石原家文書の納音(なっちん)は古い形か 服部静尚(会報125号)
四天王寺と天王寺 服部静尚(会報126号)
鉄の歴史と九州王朝 服部静尚(会報124号)
長者考
八尾市 服部静尚
一、はじめに
古賀達也氏は洛中洛外日記第905話および会報第40号「天の一朝堀と狂心の渠」の中で、筑後地方に「阿麻の長者」伝説というものがあり、この「阿麻の長者」こそ、隋書[イ妥]国伝に見える阿毎多利思北孤かその一族の伝承ではないかと言及されています。
しかし、長者と言うと、現代では億万長者・長者番付けとかで使われるお金持ち・資産家という意味の用語です。一国の王とか天子の称号に「長者」というのは私には違和感がありました。そこで「長者」とは一体何かと言う点について調べてみました。
二、長者伝説
(1)古賀氏は洛中洛外日記905話で、次の様に阿麻の長者伝説を紹介されています。
『浮羽町史』(昭和63年)によれば、久留米の国学者・舟曳鉄門『橿上枝』の説として、浮羽町(現・うきは市)大野原にあった「天(尼)の長者の一朝堀(ひとあさぼり)」について次のように紹介しています。
「原の西北に阿麻の一朝堀と云へる大湟(ほり)の趾あり。土俗の伝に上古ここに阿麻と云へる貴き長者あり。その居館の周囲に大湟を一朝に掘れるより此の号ありと云へり。高良山なる神篭石を鬼神の一夜に築きけりと云へる里老の伝と全く同じかり。阿麻とき名とも氏とも云へず。いとも遙けき上古の事と云へれば、文書の徴とすべきたづきもなかりしかど、上記の文に據りてよく案へば天津日高の仙宮敷まししをかくは語り伝へしなるべし。」
(2)他にも豊後に「朝日長者伝説」と言うものがあります。
『豊後風土記』は不完全ですが現存しており、その中に“餅の的と白鳥の話”が記述されています。後世の人がこの記述をやや意訳して伝えている話です。(以下小野信一氏による)
「その昔、九重高原の中心部に、浅井長治という長者が住んでいた。この人は別名“朝日長者”とも呼ばれ、後千町・前千町の美田を幾千人もの使用人に耕作させ、贅沢三昧の生活をしていた。ある時、祝いの席で、長者は鏡餅を的に弓矢を射る遊びを思いついて、自ら矢を放った。すると鏡餅の的は白い鳥に変わり、南の彼方へ飛び去ってしまった。これを期に、この土地ではコメがまったくとれなくなって、長者一族は没落し、人々は天罰とうわさした。そして千町の美田は、不毛の荒野と変わり果ててしまった。」
現在でも「長者原」や「千町無田」などこの伝説にまつわる地名が残っており、白い鳥が飛び去ったとされる場所には「白鳥神社」が祀られている。千町無田は、筑後川の源流で、標高約九百mの飯田高原に位置します。
尚、後干町前千町と言う土地は、養老令の位田 -- 正一位で八十町、職田 -- 太政大臣で四十町ですので、天子級と言って良い広さです。
三、長者とは
(1)長者とは元々仏教用語で、中村元氏の「大乗の教え」によりますと、昔のインドで商工業者のつくったギルドの頭領・指導者・組合長のことを「シュリイシュティン」と言ったのを、漢訳で「長者」と訳したそうです。
(2)と言いましても、それまでの中国にも長者という言葉はあったようです。
BC三〜五世紀に成立したとされる礼記曲礼篇に、長者が出てきますが、ここでは年長者を指してます。
又、史記でも、田叔列伝の漢の孝文帝と田叔の会話で、長者イコール賢者という意味合いで出てきます。
中国語に詳しい安藤正久氏にお聞きしたところ、愛知大学編中日大辞典で、長者は文語、○1年長者、○2身分のある人、○3徳のある人とあるそうです。
安藤さんによると、この単語自体を中国語の文章で見た記憶がないそうです。そして「私の中国駐在時代のOB会がありましたが、その席に現在某製鉄メーカーの中国担当であるM君がおりました。彼は小学校まで中国北部の天津にいたので、完全なバイリンガルです。早速、長者について聞いてみました。彼の証言では、やはり年長者とのみの意味で偶に口語でも使われていたとのことです。徳や財産のニュアンスは全くなかったとのことです。」と教えていただきました。少なくとも、中国では長者=お金持ち・資産家と言う意味は無いようです。
(3)現代日本で、中国語と同様の年長者と言う意味で使かわれる例を私は知りません。
「ちょうじゃ」と言うとその意味は○1氏を統率する人、○2富豪というところです。これは仏教用語の長者の語意に近い用い方です。
つまりその語意より、長者という言葉は、中国から一般用語として日本に伝来した言葉ではなくて、仏教用語として伝来した言葉であると考えられます。
四、仏教用語の長者とは
(1)三経義疏の一つ維摩経義疏の、維摩経=維摩詰所説経は、主人公の維摩詰が文殊菩薩やその他の菩薩に対して、在家仏教の真髄を説法する経典です。この維摩詰はこの経典で「長者」と呼ばれています。
「その時長者維摩詰心に念ず〜」
(2)法華経にも「長者」は出てきます。法華七喩(しちゆ)または法華七譬(しちひ)は、法華経で釈迦仏が七つのたとえ話を用いてわかりやすく教えを説いたものです。この七つの内、次の二つで長者が主人公として出てきます。
(以下創価学会公式サイトより)
○1長者窮子(ちょうじゃぐうじ、信解品しんげほん)幼少の時に家を出たまま、困窮して諸国を放浪していた長者の息子が、父である長者の城に至り、その城で長者の子供であることを知らずに掃除夫として働くことになります。息子は二十年間、真面目に仕事をして信用を得、長者の財産の管理を任せられるまでになります。そのうち臨終の近づいた長者は親族・国王・大臣などの前で、この息子が自らの子供であることを明かし、一切の財産を譲ることを宣言します。長者は仏、息子は仏子であることを知らない凡夫(経文上は二乗)を譬えています。
○2三車火宅(さんしゃかたく、譬喩品ひゆほん)ある国の長者の家に火事が起こった際、中で遊んでいた子供たちに、長者が門外にある三車(羊車・鹿車・牛車)を与えると言って救出し、実際には三車に勝る大白牛車を与えます。三車は三乗、大白牛車は一仏乗を譬え、更に長者は仏、子供は一切衆生を譬えています。要するに、仏の仮の姿として長者が出てくる話です。
ちなみに、二中歴に端政元年(五八九年)法華経始渡とありますし、三経義疏と言うのですから維摩経も含めて、六世紀後半から七世紀にかけて日本に伝来した経典と考えられます。
五、まとめ
(1)以上のように、日本国内で「長者」という言葉はその語意より、仏教用語として六世紀後半から七世紀にかけて日本に伝来した言葉と考えられます。
当時の人が長者と言えば、この維摩詰を想定しての長者であれば、多利思北孤や上塔の利のように出家した「菩薩天子」ではなくて、在家の「長者天子」となります。又、法華経の長者を想定したとすれば、仏の仮の姿ですから「菩薩天子」に相応しい呼称と言えます。
(2)阿麻の長者伝説の成立年代の検証がないと、これが九州王朝の天子伝承かどうか定かにできませんが、長者という称号に違和感がありません。
これは会報の公開です。
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