2012年12月10日

古田史学会報

113号

1、古田史学の会 ・四国
 例会百回記念
 古田武彦松山講演会
要旨 大下隆司

2、「八十戸制」と
「五十戸制」について
 阿部周一

3、『書紀』「天武紀」の
蝦夷記事について
 正木 裕

4、前期難波宮の学習
古賀達也

5、会報投稿のコツ
編集長 古賀達也

6、割付担当の穴埋めヨタ話6
玉依姫・考


古田史学会報一覧

七世紀須恵器の実年代 -- 「前期難波宮の考古学」について(会報109号) 大下隆司

前期難波宮の考古学(1)(2)(3) -- ここに九州王朝の副都ありき 古賀達也
観世音寺・大宰府政庁 II 期の創建年代 古賀達也(会報110号)

続・前期難波宮の学習 古賀達也(会報114号)

前期難波宮の学習

京都市 古賀達也

はじめに

 『古田史学会報』一〇九号において大下隆司さんから、わたしの「前期難波宮九州王朝副都説」へのご批判が寄せられました(「七世紀須恵器の実年代 『前期難波宮の考古学』について」)。その主たる根拠は、前期難波宮を天武朝期の造営とする小森俊寛氏の説に基づかれたものでした。そして、その小森説の主要論拠は須恵器の一様式の期間は平均約三十年であり、前期難波宮整地層から出土する須恵器杯Gなどの編年から、整地層の絶対年代は六六〇年頃よりも古くならないという点でした。
 そこで、小森氏の著書『京から出土する土器の編年的研究』を読みなおしたのですが、須恵器一様式の平均期間を約三十年とした具体的な根拠が示されておらず、須恵器杯Gなどの期間が平均値(約三十年)と同じであるという証明も見あたらないのです。これでは大下さんが依拠された小森説が正しいのかどうか判断も検証もできません。しかし、別の著作に書いてあるのかもしれないと思い、大下さんからのご批判をよい機会と捉え、前期難波宮について更につっこんで学習してみました。
 その学習の概要を「古田史学の会」ホームページ中の「洛中洛外日記」に記してきましたので、それらを加筆修正し本稿にまとめました。なお、大下さんからのご批判への反論については、引き続き勉強をすすめ、別途執筆する予定です。

 

前期難波宮の「年輪年代」

 先日、大阪市立歴史博物館に行き、二階の「なにわ塾」で発掘調査報告書を閲覧したり、同館学芸員の積山洋さんから難波宮編年についていろいろと教えていただきました。
 その積山さんから勧められて読んだのが、「難波宮趾の研究・第十一」(大阪市文化財協会、2000・3)でした。難波宮の北西に位置する旧大阪市中央体育館跡地の発掘調査報告なのですが、そこから出土した前期難波宮時代の水利施設遺構について大変重要な報告が記載されていましたのでご紹介したいと思います。
 その遺構は谷から湧き出る水を通す石造の施設で、そこには大型の水溜め木枠が設置されており、その木枠の伐採年が年輪年代測定により六三四年であると記されていました。そしてその石造遺構の下層と石を固定する客土に大量に含まれていた土器が、前期難波宮整地層に含まれている土器と同様式で、共に七世紀中葉と編年されています。従って、この水利施設は前期難波宮の造営時から使用され、宮内に井戸がなかった前期難波宮のためのものであることが判明しました。
 この年輪年代測定による伐採年(六三四)が明らかな木枠と、同じく難波宮北方から出土した「戊申年(六四八)」木簡は、長く論争が続いた前期難波宮の年代について、相対編年による土器様式と絶対年代を関連付ける貴重な資料となったようです。
 同報告には、「今回得られた年輪年代のデータや、『戊申年』銘木簡などの暦年代のいくつかの定点を併せて検討すれば、前期難波宮の造営期は七世紀中葉に明確に位置づけることができるであろう。」(八五頁)、「前期難波宮がいつつくられたのか、長年の論争に対しSG301(石造水利施設のこと=古賀)のNo.1の年輪年代は、遺跡、遺構を解釈する上で貴重な年代情報となるであろう。」(二〇八頁)と記されています。
 今回、わたしは大阪市立歴史博物館を訪れて、前期難波宮の編年を確定した水利施設遺構や木枠の年輪年代の存在について知ることができ、大変よい勉強になりました。

 

土器「相対編年」と「絶対年代」

 難波宮土器編年の勉強を続けていますが、その主要課題の一つに、土器様式の前後関係に基づく「相対編年」が、どのように「絶対年代」とリンクされているのかということがあります。今回、前期難波宮の発掘調査報告を閲覧し、七世紀の畿内における土器「相対編年」と「絶対年代」との関連について、考古学者が何を根拠にどのように判断しているのかが分かってきましたので、少し紹介したいと思います。
 「難波宮趾の研究・第十一」(大阪市文化財協会、2000・3)によれば、難波宮遺跡の編年は難波1期(五世紀)から難波5期(八世紀前葉~九世紀初)までに分類されており、「難波3中」が前期難波宮の時代で七世紀中葉とされています。
 こうした土器「相対編年」の中で「絶対年代」を確定できた年代は「定点」と称されています。たとえば「難波2新」段階は六世紀後葉~七世紀初頭と編年されていますが、その根拠となった「定点」は、狭山池北堤で検出されたコウヤマキの伐採年(年輪年代測定により六一六年とされている)から求められてます(狭山池調査事務所1998)。
 前期難波宮の時代の「難波3中」段階は、この土器と同様式の土器が出土している兵庫県芦屋市三条九ノ坪遺跡SD01(兵庫県教育委員会1997)の「元壬子年」(六五二、通説では「三壬子年」と釈文されています)木簡の年代が「定点」として採用されています。
 この他にも七世紀における「定点」資料・遺構があるのですが、年輪年代測定のような自然科学的分析で絶対年代を特定し、一緒に出土した土器の「相対年代」とリンクするという方法は論理的・科学的で説得力があります。わたしもこうした「定点」と土器「相対編年」の最新考古学の成果を知ることができ、九州など他の地域への展開が必要と思われました。

 

前期難波宮の「戊申年」木簡

 難波宮編年の勉強のために『大阪城址2』(2002、大阪府文化財調査報告研究センター)を読んでいますが、この発掘調査報告書にはわが国最古の紀年銘木簡である「戊申年」(六四八)木簡の報告が掲載されています。この木簡の出土が、前期難波宮の時代特定に重要な役割を果たしたことは既に紹介してきたところですが、今回その発掘状況と史料性格(何のための木簡か)を詳しく知りたいと思い、大阪市立歴史博物館に行き、同報告を閲覧コピーしました。
 同報告書によれば「戊申年」銘木簡が出土したのは難波宮跡の北西に位置する大阪府警本部で、その谷だった所(7B地区)の地層の「十六層」で、「木簡をはじめとする木製品や土器を包含するとともに、花崗岩が集積した状態で検出されている。出土遺物からみて前期難波宮段階の堆積層である。」(十二頁)とされています。この花崗岩は化学分析等によって上町台地のものではなく、前期難波宮造営に伴って生駒山・六甲山・滋賀県田上山などから人為的に持ち込まれたとのことです。
 木簡の出土は三三点確認されており、その中の「十一号木簡」とされているものが「戊申年」銘が記されたものです。この他にも、「王母前」「秦人凡国評」や絵馬も出土しており、大変注目されました。
 これら花崗岩や木簡が出土した「十六層」は前期難波宮の時代(整地層ではない)と同時期とされていますが、堆積層ですからその時代の「ゴミ捨て場」のような性格を有しているようです。土器も大量に包含されていますので、その土器編年について積山洋さん(大阪市立歴史博物館学芸員)におたずねしたところ、「難波3新」で六六〇~六七〇年頃とのことでした。従って、「戊申年」(六四八)木簡の成立時期よりもずれがあることから、同木簡は作成後十~二十年たって廃棄されたと考えられるとのことでした。積山さんの推測としては、同木簡などは前期難波宮のどこかに保管されていたもので、六六〇~六七〇年頃に廃棄されたのではないかとのことでした。
 この積山さんの見解を正木裕さんに話したところ、これは近江遷都と関係しているのではないかとのアイデアが出されました。近江遷都は『海東諸国紀』によれば白鳳元年(六六一)、『日本書紀』によれば天智六年(六六七)とされていますが、同木簡廃棄時と同時期です。もしかすると近江遷都にともなって難波宮にあった文物の引っ越しがあり、その時に不要な木簡類が廃棄されたのではないかと想像しています。

 

「はるくさ」木簡の考察

 難波宮編年の勉強を続けていて気がついたことがあります。それは難波宮南西地点から出土した「はるくさ」木簡に関することです。万葉仮名で「はるくさのはじめのとし」と読める歌の一部と思われる文字が記された木簡が、前期難波宮整地層(谷を埋め立てた層)から出土し、注目されました。
 わたしは、この「はじめのとし」という表記に興味をいだき、これは年号の「元年」のことではないかと考え、この時期の九州年号として、「常色元年」(六四七)の可能性が高いと判断しました(「としのはじめ」であれば新年正月のことですが)。もちろん「白雉元年」(六五二)の可能性もありますが、『日本書紀』によれば六五二年に完成したとされる前期難波宮の整地層からの出土ですから、やはり「常色元年」だと思います。
 このわたしの理解が正しければ、この木簡の歌は、春草のように勢いよく成長している九州王朝の改元を言祝(ことほ)いだ歌の一部ということになります。そうすると、この歌は九州王朝の強い影響下で詠まれたものであり、その木簡が出土した前期難波宮を九州王朝の宮殿(副都)とするわたしの説に整合します。ちなみに、この常色年間は九州王朝が全国に評制を施行した時期に当たり、「はるくさの」という枕詞がぴったりの時代です。
 さらに言えば、七世紀中後半での九州年号の改元は、「常色元年」「白雉元年」を過ぎると、「白鳳元年」(六六一)、「朱雀元年」(六八四)、「朱鳥元年」(六八六)、「大化元年」(六九五)であり、これらの年が「はじめのとし」の候補となりうるのですが、六六一年は斉明天皇の時代です(近江京造営時期)。六八四年と六八六年では天武天皇の晩年であり、その数年後に宮殿が完成したとすれば、それは藤原宮造営時期と同年代になります。しかし、出土土器の編年は、前期難波宮整地層と藤原宮整地層とでは明確に異なります。
 したがって、「はるくさ」木簡の「はじめのとし」を九州年号の「元年」のことと理解すると、前期難波宮整地層の年代は七世紀中頃にならざるを得ないと言う論理性を有していることに気づいたのです。この論理性の帰結と、現在の考古学編年が一致して前期難波宮の造営を七世紀中頃としていることは重要なことだと思います。もちろん、「はじめのとし」を「元年」ではなく、もっと合理的でふさわしい別の意味があれば、わたしのこの説は撤回します。今のところ「元年」と理解するのが最も妥当と思っていますが、いかがでしょうか。

 

難波の古代寺院群

 先日、大阪歴史博物館(歴博)を訪れました。今回で二度目の訪問です。目的は、初めて訪れたときに展示してあった、前期難波宮整地層から出土した瓦を観察することでした。ところが、展示内容が一部変更されていたようで、いくら探しても見つかりません。しかし、よくしたもので別の瓦が展示してあり、わたしの目は釘付けになりました。
 それは「素弁蓮華文軒丸瓦」と呼ばれる三個の瓦で、一つは四天王寺の創建瓦、二つ目は枚方市・八幡市の楠葉平野山瓦窯出土のもの、三つ目が大阪城下町跡下層(大阪市中央区北浜)出土のもので、いずれも同じ木型から造られた同范瓦とみなされています。時代も七世紀前葉とされており、四天王寺創建年代との関連などから六二〇~六三〇年代頃と編年されているものです(歴博の展示説明文による)。
 歴博のホームページによれば、これら以外にも同様の軒丸瓦が前期難波宮整地層等(歴博近隣、天王寺区細工谷遺跡、他)から出土しており、上町台地は前期難波宮造営以前から、四天王寺だけではなく『日本書紀』にも記されていない複数の寺院が建立されていたものと推定できます。上町台地の高台を削って谷を埋めたてた整地層からの出土もありますから、それら寺院を取り壊して前期難波宮が造営されたことになるのかもしれません。
 こうした七世紀初頭(上宮法皇・多利思北弧の時代)の難波の出土状況(国内有数の寺院群=仏教先進地域)は、この時期すでに難波は九州王朝の直轄支配領域だったとするわたしの仮説を支持するように思われます。このように今回の歴博訪問は多くの成果が得られましたが、更に貴重な知見を得ることができました。

 

四天王寺創建瓦の編年

 今回の歴博訪問ではいくつかの新知見がもたらされました。その一つは四天王寺創建瓦の編年を歴博では六二〇~六三〇年代としていたことです。
 『日本書紀』には四天王寺の創建を五九三年(推古元年条)と記されているのですが、歴博では『日本書紀』のこの記述を採用せず、土器や瓦の相対編年と年輪年代などとの暦年をリンクした編年観を採用し、四天王寺の創建を六二〇年~六三〇年代としたようなのです。この六二〇年~六三〇年代という編年は、『二中歴』の「年代歴」(九州年号)に記されている「倭京二年 難波天王寺聖徳造」の倭京二年(六一九)に近く、このこと(文献と考古学の一致)から七世紀における畿内の土器編年が比較的正確であることがうかがえるのです。従って、上町台地にある四天王寺創建の編年が正確であるということは、同じ上町台地にある前期難波宮の編年(七世紀中頃、孝徳期とする)も信頼してよいと思われます。
 今から十年ほど前、わたしは『二中歴』に見える「倭京二年 難波天王寺聖徳造」
の「難波」を北部九州(博多湾岸)にあった難波ではないかと考え、「難波」と「天王寺」の地名セットや七世紀初頭の寺院跡をかなり探しましたが、結局それらしいものは見つかりませんでした。そのため、「倭京二年 難波天王寺聖徳造」の「難波」を北部九州にあった難波とするアイデア(思いつき)を封印し、後に撤回しました。アイデア(思いつき)を仮説として提起するためには、その根拠(証拠)を探し、提示することが「学問の方法」上、不可欠な手続きだからです。

 

前期難波宮「孝徳朝説」の矛盾

 二回目の歴博訪問で貴重な知見を得たのですが、最大の収穫は歴博研究員の伊藤純さんのお話を聞けたことです。
 伊藤さんへのわたしからの質問は、須恵器編年において、一様式の継続期間が平均三十年と小森俊寛さんの著書にあるが、それは考古学者の間では「常識」なのか、もしそうであればその根拠は何かというものでした。残念ながら、伊藤さんは小森さんの著書をご存じなく、須恵器の平均継続期間について明確な見解はお聞かせいただけませんでした。もしそういう見解があるとすれば、須恵器製造職人の寿命や製造に携わる期間から導き出されたのかもしれないとのご意見でした。こうした返答から、思うに須恵器一様式の継続期間平均三十年というのは、小森さんのご意見であり、考古学界全般の共通「常識」ではないように感じました。この点、引き続き他の考古学者にも聞いてみたいと思います。
 この後、質疑応答は前期難波宮造営年代へと移りました。わたしは当然のごとく伊藤さんも前期難波宮孝徳期造営説に立っておられると思いこみ、その根拠について質問を続けていたのですが、どうも様子が違うのです。そこで突っ込んでおたずねしたところ、なんと伊藤さんは前期難波宮天武朝造営説だったのです。いわく「わたしは少数派です。九十数パーセント以上の考古学者は孝徳朝説です。」とのこと。更に「学問は多数決ではありませんから」とも付け加えられました。
 「学問は多数決ではない」というご意見には大賛成ですとわたしは述べ、考古学的出土物(土器編年・六三四年伐採木樋=年輪年代・「戊申」六四八年木簡)などは全て孝徳期造営説に有利ですが、天武期でなければ説明がつかない出土物はあるのですかと質問しました。伊藤さんの答えは「明瞭」でした。もし「宮殿平面の編年」というものがあるとすれば、前期難波宮の規模は孝徳朝では不適格であり、天武朝にこそふさわしいというものでした。
 この伊藤さんの見解にわたしは深く同意しました。もちろん、「天武朝造営説」にではなく、「前期難波宮の規模が孝徳朝では不適格」という部分にです。この点こそ、わたしが前期難波宮九州王朝副都説に至った理由の一つだったからです。すなわち、七世紀中頃の大和朝廷の宮殿としては、その前後の飛鳥宮と比較して突出した規模と全く異なった様式(朝堂院様式)だったからです。
 更に言えば、九州王朝説に立つものとして、太宰府「政庁」よりも格段に大規模な前期難波宮が大和の天皇のものとするならば、七〇一年の王朝交代まで列島の代表王朝だったとする九州王朝説そのものが揺らぎかねないからです。この問題に気づいてから、わたしは何年も考え続け、その結果出した回答が前期難波宮九州王朝副都説だったのです。
 わたしは伊藤さんへの質問を続けました。考古学的に見て、孝徳期説と天武期説のどちらが妥当と思われますか。この問いに対して、伊藤さんは孝徳期説の方が「おさまりがよい」と述べられたのです。自説は「天武朝説」であるにもかかわらず、考古学的な判断としては「孝徳朝の方がおさまりがよい」と正直に述べられたのです。この言葉に、伊藤さんの考古学者としての誠実性を感じました。
 最後にわたしは、「歴博の研究者は全員が孝徳期造営説と思いこんでいたのですが、伊藤さんのような少数説があることに、ある意味安心しました。これからは文献研究者も考古学者も、考古学編年と宮殿発展史との矛盾をうまく説明することが要請されます。学問は多数決ではありませんので、これからも頑張ってください。今日はいろいろと教えていただき、ありがとうございました。」とお礼を述べました。そして、この矛盾を解決できる仮説は前期難波宮九州王朝副都説しかない、と改めて確信を深め、歴博を後にしたのでした。

 

拡大する前期難波宮の規模

 先日の新聞報道などによれば、前期難波宮の西側から新たな遺構(塀跡など)が発掘され、これにより前期難波宮の規模は従来の推定よりも西側へ更に百メートルも広がるとのことでした。九州王朝の首都である大宰府政庁遺構よりも格段に大規模で朝堂院様式を持つ前期難波宮の性格は近畿天皇家一元史観では説明困難であり、従来の九州王朝説でも説明できません。やはり、九州王朝の副都とするわたしの仮説の優位姓が、今回の新たな発掘や発見により一段と際だってきたように思われるのです。
   (二〇一二年十一月二八日追記)


 これは会報の公開です。史料批判は『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。

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