2010年6月5日

古田史学会報

98号

1,禅譲・放伐
 木村賢司

2,九州王朝
の難波天王寺
 古賀達也

3,越智国に
紫宸(震)殿が存在した
 今井 久

4,「天 の 原」はあった
古歌謡に見る九州王朝
 西脇幸雄

5,「三笠山」新考
和歌に見える
九州王朝の残映
 古賀達也

6,能楽に残された
九州王朝の舞楽
 正木裕

7,穴埋めヨタ話3
一寸法師とヤマト朝廷

 西村

 

古田史学会報一覧

『よみがえる九州王朝』 第四章 幻の筑紫舞 古田武彦 へ

九州年号「端政」と多利思北孤の事績 正木裕(会報97号)
九州王朝から近畿天皇家へ -- 「公地公民」と「昔在むかしの天皇」 正木裕(会報99号)


能楽に残された九州王朝の舞楽

川西市 正木 裕

1、能楽の起源

 能楽は、古来の神楽や舞楽、田楽、伎楽、中国から渡ってきた散楽、猿楽等を十四世紀に観阿弥・世阿弥が大成したものであることは確かだが、その起源については「年代をどこまで遡ってよいか、今日の研究では明確に言へない」とされる(注1)。
 前号では世阿弥の『風姿花伝』他から、能楽の祖とされる聖徳太子は、九州王朝の天子「多利思北孤」をモデルにしたと考えられ、九州王朝の芸能の一つに能楽の源流となる舞楽があった事を述べた。
本稿では、現存する能楽に残された九州王朝の舞楽について述べる。
 なお能楽と九州王朝については、新庄智恵子氏の先進的な研究(注2)があるが、本稿はこれを大いに参考とさせていただいた。
 能楽の中には、本来「筑紫」が舞台であるにもかかわらず、場所・時代、登場人物等が変えられている能が多く存在する。その例をあげ、併せて「原典は筑紫の舞楽」と考えられる根拠を述べる

 

2、筑紫朝倉が舞台だったと考えられる能楽

 先ず筑紫の舞楽を原典とする能が、舞台を畿内に作りかえられた最も分かりやすい事例として「綾鼓」と「恋重荷」を紹介する。

I 能楽「綾鼓」

 「綾鼓」は現在宝生流・金剛流(喜多流の同名曲は新作)に伝わる能楽で、筑前の国、木の丸御殿が舞台。その概要は次の通りだ。
■【綾鼓】筑前の国『木の丸殿の皇居』の庭掃きの老人が、女御に一目で恋した。これを知った廷臣は、池辺の桂に綾絹の布を張った鼓を掛け、庭掃きに「『彼の鼓の声皇居に聞こえば』今一度姿をみせよう」と云う女御の言葉を伝える。
 老人は、一心に鼓を打つが、革の替りに綾を張った鼓は鳴らず、なぶられたと知った老人は、嘆き悲しんだ末、女御を恨んで池に身を投げて死ぬ。
 女御は老人の執心を慰めに池辺に出るが「波の音が鼓に似ている」と語り物狂いとなる。
 そこへ池中から老人の怨霊が現われ、女御に「鳴らぬ鼓を打ってみよ」と激しく責めた上、怨みの言葉を残し再び池中に消える。(『 』は原文)

II 能楽「恋重荷」

 他方、観世流・金春流では「恋重荷」という時代・場所は変わるが趣を同じくする曲がある。
■【恋重荷】白川天皇の時代、京都堀河白河院の御所の菊守が、女御を密かに恋していた。これを知った院の臣下が、綾羅錦繍で包んだ重荷を作り、「これを持って庭を千度も回ることが出来れば女御の姿を拝ませる」と菊守に約束した。
 菊守は喜んで重荷を持とうとしたが持てず、疲労困憊し、怨みつつ死んだ。
 女御は菊守の霊を慰めようと庭に出て言葉をかけるが、何故か立とうとしても動けない。
 そこへ菊守の怨霊が現れ、女御に恨みを述べ激しく責めるが、やがて心も和らぎ、「怨みを捨てて千代のお守りとなるべし」と誓って姿を消す。

III 両曲の関係

 両曲の時代と場所、主役は次の様に異なるが、曲趣はほぼ同一といえる。
(1). 「綾鼓」の舞台は筑紫朝倉の「木の丸殿の皇居」で主役は皇居の庭掃きの老人。斉明・天智時代で七世紀。
(2). 「恋重荷」の舞台は「京都堀河白河院の御所」で主役は御所の菊守。白河上皇時代で十一世紀末から十二世当初。
 両曲の関係につき、世阿弥は能作書『三道』で「恋の重荷、昔綾の大鼓なり」と記す。また世阿弥は綾鼓の作者を記さず単に古曲とするから、その成立は世阿弥の時代を相当に遡る事が知られる。
 即ち本来「七世紀の筑紫朝倉宮」を舞台とした能「綾鼓」(或は綾太鼓)が「京都の十一・十二世紀」が舞台の「恋重荷」に改作されたのだ。

IV.「朝倉の皇居」の矛盾

 ただ「綾鼓」の舞台となる朝倉宮「木の丸御殿皇居」の様相は、『書紀』斉明紀に記す「朝倉宮」や現地伝承上の「木の丸御殿」と大きく矛盾する。
 斉明は七年(六六一)五月に朝倉橘広庭宮(注3)に遷るが、『書紀』では「是の時に、朝倉社の木を[昔斤]り除ひて、此の宮を作る」とあり、同年八月には斉明の崩御に伴い、天智は「還りて磐瀬宮に至る」とあるから、わずか二~三月程の暫定的な「行宮」として描かれている。天智はその後更に長津宮に遷り、朝倉宮に帰った形跡は無い。また「木の丸殿」は天智が斉明の喪の為に朝倉宮付近に仮に設けた「忌み殿」と伝えられ、現在恵蘇八幡宮となっている。
 曲中に『木の丸殿の皇居』『彼の鼓の声皇居に聞こえば』と「皇居」とあり、そこには女御・臣下・下僕が常駐する。仮設の「忌み殿」である木の丸殿では不適切だし、行宮の朝倉宮で半島派兵前におこったエピソードとしても不自然で、『書紀』の記述等と合わない。全くの虚構で零からの創作なら、わざわざ書紀や現地伝承と矛盾する木の丸殿を選ぶのではなく、もっと自然な、例えば飛鳥の諸宮等を舞台としたのではないか。従って、朝倉宮に関する何らかの伝承や原典があったと考えるのが自然だろう。

V 九州王朝の筑紫朝倉宮

 ここで朝倉宮・木の丸殿(恵蘇八幡宮)の地理条件を考えて見よう。東には杷木神護石、西は高良山等の神護石、基肄城等の山城、南は筑後川があり、北の博多湾からの侵入に対しては大野城や水城他で堅く守られている。この様に朝倉宮は対唐・新羅戦を想定した場合絶好の位置にある。
 更に、古賀達也氏は、『書紀』で斉明が宮の石材運搬のために作ったと記す「狂心の渠」は、本来九州王朝の天子(「天の長者」か)が作ったもので、恵蘇八幡宮の筑後川を挟んですぐ南にあった「天の一朝堀」(ひとあさぼり・浮羽郡大字山北字宇土)を指すと考えられている。(「天の長者伝説と狂心の渠」古田史学会報四〇号二〇〇〇年十月)
 このように、朝倉宮は戦略上も十分に配慮して計画され、また相当の大工事を経て建設されたと考えられ、天智が「仮に」造ったとする『書紀』の記述に全く反する。
 これら「狂心の渠」「神護石」「水城」などを建造し、唐・新羅と戦った倭国を九州王朝と考えるなら、朝倉宮は近畿天皇家の宮ではなく九州王朝の宮といえる。木の丸殿の北の麻底良山には、古田武彦氏が九州王朝の天子「筑紫君薩野馬」とされる「明日香皇子」が祀られるのもその根拠となろう(注4)。
 また、狂心の渠築造は斉明元年(六五五)是歳条に記され、斉明の崩御は七年(六六一)だから朝倉宮は相当期間存続したと考えられる。(注5)
 以上、『書紀』の記述の様な斉明・天智の行宮「朝倉宮」や、忌み殿の「木の丸殿」が舞台では不自然な能「綾鼓」は、「九州王朝の朝倉宮」を舞台とした舞曲が原典と考えれば極めて自然な筋立てとなる。そして、「恋重荷」との比較から「筑紫・九州王朝に関する能」が「畿内・近畿天皇家に関する能」へ改作された実例を知ることが出来るのではないか。

3、博多湾岸が舞台だったと考えられる能楽

 次に、舞台を博多湾岸から摂津難波に移された事例を紹介する。

I 能楽「芦刈」

 「芦刈」は摂津難波を舞台とするが、新庄氏も元は九州王朝の能と記している。概要は次の通り。
■【芦刈】津の国草香(くさか)の里の住人、左衛門は貧乏の末、心ならずも夫婦別れした。その後妻は京に上り貴人の若君の乳母となり、生活の安定を得る。そして従者を伴い難波の浦へ下り(原文○ア)、別れた夫の行方を尋ねる。
 一方夫は落ちぶれ『難波浜の市に出て』芦を刈り売り暮らしを立てている。或日通りがかりの一行に芦を売りつつ、昔仁徳天皇の皇居があった御津の浜の由来を語り、笠尽しの舞(原文○イ)を舞う。
 芦を渡す段になって初めて昔の妻と知る。左衛門は今の身の上を恥じて隠れるが、妻の呼びかけに和歌を詠み交わし、心も打解け、再び目出度く結ばれ、祝儀の舞を舞い、夫婦揃って都へ帰ってゆく。

II 能の成立と「草香」の矛盾

 この能は世阿弥作といわれるが「古い能をもとにして世阿弥が今の形に作ったと考えるべきか」とされ、原典は古曲と考えられている(注6)
 この曲中には、幾つかの矛盾点が見られる。その第一は「草香」の所在だ。
妻の一行は京都から『○ア津の国難波の内、草香の里へと急ぎ候(略)難波浦に着きにけり。御急ぎ候程に、これははや草香の里に御着きに候』とあるが、以下の通り上代の大阪では「草香の里」は難波ではなく河内であり、かつ海は見えない。
■「現在のどこか明らかでない、大阪府で似た名の土地は、枚方市に編入されている孔舎衙(くさか)の日下であるが、津の国とはかなり隔った河内の国の外れであり、まして難波ではない。」(注7)「河内国中河内郡にあり」(注8)とあるように「いずれにしても、難波の浦や淀川からはかなり隔たった所で難波の浦の景色は望めそうにない」(注9)のだ。

III 博多湾岸の「草香」

 一方、筑紫博多湾岸には、現在も「草香」が存在する(福岡市中央区草香江)。これは『続筑前国風土記』や『万葉集』にも記される通り、上代から存在した地名であり、且つ、この草香は正真正銘海に面した景勝の地だったのだ。
■【続筑前国風土記】○草香江
 八雲御抄藻藍草(注10)に、筑前に在とす。俗説に鳥飼村の東の入江也といふ。一説に、荒戸山の下、東南の潮入りし所といふ。昔は此山の南入海成しとかや。
 大伴旅人は筑紫からの帰任に際し、草香江の鶴が友をなくしてさぞ心細いだろうと、次の歌を詠んでいる。また、歌碑も福岡市中央区六本松(草香江に隣接)にある。
■【万葉歌】
 (万葉五七四番)ここにありて筑紫やいづち白雲のたなびく山の方にしあるらし

(同五七五番)草香江の入り江にあさる葦鶴の あなたづたづし友なしにして
(*たづたづしは頼り無い・おぼつかない・心細い)

IV「笠尽し」と筑紫博多湾岸

 また、曲中左衛門は難波浦の景色を読み込んだ「笠尽しの舞」を舞う。能では「笠の段」という聞かせ処・見せ処だが、その中に出る地名も、摂津難波ではなく博多湾岸に相応しいのだ。
■【笠の段(抜粋)】『雨に着る。田蓑島もあるなれば。露も真菅の笠はなどやなからん。難波津の春なれや。名に負う梅の花笠。縫うちょう鳥の翼には、鵲も有明の。月の笠に袖さすは。天津乙女の衣笠。それは乙女。これはまた。難波女の。かずく袖笠肘笠の。(略)』

V 難波では怪しい「田蓑島」

 「田蓑島」は通説では西淀川区佃・西成区津守付近にあったとされる。田蓑神社や謡曲「芦刈」の碑も同所に存在する。しかし、その由緒に神功皇后が三韓から戻る途中、当地にて住吉三神(表筒男命、中筒男命、底筒男命)を祀ったとあるが、これらは筑紫の神々で、博多湾岸にこそ当てはまる話だ。

VI 筑紫「田島」「蓑島」

 一方、その博多湾岸には、草香江に隣接して「田島」「蓑島」がある。
(1).蓑島(現在の地名は「福岡市博多区美野島」)
■【続筑前国風土記】住吉の南にある村の名なり。今は住吉の枝村なり。(略)筑紫集第五巻に、那珂郡伊知郷蓑島とあり。且御笠の山し近ければとよめれば、

此国にあるを是とすべし。うたがひなし。■【檜垣嫗集】(「檜垣嫗」は十世紀筑紫白川に住んだとされる女性歌人)
ふらばふれ御笠の山に近ければ みの島まではさして行てん
(2). 田島(福岡市城南区田島)
 『福岡県地名辞典』には「筑前国早良郡のうち。福岡藩領。鳥飼触に属す。」とあり、「筑紫舞」で有名な「田島八幡(福岡県福岡市中央区草香江、福岡市城南区田島四丁目)」も同所にある。

(3). 筑紫と「笠」 
 そして何より「笠の段」の笠尽くしは、その原典が「筑紫」の舞楽であることを示している。
 ご承知の通り筑紫博多湾岸には「笠」地名が集中している。『古事記・書紀』でも「笠沙」「御笠」が記され、御笠川・御笠山などの地名も現存する。「笠づくし」はこうした博多湾の優れた景観を讃える歌舞として誠に相応しい。また、「梅」は太宰府天満宮、「鵲」は有明海沿岸にしか棲息しないというように、いずれも筑紫と関連する句だ。
 結論として、謡曲「芦刈」は舞台を摂津難波となっているが、原典は九州王朝の中枢博多湾岸の物語であり、その景観を讃える「笠の段」等を原典に近いまま残して改作された作品と考える。

VII 仁徳天皇の高津宮はどこか

 なお、孝徳天皇の造営とされる前期難波宮、持統、聖武も、難波に宮殿が持たれていたのに、仁徳天皇の高津宮のみ取上げられているのは何故か。
 古田武彦氏は「『盗まれた神話』 記

・紀の秘密」(ミネルヴァ書房)他で、『仁徳記』の仁徳天皇の歌「おしてるや 難波の崎よ 出で立ちて わが国見れば 淡島 淤能碁呂(おのごろ)島 檳榔(あじまさ)の島もみゆ さけつ島見ゆ」につき 1).檳榔は熱帯の樹木 2).淤能碁呂島は「能古島」に相応しい等から摂津難波ではなく博多湾岸の難波の歌とされる。
 博多湾岸には「高宮」「大宮」といった地名や神社(福岡県福岡市中央区大宮・南区高宮・高宮八幡)が存在する。あるいは「仁徳天皇の高津宮」は九州王朝の博多湾岸の宮の盗用なのではなかろうか。

4、筑紫住吉が舞台だったと考えられる能楽

I 能楽「白楽天」が示す「住吉は筑紫」

 先に「田蓑神社」と住吉三神に触れたが、「白楽天」では「住吉は筑紫」である事が示されている。
■【白楽天】唐太子の賓客白楽天が日本の知恵を測るため筑紫松浦潟に着き、『松浦船』の漁師の翁と歌の問答を交わすが、翁の知識と風雅に感嘆しているうち、住吉の神が出現し、倭国の諸神とともに舞楽を奏しつつ、白楽天を唐土に吹き返す。 この舞台は、曲中の『日本の地にも着きにけり。しらぬひの、筑紫の海の朝ぼらけ』『松浦潟、西に山なき有明の。』『松浦船』等の句の通り、明確に「筑紫」と考えられる。そこに現れるのが住吉の神だ。(『西の海、檍(アハギ)が原の波間より。現はれ出でし、住吉の神、住吉の神』)
 そして住吉の神が博多湾岸を原点とすることは古田武彦氏が『盗まれた神話』他で明らかにされている。氏は言う(『盗まれた神話』より引用)、
 「『福岡県神社誌』(昭和十九年刊)によると、住吉神社(福岡市住吉町)の項に「当神社は伊弉諾命の予母都国より帰りまして、禊祓給ひし筑紫の日向の橘の小戸の檍原の古蹟」とあり、さらに同名(住吉神社)の郷社(筆者注・姪浜住吉神社)が「福岡市姪浜町字宮の前」にある。伝説は必ずしも虚構ではなかったようである。」
 この曲は明確に筑紫の物語なのだ。そして住吉に関し、もう一つの能を挙げる。

II 謡曲「岩船」と「住吉」、そして「如意宝珠」

 能楽「岩船」は「住吉の浜」を舞台とする。
■【岩船】時の帝が摂州津守の浦住吉の浜に新たに市を立て、高麗・唐土と貿易を始めて宝を買取ろうと宣旨を下す。臣下が住吉の浜に赴くと、日本語を喋り、如意宝珠を載せた銀盤を持つ一人の唐人姿の童子が現れ、「宝珠を帝に捧げ、御代を寿ぐために来た。間も無く岩船が漕ぎ寄せて来るがこれは喜見城(極楽)の宝物を捧げる為であり、自分の正体は岩船を漕ぐ天の採女である」と語り消え失せる。
 やがて海中より龍神が岩船を守護する為出現し、八大竜王を集め、力を合わせて船の綱をとり住吉の岸に引き寄せ、金銀珠玉を山と積み、幾久しい御代の繁栄を約す。

 曲中で住吉の浜は「高麗百済、唐」との交易の拠点とされるが、『書紀』に「夫れ、筑紫国は、遐(とお)く邇(ちか)く朝で届る所、去来の関門所なり。是を以て、海表の国は、海水を候ひて来賓き、雨雲を望りて貢(みつ)き奉る(宣化元年五月条)」とある通り、これは筑紫博多湾にこそ相応しい。
 また「住吉の神」が「檍原の波間」から現れる。
 『さては名におふ如意宝珠を。わが君に捧げ奉るか。運ぶ宝や高麗百済。唐土舟も西の海。檍が原の波間より。現はれ出でし住吉の神。』
 この「檍原」は、あの「筑紫の日向の橘の小戸の檍原」だ。しかも「如意宝珠」は『隋書イ妥国伝』中、イ妥国にあるとされ、そのイ妥国には「阿蘇山有り」と記される。すなわち九州王朝の宝物なのだ。
■『隋書?国伝』如意宝珠有り。 其の 色青く、大なること鶏卵の如し。夜則ち光有り、魚の眼精也と云ふ。
 また、古賀達也氏によれば、宇佐宮の縁起書(『八幡宇佐宮繋三』)に、筑紫教到四年(五三四)に如意珠が天竺より齎されたと記す。(注11)
■「文武天皇元年壬辰大菩薩震旦より帰り、宇佐の地主北辰と彦山権現、當時〔筑紫の教到四年にして第廿八代安閑天皇元年なり、〕天竺摩訶陀國より、持来り給ふ如意珠を乞ひ、衆生を済度せんと計り給ふ、」
 九州年号資料は、基本的には九州王朝の事績を記すと考えられるから、ここからも「如意宝珠」は九州王朝の宝物と考えられる。
 これ等の事から、能楽「岩船」も、その原典は「筑紫博多湾岸の住吉」を舞台とする舞曲であり、後に摂州津守の浦住吉に改作されたと考えられる。
 なお姪浜住吉神社には、男衆が、直径約三〇センチ、重さ約五キロの木製の玉を奪い合い奉納する「玉競(たませせり)祭」が今に伝わっており、如意宝珠との関連で興味深い。

(注1)野上豊一郎『綜合新訂版能樂全書』第一巻、(東京創元社一九七九 )
(注2)新庄智恵子『謡曲のなかの九州王朝』(新泉社刊、二〇〇四年)
(注3)朝倉橘広庭宮の所在は、福岡県朝倉市山田又は宮野村須川とされるが、最近の調査では同市志波地区が有力視されている。なお古田武彦氏は『邪馬壹国の論理』九州王朝の古跡(朝日新聞社一九七五年)で朝倉の九州王朝の古跡について述べられている。
(注4)古田武彦「壬申大乱」(東洋書林二〇〇一年)他。
(注5)更に、薩野馬は天智十年(六七一)に唐より帰国するが、彼がその後も朝倉宮にいたなら、存続期間は一層長くなろう。
(注6)日本古典文学大系『謡曲集上』(岩波書店・昭和三五年)
(注7)木本誠二『謡曲ゆかりの古蹟大成』(中山書店一九八三年)
(注8)佐成謙太郎『謡曲大観』(明治書院一九八二年)
(注9)高橋 春雄「謡蹟めぐり・謡曲初心者のためのガイド」(HP)
(注10)『八雲御抄』鎌倉初期の歌学書。六巻。順徳天皇著。成立年未詳。古来の歌学・歌論を系統的に集大成したもの。藻藍草はその一部
(注11)『八幡宇佐宮繋三』は元和三年(一六一七)五月、神祇卜部兼従が編纂した宇佐宮の縁起書(古賀達也氏による)『神道大系』 神社編 四七(道大系編纂会一九八九年)
また同氏は「宇佐八幡宮文書」の九州年号(古田史学会報五九号 二〇〇三年十二月)で、『八幡宇佐宮御託宣集』の記事も紹介されている。
「一にいわく、彦山権現、衆生に利する為、教到四年甲寅(五三四)〔第二九代、安閑天皇元年也〕に摩訶陀國より如意宝珠を持ちて日本国に渡り、當山般若石屋に納められる。今、玉屋と号す。〔第四十二、同四十三、持統文武大長大宝両天のころ也〕(以下略)」 ※〔 〕内は傍注。原漢文、古賀訳。


 これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)・『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。

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