船越、船 越(補稿)他はホームページ、アンビエンテ(旧有明海・諌早湾干拓レポート、九州環境保護派連携ビューロー)内の
「古代史の探求」にございます。
77.船 越(補稿) 対馬 阿麻氏*留神社の小船越(写真付き)は、旧有明海・諌早湾干拓レポートIIにあります。
「船越」古川清久 古田史学会報68号(有明海・諫早湾干拓リポートII) へ
阿麻氏*留(あまてる)の氏*は、氏の下に一。JIS第3水準、ユニコード6C10
船越(補稿)
対馬 阿麻氏*留神社の小船越
武雄市 古川清久
はじめに
七月上旬、三泊四日で対馬を散策してきました。と、言っても全体で四二〇キロの行程にもなるため、かなりハードなものであったことは言うまでもありません。もちろん、対馬には“船越”でとりあげた、あの阿麻氏*留(あまてる)神社があります。
当然ながら司馬遼太郎の「街道をゆく」十三(壱岐・対馬の道)には海人(わだつみ)神社の社家でもある地元の郷土史家(というよりも第一級の民俗学者、古代史家と呼ぶべきでしょうが)の永留久恵氏との探訪のエピソードが書きとめられています。また、民俗学者宮本常一による永遠のベストセラー「忘れられた日本人」に書きとめられた伊奈、志多留から佐護、佐須奈に向かう中山越えの話や、対馬の南端、豆酘 (つつ)の浅藻の梶田富五郎翁のエピソードがあります。
この島は、西日本を中心に走り回って来た私にとっても始めての土地であり、ある意味で私に残されたフロンティアという勝手な思い入れを持っていました。今回の対馬行は直接的には“船越”を書いたことをきっかけにしたものですが、少なくとも自分の目で直に、万関、大船越の瀬戸、小船越の阿麻氏*留(あまてる)神社を見てみたい、梶田富五郎翁の話しに出てくる豆酘 (つつ)の多久頭魂(たくつだま)神社と天道法師の禁断の聖地(シゲ地)を見たい。もちろん景勝地である和多都美(わたつみ)神社も見たい、などと、多くの思いが重なる非常に欲張ったものでした。もちろん、神社だけを見たわけではありませんが、都合、二〇社あまりを見て周り第一回目の対馬行を終えたのです。
対馬の神社になぜこれほど思い入れがあるかというと、どうやら日本の神々の支配的ルーツがここにあるようだからです。前述の永留久恵氏による「海神と天神」の冒頭 3 対馬の神々 には、こうあります。
西海道の延喜式内社一〇七座中、二九座が対馬にある。上県郡の和多都美神社(名神大社)以下一六座、下県郡の高御魂神社(名神大社)以下一三社で、次は壱岐に二四座、続いて筑前に一九座があり、西海道の官社の大半が玄海に臨んでいたことになる。大和朝廷がこの海域をいかに重視していたかが窺える。
船越は実在した
しかし、最大の関心は、阿麻氏*留(あまてる)神社の小船越が本当に“船越”できるような場所であるかを実際に現地を歩いて確認することにありました。
道路改修工事や漁港修築事業などによって現地はかなり変えられ、神社の参道(石段)も、神社前にあったと思われる水路(きっとこれも海からの参道だったのでしょうが)もかなり付け替えられてはいるようですが、昔の地形は十分に想像することが可能でした。
結論を先にすれば、結果は実に感動的なものでした。なんと、阿麻氏*留神社のすぐ裏には(というよりも神社の前を左に船越すればその先にあるのですが)静かな入江がすぐそこまで延びていたではありませんか。
この存在感は古田史学に魅了されている私だけのものかもしれませんが、うっとりするばかりのこの入江の美しさは、私ならずとも感じていただけるものと思います。一方、対馬の東側にあたる神社の表には参道の直前まで水路が延びており、距離にして一〇〇〜二〇〇メートル、高低差五メートル足らずの小さな坂を越えるだけで、労することなく船越ができるように見えるのです。
勝手な想像ですが、まず、積荷を陸揚げして“船越”し、荷を運び再び積み直す。当然ながら、阿麻氏*留神社に対して通行料を納め、人手が足りないときには同社の氏子連に協力を求めて何がしかの労賃を支払うなど、この小船越にはそれなりに組織化され、ある意味で産業化された“船越”が存在していたのかもしれません。
前述の永留久恵氏には「古代史の鍵・対馬」「海神と天神」「古代日本と対馬」をはじめ多くの貴重な著書があります。今回、私はこのうち、四百数十頁の大著「海神と天神」(1988)を手に対馬を周ったのですが、フィールド・ワークによって多少とも得ることができた“か細い”イメージに、この本が吸い込まれるように入ってきます。それはともかくも、「古代史の鍵・対馬」(1975)にも「船越」という小稿があります。永留氏は、この中で、“対馬には大船越と小船越があるが、実際に船越をしていたのは小船越だけではなかったか”とされています。詳しくは本著にあたられるとして、一部をご紹介します。
「浅海湾から東の海に通ずる要地として、二つの船越があった。大船越と小船越である。もう一つ鶏地の住吉があったが、ここには船越の地名はない。いまは大小となく万関の瀬戸を通行するようになったが、これは明治三三年に、帝国海軍が・・・中略・・・
それならば、古来海外に渡航した人たちは、大船越を利用したはずなのに、ここにはそのような伝承がない。・・・中略・・・
いまの大船越の部落は、江戸時代の初期に移住して来た、と里の人たちも伝えている。これに対して小船越は・・・応永二六年(一四一九)、朝鮮軍が浅海湾を急襲してきたとき、まず尾崎を焼き、ついで船越を攻め、さらに仁位を襲っている。これらの浦が特に狙い討たれたのは、そこが重要な拠点であったからにちがいない。『大宗実録』には訓乃串と書かれている。また、『海東諸国記』には訓羅串となっている。訓乃串、訓羅串、これが船越に当てた朝鮮語の表記だが、ここでわかることは、小船越ではないということだ。船越に大小はなく、ただ、船越があったのだ。そこで寛文の掘切ができて、大きな船が運行できるようになってから、大船越ができたのかといえばそうでもない。『海東諸国記』に吾甫羅仇時とある。それにしても小船越は、まさに古船越とよぶべきであった。」と。
そして、その外にも、豆酘 (つつ)の浅藻の梶田富五郎翁の話しに出てくる郵便局や梶田翁の家も控えめを心がけながら眼に焼きつけてくることができました。これは、これまでの熱い思いをとりあえず沈めるものでした。
さて、対馬は確かに豊かな自然が残る島でした、しかし、だからこそかえって破壊的な道路工事や河川工事が目に付き、それに追い討ちをかけるように、多くの照葉樹の森が役にも立たない針葉樹に変えられ続けていることが痛々しく感じられたものです。このままでは間違いなく対馬ヤマネコは絶滅することになるでしょう。
船越の新たな展開と収束
四月号の「53.船越」で以下の様に書きました。
「民俗学の世界には"西船東馬"という言葉があります。これは中国の軍団の移動や物資輸送が"南船北馬"と表現されたことにヒントを得たものでしょうが、確かに西は船による輸送が主力でした。また、"東の神輿、西の山車"という言葉もあります。これは、それほど明瞭ではないのですが、東には比較的神輿が多く、西には山車が多いというほどの意味です。
非常に大雑把な話をすれば、全国の船越地名の分布と、祭りで山車(ダンジリ、ヤマ)を使う地域がかなり重なることから、もしかしたら、祭りの山車は、車の付いた台車で"船越"を行なっていた時代からの伝承ではないかとまで想像の冒険をしてしまいます。
直接には長崎(長崎市)に船越地名は見出せませんが、ここの"精霊流し"もそのなごりのように思えてくるのです(長崎の精霊船は舟形の山車であり底に車が付いており道路を曳き回しますね)。」
七月は山笠、山鉾、山車の季節ですが、私が参加している古田史学会の内部では上記の内容がささやかながら新たな展開を見せています。同会のホーム・ページ「新・古代学の扉」には「古賀事務局長の洛中洛外日記」という、大変面白い、興味深いコラムがありますが、その第七話、第十一話に“船越”の話しが出ていますのでその一部を紹介させていただきます。
第七話 「祇園祭と船越」
・・・この祇園祭の山鉾ですが、その淵源は古代まで遡るのではないか。山鉾や博多山笠の「山」は耶馬壹国のヤマと何か関係はないか、と以前から思っていたのですが、山鉾は古代の「船越」の様子を表現したものとする説が、最近出されました。
ホームページ「有明海・諫早湾干拓リポート」に掲載された古川清久さんの論文「船越」に次のように述べられています。
「全国の船越地名の分布と、祭りで山車(ダンジリ、ヤマ)を使う地域がかなり重なることから、もしかしたら、祭りの山車は、車の付いた台車で"船越"を行なっていた時代からの伝承ではないか」・・・中略・・・
そう言えば、松本市の須々岐神社のお祭り、「お船祭り」では「お船」と呼ばれる山車が繰り出されますが、これなど「船越」そのもの。古川さんの新説は以外と正解かもしれませんね。
第十一話 「信州のお祭・お船」
・・・信州のお祭りで有名なものに、穂高神社(南安曇郡穂高町)のお船祭がありますが、安曇という名前からも想像できるように、海人(あま)族のお祭ですからお船と呼ばれる山車が登場するのは、よく理解できるのです。しかし、諏訪大社の御柱祭にまで主役ではないようですがお船が登場することに、その由緒が単純なものではないなと感じたわけです。
祇園山鉾や博多山笠の山車が、古代の船越に淵源するのではないかという古川さんの説を洛中洛外日記第7話で紹介しましたが、今回の調査の際、『隋書』倭国伝(原文はイ妥*)の次ぎの記事の存在に気づき、新たな仮説を考えました。
『隋書』には倭国の葬儀の風習として次のように記録しています。
「葬に及んで屍を船上に置き、陸地之を牽くに、或いは小輿*(よ)を以てす。」
※小輿*[輿/車](よ)は、輿の同字で輿の下に車。
イ妥(たい)国のイ妥*は、人偏に妥。ユニコード番号4FCO
倭国では葬儀で死者を運ぶのに陸地でも船を使用していたことが記されているのです。そうすると、山車の淵源は海人族の葬儀風習にあったと考えてもよいのではないでしょうか。祇園山鉾や博多山笠の「ヤマ」が古代の邪馬台国(『三国志』原文は邪馬壹国)と関係するのではないかという、わたしのカンも当たっているかもしれませんね。
最後に永留久恵氏の「海神と天神」の「第一部 海神編 第二章 対馬のウツロ舟伝説 十、葬送と舟」にこの話の解答に近いものがありますので、少し長くなりますが、その一部をも紹介してこの論考をひとまず終わりにしたいと思います。しかし、再び対馬を訪ねることになると思います。その時には再び、船越(補稿)II を書きたいと思います。
「・・・中国の史書「隋書」倭国伝を見ると、倭人の風俗を述べたなかに、「貴人三年殯於外、庶人卜日而葬」との記述があり、貴族は殯宮を建てて長期間 もごり をしたことがわかる。庶民は卜して葬(はふり)をしたが、その間にはやはり殯の仮屋をこしらえたはずである。
しかし、屍を安置する施設をもたないものは風葬に近い形がとられたであろう、と井上氏は説く。そして『続日本紀』文武天皇の七〇六年に、放置された屍を埋葬するよう令した詔が引用されている。
水葬について諸先学は、蛭子を舟に載せて流したという『記』『紀』の神話は水葬の習俗を映したものだと説いている。南方の海洋民族の間には、死者は船に乗って他界するという説話があり、死者を舟に載せて流す風習があったという。この南海の民族と、いろいろの点で似た習性をもっていた倭の水人に、水葬があったと考えることは無理ではない。志摩で棺をフネとよぶことには、遠い昔のある姿を想像して深い意味を感じる。志摩は、熊野へと続く海人の活動舞台だったからである。また、海辺の村で初盆に精霊船を流すのは、死者の霊が遠い海の彼方に帰るという信仰による。
と舟について考えるとき、死者を載せて流すことばかりにこだわってはいけない。屍を葬地に運ぶためには船が必要だったからである。これを思うのは縄文晩期に始まる対馬の古い埋葬遺跡がほとんど海岸にあり、海に臨んだ突崎や、離れた小島にあるからだ。南西諸島では、今でもそのような場所に葬地を営んでいる。この葬地まで運ぶためには、当然舟を必要としたはずである。陸路から行けるところもあるが、舟による方が便利であり、また、舟なくしては不可能な場所が多い。死者を葬地に送るために、舟に乗せて運んだことは間違いない。
さきに引用した『隋書』のなかに、「及葬置屍船上牽之」と、屍を船上に載せて葬地に運ぶことが記されているが、この場合は水上を航行するのではなく、陸上をいたのである。およそ推古朝頃の風俗を記したものであろうが、船と棺との区別がわからない。しかし、これについて上井氏が攝津の住吉大社の資料から分析した論考は明快である。その概要は、同社に深い関係を持っていた舟木氏があり、この舟木は舟の建造を職掌としたが、同時に棺をも造った。しかも木棺ばかりではなく、石棺をも作っていた。そこで『古事記』にいう「鳥之石楠舟」には舟と棺のイメージが混然としている。というものである。・・・」
※本稿は「環境問題を考える」(環境問題の科学的根拠を論じる)のサブ・サイト、「有明海・諫早湾干拓リポート」II(八月号)掲載文書「77.船越(補稿)対馬 阿麻氏*留神社の小船越」の転載です。
これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)・『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。
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