神武東征と天孫降臨 解説として
中村幸雄論集 解説として
『市民の古代』第1集 へ
古田武彦
一
この世にあるとも思えなかったものが存在する。 ーーこのような驚きをわたしに与えているもの、その一つが『市民の古代』誌である。
もちろん、現代における雑誌の発行は数多い。店頭に満ちている。絶えず創刊され、絶えず消滅し去っているかのようである。いわゆる「三号雑誌」という言葉がある通りだ。それは、「優勝劣敗」、読者のきびしい選択の中で“淘汰”されているともいえよう。しかし、それだけとは限らない。すぐれた香り、ユニークな企画をもちながら、誕生後久しからずして姿を消した雑誌も、なしとはしないであろう。現代出版界の“きびしさ”を語るものだ。
だからわたしは、内心案じていた。“この雑誌がつづくのは大変だろうな。”と。“しかし、何号でもいい。それが美しくこの世に実在した、その証(しる)しさえあれば。” ーーそれが、この企画をお聞きしたときの、偽わらぬ心境だった。
杞憂は裏切られた。すでに第9集を刊行、この秋(本書刊行とほぼ同じ頃)には第10集が出るであろう。その上、従来の各号が品切れとなり、再刊されたものすらある。そして今回の、この合本。この五月、市民の古代研究会の十周年記念の大会の当日、この企画が書肆側から出されたと聞いて、わたしは耳を疑わざるをえなかった。深い喜びだった。
『市民の古代』誌をささえる。編集者側と読者たち、そして書肆、その総体がかもし出した、深い情熱の結晶体、その基盤がこの第一巻・第二巻、二冊の合本の誕生を支えているようであった。わたしは深い驚異をおぼえざるをえない。
二
けれども、従来の各冊を改めて読みかえしてみたとき、右の状況が偶然でないのを知った。第1集から、すでに重要な指摘が次々と行われている。後述するように、近年の各号には、わたし自身の脳裏を“啓蒙”して下さるような名篇・佳論が少くないのであるけれど、すでに最初から、これほど珠玉の言葉がちりばめられていようとは。うかつながら、改めて目を洗われる思いに打たれたのである。
以下、「九牛の一毛」のたとえに似るけれど、幾つか拾わせていただこう。
「今、私たちは視野を広げて東アジアに向けるならば中国、南北朝鮮は古代史の為に、国を挙げて凡ゆる発掘にたゆまぬ努力を続けている。だが日本はどうであるか、誤れる皇国史観が存続して天皇陵は申すに及ばず、陵墓参考地に対しても一指だにふれささないという現状は国際の信義上、誠にもとるものである。」
(創刊第1集、中谷義夫「会報発刊の所感」)
中谷氏は難波の豪商、歴史のしめす独立独歩の気概の現有者、文字通り、豪気の人だ。初代の会長として巻頭の辞を書かれた。右の短文中にも、本誌が単に趣味人の趣味誌の類いとは、面目を異にしていることがうかがえよう。れっきたる古代史学者や考古学者の中にも、右顧左眄、この日本古代史上の一大肝要事に対し、敢えて触れようとしない人々、決して少しとしないのが現状だ。だから、氏は先ず、事の本質、混迷のポイントをズバリ言い放たれたのである。
三
次は、学問の方法論について。
「自然科学の研究では、まず仮説を立てて、それを実験で確かめます。実験の結果仮説の通りにならなければ、仮説はきっぱりと捨てて次の仮説を立てます。そして実験と合う仮説が見つかるまで次から次へと研究します。発見というものは、何年に一つですから、一つの真実の発見のためには幾十の仮説を実験でぶちこわさねばなりません。
ところが、人文科学の方では、一つの仮説を立てると、まるでそれが真実であるかの如ぐ、そこから更に仮説を連ねて説を立てています。
邪馬台国論等に見られる論の立て方で、私はどれを見てもその甘さにやり切れないのです。」
(同右、釜洞剛「古田説の意義〜自然科学者から見て〜」)
氏は阪大の医学部で細菌化学を研究しておられた、自然科学の研究者だ。現在は大阪の近郊で近代的な病院を経営しておられる。氏は右のような視点から、わたしの研究に対して大きな評価を与えられた。もとより、それは過褒である。だが、氏の基準とされた、右の視点、それこそわたしの学問研究、その方法論の基本だ。だから、その“物差し” から見て、あるいは「古田の研究は、いい。」、あるいは「古田の研究は、まだまだ。」そう言って下さるならば、いずれも、わたしにとって本懐なのである。
さらに、未来のある日、右の方法論をわたし以上に厳密に実行する。そしてわたしの思いもかけなかったような、未知の認識の扉を開く。 ーーそのような研究者が誕生すれば、わたしは冥界にあって、狂喜乱舞することであろう。
世に、一種の嫉妬心に駆られたためか、“古田ファンは烏合の衆”めいた発言をされる論者がままあるけれど、氏の一文の前に恥じるところなければ幸いである。
四
次は、研究の進展。
「神武はなぜ五瀬命の墓地を竈山の地に選んだのであろうか。ここは紀ノ川の河口から約六キロメートルの地点に当り、海岸からは名草山の裏側に位置する。土地の伝承では、毛見の琴の浦に上陸したといわれているが、ここからでも竃山まで六キロメートル近い距離がある。」(第3集、義本満「紀ノ川の神武」)
神武の一行は、大阪湾突入戦で長髄彦の軍の迎撃によって敗退した後、そのさいの痛手がもとで、五瀬命は紀の川の河口(和歌山市)で没した。そして「紀の国の竈山(かまやま)」に葬られた、という。
右の竃山に対して、義本氏は疑問を抱かれた。現地に訪れてみると、河口から約六キロも離れている。その上、現地伝承を求めてみると、
毛見の琴の浦→黒江→冬野→吉原→竃山
となっていて、やはりその“足取り”が釈然としない。そこで文献を渉獵するうち、『和歌山の研究』(安藤精一編、清文堂刊)中に収載された古代の地形図(「紀伊湊と吹上浜」日下雅義)によって、疑問を解決されたのである。
それは「奈良・平安時代の地形図」であるけれど、すでに竃山近辺まで海(河口)が入り込んでいる。まして神武の時代(弥生期)は、一層入りこんでいたことであろう。すなわち、現代の地形で不自然と見えた伝承(及び記・紀記述)も、当時の地形に立てば、決して不自然ではない。そのことを、進んで氏は突きとめられたのである。
これは、わたしが神武東侵説話について行った論証、「日下の論証」「南方の論証」等、その方法論の適用だ。そこでは神武説話中の出現地名たる「日下」「南方」が、現地形からは矛盾。しかし弥生末〜古墳初の地形復元図に立てば、明晰、何の矛盾もないのである。これをわたしは指摘し、「神武説話、後代(六〜八世紀)造作」という津田説、すなわち戦後の「定説」派史学が成立不可能であることを論証したのである。
わたしはこれを『ここに古代王朝ありき』(朝日新聞社刊、昭和五四年)の第三部「説話の考古学」でしめした上、『邪馬一国の挑戦』(徳間書店刊、昭和五八年)『古代は輝いていた(第二巻)』(朝日新聞社刊、昭和六十年、今年五月、朝日文庫)と相次いで強調してきたけれど、「定説」派の学者(すなわち、ほとんどすべての古代史学者)からは、何の応答もない。ないことによって、彼等は「定説」の座を保持しえているのであろう。
しかし、義本さんはこの方法論を、わたしの気づかなかった局面にまで押しすすめられた。さすがに近畿に強い、関西人の目である。
この場合、対照地形図が奈良・平安期の復元図であるから、「造作」説批判の意義はもちえないけれど、記・紀の記述が、現地形図からは不都合であるけれど、古地形(奈良・平安期以前)からは、ヴィヴィッドであり、より合理的に理解できる。その事実を見事にしめされたのである。
氏の着眼は、それだけではなかった。現地伝承には、記・紀記述にない重要な局面がある。吉原に本営をもつ名草戸畔(トベ)と冬野で激戦した、という対名草族戦斗譚だ。ここから氏は、“神武たちの戦斗集団が、五瀬命の遺命を実行するため、先ず、紀ノ川遡行による大和盆地入りを目指したこと、それに失敗したあと、あの熊野迂回ルートの採用に踏み切ったこと。”この二点を推定しておられるのである。
従来は、“神武の軍団が大和盆地へ入りたいなら、紀ノ川遡行ルートが自然。それを、困難な熊野迂回ルートを記しているのは、記、紀の記載が後代の造作、架空である証拠。”といった論法が安易に行われてきた(たとえば、鳥越憲三郎氏)。
これは
(一)神武の武装集団は、「堂々たる、天皇統師下の正規軍」などではなく、「不法の侵入者にして、野盗のごとき武装集団」であったこと。
(二)紀州方面から大和盆地へ向うさい、紀ノ川遡行がもっとも自然であること、何の疑いもない。だからこそ、そこには、「侵入者に対する防禦軍とその武装ライン」の存在することもまた当然だ。それ故、いったん敗れた神武たちはこの第一ルートを採りえなかったのである。
こういった、真実(リアル)な視点からの考察を欠き、「津田造作説」という「学界の定説」の上に安坐したものなのではあるまいか。
その点、現地伝承は、ことの真相の一端を、はしなくも、二十世紀の今日まで“保存”し、“伝承”してきていたのである。氏は鋭くも、その一端を捕捉された。
この点、わたしも、読者からのお便りで一驚したことがある。その方が山林関係のお仕事で大和盆地の奥山(熊野側)に行き、土地の方のお宅に一泊した。ところが、深夜、酒杯を交わすうち、その家の御主人は永年の苦渋を吐露された。いわく「わたしの家の祖先は、神武天皇が大和に入られるとき、それに反対し、抵抗した者です。そのことは、この辺の者は皆知っています。ですから、戦時中は、本当に苦しかった。悩みました。戦後は大分ましになりましたが、やはり変りません。」切々と涙を飲むような述懐だった、という。
戦後教育のせいで、「神武架空」を何の疑いもなく信じてきていたその方は、けげんな思いだったが、何か、そのせっぱつまった口調が、重く記憶に残った、という。そのあと、ふとしたことで、わたしの本(『盗まれた神話』等)にふれ、「ああ、そうだったのか。」と膝を打ち、わたしのもとへの長文のお便りとなったのである。
わたし自身も、大和盆地の奥、吉野で、逆に、“神武天皇を先導した”旨が記・紀中に特記されている井氷鹿(ゐひか。吉野の首〈おびと〉等の祖)の子孫であることを、今も誇りにしておられる方(地元の有力者)にお会いして直接話をお聞きしたことがあるから、右のお手紙が「現地伝承」の真実を伝えていること、その本質を深く了解した。
津田左右吉の首唱した戦後史学は、「神武架空説」「神話造作説」の「定説」化によって、日本列島各地の“埋もれた珠玉”たる「現地伝承」の数々を空しく腐らせつつあるのではあるまいか。なぜなら、「現地伝承」が、人間と人間との間に行われるものである以上、その当の人間が、「神話」や「説話」の架空性という、誤ったイデオロギーに汚染され切ったとき、その「現地伝承」もまた、“断絶”するおそれ、否、必然性があるからである。戦後四十余年、この年月は「汚染と断絶の進行」にとって、長すぎる時間幅だったのであろうか、それとも、まだ短い時間幅なのであろうか。「今なら、間に合う」ことを祈りたい。
それは「神武の進行阻害譚」によって、生涯を苦しめられつづけた、歴代の人々に対する、真の応答となるものでなければならぬ。なぜなら、その人々こそ、大和なる悠久の伝統、旧石器・縄文以来の歴史をになう人々だったはずだからである。その人々の築いた「大和なる、光栄ある古代文明の伝統」を正しく把捉することなしに、新しき外来の侵入者たる神武たち、またその後継者たる近畿天皇家が、わが国の歴史にもたらした、真実(リアル)な光と影・それをありのままに認識することは不可能である。日本列島の悠遠な歴史 ーー古えからはるか未来に至るまでーー の中から、天皇家は生れ出で、一定の対応すべき、正当な時間帯と正当な位相をもっている。逆に、天皇家という「原点」から、天皇家を「中心」にして、日本列島のすべての歴史が生れ出たのではない。これは自明の真理だ。
しかし、毎年「大和詣で」や「飛鳥詣で」をする人々の群れの多くが、ただ“天皇家讃歌”のムードにのみ酔い痴れ、この根本の真理には、ながく目をふさいでいるのでなければ、幸いである。
次に、陸墓の問題。右は、神武の長兄たち五瀬命(ゴカセノミコト。本居宣長は「イツセ」と訓じたが、宮崎県の五瀬(ゴカセ)川に従って訓ずべきであろう)の陵墓に関するテーマだ。同じ陵墓に関するテーマで、従来の史学、ことに戦後史学において、等閑視されてきたのは、神武記直前の次の記載であろう。これについて、しばらく分析してみよう。
故(かれ)、日子穂穂手見の命は、高千穂の宮に伍佰捌拾歳(五八〇才)坐(ま)しき。御陵は、即ち其の高千穂の山の西に在り。(『古事記』。神代巻末尾)
右の日子穂穂手見の命とは、火遠理命(山佐知毘古)を指す、とされている。
(1) 火遠理命。亦の名は天津日高日子穂穂手見命。(『古事記』木花佐久夜毘売)
(2) 火遠理命は山佐知毘古と為(し)て、・・・(『古事記』火遠理命)
とある通りだ。
ところが、問題は「五八〇才」だ。「二倍年暦」(『古代は輝いていた』第一巻参照)によれば、二九〇才。これでも、到底、一人の寿命ではありえない。とすれば、これは「世襲」の「称号」ではあるまいか。従って、もし一人の在位年代を平均十年とすれば、二十九代、平均二十年とすれば、十四〜五代となろう。
さて次は、御陵の在り処(か)としての「其の高千穂の山の西」の意味が問題だ。「其の」が直前の「高千穂の宮」を指すことは疑いない。では、それはどこか。この前段をなす「天孫降臨」の項に
(天津日子番能邇邇芸命)竺紫の日向の高千穂の久士布流多気(クジフルタケ)に天降りましき。
とある、その「高千穂」だ。
だが、この比定地に、二つがある。
(1) 従来説では、宮崎県と鹿児島県の県境をなす山々(霧島峯・高千穂峯)と見る説。(本居宣長等)
(2) 福岡県の高祖山連峯(「クシフルダケ」あり。博多湾岸と糸島郡との間)。わたしの説だ(『盗まれた神話』参照。原田大六氏も)。
右のいずれが是か。その回答を、わたしは今年四月下旬、博多でのシンポジウム(邪馬台国研究会主催、安本美典氏との討論)からの帰途、はからずも“発見”した。それは次のようだ。
(その一)天照大神が、いわゆる「三種の神器」にまつわる場面に登場していること、周知のごとくだ。
是(ここ)において、其の遠岐斯(をきし)八尺勾玉*(やさかのまがたま)、鏡及び草那芸劔(くさなぎのつるぎ)、・・・を副(そ)へ賜ひて、・・・(『古事記』天孫降臨)
これは、例の「竺紫・・・久士布流多気」へと孫のニニギを「天降り」さい、天照が、持たしめた宝物である。いわゆる「三種の神器」だ。この他にも、
(a) 八尺の勾璃の五百津の御須麻流の玉・八尺鏡・白丹寸手(にきて)・青丹寸手(天の石屋戸)
(b) 十拳(とつか)劔・八尺の勾玉*の五百津の美須麻流の珠(天の安の河の誓約)
といった表現が頻出している。
玉*は、JIS第四水準、ユニコード番号7481
すなわち、右の類の宝器が交々出現しているのが見られよう。従ってこの系列の王者たちにとってのメルク・マールをなすシンボル物、それが右の類のものであったことが知られよう。
(その二)とすれば、右の“天照大神系の代々の王者の陵墓”からは、これらの宝器が出土せねばならぬ。
では、右の両説のしめすところ、
(A) 宮崎県と鹿児島県との県境の西、すなわち鹿児島県東半部。(従来説)
(B) 福岡県の高祖山連峯の西、すなわち糸島郡。(わたしの説)
右の中のいずれから、右の「ニ種の神器」類の宝器をもつ「弥生王墓」群の存在が見出されているのであろうか。
この点、(A) の場合は、絶望的だ。なぜなら、この地帯には、右の類の弥生墓の存在や分布は、絶えて報告されていないからである。もし、「五八○才(二九〇才)」を虚数と見なし、これを「火遠理命(山幸彦)」一人の墓とみなしたところで、無理は同じだ。なぜなら、同類性格の弥生墓群中にこそ、右のような出土物(三種の神器)をもつ王墓が出現すべきだからである。この点、鹿児島県東半部は、弥生墓の性格を異にしている=わゆる隼人塚の源流もしくはその系譜の世界なのである。
これに対し、右の(B) の場合ズバリ適格だ。有名な、三雲・井原・平原の各遺跡とも、右の類の「三種の神器」類の考古遺物を豊富に内蔵する弥生王墓として抜群の墓域に属している。
しかも、考古学上の出土遺物の場合、もし一個出土した場合、その同時代同類遺物は、五倍及至十倍“実在した” ーーそのように考えるべきだといわれる。年来、森浩一氏なども、力説されるごとくだ。
とすれば、右の三王墓の出現は、実は、十五及至三十個の同類王墓が、この糸島郡内の地下に眠っていることを暗示しよう。事実、江戸期(三雲・井原)・現代(平原)における、右の三王墓の「発見」が、計画発掘などではなく、全く偶然の出土によっていることからすれば、右の推定はいよいよ蓋然性が高いといいうるであろう。
以上の考古学的出土分布状況から見ると、古事記の右の文面の“予示”したところを、江戸〜現代の出土事実が完全に裏付けていることとなろう。そしてそのような出土分布領域が、他に容易に見出しがたいこと、人の知るごとくである。
(その三)以上の分析は、次の事実を意味しよう。
第一、わたしが、右の古事記の文面に対してほどこした分析が妥当であったこと。
第二、その分析の対象となった、古事記の原文面が、「後代(六〜八世紀)の造作」に非ず、「弥生の真実」を伝承し、記録していたものであること。
第三、本居宣長が強調し、明治以降の多くの学者・教科書類が「定説」視してきた、「宮崎県・鹿児島県の県境」を「天孫降臨」地とする立場は、あやまっていたこと。
第四、ことに重要なこと、それは「天孫降臨」や記・紀神代巻の所述を「架空」とし、「造作」としてきた戦後史学の論者たちは、右のような問題の所在の前に、敢えて目をつむりつづけてきたこと、この一点である。
以上だ。
これに反し、義本氏は「五瀬命の陵墓」問題に対し、率直に探究の手を向けられたのである。
氏は、関西において美術印刷会社の経営の労を終え、後継者に事業をゆずったのち、悠々自適の生活にある方とのことであるが、氏について、わたしには忘れられぬ思い出がある。それは次の一件だ。
『市民の古代』誌に掲載された論文中、わたしの立説に対して果敢に批判を試みたものが少くない。当誌の面目であろう。これに対し、わたしが再批判の論文を書きたい旨、お伝えしたところ、当時、編集にかかわりをもっておられた(と思われる)氏は、次のようにのべられた。
「古田はんが書かはるのは、もちろん結構です。雑誌側としては、いつもは“書いていただきたい”というお願いを、したいのを、お忙しいのやから、と遠慮してるんやから、そら、大歓迎ですわ。
ですが、わたし個人の考えを言え、といわれたら、ほんまは、どうかな、思いますのや。なぜか言うたら、せっかく書いたものに、古田はんから、すぐ“バン”とやられたら、もうそら、たまりませんやろ。蓄積したものが、まあ、ちがいますからなあ。
ですから、まあ、古田はん、見ときはったら、どないですやろ。そしてみんなで、お互いにやらせとくのですなあ。そしてまあ、よくよく、これは、というものがあったら、よろしい、と思いますわ。
もちろん、これは、わたしだけの考えですさかい、古田はんが、どないしやはっても、かまいまへんでえ。」
ごもっともな御意見であった。さすが永年の年の功の輝きがうかがえた。わたしは従った。
(これに対し、敢えて筆を執った一例に、『古代は沈黙せず』中の「古典研究の根本問題ーー千歳竜彦氏に寄せてーー」がある。これは『市民の古代』第8集所載の、氏の論稿に対するものだ。氏は、新進気鋭の考古学徒である。)
五
次は、独創の論稿。
「然らばなぜ大和の豪族が突然天智の時代になり、天命を称する王朝に変化したのであろうか。その原因は古田氏の提唱されている通り、白村江の大敗を契機とする日本列島上における九州王朝の地盤低下であったのである。そして九州王朝の頽勢挽回は遂にならず、遂に文武の時代になり、先行したニニギ尊を皇祖とする九州王朝は後発の天智を皇祖とする大和朝廷に併合吸収されてしまった(注略)。」
(同誌第7集、中村幸雄氏「誤読されていた日本書紀ーー天皇の神格性の意味、及びその発生消滅に関する考察」)
右は、本誌の各号に力作を発表しつづけておられる中村氏の論稿の一節だ。わたしの九州王朝論を背景にしながら、氏独自の、「天智、皇祖論」が鮮明に語られているのが見られよう。氏は、
(1) 天智が「天命開別(アマミコトヒラカスワケ)」と呼ばれ、
(2) 天智七年七月の項に「時人日(いわ)く、『天命、将(まさ)に及ばんとするか。』と。」とあること、
右の二点を踏まえた上で、その「天命」を、一方では神代巻中の「天壌無窮の神勅(天照大神からニニギに与えた言葉)」に当て、他方では中国の「新王朝の成立」(革命を伴わないケース)と対応させる。 ーーここに、氏の「天智にはじまる大和朝廷論」という独自の視点が生れた。
さらに氏は分析の刃を万葉集に向けられる。
「記紀共に、奈良時代成立であり、成立時の『ヤマト』の表記、即ち『倭』『日本』を以って神武迄遡って表記した。上代歌謡の万葉仮名表記は発音を示しただけである。」(同誌第8集、「万葉集『ヤマト』考」)
「新に天命を受け王朝を興した天智は、その王朝の国名に、古来より中国各王朝の国名『倭・日本』を盗用し(古田『失われた九州王朝』の承述、注略)、『倭・日本』を称し、恰も、自らの王朝が正統であるかの如く装った。」(同右)
氏は、万葉集の中の「ヤマト」の分析から、右の帰結がえられることをしめされたのである。
これらの氏の先行研究が、いかに後継したわたしの研究を導いたか、わたしの「日本国の創建」(『よみがえる卑弥呼』)「『法華義疏』の史料批判」(『古代は沈黙せず』)等の諸論文をご覧いただければ、明らかであろう。
ことに後者の論文の最後で、「此是大委上宮王私集非海彼本」の「上宮王」が“聖徳太子(推古朝)”に非ず、“多利思北孤(九州王朝)”に当ることを論証したが、すでにその帰結が、平野雅曠氏(「市民の古代」会員、熊本県)及び中村氏によって、予見し、予示されていたことに驚嘆せざるをえない。まさに氏等は、わたしを先導されたのである。
次に、秀抜した論争。
「懐風藻序文に『淡海先帝之受命也』と記されているが、同時に懐風藻の大友皇子伝に、拝太政大臣、立為皇太子、の後に『会壬申之乱、天命不遂』と記されている。天智天皇の『受命』が王朝の始祖を意味するものであれば、大友皇子の『天命不遂』を如何に解したらよいものであろうか。」(同誌第8集、山田武雄氏「天智天皇は新王朝の皇祖か」)
「日本書紀が誤読されているという主張に対し賛同するに吝ではないが、天智天皇を新王朝の皇祖と認める根拠は、何一つないといわなければならない。」(同右)
氏の論稿は、各史書に対する精緻な渉獵に裏打ちされている。その点、中村論文の中に点綴されている脆弱点を突いて鋭い切れ味を見せている。さすが、『日本・古代史の争点を斬る』(千秋社)で群立する古代史の諸書を快刀乱麻、批判の刃にさらした、この著者ならではの冴えだ。だが、一見完膚なきまでの批判をうけたかに見える中村論文の、骨格をなすべき研究思想“天智期に重大な画期あり。”の視点の正当であったこと、わたしの「日本国の成立」で論じたごとくであった。ともあれ、両氏の丁丁発止の「提唱」と「批判」、ともに見事の一語に尽きよう。
次に、新分野への挑戦。
「『新唐書』日本伝の『使者自言、国近日所出、以為名。或云、日本乃小国、為倭所并、故冒其号。』は単なる中国側の認識ではなく、大和朝延から派遣された遣唐使の発言であるから、九州王朝が実在したことを、これほど明確に証明した証拠はあり得ないことと思われる。」(同誌第9集、山田武雄氏「新唐書の証言」)
「いま、『旧唐書』も、『新唐書』も、べつだん矛盾なく、右と対応する併合・被併合情報を告げている。万葉時代のただなかに、この変化が生起したこと、それは、やはり動かしがたいようである。」(同誌第9集、中小路駿逸氏「旧・新唐書の倭国・日本国像ーー万葉時代の史的枠組みへのアプローチーー」)
今までふれられることの少なかった新唐書の問題性、これに対面して、さすが両氏とも、問題の急所を的確に捕えておられる。ことに、中小路氏が“両書の、一見相矛盾するかに見える叙述(後出)には、ことの論理上、矛盾のない”事実を指摘された一文は、研究史上、確固たる光芒を放つであろう。
この点、右の先行論文を追うて、わたしも新唐書に対する史料批判を行った。その要点を左に記そう。
(一) 新唐書は現代(宋、十一世紀)の国家状況を基点にすえて立伝した。それゆえ突厥に併合された鉄勒、日本国に併合された倭国は、それぞれ独立の伝を失ったのである
(旧唐書は、歴史性〈初唐など〉を重視し、鉄勒伝、倭国伝を立てていた)。
(二) 従って、新唐書に「倭国伝」がおかれていないという事実に対し、「倭国と日本を併記するような不体裁なこともなく、」(岩波文庫『旧唐書倭国伝・宋史日本伝・元史日本伝』解説)として、「併合・被併合の二国存在」そのものが“否定”されたかのごとく見なしてきた、従来の日本古代史学界の「通説」派の見解は明白にあやまりである。
(三) 左の二つの叙述は一見対立している。
〈その一〉或は云う、日本は旧(もと)小国、倭国の地を併(あわ)せたり。(旧唐書)
〈その二〉或は云う、日本は乃ち小国、倭の為に并せらる。故に其の号を冒す。(新唐書)
右では、
(a) 被併合国ーー倭国
併合国ーー日本(旧唐書)
(b) 被併合国ーー日本
併合国ーー倭国(新唐書)
となっていて、いずれか正、いずれか否、共に相いれがたいものと見えよう。けれども、『三国史記』『万葉集』の一致してしめす
(i) 天智末年(六七一)以前は、「倭=チクシ」
(ii)右以後は、「倭=ヤマト」
という「倭の基準尺」によって判定すれば、矛盾はない。要は
被併合国=チクシ
併合国=ヤマト
となるからである。この点、先の中小路命題と合致する。
(4) 新唐書は「現代」(宋、十一世紀)の立場、その時点の新史料(「王年代紀」)に依拠している。従って「倭=ヤマト」の用語法に拠っていること、当然だ。これに対し、旧唐書は、三国史記と同じく、「倭=チクシ」という、歴史的用法に依拠して叙述していたのである。
以上だ。詳細は、わたしの新論文「新唐書日本伝の史料批判ーー旧唐書との対照ーー」(昭和薬科大学紀要二二号、一九八八)を参照してほしい。
従来の論者(「通説」派のすべての研究者)は、回避せず、この問題に対面し、再批判されたい。それが学問の道を歩む者にとって、最低限の義務であろう。
六
次に、逸すべからざる力作群。それは丸山晋司氏による、一連の九州年号(古代年号)研究だ。陸離たる光彩を放つ「『大化』年号への疑問」(同誌第5集)、未開の研究分野に手を伸ばした「『襲国偽潜考』の基礎史料ーー『和漢年契』に関する考案」(同誌第8集)、敢えて試行錯誤をはじめられた「『朱鳥=九州年号』論批判」(同誌第9集)とつづく。この外にも、氏の論稿は「市民の古代研究」(隔月刊)に陸続として発表されつづけている。貴重な収穫だ。将来の九州年号研究は、氏の業績を抜きにしては、語りえないこととなろう。
今は、氏の最新稿「『二中歴』古代年号部分の読み方」(「『季節』」第十二号、「特集古田古代史学の諸相」〈エスエル出版会刊〉中に所載の論文「古代年号は鎌倉期以降に偽作されたかーー『二中歴』に見る古代年号」の「附論」)について見てみよう。
『二中歴』は、九州年号(古代年号)所載の文献(年代記)として、最古(級)のものとして著名だ。所功氏がこれを“鎌倉末期頃”の成立とし、「九州年号」偽作説の一論拠とされたのに対し、丸山氏はこれを“鎌倉初期頃”の成立とされた(尊経閣文庫古写本コロタイプ版解説に依拠)。その上、その依拠史料が「平安後期」、さらに「平安中期」(後述)にさかのぼるべきを論証せんとされたのである。
問題の史料は、『二中歴』の中の「年代歴」の項の冒頭の、左の一文だ。
「年始五百六十九年内卅九年無号不記支干其間結縄刻木以成政」
(年始、五百六十九年内三十九年。号無く、支干無し。其の間、縄を結び木を刻み、以て政を成す。読み下し、古田)
これに対し、氏は次のように解される。「『年始』の三十九年後に始まった年号とは『継体』(五一七年)のことで、『年始』とは四七八年のことである。
四七八 年始 ーーーーー| ーー|
↓ | 内卅九年無号 |
五一七 年号開始(継体)ーーー| | 年始五百六十九年
↓ |
一〇四七 古代年号部分筆記 ーーーーーーーーーーー|
右の「継体」(五一七年〉とは、この一文の直後の九州年号が、「継体五年元丁酉」として、「丁酉(五一七)」にはじまる年譜をしめしているからだ(「五年」は期間)。
この「三十九年前」に当る「四七八」をもって、氏は「年始時点」と解されたのである(通常の暦〈たとえば「東方年表」〉では、南朝劉宋の順帝の昇明二年、雄略天皇二十二年に相当)。そしてこの一点から「五百六十九年目」に当る、「一〇四七」をもって、当該部分執筆時点(古代年号部分筆記)とされたのだ。これは十一世紀。だから、先述のように、「二中歴の依拠史料は、平安中期にあり。」とする、氏の結論が生れることとなったのである。
未見の高峰に挑む、氏の渉獵と情熱に深く感銘しつつ、読みかえすうち、わたしの中に疑問が生じた。
(一)「四七八〜五一七」の三十九年間に対して、氏は右の表中で「内卅九年無号」と記入しておられるけれど、右の一文のしめすところは、「無号、不記支干」だ。氏の提示された写真版(影写本)にも、ハッキリとしめされている。しかし、五世紀末〜六世紀初頭の、この時期に「支干を記せず」とは不可解だ。有名な埼玉稲荷山の鉄剣の黄金銘文にも、その冒頭に「辛亥年(四七一か)」の明句がある。第一、あの光彩あふれる名文を中国側に呈した倭王武の時代(五世紀後葉〜六世紀初頭)に、“倭国側は干支を知らなかった。”とか、“倭国側は干支を使用しなかった。”などと、信ずる人があろうか。この点、せっかくの氏の論定ながら、根本に大きな疑問が生ぜざるをえないのである。
(二)では、わたしの対案は何か。率直にのべよう。
(A)起点は、九州年号開始点(別述)たる「五一七」だ。
(B)右の一点をさかのぼる「五六九年」、つまり「前五二」(前一世紀中葉)が、「年始」すなわち、この王朝(九州年号をもつ王朝、すなわち九州王朝)の開始時点である。いわゆる「天孫降臨」(ニニギ)による「建国時点」を指すものであろう。
(C)右の「建国時点」から、「三十九年間」、つまり「前五二〜前十三」は草創期。「無号、不記支干」、代って倭国古来の「結縄刻木の法」によって、「三十九年」という「年限」のみが知られている。
(D)「前十三〜五一七」の期間は、中国文化の影響下に「干支」が知られ、用いられていた(そして「中国年号」)。
(E)「五一七」になって、ようやく「倭国年号」(九州年号)が行われることとなった。以下の「年代歴」がそれである。
以上だ。改めて詳論する。この重大史実分析に対し、先導の火を掲げて下さった丸山氏に深謝したい。
七
最後に、不滅の業績。
「王氏はこの問題について、『第三面第十四行第三十九字の「一」以前は「二」に解されたが誤りである』といわれる。だが以前に『二』と解釈されてきたことなど、この百年間にもわたる碑文研究史上、一度もない。これを指摘したところ、王氏は『六』と書くべきところを『二』と書き誤ったとされたが、これも不正確であり一面的である。私は王氏の書き誤りを批判するのが目的でこの問題をとりあげているのではない。書き誤りは誰にもあり、訂正すればよい。そうではなくて、この文字は従来さまざまな文字に検出されており、国姻の数を合わなくさせている最大の個所であるという認識がないことで問題の本質を把握しておられないことを批判しているのだ。」
(同誌第7集、藤田友治「好太王碑の新たな論争点ーー倭の正体と守墓人制度についてーー」)
右は、一九八五年、三月三十日に長春、吉林省博物館において、藤田氏が行われた白熱した討議の叙述である。王氏とは、『好太王碑の研究』によって、好太王碑研究の第一人者とされる王健群氏。吉林省文物考古研究所所長である。
藤田氏の研究上、画期的なポイントをなしたもの、それは右の一字だった。第三面第十四行第三十九字だ。
国烟□看烟
これは、第三面の最終行、その末尾(最下部)に当る。この□の一字に対し、氏の全エネルギは凝縮された。従来、この一字に対し、
1). 「七」と判読・・・横井忠直・三宅米吉・今西竜
2). 「四」と判読・・・栄禧
3). 「六」と判読・・・羅振玉・揚守敬・劉承幹・金毓黻
4). 「一」と判読・・・前間恭作・水谷悌次郎・末松保和・藤田友治
5). 「□」即ち不明とする・・・朴時享・集安県博物館釈文(解読者不明)
以上が藤田氏のキャッチされた、研究史上の状況だった。では、なぜこの一字が問題か。碑文後半部は「国烟」「看烟」等の数字記載の羅列に“すぎない”ように一見見える。事史、戦前はもとより、ここ十年間余、古代史学界の“論争の目玉の一つ”となったかの観のあった、好太王碑改ざん論争においても、この一字に対して、ことさらスポットライトを当てた研究者はいなかったのである。氏の思考実験は、次のようだった。
〈その一〉碑文上、「国烟」の数の総計は三十、と明記されている。
〈その二〉全体の各部分数値(「国烟」)を精査し、数値検証してゆくと、この一字は他ならぬ「一」でなければならぬ。
〈その三〉ところが、研究史上、この一字は各種各様、まちまちに解されてきた。右の通りだ。各種拓本のみならず、各時点の写真(読解)さえ、まちまちである。
〈その四〉このような“読解文字、乱立”状況の原因として、「碑面における傷痕(割れ目等)」の自然的原因や「拓工が拓出にさいして行った補修(石灰造字)」「双鉤・拓出のさいの誤断による誤鉤・誤拓」等の人工的原因が考えられよう。むしろ、それらの相乗効果が、右のような各様の各判読をまねいたもの、ともいえよう。
〈その五〉右のような理解が正しければ、現在碑面を子細に観察すれば、「原字」としての「一」に加え、右の他の各字とまぎらわしい“裂傷”等の痕跡が認識されるはずである。
以上が、氏の到達された作業仮説であった。そしてこの検証を現碑の現地調査に求められたのである。
この検証の学問上の意義は、次の点にある。すなわち、李進煕氏が提唱され、日本の古代史学界が激震をこうむった「改ざん説」、その衝撃力の根源をなすもの、それは李氏の綿密な拓本・写真類の調査だった。そこに現出した多様な“現出・判読文字の乱立”、その事実を的確に提示された上で、その背景、真の原因を、酒匂中尉等、日本の参謀本部の「犯行」に求められた。ここに学界や世間の人々を撃つ、衝迫力が生れたのである。
しかし、藤田氏は反証された。そのような(犯行の)イデオロギーと全く無関係の、右の一字(「国烟」の数)においても、全く同様、同種の「文字の乱立、錯出」が生じている、厳たる事実の存在することを、李氏よりさらに詳密な検査・対照・調査・討議によって確認され、そこから得られた「自己の作業仮説」を現地・現碑で「検証」しようとされたのである。まさに、先にあげた釜洞氏の文にしめされた通り、科学者として、学問の本質に立つ現地調査だったのである。
そして一九八五年、三月下旬、五日間にわたる現地滞在の間、くりかえし現碑でこの個所を観察した。その部位が最下端に当っていたため、この一字の各部位に手を当てるようにして、精細に検証できたのである。その結果は、まさに氏の予測を完全に裏書きしていた。その最初の一瞬の感動を、氏と共に明白に認識できたことを、わたしは光栄に思う。研究史上、 ーー心ある研究者にはーー 忘れがたき、「新しい実証史学の世明け」にとって、不滅の業績が樹立されたのであるから。
しかも、右で「討議」の語を用いたのは、他でもない。氏の作業仮説は、氏の教え子(茨木東高校地歴部等)と共同で樹立されたものであった。驚異とすべきである。
氏の業績は『好太王碑論争の解明』(新泉社刊)として結晶した。この金字塔の母胎をなすもの、それが本誌上に先ず登場した、氏の論文・報告等の数々なのであった。
(一九八八年、八月吉日、稿了)
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