「伊予風土記」新考 古賀達也(会報68号)
市民タイムス 平成17年7月1日より転載
神々の亡命地・信州
古代文明の衝突と興亡
古賀達也
人類の歴史は文明の誕生と衝突興亡の繰り返し、そうした一面を持っています。古代に於いては、そうした歴史事実が神話という形で残されており、特にシュリーマンによるトロイの遺跡の発見以後、神話は歴史事実の反映という視点が、世界の歴史学では常識となってきています。
古代日本列島においても文明の衝突・興亡の痕跡が随所に見られます。著名な例では、称性特代の銅矛文明圏と銅鐸文明圏の衝突、そして銅鐸文明の消滅という考古学的事実があります。この二大青銅器文明圏の衝突と興亡という列島内大事件が神話として残っています。一つは、『古事記』にある大国主の国譲り神話です。年輩の方ならよくご存じの神話だと思います。
天国(あまくに)の神々が出雲の主神である大国主に国を譲れと武力介入した神話です。出雲には荒神谷遺跡などから銅鐸を含む大量の青銅器が出土していますが、この神話は銅矛文明圏(天国、壱岐対馬)による銅鐸文明圏の出雲への侵略が「国譲り」という表現で語られているのです。この侵略に最後まで抵抗した神が建御名方神(たけみなかた)です。彼は戦いに敗れ信州の諏訪湖まで逃げます。そして、その地から出ないことを条件に許されます。天国の軍隊は、銅鐸文明圏の中枢領域である近畿にも突入を繰り返します。近畿から破壊された銅鐸が多数出土していますが、これもこの侵略の痕跡でしょう。
天国の軍隊は神聖なる祭器である銅鐸を破壊し、銅鐸文明の神々は東へ東へと逃亡したのです。その様子を「伊勢国風土記」では次のように記されています。天日別命(あまのひわけのみこと)が率いる天国の軍隊が伊勢の国を侵略し、伊勢の王である伊勢津彦は東へと逃げ、彼もまた信濃の国へ住んだと。
建御名方神や伊勢津彦はなぜ信州に逃げたのでしょうか。そして、なぜ天国の軍隊は信州に逃げた彼らを捕らえなかったのでしょうか。ここに、信州が持つ不思議な歴史の謎があります。
これと共通する風習が中世ドイツにもありました。追われた犯罪者が四本の柱で囲まれた場所に逃げ込めば、役人も手出しができなかったと言われています。四本の柱の中は神聖な地、歴史学でアジールと呼ばれる空間なのでした。ここまで言えば、信州の皆様にピンとくるでしょう。そう、諏訪大社の御柱とそっくりです。古代信州は軍隊と言えども侵すことのできない神聖な地、アジールだったのです。だから、追われた銅鐸文明の神々は信州へと逃げた、そう考えざるを得ません。
古代日本での文明の衝突を考えるとき、信州のもつこの神聖性はキーポイントとなります。壬申の乱や天武天皇の信濃遷都計画など、いずれもこの問題と密接に関連しているように思われます。こうした文明の衝突と興亡について、七月十日に開催される「古田史学の会・まつもと」の講演会にてお話ししたいと思っています。
(古田史学の会事務局長)
これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)・『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。
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