古田史学会報68号 2005年6月1日
◇◇ 連載小説 『 彩 神 (カリスマ) 』 第十一話◇◇◇
杉神(すきかみ)(3) 深 津 栄 美
−−古田武彦著『古代は輝いていた』より−−
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雨は勢いを増していた。頭上に鬱蒼(うっそう)と生い茂った葉群れのせいで通行人はさ程濡れそぼちもしなかったが、時折風が冷たい飛沫を吹きつけ、量の増えた川音が耳を聾する。何より警戒すべきは、山々を射る青白い閃光だった。雷(いかずち)は金気(かねけ)に反応するから、矛や太刀は獣皮や菰(こも)で厳重にくるんでおかねばならない。それでいて万一の場合は、荒天も恐れず敵と渡り合わねばならないのだから、厄介(やっかい)な話だ。
「船着場は大丈夫だろうか・・・・・・?」
灌木の陰で干し飯(いい)をかみながら、建御名方(たけみなかた)が辺りを見回すと、
「御案じ召さるな。百姓衆には言い含めてあります故(ゆえ)。」
長塚から従って来た黒主(くろぬし)という狩人(かりうど)が、低く笑いを洩(も)らした。
長塚は以前、大和三山の争いに連座して伊豆へ流された伊勢の麻続王(おみのおおきみ)の傘下で、越(こし 現福井〜新潟)や諏訪とも交易(いきき)は盛んだった。三方湖畔の人々の手引きで木の芽峠を越え、揖斐(いひ)川沿いに長塚へ下って来た建御名方は、黒主らの「明合(みょうごう)の宮」再建の願望を知り、自分の逃避行に協力してくれたらこちらも手を貸そう、と交換条件を持ち出したのである。
(それにしても、かつて我が軍に追われた越の王子と侍女が辿った道を、今度は八千矛の息子が落ちのびるとはな・・・・・・)
黒主に教えられた話を思い出して、建御名方は苦笑した。
逆方向ではあるが、揖斐川〜木の芽峠間は大国軍遠征の際、越の王子宇迦美(うかみ)が侍女弥生(やよい)と逃げた道筋だ。越攻めの時、建御名方は生まれてもいなかったが、その話は物心ついて以来嫌になる程聞かされていたから、翡翠宮(ひすいのみや)が焼き打ちされる光景など、まるで自分も参加したかのようにありありと思い描く事が出来た。
大国軍は宮苑の翠ケ池の底に敷き詰められた翡翠を手に入れるべく、巫女長を人身御供(ひとみごくう)に捧げ、侍女達を脅して池水をかい出させようとしたが、弥生が秘密の仕掛を動かした為に、半数以上が逆に奔流に飲まれてしまったという。親兄弟に戦死され、悲嘆と絶望を味わわされたのは、越人(こしひと)だけではない。黒主初め麻続王配下の民衆や、自分が父と討伐した三朝(みささ)の残党の遺族も同様だろう。しかし、二十歳(当時は年に二回年を取る二倍暦。従って、この場合は二十を半分に割って十才となる)にも満たない年齢で、成年男子(おとな)さえ難渋する峻険な山路を南を目指してひた走ったとは・・・・・・
(大和三山でも良い、更に南の熊野でも良い、永ら得ていてくれれば・・・・・・)
大国にとっては敵対者の筈だが、年少だったという事も考え、建御名方は二人の無事を秘かに祈りたくなった。二人がどこかで自分の話を小耳に挟んだら、どう思うだろう・・・?
稲妻と共に万年雪を頂く山々が閃き、み雪ふる越の大山行き過ぎて いづれの日にかわが里を見む
(『万葉集』第十二巻三一五三番)
(雪降る越の国の山を、今、私は越えて行く。いつ、故郷(ふるさと)を見る事が出来るだろう・・・・・・?)
逃亡行路を暗示した鳥鳴海の歌がふと、浮かんだ。
(続く)
〔後記〕『古代に真実を求めて』第八集を拝読し、やっと「磐井の乱」についての古田先生の御意見が飲み込めましたが、講演の中で紹介されている南京の辟邪─羽の生えた馬だそうですが、嫌でもギリシャ神話のペガサスを連想させます。匈奴(=騎馬民族)は古代中国にとっては宿痾でしたが、それとは別に、南朝が「海上の道」を通じてギリシャ・ローマの影響を受けていた証拠でしょうか。現タイの南端オケオからは古代ローマの金貨が出土していますし、実際、ローマ帝国の使節が中国の宮廷を訪れ、「大秦国王」の称号を得たとも記録に残っているそうですから。南朝を滅ぼした隋・唐は、南朝の存在を最後まで「公認」しなかったとの事ですが、現代でも香港・台湾の独立を巡り、北京政府とモメているのは、それこそ中国大陸の伝統文化でしょうか・・・?
(深津)
これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)・『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。
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