◇◇ 連載小説 『 彩 神 カリスマ 』 第十一話◇◇◇
杉神すきかみ(4)深 津 栄 美
ーー古田武彦著『古代は輝いていた』よりーー
「若、そろそろ参りませんと・・・。」
黒主(くろぬし)が建御名方(たけみなかた)を促した時、出し抜けに草一本、木の葉一枚ずつが確定できる程周囲が光り輝いた。最も背の高い杉の木が、瞬く間に炎と化す。
「若、ご避難を──」
黒主の先導で慌てて舟着場の方へ駆け出す人々を追うように、稲妻は樹間を縫い通し、尾根を飛び移り、奇岩の堆積やその下にくねる水流を幽鬼のように浮き上がらせた。雷鳴が、渓谷を打ち割らんばかりに反響する。
「奥(おき)つ国 領(うしは)く君が 染屋形(しめやかた) 黄染(きしめ)の屋形 神の門(と)渡る・・・。」
(天空(そら)の奥深くを支配する神が、朱(あか)に黄に閃(ひらめ)く門戸を閉ざされるよ・・・)
(『万葉集』第十六巻三八八八番)
誰かが震え声で祈るように呟き、
「後一歩逃げるのが遅れていたら、我々も杉の木の下敷きだったな・・・。」
「怪我はなかったか・・・!?」
倒れた木々の火照りに互いに見交わす黒主らの顔は、稲妻に劣らず青かった。野獣や敵軍を相手にしては一騎当千の古強者(つわもの)達も、神の怒りのような自然の猛威の前では手も足も出ないのだ。
だが、建御名方は、仄暗い断崖上に自分達と似たような格好の人影が幾つか、こちらを伺(うかが)っているのを素早く目に留めていた。天国軍はもうそこまで追いすがって来ているのか、この雷雨も敵の有利になるばかりなのかと建御名方は気が気ではなくなり、
「こんな所で手間取ってはおれんーー行くぞ!」
指導者らしく一同を叱咤し、自ら棹さして舟を漕ぎ出した。黒主らも、急いでめいめい櫂を取る。
丁度増水していた上、風にも恵まれ、舟は矢のように木曽の流れを遡った。こんな切迫した折でなければ、快適な速度に合わせて舟歌の一つも従者達から湧き起こったに違いない。山々は紅葉(もみじ)の季節を迎え、目に沁みるような黄や蘇芳(すおう)、常盤木の緑、黒、青が入り混じり、水底の小石が数えられそうな透明な川面に妍(けん)を競う様は、「寝覚めの床(とこ)」と仇名される位鮮麗なのだから。だが、青白い光が縦横に闇をつんざき、雷鳴と濁流、風雨が一大交響楽を奏でているのでは、紅葉も碧潭(へきたん)もあったものではない。たとえ嵐に見舞われずとも、建御名方に木曽の景観を嘆賞する余裕(よゆう)があったかどうか・・・?彼は、大国とその傘下が天国に併合されるままになっているのに唯一人、反抗して追われる身、建雷(たけいかづち)らにしても彼を服属させない限りは新政権樹立は公認されない。丹波山地で建御名方の首が上げられなかったのなら諏訪湖畔で、そこでもダメなら東の沿海州で、もしくは陸奥(みちのく)でと、決着が着くまで追い続けるだろう。
(やられてたまるか。俺とて八千矛の息子、父も兄も退けられたからには、俺こそが「大国主」なのだーー!)
建御名方は歯を食い縛り、木曽渓谷を逆行して行った。
黒主は上松(あげまつ)から木曽福島、日義(ひよし)、鳥居・・・と舟着場伝いに塩尻まで上り、峠越えで諏訪に入ろうと計画していた。
斐太人(ひだびと)の 真木流すとふ 丹生(にふ)の河 言(こと)は通へど 船ぞ通はぬ
(飛騨の人間が木を流して送るという丹生の川は、噂こそ高いが船は通れない。)
(『万葉集』第七巻一一七三番。 以上、現代語訳、筆者)
と、歌われているように、山々では木々を伐採し、筏(いかだ)に組んで川へ押し出す作業が始まっている。川下(しも)や河口の人々は道なき道をかき分けてまで焚木(たきぎ)を購入する事は出来ない為、雪が積もると自分達の所へ下りて来る樵(きこり)達に一冬の宿を提供する代り、春が来て彼らが再び山奥へ分け入ったら家や社の増築、修復、橋渡しなどに使用する材木を川へ流してくれるよう、頼むのである。それは、山頂と麓に分かれて住む人々が培って来た、生活の知恵だった。
塩尻はその名の通り岩塩の採掘場でもあり、住民は商いの為、筏を利用して南木曽(なぎそ)辺りへうまく下りて来るので、彼らに言えば峠越えも諏訪湖畔への道筋もうまく行くだろう、と黒主は言った。
だが、黒主は些か楽天的過ぎたようだ。
目的地が近づくにつれ、例年より雨が多いのを憂慮したか、川に浮かぶ丸太は数を増して来た。大人が四、五人手を繋いでやっと取り巻ける程の太い幹が十本、二十本と流れ下って来たのでは、舟は通れなくなってしまう。
新たに押し寄せて来た筏の群れをよけようとして、舟はとうとう暗礁に乗り上げ、建御名方ははずみで飛沫の中へ転げ込んでしまった。
(続く)
これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)・『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。
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