船越、船 越(補稿)他はホームページ、アンビエンテ(旧有明海・諌早湾干拓レポート、九州環境保護派連携ビューロー)内の
「古代史の探求」にございます。
船 越(補稿)古川清久 古田史学会報68号(有明海・諫早湾干拓リポートII) へ
馬門 (会報73号)へ
〔ホームページ「有明海・諌早湾干拓レポートII」より転載〕
船越
武雄市 古川清久
船越という地名
船越という地名があります。“フナコシ”とも“フナゴエ”とも呼ばれています。決して珍しいものではなく、海岸部を中心に漁撈民が住みついたと思える地域に分布しているようです。
遠くは八郎潟干拓で有名な秋田県男鹿半島の船越(南秋田郡天王町天王船越)、岩手県陸中海岸船越半島の船越(岩手県下閉伊郡山田町船越)、岩手船越という駅もあります。また、伊勢志摩の大王崎に近い英虞湾の船越(三重県志摩市大王町船越)、さらに日本海は隠岐の島の船越(島根県隠岐郡西ノ島町大字美田)、四国の宿毛湾に臨む愛南町の船越(愛媛県南宇和郡愛南町船越)、・・・・・・など。
インターネットで検索したところ、北から青森、岩手、宮城、秋田、福島、栃木、埼玉、千葉、神奈川、新潟、岐阜、静岡、三重、大阪、兵庫、鳥取、広島、
山口、愛媛、福岡、長崎、沖縄の各県に単、複数あり、県単位ではほぼ半数の二三県に存在が確認できました(マピオン)。もちろんこれは極めて荒い現行の字単位の検索であり、木目細かく調べれば、まだまだ多くの船越地名を拾うことができるでしょう。
それほど目だった傾向は見出せませんが、九州に関しては、鹿児島、宮崎、熊本、佐賀、大分にはなく、一応“南九州には存在しないのではないか”とまでは言えそうです。
勝手な思い込みながら、海人(士)族の移動を示しているのではないかと考えています。この点から考えると、大分県南部や熊本県の八代あたりにあってもよさそうなのですが、ちょっと残念な思いがします。大分にはたしか海士(海人)部があったはずですし(現在も南、北海士郡があります)、かつては海賊の拠点でもあったのですから。もちろん地名の意味は半島の付け根で、廻送距離を大幅に軽減するために船を担いだり曳いたり、古くはコロによって、後には台車などに乗せて陸上を移動していたことを今にとどめる痕跡地名であり、踏み込んで言えば普通名詞に近いものとも言えそうです。
ここで、一応お断りしておきます。“佐賀にはない”としましたが、日本三大稲荷と言われる鹿島市の祐徳稲荷神社南側の尾根筋に「鮒越(ふなごえ)」という地名があります。地形から考えてこれはここで言う船越地名ではないと思います。また、表記が「船越」であっても鳥取県西伯郡伯耆町の船越のように本当の山奥にあるものもありますので、ここで“船越”が行なわれたわけではありません。あくまでも全国の船越という地名の中には“船越”が行なわれていたものがかなりあるのではないかというほどの意味であることをご理解下さい。また、山奥にあっても、海岸部の船越地名が移住などによって持ち込まれたものがありますので、地名の考察とは非常に難しいものです。
九州の船越
この船越地名が九州西岸を中心にかなり分布しています。近いところでは佐世保市の俵ヶ浦半島の付け根に上船越、下船越という二つの集落があり、実際に船を運んだという話も残っています(長崎県佐世保市船越町)。
「佐世保から目的地の鹿子前(かしまえ)や相浦(あいのうら)の方に向かう途中に俵ヶ浦半島があり、遠回りしなければなりません。遠回りすれば風向きが変ったり、天候が急変することもあります。そこで半島の付け根の平坦な地形のところで、船を陸にあげ、小さな船はかつぐなり、大きな船は引っ張るなりして陸地を越えました。荷物はひとつひとつ運び、乗客や乗組員は歩き、最後に船を丸太を並べたコロの上を引っ張りました。」(「ふるさと昔ばなし」佐世保市教育委員会・佐世保市図書館)
他にもありますのでいくつか例をあげてみましょう。十年ほど前まで良く釣りに行っていた魚釣り(メジナ、キス)の好ポイントです。長崎県の平戸島の南端に位置する志々伎崎ですが、ここに小田と野子の二つの船越(長崎県平戸市大志々伎町)があります。特に小田の船越は誰が考えても船を曳いた方が断然楽と思えそうな地形をしています。
また、福岡市の西に糸島半島がありますが、この西の端、船越湾と引津湾に挟まれた小さな岬の付け根にも船越地名があります(福岡県糸島郡志摩町大字久家)。
九州王朝論者で著名な古代史家の古田武彦氏(元昭和薬科大学教授)が、『「君が代」は九州王朝の讃歌』市民の古代 別巻2(新泉社)という本でこの糸島半島の船越にふれておられますので紹介します。
「灰塚さんが『糸島郡誌』(昭和二年刊)から抜粋して、コピーして下さったものの中に、つぎの史料があった。
桜谷神社ーー(祭神)苔牟須売神
糸島郡の西のはしっこ。唐津湾にのぞむところ。そこにある神社だ。引津湾と船越湾という二つの小湾(唐津湾の一部)の間に岬が飛び出している。その根っ子のところが、字、船越。よくある地名だ。縄文時代や弥生時代の舟は底が浅かった。ずうたいも小さい。一本造りの丸木舟や筏。
こういうものなら、岬をずっーと回るより、根っこの部分を“押して”越えた方が早い。五十メートルや百メートルくらい、うしろから押す、前から綱で引っ張る。その方がずっと手っ取り早い。時間とエネルギーの節約なのだ。岬の突端など、速い潮流が真向うに突っ走っていることも、珍しくない。雨や風の日など、もちろん。 というわけで、日本列島各地にこの地名が分布している。」
ここでは詳しくふれませんが、『「君が代」は九州王朝の讃歌』は衝撃的な内容であり、興味がある方は同書を読むか、古田史学会のホーム・ページ「新・古代学の扉」にアクセスして下さい。博多湾周辺には、「千代」「八千代」「細石(さざれいし)」=細石神社「井原(いわら)」、「苔牟須売(こみむすめ)」桜谷神社=苔牟須売神という“君が代”に関連する地名がセットで広がりを見せています。つまり、これらの地名が織り込まれた歌を明治政府(宮内省)が「君が代」(「古今和歌集」で「我が君は」となっていますが)に仕立てたことになるのです(結果的に明治政府の思惑に反したことになるのですが)。ともあれ、お読みになれば、糸島の船越が桜谷神社ーー(祭神)苔牟須売神に関係したものであることがわかってくると思います。
対馬 小船越 と阿麻氏*留神社
氏*は、氏の下に一。JIS第三水準、ユニコード6C10
もうひとつ例をあげましょう。この船越は“フナゴエ”と呼ばれています。対馬の二つの船越です。今の対馬は大きく二つの島に分かれていますが、昔は一島を成していました。対馬の中央にある浅茅湾は複雑な溺谷が幾つもあるリアス式海岸ですが、ここには非常に幅の狭い地峡がいくつもあります。対馬の東海岸から西海岸に船で移動するためには七〇キロあまりも航走することが必要になりますので、昔から“船越”が行なわれてきましたが、ここに運河が造られます。まず、大船越瀬戸が寛文一二年(一六七一年)宗義真(宗家第二一代)によって開削されます(「・・・昔から船を引いてこの丘を越え、また荷を積み替えて往き来きした。船越の地名はここに由来すると言われる。・・・」=現地大船越の掲示板)。その後、明治三三年(一九〇〇年、結局、日露戦争では使用されなかったようですが)には艦隊決戦を想定した運河=万関瀬戸(まんぜきせと)が帝国海軍によって掘られます(ダイナマイトを大量に使う難工事だったようです)。
当然にも、大船越(長崎県対馬市美津島町大船越)があれば小船越(〃美津島町久須保)があります。小船越には知る人ぞ知る阿麻氏*留(あまてる)神社がありますが、この小船越にも「東西から入江が入り込み地峡部を船を曳いて越えた。ここは小舟が越えたので小船越。大きい船は大船越で越えた」(史跡船越の表示板)という伝承があります。北に位置する小船越には水道はありませんが、この小船越と対馬空港に近い南の大船越の間にあるのが万関瀬戸になります。
ところで小船越の阿麻氏*留神社ですが、この船越についても古田教授が前述の『「君が代」は九州王朝の讃歌』の中でふれています。「・・・小船越の方には、阿麻氏*留(あまてる)神社。日本で一番有名な神さま、天照(あまてらす)大神(おおかみ)の誕生地。わたしがそう思っている神社だ。」
詳しく知りたい方は、『古代は輝いていた』全三巻のI 第四章(朝日新聞社)昭和五九年十一月などを読んでください。
これについては面白いエピソードがありますので、二〇〇三年三月に大阪八尾市で行なわれた「弥生の土笛と出雲王朝」という講演内容から紹介します。
「・・・小船越に阿麻氏*留(あまてる)神社があります。わたしは、ここがかの有名な伊勢神宮に祭られている天照大神(あまてらすおおかみ)の原産地である。そのように考えています。」『・・・宮司さんは居られなかったが氏子代表の一生漁師である小田豊さんにお会いし、お話をお聞きしました。そこでは小田さんに「天照大神について、そちらの神様についてお聞きになっていることはありますか。」とお尋ねしました。「私どもの神様は、一番偉い神様です。だから神無月になると、出雲に行かれるのに一番最後に行かれます。なぜかと言いますと待たずに済みます。早く行った神様は、式が始まるまで待たねばならない。わたしどもの神様は偉いから最後に到着します。わたしどもの神様が着けば、すぐに式が始まります。そして式が終われば、わたしどもの神様は待たずにすぐ船に乗って帰って来られます。他の神様は、帰る順番を待って帰って行きます。一番偉い神様と聞いております。」』
そして、古田教授は帰りの飛行機の中でとんでもないことを思いつきます。「何んだ!天照大神は家来ではないか。」「・・・一番偉いのは出雲の神様ではないか。動かなくともよい。天照大神は、参勤交代よろしく、ご家来衆の中では一番偉い・・・」と。『古事記』の国譲り神話に関連した話です。
『肥前国風土記』『延喜式』に見る高来郡駅と船越
実は、この船越地名が有明海沿岸にもあります。諫早の船越(長崎県諌早市船越町)と小船越(〃小船越町)です。また同地には貝津船越名(〃大字貝津小船越名/長崎県内には末尾に“名”が付く地名が非常に多い)という地名もあります。ここの船越地名が古いものであることは確かです。肥前国風土記や平安時代に編纂された「延喜式」(注)に、この“船越駅”(駅=ウマヤ)のことが出てきます。「延喜式」に駅馬五疋が置かれていたと書かれていることから考えると、烽火(とぶひ)の存在とともにこの諫早という土地が政治、軍事の重要な拠点であったことが容易に想像できます。
諫早は千々石湾(橘湾)、有明海(諫早湾)、大村湾の三つの海に囲まれた地峡ですが、それゆえか、古代の官道(?)が通っていました。当時、長崎は取るも足らない場所であり、陸路を考えれば、重要なのは大宰府から西に進み、佐賀県の塩田(塩田町)を通り吉田(嬉野町吉田)あたりから山越えして長崎県の大村(大村市)に下り、諫早を通って島原付近(野鳥?)から海路、肥後(熊本)に向かうものでした(ただし、延喜式の時代にはこの海路は廃止されたと言われます)。
『肥前風土記』(肥前国風土記)は、一応、七一三(和銅六年)年の詔により奈良時代中期に成立したとされていますが(もちろん異論は存在します)、古代史家を中心に良く読まれているようですので、ここでは原文を省略します。
ただし、『肥前国風土記』には船越駅の記述は直接的には出てきません。このことについて、日野尚志 佐賀大学名誉教授が書かれた「肥前国の条里と古道」(「風土記の考古学○5」肥前国風土記の巻、小田富士夫編。同成社)から引用させて頂きます。
律令時代になると駅伝制が整備された。肥前国における初期の駅制は明確ではない。『肥前国風土記』によれば、肥前国の駅路は小路で、養父郡を除く一〇郡に一八の駅家が置かれていた。そのうち具体的な駅名が判明するのは松浦郡の逢鹿・登望ニ駅にすぎない。『延喜式』によれば肥前国に一五駅あって『肥前国風土記』の総数と比較して三駅減少している。この三駅の減少は単に駅の廃止だけではなく、駅路の変更に伴う駅の減少である可能性が強く、奈良時代と『延喜式』時代では駅路が必ずしも同一でない可能性が強いことに留意すべきであろう。
対して、九二七年撰進、九六七年施行の『延喜式』(巻二十八 兵部省)には、ほんのわずかながら、他の駅と並んで、肥前國驛馬として「船越 傳馬五疋」の記述が出てきます(「延喜式」吉川弘文館)。
ただ、船越の場合は駅路変更の余地がない場所だけに、『肥前国風土記』が成立したと言われている時期に先行する七世紀、もしかしたら、六世紀にも一定の政治権力によって(もちろん我が「古田史学」は大和政権とは考えませんが)烽火や駅が整備されていたのではないかと考えています。
諫早の船越、小船越
地図を見ていただければ直ぐに分かるのですが、船による移動が重要であった古代において、もしも、諫早の“船越”が事実であれば、大宰府から南に宝満川を下り有明海に出て、西に進み、さらに、諫早湾から船越を経由して大村湾から西に出て(大村湾には西海橋が架かる急潮の針尾瀬戸と小さく緩やかな早岐瀬戸の二箇所の海峡があります)対馬海流に乗れば、労することなく自然に朝鮮半島にたどり着くことができるのです。
最近、古代史界の一部では、朝鮮半島へのルートとして、下手すればロシアのウラジオストック方面に流されかねない博多や唐津(唐津の唐は遣唐使の唐ではなく、任那=加羅、金官伽耶、高霊伽耶なのでしょうが)よりも、むしろ有明海ルートの方が合理的ではなかったかということが言われ始めているようです。
仮に、有明海湾奥部から北に向かうとしても、島原半島を大迂回するよりは、諫早の船越経由による大村湾コースが極めて有利であることは言うまでもないでしょう。
博多湾、唐津湾から朝鮮半島に向かうとしても、一旦は西に向かい対馬海流に乗ったと言われていますので、荒れる玄界灘を直行したり、弱風で西に進むよりは、有明海、大村湾を西に進む方が遥かに安全だったはずなのです。
これまでにも繰り返し述べてきたことですが、今でも、有明海は非常に大きな潮汐を見せる海です。ギロチンが行なわれるまでは、上下で六メートルと言われていましたので、干拓が行なわれていなかった古代においては、浅い海が広がり、多くの島や半島が入り組んだ複雑な地形をしていたはずですので、潮汐は今よりももっともっと大きかったはずなのです(奥行が深く海が浅いほど振幅は増大するとされています)。
現在でも諫早は低い平地ですが、実際に“船越”が行なわれていた時代には、その距離は今の地形から想像する以上に短かったのではないかと思います。
諫早地峡の東側には本明川と半造川が諫早湾に向かって流れています。また、西側には東大川が大村湾に向かって流れています。この間が約一キロですから、ここさえ“船越”すれば良いことになるのです。記述にもあるとおり駅に馬が置いてあったのですから、この外にも馬はいたはずですし(島原半島の口之津、早崎半島に“牧”があったと言われています)、馬に曳かせるなどして、船を運ぶことは思うほど大変なことではないでしょう。小さい船であれば数人で曳けたでしょうし、大きな船でも極力、川を利用し、時としてパナマ地峡のように川を堰き止め水位を上げるなどしてその牽引距離をさらに縮めたはずなのです。
逆に言えば、そのような重要な場所であったからこそ、古代の駅が置かれていたのです。
いずれにせよ、ほとんど遮るものがなかった古代において、船を曳くということは普通に行なわれていたと考えられ、もしかしたら、ある程度組織化されていたのではないかとまで考えています。
また、民俗学の世界には“西船東馬”という言葉があります。これは中国の軍団の移動や物資輸送が“南船北馬”と表現されたことにヒントを得たものでしょうが、確かに西は船による輸送が主力でした。また、“東の神輿、西の山車”という言葉もあります。これは、それほど明瞭ではないのですが、東には比較的神輿が多く、西には山車が多いというほどの意味です。
非常に大雑把な話をすれば、全国の船越地名の分布と、祭りで山車(ダンジリ、ヤマ)を使う地域がかなり重なることから、もしかしたら、祭りの山車は、車の付いた台車で“船越”を行なっていた時代からの伝承ではないかとまで想像の冒険をしてしまいます。
直接には長崎(長崎市)に船越地名は見出せませんが、ここの“精霊流し”もそのなごりのように思えてくるのです(長崎の精霊船は舟形の山車であり底に車が付いており道路を曳き回しますね)。
少なくとも、諫早の船越地名は非常に古く、潮汐は今よりも大きかったはずですから、太古、大村湾と諫早湾の間において船で“陸行していた”という推定は十分に可能ではないかと思うのです。
さらに、地質学的な調査、例えば海成粘土の分布といった資料があるのならば、“船越”のルートを特定し、地峡の幅、従って“船越”が行なわれた距離(延長)もある程度推定することができますので、今後の課題にしたいと思います。
(注)延喜式:弘仁式・貞観式の後を承けて編纂された律令の施行細則。平安書初期の禁中の年中儀式や制度などの事を漢文で記す。五十巻。・・・(広辞苑)
この続編は、アンビエンテ内古代史の探求 2.船 越(補稿) 対馬 阿麻氏*留神社の小船越にございます。
参考
君が代の源流 へ
弥生の土笛と出雲王朝へ
これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)・『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。
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