追憶・古田武彦先生(4)へ
古田先生が坂本太郎氏に与えた影響について
福岡市 中村通敏
古田史学会報134号に古賀代表が「追憶・古田先生(4)」で坂本太郎氏との「法華義蔬」御物拝見での昭和61年のエピソードを伝えています。
古田先生と坂本太郎氏との交遊については、古田先生自身もいろいろと書かれています。このたびの古賀代表が紹介されたエピソードもその一つでしょう。
ただ、このエピソードは、坂本太郎氏の「学問的寛容」から古田先生にいろいろと研究の便宜を図られただけではないのではないか、坂本太郎氏自身の探求心を満たすに資するものがあったからではないか、と思われるのです。
坂本太郎氏は、井上光貞氏との「郡評論争」で弟子に負けた先生ということが残っていますが、坂本太郎氏の日本古代史史観が大きく変わったことについては、あまり取り上げられていないようです。
これは、古田先生が『「邪馬台国」はなかった』以来出版された著作をその都度お送りされ、「君の著作は困るんだよなあ」とおしゃりながら受け取られていた、というエピソードを古田先生が述べておられます
(古代史再発見第2回 王朝多元―歴史像1998年9月26日豊中解放会館)
ところが、坂本太郎氏自身も次のように、大和朝廷一元史観の立場から180度変った、と告白されているのです。
坂本太郎著『人物叢書178 聖徳太子』吉川弘文館 昭和54年(1979年)12月に次のように述べられています。
(隋へのタリシヒコの使者について大和朝廷の使者とするにはいろいろ疑問がある、と述べられた後、結語として)
【以上の考えは四十年前の旧著『大化改新の研究』、二十年前の著書『日本全史』2、古代Iに述べた所とは全く反対の説である。旧著では『馭戎慨言』を否定する立場をとったが、今は逆にその説に従う心境となった。私はこの変説を正直に告白しなければならない】
と同書の結語としています。
古田先生は坂本太郎氏の史観まで揺るがした、と言えるのではないでしょうか。
改めて古田先生の偉大さを感じさせられるとともに、私たちも古田先生の史観が世の中の定説にとって代わるために努力しなければならない、それは可能なのだ、ということを教えてくれます。
2016・6.09 記
これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)・『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。
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