『続・邪馬台国のすべて』−ゼミナール−朝日新聞社
古田武彦
いま、「邪馬台国」問題については、多くの本が出され、読者も非常に多いように聞いております。そういう意味ではまことに華やかな状況です。おそらくいままでの研究史の中でも最も華やかな時期ではないかと思うわけです。
しかしその場合、一つ、問題点があるのではないかとひそかに考えています。先日、東京・新宿の朝日カルチャーセンターでお話したときにも申しましたので、またかと思う方がいらっしゃるかもしれませんが、私の感じたところを率直に申します。華やかな半面、論点がかみ合っていないのではないでしょうか。みんな自分の思っていることを、学会の内外を問わず発表しています。これは非常に結構なことだと思うんです。と同時に、各々が自分のイメージで展開しているのですから、当然矛盾もあるわけですが、どっちが正しくてどっちが正しくないのか。それは見解の相違で、しようがないのだろうか。あるいは実証的にどっちかに決定できるのか。そういう論点の一つ一つをかみ合わせていくという操作があまりにも少ないんじゃないかというように私は感ずることがあります。
こういう状況だけですと、後世の人から、いまの時代を振り返ってみたとき、あの時代は非常に華やかに邪馬台国が論ぜられ、本屋にも邪馬台国のコーナーができるぐらいであった、非常に壮観であったけれども、どうも締まりがなかったようである。漢語めかしていいますと、“華にして漫”であったという批評を与えられるのではなかろうか。それは事実がそうであれば、与えられてもしようがないんですけれども、わたしたちが後世の人に対して、いや、ただ華やかなだけではなかったんだ、そこにはやはり実りがあり、あるべき筋道が通っていたんだ、ということができるためには、論点を極力論者同士がかみ合わせる努力をする。また読んだり、聞いたりした一般の読者や聴衆が、この点はどうだ、こういう意見が出ているのに、それと無関係にあなたは立論をなさっているじゃないか、もっとかみ合わせてほしい、ということを、いろんな機会に要求していきましたなら、華やかなだけでなく、そこに多くの実りが見られた、こういうふうに後世の人々から評されるのではないか、私はこう思うことがあるわけです。
そういう意味において、私は今日この「邪馬台国」問題について、条項を十二ばかりあげまして、その十二の条項について一々論点を明確にしてお話していきたい。そして皆さんから、あとで質問の時間がとれれば、そのときでもいいですし、または私の自宅宛(略)へお手紙でもいいですし、“この点がおかしい”といっていただきたい。また「邪馬台国」について他のご意見をお持ちの論者にも、“古田のこの点が間違っている”とこういうふうに的確にいっていただく。そのために、連続して一連のお話をするというのではなく、箇条をあげて論点を提出する、という形をとらせていただきます。
ここでとりあげる十二の箇条の中の九つまでは、いままでいろんな形で私がすでに発表しているものですので、そういうものをお読みになった方は、あああの話かということであろうかと思います。それをバックにして、最後の三つの問題を新しく今日提起したい、こう思うわけです。
1, 邪馬壹(一)国は、三国志全版本の事実
2, 三国志の「壹」(86個) と「臺」(56個) にあやまりと認識しうるものはなし
3, 「魏臺」は、天子一人を指す(魏朝)
1, 「以北、略載」の論理
2, 距離の背離(七千里と九千五百里) ーー魏晋(西晋)朝の短里
3, トライアングル・キー(謎を解く三角海域)
1, 二島定理
2, 一大率の定理
3, 鋳型の定理
1, 二つの「伝世」鏡
2, 弥生遺跡出土鏡の中心領域
3, 三つの出土物(鏡と銅矛・銅戈と甕棺)
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まず第一は、「一、根本の史料事実」という部類分けでございまして、史料上の事実を問題にしたわけです。その第一番目は、「邪馬壹(一)国は三国志全版本の事実」と十一ページの一の1に書いてあります。最近私に対して反論をしてくださる方が幸いにもふえてきて、非常に喜んでいます。たとえぱ、白崎昭一郎氏「二つの九州王朝説」(「東アジアの古代文化」昭50・初夏号)、藪田嘉一郎氏「『邪馬臺国』と『邪馬壹国』」(「歴史と人物」昭50.9)等。それぞれの後続号に、わたしの再反論を発表しています。ところが、その場合に、“古田は「邪馬壹国(やまいちこく)」ということをいうけれども、あれは天下の孤証である”という言葉を使った方もあります(前記、藪田氏)。それを読んだ読者は“ああそうか、『三国志』の中ではだいたい「邪馬臺(たい)国」と書いてあるんだな、ちょっと変わった「邪馬壹(いち)国」という版本があったので、古田はそれを取り上げて「邪馬壹国」が正しいと、大げさにいってるのだな”とお思いになる方があるかもしれない。
しかし事実はそうではありません。日本の場合は、手で書いた古写本がかなり残っております。ところが中国は、わりとそういうものは残っておりません。戦乱等の影響もあるんでしょうが。木版による印刷術が非常に早く発達しましたので、そういう版本の伝わっているものが非常に早くからあるわけです。特に『三国志』をはじめ『二十四史』と呼ばれる中国の歴史書はほとんどそうなんです。この『二十四史』は各時代の「正史」であるわけですが、その中にも、あまり版本が残っていないものもあるのですが、『三国志』は、むしろかなりの数残っている部類に属します。 ーーそのかなりの数の版本どれをとりましても、全部「邪馬壹国」である。中には「邪馬一国」と書いてあるものすらある。ところが「邪馬臺国」というのはまったくない。無論、「台」は当用漢字として使っているだけで、「臺」の代わりです。『三国志』に「邪馬臺国」とした版本はまったくないわけです。この事実を、私は重大に考えなければならないと思う。だから「邪馬壹国」という字面は、孤立しているどころか、『三国志』の全版本例外のない表記事実である。これに対して、全版本どれ一つとして「邪馬臺国」という字面の版本はない。こういう史料事実をはっきり見つめていただきたい。だいたいどの版本にもないものを、“これは「邪馬臺国」の間違いだろう”などというのは、ずいぶん“大胆な”ことです。勿論、そういうケースも絶無とはいえないかもしれませんが、そういう「原文手直し」は、よほど慎重にしなければいけない、私はそう思うわけです。“「邪馬壹国」というのは断然間違っているんだ”という、必要にして十分な証拠をあげること、また新しく手直しするわけですから“「邪馬臺国」で間違いないんだ、何の差しつかえもないんだ”という、必要にして十分な証拠をあげて初めて直す。これならば、あるいは全版本になくても、絶対に直してはいけない、とはいえないでしょう。しかし、江戸時代以来現在まで、私がこの問題を提起しますまで、こういう手直しのための実証的な手続きは、ほとんどといっていいぐらいなされていなかったわけです。
それでは何でそうなったか。江戸時代の学者松下見林(けんりん あるいは本居宣長もそうです)、もっとさかのぼれば北畠親房までいきますけれども、そういう人々は、倭国の王様という以上は、忝なくも天皇家に決まっている、ならば大和に決まっている。それでは「邪馬壹(いち)国」では発音を結びつけるのが無理だから、おそらく「邪馬臺(たい)国」の間違いだろう、こういうふうに考えて、これらの人たちは簡単に手直ししたわけです。それは、いわば“確固不動の信念”だったわけです。その信念をなおかつ“実証的に究明する”ということは、江戸時代の学者には望むべくもなかったわけです。たしかに江戸時代の学者としてはやむを得ないんですが、明治以後大正時代に至っても「邪馬臺国」と手直しされたままで論じられてきました。これも『「邪馬台国」はなかった』(朝日新聞社刊)(以下、略称では「第一書」)という私の本に述べ、また版本問題については、東大の「史学雑誌」(78-9、昭44・9)に「邪馬壹国」という論文を最初に発表しましたが、それに述べてあります(最近の「九州王朝の史料批判ー 藪田嘉一郎氏に答えるー」〈歴史と人物〉昭50・12も参照)。それでここでは詳しく申しませんけれども、要するに“全版本邪馬壹国”ということをはっきり提起したいと思います。
一、紹興本・紹煕本。武英殿本、汲古閣本。(『三国志補注』『標点本三国志』等)
二、a 南、邪馬壹国に至る、女王の都する所。水行十日・陸行一月。(倭人伝)
b 女王国より以北、其の戸数・道里は略載す可きも、其の余の旁国は遠絶にして得て詳かにす可からず。(右の直後)
三、a 臣松之、案ずるに、魏臺、物故の義を訪う。高堂隆、答えて日く「之を先師に聞く。物は無なり。故は事なり。復(また)事に能くする無きを云うなり」と。(蜀志一、裴松之注)
b 魏臺雑訪議、三巻。高堂隆撰。(隋書、経籍志、二)
四、a 其の北岸、狗邪韓国に到る、七干余里。(倭人伝)
b 韓は帯方の南に在り。・・・方四千里なる可し。(韓伝)
五、 女王国より以北には、特に一大率を置きて検察せしむ。諸国之を畏憚す。常に伊都国に治す。(倭人伝)
六、a 兵には矛・楯・木弓を用う。(倭人伝)
b 鬼神を祭るに、羣聚歌舞し、飲酒昼夜休まず。其の舞、数十人倶に起りて相随い、地を踏みて、低昂し、手足相応す。節奏、鐸舞に似る有り。(韓伝)
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次の一の2は、『「邪馬台国」はなかった』に詳しく書いたことですが、『三国志』の中から「壹」と「臺」を全部抜き出してみましたところ、その中に「臺」が「壹」に間違っていると認識できるところは一カ所もなかった、という検査結果です。これについても、私が「史学雑誌」に「邪馬壹国」を発表してもう五、六年たっておりますけれども、この検査結果を“間違っている”と指摘し得た人は全く現れていません。この点はやはり注意すべきことだと思います。こういう間違いがないにもかかわらず、なおかつこの「壹」と「臺」の用字の間違いが“邪馬壹国の場合だけおこっている”ーー。これも絶無とはいえませんけれとも、そういう場合にはよっぽどの慎重さ、つまり必要にして十分な論証が必要だ。しかるにそれがない、というのが私の論点です。この問題は、いままで私の本をお読みいただいた方には、いまさらいうまでもないことだと思います。
一の3として、いままでに書いたことのない論点をあげたいと思います。「臺」の字が、洛陽の天子の宮殿とその直属の政庁をさすことは、『「邪馬台国」はなかった』の中で書いたんですが、実はそれよりさらに意味が鋭いといいますか、もっと大きな意味があるのではないかと、文章には書きませんでしたが、内心考えていたのです。というのは、「臺」すなわち“天子”をさすのではないかという疑いなんです。
これは『魏志(ぎし)』倭人伝の例ですが、景初二年に卑弥呼が使いを遣わしたときに、「天子に詣(いた)らんことを求む」という表現があるわけです。ところがこんどは倭国の貢献記事の最後のところで、壹与(いちよ)が壮麗な大貢献をやるんですが、そのときにこんどは「臺に詣る」という表現をしているわけです。そうしますと「天子に詣る」というのと「臺に詣る」というのは同じことではないか。まさか洛陽の天子の宮殿まで行って、天子に会わずに帰るということは考えられないですね。その国の中の国民でしたら、宮殿に行っても天子に会えるということはほとんどないでしょう。しかし外国の使いが来た場合、当然天子の宮殿に来たということは、天子に会って貢献物を献納した、ということです。そうすると、実質的な意味は、「天子に詣る」も「臺に詣る」も同じではないのか、ということをまず感じたのです。
さらにもう一つ気になる史料があったわけです。それは一四ぺージの「史料」のところにあげておきましたが、三に当たるものです。これは『三国志』の中の「蜀志(しょくし)」の中に、五世紀の注釈者の裴松之が書いている文章です。読んでみますと、
「臣松之(しょうし)、案ずるに、魏臺(ぎだい)、物故の義を訪う。高堂隆(こうどうりゆう)、答えて曰く『之を先師に聞く。物は無なり。故は事なり。復(また)事に能くする無きを云うなり』と。」
つまり物故というのは人の死ぬことをいうので、いまでもときどき使うことがあります。この物故ということについて、魏臺が高堂隆という人に聞いた。高堂隆は自分の先生から聞いた話として、その意味を説明した、という話なんです。
この場合に「魏臺」というのは、「訪(と)う」(「問う」と同じ意)の主語ですから、“宮殿が訪う”わけではなくて、当然人間です。ところで高堂隆というのはだれかといいますと、『三国志』の中で有名な人物で、「高堂隆伝」というのが『魏志』の中にあります。要するに、魏の明帝のときの最高の名臣です。魏の明帝も高堂隆には頭が上がらない。先代の天子のときからよく知っているのですし、正論ばかりいっているわけです。明帝がぜいたくな宮殿なんかつくろうとすると、「恐れながら三国乱れに乱れ、そのようなぜいたくをしては天子たるもの・・・」とやります。明帝は「すまん、すまん」ということになるわけで、どうも明帝には高堂隆は苦手だったようです。大久保彦左衛門的な人物ですね。もちろん大久保彦左衛門よりずっと位は高い。この高堂隆に魏臺が質問しているというのですから、魏臺というのは当然魏の天子、つまり明帝をさすと見なければならない。これについては疑いはないわけです。
この例から見ますと、魏臺の「臺」は天子をさすのではないか。だいぶ後世ですが、江戸時代には「殿」とか「殿様」というようなことをいいます。その場合は、当然御殿に住んでいる主人公をさしています。あれと同じ伝(でん)で、“洛陽の宮殿”といういい方で、宮殿の中心に住んでいる“天子それ自身”をさす。こういう代名詞みたいな用語なわけです。ですから「臺」というのは天子一人をさしているのではないか、こう考えたわけです。
しかしながら、史料的にいいまして、裴松之の地の文章の形をとっておりますので、五世紀の文章だと一応考えられる。三世紀の文章だといきなりいえない点があるのです。もちろん問答体ですから、裴松之が引用したそのパックは、当然三世紀の魏の時代、明帝の時代の文章だったろう、と想像したんです。ただ史料上ひっかかるところがあったので、あまり大っぴらには出さなかったのです。「伝統と現代」(26、昭49・3)の中の論文(邪馬壹国の論理性 ーー「邪馬台国」論者の反応について)でちょっとふれたところがありますが、『「邪馬台国」はなかった』では出さなかったのです。
ところが、これについて新しい史料が見つかったわけです。それは一四ぺージ史料の三のbにありますもので、『隋書』「経籍志」です。中国の正史には、「地理志」とか、「礼儀志」とか、「音楽志」とかあることは皆さんお聞きになっことがあると思いますが、『隋書』以前にはなかったものが「経籍志」です。つまり七世糸はじめの隋の時代に、中国の朝廷を中心としたところに存在したすべての本の名前があげてあるのです。現代の学者にとっては非常にありがたい便利なものです。この時代にはたしかにこの本はあったという確認がとれるわけです。この『隋書』「経籍志」の中にこういう本があることを私はこんど見つけたのです。
といいますのは、「魏臺雑訪議(ぎたいざつほうぎ) 三巻 高堂隆撰」です。当然著者は高堂隆です。内容は、「魏臺雑訪議」というのですから、いろいろの問題について“魏臺が訪うたことについての高堂隆の答え”その問答を書いた本です。ですから、先ほどの裴松之が書いた、そのバックの本がわかったわけです。当然隋の時代にこれは残っていますから(現在は残っていないのですが)、五世紀、つまり二世紀前の裴松之は当然それを見ていたわけです。それをバックにさっきの文章が書いてあるわけです。要約して「物故」問題だけを取り上げたので ーー裴松之というのは厳密な人ですからーー 「魏臺雑訪議に曰く」という直接法の形にせずに、自分の文章の形にして要約文を出したのです。それがわかってきたわけです。そうしますと、魏の朝廷の中の高堂隆の書いた本ですから、まさに第一史料ですね。その魏朝において、「魏臺」というのは、戦前、「上御一人」という言葉がありましたけれども、それをさしているということがわかってきたわけです。
そうしますと、魏朝(次いで西晋朝ですが)の雰囲気の中で、高堂隆よりずっと下級官僚である陳寿(ちんじゅ)が、「邪馬臺(たい)」などと、天子一人をさす「臺」の字を持ってきて表記するということは、絶対にあり得ない。「ダイ」に当てる字はいくらでもあるんですから。厳密に同音を当てても、十や二十ではないのです。自分たちのみならず、高堂隆などの高位の臣下が天子を「臺」と呼んでいるのです。だのに、片方で卑弥呼の「卑」だの、「邪」だの、「馬」の字を使いながら、同じ字面に天子をさす「臺」を使うなどということは、これはどう間違ってもあることではない。このことを『「邪馬台国」はなかった』のとき以上にはっきりと確信したわけです。
この問題点を、“いやそれはこの点で古田の思い違いだ”といわれるのならば、いいんです。それをいわないで、依然「邪馬台国」「邪馬台国」といい続ける人がいたら、論点がかみ合わないのもいいところだ。これはちょっと困る。後世の人々に笑われる。私にはそう思われるのですが、皆さんどうでしょうか。これが一の3の論点です。
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