< 教科書の検討 和田高明

2005年10月07日

古田史学会報

70号

鶴見山古墳出土
石人の証言
 古賀達也

九州古墳文化の独自性
横穴式石室の変遷
 伊東義彰

日本の神像と月神の雑話
 木村賢司

4書評
『親鸞』古田武彦
(清水書院)
林 英治

『神武の来た道』
 横田幸男

神々の亡命地・信州
古代文明の衝突と興亡
 古賀達也

6連載小説『彩神』
第十一話 杉神 4
  深津栄美

7船越(補稿)対馬
阿麻氏*留神社の小船越
 古川清久

教科書の検討
 和田高明

「大王のひつぎ」に一言
読売新聞七月二十五日
・八月三日の記事について
 伊東義彰

10悲痛の弔文
藤田友治氏に捧げる
古田武彦

事務局便り

 

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教科書の検討

岩見沢市 和田高明

 来年度から使用する中学校の教科書採択に向けて、文部科学省認定の教科書が市民に公開されたので、日本古代史部分を比較してみました。いずれも旧態依然とした近畿天皇家一元史観に統一されていることは、“世間で話題になっているもの”も含めて変わりはありません。頑迷固陋な、同じ穴の狢を並べ立てても興の沸かないことですが、現状を認識しておく意味で、敢てご報告いたします。当地で公開されていたものは次の六種類です。
・帝国書院 「社会科 中学生の歴史[初訂版]」
・教育出版 「中学社会 歴史 未来をみつめて」
・東京書籍 「新編新しい社会 歴史」
・大阪書籍 「中学社会 歴史的分野」
・日本文教出版 「中学生の社会科 歴史 日本の歩みと世界」
・扶桑社 「[改訂版]中学社会 新しい歴史教科書」

 比較対照のために表にしましたが、同じ“狢”でも、その顔つきは若干異なっております。

1) 稲作について
 帝国書院は、[注]で弥生時代のはじまりが紀元前十世紀と考える説を紹介してはいるものの、縄文時代と弥生時代の間に空白の時代があります。なんとも摩訶不思議です。教育出版の記事は、まるで半世紀前と変わることなく、近年の考古学は眼中に無きが如しです。稲作については大阪書籍が比較的まっとうかと思われます。弥生時代が五百年早まるとの学説を新聞記事とともに載せ、それによって考え直さなければならないこと、反対意見をも掲載しており、良心的かと思われます。
2) 金印について
 どれも、奴国王が遣使したことになっております。九州北部の一地方豪族が、漢の皇帝から金印を与えられたのだそうです。そして扶桑社は『「倭」も「奴」も見下した意味を含んだ文字だった。中国の歴史書では、皇帝の権威を示すために、周辺の国を野蛮な国としてあつかったのである。』と、これまでにない解説をしております。
3) 邪馬台国
 例外なく、「魏志倭人伝」によると「邪馬台国」の女王卑弥呼がいて云々と偽りの記述となっております。そして、今なお九州説と近畿説で論争をしているのだそうです。注目すべきは、日本文教出版で、「邪馬台国に似た国々は、日本の各地にあったのであろう。」と、驚くまいことか、ここだけこっそりと多元的古代国家論を盗み取りしているのです。
4) 統一王権について
 時期に若干のずれはあるものの、依然と大和朝廷一元論のままです。従って、稲荷山古墳出土鉄剣銘の読みも、不掲載の教育出版を除いて、いずれも「ワカタケル」大王が統一の大王であるとしております。帝国書院は江田船山古墳出土鉄刀と二つ並べて「ワカタケル大王」としており、扶桑社は、この大王が倭王武であると断定しているのです。日本文教出版は「倭王武の手紙」を掲載し、「日出る国の天子」国書を載せているのは、帝国書院・大阪書籍・扶桑社の三社です。
5) 渡来人について
 扶桑社は、民族主義を前面に出して昔ながらの「帰化人」という表現をとっております。日本にもたらし影響を与えた文化・技術について記す中で、大阪書籍と帝国書院は、鉄の入手について言及していることが注目されますが、一歩踏み込んだ説明がほしいところです。
6) 大化の改新について
 どれも、六四五年に始まる政治改革を前提にして記述していますが、大化年号に触れていないのは帝国書院のみです。教育出版は、『年号が継続して用いられるようになるのは、大宝律令が制定された七〇一年からです。』としていますが、年号制定の意味については何一つ触れてはいません。
7) 天皇の称号について
 記述がないのは帝国書院のみです。詳しいのは大阪書籍と扶桑社です。前者は出土した木簡から六七七年まで遡れることを記し、後者は六〇八年の隋への国書からとしております。東京書籍には天武天皇時代に『「日本」という国号や「天皇」という称号は、このころ正式に定められました。』とあります。どの史料に依存しているのでしょうか。教えてもらいたいものです。
8) 防人の設置について
 「白村江の戦」という言葉を用いていないのは、教育出版と大阪書籍。帝国書院は、白村江の大敗の後に山城や水城を築いたことを述べており、吾等が昔教わった通りです。扶桑社は、白村江の戦の詳細を述べた上で、防人を置き、水城を築いたことを記しています。しかし、山城の分布とその意義を述べたものは一社もありません。
9) 律令制度について
 律令そのものについては、大同小異で、それなりに正しいでしょうが、帝国書院の記述には、大いに矛盾があります。壬申の乱に勝利して大きな権力をにぎった天武天皇は『天皇を中心とする強い国家を望みました。そのため、皇帝が国家を支配する唐の制度にならい、律(刑罰のきまり)令(政治のきまり)にもとづき、国をおさめる律令国家のしくみをつくろうとしました。そこで、8世紀には唐から政治のしくみや進んだ文化を取り入れるために、たびたび遣唐使が派遣されました。』と、まるで大宝律令が制定されてから遣唐使を派遣して勉強が始まったかのように記載されているのです。
10) その他
 扶桑社には、「神武天皇」と「神話」が載せられています。日本書紀に記されている“神武東征説話”が一ページ、古事記を基にした“国生み神話”から“ニニギ”に至る話が二ページにわたって掲載されているのです。古事記・日本書紀をまともに読むならば、このような話になりますよ、という啓蒙の意味であれば否定するに当たりませんが、いかがなものでしょうか。
 北海道に住む者として注目すべきことは、帝国書院の「地域史」というコラムです。『(前略)沖縄や奄美の島々でとれるサンゴ礁の大型まき貝が九州に運ばれて腕輪に加工されていました。弥生時代の人々がひらいた、この交易路のことを「貝の道」とよんでいます。なかには、遠く北海道まで運ばれたものもありました。(後略)』と記し、本州・九州・四国と、北海道と、南西諸島の時代区分の違いを年表で示しているところは、画期的なことかと思われます。
 三種の宝物・絹・鉄製品の出土分布、二倍年暦等、列挙しだすとキリがありませんが、偽りの程度を吟味しても意味がありませんのでやめにします。結局のところ、テンノロジーに犯されたままで、偽りの古代史を学校で垂れ流しにすることに違いはありません。古田史学など存在しないかの如しです。油断できないことは、知らぬ顔をして多元的古代史観を切り貼りし始めているということです。いつまでも真実に目をつぶったままでいること自体犯罪であると思っているところへ、この剽窃です。もうそろそろ、我々は本気で「打って出る」時期ではないでしょうか。皆さんはどのようにお感じでしょう。
          (八月二十六日)

項目 帝国書院
「社会科中学生の歴史」
教育出版
「中学 社会歴史」
東京書籍
「新編 新しい社会歴史」
1). 稲作
(弥生時代)
・縄文時代(紀元前十世紀頃まで)の終わり頃、中国・朝鮮半島などから北九州へ渡来した人々が伝え、西日本から東日本へと広まっていった。
・紀元前三世紀頃から紀元三世紀頃まで
・紀元前四世紀頃中国長江流域や朝鮮半島南部の人々が北部九州に渡来して伝え、まもなく東北地方まで広まった。
・紀元前四世紀頃から紀元三世紀頃まで

・紀元前四世紀頃、大陸(おもに朝鮮半島)から渡来した人々によって九州北部に伝えられ、やがて東日本にまで広まった。
・明確な記載はなし。

2). 金印
・「後漢書」によれば、一世紀中ごろ奴国の王が漢に使いを送り金印を与えられた。 ・一世紀中ごろ九州北部の国々の一部が中国の漢に使いを送り、皇帝から印を与えられた。 ・一世紀の半ぱには倭の奴国王が後漢に使いを送り皇帝から金印を授けられた。
3). 邪馬台国
・九州説と畿内説を紹介。
・統一王権をヤマト王権と表現。
・九州北部説と大和説が対立している。 ・九州北部説と大和説が対立している。
4). 統一王権
・五世紀(九州から東北地方南部まで) ・五世紀後半(九州中部から関東まで) ・五世紀(九州から東北地方南部まで)
5). 渡来人
・時期の記載なし。 ・五世紀から。説明簡素すぎる。 ・五世紀から。
6). 大化の改新
・中大兄皇子は中臣鎌足らとはかり、六四五年蘇我氏を倒し、唐にならった国づくりをめざし改革に着手したが、その実現には、この後五〇年ほどかかった。 ・皇族や豪族がそれぞれ支配していた土地や人民を、国家が直接支配すること(公地公民)を目指すもの。 ・土地と人を公地公民として国家の直接の支配下に置こうとし、政府の組織を整えて、権力の集中を目指した。
7). 天皇の称号
・記載なし ・七世紀に大王に代わり天皇の称号が用いられる。 ・壬申の乱の後
8). 防人設置
・奈良時代、律令制度の中で。 ・奈良時代、律令制度の中で。 ・奈良時代、律令制度の中で。
9). 律令制度
・天武天皇が律令国家を作ろうとした。そこで、八世紀にはたびたび遣唐使が派遣された。 ・七〇一年、唐の律令にならつた大宝律令がつくられ、新しい国家のしくみが定まった。 ・七〇一年、唐の法律にならった大宝律令がつくられ、全国を支配するしくみが細かく定められた。
10).特記事項
・わずかながら地域史を扱い、北海道・南西諸島の歩みの年表で「続縄文文化」「オホーツク文化」「擦文文化」を紹介。
・巻頭聖徳太子特集二ぺージ。
  ・唯一「珍敷塚古墳」の写真を掲載
項目 大阪書籍
「中学社会歴史的分野」
日本文教出版
「中学生の社会科歴史」
扶桑杜
「中学社会新しい歴史教科書」
1). 稲作
(弥生時代)
・九州北部では縄文時代(紀元前四世紀頃まで)末ごろの土器とともに水田跡が発掘された。中国の長江流域や朝鮮半島南部などから伝わってきたと考えられている。
・紀元前四世紀ごろから紀元後三世紀まで
・紀元前四〜三世紀頃、大陸から九州北部に米の作り方や食べ方・・・など新しい文化を持つ人たちが移ってきた。(地図で四コース紹介)
・紀元前二百年頃から紀元四世紀頃まで

・縄文時代に大陸から稲がもたらされ・・・紀元前四世紀頃までには・・・稲作の技術が九州北部に伝わった。西目本一帯にもゆっくり広がり海伝いに東北地方にまで達した。
・紀元前四世紀頃から紀元後三世紀頃まで

2). 金印
・中国の歴史書に、一世紀中ごろ倭の奴国王が漢に使いを送り皇帝から印などを与えられたことが書かれている。 ・一世紀の半ばには、奴という国の王が漢に使いを送り、皇帝から金印を与えられたという。 ・漢の歴史をしるした別の書には、一世紀の中頃「倭の奴国王が漢に使いを送り、皇帝が金印を授けた」と記されていた。
3). 邪馬台国
・九州北部説と大和説など学説が分かれている。 ・九州地方か近畿地方かはっきりしない・・・邪馬台国に似た国々は、日本の各地にあったのであろう。 ・近畿説と九州説が対立し、いまだに論争が続いている。
4). 統一王権
・五世紀(九州から東北地方南部まで) ・五世紀頃(九州北部から関東地方まで) ・四世紀前半(鹿児島県から岩手県)
5). 渡来人
・四世紀頃から。朝鮮から日本に大量の鉄がもたらされた。 ・時期の記載はないが、五世紀頃と解釈できる。 ・帰化人(渡来人)と表記、五〜六世紀。
6). 大化の改新
・唐にならって、天皇家が主導権をもつ国家を作るための政治改革。 ・天皇を中心に唐のように強い国を作るための政治の改革。 ・聖徳太子以来の国の理想を実現するために天皇と臣下の区別を明らかにして日本独自の国家の秩序を打ち立てようとしたもの。
7). 天皇の称号
・(木簡の出土を載せ)天武天皇の頃には、それまでの大王に代わって天皇と名乗るようになったと考えられている。 ・時期の記載なし。 ・六〇八年の遣階使の国書より。
8). 防人設置
・百済救援の戦いに敗れた後。 ・奈良時代、律令制度の中で。 ・白村江の戦の後。
9). 律令制度
・七〇一年には大宝律令が定められた。法律に基いて政治が行われる国家を律令国家という。 ・天武天皇は、唐を手本に律・令によって政治の仕組みを整えようとし、持統天皇も天武天皇の遺志をついで政治の改革を進めた。 ・天武天皇が着手し持統天皇が改革を受け継いだ。
10).特記事項
・弥生時代が五百年早まる新聞記事と学説をニページにわたって掲載。   ・「神武天皇の東征伝承」一ぺージ、「日本の神話」二ぺージ。

 これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)・『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。

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