょく)もすでに斬られ、他に人材がいなかったのだろう、と言えば、それまでだ。しかしそれならそれで、自分の生存中、いまだ蜀軍優勢だったときに、一挙に中原に雌雄(しゆう)を決するか、それとも断乎(だんこ)、和平に踏み切るか、そのような決断を、なぜ孔明はしなかったのだろう」。 ーーこれは蜀滅亡にさいし、心ある蜀人なら、皆誰もが嘆いたことではなかったでしょうか。すなわち“孔明は応変の決断に踏み切る、その機を逸したのだ”と。
 いささか酷な言い方をあえてすれば、“孔明は、八歳の童子の運命は予言できても、大蜀の後事を予見できなかった”。そう言われても“孔明の死を追うように蜀朝は滅亡した”という、その肝心の史実が厳存する以上、地下の孔明も、これを弁明する方法がないのではないでしょうか。
 わたしが少年時代愛していた詩に「星落つ秋風五丈原」というのがありました。明治年間、土井晩翠(つちいばんすい)の作。孔明を謳(うた)った長篇詩です。漢文読み下し文のもつ美しさを存分にとり入れた、そのリズムは往時の青年の詩心を酔わせる美しさがありました。
  四海の波瀾はらん収まらで
  民は苦くるしみ天は泣き
  いつかは見なん太平の
  心のどけき春の夢、
  群雄立ちてことごとく
  中原ちゅうげん鹿を争うも
  たれか王者の師を学ぶ。
    *
  丞相じょうしょうやまいあつかりき。

 そこに描かれた孔明像は、劉備(りゅうび)の知遇に感激し(劉備が孔明に協力を要請した、有名な三顧の礼の逸話があります)、蜀朝のために孤忠を尽くし抜く忠臣です。孔明の死後について、「功名いずれ夢のあと消えざるものはただ誠」と歌っているように、あくまで唯(ただ)心情的な“孔明讃美”に終っています。
 要するに、“孔明は誠を尽くし抜いたのだ。蜀滅亡は運命だ。彼の責任など問うな”というわけです。まことに日本人的な心情論ともいえましょう。これに対して陳寿はちがいます。一方では、孔明の名宰相としての治を十二分に評価しながらも、他方、厳しく彼の“国の運命への予見と決断の不足”を追究しているのです。その背景はこう考えられます。
 一つは、陳寿にとって蜀の敗戦は、生涯忘れえぬ事件であったこと。たとえば、
 「魏、蜀の宮人(後宮の女)を以(もつ)て諸将の妻無き者に賜う。李昭儀(りしょうぎ)(いわ)く、『我、二、三の屈辱(くつじょく)を能(よ)くせず』と。乃(すたわ)ち自殺す」(漢晋春秋)
 といった悲劇も伝えられているように、幾多の惨事が陳寿の耳や目には昨日のことのように焼きついていたことでしょう。これは蜀生れの青年たちにとって共通の経験だったことと思われます(右で「二、三の屈辱はいやだ」と言っているのは、“ただ一人への貞節を守り抜きたい”という意味でしょう。いわゆる「徳」です)。
 他の一つは、やはり陳寿の史家としての識見です。孔明の果した役割を蜀朝時代から亡国後にわたる長い時間の尺度で客観的に測定する。このような歴史的視点が右の批評を生んだのではないでしょうか。
 このように見てくると、先の『晋書』陳寿伝に現われた私怨(しえん)説は、まことに底の浅い議論。わたしにはそのように思われます。元康七年(二九七)、陳寿は死にました。時に六十五歳。これに先立ち、太康十年(二八九)に荀勗が死に、朝廷内の勢力関係も、やや“旧に復し”つつあったようです。老齢の陳寿に「太子の中庶子」という職が要請せられていましたが、未(いま)だこれに就かざるまま、この世を去ったのです。

 

名誉回復

 陳寿(ちんじゅ)の死後、梁州(りょうしゅう)の大中正尚書郎の職にあった范[君頁](はんいん)たちが、天子に次のような上表文を提出しました。
「昔、漢の武帝が次のような詔(みことのり)を出したことがあります。“司馬相如(しばしょうじょ)が重病の床にある。彼の所に使を遣わして彼の著作・文章をすべて得てこさせるように”と。そこで使者は彼の宅におもむき、“封禅の事”という遺書を手に入れ、天子はこれを賞美した、と言います。わたしたちがいま考えますのに、もとの侍御史であった陳寿は、『三国志』を著作しました。その言葉(辞)には、後代へのいましめになるものが多く、わたしたちが何によって得(え)、何によって失うか、それを明らかにしています。人々に有益な感化を与える史書です。
 文章のもつ、つややかさは、司馬相如には劣りますが、“質直”つまり、その文書がズバリ、誰にも気がねせず真実をあらわす、その一点においては、あの司馬相如以上です。そこで漢の武帝の先例にならい、彼の家に埋もれている『三国志』を天子の認定による“正史”に加えられますように」

 天子はこの上表をうけ入れ、河南(かなん)の尹(いん 長官)に詔を下し、洛陽(らくよう)の令(知事)が陳寿の家におもむいて、彼の遺書である『三国志』を写させた、というのです。
 以上が『晋書しんじょ』陳寿伝の伝える所です。が、漢代の司馬相如といえば、当時文章の神様のように考えられていた人です。それに比べられているのですから、当時として、まさに最高の讃辞でしょう。“棺(かん)をおおうて定まる”のたとえ通り、陳寿の死後、やっとこのようにして『三国志』は“日の目を見た”のです。
 右の中に、わたしにとって感銘深い一言があります。 ーー「質直」
 「飾り気なく、ストレートに事実をのべて他にはばかることがない」という意味です。
 この言葉の出典は論語にあります。
 「『達』とは質直にして義を好み、言を察し、色を観(み)、慮(おもんばか)りて以て人に下るなり」(顔淵がんえん篇)
 弟子の子張の問いに孔子が答えた一節です。子張は“世間に名声を博する”ことを「達」と考えていたようです。「立身栄達」というときの「達」はこれでしょう。しかし、孔子はこれを斥(しりぞ)け、“それは「聞ぶん」だ。真の「達」とは、そんなものではない”と言います(「名聞みょうもん」の「聞もん」もこれでしょう)。そして真の「達」に対する、孔子流の定義を説いたのが、右の語です。
 「あくまで真実をストレートにのべて虚飾を排し、正義を好む。そして人々の表面の“言葉”や表面の“現象”(色)の中から、深い内面の真実をくみとる。そして深い思慮をもち、高位を求めず、他に対してへりくだっている」。子張の、青年らしい客気(かっき)にみちた出世欲にチクリとお灸(きゅう)をすえたのでしょう。
 この『論語』中の一語を、范[君頁](はんいん)は抜き出し、これを陳寿の真骨頂としているのです。ここに例の「わいろ」事件に名を借りた“三国志非難”が全くの濡れ衣(ぬれぎぬ)として斥けられたのを知ることができます。公の場で上表され、天子がこれをうけ入れたのですから。少なくとも、『晋書』陳寿伝の著者が、この「わいろ」事件に、いかなる位置づけを与えたかは、この上表文をもって、陳寿の生涯の記述を結んでいることでも、明瞭(めいりょう)です。
 わたしがこの語を感銘深い、と言ったのは、ほかでもありません。わたしが『三国志』全体の分析を通して痛感したもの、それがこの一点だったからです。従来“誇張だ”“大風呂敷だ”と言ってきたものが、実はすべて後代学者の“勉強不足”、自己の先入見にあわせた“独断”の類であったことが、いよいよハッキリしてきていたからです。
 文章こそ、例えば『後漢書』の范曄(はんよう)のような華麗な行文ではないけれども、一語一語選び抜かれ、その表現が事実に即するように苦心されている。それがいつも痛いように感ぜられていたからです。その陳寿の「質直」の志は、今、二十世紀の異国に生きる、わたしの中にもしっかりととどいています。これこそ、人間の世における真の“到達”というべきではないでしょうか。


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