『邪馬一国の証明』 へ
VI倭の五王の史料批判 V 自署明の論理 『よみがえる九州王朝』 へ
古田武彦
“戦後史学の描いてみせた古代史像は、果たして実像だったのか” ーーそういう問いが今、心ある人々の問に拡がりはじめている。
だが、誤解しないでほしい。当然のことだが、戦前の皇国史観などへ逆もどりするのではない。逆だ。戦後史学が三十余年しめしてきた古代史像は、皇国史観の大わく、つまりその“歴史理解の骨組み”を、そのまま受け継いできたのではないか、そういう疑いなのだ。
まず、実例をあげよう。
読者は、教科書で習ったことがあるだろう。「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す、恙(つつが)無きや」この文句を。
「ああ、聖徳太子の国書だ。隋(ずい)に対する対等外交だな」そうつぶやくにちがいない。「あれは、確か、推古天皇のときだったな」と。
その通り。これは戦前と戦後の日本史の教科書で、記事が共通する、ほとんど最初の事件だと言っていい。戦前の教科書の冒頭を飾っていた神話や説話の部分は、戦後の教科書ではほとんど切り取られてしまったのだから。
つまり、家庭の中で話しているとき、戦前の世代と戦後の世代と、話の“通じ”はじめるのが、ここあたりから、なのである。言いかえれば、戦前と戦後を通じて“安定した史実”と認められているのだ。
ところが、実はーーー。
この話は『古事記』や『日本書紀』には出ていない。中国側の史書である『隋書』のイ妥*国(たいこく)伝がこの名文句の出所である(通例、「倭国伝」と言うが、原文は「イ妥*」)。これに対し、『日本書紀』の方に掲載された国書は、全く別文。平凡な文章で、先のような鮮烈な文句はない。第一、自称(「天皇」 ーー推古天皇)と他称(「皇帝」 ーー隋の煬帝ようだい)の使い方も、ちがうのだ。
それだけではない。肝心の国書の出し主、つまり当人の名前がちがう。『隋書』では「多利思北孤たりしほこ」が、先の名文句の主の名だ。おまけに「王の妻は『鶏弥きみ』と号す」とあるから、当然男王なのである。
イ妥*国のイ妥(たい)は、人偏に妥。ユニコード番号4FCO
けれども、御承知の通り、推古天皇は女性だ。しかも、このとき、隋の使いはこの多利思北孤と直接会って会話を交わしている。「我聞く、海西に大隋礼義の国有り、と。故に遣わして朝貢せしむ」などと、多利思北孤は語っている。むろん、この会話も、『古事記』『日本書紀』とも一切ない(『古事記』の推古記は、系譜だけで、説話自体がない)。また多利思北孤の太子の名も、『隋書』に出ている。「利歌弥多弗利りかみたふつり」だ。聖徳太子(厩戸皇子うまやどのみこ)ではない。
まるで、ないない尽くしだが、それにもかかわらず、現代の日本史の教科書は、戦前の教科書そのまま、“この国書の主は推古女帝であり、太子は聖徳太子だ”と「明記」しつづけてきた。そして“中国の史書は、それをまちがえたのだ”と主張しつづけてきたのである。
だが、考えてもみてほしい。中国の使いが日本で聞いたくさぐさの話が、その細部において誤り伝えられた、というのなら、わかる。ありうることだ(安本美典氏は『明史みんし』などについて、その例をあげておられる)。
しかし、直接会った人物、しかも使者にとって主目的たる相手の国王との接見において、“男と女とまちがえる”そんなことがありうるだろうか。しかも、名前まで「男の名前」として誤記する、そんなことがどうしておこるのだろう。わたしのような平凡な頭では理解できない。これについて、専門の学者は言う。“次の天子、舒明天皇とまちがえたのだろう”“聖徳太子を国王とまちがえたのだろう”などと。
そんな“まちがい”も、わたしにはおこりうるとは思えないけれど、それにしても、舒明天皇にも、聖徳太子にも、「タリシホコ」などという名前はない。
“日本側の使者である小野妹子(いもこ)の遠い先祖の一人に「天帯彦国押人命あめのたらしひこくにおしひとのみこと」というのがいる。妹子が自分の先祖代々の名を名乗ったとき、中国側はその一人を「現在の天皇」とまちがえたのだろう”こういう説もある。しかし“小野妹子が中国へ行って自分の先祖代々の名を名乗った”などとは、どの史料にも書かれていない。その学者の“想像”だ。もしかりにそういうことがあったにしろ、その中の一人と「現在の天皇」をまちがえる、とは、一体どういうことだろう。ありうることとは思われない。
実は、問題のキイ・ポイントはハッキリしている。例の名文句は、多利思北孤の「国書」にあったものだ。国書である以上、本人(国王)の「自署名」が必要だ。“自署名抜き”の国書など、あるはずがない。われわれでも、“自署名抜きの手紙”など出したら、どうなるだろう。匿名の手紙など、まともな用に立ちはしない。まして国書だ。
こう考えてみると、この「多利思北孤」というのは、他ならぬ御当人の自署名の表記だということがわかる。そう言えば、この字面には「北」(天子をしめす方向)「孤」(天子の自称)といった、佳宇(いい文字)が並んでいる。あの、中国側が表記した「卑弥呼」などとはちがう。この女王には、古代中華思想(中国の天子を中心の優越者とし、周辺の国々や民を「夷蛮いばん」として蔑視(べっし)した、古代中国大国主義)に立って、卑字(いやしい文字)を使っている。この用字法を見ても、「多利思北孤」の字面が、国書の自署名であることがわかる。
してみると、これは「正規の名」だ。国書に書くのだから。その「正規の名」を『古事記』『日本書紀』が伝えていないはずはない。しかも、男女の別は“致命的”だ。
こうしてみると、いくら戦後の専門の学者がいろいろな“りくつ”をこじつけてみても、率直に言って、空しい。そう見なすほかはない。通常の頭脳をもつ人間ならば、この道理を疑うことができぬ。では、その多利思北孤とは、どこの人物だろう。それも、実は、『隋書』を見れば、疑う余地なく、明晰(めいせき)だ。
まず、行路記事。隋使は多利思北孤の住む都に来て、彼(彼女ではない)に会っているのだから、その行路記事は貴重だ。ところが、そこに出てくる、ハッキリした地名は「都斯麻国 ーー 一支国 ーー 竹斯国」どまりだ。その次に「秦王国しんおうこく」というのが書かれているが、これがどこをさすか不明だ。これ以外に地名はない。
だから、多利思北孤の国は、「竹斯国」か「秦王国」ということになる。ところが、多利思北孤は「イ妥*(たい)王」と書かれているから、「秦王」ではありえない。とすると「竹斯国」こそ、「イ妥*王の都」のありか、そう判断せざるをえないのである。ここで、
「竹斯国より以東は、皆イ妥*に附庸(ふよう)す」という文面が書かれている。これは『三国志』魏志倭人伝の、
「女王国より以北には、特に一大率を置き、検察せしむ」という文面と相似形になっている。つまり、この「女王国」(倭国の中心国)が、ここでは「竹斯国」に当たっているのである。
もう一つ、鮮明な証拠がある。『隋書』イ妥*国伝では、イ妥*国を代表する山河として、次の記事を記している。
「阿蘇山有り。其の石、故無くして火起り天に接する者、俗以て異(い)と為し、因(よ)って[示壽]祭(とうさい)を行う」
[示壽]祭(とうさい)の[示壽]は、示編に壽。JIS第3水準ユニコード79B1
まがうかたもなく、九州の阿蘇山である。
わたしは昭和五十四年十一月、筑後(福岡県南半)から肥後(熊本県)にかけて、装飾(壁画)古墳をめぐった。一回は博多の読者の方の運転される車にのせていただいて、一回は朝日旅行会のバスの解説役として。そのとき、思った。“この壁画古墳群は、阿蘇山をとりまいている”と。「大分 ーー 福岡 ーー 熊本」という分布は、いわば、阿蘇山を東北から西南にかけて、とりまいているのである。まさにそれらの壁画群は「阿蘇山下の文明圏」をなしているのだ。そして対比すべき文献として、『隋書』のしめす「イ妥*国」もまた、「阿蘇山下のイ妥*国」として、鮮明にして疑う余地のない印象をもって書かれているのである。
そして両者、時期を同じくしている。多利思北孤は七世紀初頭(六〇〇年〜六〇八年)。右の壁両古墳群も、五〜七世紀とされている(たとえば小林行雄『装飾古墳』平凡社刊、参照)。従って文献と実物と、両者を等号で結ぶのは、むしろ必然なのである。
しかるに、戦前はもとより、戦後の教科書もまた、一切、先の明晰な道理に“背を向けて“きた。今も、学者たちは、ふりかえろうとさえしないでいる。ーなぜか。
江戸前期の学者、松下見林(一六三七〜一七〇三)。彼に『異称日本伝』の著述がある。彼は中国・朝鮮半島の史書等を探査し、日本に関する記述を渉猟した。そしてこの大作を完成したのである。その序文に言う。
「故に異邦之書、・・・居多。・・・昔、舎人(とねり)親王、日本書紀を撰す。・・・当(まさ)に、我が国記(日本書紀)を主とし、之(異邦之書)を徴して論弁、取舎(捨)すれば、則(すなわ)ち可なるべきなり」
右の趣旨をのべてみよう。“ここに幾多の史料を集めた。いずれも、日本に関する外国側資料だ。それがあまりにも厖大(ぼうだい)なので、読者は迷うかもしれない。しかし迷う必要はない。なぜなら、わが国には国史がある。つまり『日本書紀』だ。これをもととして考えあわせてみて、「合う」ものは採り、「合わない」ものは捨てればよい”というのだ。
これはまことに“見事な”主張だ。このような方法論に立つ限り、ことは簡単明瞭(めいりょう)だ。“『日本書紀』こそすべて”であり、もし、外国史料がこれに「矛盾」すれば、それは捨てればいい、というのだから。
ところが、『日本書紀』は、八世紀に天皇家の史官によって作られた史書だ。“天皇家こそが、そして天皇家のみが、永遠の古(いにしえ)より日本列島中の唯一の王者である”。これを根本のイデオロギーとした「主張の書」なのである。従って、それに「合う」ものだけ、採用する、ということは、すなわち天皇家側の「主張」に合わないものは、ためらわず切り捨てる、ということだ。だから見林は、右の『隋書』のイ妥*国伝の記事を採取したさいも、一切迷わなかった。
なぜなら、『日本書紀』のしめすところ、“当時(七世紀)の日本列島の主は、推古女帝以外にありえない”からである。阿蘇山云々の記事など、一顧だにしていない。“彼等中国人が勝手に書いたもの”そう見なしたのである。せっかく飛鳥(あすか)に入りながら、“大和のことを書かず、瀬戸内海の行路の終着点、難波(なにわ)の地名も、主都飛鳥の地名も書かないのは、単に彼等のあやまち。そのあやまちは捨てればよい”そう“判断”したのであろう。すべて「論外」、「阿蘇山」問題は議論の対象にさえなっていないのである。 ーー“人間の脳裏に一個の巨大な先入観が宿るとき、眼前の史料箏実さえ、その意義はかき消されてしまう”。そのこわさを肌身に感ぜざるをえない。
この見林の立場こそ、いわゆる皇国史観の本質だ。“天皇家中心主義の理念に合わない史実記載は、消す”この手法である。
『隋書』は、初唐の人、魏徴(ぎちょう)の著である。彼は唐の太宗(たいそう)の貞観十七年(六四三)に六十四歳で死んだ(旧唐書、魏徴伝)。従って隋の建国時(開皇元年、五八一)には二歳。イ妥*国伝に記述された、隋の「開皇二十年(六〇〇)〜大業四年(六〇八)」との間は、彼自身にとって二十一〜九歳の時点。隋が滅亡し、唐が建国した武徳元年(六一八)には三十九歳だ。
つまり、『隋書』イ妥*国伝は、彼にとって同時代史だったのである。たとえば、このわたしが昭和二十年代から三十年代の史実を書くようなものだ。その当時、わたしは二十〜三十代の青、壮年期だったからである。このように考えると、『隋書』の記事がその大筋において「無視」もしくは「軽視」できないことは明らかだ。わたしにはそう思われる。
彼は唐の太宗に寵愛(ちようあい)され、しばしばその「臥内がない」(ベッドルーム)において、政治上の「得失」(処置の是か非か)を相談されたという。彼は諫議大夫(かんぎたいふ)・秘書監等の要職を歴任し、貞観七年(六三三)、太宗の命によって修史の業の総監修を命ぜられた(周史、隋史、梁りよう・陳史、斉せい史)。
以上によって見れば魏徴の「倭国」観と太宗の「倭国」観との間に、ちがいがあるはずはない。すなわち、隋朝を継ぎ、やがて白村江(はくすきのえ)の戦い(六六三)でこの国と決戦することとなった、初唐の朝廷の「イ妥*国」観。それは他でもない、「阿蘇山下の多利思北孤の国」だったのである。
『日本書紀』は養老四年(七二〇)の成立、右の『隋書』よりほぼ一世紀近く後代の成立だ。どちらが史料として信憑(しんぴょう)性が高いか、成立年代の差から見ても、明白だ。“後代の『日本書紀』を基準として、これに合わなければ、一世紀前の同時代史料の方を捨てる”近代にこんな歴史学はない。ただ、戦前と戦後を貫く日本の古代史学がこれだ。
だから、「日出づる処」云々の国書の差出人たる「阿蘇山下の男帝」を平然と捨て、代わって推古女帝や聖徳太子を差出人として、「主格」を切り変えた。そしてこれを堂々と教科書にのせて怪しむところがなかったのである。
この同じやり方にささえられてきたのが「倭の五王」問題だ。戦後の教科書では、おなじみだから、四十代以下の読者には聞きおぼえがあろう。
讃・珍・済・興・武の五人の倭王が中国の南朝劉宋(りゅうそう)の天子に朝貢していた、というのである。ときは五世紀。『宋書』では永初二年(四二一)から昇明二年(四七八)の問だ。
だが、戦前の教科書には、これは全く出現しなかった。なぜか。答えはハッキリしている。『古事記』『日本書紀』に一切出てこないからだ(他面では、『宋書』ののべるところ、倭の五王は歴代、中国の天子に対して「朝貢」した。これを戦前の教科書はきらったためだ、と思われる)。
けれども、松下見林はこれに対してすでに明瞭な答えを出していた。
「讃。履中天皇の諱(いみな)、去来穂別(イサホワケ)の訓を略す。
珍。反正天皇の諱、瑞歯別(ミツハワケ)、瑞・珍の字形似る。故に訛(あやま)りて珍と曰(い)う。
済。允恭天皇の諱、雄朝津間稚子(ヲアサツマワクコ)、津・済の字形似る。故に訛りて之(これ)を移す。
興。安康天皇の諱、穴穂、訛りて興と書く。
武。雄略天皇の諱、大泊瀬幼武、之を略するなり」
このように「倭の五王」はそれぞれ五世紀の天皇名に“配当”された。その根本の理由は明らかだ。“倭王と言いうる者は、日本列島においては、永遠の古より天皇家以外になし”あの信念からである。いわば「松下原則」だ。
戦後の教科書はこの松下見林の判断に復帰した。それだけではない。“『古事記』『日本書紀』に書かれた天皇の系譜は、五世紀初頭以降は信用できる”という立論の証拠としたのだ(井上光貞氏)。なぜなら“天皇の存在が中国の確かな史料(『宋書』)に「倭の五王」として出現しているから”というのである。
だが、ここには重大な「論証の飛躍」がある。なぜなら、そこ(『宋書』)に「イサホワケ」(履中)「ミツハワケ」(反正)といった形で書かれていれば、問題はなかろう。だが、全然ちがうからだ。ここでは「讃」「珍」といった漢字一字の名である。
これに対する松下見林の“くっつけ方”これは全く無理だ。なぜなら彼等(倭の五王)は、中国の天子に上表文を呈している。たとえば讃についても、「表を奉り、方物を献ず」と書かれている。武の場合は、彼の上表文自体が長文掲載されている。その自署名が、これらの中国風一字名称なのだから。先にものべた通り、上表文に「自署名」は必須である。
『宋書』の夷蛮伝全体を検査すると、東南アジアからインドにかけての王たちの場合、(「舎利不陵伽跋摩」磐*達国王)といった長たらしい民族風名称がそのまま記されている。
決して彼等(中国側)が恣意(しい)的にチョンギって、一字に仕立てたりはしていない。これに対し、高句麗(こうくり)や百済(くだら)などの王の場合、「漣*」「映」といった中国風一字名称で記されている。倭国も、その一端だ。ここ「東夷」の国々は、早くから中国との接触深く、中国風の一字名称を自ら記して上表文(国書)を提出していたのである。
磐*の石の代わりに女。
漣*(れん)は、三水偏の代わりに王。JIS第3水準、ユニコード7489
第一、『三国志』の場合でも、卑弥呼という民族風名称を、向こうが勝手にチョンギって「呼」などとしてはいないのだ。これを見ても、見林の“くっつけ方”の無理なことが分かろう。
しかるに見林は、「倭王すなわち天皇」という観念の色眼鏡を絶対化していたため、こういう史料事実のしめすところを無視してかえりみなかったのである。そして“雄略天皇が「武」であることは確実だ”と称する現代のすべての学者たちもまた(井上光貞『日本国家の起源』岩波新書、等参照)。
しかし、わたしの目に、“雄略天皇は武ではない”この命題を明確に裏づける、と思われたのは、次の記事だ。
○(天監元年、五〇二)鎮東大将軍倭王武、進めて征東将軍と号せしむ。(『梁書』武帝紀)
天監元年は、『日本書紀』では武烈天皇の時代だ。
「雄略 ーー 清寧 ーー 顕宗 ーー 仁賢 ーー 武烈」。つまり雄略から数えて五代目の天皇の時代なのである。だから「雄略は倭王武と同一人物ではありえない」これは当然の判断ではないか。
しかし、現代の学者たちはちがった。“右の記事は、まちがいだ。中国の天子は、すでに雄略が死んでいるのを知らずに、あやまって授号したのである”というのだ(井上光貞氏等)。それも、別段、中国側の史料自体から、その「判断」をえたのではない。あくまで、「雄略=武」の定式を成立させるためには“そう考えなければならない”からなのだ。
わたしのような、一介の率直な探究者の目には、“自分の側の立論の都合によって、中国側の記述の史料価値を消す”こんなやり方は、適正とは思われない。たとえそれが専門的学者の肩書をもつ幾多の論文によって飾られていようとも、これに対し、首を縦に振ることがわたしにはできないのである。これは例の『隋書』のイ妥*国伝について、「男と女」を中国側が“見まちがった”ことにしたのと同じ手法だ。はなばなしく授号された「生ける王者」を、紙上で、それも当方の立論の都合で“殺して”しまうのだ。そしてこれも、中国側が死者を生者と“まちがえた”ことにして、「解決」したのである。
わたしは、この事実にぶつかったとき、いぶかった。そして自らに問うた。
“日本の古代史学者には「男と女」をとりかえたり、「生者を死者にする」ような、万能の力が与えられているのだろうか”と。やはり、その答えは否だ。
しかし、現代の日本史の教科書は、この「万能の力」に支えられたまま、今も記述され、これを若い世代に憶えさせているのである。
日本の古代史学界の、このような手法が、劇的に現わされたもの。それが昭和五十三年秋以来の埼玉稲荷山鉄剣銘文の読解だった。
九月十三日の夕刊から十四日の朝刊にかけて、各新聞はいっせいに「雄略天皇=倭王武」の名がこの銘文に現われていた、と報じた。「獲加多支」大王は「ワカタケル」と読み、雄略の名「大泊瀬幼武」に当たる、というわけなのである(岸俊男氏等)。
けれども、わたしは金文字百十五文字を熟視したとき、直ちに一つの不審をもった。なぜなら、この銘文中九人の人名が現われているけれども、その中で「現在」時点の人物は二人だ。「〜大王」と「乎獲居臣」である(他の七名は、乎獲居臣の祖先)。
そしてその二人の問柄をしめす言葉、それが、
「吾、天下を左治す」
の一語である。
この「左治」の語には見覚えがあった。
○男弟有り。国を佐治す。(倭人伝)
わたしが古代史への探究に入ったのは、『三国志』の魏志倭人伝からだった(『「邪馬台国」はなかった』朝日新聞社刊、角川文庫)。そこに出てくる「佐治」とこの「左治」とは同語だ。
そしてこの『三国志』の「佐治」の用語の淵源(えんげん)は周礼(しゅらい)にあった。
「(大宰)以て王を佐け、邦国を治す」(周礼)
周の第一代の武王が殷を討伐したあと没し、第二の天子、成王があとを継いだ。しかし、彼は幼少だったから、実際の統治権の執行は、叔父(武王の弟)の周公(「大宰」の任にあった)が、代わってこれを行なったのである。それをここで「佐(たす)けて治む」(佐=左)と表現しているのである。
この点、倭人伝も同じだ。卑弥呼は女性であり、宗教的巫女(みこ)である。従って統治権の実際は、「男弟」が代わって執行した、というのである。『三国志』の本来の読者たる、西晋(せいしん)代の洛陽(らくよう)のインテリたちは、この倭人伝を読んだとき、「ああ、卑弥呼と男弟との関係は、あの成王と周公との間柄みたいなんだな」そう理解したはずだ。また著者(陳寿)は、そう理解されることを予想して、この文を書いている。そう見なすほかはない。
すなわち、この「佐治」の用語は、名目上の王者に対して、その王朝内で、臣下中ナンバー・ワンの位置の人物が実質上の統治権を執行していることをしめす、政治上の術語なのである。
稲荷山の銘文も同じだ。この銘文の作者が「左治」の語を使ったとき、それは当然周礼か倭人伝か、ともかく中国側の文献にもとづいていたはずだ。だから彼は“「〜大王」は名分上、中心の王者だが、実質上の統治権は、臣下中ナンバー・ワンのわたし(乎獲居臣)がにぎっている”と記録したのだ。すなわち読む者にそう理解されることを欲しているのである。
ところが、「〜大王」が雄略天皇であり、「乎獲居臣」が武蔵(埼玉県)の一豪族だとしよう。では、その一豪族が大和の天皇家内のナンバー・ワンとして、実質上の統治権を日本列島の大半(関東から九州まで)に及ぼしていたのか。考えられない。そんな人物は、『古事記』にも『目本書紀』にも、影さえ見えない。
しかるに大家たちは言う。“武蔵の豪族など、中央の大和へ行ったとき、門番(たちはき)として宮居を守術させられたのにすぎぬ。それなのに、故郷(武蔵)へ帰って、「わたしは『左治天下』した」と大風呂敷をひろげているのだ、そこがいかに田舎者らしい”と(井上光貞、大野晋氏)。
だが、わたしは思った。“「左治」する者とされる者は、同一朝廷内にいるはずだ。周礼の例も、倭人伝の例もそうだから。従ってこの「〜大王」は「乎獲居臣」と同じ、関東にいなければならぬ”と。すなわち「〜大王」を近畿の天皇家の一人と見なすこと、それは無理だったのである。
無理はこれだけではなかった。この大王の住居は、「斯鬼宮」と書かれているが、雄略の宮は「シキ宮」ではない。「泊瀬(はつせ)の朝倉(あさくら)の宮」だ。これに対しても、いろいろ理くつづけが行なわれたが、結局“強引な論法”だ。考えてもみるがよい。もし銘文に「アサクラの宮」と刻してあったら、論者は「それ見よ、雄略の証拠」と言うだろう。ところが、そうなっていない。なっていなくても、同じ結論に“理くつ”づけようとする。要するに「雄略に比定すること」それが絶対の要請なのだ。もし合わぬところがあれば、どうあっても“あうよう”に理くつづけするのだ。
ここでふりかえってみれば、古代史の大家たちの手法がハッキリしよう。“まず王名を天皇に合わせる。次に合わない方は作者の大風呂敷」、つまり「うそをついた」とか、「こうも呼べたのだろう」といった風に、原文の表現に取捨を加えてつじつまを合わせる”、このやり方だ。すなわち、今までのべてきた『隋書』や『宋書』に対した、あの手法と、同一のやり方なのである。
さて、稲荷山の東北二〇キロの地点に「磯城宮」の地が見出された。栃木藤岡町大前神社の境内に明治十二年に建碑された石碑がある。そこに「其の先、磯城宮と号す」と刻されている。そしてその地の宇(あざ)名もまた「磯城宮」というのである。その詳細については、わたしの『関東に大王あり ーー稲荷山鉄剣の密室』(創世記刊)で見てほしい。
ここでは、日本の古代史界の大家たちとわたしとの間に横たわる対立が、単に結論のちがいではない、根本の方法論のちがいであること、その一点を理解していただければそれでいい。
五世紀における、考古学上の分布状況を見よう。
九州では、有名な石人・石馬といった石造物をもって古墳を囲んだ時期だ。埴輪(はにわ)など、土人・土馬でしかない近畿とは異なっている。
ところが、倭の五王の貢献した、中国の南朝劉宋(都は建康。今の南京ナンキン)。そこも石人・石獣といった石造物で墓を守衛した世界だった。すなわち、この南朝劉宋の文明様式に合致するのは、九州であって、近畿ではないのである。
この点、南朝では石獣は「獅子しし」であって、「石馬」でない、との指摘があった(森浩一『古墳の旅』芸艸社)が、天子の「獅子」と臣下(倭王は将軍号を授与されている)の「馬」と“位取り”が一致している。双方ともに「獅子」(天子にふさわしい)とか、ともに「馬」(将軍のシンボル)ばかりだったら、かえっておかしいのである(その上、南朝では天子から配下に石人・石獣の禁がしばしば出され、既造のものは破壊された)。
一方、近畿と関東はどうだろうか。埴輪という土人・土馬に限られていることは共通だ。ところが、シンボルがちがうのだ。関東は有名な鈴鏡・鈴釧(くしろ)圏。稲荷山の埴輪(巫女埴輪)も、この鈴鏡をつけていた。
「天皇陵」古墳の“巨大さ”に幻惑されて、近畿と九州と関東、各古墳群の“質のちがい”を無視すること、それはもはや許されないのである。
以上、七世紀から五世紀へ、時問の流れを遡(さかのぼ)って歴史の骨組みを俯瞰(ふかん)してきた。
これによって読者は、天皇家中心史観によって日本の古代史を“ひっくくる”ことがいかに危険であるか、ほぼその輪郭をうかがい見られたことであろう。文献史料の事実も、出土物や古墳の現実も、そのような、観念による強引なまとめ方を許さぬ、独自の性格をもっているのである。先人も言ったではないか。「事実は頑固(がんこ)である」と。
それだけではない。明敏な読者は、すでに察知されたであろう。三世紀の日本列島の状勢も、以土の考察によって大きく規定されることを。
なぜなら、七〜五世紀ですら、なおかつ「近畿」は九州をふくむ西日本全体を「統一」できていなかったのだ。それなのに“三世紀にはすでに統一していた”そんな矛盾した話はありえないからである。すなわち、いわゆる近畿「邪馬台国」説は、以上の考察と決して両立できないのだ。
これはわたしの「理路」だけではない。史料にも、明記されている。
たとえば、『隋書』イ妥*国伝には、多利思北孤についてのべる直前に、その国の来歴をのべ、
「魏より斉・梁に至り、代々中国と相通ず」
と記している。魏とは、卑弥呼の貢献した国である。魏と斉の間が、「倭の五王」の貢献した南朝劉宋だ。
また『宋書』に継いで成立した史書、『南斉書』では、「倭王武」の国について、
「漢末以来、女王を立つ。土俗巳(すで)に前史に見ゆ」
と記している。その国が、前史(『三国志』)に記録された卑弥呼の国そのものの後身であること、それを明確に同時代史書が証言しているのだ。
『南斉書』は『宋書』と同じ梁朝の史局で作られた史書だ。だから『宋書』の「倭の五王」を論ずるさい、この『南斉書』の記事を無視するわけにはいかない。
従って多利思北孤と倭の五王の国が九州なら、卑弥呼の国も、当然九州だ。この道理は火を見るより明らかである。
では、その卑弥呼の国は、九州のどこにあったか。なぜ研究史上、これほど長い紛議の中にさらされてきたのか。これらの点、最近の論争と対面しつつ、次回に追求してみよう。
〈補論一〉
「卑弥呼 ーー 倭の五王 ーー 多利思北孤」とつづいた九州王朝、それはいかにして終結したか。また一方、近畿天皇家は、いつ日本列島の大半を「統一」したのか。それらについては、左の二書を参照されたい。文献的には『失われた九州王朝』(朝日新聞社刊、角川文庫)、考古学的には『ここに古代王朝ありき ーー邪馬一国の考古学』(朝日新聞社刊)。
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