悲痛の弔文 藤田友治氏に捧げる 古田武彦 事務局便り
悲痛の弔文
藤田友治(ともじ)氏に捧げる
古田武彦
一
訃報に接した。八月二七日の夜、ミネルヴァの杉田啓三さんからだった。信じられなかった。だがやがて、奥様の美代子さんとの電話、信ぜざるをえなかった。しかし、心ではなお納得していなかった。年来の交流もさることながら、この三月三一日の御来訪以来、くりかえし、電話やファックスの応答がつづいていた。「井真成、問題」をめぐる対談も予定していた。それなのに、なぜ。五八歳の藤田さんが。そう思いつづけている。
二
藤田さんがはじめてわたしの家を訪れられたのは、『失われた九州王朝』(朝日新聞社刊)が出て、間もない頃だった。義父(奥様のお父上)の今井久順さんと御一緒だった。
御質問は「天皇陵と被差別部落との関係」だった。部落出身の生徒の所へ家庭訪問する。貧しい家のうしろに、立派な天皇陵がある。また、全く別の生徒。そこにも、別の立派な天皇陵があった。何回も、そのような経験をくりかえすうちに、疑問が生じた。「果して、この両者には、関係はないのか。」と。それは当時の「同和教育のテーマ」からは“はずれて”いた。なぜなら、いわゆる「差別」は、江戸時代の「士・農・工・商」の下におかれた被差別部落。そこからはじまる。それをさかのぼらせても、せいぜい室町期。そのように“教える”こととなっていたからである。藤田さんはそのテーマに疑問をもち、右の本の著者である、わたしにこれを問おうとされたのである。
「早稲田大学で作られた“被差別部落の分布図”を見ると、古墳時代の『古墳の分布図』に酷似しています。偶然の一致とは思われません。天皇陵はもちろん、“古墳の一つ”、最大級の古墳です。両者、到底無関係とは思われません。
もちろん、『部落』の解釈にもよりますが、弥生時代の日本に「差別社会」の存在したこと、三国志の魏志倭人伝に明白です。『生口』(捕虜)や『奴婢』がいますから。それだけではありません。縄文時代にも、『奴隷』がいた、と思います。」
これを突破口として、活発な会話がはずんだ。そして何週間か前に来られた中谷義夫さんのことを話した。大阪の豪商の気風をもつ何軒かの書店主である。このお三方の会合から、「市民の古代」は誕生した。
三
一九八一年、わたしは藤田さんと「二人旅」をした。高句麗好太王碑の「開放」を求めての旅だった。多くの辛酸の後、ついに「目的」を達した。中国側から、その確約をとりつけた。奇跡のような、幸運だった。やがて各集団が現地へ向い(わたしたちの集団〈東方史学会〉は、二番目)、念願の好太王碑を「実見」した。やがていわゆる「酒匂大尉による改ざん説」は、実地において否定されることとなったのである。
この問題は、「山城群と鴨緑江に囲まれた好太王碑と王陵」(A)に対する「神籠石群の山城に囲まれた、太宰府と筑後川流域」(B)という形で、いわゆる「倭の五王」の中心領域がどこにあったかを、端的に示していた。九州王朝の実在である。
四
この三月三一日、藤田さんがわたしの家へ来られた。「君が代」問題(「本歌(ほんか)」取り)をめぐる、わたしのクレームについてだったが、その関心の中心はすでに「井真成」問題に移っておられた。どっさりと、資料をおいてゆかれた。これがわたしの「井真成・非遣唐使(及び留学生等)説」の発展にとって有力な「資料源」となったのである。奇縁だった。今後の「対話」が楽しみだった。
それは空しい、もはや永遠に。しかも、思う。藤田さんは成功率九五パーセントの慢性大動脈瘤乖離の手術を“すませる”ために入院。泉佐野の市民病院、八月末、新学期前のことだったという。ーーーああ。
〈二〇〇五・九月十日記〉
事務局便り
▼本会ホームページが好評である。海外の在留邦人からも感謝メールが届いている。引き続き、充実させていきたい。
▼二四日の新東方史学会立ち上げ講演会も無事終了。ミネルヴァ書房にご協力頂いた。感謝。
▼夜の懇親会では福岡や松山など、遠方からの全国世話人を迎え、盛り上がった。
▼新東方史学会の各種事業推進のため、ご寄付のご協力をお願い申し上げたい。@koga
これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)・『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。
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