九州王朝説と瓦の考古学 -- 森郁夫著『一瓦一説』を読む 古賀達也(会報125号)
倭国(九州王朝)遺産一〇選(下) 古賀達也(古田史学会報127号)
学問は実証よりも論証を重んじる 古賀達也(会報127号)
「五十戸」から「里」へ
京都市 古賀達也
一、「さと」の漢字表記
郡評論争に決着をつけたのが藤原宮跡から出土した干支木簡でしたが、同様に「評」の下部単位である「さと」表記についても出土木簡により、その変遷が明らかになりつつあります。
古代地名の表記方法は時代とともに変化していますが、七世紀後半は「○○国△△評××五十戸」と表記されることが木簡により判明しています。その後、六八三年頃から「○○国△△評××里」への変更が見られることから、「五十戸」は「里」に相当し、「さと」と訓まれていたことがわかります。
『日本書紀』大化二年(六四六)の改新詔に「五十戸を里とす」とありますから、「里」の成立はそれまでの自然発生的な集落(『日本書紀』では「村」「邑」の表記例が見えます)を、国家により「五十戸」単位に編成されたことによります。五十戸単位で徴兵などの役務を決めたのでしょうが、恐らくそれは戸籍の作成と平行して行われたのではないでしょうか。その「さと」が当初は「五十戸」と漢字表記されていたことが、木簡により明らかになっているのです。
このように『日本書紀』大化二年(六四六)の改新詔に「里」の表記が見えますが、出土木簡からは六八三年頃に「里」が現れ、それまでは「五十戸」表記ですから、この大化二年改新詔はやはり九州年号の大化二年(六九六)に出されたものが五十年ずらして盗用されたものと推察されます。それではこの行政単位名「五十戸」の成立と、さらには「里」へと変更したのは九州王朝でしょうか。そしてそれはいつ頃のことでしょうか。
二、「評」制と「五十戸」制
「評」の下部単位である「さと」が五十戸毎に編成され、その漢字表記が「五十戸」とされたのがいつ頃かは、木簡からは残念ながら判明していません。「五十戸」から「里」表記に変更されたのが六八三年頃であるのは、次の干支木簡から推測されています。
「辛巳年鴨評加毛五十戸」(飛鳥石神遺跡出土)
「癸未年十一月 三野大野評阿漏里」(藤原宮下層運河出土)
辛巳年は六八一年で、癸未年は六八三年です。「三野大野評」とあるのは「三野国大野評」のことで、「国」が省略された様式とされています。木簡の「五十戸」表記は六八三年以降も続いていますが、「里」表記木簡は今のところこの癸未年(六八三)が最も早く、おおよそこの頃から「里」表記が始まったと見てもよいようです。この「五十戸」から「里」への変更命令や変更記事は、九州王朝の行政単位の「評」と同様に『日本書紀』には記されていません。
今のところ「五十戸」表記の始まりを推定できるような木簡は出土していませんが、一元史観の学界内では、評制の成立時期と同じ頃ではないかとする説もあるようです。この説の論文を未見ですので、引き続き調査検討したいと思いますが、わたしは『日本書紀』白雉三年(六五二)四月是月条の次の記事に注目しています。
「是の月に、戸籍造る。凡(おおよ)そ、五十戸を里とす。(略)」
通説では日本最初の戸籍は「庚午年籍」(六七〇)とされていますから、この六五二年の造籍記事は史実とは認められていないようですが、わたしはこの記事こそ、九州王朝による造籍に伴う、五十戸編成の「里」の設立を反映した記事ではないかと推測しています。なぜなら、この六五二年こそ九州年号の白雉元年に相当し、前期難波宮が完成した九州王朝史上画期をなす年だったからです。すなわち、評制と「五十戸」制の施行、そして造籍が副都の前期難波宮で行われた年と思われるのです。
三、「八十戸」から「五十戸」へ
『日本書紀』白雉三年(六五二)四月是月条の造籍記事などを根拠に、わたしは「さと」の漢字表記が「五十戸」とされたのが、同年(九州年号の白雉元年)ではないかと考えました。この問題に関連した論稿が阿部周一さん(札幌市)より発表されています。『「八十戸制」と「五十戸制」について』(『古田史学会報』一一三号。二〇一二年十二月)です。阿部さんは一村を「五十戸」とする「五十戸制」よりも前に、一村「八十戸」とする「八十戸制」が存在し、七世紀初頭に「八十戸制」から「五十戸制」に九州王朝により改められたとされました。『隋書』イ妥国伝の次の記事を史料根拠とする興味深い仮説です。
「八十戸置一伊尼翼、如今里長也。」
おそらくは九州王朝の天子、多利思北弧の時代に一村の規模を八十戸から五十戸へと再編され、その「五十戸」という規模を表す漢字が、後の「さと」の漢字表記とされる原因になったと考察されています。この「五十戸」が六八三年頃に「里」へと表記が変更されたことは既に紹介したとおりです。この阿部説が正しければ、「五十戸」の訓みが「さと」ですから、「八十戸」の訓みは「むら」だったのかもしれません。木簡などで「八十戸」表記が見つかれば、より有力な仮説となることでしょう。これからの研究の進展が楽しみです。
※本稿は「古田史学の会」HPに掲載の「洛中洛外日記」(二〇一三年)より、修正転載したものです。(古賀)
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