2005年6月1日

古田史学会報

68号

「伊予風土記」新考
 古賀達也

削偽定実の真相
古事記序文の史料批判
 西村秀己

船越
 古川清久

4連載小説『彩神』
第十一話 杉神 3
  深津栄美

大宝律令の
中の九州王朝
 泥憲和

鶴峯戊申
不信論の検討
『臼杵小鑑』を捜す旅
 冨川ケイ子

ミケランジェロ作
「最後の審判」の謎
 木村賢司

高田かつ子さんを悼む

 事務局便


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バチカン・ピエタ像の謎(古田史学会報61号)へ

「ダ・ヴィンチ・コード」を読んで 木村賢司 (会報72号)


ミケランジェロ作「最後の審判」の謎

豊中市 木村賢司

 古田史学会報六一号の「バチカン・ピエタ像の謎」でピエタ像はキリストの奥様であるマグダラのマリアである、と書いた。私は今も自分のこの直感を否定していない。
 ごく最近、テレビでバチカン・システィナ礼拝堂の祭壇壁画「最後の審判」を写しているのを見た。そのとき、またも直感で、中央のキリストに寄り添っている女性は「マグダラのマリア」私のいう「伴侶の聖マリア」である、と思った。
 壁画の説明(解説)を聞きつつも、私はミケランジェロが描きたかったのは、「キリストと伴侶のマリア」だけであって、他は付けたしのように思えた。ミケランジェロの生涯は、伴侶のマリアにこだわって、刻み、(描く)ことに情熱を注いでいた。もっと大胆に言えば、ミケランジェロは本当の福音書(聖書の真実)を表現したかったのでは、と思っている。そして、そのことこそ、ルネッサンスの精神である。とみている。
 私はフィレンツエのウッフィツィ美術館でミケランジェロの「聖家族」を見たことがある。そのときの一口コメントは「幼な子を、肩より受けて、力こぶ」であった。私にはほほえましい絵に見え、画題の「聖家族」から受ける、かたぐるしさはなかった。普通の親子である。処女懐妊のキリストでは決してない。と見えた。 ちなみに、そのときに見た、他の巨匠の絵のコメント(ボッティチェリは「裸の女神、貝に産ませて、文芸復興」ダ・ウィンチは「受胎をば、離れてつげて、遠近画法」ラファエルは「法王も領主も美女も自画像も」)であった。
 聖書の福音書には、いくつかあって、より古い福音書が、よりキリストの真実に近いのでは、より新しい福音書ほどキリストを、荘厳化して美化しているのでは、と聞いた。だとすると、ミケランジェロはより古い福音書がより真実に近いと見ていた。そこで、キリストと伴侶のマリアが一体(肉体、精神とも)であることを見抜いた。これ、うがちすぎ、美化すぎでしょうか。弓削先生のご本「ローマ」を読むとそのように思えてきます。弓削先生は「ローマ」で最後の審判の壁画については、述べられていないので、今回私が書いた。これ世界初??
 ここから先、幻想がひろがるが、もはや、例会でのべる範囲を超え止める。

*キリストと伴侶のマリア信じあい、力をあわせ伝道し、今は静かに天国で。

       以上
         (04.11.7.)


 これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)・『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。
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