網野銚子山古墳の復権
京丹後市 森 茂夫
私の住んでいる京丹後市網野町には、日本海側最大級の網野銚子山古墳があります。自然の丘を利用しながらも、その上に大土木工事を施した雄大な前方後円墳です。
従来説では、「全長一九八m、前方部幅八〇mの佐紀陵山(さきみささぎやま)タイプ」と言われておりました。市の専門員等がそう言うのですから、私たち市民はそれを信ずるしかありません。
ところが、平成二〇年に京都府立「ふるさとミュージアム丹後」の学芸員で古墳の専門家である奥村清一郎氏が、新説を発表しました。「全長二〇七m、前方部幅一一〇mの箸墓タイプ、より正確に言うと西殿塚タイプ」というものです。全長がさらに延びる上に、両翼がせり上がりながら撥(ばち)型に開いていく美しい形状です。
新説の根拠になったものは、以前、市の専門員と測量業者が、原状が残されている部分(資料1の太線内、つまり後円部全体と前方部の残存部分)について作成した二五cm刻みで等高線を描いた細密な古墳測量図です。
これを見て奥村氏は、後世大きく改変削平された前方部の等高線全体も復元可能で、網野銚子山古墳の本来の姿が明らかにできる、と確信されました。
精緻な作業の末に完成した推定復元図は、私たちにとって驚くべきものであり、また、いわゆる上方修正ですので喜ばしいことであったのです。
ところで、従来説は、実は確かな根拠があって唱えられたものではありません。
(1).原状が残されている前方部の一点から後円部の一点を測ると一九八m、
(2).前方部幅については前方部墳丘北側が大きく崩落しており、測れる最後のポイントを測ると八〇m、
(3).原状のまま残っている部分についての測量図を見ると佐紀陵山とアウトラインだけは似ているようにも見える、
という程度の根拠です。
全長を測る基礎にしているポイントが正しく選定されているのか、前方部幅を判断するとき北側が崩落しているのであればそこはもともとの最終地点ではないのではないか、佐紀陵山のテラスが古墳を全周しているのに対し網野銚子山古墳はテラスが全周しない古形を示しているがこれで同タイプと言えるのか、という疑問がすぐに湧きます。それなのに、なぜ従来説が真実のように唱えられ、それにずっと固執してきたのでしょう。
それは、このような「佐紀陵山タイプ」であれば「たいへんありがたい」という「期待」に基づいていたのです。
ご存知のように、奈良市「佐紀陵山」は丹波道主の娘で垂仁天皇の后である「ヒバスヒメ陵」に治定されています。網野銚子山古墳は日本海側最大級の古墳ですので、「かの有名な丹波道主の古墳にちがいない、否、そうあってほしい、その有力な証拠がヒバスヒメ陵と古墳タイプが同じということだ。」と、学問的というより、結局は期待によって造作された説なのです。
さらに、この推測に基づき各方面で様々な論文が書かれました。そんな経緯から、網野銚子山古墳が佐紀陵山とは似ても似つかぬ古墳であるという新説は、従来説の人々にとっては受け入れがたいことだったのです。今まで、自分たちが発表してきた論考が全てまちがいだったということになってしまうのですから。
そこで、毎度おなじみの光景ではありますが、奥村氏が精力を傾けた研究に対し、「そのような新説はなかったことにする」という態度が貫かれることとなります。市の主催で奥村氏の発表が行われたにも関わらず、網野銚子山古墳の復元を目標とする整備委員会の市民メンバーも、「文化教育厚生委員会」の市議会議員さん方も、新説の報告を受けていませんでした。
私は従来説・奥村説のどちらが正しいか、論証的な検討をしてみようと思い立ちました。その際の資料は、上記の、従来から作成されていた原状を残した墳丘部分の二五cm刻みで描かれた等高線図です。
もしも、仮に従来説(全長一九八m、前方部幅八〇m、柄鏡式に近い佐紀陵山タイプ)のような復元になるのであれば、欠損している前方部はどのようであらねばならないかを私が色をつけて加工してみたのです。その結果、資料2とその解説書きのように、従来説は成立しないことが分かります。
前方部幅八〇mに収めようとすると、
(1).北側第一段目のテラスを途中で不自然に内側に屈折させねばならぬこと
(2).前方部のテラス幅を急激に狭くせねばならず古墳の常識からは考えられないこと、さらに
(3).原状を残している前方部墳丘両翼部分では二五cm刻みの等高線がs字状にねじれていますが、奥村氏によると、これは前方部が撥(ばち)型に広がっていく古墳の特徴であり、柄鏡式に近い佐紀陵山タイプの古墳ではあり得ないことなどが判明します。
結局のところ、従来説は上記の「期待」に過剰にとらわれていたため、等高線の帰趨に真剣な注意を払わず、見間違えていたのだと思われます。
やはり、奥村氏の作成された推定復元図(全長二〇七m、前方部幅一一〇mの西殿塚タイプ=資料1)が最も自然で合理的であり、様々な観点をクリアできるだけの論証性を有するものだと思えます。
この論証と一連の経緯について、昨年五月に「アミティ丹後」という会場で行われた京丹後市議員団による「市政報告会」の場に資料を付けて持ち込み、説明をいたしました。その他、いろいろな機会を見つけてお話をしております。
私は、平成八年に「丹後三大古墳に眠る王たち」という小論を発表しました。それを中山千夏さんのご厚意で著書「イザナミの伝言」に紹介してくださいましたように、網野神社文献(網野神社の正式名は松原遠津神社であり、網野潟で首尾よく白鳥が捕れるよう松葉良村の遠津神に祈った、との記載あり)、および網野銚子山丘陵一帯の「薗」地名(宮中で祭る園神は出雲神で、出雲大社周辺に多くの薗地名あり)などから、古墳の被葬者は開化記に登場する出雲大国主直系と思われる「丹波遠津臣」の可能性が最も高いとの主張を行いました。
今回の箸墓タイプという新知見は、それを補強するものとなります。夜、箸墓古墳を造ったとみられる三輪山の神は出雲系であり、私見によれば、そもそも撥(ばち)型前方部は出雲の四隅突出墳をモチーフにしているとも思われるからです。
郷土の宝である網野銚子山古墳の復元整備が正しく行われ、日本古代史の研究に大いに資するものとなるよう祈念しております。
資料1 奥村清一郎氏作成の網野銚子山古墳推定復元図

「ふるさとミュージアム丹後」学芸員、奥村清一郎氏作成の網野銚子山古墳推定復元図。太線内が原状を残している部分。等高線は25cm刻み。AB間が207メートル Cは従来説での基底部。
資料2 奥村氏作成図面の加工、文章作成は森茂夫
「ふるさとミュージアム丹後」学芸員、奥村清一郎氏作成の推定復元図(全長207m、前方部幅110m、箸墓・西殿塚タイプ)上に、従来説の全長198m、前方部幅80m、佐紀陵山タイプとしての推定復元図を上書きしてみた試案である。図上の説明書きの通り2種類の仮定作業を行ってみたが、従来説では古墳の常識に適合しない妙な造形物になってしまう。
なお、従来説の方から正式な推定復元図は提出されていない。
◇等高線は25cm刻み
◇太線内が現存部分(当初の形状が残っている部分)
◇Cは従来説での基底部、これを基に198mと判断している。結局の所、前方部前面にある狭いステップ(○印)が後円部1段目テラスとつながっているというふうに等高線の帰趨を見間違えていたと思われる。
◇ABは207m
=奥村氏作成図面の加工、文章作成は森茂夫
前方部北側は墳丘1・2段目を自然な幅にとって推定復元(試案)してみた。しかしそうすると、後円部から続く1段目テラスをやや内側に屈折させねばならず、テラス幅も急激に狭くしていかねばならなくなる。このような奇妙な造形は常識的にはあり得ない。また、墳丘1・2段目の幅は一見自然に見えるが、S字状等高線は撥(ばち)型に広がるというセオリーを満たすことができない。従ってこの推定復元は不適格と思われる。

前方部南側は1段目テラスをほぼ自然な幅に取って推定復元(試案)してみた。すると平面図において墳丘1段目が狭くなる。幅が狭くなった中に、原状を残している1段目墳丘部分と同数の等高線を入れねばならぬということは、原状部分の墳丘斜度に対し不自然な急斜面を想定せねばならなくなる。また、墳丘2段目の幅は一見自然に見えるが、S字状等高線は撥(ばち)型に広がるというセオリーを満たすことができない。従ってこの推定復元は不適格と思われる。
これは会報の公開です。
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