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「天皇陵の史料批判」『天皇陵を発掘せよ』三一新書
古田武彦
新年おめでとうございます。祭日、成人の日であり、かつ雨の中をこれだけ多数お集まりいただきまして、たいへんうれしく存じております。
いま、司会の木佐さんからお話がありましたように、たしかに去年は、私にとってたいへんな収穫の年でございましたが、じつは本の中にかかれていることはそれより前の、一昨年よりさらにその前の年に発覚したというか、ぶつかった問題が本になって去年出たわけで、それ以外に、去年一年間の中で発見した新しい収穫がおびただしい数にのぼったわけでございます。
それを、今年は一つ一つ論文化して本の形にしていきたいと予定しているんでございますが、その去年の新しい発見の話を前半はさせていただきたいと思います。そして後半は今年の発見ですが、この二、三日来、また非常に大きな問題にぶつかりまして、それをお話申し上げたい、こういう予定でございます。
というような盛りだくさんでございますから、あんまり早口でしゃべってもしようがないですし、「要するにこういうことなんだ」と、そして「要点はこういうことであってくわしくはここに書いてある」というような言い方も話していただきながら、去年の収穫を前半に申し上げたいと思っております。
さて、去年の収穫も数が多いんですが、まず挙げさせていただきたいのは、寄生虫の問題でございます。と言うと、みなさん、何を言うかと思われる方と、ああ、あれかと思われる方がいらっしゃると思うんですが、一昨年、『アニマ』という動物雑誌(平凡社)に、影井昇さんという、目黒にあります国立予防衛生研究所の寄生虫の主任研究員の方の文章が出たわけでございます。私、ぜんぜんそれを知らなかったんですが、去年の七月の終わりに、安田陽介さんという京大の国史学科を出た方からのお手紙で知りまして、その内容を見て非常に驚いたわけです。というのは、その影井さんの文章の元になっているのは、ここにあります小さな小冊子ですが、学術書なんですね。ブラジルの寄生虫の学者、もちろん自然科学者達ですが、だいたい自然科学の論文というのは短いですから、それが集まってできた論文集なんですね。その内容を元に紹介された。どういうことかと言うと、ブラジルからエクアドル、ペルー、つまり南米の西海岸の北辺に至るこの地帯から糞石、ウンチですね。化石になった糞石があって、その中に寄生虫がやはり化石になっているわけです。それを調べたところ、アジア、特に日本列島に多い種類の寄生虫であることがわかったと。しかもその年代は、放射能測定によると今から三五〇〇年前、それぞれ数値が書いてありますが、日本でいう縄文後期を中心にする時期の糞石があるわけで、ミイラは当然ながらモンゴロイドであるわけです。モンゴロイドというと、アジアからベーリング海峡を渡って来たというのが通説である。このさい、この通説は成立不可能である、とその寄生虫の専門家は判断したわけです。なぜかというと、その寄生虫というのは寒さに弱い、摂氏二〇度以下になると死滅する。だからベーリング海峡を通って来たんでは生き永らえることはできないと。
では、どういう方法があるかということで、もう一つの選択肢、つまり、ワシントンのスミソニアン博物館のエバンズ夫妻、それからエクアドルのエストラダさん達が提唱している説、つまり日本列島から縄文人が黒潮に乗じてエクアドル、南米の西海岸に到着したと。あの説の場合は生存可能であると。だからこの寄生虫達はそのような伝播ルートを通って南米に入ったものと考えざるを得ないと。
こういう趣旨の論文なんですね。そして分布図が載っているわけです。それを影井さんが紹介したわけですね。で、影井さんの寄生虫の専門家としての目から見ても、それは筋が通っていると判断して紹介されたわけです。
私は七月末にこれに接しまして、八月半ばに影井さんの所にお伺いして詳細をお聞きしました。今の要点がそれでございます。これは私にとってはたいへんうれしいニュースで、みなさんご存知のように、二十一年前に出ました『「邪馬台国」はなかった』(朝日新聞社)、この中で最もスリリングな、書いている当人の私にとって最もスリリングな一節は最終章、つまり裸国・黒歯国は南米の西海岸・北半部にあったと考えざるを得ない、倭国から見て東南にある。正確には侏儒国から見てですが、そして船で一年、二倍年暦という考え方を入れると、実質半年で到着できる。で、これを測定してみると南米の西海岸、それも北半にしかならない。南半にいくと半年では無理だ。つまり日本列島からサンフランシスコまでは三ヶ月ですからね、「太平洋一人ぼっち」といったような青年達の実験航海によると。同じ距離、同じ黒潮ですから、測定すると西海岸の北半ならいいけれど、南半まで行くと後三ヶ月では無理だということで、南米の西海岸・北半部、とこういう結果を書いたわけです。だからこれは怖かったわけですね。
で、これに対してやめなさい、とか削りなさいとか、いろいろの反応があったんですが、ところが二十一年目にして、それは正しかったという答が出てきたんです。しかも思いがけない自然科学者の、寄生虫の専門家の方から出てきた。その地図がまさに南米の西海岸の北半部にしか、その糞石が分布していないんですよ。チリとか南半分には分布していないんですね。これ見て私、ぞっとしましたですね。
『「邪馬台国」はなかった』はその後角川文庫に入りまして、去年の十二月半ば、日付は今年の一月一日で朝日文庫から出たわけです。最終章に新しく書き下ろしの一章を付けたんですが、その書き下ろしの一章の一番最後に、ブラジルの寄生虫の学者の分布図が掲載されております。やっとすれすれに間に合うといいますか、あれは七月の末に知ったのですが、もし八月末に知ったらとても間に合わなかったわけですけれども、なぜかすれすれ間に合う形で、手紙が私の所に来たというわけでございます。というようなわけで、この件は奇跡のような、私にとっては事件であった。
しかもこれは、考古学者達、その他の人達がバカにしてきた裸国・黒歯国問題がバカにできないものであった、ということを裏付けただけではないんですね。私にとっては倭人伝の信憑性の問題、倭人伝はリアルであると、陳寿を信じ通すというのが『「邪馬台国」はなかった』の序文の最後の宣言であったわけです。信じ通したらこうなった。裸国・黒歯国は南米の西海岸北半になった、とこういうんですから、つまり裸国・黒歯国の記事ですらリアルだったわけです。そうしたら、まして邪馬一国の記事がいい加減であるはずがない、とそこに帰ってくるわけです。私は寄生虫の専門家ではなくて、史料批判に最も関心を持っている研究者ですからね、史料批判上やっぱり倭人伝はリアルであったと。倭人伝はいい加減だと称してあっちを直しこっちを直してきたのは正しくないことが、海外からの報告によって裏付けられた、とこういうですね。自分の生きている時にこんな反応が来るなんて思いもできないことでございました。
さて次に、八月、中国に旅行する前の二七、八日ごろ、私にとっては大きな発見がございました。天皇陵に関する問題でございます。それは、市民の古代研究会の会長をしておられる藤田友治さんが編著者になりまして一つの本の企画をされました。題は『天皇陵を発掘せよ』とたいへんわかりやすい題ですね。どういうことが書いてあるか題を見れば全部わかるみたいな題ですが、これが三一書房から新書版で出る、今最後のゲラが私のところに来ていますので、おそらく一月の終わりか二月の半ばまでには出ると思います。その本の中の一つに、天皇陵について書いてほしいと要請されまして、はじめは迷惑というか、とても今天皇陵については書けませんよ、という感じだったんですが、しかし藤田さんのご依頼だから書こうと、正直言うとそういう感じで、取り組んだわけです。ところが、これは私にとってたいへんな意義深い収穫になったわけです。
ご存知のように今まで講演会で、九州王朝ということを言いましてね、七世紀末まで九州王朝が中心だったんだと、大和の王権はその分派であったにすぎない、言うなれば地方豪族であったにすぎない。巨大な地方豪族であったにすぎない、ということを述べてきたわけです。近畿天皇家が中心の王者になったのは八世紀以後である、ということを言ってきたわけであります。ところが、私の言っている理屈はそのとおりであって、その理屈がおかしいという反応はあまりないんです。またあっても私がすぐ答えられるような批判しか今のところは聞いていないんですね。プロの学者からも講演の聴取者の中からもですね。
ところが、それとはちょっと違った質問が何回か出てくるわけです。それは、天皇陵というのは、あれはどうでしょう、とこういうご質問なんですね。これのおっしゃる意味は明らかでありまして、理屈では確かに中国の歴史書から見ると、あんたが言う通りかもしれんと。しかし、天皇陵というものは最大の前方後円墳として近畿に群立しているではないか、これが何より近畿天皇家が少なくとも古墳時代以来、日本列島の中心の統一の王者であった証拠ではないか、というのがプロの学者も一般の日本人も心の中に思っていることです。歴史書はあまり読んだことないという人だって、今言ったようなことはみんな思っているわけです。
その時に、いつもお答えする言葉は決まっていたわけです。「ではお尋ねしますが、岡山県にある造山古墳、作山古墳、いずれも『つくりやま』と読みますが、これはほとんどの天皇陵より大きいわけです。なかんずく同時代の天皇陵より大きい可能性が高いわけです。これは一体どう考えたらいいでしょう」と。
「つまり大きい方がご主人で、小さい方が家来、こういうことですね、さっきの話は。もし外見上の大小が主人と家来を意味するものであるならば、作山・造山の時代は岡山の豪族がご主人、それより小さい天皇陵は家来、とこうなりますね、と。これは、造山・作山だけでなくて、宮崎県の日向のオサホ塚、これも大きな前方後円墳で並いる天皇陵よりはずっと大きいわけです。また関東の群馬県の太田市にある天神山古墳、関東最大の前方後円墳、これより小さい天皇陵はたくさんあります。ということを見ますと、大きい小さいで支配と従属というルールをたてるとしますよね、そうすると混線を生ずるわけですよ。そこだけは岡山が中心の権力者だった、ここだけは群馬が中心権力者だった、天皇家は家来だった、というのは何となく話がガタピシしますよね」というように言いますと、「そうですね」とわかったようなわからんような顔をしておられるわけですね。ま、こっちもあんまりわかったわけではないんで、ただそういう問題があるので簡単にはいきません。目下考え中です、という答えを何回か繰り返してきたわけですね。
それに今回正面から取り組んだわけです。で、その答えはですね ーー答えを先に言うのは、今言った本をご覧になる時に答えを知ってしまうと、まあ、推理小説の答えを言う奴は殺してやろうという話があるようなもんで申しわけないんですが、私のは推理小説ではなくて学問上の真実ですから、その点はごめんをこうむって申しますとーー 要するに、前方後円墳の方部では儀礼がおこなわれた。しかも、そこの中心権力者が死んで今円部に葬られるわけです。そして、相続者の息子が、あの上で儀礼をおこなうわけですね。それは死者を葬る儀式であり、自分が新しい支配者として相続する儀式であるでしょうね。
これは今までも考古学の方で言われてきています。梅原末治から水野さんに至るまで、そういう話がされてきているわけですね。水野さんは特にはっきり言っておられますが、そこでおこなわれる儀式は何かと言うと、ただ死んだ人を葬ればいいというわけではないんだと、祖先をも祀る儀式であったと。つまり、死んだ親父だけ私は関心があるんだ、お祖父さんやその先祖なんか知らんという、そういう人もいたかもしれませんが、日本のお祀りのルールはそんなものではないわけです。親父が死んだら祖先の中の一番新しい祖先に加わった、それをお祀りするというそういう性質のお祀りなんですね。よその国のことは知りませんが、少なくとも日本の場合それに間違いないと私は思います。
そうすると、たとえば天皇陵のばあい、祖先とは何か、当然のことながら祖先は九州にいるわけです。古事記・日本書紀読んだらそう書いてある。近畿でわれわれの先祖は始まりましたって書いてある古事記・日本書紀の一書などありますか。全部が全部九州から来たと書いてある。神話時代は九州であったと。一番簡単な話は古事記・日本書紀の神代の巻の国名を単純に抜き出していくと、古事記では出雲が第一位で筑紫が第二位、日本書紀は筑紫が第一位で出雲が第二位、全部あわせると筑紫が第一位、出雲が第二位と、こうなりますね。出雲というのも出てくるのはだいたい決まっているわけで、出雲から筑紫へ国譲り、権力が移りましたというストーリーで出てくるんです、ほとんどはね。だから、全体のウエイトは筑紫が中心であることは単純な作業でわかるわけなんです。ですから、天皇家の基をなす神代は筑紫にあったということを、古事記・日本書紀は一生懸命言っているんです。大和自生説というのは津田左右吉なんかが言いますけれども、これはあくまで新しい学説であって、古事記・日本書紀は大和自生説を唱えているところは一ヶ所もないわけです。そうすると先祖は九州にあり、それも筑紫にありということになって来ますね。そうすると、あそこでおこなわれたのは西方遥拝である、とこうなってきます。西方遥拝という言葉、私はじめて思いついたんですが、東方遥拝という言葉をね、関西などで少年時代過ごしたわれわれの年齢の人はみな東方遥拝をやらされた、戦争中にね、宮城を拝むのを東方遥拝といった。それを裏返して言いますと西方遥拝、近畿から見て九州は西方でございます。
それで今度は九州の場合、糸島・博多湾岸に三種の神器、正確には「三種の宝物」が埋められている王墓群がある。糸島にあるのが三雲・井原・平原、そして福岡市にあるのが吉武高木、最古の三種の宝物を持った弥生の王墓、それから博多のベッドタウン春日市の須玖岡本の弥生の王墓、中国製の絹が出てきた唯一の弥生墓ですね。それともう一つ忘れてはならないのが最近出てきたので、釜山の近くの良洞里から三種の宝物を持った王墓が出てきた。この中の鏡は小型イ方*製鏡で、日本の国産といわれているものが三種の一つになっていた。だから九州側の五つより、より遅い時期の三種の王墓であることを示しているわけですね。ですから、三種の宝物群は玄界灘を挟んで、九州側と釜山側にまたがったのが三種の宝物圏である。これが近畿の天皇家にとっての輝ける祖先の地であるわけです。そこを拝まなければ拝むところはないわけです。
イ方*製鏡の[イ方]は、JIS第3水準、ユニコード4EFF。
そして今度はそこの人達、三種の宝物を持った人達はどこを拝むかというと、たとえば糸島の平原でも、あれは原田大六さんが弥生古墳という言葉を使っておられますが、普通に言えば弥生墓ですね、当然ながら盛り土が本来あったわけで、その前には墓前祭をおこなう広場があったわけですね。そこで葬る前に墓前祭がおこなわれたわけです。そこで先祖を祀るというとどこを祀るか。当然私の理解では壱岐・対馬。天国と呼ばれているのは壱岐・対馬であるという論証を『盗まれた神話』でおこないましたけれどね。壱岐・対馬の中心の海上武装戦団が板付・曲り田の豊かな縄文水田地帯を侵略したのが、天孫降臨という歴史的事件であるということを繰り返し述べてまいりましたが、壱岐・対馬が彼らの本拠地です。天神というのは天国(あまくに)、実際には海人国(あまくに)でしょうけど、そこの神々を天神と言っている。その天神をバックにして侵略してきたわけですから、当然彼らの先祖の地は壱岐・対馬にある。だから、この場合は北方遥拝になる。釜山からだったら南方遥拝ですかね。
ということですから、今の天皇陵の方から見ますと西方遥拝になるわけです。これは私が勝手に言っているわけではなくて、日本書紀の神武紀を見ますと、神武が大和へ入って侵入を完成させた後、神武四年に大和の榛原で皇祖 ーーというのはニニギの命、天神というのは壱岐・対馬の天つ神ーー それを遥拝する儀式をおこなったということがちゃんと書いてあります。私が勝手に言っていることではございません。
というようなことで、それに付属する細かい問題があるんですけれども、今は省略いたします。さきほどの『天皇陵を発掘せよ』という本が出たら、それで私の論文を読んでいただければくわしくおわかりになりますし、それから、じつはもう一つ、その問題に触れた本が来週出るんですが、『失われた九州王朝』という本、私の古代史の第二番目の本で朝日新聞社から出て角川文庫に入っていた。それがさきほど『「邪馬台国」はなかった』と同じように里帰りすることになりまして朝日文庫から出た。これもやはり最終章にかなりの分量書き下ろしして、二〇年間における九州王朝関係の問題を書いておるわけですが、その中に天皇陵の問題が要約して書かれております。それでご覧いただいても結構でございます。くわしくは三一新書の方でご覧いただければいいのですが、要するにすべての前方後円墳は服属儀礼の場を墓といっしょに持った古墳であると。遥拝儀礼、服属儀礼というテーマに到着することができたわけであります。
それでは天皇陵以外の前方後円墳はどうなるのかと、そこまで言ってしまうと読む楽しみはないですから、もうここでは申しません。結論から言いますと、天皇陵に関して言いますと、あれは天皇家が日本列島の中心の支配者だった証拠だと、考古学者を先頭にして考えてきたが、これはあやまりである。天皇家が中心の権力者でなかった証拠である。分派であり服属者であった証拠である。というテーマが出てきたわけでございます。これだけの大きな問題を、まだ一〇分足らずの内に申しましたので十分に頭におさまり切れないと思いますが、これはさきほど申しました『失われた九州王朝』の朝日文庫、あるいは『天皇陵を発掘せよ』という三一新書でくわしくご覧いただければありがたい。私としては長年のテーマが解決できたということが、非常に大きな発見でございました。
で、やっぱり、講演会の後などで、壇の所へきて、ちょっと聞きたいんですが、とご質問いただく、あれがやっぱり非常にいいんですね。その時、答えられないのが一番いいんです。そこで答えが出るのは聞かれる方にとってはいいんですが、その時に答えられないものは、答えないのが私の、当たり前ですが、主義でありまして、だから私は何を聞かれても困らない人間なんです。知らないものは知らないと答えることにしているから、何を聞かれても困らないんですがね。その答えられないものこそ私の新しい宿題になっていくわけですね。ということで今日もぜひこの講演がすんだら、私の答えられるご質問やら答えられないご質問をしていただければありがたいと思います。
さて、天皇陵の問題はそれだけにします。
次は、天皇陵問題を発見してすぐですね、翌々日ですか、中国に出発しました。さきほど司会者からご紹介がありましたが、二週間にわたって中国の甘粛省・青海省へまいったわけでございます。これは去年の二月、ちょうど今から一年ぐらい前ですが、この時にぶつかりました問題、穆天子(ぼくてんし)伝というものがございます。周の第五代の天子穆王が天下を巡行して歩いたその記録であります。なかんずくメインをなすのは、西域方面へ行って西王母にあってプレゼントをもらった。何よりも天子に任命されたらしい記事もあります。そして帰ってきたと、穆王は西王母にさまざまの貢物を献上した、とこういう形で書かれているわけです。
今お聞きになっただけでも、はじめての方はへえっと思われるでしょうね。われわれが今まで聞いたところでは、中国の天子というのは永遠の中心者であり、絶対である、これが中国思想だと聞いてきた。ところが穆天子伝は違うんですね。穆王は家来で西王母はご主人だというんですね。そういう位取りで書かれている。しかもそこへ行って帰ってくるまでの方角と部分部分の里程が細かに書かれている。そして最後に総里程が書かれている。すなわち倭人伝と同じスタイルになっている。しかもこの穆天子伝が発見されたのは、三国志を書いた陳寿の時代、つまり西晋の時代に発見されている。そして竹簡にウルシで周代の大篆で書かれていた、それをわれわれの知っている旧漢字、当時はあれは略字なんですが、それに翻訳して西晋の王朝がこれを公布した、というのが穆天子伝なんです。
ですから、三国志の倭人伝は穆天子伝をお師匠さんにしてそのお弟子として、あのスタイルは成立している。しかも穆天子伝においても、部分里程をすべて足せば総里程になっている、当たり前ですが、したがって倭人伝も部分里程をすべて足せば総里程になるはずである。『「邪馬台国」はなかった』で、この本を書く私のたった一つのキーワードですね。それは部分を全部残りなく足せば全体にならなければならない、全体になっていないのは残りがあるからだ、足し忘れがあるからだ、ということで、対海国・一大国、対馬・壱岐の方四百余里、方三百里の半周をそれぞれ足すと四百、四百、三百、三百で千四百里、私の計算では足らなかった千四百がピシャリ出てきたわけですね。ということで邪馬一国は博多湾岸とその周辺である。つまり部分里程を最後に書いてある不弥国、これが博多湾岸であるということはほとんどの立場ですからね。その不弥国で総里程が終わるわけです。女王国は不弥国にはじまると、つまり糸島から博多に入った姪の浜、そこに不弥国があって、そこが同時に邪馬一国の玄関であるというテーマになってきた。その元がじつは穆天子伝であったというわけなんです。
そういう意味で私にとって、その穆天子伝にぶつかって、三年前になりますか、早いもので、私のところの助手の原田実さんの出しました単行本『日本王権と穆王伝承』(批評社)、これがきっかけになって私は穆天子伝に取組むことになったんですが、今のような問題を知りまして、これはもう倭人伝の私の解読はあやまりではなかったという感じを持ったわけです。
そこにさらに加えて、司会をしていただいている木佐敬久さんが、木佐提案というのを信州の白樺湖のシンポジウムで出されました。『すべての日本国民に捧ぐ』(新泉社)という本を去年出しましたんですが、これを見ていただければくわしくわかりますように、木佐提案を出発点にして私の歴史観が論理化されるということになったわけです。
そういういきさつがそれぞれあったんですけど、元に帰りますと、その穆天子伝に書いてあった里程をたどると西王母の国に至ることができるんじゃないかと、ちょうど倭人伝の邪馬一国に至ることができたように、西王母にもそれを本気で信用してたどれば至れるんじゃないか、こういうふうに考えたのが去年の二月だったんです。そして結果は、明らかな答えに到達したんです。西王母が穆王を迎えたのは青海省の西寧の近辺、青海湖のほとりであろう、そして西王母の本国は敦煌、酒泉のエリア、これが西王母の国であろう、という結論に達したわけです。
倭人伝と同じ方法でやってみたら論理的にはその通りになったんですが、それではその現地へ行ってみなければいけない。“歴史は足にて知るべきものなり”という秋田孝季の名言がありますが、江戸時代の天才的な学者の秋田孝季の言葉です。その通りだと思うんです。それで行ってみなけりゃいかんということで、行くプランを立てて募集しましたら二十人近くの方が応募してくださって、ごいっしょに現地を回られたわけです。ここからたいへんな、もう予想もしなかったような多くの収穫があったわけです。三十六の収穫という形でプリントに書いたりしましたけれども、これを今から申し上げるわけにはとてもいきませんので、一月一九日に中野の老人大学で、中国旅行を中心にした講演をおこないますので、そちらの方に関心のある方はお出でください。中国最古の鏡に触れましたが、それは省略しまして、次のテーマに移らせていただきたいと思います。
次のテーマと申しましたが、この中国旅行のさなかに古事記・日本書紀の、今まで私がまったく気がつかなかった真相に気がつくという、まあ事件でしょうね、ぶつかったわけです。なんで中国に行ってそんなになるんだと言われても、これはちゃんと理由があるわけでして、つまり二十人近くの人といっしょに行っている間、絶えず私は話をし夜はホテルで討論をし、ということの繰り返しの二週間だったわけです。そういう意味では移動する講演会・シンポジウムという感じですね。その中で古事記・日本書紀の問題に関しても鋭い質問やご意見が出ましてね、その中で私がはっと気がついたわけなんです。忘れもしませんけど朝の五時前ころでしょうか、眠っていて気がついて、あ、もしかしたらと思って一緒に寝ている人を起こしちゃいかんので、トイレが別の部屋になっていますので、そこへ行って一生懸命古事記を開いて見たのを、今なつかしい記憶として思い出します。
どういうことかと申しますと、これは今日の後半の話にも関係がありますので是非申させていただかなければいけませんが、神武天皇に関して、神武歌謡と私は呼んでおりますが、古事記・日本書紀に歌がたくさん書かれているわけでございます。戦後の歴史学では、神武天皇は架空の人物ということになっておりましたので、この歌も神武天皇に関する歌ではなくて後世の造作であると、いわゆる津田史学的な解釈がされていたわけですね。ところが一昨年ふとしたことで私は気がつきました。
もちろん神武が実在だということは、一昨年どころではなくて二十年来、『盗まれた神話』以来言っていることなのです。しかもその証明をいろいろ繰り返しましたが、最も決定的な証明だけ一つ申しておきますと、大阪府史に載っております大阪湾のあたりの弥生の終わりから古墳時代のはじめにかけての地図があるわけです。これは地質学者と考古学者の共同作業で作られたものですね。それによりますと、古事記の示す神武の近畿侵入譚とピシャッと一致するわけです。つまり古事記によりますと、神武達が船で日下(くさか)の楯津という今は陸地のど真中になっている所に船で行っている感じなんです。現在、陸地のど真ん中ですから船で行けるはずはない、
ところが弥生末・古墳初期の地図だと船で行けるわけです。船で入り込んで大阪湾からもう一つの河内湾と呼ぶべきものがあったと想定するわけですが、それのドンツキ、突き当たりですね、そこが日下の楯津になっているわけです。だからこそそこへはいるのは当たり前になってくる。さらに、負けて逃げる時に“南方を経巡って”と書いてある。本居宣長はこれで七転八倒苦しむんですけども、本居宣長は今私が見ているような弥生末・古墳初期の地図を知らなかったわけで。江戸時代の近畿のことは彼はよく知っているんです、三重県出身だから。だから彼は困ったんです。ところがその地図を見ると、大阪湾から河内湾に入る入口になる所、わずかな水路、そこが南方、今の新大阪駅の所です。今でも南方と書いて「みなみかた」。だから南方を経めぐって逃げなきゃ逃げる方法ないわけですよ。古事記の描写はリアルであった、ということになってきたんです。
ではあの描写がリアルなら、神武が架空で描写だけ弥生の地形にリアルであるなんてことはあり得ないですから、神武はリアルな人間であったと、こうなるわけですね。これは繰り返し書いているから私の本を読んだ方は、ああ、あれかとその図を思い出しながら聞いておられると思うんですが、専門の学者からは一言の応答もないんですよね。一言の応答もないまま神武は架空にして、考古学者も神話学者も古典学者もあつかっているわけですね。
そういう前提がありまして、問題の神武歌謡に入っていきますが、『盗まれた神話』の段階で、私は神武は宮崎県出発と考えてきた。ところが、それは間違っていたということを知ったわけです。神武の歌を見ますと、「久米の子等、久米の子等」と言って、「撃ちてし止まむ」で終わる歌ですが、久米の子にだけ呼びかけている。それはなぜだろうと考えてみると、これは神武が率いていたのは「久米」部だけであったと、こういう仮説をたてればよくわかる。戦前の皇国史観のように、全軍を率いてと考えたらまったくおかしい、久米の子だけひいきにしている。そして津田左右吉の造作説でもおかしい。なおおかしい。八世紀に造作するなら、蘇我や中臣や大伴もおるわけですから、そういう者にも呼びかけるように造作すればいいわけで、それを一貫して久米の子にしか呼びかけないで造作するのはおかしいわけですね。みんなそれを聞いたら古事記・日本書紀、特に日本書紀は正史ですから、ぶうぶうブーイングが出るわけです。だから造作説では説明できない。では何かというと、唯一の仮説は、神武は全軍を率いるとかそんなんじゃなくて、わずか「久米」部だけを率いたゲリラ部隊というか、そういうスケールの侵略者であった。こういう仮説をたてると、久米の子等にしか呼びかけていないのは当然である、とこう考えたわけです。
さらにもう一つ、「島(しま)つ鳥(とり)」という言葉が出てきました。「島(しま)つ鳥(とり)、鵜飼(うかひ)が伴(とも)」という「しま」も地名であろうという問題が加わりまして「しま」と「くめ」がセットになっている所、しかも九州でということで探してみたところが、唯一該当する所があったわけです。それが福岡県の糸島ですね。その志摩町に「久米」というところがあるわけですね。ここが神武が歌っている「久米の子等」の原産地である。原産地って変ですが、まあ出発地である、という結論に到達したわけで、こういう仮説に立ってみますと、神武歌謡が次々にわかってまいりました。
「宇陀(うだ)の高城(たかぎ)に鴫(しぎ)罠(わな)張る」という言葉で始まる歌、鴫を獲るための罠を張ったら鯨が引っかかった、で年をとった奥さんにはあんまり脂身の多いところをやるな、若いおかみさんには良いところをやっていいぞ、という歌があって津田左右吉さんは、これをとらえてこんな支離滅裂な歌があるところをみても神武は架空に違いないと、ずいぶん乱暴な論法ですが、そういうことを言っておりましたけどね、これを糸島郡に持っていきますと、宇陀がやっぱりありまして「宇田川原」、今は川ですが当時は海に臨んでいる。そこには鴫はもちろんおりますが、鯨が陸に集団でときどき上ってくるわけですね。ですから、鴫を獲ろうと思っていたら鯨が引っかかったというのは非常にリアルである。しかも弥生時代ですから一夫多妻。みんな殺気立っている。そうするとリーダーが殺気をおさめるために「年とったかあちゃんにはあまりいいとこやるなよ。また太って困るぞ、若いかあちゃんならいいとこやってもしょうがないか」と、こう言うんでみんながどっと笑うだけですね。セクシュアルでかつ、ある所真実をついておりますので、どっと笑うわけです。そして殺気をなだめて、実際はまあ村のルールで分配をするんでしょうけど、弥生時代の鯨を分配する歌であったということになるともうがぜんリアルな歌になってきたわけです。
次に「神風(かみかぜ)の 伊勢(いせ)の海(うみ)の 大石(おひし)に 這(は)ひ廻(もとほ)ろふ 細螺(しただみ)の い這(は)ひ廻(もとほ)り 撃ちてし止まむ」という歌がありますが、この「伊勢の海」というのが糸島郡にあった。今、伊勢が浦となっておりますが、弥生時代には海岸である。しかも伊勢が浦に「大石」という字地名があった。私もびっくりしましたね。内倉武久さんという朝日新聞の方に「糸島郡にあの伊勢もあるんじゃありませんか」と言われて探してみたら、ほんとうにあった。
ということで、神武歌謡が次々と解けてくることになったわけです。それで論理的には従来「神武が日向(ひゅうが)を出発して筑紫へ行った」と、こう読んできていたんですが、私や他の人達も。しかし天孫降臨の説話より何ページか後ですから、天孫降臨のところには、「筑紫の」、古事記では「竺紫」ですが、「竺紫の日向(ひなた)の高千穂のくじふる嶺(たけ)」とこう書いてある。「くじふる嶺」というのは、今の博多と糸島郡の間の高祖(たかす)山連峯にくじふる嶺というのがあるわけです。何よりもそれは筑紫に属しているわけです。で、日向(ひなた)峠があってここから日向川が流れ出して室見川と合流する所に、最古の三種の宝物を出す吉武高木遺跡があるわけですね。ですからあれは「ひゅうが」でなくて「ひなた」だった。高千穂は高祖のことで、くしふる嶺というのは現在でも存在しています。
これはやはり、神武歌謡は糸島カラオケであった、という、まあ変な話になってきたわけです。それでこの点は、これも複雑な話を短い時間で申しておりますが、新泉社から『神武歌謡は生きかえった』という本が去年出ました。それにくわしく載っておりますので関心のある方は見ていただければ結構でございます。
その神武歌謡の中で一つレベルの違う歌があるわけです。それは「夷(えみし)を 一人(ひだり) 百(もも)な人(ひと) 人は云へども 抵抗(たむかひ)もせず」という歌がありまして、これはさっきの歌とどうもレベルが違う。これは戦闘歌謡で、夷という連中が、「一人で百人に当たる、俺達は強いんだ」と自慢しておったが、俺達にかかったら抵抗さえようしなかった、ざまあみろ、というようなおごり高ぶったというか、勝ちどきをあげた歌なんですね。だから同じく「久米」部の人達が歌っているんでしょうが、現在の話であるよりも、過去の彼らの歴史の中で輝ける勝利譚があった、そこで歌われていた歌が糸島カラオケに入っていて、それを大和に侵入した時に歌った、というふうに解釈せざるを得ない。まあ長い時間苦しんでここに到達したものを今さっと申し上げるんですけどね。
すると、一人で百人を迎え撃つことができる、とこう言っていた人達とはだれか、それがもろくも屈服したとは何か、というと、これが天孫降臨といわれる事件であったであろうと。つまり「えみし」と言われているのは、板付とか曲り田、菜畑などの縄文水田、それが弥生初期の水田までつながっていますが、そこの人達であろうと。そこに二重、三重の環濠集落が、板付や那珂川で見出されていますね。しかも一番内側はV字型を、更に下に菱形を二重に切り込んだすごい厳重な環濠の跡が出土しております。福岡市教委がこれを報告しております。つまりこの縄文・弥生初期の人達は外敵に対して非常に警戒心を持って、何重もの濠を築いていたわけです。すなわち「夷を一人 百な人」彼らは、一人で百人を引受けても大丈夫だ、と威張っていた、ところが俺達にかかったら抵抗もできなかったと、なぜ抵抗できなかったかというのは、おそらく国譲りという、出雲を先をやっつけて国を譲らして、その情報を手にいれたからじゃないかという問題があるのですが、その辺もくわしく書いてあります。そういう天孫降臨の時の戦闘歌謡ではないかという、従来の日本の歴史や歌謡の理解法からみれば素っ頓狂な話に、しかし私にすれば論理的な帰結に、論理に導かれて至ったわけなんです。そこまではこの本に書いてあります。
そして、それを元にして、中国のあれはたしか蘭州だったかと思いますが、ホテルで気がついたのはどういうことかと言いますと、この神武歌謡の中にもう一つ変な歌がある。「楯(たた)並(な)めて 伊那佐(いなさ)の山の 樹(こ)の間(ま)よも い行きまもらひ 戦へば 吾はや飢ぬ 島つ鳥 鵜養(うかひ)が伴(とも) 今助(す)けに来(こ)ね」。島つ鳥の「島」が固有名詞、地名だろうという話の「島」はこれなんですがね。伊那佐の山で戦っていた、ところが長い期間がたって私は飢えてしまった、島つ鳥の鵜養が伴よ、今助けに来てくれ、とこういうんです。これは大和の奈良県に伊那佐という所が字地名であって、そこだろうと普通注釈されているわけです。しかし考えてみると変な話で、島つ鳥の「島」は福岡県の糸島郡の「志摩」だとしますね。で、「鵜養が伴」ってちゃんとあるんですよ。博多の西隣の糸島郡の北岸、玄界灘に臨んだそこが鵜の名産地、海鵜がたくさん集まってくる所の一つなんです。筑後川の鵜飼というのが今ありますが、そこの鵜は糸島郡の北側の鵜を取ってきてやるっていうんですね。そういうことですから「島つ鳥 鵜養が伴」っていうのはとてもよくわかるんですけどもね。それはいいんですが、奈良県にいて「鵜養が伴、今助けに来ね」といったって応援に来るはずはないです。食料持ってくるはずもないじゃないですか。というんでこりゃ何か変なことだなあと思っていたんです。
ところが、中国の蘭州のホテルで気がつきましたのは、「どこかに伊那佐の浜があったな」ということ、そのすこし前に古事記に「出雲の国の伊那佐の小浜に降り到りて」と書いてある。要するに天照大神の使いとしてタケミカヅチと天鳥船神の二人が国譲りの交渉に行きますね。そして大国主に交渉したら、もう私は引退しているので息子の事代主に聞いてくれ、というんで事代主の所へ行った、美保の関で釣をしている所へ行って言うと、承知しました、と言って彼は国譲りを承知したという話をわれわれは知っているわけです。ところがですね、この美保の関の話が私にとっては発端になっていたんです。なぜかと言うと、ここへ朝日トラベルの旅行で行きました時に、美保神社の入口で一人の方が「古田さんちょっと来てよ、おかしいよ」と言うんです。「何ですか」と言って看板の所に行きまして、そこに書いてあるのを見ると、事代主は海の中に身を投じてかくれ給うたと、それを土地の人々は手を握って沈んで行く事代主をみて嘆き悲しんだと、その嘆き悲しむ姿が現在の神楽になって、四月のはじめに毎年おこなわれる神楽はその身振り手振りを表わしたものである、ということが書いてあるわけです。
その方が言うには「この事代主は投身自殺ですね、自殺ですよこれは」とおっしゃるわけです。なるほど読んでみればそう見える文章なんですね。ところが私の頭ではそういう考えはぜんぜんなかったんです、古事記・日本書紀読んで。なんか国譲りの模範生みたいな「はあ、どうぞどうぞ、いともかしこし」という感じで国譲りをしたような、そんなふうに私の頭にインプットされていたんです。私は戦前に少年時代、そういう教科書で習ったから。ところが現地ではぜんぜん違うわけです。考えてみるとこれはどうも現地の方が本当じゃないか。われわれが習った古事記・日本書紀の方は天皇家側の目で、国譲りをやらした側の成功譚として記録している。ところが、やらされた方はたまったもんじゃないですね。事代主は「戦い利あらず」ということで、自分さえ身を捨てれば民衆は助かると、これ以上戦っても死者が増えるだけであるといって海の中に身を投じていった。だから民衆はその心を知って嘆き悲しむわけですね。それが、弥生時代から二〇世紀の今日まで嘆き悲しむ祭りが続いている。すごいですね。
古事記・日本書紀は勝った方の、強引に承諾させた方の立場で記録している。が、現地の伝承の方が本来の姿ではないか、という問題に私は目を見開いてきた。私ははじめ、一人で美保の関へ行ったんですが、その時は何も気がつかなかったんですね。目は節穴で、やっぱりああやって何人か寄れば文殊の知恵じゃないですけど、私の全然気がつかないことを見てね、教えてくださったおかげだったんです。そういう、一つの経験があったわけです。
それで今度も気がついたんです。つまり、二人がいきなり最初から行って国譲れって、そんなバカな話はないですよ。何をバカ言うんだ帰れ帰れって言われるに決まっています。果物一つくれと言いに行くんじゃない、国全体をくれ、主権もよこせっていうの、そんなもの簡単にいくはずないじゃないですか。じゃ何か。当然ながら侵略軍が入ったわけですよ。侵略軍が伊那佐、これ出雲大社の前にあるんですよ現在もね、その伊那佐の山にこもる。出雲の大国主の方はこれを迎え撃つじゃないですか、で包囲するわけじゃないですか、そうすると孤立して伊那佐の山にこもるわけじゃないですか。そこでがんばっていればやがて本隊が来ると、本隊というのは糸島郡の鵜養が伴ですね。早く来てほしいと。これは簡単に来られるわけですね。対馬海流が通っていますから。連絡が行ってくるか、予定していてやがて行くということになってるかもしれませんですが、きっと来るわけですよ。で、それが来るまで持ちこたえて、お腹をすかせて、その時の歌なんですね。だから本隊が到着したら形勢が逆転して、大国主側は劣勢に追い込まれた。だから大国主は「もう、やむを得ません。しかし事代主に聞いてくれ」ということになった、当然、事代主の方も攻めたわけですよ。事代主の方も初めは抵抗して戦ったわけでしょう。しかしもうだめだということで、投身自殺をする。
ですからね、私はさかんに国譲りは歴史事実だ、天孫降臨は歴史事実だと、こう言ってきたんですね。しかし、それは、マッカーサーがパイプをくわえて飛行機から降りたのは歴史事実だという、そういう類の歴史事実なんですね。その前の太平洋を舞台にする激烈な戦闘があったわけで、それをバックにした花のところは、日本側で天皇が放送をするとか、マッカーサーが降りてくるとか、そういう話になってくるわけです。国譲りを承知したとか、天孫降臨で降りて来たら、鼻の長い神さんが迎えたとかね、あれは花の表のところだけなんです。その裏のところ、ほんとうのところは今のような具合なんです。しかもこの場合、興味深いのは、出雲に手を伸ばす前にすでに糸島郡に侵入軍は入っているということですね。
これは現地の鬼塚さんから聞かされたんです。鬼塚さん曰く、「もし天孫降臨が歴史的事件の侵入であったとすると、まず今山に来たと思います」。糸島郡に今宿(いまじゅく)という所があるでしょう。博多と糸島郡の境になる所、そのちょっと西北が今山なんです。その今山に来たはずです、と。なぜかというと、今山というのは石斧の産地なんです。そこの一番いい材料で今山で作った石斧が、後の銅剣・銅矛・銅戈の分布と同じで、金属器時代の前の縄文、弥生初期の時代においては今山こそ武器の中心の原点だったわけです。だから、筑紫の板付、曲り田、菜畑を支配しようと思えば、まず今山を攻めるべきだ。しかも、鵜も今われわれはのどかな話のことしか思いませんが、当時は弓矢の矢の羽を鵜の羽で作る。矢の方向指示器なんですね。弓矢ってのは重要な武器ですから、それにとって鵜の羽というのは大事なんですね。だからそれの名産地ですから。どれをとりましても、糸島郡の志摩の地を攻めるべきだ。ということを灰塚さん、鬼塚さんのお二人から教えていただきまして、なるほどと思ったんです。
で、確かにここに侵入している。しかし「一人 百な人」でなかなか彼らは屈服しないわけです。だから今度はボス、位取りはボスだったらしいんですが、出雲を襲って屈服させて、そこから情報を得たんでしょう。返す刀でやって来て屈服させた。「一人 百な人 人は言えども抵抗(たむかひ)もせず」。こううそぶくような結果になった。
というようなことで、国譲りの時の戦闘歌謡がここで歌われていたという。私にとって思いがけもしないような問題を中国の蘭州で見出すことになったわけでございます。
さて、前半も終わりとなってきましたので、二、三申し上げておきます。
さらに去年の一一月のはじめ、私が得ました喜ぶべきニュースがございました。山陰中央日報という島根県の一番大きな新聞でございますが、そこに載った記事のことです。風土記が丘資料館で黒曜石の展示をした、という内容で、これは山口県の県立山口博物館に戦前から寄付されて持っていた石器類一七〇点、それを何点か島根大学の教育学部の三島教授に鑑定してもらった。それは北朝鮮、韓国から出土した黒曜石の鏃だったのですが、いずれも島根県の隠岐島産の黒曜石であることが判明したと、こういう記事なんです。
これは私にとって非常にうれしい記事でございました。なぜかと言うと、ご存知の方も多いと思うんですが、私はかつて三五八本の銅剣、私は銅矛だと思っておりますが、それが出ました時、シンポジウムが斐川町で行われまして、その時にですね、私は非常に怖い仮説を発表いたしました。それは何かといいますと、有名な国引き神話、出雲風土記に出てくる国引き神話では四ヶ所から国を引っ張ってきたことになっている。その第一番目は新羅から、、第四番目は越の国から引っ張ってきた、能登半島あたりだろう。これはまあだいたい異論がない。問題は第二番目と三番目ですね。北門の佐伎の国が二番目、北門の良波の国が三番目、そこから引っ張ってきたと書かれている。
従来これは島根県の日本海沿いの地点に当てる見解が岩波の日本古典文学大系などで書かれております。また隠岐島に当てる見解も出ておりました。が、私はこれに満足できなかった。なぜならば確定している第一番目と第四番目で考えてみると、それは出雲でない場所である。新羅も出雲でないし越の国も出雲ではないわけです。現代の日本国家の内でも外でもいいと。越の国の能登半島は内ですけど新羅は外ですね。どっちでもいい。そして北門という言葉が四回の中二回出てくるんだから、かなり大きな領域であるわけで、しかもそれは出雲から見て北に当たっている。そして門と書かれているから出口入口、つまり港である。出雲から見て北に当たっており、大きな港である、とこれだけ条件がそろえば地図を開かなくてもわかるわけで、ウラジオストックしかないわけです。二番目の北門の佐伎の国というのは、ウラジオストック側からみまして、右腕に当たる所に北朝鮮があって、ここにムスタン岬という世界地図にも姿を表わすような大きな岬がある。これがそうです。北門の良波の国の方は沿海州をバックにしたウラジオストックであろう、とこう考えたわけです。つまり日本海の西半分の世界から国を引っ張ってきたという壮大なスケールの神話であろうと、そして時代は縄文時代であろうと、この神話が作られたのは。なぜならば、ここには金属器がない。古事記・日本書紀の国生み神話には、天の瓊(ぬ)矛。天の瓊戈という二つの武器が登場する、そして筑紫が原点になっている。私の神話と考古学の接点を考える最初の問題になったのは、この国生み神話なんです。
この点はわれわれが現在知っている考古学的知識と一致する。つまり弥生時代、博多湾岸の筑紫を中心にして銅矛や銅戈の鋳型がおびただしく出土する。実物も出土している。そうすると、筑紫と矛、戈という考古学の示す出土中心と、神話が示す所は一致している。これは津田左右吉が言うように、六世紀以後の天皇家の史官が勝手にデッチ上げたお話ならば、考古学的文物と一致するということはあり得ない。だからあの神話は大和で作られたんではない。筑紫で作られたんだ、作られた時期は弥生時代である。弥生時代に作られたから、矛・戈というのが遺物の中心として語られているのだと考えたわけですね。作ったのは筑紫の権力者の支配を合理化、正当化するために、あの大八州国の話を作ったんだ。デッチ上げたんである。デッチ上げたのにはちがいないが、それは彼らの政治目的があって、権力としての理由があって神話を作らせたし、またたくさん出てくる実物も、武器そのものには鉄の方がいいわけですが、そういうコマーシャルのために、ああいうものを作らせて公示させたのである、というふうに考えていったわけです。
そういうふうに考えますと、出雲の国引き神話には金属器が出てこない。あそこでは綱と杭しか活躍してないわけです。綱で国を引き寄せて杭にしばりつけるという動作を四回繰り返している。そうするとこれは、金属器がまだ日本列島に入ってきていない時期に作られた神話である。つまり縄文以前に成立した神話である。そして作ったのは出雲の漁民である。彼らの生活の重要な動作だけで神話全体が構成されている。ですから、まとめて言うと、縄文時代の出雲の漁民が、日本海の西半分を世界とみなして作った神話である、と。こういうことを述べたわけですね。
これもたいへん冒険的な仮説であったわけです。それを確かめるために私はウラジオストックへ行ったわけです。学界のシンポジウムに加えてもらって行ったわけです。ところがその時は、ウラジオストックの博物館が長期休暇中で、私が求めていった物を見せてもらうことはできなかった。私が求めた物というのは言うまでもなく黒曜石の鏃であった。私の仮説が正しければ、出雲の隠岐島はすばらしい黒曜石の産地ですから、これの製品がウラジオストックから出るべきであると、それがまったく関係がないんだったら私の分析はウソだ、とこう思って行ったんですね。ところがその時は空振りに終わったんですが、それから八ヶ月たってソ連の学者が黒曜石の鏃を七〇数個持って日本にやってきた。そして立教大学の原子力研究所の鈴木教授に測定してもらったら、その七〇数個の約五〇パーセントが出雲の隠岐島の黒曜石であった。そして四〇パーセントは北海道の札幌の南にある赤井川の黒曜石、これは津軽海峡圏がそれを使っているわけですが、最初は秋田県の男鹿半島という話があったんですが、後に訂正されました。一〇パーセントは不明である。ということで、その遺跡の時期はソ連側で調べているわけで、これが縄文後期、今から三千五百年前後の時期の遺跡で、ウラジオストックを中心にする約百キロの範囲内の三〇いくつかの遺跡から出土した黒曜石の鏃を持ってこられたわけですね。
ということで、私の分析は見当ちがいではなかったということがわかったんですが、しかしまだ不十分であったんです。なぜかと言うと、北朝鮮と韓国の話がわからなかった。で、韓国なんかに行くと、博物館にはちらちら黒曜石の鏃があるのを見るんですが、みな産地の分析・測定をやっていないんです。見た目にはどうも出雲の隠岐島らしいとか、九州の腰岳のらしいとか、一生懸命こっちも見てますので、目ではそういう感じを持ったんですが、目だけでは結論出ませんでね、残念ながら引き返していたんです。ところが今回測定してみると、北朝鮮、韓国いずれも島根県隠岐島の黒曜石を使っていた。また同じ記事に能登半島にも出雲隠岐島の黒曜石が出てきていた、広島県からも出てきていたということが書かれていた。これは当然ですね。ということで首尾よく、私が分析した四ヶ所とも、出雲の黒曜石の鏃が出てくる地帯である。つまり縄文時代に交流のあった地帯であったということがわかってきたわけです。
ということはですね、私にとっては国引き神話の分析が正しかったということだけではないわけです。つまり私の話をお聞きになっておわかりのように、私の論理は二階建てになっているわけですね。一階の方は国生み神話、古事記・日本書紀の国生み神話、これが銅矛。古事記・日本書紀の多くは天の瓊(ぬ)矛ですね。で、日本書紀の一書に一つだけ天の瓊戈が主役である。しかも筑紫が中心であると。それと考古学的な鋳型等の出土中心が一致するというところからきたわけです。それを一階建てにしまして、その上に立ったら、金属器の出てこない国引き神話は縄文だ、というあぶない論理を進行させたわけです。ところが二階建てがほんとうだったわけですね。そうすると一階建てもほんとうでしょうね。一階建てはウソだけど、その上に建てた二階だけはほんとうなんて、まあないでしょう。だから一階建てはやっぱりほんとうだった。つまり古事記・日本書紀の神話はデッチ上げではなかった。あれを後世の造作物と見た津田左右吉の造作説は正しくなかった、と、そこにくるわけですよ。
だから私は、こういう問題の進展をこの何年か言っているのに、いぜんとして考古学者や古代史学者はぜんぜん相手にしてくれないと思ったら、やっぱりみんな頭のいい人達だから、論理が今のように進行することがおわかりなんですね。そこまでくるとややこしいと、古田にもう少し先をやらしておこうと、こう親切に思ってくださっているんであろうと、私は思っておりますが、要するに、古事記・日本書紀の神話がたんなる後世の造作ではなかったということを、島根県の山陰中央日報の記事が証明することになったわけでございます。
以上で大体時間がまいったのですが、もう一つだけよろしいでしょうか。もう一つだけ簡単に言わせていただきまして、くわしくは後半で必要に応じて述べさせていただきます。
去年の一一月の終わりに吉武高木。福岡市の西寄りの高祖山からみると東寄りの、室見川と日向川が合流する所に出てきた日本最古の三種の宝物を持つ弥生の王墓ですね。これの東側五〇メートルの所から宮殿群の跡が出てきた。宮殿跡という報道をみなさんご覧になったと思いますが、くわしく現地の市教委に確認しますと、宮殿を取り囲んでまた宮殿があるという、だから宮殿群なんですね。これ、やがて次々発表します、ということです。
考えてみると吉武高木もそうで、三種の神器、つまり藤田友治さんが言っておられるように正確には三種の宝物なんですが、これを取り囲んで二種とか一種とかがごろごろ、そして甕(みか)棺や何かが取り巻いているわけですね。三種を中心に二種や一種が取り巻いた王墓群なわけです。主墓を取り巻いて副墓群ですかね。その東五〇メートルに、宮殿一つではなくて宮殿群が出てきたわけです。これは私にとってたいへんな大ニュースでございました。
さっそく現地へまいりました。『「邪馬台国」はなかった』で不弥国は姪の浜、ここが邪馬一国の玄関、とこういう言い方をしたわけです。ということは、不弥国に入った中国の使いは、目の前に室見川の中流あたりに、何かを見たんです。墓を見たって言うんじゃね、ちょっと物足りないでしょう。やはり建物が、それも今までの唐津や糸島なんかで見てきたのとは違った、これぞ女王国、というような何か建物があったわけじゃないですか。そういう問題が一つあったわけですね。
ところが、私がこの本を書いた時分に、九州大学の考古学研究室へ日参しました。確かあの時は高倉洋彰さんが大学院生(博士課程)の時だったと思うんですが、大変お世話になりました。「室見川の流域に何か出ませんか」「出ません」「だって糸島郡に出ているし、春日市に出ているんだから、その間だから何か出てるでしょう」「出ていません、あそこは何もないことが特徴なんです」と言われたのを忘れませんがね。ところがそれから後、吉武高木の王墓群が出てきたわけです。あれだけでもよかったんですが、よかったっておかしいんですが、あれだけでこっちは満足していたんですが、さらに宮殿群が出てきた。
これはまた、私にとって非常にありがたいのは『ここに古代王朝ありき』(朝日新聞社)の中に、「室見川の銘版」という章を設けてある。これは室見川の下流で出てきた文鎮みたいな金属版で、それをけとばして拾って帰られた原さんという学校の体育の先生がいらっしゃった。そこに後漢の年号があって、宮殿がここに建立されたという記事があったと。それをほとんどの考古学者は相手にしませんでしたが、私は現地へ飛んで行って見せてもらいました。長崎県で校長さんになっておられましたが、見せていただいて、これはどうも偽物ではないと。で、私の解読では、ここに宮殿を作ったと書いてある。室見川の下流というのは弥生時代は海ですからね、室見川の中流・上流あたりから流れてきたんだろう、が、上流というのは都地という所で狭すぎますので、中流あたりに宮殿があったと。そこに作られたもののこれは流出物であろうと。これも怖かったんですが、書いたわけです。もっと簡単には、朝日文庫に入っている『古代は輝いていた』の第三巻にも、このことがちょっと要約して載っていますが、やっぱり怖かったですよね。あんな室見川の中流に宮殿なんかないのに、あったに違いない、そこから流れ出したに違いない、と書いたんですから。ところが、今度宮殿が出てきたんですね。
これもおもしろい問題を言いますと、卑弥呼の時代の三世紀からみると、これは約四〇〇年くらい前になりますね。宮殿跡はBC一〇〇年とか二〇〇年とか言っていますから。だから少なくとも三〇〇年、多くて五〇〇年、ま、四〇〇年前後だということになるわけです。そんな前の、時代が違うじゃない、とこう言いますね。ところが、ここで変な話をしますが、日光の東照宮、あれは今から何年前か、だいたい四〇〇年くらい前ですわね。江戸時代のはじめみたいな顔して建っていますよ。建て直したり修繕したりしていますが、しかし江戸の初期らしい顔をして今も建っているじゃないですか。その間には明治維新という中心権力の変動があった。東照宮には三種の神器なんてないでしょう。ところが明治以後、三種の神器を神宝にする時代に変わったわけです。明かに文明のシンボルが激変したにもかかわらず、日光の東照宮のことは忘れられていないし、また日光の東照宮らしい顔をして在るわけです。ところがこの場合、三世紀の卑弥呼の時代は、やっぱり鏡を大事にする時代であり、そして矛が宮殿を取り巻いている時代であるわけですから、基本的には吉武高木と同質の文明なんですよね。その同質の文明の四〇〇年とか五〇〇年とか前の吉武高木のことを忘れて、ぺんぺん草だけで他に何もなかったはずはないわけですよ。何回建て直したにしても、当然三世紀から見たらいかにも古い宮殿に見えるものがあったわけですよ。こう考えますと、今回の宮殿群の跡が見つかったということの意味は非常に深いです。
ということで時間が過ぎましたので、ここで前半を終わらせていただきます。
後半に入らしていただきます。さきほどの最後に申しました問題で、じつは一つ続編があるわけです。といいますのは、福岡市西区拾六町という所から家型土偶が出たという報道がありました。ご記憶かもしれませんが、これに私は注目したわけです。なぜかと言うと、これは時期が弥生前期後半という時間帯なんですね。福岡市の教育委員会とか考古学の発掘関係の方には有名な言葉なんですが、「前末中初」という言葉があるわけなんです。つまり前期末と中期初頭でバーっと出土物が一変するわけですね。それまでは金属器があまりないんです。三種の宝物とかはみんな中期初頭以後なんです。出土物が一変するんです。それはもう常識でして、「前末中初」の前だ、後だという話がいつも出るわけです。
私の立場からみると、これは非常におもしろいわけです。何かというと、天孫降臨というのが歴史的事実だと言いましてもね、その天孫降臨といっている時期の前と後、何も出土物かわっちゃないよ。ということだったら大したことはないわけですよ。ところが今のように、考古学者は神話を相手にしないことを習慣づけられていますが、その人達が「前末中初」で出土物が一変すると言っているんです。これはつまり、天孫降臨、支配者が被支配者を駆逐したというか、その上にのしかかったというか、それで文明の姿が一変するわけですね。
それから、板付の場合、縄文水田と弥生初期の水田があるということをみなさんお聞きになっている。縄文の足跡なんていうので。ところが、あそこに弥生中期の水田や後期の水田ていうのはないんですよ。それも不思議なことですよね。不思議だけどよくわかることです。つまりその水田を作っていた人達は殺されたり追い出されたり逃亡したり、同じ場所で中期水田は続けられなかったということを意味しているわけですね。縄文水田があり弥生初期水田があるっていう事実はみんな知っているのにね、なんでそこで断絶したんだろう、という問いをせずにきていたんではないでしょうか。また問いかけても、神話は津田左右吉先生がおっしゃったように歴史とは関係がない、とこういうようにしてしまうと、説明のしようがないでしょうね、おそらく。
さて、お聞きになったらわかると思うんです。今の家型土偶ですね、家のかっこうをしていて穴がいっぱいあいてましてね、これはミニチュアで祭祀の場に、胴に突きさすように下に穴があいているそうですが、その上に乗っけて祭祀の場に飾られたんだろうという説明で新聞に出ていましたがね。そうだと思うんですが、家型というのは単なる家ではないと思うんです。祭祀の場で使うんですから、神殿であり宮殿であると思うんですね。しかも前期後半ですから「前末中初」より前なんです。ということは、侵略された人達の、つまり板付の水田の人達の神殿の土偶だ、とこうなってくるんですよ。
その出土した場所は、室見川の下流の壱岐団地、そこは「市民の古代・九州」の世話役をしていらっしゃる灰塚さんがいらっしゃる所ですが、その壱岐団地の隣が拾六町、そこで出てきている。そうすると、室見川は「前末中初」以後には吉武高木の宮殿群があったわけでしょ。ところが、「前末中初」の前にも神殿が、祭祀の場があったということですね。そして、それまでの祭祀の跡をぶっ壊して新しい支配者が自分達の宮殿や墓地を作ったという感じになってきますね。
まあ、支配者、侵略者というのは普通そうするんでしょうね。それまでの被支配者の分も大事にして、なんてことはあんまりしないでしょうね。日光の東照宮がぶっ壊されなかったのは、何か妥協が成立したからでしょうね、最後まで抵抗して戦っていたら日光の東照宮もぶっ壊されていたでしょうね。おそらく。
そこで考えてみると、天皇陵の下には何があるんだという問題が出てきますね。普通、天皇陵の発掘というと、石室の発掘が焦点でしょうけれどね、ほんとうは私なんか、あの下を知りたいというのがあるわけです。まあ、そこまでいくと余計発掘はいやだということになるかもしれませんけどね。しかし問題としてはあるわけですね。ああいう天皇陵群がずっとある。ところが、神武が侵入する以前、なんにもなかったただの平地なのか、あるいは、それ以前の人達にとって大事な神聖な祭りの場だったのかという問題は、歴史学の問いとしては避けることはできないわけです。まあ、そんなことでちょっと付け足させていただきました。
さて、それでは後半のテーマに入らせていただきます。今日の題目が「筑紫朝廷と近畿大王」という変な題だと思われたと思いますが、これはこういういきさつなんです。
二、三年前だと思いますが、南九州へ行きました。これは朝日トラベルの旅行の講師で行ったんですが、その時バスの中でそれぞれ自己紹介と質問とか意見とかを一言ずつ言われたわけです。その時に山本真之介さんという方が、東京に、略称では古田会といっておりますが「古田武彦と古代史を研究する会」というのがありまして、読者の会で古い発祥を持っている会なんですが、そこの会長をながらくやっておられる方なんですね。何か鉄の関係の大きな企業の部長さんだか専務さんだかやって退職をしておられる方なんですね。この方が立って挨拶された時にこういうことをおっしゃたんです。
「私は古田さんとつき合いが長いけれども、当時から古田さんはまったく進歩しておらん。どうもよくわからんと思っていたけれど今でもぜんぜんわからん、進歩がない」。私何を怒られているんだかよくわからなかったんですね、最初。どういうことかと申しますと、「九州王朝ということを古田さんは言う。そして近畿天皇家と言う。九州王朝と近畿天皇家がどういう関係だかさっぱりわからん。古田さんによると近畿の方が分家だというから、そして九州の王が中心で王朝だというなら、たとえば近畿幕府とか、幕府はちょっとおかしいかもしれんが、まあ九州王朝と近畿幕府というならよくわかる。しかし九州王朝と近畿天皇家って言われたんじゃ何のこっちゃわからん。わからんと最初思ったけどいまだにわからん。ぜんぜん進歩がない」というね、もう八〇歳らいの方ですがね、聞いてて、ああこれは非常に鋭いことを言われたという気がしたわけです。つまり九州王朝なるものと近畿天皇家なるものとの位取り関係が言葉として表現されていないじゃないかと、どっちも顔を立てているような、そういう言い方じゃだめだ、という趣旨だろうと思うんですね。さすが往年、厳しい企業におられた方、面目躍如という感じが致しました。
私が近畿天皇家という言葉を使ったのは、じつは上田正昭さんとかかわりがあるんです。私ははじめのころ、『「邪馬台国」はなかった』を書いて間もないころと思います。上田正昭さんの「大和朝廷」という説を引用していたことがあったんですね。そしたら上田さんから私の所に電話がかかってきまして、京都の向日町にいた時ですが、「あなたの本を拝見しました」と、おそらく、朝日新聞から出たのやいろんな方の講演を集めた「邪馬台国」関係の本じゃなかったかと思いますが、「私のことを大和朝廷云々と書いてあったが、あれは違いますよ。私は応神とか仁徳とかあの辺のところについて大和朝廷という言葉は使っておりません」。「あれは難波にあって大和ではないですからね、だからあれを大和朝廷ということで引用されては困ります」とこういうことを電話で言ってこられた。
上田さんは私とかつての同僚といいますか、私が京都の洛陽工業高校の教師をしていた時、上田さんは泝鴨高校という元の女学校ですが、そこの教師をしておられたわけで、そのころから知ってるわけですからね。そういうことで電話をかけてご注意いただいたんです。なるほどと思いましてね。確かに大和朝廷とこう言えば、大和に天皇陵があったりする場合はいいけれども、大阪の方にある場合はその表現では適切ではないんだなとこう思いましてね、そこで考えたのが近畿天皇家ということだったんです。近畿なら大和だって難波だって近江だって入ると、そして天皇家というのは八世紀以降天皇家を名のるわけですから。だから近畿にいて、八世紀以降天皇家を名のった家、という意味で近畿天皇家という言葉にしようということでそういう言葉を使ってきたわけです。ところが、山本真之介さんのご批判のように、聞いている方じゃ両方共何となく同じ時間帯にあるような感じがいたしますよね。そうすると位取りがわからない、こういうご批判が出てくることになるわけです。
そういう問題意識を持っているうちに、今回の問題にぶつかった。それは柿本人麿の歌ですね。
柿本朝臣人麿、筑紫国に下りし時、海路にて作る歌二首
名くはしき稲見の海の沖つ波千重に隠りぬ大和島根は
大王の遠の朝廷とあり通ふ島門を見れば神代し思ほゆ
巻の三ですね。大王の遠の朝廷、これは今までに論じたことがございます。『古代史を疑う』(駸々堂)という本の中で「大王の遠の朝廷」を論じていますので、くわしくはそれを見ていただけばいいのですが、要点を申しますと、万葉集の中に、大王の遠の朝廷という言葉が八回出てくる。その大部分六回は筑紫の太宰府の地を指して使っている。岩波の日本古典文学大系その他で解釈をしていますが、どうもその解釈は正当でないのであって、いずれも太宰府を指して使ったとみなければならないと。一つ一つ歌を吟味してそういう結論に達しました。
ところが例外は、時期的に一番最後に出てくる大伴家持の歌二首、これはぜんぜん違う場所つまり越の国を指して使っている。大伴家持がそこに赴任した時に作った歌に出てくるわけですね。あれは時期的に一番最後ですから、大伴家持が従来の用例を参考にしながら、それの応用編として新しい使い方を示したものと見るべきであろうと、それ以前は太宰府を指して使われている。こういうことを分析したわけですね。
証拠といえば、あげればいくらもあるんですけども、たとえば大伴家持が仙台の多賀城のところへ行った時には「黄金花咲く」という、特に長い長歌を作っていますが、その長歌の中では一回も、大王の遠の朝廷という表現をつかっていないわけです。越の国だけに使っているわけですね。この点ですね、従来の理解、つまり辞書にも必ずこのことが出てきますが、そこの解釈は、近畿天皇家のまあ大和朝廷の地方の役所を指す、とこういう解釈になっている。これはやっぱりおかしいわけです。だって地方の役所が遠の朝廷なら、日本中地方の役所があっちこっちにたくさんあるわけですから、もう遠の朝廷だらけでないといけない。ところがさっきのように家持の新しい使い方以外は全部太宰府を指している。四国へ行ったり島根県へ行ったり山口県へ行ったりした時に、大王の遠の朝廷という言葉はぜんぜん使われていない。地方の役所という解釈では史料事実は説明できないということを私は述べたわけです。
では、何かというと、答えは簡単でありまして、つまり大王と言っているのは「大王」を「おほきみ」とよんでいるわけですね。大王というのは持統天皇とみていいだろう。人麿の歌は大体持統天皇の時の絶対年代がわかるのに集中しています。天武もあるかもしれんが。せいぜい天武。持統というその辺を大王と指していることは間違いがないわけで、ところが朝廷というのは、これは一つしかないわけです。地方の役所を朝廷と、「みかど」とよんでも字は「朝廷」と書いてるわけですが、原文が「朝廷」ですからね。「みかど」というのは後でつけた呼び名にすぎませんからね。地方の役所が朝廷だったら日本中朝廷だらけ、中国なんてもう何千も朝廷がある。そんなことないわけで、朝廷は洛陽とか長安とか天子のいる所しか朝廷と呼ばない、というのが東アジアの常識、中国が東アジアに示した常識ですから、どんな常識より大事な常識は、「朝廷は一つしかない」という常識である。それが地方の役所みんな朝廷という、そんなべらぼうな常識はどこにもない。早い話が日本書紀みて、地方の役所をみな朝廷と書いてあるか、ぜんぜん書いてないです。ということで辞書のあの解釈はとんでもない解釈になるわけです。
しかし、もう一歩進めて、大王のいる所は朝廷とは言わないわけです。たとえば史記なんかで項羽ですね。有名な項羽・劉邦。項羽を大王と呼んでいますね。項羽のいる所を朝廷というか。言いやしませんよ。大王のいる所は朝廷と言いません。朝廷というのは天子のいる所しか言わないわけです。だから大和は、大王のいる所ですから朝廷ではないわけです、人麿にとっては。そして太宰府を朝廷と呼んでいるんですから、そこは天子のいる所とみているわけです。これは当たり前なんですがね。こんな当たり前の解釈、今までだれもしてないのが不思議ですよね。地方の役所と称して済ましてきている。Tennology(テンノロジー)もいいところ。テンノロジーというのは私の作った言葉で天皇中心主義。皇国史観というと「戦前で卒業した」というイメージがありますので、いやいや卒業していませんよ、戦前戦後を通じて大和中心主義・天皇中心主義のイデオロギーにからまれていますよ、という警告を発して、私はテンノロジーという言葉を使っているんですが。そのテンノロジーに立って解説するから、地方の役所が朝廷だという、東アジアの用語例を破り、日本書紀・続日本紀の用語例もすっかり打ちくだくような解釈を平気でやっているわけなんです。
さて、それでは筑紫に天子がいたか。ちゃんといた証拠、痕跡があるんですね。といいますのは、太宰府の奥まった所、太宰府の都府樓跡というのがありますが、そこの右奥になる所が字紫宸殿という字です。私の家があります京都の向日市に字大極殿というのがありまして、ごんぼがよくできるという畑だったんです。それが幻の長岡京が発掘されてみると、そこが大極殿だった。だから八世紀から二〇世紀まで、大極殿と土地の人が呼んできておったのが大極殿だった、と。当たり前の話ですね。お百姓さんが思いついて自分の畑に大極殿という名をつけてみたってだれも採用してくれるはずないです。その地域の共同の常識として皆がうなずいているから大極殿と言い続けてきているわけですね。八世紀から二〇世紀までその地名は連続しているわけです。和名抄とかにはぜんぜん出てませんけどね、そんな地名は。しかし連続している。すごいですね。やっぱり地名はいかに大事かということを感じますがね。
それと同じようにね、太宰府の奥に紫宸殿があるんです。あんなものだれかがすっとんきょうにね、私の畑を紫宸殿と言う、なんて宣言したってバカにされるだけです。紫宸殿があったから紫宸殿。一番簡単ですね。しかもだいたいね、太宰府というのがおかしいですよ。太宰府というのは、「太宰」が総理大臣ですからね、総理府ということです。で、総理府は、今の話でいうと宮沢首相の住んでいる総理府は、皇居と同じ東京にあるわけです。それが宮沢首相が北海道に住んでいて皇居は京都にあったりすれば不便でしょうないですね。同じまちにあるのが常識なんです。
中国の太宰府、太宰府というのは当然中国の言葉ですが、洛陽に天子がいる時は太宰府も洛陽にあるわけです。そして南朝で、建康、今の南京ですね、そこに南朝の天子がいる時に太宰府はその同じ場所にあったわけです。これは宋書なんかをみるとはっきり出てきます。太宰府という言葉は何回も出てきます。太宰も出てきますがね。天子と太宰府は同じまちにいる、と。これは当たり前すぎる話なんですね。
それを、大和に天子がいて総理府を博多に置くなんて、そんなバカバカしい話はないわけです。言葉は中国が原点ですが、そうかと言って南朝の建康に天子がいて、その総理大臣が博多にいるというような、そんなバカなことはもちろんないわけで、要するに天子のいる所のそばに太宰府はある、太宰府という用語からみたら、それ以上にないんです。あるとおっしゃる方がいたらそういう例を出してほしい。天子は洛陽にいて太宰府が南京にあったなんて例があったら、その例を出してもらいたい。私は知りませんね。第一不便でしょうがない。
そう考えてみると、紫宸殿と太宰府とが同じような場所にある、これはもう当たり前の話なんですね。こういうふうにみてきますと、日出ずる所の天子、多利思北孤、これは「阿蘇山あり。」と隋書に書いてある。これはやはり九州の天子である。近畿天皇家の推古天皇や聖徳太子ではないと、私は二〇年来言い続けてきて、『失われた九州王朝』でもそれを述べてきましたが、それと同じことを柿本人麿が歌で使っている。その歌は、みんながよく知っているのに、そのように今まで考えてこなかった。
このことに最近私が特に関心を持ちましたのは、「大王の遠の朝廷とあり通ふ島門を見れば神代し思ほゆ」の「島門」はどこかという問題について、去年の五月二日でしたか、新しい扉に到着したわけです。これはさきほどからお名前が出ております中小路駿逸さんが、私の所に電話をかけてこられた。それは「九州へ行って講演をして来ました。その時灰塚さん(鬼塚さんと友達の灰塚さんがですね)、『島門っていうのは九州にありますよ』と。『え、それはどこですか』『それは遠賀川の下流、北九州のそばにあります』と、ずっと警察におられた方ですから土地勘があるわけですね。それで『じゃそこへ行ってみたい』『じゃお連れします』っていうんで(鬼塚さんの車だと思いますが)灰塚さんとごいっしょにお連れいただいた。そうすると確かに島門という地名が遠賀川の下流にあった。どうでしょう古田さん」というわけですね。
つまりこれは前後しますが、普通の解釈では、明石海峡のことを島門といったんだろうというのが一つの説、今度は岡山県の吉備の児島の近辺だろうというのが第二番目の説、関門海峡だろうというのが第三番目の説、私は関門海峡がいいんじゃないかと思っていた時期があるわけです。『古代史を疑う』の中ではそう書いておりますがね。ところが第四番目の説で遠賀川の河口のところに島門という、これは地名がある、他のところには地名がないんですが、ここだけは地名があるという問題が出てきたわけです。で、私はその時、「それは非常におもしろいんですが、そこから到着点は太宰府にきまっていますよね。大王の遠の朝廷とあり通ふ、といっているんですからね、そして人麿が“筑紫国へ下る”といっているんですね。筑紫国というのは筑紫国の中心である太宰府ということですから、これはだれも異論がないわけです。が、太宰府へ遠賀川の下流から行くにしたらちょっと遠すぎます。途中、宗像とかそういう所にお参りして行くんならいいでしょうけどね。」と言うようなことを言って電話が切れたわけですよ。中小路さんは「島門から裏道伝いに太宰府へ行く山道もあるそうです。入口まで連れて行ってもらいました」っていう話をしておられましたが。
その直後、私は考えてみたんですね。去年三月の終わりに私は博多に一〇日間滞在しました。それもまったく予定を決めずにぶらっと滞在した。といいますのは、最近はしょっちゅう博多へ行くんですが、しかしそれはいずれも何か用事があって、というか朝日トラベルの旅行の講師であるとか、その他の講師であるとか、講演頼まれるとかいうようなことで行くことが多いんです。だからそういう場合はたいていそそくさと帰ってくるんです。九州歴史資料館へ寄ってもちょっと見ただけで、添乗員の方から「ちょっと車が渋滞しているようですから、三〇分くらいで出てもらえませんか」と言われてね。そそくさと見てそそくさと出ていくわけです。これおもしろいなと思ってもゆっくり見られないわけですよ。そういう状態がここ五年、十年続いていたわけですよ。考えてみるとこれはやっぱり堕落じゃないかと。私が最初『「邪馬台国」はなかった』を書く前夜にはですね、春日市に私の中学時代の親友の堀内昭彦君という友人がいまして、彼の家に泊めてもらってその辺をうろつき回った。さきほどの室見川の近所なんかもうろつき回ったんです。やっぱり毎日その辺をうろつき回ってちゃんと見る、ということが大事なんじゃないかと思いましてですね。今回それをやろうということで行ったわけです。
それで太宰府へ行って何泊かして、九州歴史資料館に通ったり、また志賀島へ行ってそこでも泊まって、今まで志賀島へ行ったといっても金印公園にちょっと行ってさっと帰って来る、せいぜい志賀海神社へ行って君が代の伝承地だというんで、行ってさっと帰ってくる、こういうのが多かったんです。志賀島をぐるっと回ったこと、なかったわけです。みなさんもおそらくぐるっと回った方はいらっしゃらないと思いますね。それで今度は歩いて回ったわけです。で、あの一番突端の部分でね。博多の方を見るとじつに「絶景かな」という感じなんですよね。目の前に能古島があってね。
そういう印象があったのがよかったと思うんです。つまり、ここで島門といっているのは、海路で筑紫国へ下ると言っているんですから、当然志賀島と能古島の間を通って那の津へ着くわけですよ。そうすると、右手に能古島、左手に志賀島というね、志賀島は今は島じゃないですが、昔は島だったわけで、まあ島といって差し支えないと思います。それが西側と東側にある。それを人麿は島門とよんだのではないか。この解釈のいいところは「大王の遠の朝廷」これは太宰府ですね。「ありがよふ」っていうのは万葉のほとんどの例では、大道がまっすぐ通っているという用法なんですね。たとえば孝徳天皇が難波の宮に毎朝ここをお通りになるというのを「ありがよふ」という表現の歌が出てきますが、これも“山道をぐるぐる回って”というのではなくて、“大道が通っていていつもそこを通っていかれる”という、これはまあ一つは権力者のコマーシャルでもあるんでしょうけど、それを「ありがよふ」とたたえて歌っているわけです。「ありがよふ」というのはそういう感じの用法が本来なんです。これも家持なんかは違った用法にしますけどね。としますと、他の所じゃ太宰府へすっと通っているというわけにはいきませんわね。明石海峡はもちろん、一番近い字地名の島門にしましてもね。すっと太宰府に通っているというわけにはいきません。ところが、能古島と志賀島の間へ来たらもう目の前は太宰府だけという感じじゃないですか。だから「大王の遠の朝廷とあり通ふ」。
しかも一番いいのは「神代し思ほゆ」と結ばれているわけです。ところが今までのだと、明石海峡でどんな神を考えるのか、吉備の児島でどんな神を考えるのか、関門海峡でどんな神を考えるのか、そして字地名島門でどんな神を考えるのか、ま、神を考えるくらい空想だから勝手だと言われればおしまいですけどね、だから“神の好きな人だなあ”という感じがしてたんです。ところが今回は違うんですね。つまり、博多湾岸の入口に来た船が目の前に、博多湾岸、右手に能古島、オノコロ島の原型かと私が考えていた所、さらにその右手には高祖山連峰、筑紫の日向の高千穂のくしふる峯、そして天照、須佐之男、月読が伊邪那伎から生まれたという、そこが博多湾岸の西半分のところでしょう。能古島の先っちょの向かいですわね。そういう神話の世界の所がざっーと目の前に現われるわけですよ。そしたら「神代し思ほゆ」というのは古事記・日本書紀の神代の巻の神話を思ほゆっていう、そういう感じになるわけですね。だから神を思うっていうのが非常にふさわしいわけですね。ということで私はこの理解が正しいのではないかと、さっそく中小路さんにお電話しましてね。「これは中小路・古田説として言わせてもらいます」ということを申し上げたわけでございます。
この問題、もう一言いわなければ不十分なんですが、ここで人麿が歌っているのは「大王の遠の朝廷」の現在の太宰府の地、そこの遠い光栄ある古の神代のことが偲ばれると歌っているわけです。これは第一のテーマです。しかしほんとうのテーマは第二にある。なぜかというと、その当時の、つまり持統天皇の頃七世紀後半の筑紫というのはどんなところか。白村江の敗戦の後である。六六二年、日本書紀では六六三年の白村江、それ以後である。そしてしばしば唐の軍事司令官・劉仁願、これはマッカーサーみたいな者で百済にいます。その部将の郭務棕*が来ています。こういう人が繰り返し来ているわけです。必ず筑紫に泊っていますね。大和へ行ったケースも一部ありますが、大部分は筑紫に駐屯していますよね。しかも“二千人連れて”とか来ています。これは半ば占領軍みたいなものですよ。つまり筑紫は敗戦国筑紫の中心である。そこに勝利の唐の占領軍が駐屯している。それが七世紀後半の白村江以降の筑紫なんです。
郭務棕*の棕*は、立心偏に宗。JIS第四水準、ユニコード60B0
人麿が今入ろうとしている筑紫は、そういう筑紫であるということを人麿はよく知っているわけです。その輝やかかりし神代よ、と歌ってるわけなのです。その歌を聞いた筑紫の人は一〇人が一〇人、一〇〇人が一〇〇人みんな現在の筑紫、汚辱にまみれた、敗戦と占領の中で屈辱にまみれた筑紫のことを思ったに相違ない。またそれを思うことを予想した歌である。つまり、真のメッセージはその第二の点にあるであろう、というのが私の理解なのです。考えてみると、こういう理解ができるというのは、私達というのは非常に“恵まれた”世代なんですね。なぜかというと、私の青年時代が正にそうだったのです。マッカーサーが降り立って、かつての大日本帝国の天皇はマッカーサーの所にお伺いを立てに向かわなきゃいけないなんてね、もう驚天動地の光景でしたけど。東京には浮浪児とか春を売る女性とかが満ちあふれていたんですね。その中を青年時代の私はうろついたんですけどね。それは原体験みたいなもんです、青春の。そういう私だから、今の情景というのは、説明されなくても、非常によくわかる。そういう歌です。
こういう歌として理解しますと、この人麿の歌っていうのは、人麿の歌の中でも最高級のレベルの歌ではないか。堂々たる歌ではないか。今までは何となくピントのはずれた歌に見えていたんですね。ところがピントがピタッと合ってみるとすばらしい歌になってくる。ということに気がついてきたわけでございます。
さてほんとうのテーマに迫るわけでございますが、そうすると、人麿にとってそこは天子のいます場所と見えていたことになりますね。そして自分が出発してきた大和は、これは大王がいます場所であると考えていたことになるわけです。さてそこで、柿本「朝臣」人麿とありますよね、あれだれが任命した朝臣なんでしょうか。こういう質問ね、みなさん受けたことがありますか、聞いたことがありますか。だれが任命したのか。日本書紀見ても人麿が朝臣に任命された記事ってもちろんありませんし、第一人麿という人が出てきませんよね。これは梅原さんが盛んに言っておられますが、それじゃ梅原さんが解釈されたように佐留さんと結びつけていいかと。ま、率直に言って私、おもしろくはあるが学問的にはだめだと。ちょうど斉藤茂吉さんの説を、歌人としての説としてはおもしろいが学問的にはだめだと、こう梅原猛さんはずばっと切り捨てられましたが、その点は私も大賛成ですがね。残念ながら梅原さんのその説も、やっぱり学問的には無理だと。
なぜ無理かと言いますと簡単でありまして、第二巻の最後近くに人麿の死んだ歌があります。持統天皇、「藤原宮御宇天皇代」という項目で二巻の歌があります。その項目の最後を飾るのが人麿が鴨山で死んだ歌なんです。人麿が死んだのは持統天皇の時だと理解せざるを得ないわけです。佐留さんが出てくるのは八世紀になってからですので、これはやっぱり具合が悪い。そして人麿を「猿」と名前を代えて辱めたんだという説もおもしろいですけど、なら、そう書きゃいいんですよ。辱めたのは天皇家の方ですから、それを遠慮して書かない必要はどこにもないので、一行か半行書きゃいいのでね「人麿を佐留と改名せしむ」とこう書きゃすむんですから、こんなことをおそれて“書くのは遠慮します”なんて必要どこにもないんです、権力者にとって。そういう点をとりましてもね、人麿イコール佐留さんというのは、おもしろくはあるが無理、とこうはっきり言わしてもらわざるを得ないわけです。
ところが、それは私にとって疑うべからざるところなんですけども、問題は、日本書紀に、持統天皇の時に柿本人麿は一切姿をみせない、そして朝臣と任命された記事がない、これがおかしいんですよね。ところがこの問題は人麿だけを見つめていても答えは出ないんです。万葉集の巻一に「近江大津宮御宇天皇代」そして「天皇内大臣藤原朝臣に詔して……」とありまして、藤原朝臣は鎌足だと注釈されています。ところが日本書紀を見て、藤原鎌足が朝臣に任命されたって記事まったくないんです。人麿ぐらいなら省略されたとかまた罪人にしたから書かなかったで済ませられるけど、鎌足を省略したなんて、罪人にもなってませんしね、そんなことは考えられないでしょう。だから人麿朝臣問題だけを取り出したらだめなんで、万葉集という全体の史料の中の一部分ですからね、いくらたくさん何回も出てきても、鎌足朝臣と同じレベルで考えなければいけないわけです。そうすると、鎌足は朝臣に任命されなかったのか、されたのか。されたのならなぜ日本書紀はそれを書かないのか、鎌足まで省略を及ぼすことはおかしいじゃないか、とこういうことになりますね。
もう一つの考え方、八世紀になって朝臣という名前を鎌足につけてあげた、つまり朝臣という名前は、鎌足当時の名前じゃなくて八世紀以後の名前でしょう、とこういう解釈もあるんですね。ところがその場合、朝臣という官職名はご存知でもありましょうが、天武天皇一三年「八色の姓」制定の記事がある。これのナンバー・ツウが朝臣なんです。ナンバー・ワンは真人なんです。そうするとおかしなことが出てくるんですよ。人麿の朝臣は天武一三年以後の朝臣と考えてまあ何とかいけそうです。朝臣は同じ朝臣で扱わなければいけないということになってくると、鎌足朝臣も同じ朝臣。鎌足というのは天武一三年より前に死んでいます。天智八年に死んでいます。だから天武朝は墓の下にいるわけです。それだのになんで八色の姓の第二位の朝臣をもらうことができるか、これは無理ですね。だから人麿朝臣も鎌足朝臣と同じレベルで問題になってくる。人麿は八色の姓の朝臣でしょうという形じゃすまされない。
それからもっとおかしなことがあるんですよ、天武天皇というのは、あの天皇、真人ですよ。「天渟中原瀛真人(あまのぬなはらおきのまひと)天皇」と、「真人」がちゃんとついている。これじゃ「真人」が真人を任命するって、これ、何かわけわかります?
私には意味不明ですがね。これ従来、意味不明といわないのがおかしいんです。
ということで、とにかく八幡の藪知らずというか、矛盾続出です。ところが考えてみると、万葉集というのはもっともっと大きなところで矛盾があるわけですよ。あんまりはっきりし過ぎていてどの万葉学者も問題にしない矛盾があるわけです。そんなのあるかと思われるかもしれませんが、奥書がない。そうでしょう?
万葉集をだれが何年に編したという奥書がないでしょう。あれば、小学校ぐらいから何年にだれだれが作りましたと教えるところです。ところが今まで聞いたことがないでしょう。万葉集の成立という論文はごまんと出ていますけど、ごまんと出るということ自体、それがないから出るわけで、書いてあれば論文も必要ないわけですよ。何であれだけの本作って奥書がないんですかって、これおかしいということを問題にした万葉学者の本、私は見たことないんですがね。歴史学の人間から見ると、そこからまず疑問を持ってほしいと思う。
さらにおかしいところがある。続日本紀・日本書紀どこを見たって「万葉集を作った」という記事がないんです。あれだけ、しかも枝葉末節の小さな五・六枚くらいの歌集作ったくらいなら載せる価値はありませんですむけれど、あれだけの大歌集を作って、載せる価値ありませんてことはないでしょう。だのに載ってないんです。これはなぜだってことを解き明かしてくれなきゃ万葉集の解説にはならんと思いますね。ところがどの解説みても書いてない。これも時間がないので結論を言いますと、日本書紀・続日本紀というものと万葉集とは一緒に存在してはいけない本なんですよ。両方共が日の目を見てもらっちゃ困るんです。
なぜかってね、だって日本書紀の引用があるじゃないですか。朱鳥三年、朱鳥四年、朱鳥八年までありますが、そんなの日本書紀にないじゃないですか。そんなもののない日本書紀をオフィシャルに天皇家が公布しておいて、それとは違う朱鳥何年なんて変な年号を使った日本書紀が出てもらっちゃ困るんですね。もう一つ困るのは古事記が出てくるじゃないですか、ちゃんと書いてあるでしょう、「古事記に曰はく、軽太子、軽太郎女に[姦干](たは)く云々」(九〇)とね、古事記が引用されている。その古事記もあっちゃ困るんです。あっちゃ困るって無茶なことを言うなと言われるかもしれませんが、古事記と日本書紀の内容はまったく矛盾しますしね。景行天皇は日本書紀では九州大遠征しているのに、古事記では近畿をぜんぜん出ていないわけですから、両方ほんとうだなんていわれちゃ困るわけです。われわれの比較研究には便利ですが、別に日本書紀は比較研究のために作ったんではなくて、「日本書紀は絶対の真実だ、これ以上に正しい歴史はない」と告知したわけでしょう。違う歴史を書いた古事記が現われてもらっちゃ困るわけです。事実、古事記もまた、日本書紀・続日本紀にないわけです。古事記を和銅五年に作ったという記事は続日本紀になけりゃいかんのに、ない。天武天皇の業績として、古事記の稗田阿礼の誦習を太安万呂に命じたというのは重要な文化的業績だと思いますが、それが日本書紀にない。
[姦干](たは)くの[姦干]は、JIS第四水準、ユニコード57E7
この辺のところも古事記偽書説云々の問題とからんでおもしろいんですが、去年これも古事記は偽書、という考え方は成り立ち得ないということがわかりましたので今日は申しませんが、去年の二月の頃でしたか(「天皇陵の史料批判」『天皇陵を発掘せよ』三一新書、参照 ーー後記)。古事記がリアルだとなると、それが日本書紀にない、続日本紀にない、これはやっぱりおかしいわけです。しかし今のように考えると当然で、日本書紀と矛盾するものがあっちゃ困るわけです。だから日本書紀ができた時に古事記は隠されたわけです。で、日本書紀や続日本紀の記事にも当然ながら、一回は書かれたかもしれないが消されたわけですよ。そして本物もポイと捨てられたわけです。それが、内容を惜しんで書き続けていた人がいまして、名古屋の近くの真福寺からひょいと南北朝の時に現われた。だからわれわれにとってはありがたいんですが、ほんとうは具合悪いことになった。
同じく万葉集も、奈良時代の万葉って、断片しかないんじゃないですか。みんな平安時代じゃないですか、万葉の古い筆跡のは。これは岩波の日本古典文学大系なんかの解説を見れば出てきますが、宮中の女の人達が大事にして書き写していたような物がね、万葉の一番古いもので出てくるようです。つまりこの場合は古事記と違う、古事記はまったく宮中にはなかったみたいで、わずかに何らかの関係で真福寺からひょっと姿を現わしたんですが、万葉の方は、女の人とか宮中の裏側で中味を愛する人達が歌ってきておった。それが平安時代になったらだんだん表に出てきはじめた。表ったって公式の場に出たんじゃないでしょうけどね。
ところが、あれ読めなかった。それを仙覚・契沖・賀茂真淵・本居宣長、とみんな民間ですね。彼等が読みはじめた。あれがはじめてオフィシャルになったのは明治になってからです。明治十一年、明治天皇がポケットマネーといっていいのか、ご自分のお金を出して鹿持雅澄、土佐の高知の万葉学者ですが、彼の万葉古義を印刷して公布させた。十二年たって明治二十三年世に現われた。そこではじめてオフィシャルな天皇家公認という感じになったんです。それまでは宮中の女の人とか民間をもぐってきていた。ま、大雑把に言いますとね。
だから、あれを表に出してくると日本書紀・続日本紀と矛盾するわけです。どっちがほんとうかというと、基本的には万葉集がほんとうですよ。日本書紀は天皇家中心の正史という形で取り繕われたものですから、今の問題に関していえば人麿が詠んでいるのがほんとうです。七世紀の終わりごろには筑紫に天子がおり、朝廷は筑紫にあったと、そして有力な大王がわが持統天皇である、人麿はそう詠んでいるわけです。あとを継ぐ人達も、人麿の言葉を受けついで詠んでいる人が五人ばかりいた。しかしあんなものが公になったら困るわけです。日本書紀と違う。日本書紀は大和しか朝廷がないことになっている、それを筑紫まで朝廷があってもらっちゃ困るわけですよ。だから万葉集は日の目を見てもらっちゃ困る物だった。
さて後五分になりましたが、この三、四日夢中になっているテーマを申し上げます。
万葉集の中に「古集」というものがございます。古集というのは第七巻に出てまいります。「右の件の歌は、古集中に出づ」とこうあるわけです。これはたいへんな言葉でありまして、万葉集は新集である。古集があった。とこういっているのですね。そうでしょう? しかし古集の名前が書いてないんです。「古集」という名前を付けた歌集なんてないわけで、本来名前があったんだろう、それがカットされて、古い歌集という意味の「古集」という言葉で使われている。しかし論理的にみれば、万葉は新しい歌集であって、その前に古い歌集がありました、と、そこからの引用です、と。そういうわけです。
どれが古集かというのはむずかしいんですが、固いところで五十一首あるわけです。といいますのは一一九五の後に「右の七首は藤原卿の作なり 年月を審らかにせず」と、この藤原卿が何者かわからんと頭注に書いてあるんですがね、しかしここで「右の件の歌は、古集中に出づ」は少なくともこれ以後ですね、五一首が入るということは固いとこだと思います。なぜ固いというかと言うと、これ以前も入るかもしれないんです。藤原卿云々もその古集に入っていて、藤原卿の作だという注釈とだぶってしたのかもしれないです。その可能性もないとはいえませんが、ま、固いところ後の五十一首ということになる。これは写本によって歌の出入りがあることはありますが、今日はそれは申しません。
さて、この五一首はだれが作ったかというと、その中に有名な、私の大好きな歌なのですが、「ちはやぶる金の岬を過ぎぬともわれは忘れじ志賀の皇神」(一二三〇)、金の岬というのは志賀島の東寄りの、宗像の東隣に鐘の岬というのが突き出しているわけです。そこを過ぎたとしても私は忘れない志賀の皇神のことを。志賀の皇神こそ私の魂である、と。だから外国へ行っても志賀の皇神のことは私は決して忘れないであろう。そういう、なんか独特の語気を持った歌なんですね。でこれは旅先で、志賀の皇神を拠り所としている。つまり博多湾岸の人の作った歌、とこう考えざるを得ない、ということを私はかつて指摘したことがございます。
それともう一つですね。「少女らが放(はな)りの髪を木綿(ゆふ)の山雲なたなびき家のあたり見む」(一二四四)。これは少女らが放れる髪の毛を結うと言うことと、別府の西側に由布岳というのがあるんです。湯布院盆地と別府との間の由布岳のことを歌っているんで、その由布岳に雲がたなびくな、私の家を隠して見えなくなるから、退いてくれ、といっているんですね。これ作者の位置がどこか、湯布院にいて作ったんなら、別府の方に家があることになる。別府にいて作ったんなら、由布岳の西の方つまり筑紫の方に家があることになるわけです。で、さっきのと結びつけますと、この人の原地は筑紫であって、私の筑紫の家の方が見えなくなるから、雲よどいてくれ、とこういってるわけですね。本人は別府で作った。こういうふうに私は指摘したわけです。
でこのことは、さらに裏づけをしますと、次の歌「志賀の白水郎(あま)の釣船の綱あえなくに情(こころ)に思ひて出でて来にけり」(一二四五)。「志賀の海人の釣船の網」、までは序言葉で、自分の恋人だか奥さんだかにあえなくて、心にだけ思って私の家を出てきた、とこういうんですから、やっぱり博多湾岸にこの人の家はあったわけですね。
だから、どれをとりましてもこの人は、博多湾岸、筑紫の人の歌である。ということになります。そうしますと、この五十一首を一連の歌とみますと、最初も恋人か奥さんの歌ではじまりますが、この古集は筑紫の人が筑紫を中心にした地理関係で作った歌集である、それを古集と呼んでいる、とこうなるわけです。これはたいへんなことですよ。万葉というのは普通大和が中心と思われているでしょう。そうですよね。大和の歌ではじまっていますよ。ところがそれは新集であった。古集は筑紫を中心に歌われている、とこうなるじゃないですか。
しかもさきほどの「ちはやぶる金の岬を過ぎぬとも」の歌はたいへんな歌ですよ。なぜかというと、私は何となくね、今まで習った教養で、大和から出てきて金の岬を過ぎてというイメージで解釈していたんです。それから朝鮮半島の釜山の方へ使いに行くという形で理解しておったんですが、その場合何となくおかしいですよね。金の岬を過ぎて志賀島へ来た時に、志賀の皇神は忘れん、と言って、他の皇神は忘れてもいいのかというようなことで何か変な具合だったんです。こんどは筑紫が原点でしょう。筑紫が原点で釜山の方へ行くんだったら金の岬はあまり関係ないですよ。そうすると何か。これは一週間か一〇日くらい前に気がついたんですが、これは慶州へ行く航路である。つまり対馬海流がありますね、そこから壱岐・対馬と別れたところで東朝鮮暖流。今は東韓海流といってるかもしれませんが、それが北上するわけです。それが慶州の前を通っていくわけですね。だからこれに乗ると日本を離れて慶州の方へ行く。だから原点は筑紫、で新羅に使いする人の歌、個人的な観光旅行なんて時代じゃないですから、これは使節、使者です。その使者の原点は筑紫であり、行先は先ず新羅、先ず新羅というのは、高句麗とか渤海でもいいんですけどね、おそらく一番近いところなら新羅方面へ使いする使者の歌だった。
そうすると、あえてもう言いますよ、筑紫万葉、これはたんに個人の歌集ではなくてオフィシャルな歌集であったということになってくる。それがお師匠さんで、それを模倣して大和中心の万葉ができた。模倣してと言っているのはですね、これもう時間がないから言いませんが、たとえば柿本人麿の歌もこれをお師匠さんにしている歌がずいぶんあるんですよ。一つだけあげましょうか。「高島の阿戸白波はさわぐともわれは家思ふ廬(いほり)悲しみ」(一二三八)、「小竹の葉はみ山もさやに乱げどもわれは妹思ふ別れ来ぬれば」(一三三)。普通「さやげども」になっているが斉藤茂吉が「みだれども」の方がいいんだということでさんざん議論をしましたけれどもね、この後の方の、人麿の代表作、これははじめの「古集」の中の歌のそっくりさんじゃないですか。換骨奪胎、言葉は変わっているがリズムはそっくり。この場合、当然ながら筑紫万葉の方がお師匠さんで人麿はお弟子さん、模倣者です。今までこういう人麿の解説書お読みになったことございますか。ないのが不思議ですね。
というようなことでね、この問題は万葉という大きな文化遺産は、じつは大和の方がお弟子さんで筑紫万葉の方が本来のものであった、という、しかもそれはオフィシャルなものであるからここに出ている以外にもいろいろの歌があったようだ、という問題が一つ出てくる。これは重要な問題を意味するということを証明するために、もう一言申します。
この筑紫万葉はいわゆる万葉仮名で書かれているんですよね。当たり前です万葉集ですから。で、万葉仮名という言葉、じつは具合悪いんだと中小路さんからさんざん聞かされましたが、まあ理屈を言えば、というか学問的にはそうなんですね。古事記・日本書紀だって万葉仮名で書いてあるんだし、たんなる表音でないものもあるし、それからまた、元をなす漢字を表音に使うというのは中国にもあったと、別に日本で発明されたものじゃないとかね、いろいろあるんですよ。そういう問題は当然学問的にありますけど、今大雑把な、もっと大事な基本問題を言いますよ。
今かりに万葉仮名と言わしてもらいますよね、万葉集の大部分を占めている表音のやり方をね。あれは大和で独創されたものじゃない。この「古集」、つまり筑紫万葉がすでに万葉仮名で書かれている。その万葉仮名を大和は真似して使ったんだ。そうなりません?
これ言語学の大問題じゃないですか。そう言語学者今までみなさんに語ってきました? 言ってないでしょう。はじめから、万葉と言ったら、大和中心と決まっている、っていう顔してなかったですか。私も高校の国語教師をしていた時、そういう受け売りでしゃべった覚え、ありますけどね、とんでもないことですね。
で、この点は、今日も来ていらっしゃると思いますが、渋谷さんという方がいらっしゃいまして、新宿の朝日カルチャーで月に二回、火曜日一時からやっているんですが、そこで出てきていらっしゃる渋谷さんがすごい発言をされたんです。済んだ後の喫茶店でね。どういうことかと言うと、「万葉仮名は九州王朝で作られて使われていたものだと思います」いきなりおっしゃったのでびっくりしたわけです。「なぜかと言えば、あれはむずかしい字を一杯使っているから庶民の使ったものではなくてインテリの使い慣れたものだと思います」なるほどそうですね。しかも一つの音に対していろんな、めんどくさい漢字が当てられていますよね。「だから一人じゃなくて複数多数のインテリ学者が使ってたものだと思います」と、「そうするとその複数多数の者が使うとなれば、当然そこには権力者が中心にそれをリードしたっていうか命じたとかいうような話になると思います」。実際は命じたんではなくてもね、何天皇の思し召しによってこういう仮名が作られた、と正史には書くじゃないですか。「そういうことになると思いますが、日本書紀・続日本紀を見てもまったく書いてありません」とね。だれ天皇の時に万葉仮名を作らしたとか使わせたとかいう記事ないですよね。「ということは、近畿天皇家で最初に作られたり使われたりしたものではないとこう考えざるを得ません。そうすると近畿天皇家より前にすでにそういうことがおこなわれていたとなれば、古田さんのいう九州王朝でおこなわれていたと考える他ないでしょう、中国・朝鮮と近いし」。これだけの簡単なことをおっしゃった。ちょっと、ドキッとしてうなりましたね。
それでね、シンポジウムのテープ起こし第一巻、第二巻が新泉社から出まして、第三巻を今一生懸命作って二月か三月ぐらいには出ると思いますが(一九九三年四月刊行)、このビデオ起こしの中で私が吉本隆明さんの話を聞くというか対談するというか、その最後で、渋谷さんのその話出したんですね。それが今度活字になりますけど。じつはそれは渋谷さんが企業におられたころの判断の冴えをパッと適用されたんだと思うんですが、これはやっぱりウソじゃなかったわけです。実証的に「古集」筑紫万葉は、すでに万葉仮名で書かれている。こちらが本家ですよ。われわれが知っている「新集」大和万葉は、これを模倣したにすぎない、すぎないって言っちゃ悪いですが、模倣者であると。
言語学上もじつに重大な問題がある。こんな私のような、万葉集にそんなにくわしくない人間が、すぐというか、一生懸命になり出してすぐ気がつく問題をなぜ今まで気がつかないのか。これはやっぱりテンノロジーでしょうね。国学の人達が万葉集を扱ってますからね、あの人達ははじめから天皇家がいかに偉いかということを証明するために万葉集を扱い、証明し終わることで満足したわけですから。それが国学の立場ですから。だから今私が言ったような問題はぜんぜん出ないんですね。だって「大王の遠の朝廷」でも天皇家の地方の役所みたいな解釈でごまかして満足していた。ほんとうはごまかせるもんじゃないですよ。
万葉集は日本書紀と矛盾する。倶に天を戴くことができない、そういう性格をだれも指摘しなかったですね。国学が指摘しないのは当然としましても、明治以後の学者も指摘しないままで、みなさんに提供してきていた。私もそれで万葉集をみておった。こわいですね。ということで、万葉集に関しておもしろい問題がいろいろ出てきて今夢中なんですけども、時間がきましたのでこれで一応終わらせていただきます。
(拍手)
伊藤
二つほど質問いたします。天皇の所在地は宮といって京とはいいません。続日本紀で京というのは、都城制のものを指しているか、後から振り返って飛鳥京とかいう場合で、それ以外は難波宮まで宮です。太宰府には名前がありませんが、何とかの宮といったと思います。たんに京といえば、太宰府の都城地を指すというような裏づけがあったのではないでしょうか。
もう一つ、前方後円墳として混在する円墳の場合の服属儀礼はどう処理したのでしょうか。また前方部の方向がまちまちですが、服属儀礼において不敬にならないようにするという配慮はなされたのでしょうか。
古田
はい、わかりました。まず最初の点ですね。これは鋭いところを突いておられるわけで、最初は何々の宮という形で出てきておる。雄略から以後持統天皇まで。ところが何々京という言い方はそれ以後に出てくる、ということはやはり意味があるのではないかという御指摘ですが、なるほどおっしゃる通りですね。それは七世紀以前と八世紀以後の違いの一つになるかもしれませんので、ひとつ私も勉強させてもらいます。
で、第一点の問題について私が申したかったところを敷衍(ふへん)させてもらいますと、まず最初に巻一と巻二ができたということは、今まで普通に言われているわけです。というと、巻一と巻二は特別のスタイルを持っているわけです。何々の宮に天の下知らしめしし天皇のという形で、歌が各年代に入っているというのが巻一と巻二の特徴なんですね。だからこれなんかもうほんとうにオフィシャルな歌集の姿を持っているにもかかわらず、それが何時できたということが書かれていないのが問題になるわけですね。
それから、まず大和万葉として巻一・巻二は作られた。特に巻一ですね。雄略天皇が最初に出てきているんですが、あれは雄略天皇を出すためじゃなくて大和を歌った歌なわけですね。大和を歌った歌として雄略天皇の歌があったからそれを持ってきた。巻一の一番最後は藤原宮を賛美した歌で終わっているわけです。大宝何年というのが後に付きますが、これは後からプラスされたもので、何々の宮というのでは藤原宮賛歌で終わっているわけです。藤原宮は大和にありますから、巻一は藤原宮賛歌・大和賛歌として歌が集められているわけですね。
そして巻二の方は、芸術編というか相聞と挽歌で、人麿が死んだ歌で終わっているわけです。最初は仁徳天皇の奥さんの磐姫皇后の歌ではじまっているわけです。この磐姫皇后の歌というのは、人麿の歌との関係で出てきているんですね。これも時間がないので一点だけ申させていただきますが、人麿の「鴨山の岩根し枕けるわれをかも知らにと妹が待ちつつあらむ」(二二五)の本歌は、仁徳天皇の奥さん磐姫の「かくばかり恋ひつつあらずは高山の磐根し枕きて死なましものを」(八六)、これが本歌になっているわけです。
この歌はすごい歌で、仁徳天皇がよその女性を求めて出ていって、かえってこないわけです。だからこうやって待っているより、私は山へ行って高山の磐根を枕いて自殺をしてしまいますよ。あなたが帰ってきたら私の冷たくなった骸(むくろ)をご覧になるでしょう。とこういう歌なんですね、私純情な歌だと思ったけど、純情というより、すごい歌ですね。私これによって青年時代に「ソンブルディマンシュ」というダミアの作ったシャンソンを思い出しました。大好きだったんですが。“恋人が自分から去っていった、またあなたが来た時にはこの部屋で私は冷たい骸になっているでしょう。しかし私の目はいつまでもあなたを愛していたということを、あなたに告げるでしょう。”というね、鬼気迫るシャンソン「ソンブルディマンシュ・暗い日曜日」というのがあるんですが、それと似たような歌なんですね。それが人麿の歌の本歌になっている。
で、磐姫の歌もまた本歌があるんですね。まず、磐姫の歌は「ありつつも君をば待たむ打ちなびくわが黒髪に霜の置くまでに」(八七)。これはずっと家にいてあなたを待っていましょう。私の黒髪に霜が置くまでに、というのは、あなたが女ばかり追い求めて家を離れてて、帰ってきた時には私は老婆になって真っ白い髪であなたをお迎えしますよ。恨みのこもった目で迎えましょう。とこう言っているんですね、純情というかどうかね。
でこれの本歌があるんですよ。或る本の歌に曰わく、とすぐ後にある。「居明かして君をば待たむぬばたまのわが黒髪に霜はふれども」(八九)右一首、古歌集の中に出づ、とあります。これは古集、古歌集と二つ出てくるんですよ。で、古集と古歌集と同じか違うかという議論があるのですが、私から見れば違うと。古集と古歌集は言葉が違うから違うと。しかし本来の実名をカットされているという点では共通と、つまり大和の歌集ではないという問題があるんですが。今の問題は、この歌は文字通り純情な歌なんです。乙女が恋人に会いたい、しかし家がうるさくて親は会わしてくれない、だから私は外に出てそこで、いつも来るあなたを待っている、あなたもなかなか出てこられなくて会えない、しかしかまいません、夜明けまで待って私の黒髪が ーーこれは霜です、文字通りの、ーー 真白になってもちっともかまいません、あなたを待っていますわ、というね、そういう純情な歌なんですね。
ところが、その純情な歌を本歌にして磐姫は作っているんです。“私も昔はそうでした。あんなに純情でした。しかし今の私は違います、あなたが女あそびをして飛び回っているうちに、帰って来たら ーーこれ部屋の中におるんですからね、霜は降りないーー 白髪の老婆になってあなたを迎えましょう。それであなたはいいんですか”とね。鬼気迫る歌ですよね。今回私、恥ずかしながら万葉やってはじめて気がついた。この四首共私大好きな歌だったんです少年時代。純情な歌として大好きだったんですよ。ところが一〇代には一〇代くらいの解釈しかできなかったんですね。
ついでにもう一つ言いましょうか。最後の歌「秋の田の穂の上(へ)に霧(き)らふ朝霞何処辺の方にわが恋ひ止やまむ」、秋の田の穂の上に霧らう朝がすみ、それと同じように私の恋もいつ終わるだろう、これも純情だと思ってたんだがそうじゃないんですよ。朝がすみは今こめててもやがて消えるわけですよ。あなたはいつまでも私が待ってると思い込んで遊び歩いてるでしょう、しかし私の恋はあなたが帰ってきたときには消え去っているでしょう、今と同じ私と思ってたらとんでもないことですよ。ね、これもやっぱり一つの歌でも、読む年齢によって理解がぜんぜん違ってくるという例でございます。ま、こういう話いろいろしたいんですが、時間がないのでこの辺でやめておきます。
第二の問題は、天皇陵の前方後円墳の方向の問題ですか。これは答えは簡単なんです。といいますのは、みなさんよくご存知だから吉野ヶ里でいいますと、一列カメ棺というのが、ミカ棺ですが、ありますね、一列にずっとミカ棺が並んでいる所がある。あそこへ行ってみると、ミカ棺の向きがみんなばらばらなんですよ。同じ方向を向いていない。こんなに全体が一列になっているんだから、もう少し同じ方向に向いて据えればいいのにと思うんですが、ぜんぜん向いていないんですね。で、この点は、博多の金隈遺跡、これは福岡市が三六五日開館していますのでぜひいらっしゃったらいいんですが、ミカ棺の遺跡をそのまま屋根をかぶせて残しているんですが、これももう四方八方向いているんです。ということで、四方八方向くのが弥生からの「伝統」なんですね。それに対して、方角が何とかかんとか言い出すのは、中国から四方説とか方角思想が入ってきて言い出すわけですから。ところが、それにかかわらず前方後円墳は昔の「伝統」を守って、向きがいろいろ。どうもそういうことみたいですね。
もちろんこれはいろいろむずかしい問題があるところを、簡単に始まりと終わりだけ申したようなことになりますが、要するに、方角が必ずしも一定方向を向いていないというのが前方後円墳、天皇陵に限らない、弥生からじつはそうであると。これにはやはり何か理由があるだろう、彼らの宇宙観・天地観があるだろろう、いわゆる中国流の方角思想にしばられていない。中国思想にしばられていない。方角思想をやかましく言ったり、「方違え」をやかましく言ったりするのは後世の姿である。平安時代というのは後世の姿である、ということだけ答えさせていただきます。(「円墳」にも、当然墓前祭の場が、そのまん前にあったわけです。その方角問題も、以上と同じ。「定方向」ではないと思います。 ーー後記)。
福永
都立高校で漢文の教員をやっております。小さいころから解けない謎がありました。漢字には呉音とか漢音とか一つの字に二つ以上の音があるわけです。続日本紀によると、僧達は呉音をやめて漢音になりますが、一、二割はまだ呉音が残ったままになります。
たとえば「いち、に、さん、し、ご、ろく、しち、はち、く、じゅう」は呉音です。漢音だったら「いつ、じ、さん、し、ご、りく、しつ、はつ、きゅう、しゅう」に変わるわけです。今日先生がお話なさったように万葉集の「まん」というのも呉音なんです。漢音なら、「ばん」です。万葉仮名もほとんど呉音なんです。すべての音を漢音に改めよと言った天皇家は、自分達の呼称である「てんのう」すら変えていないのですね。漢音だったら「てんこう」ですから。その命令が出てかなり改まったにかかわらず、清少納言なんかは枕草子の中で「もんぜん」とか「ろんご」とか読んでいる。これだって「ぶんせん」とか「りんぎょ」になるのにならなかったんです。
仏教徒達が呉音を古く残してきた。われわれ民衆が生活に必要な部分の名詞について呉音を改めなかった。そして先生がおっしゃるように、筑紫にあったと思われる朝廷は、倭の五王に到るまで連綿として南朝とつき合ってきた。その名残が呉音という名前に残ってはいないでしょうか。
すると、漢音に改めよ、と命じ、遣唐使を派遣した唐の都に対して、唐の天子に対して、天皇と称し、ナンバーツウと称し、そしてわが国の漢字音を漢音に変えろと命令した天皇家は全部は消せなかったわけですよね。そのつながりが、万葉集とかこういったものとどのようにかかわってくるのか。こういった方面が、漢字音というわれわれが一番なじみ深い文化のところで議論がおこなわれているのか。私は、高校の方でやっておりますけど、じつはぜんぜんおこなわれていないんですね。みなさんも民衆の末裔とされて今まで漢字を使い分けてこられたわけですけど、私は四〇年間いまだに解けない謎なんですが、先生にどのようなお考えがあるのかお聞きしたいんですけど。
古田
はい、今おっしゃったこと、非常に重要な問題でございます。まず、呉音とは何者かというと、漢や魏や西晋系列の音なんです。今ごろそんな、頭が混乱するよと思われるでしょう。別におかしくないんです。なぜかというと、三一六年西晋が滅亡します。匈奴・鮮卑が南下してきて洛陽や西安が一夜にして、というと大げさですが、滅亡して、その一族が南京ですね建康に移ってきて東晋を開くわけです。つまり魏・西晋の人達は当然、漢からの発音と同じですよね。禅譲されたって発音まで変わるわけでないですから。だから漢の発音を魏や西晋の人達は使ってたわけです。それがわーっと昔の呉の国いわゆる南朝に移るわけでしょう。“発音を持って”移ったと思いません?
“発音を置いて”移るなんてできないでしょう。
だから南北朝対立の時に、南朝は漢・魏・西晋朝の発音が支配者の発音になるわけで、被支配者の発音は昔ながらの呉の国の発音でしょうね。その全体を呉音と言っているわけです。そして北朝の方は鮮卑や匈奴が支配者になるわけです。そして北朝をつくるわけでしょう。で被支配者は昔ながらの漢・魏・西晋の発音なんですよ。でもこの場合当然オフィシャルには支配者の発音の方が優先しますよ。だから北朝の方は昔にくらべたら、がらっと違う発音になってくるわけですよ。
隋が北朝で、唐も北朝なんです。宋も北朝系列で、自分達の音を「漢音」と称した。これが間違いの元なんですね。それに対し、対応するようにして西晋の南朝の方を一地方的な呉の音という感じで「呉音」とよんだ。だれがよんだかしりませんがね。ところがそれは呼び名にすぎなくて、ほんとうの姿は呉音の方が本来の漢・魏・西晋の発音を主とするものである。そして漢音の方が混血発音というか異質発音という形になっている。今、私が言ったことの証拠に、倭人伝を見たら、呉音でだいたい読めますじゃないですか。漢音であれ読んだらなかなかややこしいですよ。だいたい呉音系列で読んでいる。それがれっきとした証拠ですよ。これが今の問題を解く第一の鍵。
第二の鍵はですね、これも非常に主要なポイントがあるんですが、日本書紀の天智紀に、筑紫都督府、という言葉が出てくるんです。これは何を意味するか。これは倭の五王のところでご存知の言葉があります。「使持節都督六国諸軍事」何とか何とか「倭王武」とか、そういうふうになっていたでしょう。必ず、都督が出てきたでしょう。つまり倭王は都督だったわけです、中国の天子から見ると。で都督のいる所を都督府という。当たり前ですね。都督一人だけいてあとだれもいないなんてことはないですから。役所を持っているわけですから、都督のいる所、倭王の都を都督府というわけです。
この証拠に、この時熊津の都督府から唐の使いが筑紫国に来ていると書いてある。熊津というのは、その時の百済の都ですから、その都督は、「使持節都督」何とか、六国諸軍事はありませんが、何とか「百済王」だれだれ、と宋書に出てくるわけです。だから百済王も都督なんです。そして百済の都熊津に都督府があったんです。百済王のいる所が都督府なんです。すると、倭王のいる所は倭国の都督府なんです。それは筑紫にあった。たいへん簡単ですね。こんな簡単な証明があるんだったら『失われた九州王朝』に書いとけばよかったと思ってるんですがね。その時は気が付かなかったんですね。
ということで見てみますと、倭の五王というのは南朝系ですよね、宋書ですから。南朝系列の都督府があったわけですよ、筑紫にね。そうすると、多利思北孤は仏教に帰依したというでしょう、当然、九州の天子、筑紫の紫宸殿の天子ですから、ま、紫宸殿という言葉は唐以来ですけども、要するに筑紫の天子です。それが仏教を取り入れるんですから、隋の時は北朝系でしょうけど、それ以前からもちろん仏教に帰依していたというでしょう。隋ではじめて仏教を習ったとは言ってないでしょう。だから隋以前の仏教といえば、当然南朝ですよ。陳に到る、宋・斉・梁・陳の仏教ですよ。南朝の仏教を習ってきていた。で「あんたは北朝系だけど、仏教を大事にするところ、私は気に入った、お互いに天子と言い合って仲良くしようじゃないか」とまあ、そういう言いぐさなんですが、向こうはそんなことはぜんぜん承知できんと、言うんですけどね。こちらの言いぐさはそうなんです。つまり隋までは南朝系の仏教の中に、多利思北孤はいたわけです。そういうふうに考えると、日本で経典が南朝系の呉音で多く読まれているというのは、意味がわかるじゃないですか。
それに対して、聖徳太子は高句麗の僧侶を自分の生涯の先生にしているじゃないですか。高句麗は南朝じゃないですよ。主として高句麗は北朝音ですよ。だから聖徳太子は先生の発音をそのまま覚えたら北朝系列の、いわゆる「漢音」で経典を読んでいたはずなんですよ。ところが日本の経典は多く「呉音」で読まれている。ということは、聖徳太子のもとにして日本仏教ははじまりました、というあの話はあやしいということになりませんか。だれも聖徳太子の話をして、そんなこと言わなかったでしょう。言ってみればしかし、当たり前の話でしょう。なんにも不思議ない話です。
だから、こういう仏教伝来という大問題が、九州王朝抜きにうまく説明できているんなら、九州王朝はなかったわけです。しかし事実、うまく説明できていないから、今、福永さんが、非常に困ってこられたわけです。やっぱり「九州王朝」という大事な仮説を導入しないと解けないんですよ。導入しなくてほんとうに解ければ、九州王朝は私の妄想にすぎない、ということですね。漢音・呉音の問題は非常に大事な問題だと思いますが、いいお話をしていただきました。
ついでにもう一言、言語の問題でね、もう私がしょっちゅう言っているのに言語学者のところに伝わらないのかもしれませんが、簡単な問題を申します。
つまり、神武は実在である。さっきから言いました。神武が実在であるならば、神武は九州弁をしゃべって入ってきた。もう当たり前ですね。近畿弁を勉強してから入ってきたなんてことはあり得ないですから。それもさっきのように、糸島カラオケばかり歌ってたらしいですから、彼らは糸島・博多弁をしゃべりながら入ってきた。そして大和の支配者になった。と、こうなりますね。そうすると「大和言葉」というのは、支配者は糸島・博多弁である、で被支配者は銅鐸圏の、縄文以来の大和弁である、とこうならざるを得ないですね。そうすると今の大和言葉は、基本的には九州弁である、とこうなりませんか。これ私何回も言っているんですが、「また。言っている」なんて思っていらっしゃる方もあるでしょうがね。どこか間違っているところがあったら教えてくださいよね。しかし私は間違っていないと思うので、そうなると思う。今の言語学では、ぜんぜんそんなこと言ってないでしょう。「大和言葉」といえば本来の生っ粋の大和で、自然発生した日本語であるみたいな扱いを国語の時間、私も国語の教師だったからその一端なんですが、やってきているんじゃないですか。あれ“大ウソ”かもしれませんね。ということでね、これ部分的な訂正なら簡単にいきますけど、大きな“大訂正”ですからね、これはもう全部変えなければならない。
ついでに万葉集で、おかしいと思うところ、もう一つあげさせていただきます。これも言ってみれば、バカみたいな話ですが、防人の話が出てきますね。ところがあの防人の話は八世紀の防人ばかりです。年代のわかる防人は。それじゃ七世紀に防人いなかったですかね。しかし白村江の戦をやっているのにね。防人がいない、っていうのはおかしいですよね。当然防人はいたと考えざるを得ないでしょう。そしたら七世紀の防人は歌を歌わない防人だったんですかね。歌を忘れたカナリヤっていいますが、歌を忘れた防人が七世紀においてね、八世紀の防人はいきなり歌に目覚めて歌い出した。なんて、そんな情況想像できますか。私はできませんね。しかも七世紀の天智・天武・持統の歌はちゃんとあるわけですから、防人の歌がないってことはおかしいですよ。
だから防人のことを高等学校の国語の時間に教えたら、これはおかしいよという話を出さない先生がいたら、おかしいです。私も出さなかったですけれどね。いや、出したか。そうそう、私が古代史に関心を持ったのはおそらく防人からかもしれません。確かにそれは、私が言ったんだか、生徒が言ったんだかしれませんが、二〇代のはじめごろその疑問を持った。じゃ私はもしかしたら「合格」かもしれませんがね。しかしうまく答えられなかったのは似たようなもんですがね。要するにおかしいですよ。ということは、やはり七世紀の防人の歌もあった。白村江の惨胆たる敗戦も歌われていたはずだ。どこにあったか。「古集」にあった。とこうなってくるんじゃないですかね。それはカット。古集で採用されたのは差し障りのないものだけ。防人の分は全部大幅にカットされている。言ってみれば当たり前のことですけれど、今までの万葉学者がだれも語らなかった。私が読んだ範囲では、語っていなかったテーマだろうと思います。
秀島
私も漢音・呉音には疑問を持っていました。
いち、に、さん、し、という音は呉音だそうですが、こういう数のかぞえ方を外来語と思っている人はほとんどいないのではないかと思います。ということは九州王朝には数を数えるような場には、呉音を話す中国人がたくさんいたのではなかろうか、また万葉仮名を伝える人達もいたのではなかろうかと思うのですが、そこら辺はどう思われますか。
古田
今のお話も大事な点をついていただいたわけです。おっしゃる通りだと思います。九州王朝には中国や朝鮮半島の楽浪、帯方の人達がたくさん来ておったでしょうし、「三種の宝物」という考え方も元は朝鮮半島の方にイメージがあるんじゃないか。といいますのは、韓国の古い伝承で、三種の宝物を飾るところが出てきます。ただ内容は日本の内容とはぜんぜん違いますけどね、三種類の物をシンボル物にする話が、韓国の古い話に出てきますから、そういうかかわりはある。あるいはまた、直接倭国に中国文化をもたらしたのは、朝鮮半島の箕子韓国、と私は呼んでいるんですが、箕子朝鮮というのはご存知ですよね。衛氏が燕の国から亡命してきて、それを箕子朝鮮が受け入れて、その恩を忘れて衛満がぶんどった。で箕子は逃れて海を南下して今の扶余かあの辺だと思うんですが、韓国の西海岸近くの所に上がって、そこで新しい領域を開いた、ということが伝えられております。で、私はこれを「箕子韓国」と名前を付けているんですがね。
この箕子韓国が、「大夫」という、周代の官職名を使っていたということが三国志の倭人伝の裴松之注の中に出てまいります。だから私は、倭国の大夫は箕子韓国の大夫を真似したものであろうと考えているわけです。このようなつながりで、九州王朝に中国の制度の名や物がたくさん入ってきた、ということは疑うことはできないと思います。
ついでに、これもごく最近気がついた一つの例を申し上げますと、筑紫万葉の中に「大海の波はかしこし然れども神をいのりて船出せばいかに」と、これ原文の読みが少しおかしいと思うのですが、今は時間がないのでそれは省略します。今の問題は「大海の波はかしこし」というところですが、これはさきほど申しましたように、博多湾岸から志賀島、そして新羅の慶州の方へ行ってるわけですから、そこで大海といっているのは玄界灘をいっているのだろうと、そういうふうに私は理解するわけですがね。
そこではっと気が付いてドキッといたしました。漢書地理志のところで「楽浪東南大海の中に在り」「帯方東南大海の中に在り」、大海とあるじゃないですか、明らかに玄界灘のところを大海と表現しているじゃないですか。大海と同じ場所を呼んでいるんですね。どっちが元なんでしょうね。「大海」と漢字が三国志やなんかにあるからそれを「おおうみ」と読んだのか。あるいは倭人がここを「おおうみ」という固有名詞で呼んでいたから、倭人の読みにしたがって「大海の中にあり」と言ったのか。ドキッとするような問題が出てきますよね。ま、これはここだけでとどめておきます。
もう一つ申します。さきほど申しました神武歌謡の「えみしをひだり百人(ももなひと)人は云えども抵抗(たむかひ)もせず」というのは、天孫降臨の時の歌だと。板付なんかの先住民が、先住民ていうのはおかしいですよね。先進文明の稲作ですから、輝ける先進文明の民をエミシと呼んで、後には東北の人の呼び名になりますが、「えみしを一人百な人」の「一人百な人」はエミシ側が言ってる言葉なんですね。そう彼らは自慢して言っていたが、おれ達からみれば、大したことはなかった、と。「人は云えども抵抗もせず」というのはたいへんわかりやすい日本語で、ということはわれわれが大和言葉として知っている言葉である。
ところが「えみしを」の「を」を「よ」というんでしょうが、「一人」を「[田比][イ嚢]利」とむずかしい字で書いてあるわけです。これも万葉仮名的なもんですけど、「ひだり」。ところがですね、「ひとり、ふたり、みたり、よたり、いつたり」と勘定しますね。なぜか最初だけ「ひとり」と言います。ところが後は「ふたり、みたり、よたり」ですね。そうすると同じルールでいけば、一人は「ひたり」にならなければいかんですね。そして濁音で「ひだり」、そうなってくる。「ひだりももなひと」というのは本来の日本語の姿であって、われわれは変形して、何らかの理由で「ひたり」を「ひとり」と最初だけ変形させたのを日本語と考えている。しかしそれは変形日本語であって、本来のルール通りの日本語は、エミシが、板付縄文の民が使っていて「ひたり」とこう言っている。濁音で「ひだり」ですね。こういう問題が出てきましてね。これもおもしろい問題ですね。さっき「いち、に、さん」という数詞の問題を出していただきましたのでつけ加えさせていただきました。
ではこれで、残念ながら、時間がまいったようでございます。(拍手)
[田比][イ嚢]利(ひだり)の[田比]は、JIS第3水準、ユニコード6BD7、[イ嚢]は、人偏にJIS第3水準、ユニコード56CA(嚢ではない)