2005年8月8日

古田史学会報

69号

阿漕的仮説
 さまよえる倭姫
 水野孝夫

九州古墳文化の独自性
横穴式石室の始まり
 伊東義彰

『古事記』序文の壬申大乱
 古賀達也

遺跡めぐり -- 宮城県北
宮城県からも出ていた
遮光器土偶

 勝本信雄

イエスの美術
 阿部誠一

高田かつ子さんとのえにし
 飯田満麿
古田史学の会
第十一回会員総会の報告
「新東方史学会」
 発足の報告
 古田武彦
 「洛中洛外日記」
の連載を開始
 事務局便り

 

古田史学会報一覧

ホームページに戻る

九州古墳文化の展開(抄)(会報第77号)へ

「大王のひつぎ」に一言 へ


九州古墳文化の独自性

横穴式石室の始まり

生駒市 伊東義彰

 古墳文化は畿内で始まり、大和政権の勢力拡大にともなって日本列島各地に伝播していった、とするのが現在の常識であり定説となっています。前方後円墳、方形周溝墓、方墳、竪穴式石室、割竹形木棺、舟形石棺、長持形石棺、家形石棺など古墳文化の要素とされるものにつては、九州の古墳文化も畿内古墳文化の影響を受けたものとされています。
 ところが、先に挙げた古墳文化の要素をよく見てみると何故か、埴輪と横穴式石室が見あたりません。
 埴輪については、そのもとになった円筒埴輪の起源が現在では、吉備地方で生まれた特殊器台形土器にあるのではない
かとされており、畿内の、特に奈良盆地の弥生文化とのつながりを見つけることができないのです。同じことは前方後円墳についても言えることで、奈良盆地の弥生時代には長年の発掘調査にもかかわらず、古墳の起源とも言うべき大型の弥生墳丘墓が発見されておらず、奈良盆地の弥生文化と前方後円墳とのつながりがやはり見つかっていません。
 横穴式石室はその構造上、いったん閉じた入り口を再び開いて追葬することができる埋葬施設で、この点が追葬不可能な竪穴式石室と根本的に異なるところです。竪穴式石室では同一墳丘に追葬する場合、また別に竪穴式石室をつくらなければなりませんが、横穴式石室ではその必要はなく、同一石室に追葬できるわけです。
 畿内で生まれ、九州に伝播したとされる古墳文化の要素の中に何故、横穴式石室が含まれていないかというと、横穴式石室は先ず最初に北部九州でつくられ始めたからなのです。こればかりは大和政権一元説に固執する考古学の専門家と雖もまげることができない事実なのです。
 最初に現れた追葬可能な横穴式石室の一種を「横口式竪穴系石室」と言い、四世紀末〜五世紀に入るころに北部九州に出現します。竪穴式石室の一方の小口を開口し、墓道をこれに連結して埋葬終了後に小口部を石で閉塞し、墓道も埋めてしまう形式のものです。福岡市今宿の鋤崎古墳、老司古墳、前原市の釜塚古墳など北部九州海岸地方を中心に福岡・佐賀・大分県に分布しており、朝鮮半島南岸部に営まれていた横穴式石室を従来からの竪穴式石室に巧みに取り入れ、追葬可能にしたものとされています。
 北部九州で「横口式竪穴系石室」と呼ばれる横穴式石室がつくられ始めたのは四世紀末〜五世紀初めごろとされており、畿内で横穴式石室がつくられ始めたのが五世紀後半〜六世紀初めごろとされていますから、そこに約百年近い時間差があるわけで、この間、畿内を初め北部九州を除く各地では竪穴式石室がつくられ続けていたのです。
 この事実を通説では次のように説明しています。
 「大和政権の朝鮮半島進出に従って軍事行動の一翼を担った北部九州の豪族たちが、朝鮮半島南岸地方に分布する追葬可能な石室を独自に取り入れ、普及・発展させた地方文化の一つに過ぎず、もちろん畿内古墳文化に何の影響も与えるものではなかった」としています。
 「横口式竪穴系石室」は、大和政権に組み込まれた九州の豪族たちが大和政権の朝鮮半島進出に際して渡海・活躍した過程の中で取り入れたものとされており、この形式の石室が畿内で一つでも見つかっていれば、畿内から九州に影響・流伝したものと考えることもできるでしょうが、不思議なことに畿内はおろか近畿地方からも現在のところ一つも見つかっていません。
 大和政権が朝鮮半島に進出したのであれば、前方後円墳に葬られるような身分の将軍や指揮官・貴族たちも近畿の豪族を率いて海を渡って活躍していたでしょうから、畿内出身者も九州の豪族たちと同じように朝鮮半島南岸地方に営まれていた追葬可能な横穴式石室に接していたはずです。九州の豪族たちと同じように大和政権の将軍や貴族・豪族たちも取り入れたとしても何の不思議もありません。むしろ、近畿の数ある前方後円墳の中の一つや二つに横口式竪穴系石室がある方が大和政権の朝鮮半島進出を裏付けることになるのではないでしょうか。
 この形式の横穴式石室が日本列島勢力の朝鮮半島進出に関連して流伝してきたものと見るならば、それが畿内や近畿地方に全く見つかっていないということは、このころの大和政権は朝鮮半島進出に関与していなかったからではないか、少なくともその主役ではなかったのではないかと考えられるのです。
 横口式竪穴系石室の出現は、朝鮮半島における日本列島勢力のさまざまな活動の主役が九州の勢力であったことを雄弁に物語る古代からのメッセージではないでしょうか。
 前出の福岡市今宿の鋤崎古墳(前方後円墳)の石室内部には組合せ式箱形石棺と箱形埴棺・箱式木棺がコの字形に収められており、同じく老司古墳(前方後円墳)では後円部に三基、前方部に一基の大小の差がある石室を設けており、そのうち前方部に向かって開口する最大の三号石室は遺物の配置から見て少なくとも二体の埋葬があったとされています。
 五世紀前半ごろになると、これらの石室に横口式家形石棺を収めたもの(福岡県八女古墳群の石人山古墳など)や、横穴式石室の初源的な構造を持つとされる、割石を穹窿状(アーチ状)に積み上げた横口式の丸隈山古墳(福岡市西区周船寺、前方後円墳)なども出現します。なお、銀象嵌の鉄剣が出土したことで有名な熊本県菊水町の江田船山古墳(前方後円墳、五世紀後半)からも横口式家形石棺が出土していますが、これは石室に収められたものではなく、墳丘に直葬されたものです。

 

参考文献

『装飾古墳』森貞次郎著、教育社・教育歴史新書、一九八五年七月。
『装飾古墳の世界』図録、国立歴史民俗博物館編集、朝日新聞社発行、一九九四年六月。
『石棺から古墳時代を考える』間壁忠彦著、同朋舎出版、一九九四年一月。
『前方後円墳と吉備・大和』近藤義郎著、吉備人出版、二〇〇一年一二月。
『飛鳥の奥津城、キトラ・カラト・マルコ・高松塚』飛鳥資料館図録第四三冊、独立行政法人文化財研究所。
『図説 日本の史跡 第三巻』文化庁文化財保護部監修、同朋舎出版、一九九一年五月。

 

最近の発掘調査ニュース

 朝日新聞 五月十八日朝刊
 九州最大の古墳群で、特別史跡の「西都原古墳群」(宮崎県西都原市)から、国内最古級と見られる前方後円墳が確認された。宮崎大学などの発掘調査でわかった。出土した土器から、築造は三世紀中ごろと考えられ、南九州では最古。大和政権があった畿内でもこのころ古墳が造られ始めており、本土の南端でも同じ動きがあったことになる。これまで、大和政権が主導したとされる古墳文化成立に、再考を迫ることになりそうだ。
 確認されたのは西都原八十一号墳。長さ五二メートルで、卵形後円部と短いバチ状の前方部を持つ「纏向型前方後円墳」と呼ばれるタイプだ。本格的な巨大古墳に先立つもので、三世紀中ごろまでに造られたとされる纏向石塚などと同じ形。後円部からは、弥生時代と古墳時代の過度期に当たる土器が出土した。このため四世紀とされてきた西都原古墳群の築造開始も、半世紀さかのぼることになる。纏向形は全国で三〇例を越えるともいわれるが、南九州での発掘は初めて。宮崎大では夏にも発掘を再開する予定。

 成立問題に衝撃
 徳島文理大石野博信教授(考古学)の話 南九州の古墳がここまで古くなるとすれば予想外のことで、古墳成立問題を考える上でも衝撃的だ。前方後円墳は大和から拡散する考えがある一方、全国で多元的に発生し、その後統合されていくとする考え方があり、その可能性を示すひとつの鍵となる成果だろう。


 これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)、『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。

 新古代学の扉 インターネット事務局 E-mailはここから

古田史学会報一覧

ホームページ


Created & Maintaince by" Yukio Yokota"