九州古墳文化の独自性 横穴式石室の始まり(会報69号) へ
「大王のひつぎ」に一言
読売新聞 七月二十五日・八月三日の記事について
生駒市 伊東義彰
『「大王のひつぎ」海の旅850キロ』・『阿蘇ピンク石ナゾ迫る』などの大きな見出しが目を惹く記事の出だしに『近畿地方の大王(天皇)の石棺に九州の阿蘇ピンク石が使われた理由を探るとともに、巨石の海路運搬が可能なことを実証する「大王のひつぎ実験航海」(読売新聞西部本社などの実行委員会主催)の船団が二十四日、熊本県宇土市を出航した。』とありました。片舷九本、計十八本の櫂を漕ぐ古代の木造船が、石棺蓋を載せた台船を綱で引っ張っている写真も載っています。
この、古代史のロマンを追う企画のあることは春ごろから聞いていましたので、いよいよ始まったかと、大きな期待を寄せて記事を読みました。
阿蘇ピンク石は、熊本県宇土市に産出する阿蘇溶結凝灰岩の一種で、普通の状態では薄いピンク色を呈しており、水分を多く含むと小豆色に変色するところからこの名前で呼ばれており、これを石材とする石棺が破片も含めて九州以外の地域で十数例確認されていますが、不思議なことに、地元の九州では石棺材として使われた例は、現在までのところ一件も発見されていない(間壁忠彦氏談)という謎めいた石です。
『大王のひつぎ』・『大王のひつぎ実験航海』という見出しと、『大王(天皇)の石棺に使われた理由を探る』・『今回の実験航海では、大王の葬祭儀礼上、重要な石棺に九州の赤い石が使われた理由の解明につなげる。』と言う記事を読んで、阿蘇ピンク石は大王(天皇)の石棺によく使われている石材なんだなと、早合点してしまいそうになりました。かって、推古天皇と竹田皇子の合葬墓ではないかと騒がれた植山古墳(橿原市五条野町)から出土した阿蘇ピンク石の石棺についてかなり詳しい調査をしていなかったら、私もおそらく「阿蘇ピンク石の石棺は大王のひつぎなのだ」と思いこんでしまったに違いありません。
しかしこの記事(八月三日掲載の参考資料に明らかな誤りがありますが)は、決して間違ったことを書いているわけではありません。高槻市にある、墳丘長一九〇メートル、二重周濠を含めると三五〇メートルにおよぶ巨大前方後円墳、まさしく大王級の墓と言える今城塚古墳から、石棺の破片と思われる阿蘇ピンク石の欠片(かけら)が出土していますから、阿蘇ピンク石が大王級の石棺に使用されていたのは事実であり、その理由を探るための「実験航海」を企画し、実行に移したと言う記事に間違いはありません。古代史の壮大なロマンを追う企画に期待を寄せ、成功を祈る気持ちを人一倍抱いています。
問題は、この記事が先述したように、大王(天皇)級の石棺に阿蘇ピンク石がよく使われている、という誤解を生じさせる恐れがあるのではないか、ということです。何故なら、今城塚古墳から出土した石棺の破片と思われる石の欠片は、阿蘇ピンク石だけではなく播磨の竜山石と二上山白石のものもあり、どの石を使った石棺に大王級の人が葬られていたか、わかる術もないのですから、阿蘇ピンク石の石棺が「大王のひつぎ」だったと断定できないからです。
さらに、五世紀後半から六世紀前半にかけてのものと思われる阿蘇ピンク石の石棺・破片十数例のうち、古墳の大きさ(墳丘長二〇〇メートル前後以上)から見た大王級のものは、今城塚古墳の石棺破片だけしかなく、ほかの古墳は出所不明のもの二つ(桜井市慶運寺の石棺身、同金屋の石棺蓋)を除いても全て一〇〇メートル以下のものばかりなのです。
古墳・遺跡名 古墳の形 墳丘長・径メートル 石室 築造時期 所在地
兜塚 前方後円墳 四五 竪穴式 五世紀後半 奈良県桜井市浅古
長持山 前方後円墳 四〇 竪穴式 五世紀後半 大阪府藤井寺市
野神 前方後円墳 二二? 竪穴式 五世紀末 奈良市南京終
金屋石棺蓋 (出所不明) 五世紀末 奈良県桜井市金屋
備前築山 前方後円墳 八二 竪穴式 五世紀末 岡山県長船町
峰ケ塚(破片)前方後円墳 八八 竪穴式 六世紀初頭 大阪府羽曳野市
円山 円墳 三〇 横穴式 六世紀初頭 滋賀県野洲町
甲山 円墳 三〇 横穴式 六世紀前半 滋賀県野洲町
東乗鞍 前方後円墳 七二 横穴式 六世紀前半 奈良県天理市乙木
別所鑵子塚 前方後円墳 五七 直葬 六世紀前半 奈良県天理市別所
慶運寺石棺身 (出所不明) 六世紀前半 奈良県桜井市箸中
今城塚(破片)前方後円墳 一九〇 横穴式 六世紀前半 大阪府高槻市
(下の図も同じ、確認のため掲載)
五世紀後半〜六世紀前半の現在確認されている阿蘇ピンク石の石棺・破片は上記の通りです。
五世紀後半〜六世紀前半のものは以上十二例が確認されています。
奈良県橿原市五条野町の推古天皇・竹田皇子合葬墓かと騒がれた植山古墳(四〇×二七の長方形墳)は、六世紀末〜七世紀前半とされており、また、同時代には植山古墳を上まわる規模の古墳が造られていますから今城塚古墳など五世紀後半〜六世紀前半の古墳と同列に扱うことはできません。
上に示した十二例の阿蘇ピンク石石棺・破片の出土した古墳の中で、古墳規模の大きさから見た場合、大王級のものは今城塚古墳の一つしかなく、阿蘇ピンク石の石棺が大王級の石棺に多く使われていたとはとても言えません。また先述したように他の種類の石材を使った石棺の破片も見つかっていますから、今城塚古墳の主が阿蘇ピンク石の石棺に葬られていたとは限りません。このようなことから阿蘇ピンク石の石棺を「大王のひつぎ」と一般的に呼び慣わすのは如何なものかと考える次第です。
尚、添付しました八月三日の読売新聞記事資料に、岡山市新庄の造山古墳在石棺(周辺の陪塚から出土したもの)が阿蘇ピンク石とされていますが、この石棺は阿蘇溶結凝灰岩に間違いはありませんが、阿蘇ピンク石ではありません。またこの読売新聞資料の古墳築造時期と思われる世紀の書き方、特に六世紀後半の部分は非常に誤解を招きやすくなっていることを指摘しておきます。
今回の「大王のひつぎ実験航海」の目指すところは、「九州熊本県の宇土半島に産する阿蘇ピンク石が、岡山県(1)や奈良盆地(7)、大阪府(3)、滋賀県(2)など遙か遠方の古墳の石棺に何故使われたのか」という謎を、埴輪の船を参考に復元建造した木造船で運ぶことにより、少しでもそれを解く鍵に迫ろうとする壮大な企画だと理解しています。従って「大王のひつぎ」という言葉とは無関係に、この古代のロマンを追う試みが成功することを祈っています。
阿蘇ピンク石石棺の謎は「何故、九州から遙か東方へ運ばれ、使われたのか」ということのほかにもまだあります。
その一つに、地元の九州では石棺材として使われた形跡が現在のところ見つかっていないのです。九州の古墳を築造できる支配層は阿蘇ピンク石を石棺に使用することを嫌ったのでしょうか。
その二は、瀬戸内海沿岸や奈良盆地を含む畿内地域のいくつかの古墳や遺跡で、阿蘇ピンク石ではない阿蘇溶結凝灰岩でつくられた石棺が見つかっていることです。八幡茶臼山古墳(京都府八幡市)や唐櫃山古墳(大阪府藤井寺市)、前出の長持山古墳(大阪府藤井寺市)からは、阿蘇ピンク石の家形石棺よりも古い形式とされる舟形石棺が出土しています。長持山古墳の阿蘇ピンク石ではない方の石棺などは、五世紀後半以後畿内を中心に盛行する刳抜式家形石棺の最も古い形とされていましたが、その石材が阿蘇溶結凝灰岩であることが判明しているのです。また、岡山県最大の巨大前方後円墳である造山古墳(岡山市下新庄)在の刳抜式石棺も阿蘇ピンク石ではない阿蘇溶結凝灰岩製であり、そのほか愛媛県や香川県にも同じ阿蘇溶結凝灰岩製の舟形石棺が出土しています。阿蘇ピンク石の家形石棺よりも前に、九州の石材でつくられた石棺が瀬戸内海沿岸や畿内に運び込まれているのです。
阿蘇ピンク石の家形石棺よりも前から、九州から九州産の石材でつくられた石棺が持ち込まれていることをも合わせて、「大王のひつぎ」なる石棺を検討しなければならないのではないかと考える次第です。
最後に、五世紀後半〜六世紀前半までの天皇(雄略・清寧・顕宗・仁賢・武烈・継体・安閑・宣化)の陵墓所在地(古事記・日本書紀・延喜式)と、阿蘇ピンク石石棺・破片の所在地を比較してみましたところ、専門家の間で継体天皇陵かも知れないとされている今城塚古墳(継体天皇)を除いて、該当しそうなものは一つもなかったことを申し添えておきます。
平成一七年八月三月読売新聞「大王のひつぎ実験航海」記事内の資料
これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)・『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。
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