古代史再発見1 卑弥呼と黒塚
『吉野ヶ里の秘密』「邪馬台国」にトドメを刺(さ)す
『邪馬一国の道標』 へ
古田武彦
この会から、「『三国志』、『後漢書』の話はよく聞くが、そのあとの唐宋代史書、特に『翰苑』、『通典』、『太平御覧』というふうな、唐から宋にかけてつくられた歴史書 ーー『隋書』、『北史』もそれに入りますけれどもそういうものがどうなのか、ということについてまだよくわかっていないので、話してほしい」というお話がありました。この問題については、講師のお一人である大庭さんとか、それからまた最近では北海道大学の佐伯有清さんなんかも、『太平御覧』が問題だ、これをしっかり確かめなければ今後の「邪馬台国」研究は進まないだろうというようなことを書いておられます。そこできょうはその問題についてお話し申し上げたいと思います。
まず一番はじめに申し上げることは、『三国志』には「邪馬壹國」と書いてあるということです。『三国志』の版本としましては全部「邪馬壹國」です。つまり南宋の紹煕年間(一一九〇 ーー 九四)にできた「紹煕本」と、紹興年間(一一三一 ーー 六二)にできた「紹興本」という二つの版本がありますが、初めにできた「紹興本」より、あとにできた「紹煕本」のほうが非常に正確であると私はいっているのですが、ともかくこの両方とも「邪馬壹國」である。その後、清朝の乾隆(一七三六 ーー 九五)のときにできた「武英殿本」とか、その他元本、明木など、どの版本も全部「邪馬壹國」である。中には「邪馬壹」の「壹」を「一」と書いた版本さえある。これは静嘉堂文庫所蔵の宋刊(明代嘉靖=一五二二 ーー 六六=修・補刊)本や、「三国志補注」の底本たる明景(影)北宋本がそうです。ところがそのおびただしい版本の中のどれ一つとして「邪馬臺國」という表記の版本はない。これがまず第一に大切なところだと思います。
ちょっと話が横へそれますけれども、私は親鸞の研究をやっていました。その際「蓮如本」という『歎異抄』の写本を調べたんですが、その場合に蓮如 ーー蓮如上人と本願寺ではいいますけれどもーー 、その蓮如の書いた「蓮如本」というのが一番古いわけです。これは室町の初期前後になりますが、それに対して室町の中期以後にたくさんほかの人の写本ができてくるのです。ところが中期以後の写本に比べまして、蓮如の写本は非常に変わった字や、変わった語法が多いわけです。それで従来『歎異抄』研究の専門の学者は、蓮如本は成立は古いけれども非常に誤りが多い、といってきたのです。これを実例でいいますと、例の「親鸞」の「鸞」の字が「蓮如本」では「巒」と書いてある。“こんな字を書くはずはないから誤字だ”、このように従来の専門の学者はいってきたわけです。ところが実際に調べていきますと、親鸞自身が「巒」を書いている。そして親鸞の弟子もそう書いている、ということがわかってきました。ですからこれは、誤字だ、まちがっている、「蓮如本」は粗雑だ、と現代の学者がいってきたのがまちがいで、実ははじめのころには「巒」も書いていた。あの「鸞」という字は、私が原稿を書いていても一字書くのにほんとうにエネルギーを使うんです。毛筆で書く昔の人はなおさらそうですから、同音の簡単な字を書いたわけですね。ところが「親鸞聖人」というように後世奉られてくると、そんな略字を書いたら叱られるから、だれも書かなくなった、といういきさつがわかってきたのです。
こういうふうに最初の写本とあとのほうの、後世おびただしく出てくる写本とが違っている場合に、これを多数決で、後代の写本がみんなこうだから、これがいいんだろう、ということは、それはできない、危険なんだ、ということをつくづく私は思い知らされました。ましてや「邪馬壹國」の場合は、もう早い時期もおそい時期も、中頃も全部そろって「邪馬壹國」です。これを簡単に「邪馬臺國」のまちがいだろうと改めることは、これは私の目から見ると、非常に“勇敢きわまりない”ことに見えたのであります。
これに対してもう一つ大事なことは、『後漢書』の場合はまた同じく全部「邪馬臺国」であることです。これはやっばり南宋の「紹興本」以下現代まで全部「邪馬臺国」で、「邪馬壹國」となった本は一例もありません。この事実も私は非常に注目しなければいけないことだと思います。
ここで整理して申し上げますと、この問題について三つの態度があると私は思うのです。といいますのは、第一に「邪馬壹國」の「壹」というのが正しい、そして「臺」はまちがいだ、という態度があります。それに対して、第二は逆に「壹」はまちがいだ、「臺」が正しいという態度。従来はみなこれですね。それに対して第三に両方とも正しい、という態度があるわけです。そこで最初の、「壹」は正しい、「臺」はまちがいだ、つまり「壹」は全部正しくて、『後漢書』も「邪馬壹國」とあるべきだ、『後漢書』の「邪馬臺國」もその後の「邪馬臺國」も全部まちがっているんだという意見ですが、私のいままで承知しているところ、こういう意見はどなたもありません。私の意見をこの意見だと誤解された人が非常に多いのですが、そう思って議論を展開されたら、これは“不毛の議論”になります。この第一の意見はいまのところ研究史上出ておりません。将来出るかもしれませんが、現在はありません。そして従来の人全部が暗黙のうちにやってきたのは第二の「壹」は全部まちがい、昔も今もまちがい、それで「臺」は昔も今も全部正しいという態度なのです。ところが私はこれに反対です。結論をいいますと、第三の立場、すなわち『三国志』では「邪馬壹國」が正しい、そして『後漢書』では「邪馬臺國」が正しいと考えるわけです。いいかえますと、三世紀では「邪馬壹國」が正しい、五世紀では「邪馬臺國」が正しいというわけです。ことに『三国志』の場合は、書かれた魏の時代と、書いた陳寿( ーー二九七)の西晋の時代とはほぼ同一の時代で、魏の時代にも陳寿は生きていたわけです。青年時代まで魏代(「蜀」に属する)です。ところがそれに対して『後漢書』の場合は、書かれた後漢の時代は一・二世紀であるけれども、書いた范曄は五世紀( ーー 四四五)の人です。ここに非常に大きな問題があるわけです。
その場合に、この「邪馬臺國」というのを不用意に読んでいくと、後漢の時代の名前のように見えますが、よく『後漢書』全体を調べてみると、実はそうではない。といいますのは、『後漢書』の范曄が後漢における倭国の名前としてそこに書いている国名は別にある。つまり「倭奴國」(「ヰド国」または「ヰヌ国」)です。後漢の光武帝の金印授与のときですね、これが一・二世紀時点の名前です。それが次の安帝のときの帥升の「生口献上」というようなときになりますと、このとき初めて「倭國」という国名が出てきているのであります。これが一・二世紀について『後漢書』が名づけた ーー“名づけた”というより、後漢代の史料によって書いたーー 呼び方であります。それに対して「邪馬臺國」というのは、「後漢書』の最初に ーー読者は五世紀ですーー その読者に説明するときに出てくる国名である。だからこれは五世紀の国名と考えなければならない。そうすると、三世紀には「邪馬壹國」といわれていたのが、五世紀には「邪馬臺國」といわれるようになってきていた、というのが私の考えであります。
それを裏づけるものとして、もっとあとの史料に、いわゆる「倭」、つまり「ヰ」ですが、これを「イ妥*(たい)」と呼ぶようになってきている。つまり『隋書』倭(わ)国伝と普通いわれるのは、実はそうじゃなくて、あれは『隋書』イ妥*(たい)国伝である。この「イ妥*」はもう「タイ」としか読みようがない字なのです。『隋書』では「タイ」と呼ばれている。この点から見ると、五世紀の場合は「邪馬臺(たい)國」と呼ばれていた、という事実をバックにして范曄は書いた、こう見るのが史料に対する最も穏当な判定であると私には思われたわけです。だからこの点、「壹」は正しくて、「臺」はまちがいという論であるかのように ーーそれは現実に日本のどこをさがしてもいまのところ存在しない意見なのですがーー 私の意見をこの意見であるかのように錯覚して取り扱い、反論されると、これはもう全然論がかみ合うことはできません。
イ妥*国のイ妥(たい)は、人偏に妥。ユニコード番号4FCO。
さてそれでは、さっき申しましたように『太平御覧』(北宋太平興国二年=九七七=李[日方]ほか)のほうから入ってまいります。『太平御覧』という本でまず非常にふしぎな思いをさせられますのは、項目につきまして例の「イ妥*」と「日本」の二つに分けているのですが、その「イ妥*」というのは『後漢書』の場合だけを「イ妥*」と書いてある。そうして『三国志』以下を「倭」と書いてあるんですね。これが非常にふしぎな現象で、「後漢書に曰く、イ妥*は韓の東南大海の中に在り」〔後漢書曰、イ妥*在二韓東南大海中一」という文章で始まっている。では、『後漢書』に「イ妥*」と書いた版本があったのでしょうか。そうではありません。これは要するに『太平御覧』の著者の判断で、『後漢書』に対する判定として先のような私の場合とは違った判定をしたわけです。つまり一・二世紀に「イ妥*」と呼ばれたと判断したのです。そしてそれ以後は「倭」になったのだと理解したわけですね。だからその理解で“編成替え”したわけで、「後漢書曰」という場合の、「倭」に当たるところはみな「イ妥*」と“書き直して”いるのです。
李[日方]の[日方]は、JIS第三水準、ユニコード6609
〔『太平御覧』=「後漢書曰、イ妥*在二韓東南大海中一・・・・イ妥*王居二邪馬臺國一。今名二邪魔惟一、音之訛反。」『後漢書(紹興本)=「倭在二東南大海中一。・・・其大倭王居二邪馬臺國一。案今名二邪摩惟一音之訛也。」〕
そして、『三国志』は普通われわれが知っている文章でも「倭」ですからいいんですが、ふしぎなことには、『北史』(唐代=七世紀前半=李延寿) ーーこれは『隋書』(唐太宗貞観十年=六三六=魏徴)とほぼ似た本ですーー を引用する場合に、『北史』にはやはり「イ妥*国伝」とあり、「イ妥*王」と書いてあるのですが、その部分を全部「倭」に直して書いてあるわけです。というのは、これは『北史』の原文に「倭」とあったわけではなくて、この編者の「識見」によって、“古くは「イ妥*」、後に「倭」になったんだ”という立場からご丁寧にも原文の「倭」をいちいち「イ妥*」に直したり、「イ妥*」を。「倭」に直したりして書いているのです。これがまず非常におもしろい現象なわけです。つまり、これからすぐわかりますように、『太平御覧』という本は、自分の見た原文をそのまま一字一句変えずに再現する”という性質の本ではなくて、要するに編老の識見によりまして、つまり解釈によりまして整理整頓し直している本である。この理由はあとで述べます。まず、事実をさらに見ていきましょう。
つぎに、例の有名な、「水行十日、陸行一月・・・」が出てくるところですが、『太平御覧』の文章を見ますと、「又、南水行二十日にして投馬國に至る。戸五萬。官を置きて彌彌と曰(い)う。副を彌彌那利と曰う。又、南水行十日・陸行一月にして耶馬臺國に至る。戸七萬。女王の都する所。」〔魏志曰・・・・又南水行二十日至二於投馬國一戸五萬、置レ官曰二彌彌一副曰二彌彌那利一。又南水行十日陸行一月、至二耶馬臺國一戸七萬、女王之所レ都〕となっていますが、これは何か見たような文章です。つまり私たちが知っている『三国志』(紹煕本)の文章と似ています。「南、邪馬壹国に至る。女王の都する所。水行十日・陸行一月。・・・」〔南至二投馬國水行二十日。官曰二彌彌副曰二彌彌那利一、可二五萬餘戸一。南至二邪馬壹國女王之所レ都。水行十日陸行一月。・・・可二七萬餘戸一〕となっています。しかし、よく見ると言葉の順序がすっかり変わっていることに気がつきます。『三国志』の原文だと、解釈がいろいろできるのです。つまり普通にとっているように、「投馬國」のつぎに「邪馬壹國」だ、その「投馬國」と「邪馬壹國」の間が「水行十日・陸行一月」だとも読めるわけです。しかし私が読んだように、「邪馬壹國」の場合は「女王之所ノ都」という文句がつぎに入ってきている。だからここでストップがかかっているんだ、そしてそのストップがかかったあと、いままでの総日程をしめくくってここでいっているんだ、というふうにも理解できます。そのどちらの理解が正しいか、ということは漢文自体からはきめることができない。漢文はその点、論理構造が比較的“自由(ルーズ)”であり、幾つかの解釈を許すわけでず。ですからどっちの解釈が正しいか、ということは、どっちの解釈をした場合最も“つじつま”が合うか、すっきりと前後脈絡が整うか、ということなのです。そうしますと、私のように解釈しました場合に、つまり帯方郡の郡治、いまの京城付近ですが、そこから女王国の都までが「水行十日・陸行一月」と見ました場合、里数計算が全部ピッタリ合う、ということから、こちらのほうがいいという判定を私はしたわけです。だからこれは漢文の読み方から見て不自然であるとか、不自然でないとか、そういう議論は、明白な文法上の背理でない以上、実はナンセンスである。私はそう思います。この点もいま詳しく立ち入る必要はありませんけれども、いまの問題は、この『太平御覧』の文章ではもう何の見まちがうこともない文章に書き改められていることです。つまり「又、南水行十日陸行一月、至二耶馬臺國一戸七萬」このあとに「女王之所レ都」ときまして、これならもうまちがいなしに“投馬國と耶馬臺國との間”が「水行十日・陸行一月」である。しかも投馬国は女王国の北、つまり投馬国の南に耶馬臺国が当たっている。これはもう疑いようがないわけです。こういう疑いようのない文章に書き直してあるわけです。
さらにつぎに移りまして、「魏志曰、・・・其俗男子無二大小一、皆鯨面文身。聞二其舊語一自謂二太伯之後一。」という文章があります。これはおなじみの句ですけれども、「其の旧語を聞くに、みずから太伯の後と謂う。」というのは、われわれがよく知っておりますように、『魏略』〔其俗男子皆點而文。聞二其舊語自謂二太伯之後一。〕の文章で、〈魏書〉にはない。ないという意味で有名な文章なんです。ですから、これはその意味で“問題の文章”なんですけれども、ここでは「魏志曰」として〈魏書〉にあるように書いてある。これまた非常にふしぎなことであります。
答えは最後に持っていきまして、例を先に見ていきます。つぎは、私が『「邪馬台国」はなかった』の中で論じたところなんですけれども、『太平御覧』に引用している〈魏書〉の文章〔(魏志)又云、自二上古一以來、其使詣二中國一、草傳レ辭説レ事、或蹲或跪、兩手據レ地謂二之恭敬一其呼應聲曰二噫憶一如二然諾一矣。〕では、倭の使者が中国にやってきたときに、両手を地についてうずくまってあいさつをするという意味のことが書いてある。ところがこれはわれわれが知っている『三国志』の文面〔自レ古以來其使詣二中國一皆自稱二太夫一。(中略)下戸與二大人一相二逢道路一逡巡入レ草傳レ辭説レ事或蹲或跪、兩手據レ地爲二之恭敬一。對應聲曰レ噫、比如二然諾一。〕から見ますと、まったくとんでもないことです。
“倭の使が中国に来る”云々という言葉があって、そのずっとあとに、例の“地にはいつくばって”という話が出てきます。これは有名な、倭国内の下戸と大人との間の関係の記事でありまして、”下戸が大人に会ったとき、卑屈ともいえる ーー丁重ともいえばいえるんですがーー 態度をする”ということが書いてある。しかもその両者の間に「紹煕本」でいって三十一行(一行十九字)もの大量の文章が入っているわけです。それをパッとくっつけていかにも倭の使が中国へ来たときにそういう卑屈な態度をするかのような文面にしている。これもいくら“それは中間を省略してただ並べただけだ”と弁解しましても、原文を読まずにこれを読んだら、“倭の使は中国へ来て、えらいへつらっているなァ”と、当時(宋代)の読者には読める文章なんです。そういうふうにしてしまっているわけです。
実は、『太平御覧』の〈東夷〉の「叙」に「白虎通(班固の著)に曰く、『夷は蹲(うずくまる)なり。言、礼義無し。』」という引用文があります。ですから、その文意に合わせて、『太平御覧』の編者が『三国志』の文面を「改ざん」したものではないか、と見られます。
これらの答えが一番はっきり出るのはつぎの例でありまして、「(魏志)又曰く、・・・詔書にして賜うに雑錦采七種・五尺刀二口・銅鏡百枚・真珠[金公]丹の属を以てし、使に付して還らしむ。」〔(魏志)又曰、・・・詔書賜以二雑錦采七種・五尺刀二口・銅鏡百枚・眞珠鉛丹之屬一付レ使還。〕と『太平御覧』では書いてあるわけです。これはやっばり「又曰く」ですから「魏志に曰く」なんです。ところがこれは『三国志』(紹煕本・紹興本とも同じ)によって見ますと ーーこれも有名な文章ですがーー 、「其の年十二月、詔書して倭の女王に報じて曰く」〔其年十二月詔書報二倭女王一曰〕となって、このあと直接法の文章になるのです。つづいて「親魏倭王卑彌呼に制詔す」〔制二詔親魏倭王卑彌呼一〕となり、そのあと資料ではだいぶ大量に省略しましたが、長い文章がありまして、「又特に汝に紺地句文錦三匹・細班華[ケイ]五張・白絹五十匹・金八兩・五尺刀二口・銅鏡百枚・眞珠・鉱丹各五十斤を賜う。」〔又特賜二汝紺地句文錦三匹細班華[ケイ]五張、白絹五十匹金八兩五尺刀二口銅鏡百枚眞珠[金公]丹各五十斤一〕となっています。実はこの前に賜うものをもっとたくさん書いてあるのです。賜物をたくさん書いたあとでまた特にこれをプラス・アルファするというわけですね。そして「皆装封して難升米・牛利に付して還らしむ」〔皆装封付二難升米・牛利一還。・・・〕というわけです。ですからここではっきりしますように、『太平御覧』では「魏志に曰く」とありましても、決して〈魏書〉をそっくりそのままそこに写したものではないわけです。要するにその要点を略記しているのです。直接法も間接法に直し、そしてたくさんある賜物を、これも煩雑だからその中の主なものだけを抜き出して、また「難升米・牛利」なんていう名前はどうでもよろしい、だから「使に付して還らしむ」こういうふうに、いうなればダイジェスト版をつくっているわけです。
[ケイ]は、よんかしら編の厂(がんだれ)の中に[炎リ]、JIS第4水準ユニコード7F7D
[金公]は、金偏に公。
これは実は『太平御覧』の序文を見ましたら何のふしぎもないことでありまして、『太平御覧』という名前が示しますように、太平の世の中になった、ところが天子は非常に仕事が煩雑だ、そこでこれをご覧いただいて、すぐ要点を見ていただけるようにこれをつくったという大略の趣旨の序文がついております。つまりこれはいわゆるエソサイクロペディア、事項別の事典、百科事典というわけです。その百科事典の際に、学者的な、学問的な厳密さよりも、要点をダイジェストして載せるということが必要なのであります。だから、ちょっと変ないい方ですけれども、イメージをいってみましたら、中国の天子が倭の使者 ーーそのころは「日本」ですが、その日本の使ーー が来るというときに、前の晩に「日本ってどんな国だったかなア、ああ、ちょっとあれを引いてみよう」といって『太平御覧』のそこを引いたら、光武帝の印綬や卑弥呼のこと、ザーッと昔から最近までのことが全部載っているわけです。しかも大事なことは、当時の中国人が読んで何の読みづらいこともないような、スラスラと読めるような読み下しで、ダイジェスト版につくってあることです。だからそれをパッと読んで、「ああ、日本はそういう国だった」と思って翌日の儀式では ーー話なんかあまりしないと思いますがーー もし仮に日本の使者と話をしても、いかにも“あなたの国の歴史は全部知っていますよ”というような顔でしゃべるわけです。つまりそういうダイジェスト版をつくっているのです。
これは、たいへん脱線しますけれども、アメリカの大統領のニクソンなどは、新聞の形で毎日のニュースのダイジェスト版を毎朝届けてもらって読んでいるとかいう話を聞きましたが、やはり権力者というのは、そういうダイジェストがいつの時代でも必要らしいですね。そういうのが『太平御覧』であります。ですから先ほどからのことも別にふしぎはないわけで、「其の旧語を聞くに、みずから太伯の後と謂う。」といういい方も、“これは『魏略』であって、〈魏書〉にはありませんぜ”とか、そんなややっこしいことはいう必要はないのです。そういうことはこの場合の実用には関係ないわけです。大事なことは、これを「魏志に曰く」とあるから ーーわれわれ日本人は『論語』なんかの教養が“深過ぎる”ので、「子のたまわく」なんていうと直接法ですね、あれと同じようにーー 〈魏書〉からの直接引用だと思い込むのです。それは確かに本来の「曰」の用法はそうでしょう。ところがここの用法の実際は明らかに「直接法」ではないわけです。つまりダイジェスト、いうなれば「リーダーズ・ダイジェスト」なんですね。大体の要旨や要約を「魏志に曰く」と書いてあるわけです。
こういう性格はつぎの例で、さらにはっきりしてきます。「是(ここ)に於て復、さらに卑彌呼の宗女臺擧を立つ。年十三。」〔於レ是復更立二卑彌呼宗女臺擧一、年十三。〕(巻七百八千二、四夷部三、イ妥*)、この「臺擧」の「擧」という字ですね、いわゆる「選挙」の「挙」というような字を書いてある。これを要するに「壹與(与)」というのは、ちょっと名前としておかしい、これはやはり ーー「壹」は「臺」の“まちがいである”というと、いい方が正しくないのです。この点、あとで詳しくいいますけれどもーー 、「壹」はおそらく「臺」だろう、そして「臺與(だいよ)」もおかしい、「與」は「擧」のまちがいだろう、「臺擧(だいきょ)」なら一応われわれのセソスとして人名でいい、こういうことで「臺擧」に直しているわけですね。その証拠は、同じ『太平御覧』の中に ーーいまのは「四夷部」の中にあるのですがーー 、「珍寶部」というのがあります、百科事典ですから。その珍宝の珠の部類には、「又曰く、倭國の女王壹與」〔又曰、倭國女王壹與〕とはっきり「壹與」と書いてある。そして、「大夫率善等を遣わし、貢白珠五十孔・青大勾珠二枚を献ずるなり。」〔遣二大夫率善等一献貢白珠五十孔青大勾珠二枚一也。〕(巻八百二、珍寶部一、珠、上)となっています。それに当たる『三国志』のほうの原文は、〔復立二卑彌呼宗女壹與一、年十三。〕と〔政等以檄告喩壹與。壹與遣二倭大夫率善中郎將掖邪狗等二十人一迭二政等一還因詣レ臺献上二男女生口三十人貢二白珠五千孔青大勾珠二枚異文雑錦二十匹一。(紹煕本)ですが、比べればわかるように、だいぶ省略があるわけです。ダイジェストしているわけですね。いまの「大夫率善等」のあと名前がだいぶ続くわけで、「中郎將掖邪狗等二十人」云々という言葉が入るのです。そして例の「臺」字を使った「因りて臺に詣り・・・」ということも入るわけです。これらについては、この際は珍宝のことが問題なのだから、必要なし、ということでだいぶ省略したわけです。ところが肝心の珍宝のところへ入りまして ーー「貢白珠五千孔」というのがわれわれの知っている『三国志』(「紹煕本」その他)の文章ですーー この「五千」というのはこれはちょっと大き過ぎる、こんなにたくさんの数はまちがいだろう、「千」と字が似ている「十」のまちがいで、「五十」だろう、ということで「五十孔」と直しているのです。これは、われわれからいうときわめてずさんな感じがしますけれども、要するにそういう直し方をしている。ところがその場合に、これは「珍宝部」の専門家というか、担当ですから、珍宝問題については自分の「識見」によってダイジェストする必要があるのですが、人名問題は“専門外”なわけですね。だから人名は一応そのままに残っているのです。だからこの編者の見た原文は「壹與」であった、ということがわかるのです。これに対し、先の「四夷部」の担当者は ーーこれは国名や人名が専門になるわけですがーー 、「壹與」ではおかしい、これは「臺擧」だろうということで直しているわけですね。ですから、こういう非常に膨大な百科事典であるからしょうがないのかもしれませんけれども、かなりずさんな、要するに各部門の連絡のとれていない編纂態度があらわれているわけです。こういうのが、ありていにいって『太平御覧』です。しかしそういうことがあっても、これだけのニソサイクロペディアができたということは、これはすばらしい、まさに世界史的な事件だと思います。これはヨーロッパのエソサイクロペディアの歴史と相対してみましてもそうです。しかしそのすばらしいということと、『太平御覧』がどういう態度で古典の引用をしているか、ということとはおのずから別問題であります。こういうふうに史料性格を見てまいりますと、『太平御覧』にこう引用してあるから、こういう「原文」があったんだ、というような議論は、これはやはりどうにもいただけない議論、『太平御覧』というものの史料性格をしっかりと見つめていない議論だ、私にはそういうよりほかはないのです。
さて、いまの「壹」と「臺」について申しましょう。先にのべましたように、「壹」も正しい、「臺」も正しい、というのが私の立場なわけですが、その場合、この「壹」は「倭(ゐ)」のことです。「臺」のほうは、要するに「イ妥*」と同じです。これはおそらく「大倭(たいゐ)」を一字であらわしたものと思います。『太平御覧』でも「後漢書に曰く」のところで「大倭王」というのを「イ妥*王」と一字で書いている例もありますけれども、こういうふうに「大倭」を「臺」としてあらわしたんだろうと考えるのです。そうしますと「壹=倭」が後に「臺=大倭」というふうに変わってきたわけです。そうすると後の「臺」であらわすのが「礼義」といいますか、歴史書の一つのあり方なのです。例をあげますと、「日本の神武天皇」とか「中国の孔子」というような言い方をしても国名の言い方にはだれも文句をいわないだろうと思うのです。しかし実際は“神武天皇のときに日本という国号があった”なんていうことでもないし、“孔子のときに周ではなく、中国という国号だった”なんていうこともないわけです。これは現代の中国、現代の日本という名前を当てていっているのです。つまり後の国名にいいかえて書いているわけです。
これはさっきいった親鸞の関係史料でもよく出てきます。親鸞は「綽空」という名前だったのが「善信」という名前に変わります。ところがその「綽空」の時代に書いた文書を自分であとで写し、清書します。このときにその「僧綽空」というところを「善信」と、そこだけ書きかえているのです。これは二尊院の七箇条起請文(法然一門連署)と高田専修寺の西方指南砂(親鸞書写)とを比べると、わかります。これは別にけしからんことではなくて、ある意味でそれがルールにかなったやり方であったわけです。年号なんかでも、変わった場合は“変わったあとの年号でその一年間を全部呼ぶ”という方法ができています。これは日本の例ですが、中国の場合もそうです。これは『失われた九州王朝』という私の本に書いておいた例ですけれども、「輪頭」と書く地名が西域にあります。これは『史記』に何回もそう出てくるのです。ところが同じこの地名を『漢書』では「輪臺」と書きます。これは『史記』と同じ事件を書いているのですが、そのときに「輪頭」を全部「輪臺」と書き直しています。これは要するに中国側の要塞ができてから「臺」が築かれたわけで、そこで「輪臺」と呼ぶようになったのです。つまり『漢書』が書かれた後漢の時点では「輪臺」というようになっていたようですけれども、それ以前の昔の歴史のところまで全部輪頭を「輪臺」と書き直しているわけです。“これはけしからんじゃないか、これはまだ「輪臺」という名称以前の時代のことではないか”ということになりますけれども、先の例のように、一つの名前が正規に改められたら、その改められた名前で過去からの歴史をズーッと書いていく、というのは、歴史を書く場合の一つの態度でありましで、別に非難するには当たらないわけです。
そうしますと、先にのべたように、「壹」が「臺」になった、しかもその内容から見ますと「倭」よりも「イ妥*」(臺のほうがりっばな名前なのですから、「倭」は「大倭」です!これで書き直しているということは、これはやはりルールどおりなわけです。別におかしい話ではないのであります。実はここに唐宋代史書がみな「邪馬壹国」ではなくて、「邪馬臺国」である、「魏志に曰く」としてあっても「邪馬臺国」と書き改められているという、その本当の理由があるわけなのです。
この点は、『太平御覧』のもう一つ前の時代(唐代)にできた『通典』を見ますと、さらにはっきりしてまいります。『通典』、に書かれた倭の記事を三つあげます。まず最初に、〔齋王正始中卑彌呼死、立二其宗女臺輿一爲レ王。〕とあって、ここでは例によって「壹與」が「臺輿」という字で書き直してあります。「壹」を「臺」に直すのは先ほど申しましたように結構なんですけれども、「與」を「輿」という字で書き直したのは人名として「壹與」では少し字が貧弱である、ということで書き直したわけでしょう。しかしこの場合は音自身は変わらないのですから、「穢」と「歳*」のような部類の例です。
歳*は、三水編に歳。穢の別字。第4水準ユニコード6FCA
ところが問題はつぎの例です。〔宋武帝永初二年倭王讃修二貢職一。至二曾孫武一順帝昇明二年、遣レ使上表曰。「(倭王武の上表文 ーー 古田)と詔除二武使持節安東大將軍倭玉一、其王理二邪馬臺國一。或云邪摩堆。〕という一文の中に「其の王は邪馬臺國を理(おさ)む。」とあって、“邪馬臺国を統治している”と書いてあるんですが、おもしろいことに「其の王」というのはこの文面では直接には「倭王武」であります。だから“倭王武が邪馬臺国を統治していた”と書いてあるわけです。そうしますと、私が先に『後漢書』の書き方から推定しました“邪馬臺国とは五世紀の呼び名だ”ということを、まさに『通典』が裏書きしてくれているかっこうになるわけです。しかし『通典』ぐらいでは、だいぶ後の時代の文献ですから、裏づけとしては不十分ですけれども、とにかく『通典』など唐宋代史書を論拠にする論者でしたら、やはりこれを素通りすることはできないでしょう。
ところが『通典』の態度を一番明らかにするものはつぎの文章です。〔去二遼東一萬二千里、在二百済・新羅東南一。其國界東西五月行、南北三月行、各至二於海一。大較在二曾稽[門/虫]川之東一。」とあり、「大較、曾稽[門/虫](びん)川の東に在り。」と書いています。これは皆さんご承知のように、『後漢書』の「大較會稽東冶の東に在り」という文章に当たるところです。それを「[門/虫]川」と書いてある。これは何かといいますと、「東冶」といったんでは、『通典』の成立した時期 ーー唐代、八世紀末ですがーー ではどうも読者にピンとこないわけです。「[門/虫]川」といえば、「ああ、あそこか」とすぐみんなの頭に福建省の位置がピンとくるのです。だから現代地名である「[門/虫]川」に書き直しているわけです。だからこれをもって“「後漢書』の原文には「[門/虫]川」と書いてあったはずだ、そういう古い写本があったんだろう”なんていうことをいい出したら、ほんとうにこれはもうお笑いぐさになってしまいます。これはやはりその当時の読者に、その地理的位置がすぐ理屈抜きでわかるように、「東冶」を「[門/虫]川」と書き直しているのです。だからさっきの例のように、「日本の神武天皇」というようないい方と同じことになっているわけですね。そうしますと、いまのように、「邪馬臺國を理(おさ)む」 ーーここは五世紀の話ですけれどもーー たとえ卑弥呼の時代についてでも“彼女は「邪馬臺國」”にいたと書いてもそれは何のふしぎでもなく、まちがいでもない、ということになります。
[門/虫](びん)川の[門/虫]は、門の中に虫。JIS第三水準ユニコード95A9
『通典』にはもう一つおもしろい問題があります。後漢の時代、安帝の永初元年に「生口百六十人」を師升が「献」じたという話のときに、彼を「倭面土國王」として書いてあります。これを内藤湖南さんが問題にされたわけです。“これはおそらくヤマトと読むんだろう。「倭」を「ヤ」と読むことはこういう理屈でできるんだ”というように音韻上だいぶ苦しい説明をして、“「面」もまた「マ」と読み得るんだ”“読めないこともなかろう”ということで結局「ヤマト」と読んでいます。要するにこれは後漢の安帝のとき、「生口」を「献」じにいった師升(『後漢書』の原文は帥升)が近畿大和(やまと)の王である証拠だという議論を展開されたわけです。
この問題に対して、ズバリ私の答えをいいますと、これはそのとおりだと思うのです。つまり「倭面土」は「大和(やまと)」だと思うのです。何で「大和」かというと、“「ヤ」という音に当たるところが「倭」で、「マ」という音は「面」になったなど”という理屈をつけようと思うとこれは苦しい。ちょっと“屁理屈”みたいになってきます。しかし理由ははっきりしています。「倭面」という言葉は、これはすでに出てきている言葉です。つまり『漢書』の魏の如淳註の ーー「ヰメン」と読むのが正しいわけですがーー 「墨の如く、倭面して、帯方東南萬里に在り」という句。ここで「倭面」という言葉が出てきております。有名な言葉なのです。第三字の「土」というのは「土地」の「土」ですね、これは明らかに最後が「ト」という音の国名なわけです。「倭面」という有名な言葉と「土」とをつなげて「倭面土國」としたわけです。『通典』ができたときにはもう完全に近畿天皇家の統一政権の時代ですから ーー日本ではもう平安朝くらいですーー 「ヤマト」という音をこういう字で唐代に表記しているわけです。その上、これには実は版本の問題があります。
といいますのは、実は『通典』の「武英殿本」(清朝乾隆十三年=一七四八)よりも、もっと古い版本があります。日本の宮内庁書陵部にあるものです。きのう私はそれを見て確認してきたのですが、「武英殿本」という清朝の版本にはただここに「倭國」とありまして、あんな「倭面土國」などというおもしろい字面は出てこないのです。ところがいまの書陵部の本に ーーこれは非常におもしろい本で、昔高麗にあったことがわかる、高麗国の朱印の入った版本です。紙もいいし、非常にいい版本なんですがーー このおもしろい表記か出ています。それで内藤さんは“これが古い形だろう”といわれるわけです。ところが私は「武英殿本」の「倭國」と書陵部本の「倭面土國」とどっちが古い形か、きのう調べてみて疑問に感じました。確かに紙もいいし、成立は当然書陵部本のほうが古いんですけれども、しかし内容から見ると、どうも「武英殿本」のほうが『通典』として本来の形じゃないか、書陵部本のほうが後に書きかえられた形じゃないかという疑いが出てまいりました。この点はまたあらためて述べることにします。ともかく「倭面土國」の字面の成立が『通典』成立時点か、あるいは『通典』がいったん成立したあとに改訂が加えられた時点のものか、それは別問題にしましても ーーいずれにしても「唐宋代」ですからーー これは要するに「ヤマト」という音を、由来する所の古い、“音の似た”字で「表現」しているわけです。ですからこれを、私がさっき言いましたように、唐代には音韻上「倭」が「ヤ」の音だったと証明しようとしたってこれは無理です。要するに“音が似ていて”、“由緒のある文字文面を使う”ところにおもしろさがあるのです。
これはちょっと余談になりますが、私、京都でこの間中華料理店へ入ったら、メニューに「可楽」というのが出ていたんですね。“何だろう”とちょっと考えて、笑い出したんですよ。“楽しむべし”と書いてある、これは要するに「コーラ」ですな。コカコーラかペプシコーラか知りませんが、つまりコーラなんですね。それを“楽しむべし”、つまり「可楽」と書いてあるわけです。それで“この「可」は現代において「コー」と読むか否か”“「楽」は「ラ」と読むか否か”なんて議論しだしたら、これはもうややっこしい、むしろナンセンスです。「コーラ」と音が似ていて、意味が“楽しむべきもの”だ。これでいいのです。なかなかこれは現代の造語の天才がつくったんだろうと思って ーーこれは中国側でも使っているのかもしれませんがーー 感心したのです。こういうふうに音が似ていて、字面が非常に楽しい、“ああ、なるほど。うまくつくりおったな”という字面であることが必要なわけです。
そういう意味合いの「倭面土國」表記、つまり「造字」である。だから内藤さんがこの字面を根拠にして卑弥呼の国は「近畿大和」であったという議論にまで展開されたのは、やはり『通典』という文献の史料批判をおろそかにされたのではなかろうか。私はいまそう思っています。
さて、『通典』についてはこのぐらいにして、最後の段階、つまり『翰苑』(唐代・張楚金)に入っていきたいと思います。『翰苑』というのはいままでの『通典』、『太平御覧』とは史料性格が違いまして、非常に貴重な史料であることがわかってきました。まず『翰苑』というのは、その成立年代がいままでの『通典』、『太平御覧』よりもずっと早いわけです。それは六六〇年(顕慶五年)という年代でありまして、これはかの有名な白村江の戦いの三年前という年代であります。この年代は私にとって非常に重要だ、ということは私の『失われた九州王朝』という本をお読みの方にはおわかりになると思うのです。つまり白村江の戦いまでは九州の筑紫を中心とする九州王朝が歴然と続いていた時代だ。そして白村江で大打撃を受け、やがて八世紀の初めには完全に姿を没してしまう。つまりその段階で初めて近畿天皇家に統一される。“磐井の反乱のところで統一されたんだ”というふうに私の説を紹介しておられる方がありますが、これは私としては不本意でありまして、あれは“武力に勝った”だけで、“統一”はしていない、「大義名分」は依然として九州王朝側にあったわけです。七世紀前半の多利思北孤(たりしほこ 『隋書』)の時代でも。それが白村江の戦いによって大きく土台骨がゆらいできたというわけなのです。逆にいいますと、天皇家が初めて東アジアの世界で公認されるといいますか、日本の統一政権として「認知」を受ける段階になってくるわけです。
そういうふうに考えてみますと、六六〇年、つまり白村江の三年前に成立したということがはっきり跋文でわかります『翰苑』というのは、非常に貴重な本である。しかもこの『翰苑』は非常に数奇な運命を持っておりまして、この本が存在したこと自体は、『旧唐書』(五代晋・劉[日句])の経籍志などにちゃんと三十巻と書いてありますし、著者の名前も張楚金とありますからまちがいないのです。ところが本自体は中国では全然滅び去ってなくなっていた。それが筑紫の西高辻家 ーー「男爵」だったそうですがーー に伝来していたものがいま太宰府の天満宮にあるのです。これが最末の三十巻だけ残っている。それ以前の二十九巻分はないわけです。この第三十巻は最終巻ですので、幸いにその最後に跋文がついている。その跋文に、“顕慶五年三月十二日に私が昼寝をした、そのときに孔子が夢に出てきた”という話があって、その夢の話が書いてありまして、そのあと”私は決心して、この本をつくろうと思った”ということが人間味豊かに書いてあるわけです。その成立年代がわかっていることがわれわれには非常にありがたい。
劉[日句]の[日句]は、JIS3水準、ユニコード662B
『翰苑』には非常におもしろい問題が幾つも ーーこの「倭國伝」以外にもーー あります。時間があればお話し申し上げたいんですけれども、いまは「倭國伝」を問題にします。全文を読んでみます。「山に憑(よ)り海を負(お)うて馬臺に鎮(ちん)し、以て都を建つ。職を分ち官を命じ女王に統ぜられて部に列せしむ。卑彌は妖惑して翻(かえ)って群情に叶(かな)う。臺與は幼歯にして方(まさ)に衆望に諧(かな)う。文身點面、猶(なお)太伯の苗と称す。阿輩鷄*彌、自(みずから)ら天兒の称を表す。礼義に因りて標秩(ひょうちつ)し、智信に即して以て官を命ず。邪(ななめ)に伊都に届き、傍(かたわ)ら斯馬に連(つらな)る。中元の際 ーーこれは「受け」という類の字が抜けているのかと思いますがーー 紫綬の栄を〈受け〉、景初の辰(とき)、文錦の献を恭(うやうや)しくす。」〔憑レ山負レ海鎭二馬臺二以建レ都。分レ職命レ官統二女王一而列レ部。卑彌妖惑翻叶二群情一。臺與幼歯万諧二衆望一。文身點面猶稱二太伯之苗一。阿輩鷄*彌自表二天兒之稱一。因二禮義一而標秩、即二智信一以命レ官。邪屈二伊都一傍連二斯馬。中元之際(受二)紫綬之榮一。景初之辰恭二文錦之獻一。〕
鷄*は、「鳥」のかわりに「隹」。JIS第三水準、ユニコード96DE
この中でまず重要なのは、地理的位置の問題です。最初に「山に憑り海を負うて馬臺に鎮す」、これは「邪馬臺」のことを「馬臺」といっているのですが、ここで大事なことは ーー「邪馬壹」を「邪馬臺」という後代名称に直すことは当然だと先ほと申しましたがーー 「馬臺」である、しかも「鎮臺」という唐の時代の熟語をバックにしていることです。ですから、この「臺」は「ダイ」であって、「ト」ではない、当然「マトに鎮す」じゃないわけです。それははっきりしています。この点をもっとはっきりさせようと思いましたら、それほど遠くない時代 ーーどんなにおそくとも本文の後百七十年以内ーー にできた雍公叡の注があります。そのなかに「後漢書に曰く」として、「其の大倭王、邦臺に治(ち)す。」〔其大倭王治二邦臺一。〕と書いてあります。そしてこれは例の議論によると、“それじゃ『後漢書』にここを「邦臺」と書いた版本があったのか”なんてばかげた議論になりかねない。とんでもないことですね。この唐の時代には「郡臺」というのがあります。これは各部の役所のことです。また「鎮臺」というのは各地方に置かれた軍団や役所のことです。日本でも「鎮臺」というのが明治ごろですか、使われましたが、あれなんです。そういう地方の「郡臺」「鎮臺」の類ではなくて ーー天子のもとの中央の役所を「邦臺」といいますーー 唐代の現代語である「邦臺」をここにはめ込んでいるのです。これも“「後漢書に曰く」と書いてあるのに、けしからんじゃないか”といえそうですが、それは「曰」という字の意味を杓子定規にとった人のかってな憤慨でありまして、やっばりさっきのように“原文の趣旨を現代の読者にわかりやすく書き改めている”わけですから、そうするとたしかに「邦臺に治す。」ということなのです。ということは、この場合も“「ホウト」に治す”じゃなくて、「ホウダイ」なのです。だからやはりこの「臺」は「ダイ」であって、「ト」ではない。これはいくら音韻学上“何とか「ト」と読めるんだ”なんていう議論をしてもだめでして、やっばり「ダイ」であります。
さて、「馬臺に鎮し、以て都を建つ。」といいます場合、この「以」の用法ですが、『翰苑』の先ほどの文中にあるように、「智信に即して以て官を命ず。」のように、これは例の冠位十二階の話ですが、「智信に即す」ということと「官を命ず」ということとは、これはイコールです。つまり徳・仁・義・礼・智・信の官名で“官を命じている”ことがすなわち“智信に即している”わけです。だから“AもってB”というときに、“AイコールB”、つまり別の方面から見ているだけで、実体は一緒なのです。これは『翰苑』(第三十巻)にたくさんそういう用例が出てまいりますが、その用例から見ると「山に憑り海を負うて馬臺に鎮す」ということと、「以て都を建つ」ということはイコールなのです。つまり都の位置が、「山に憑り海を負うて馬臺に鎮す」という位置なのです。これがまず第一点です。
つぎに、いろいろ歴史的なことが出てきますが、それはあと回しにしまして、地理的位置がまたここに出てまいります。まず「邪」の字。 ーーこの字は副詞に読むときは「ナナメ」です。「伊都に届き傍ら斯馬に連る。」の「連なる」とか「届く」といった用法は『翰苑』の非常に好きな表現方法で、この用法はたくさん出てきます。それから見ると、「届く」という場合は、接している場合の一つです。“すぐそば”というよりも“少しはなれたあたり”で接している形ですが、とにかく“接して”いて、“中に別の国が入っていない”場合に「届く」という言葉を使います。つぎに「連なる」という場合は、その接している国の(もう一つ向こうにある国がはじめの国から見て「連なる」となるわけです。つまりいいかえますと、「A→B→C」と並んでいまして、Aから見てBは「届く」、Cは「連なる」なのですね。そういう表現法が守られています。そうしますとこの文は“伊都とは接している。そしてその向こうに斯馬がある”という意味です。どこか、といいますと、それは当然「馬臺に鎮し、以て都を建つ。」という、その「都」が“伊都に接し、斯馬に連なっている”ーこう書いているわけです。
ではこの文面からズバリ○×をやっていきます。まずこの都を近畿大和にあてて考えてみましょう。そうすると奈良県、滋賀県なんていうのは落第です。なぜならば海に面しておりません。「海を負うて」おりません。また難波だったら海に面しておりますが、“伊都に接している”というわけにはいきません。近畿からいきなり“伊都に接する”なんていういい方はできません。だからやはり奈良であろうと滋賀であろうと大阪であろうとこれは落第、ということになります。つぎは九州です。博多湾岸、それから八女市・久留米市付近 ーーここの説もかなりありますーー 筑後山門、宇佐。これらの中でまず八女・久留米付近が落第します。なぜかというと、これは“海に面して”おりません。この点、博多湾岸と筑後山門と宇佐の場合は海に面しているわけですから、“海を負うている”といえるわけです。ところが“伊都国に接している、届いている”という点になりますと、宇佐はもちろんだめです。また筑後山門でもだめなわけです。なぜかというと、筑後山門説の場合は、伊都に行く途中に「奴國」という ーー私が「邪馬壹國」つまり女王国だといっている、銅矛、銅戈類、例の筑紫矛の豊富に出るその地域を「奴國」といままでの人はいっておりましたーー そこに、とにかく「二万」という歴たる「大国」があるわけです。それだけじゃなくて、その奴国の南に、いまの久留米とか八女のあの辺は何という国名かわからないわけですけれども、やはり筑後山門との間にまた何かの国名があるわけです。そんなのを全部飛び越して“伊都に届く”という用法は使えません。これは「届く」という日本語でいろいろ“つじつまあわせ”の解釈をすればできるかもしれませんけれども、この『翰苑』(第三十巻)にある、他の「届く」という実際の文例に立って理解する限りは、絶対にできません。やっばり「接する」の一つ、“中間介在物がない”場合でなければ「届く」とはいえないわけです。そうしますと宇佐はもちろんのこと、筑後山門もまた落第するわけです(「島原」なども同じです)。そうすると○×の結果残る地域はやはり博多湾岸しかない、ということになってきます。博多湾岸はもちろん山と海に接しておりますし、何よりも斜めに ーーこれはいまの須玖遺跡とか、太宰府とかあの辺をポイントにして考えますと、「斜めに伊都に届き」です。室見川の流域が博多湾岸の西域にありますから、少し間があるわけで、だから「届く」といういい方になったわけですがーー 伊都に届き、そしてかたわら斯馬に連なる。「傍連二斯馬」というのはかなり重大です。なぜなら、“これは『三国志』か何か、そのへんの古典を読んで適当に作文したんだろう”、いままでの人たちはこれを見てそういう解釈をしてきたんじゃないか、と思うのです、いままでこの文があまり問題にならなかったのは。しかし『三国志』からは、「伊都國」は出てきましても、「斯馬」の位置は出てきません。これはご存じのように「二十一國」を何の説明もなくほうり出してある。その中に「斯馬」が入っているわけです。その後の文献にも「斯馬」の位置は出てきません。だから「傍ら斯馬に連る」といういい方、これは先行文献にたよった、いいかげん、な作文では出てこないのです。いいかえれば「現地の認識」を持たなければ出てこないわけです。しかもこの唐初の段階では、白村江で戦う以前に、倭国との友好接触もかなりあったわけです(『旧唐書』倭国伝)。だから「現地の認識」はもちろん豊富なわけです。そうしますと『翰苑」の目ざすところは実に「博多湾岸」でしかありえない、しかもさらにおもしろいことは、その途中に書いてある史実です。さっき全訳は省略しましたが、大体はおわかりでしょうか。卑弥呼の話が出てくる。それで「壹與」が「臺與」として出てくる。 ーーこれは先ほど「壹」を「臺」と直すのは当然だ、と申しましたーー そのうえ、「阿輩鷄*彌」ー『隋書』イ妥*国伝に出てくる「多利思北孤(たりしほこ)」で、「日出づる処の天子」と自称した、あれですが ーーを「みずから天兒の称を表す」と、“上表文を献じた”と表現しています。これは『翰苑』の著者にとっては“ごく最近”のことです。それを書いているわけです。さらに過去の事件としては、志賀島の金印の「中元の際、紫綬の栄」というのが出てきます。また卑弥呼が「景初の辰(とき)文錦の献を恭(うやうや)しくした」話が出てきます。つまり志賀島の金印や卑弥呼から、近くは『隋書』イ妥*国伝まで全部「倭国」である、すなわち同一王朝である、ということをいっているわけです。そうすると皆さんの中は、“七世紀になると筑紫の中心は筑後に移っているのではないか、古田の本(『失われた九州王朝』)でもそうなっていたんじゃないか”と思われる方もあるかもしれませんが、私、これは最近一段とはっきり認識し始めたんですが、いわゆる「石人・石馬」の場合にも、これは「筑前南部と筑後北部」である。つまり筑後川の北は筑前です。朝倉郡とか、三輪町、夜須町とか、あの辺は筑前で、筑後じゃないわけです。ですから「石人・石馬」という段階になっても、筑後の重要さが増すことは当然ながら、意外と筑前領域はやはり重要になっていますね。そうしますと一・二世紀から七世紀まで一貫して依然筑前は中心領域をはずれていない、ということになってくる。それを『翰苑』が裏づけているわけです。私にとっては ーー少し不遜ないい方をお許しいただければーー この『翰苑』の文章はまさに私の九州王朝論のために“作っておいてくれたんじゃないか”と思うような文面であったわけです。
*つぎに、この『翰苑」の新羅項に“「任那」の存在と消滅(新羅による併合)”が本文および雍公叡注(新羅の古老の言として)に記録されている事実について、講演では紹介したが、「この本のテーマと異なる」という編集部の判断に従って、この稿では削除した。また、講演の冒頭に述べた二つの問題(「邪馬壹国の音韻問題と博多湾岸と糸島郡の遺跡・遺物問題」)も削除された。 ーー古田注
古代史再発見1 卑弥呼と黒塚
ホームページ へ
新古代学の扉インターネット事務局 E-mailは、ここから。
Created & Maintaince by "Yukio Yokota"
Copy righted by " Takehiko Furuta "