『古代に真実を求めて』第十九集

「古田史学」の理論的考察 (「論理的考察」 は誤植) 古田武彦(会報116号)
「いじめ」の法則 -- 続、「古田史学」の理論的考察 古田武彦(会報117号)
古田史学の真実 -- 西村論稿批判(古田武彦会報118号)
続・古田史学の真実 -- 切言 古田武彦(古田史学会報119号)


〔論説・古田史学 ③〕

「言素論」研究のすすめ

古賀達也

「言素論」の基本前提

 古田先生が提唱され古代史研究において援用展開されている「言素論」について、古田学派内では様々な論議がなされています。特に「古田史学の会」関西例会では、その使用方法や理解をめぐって激しい論争が今も続けられています。わたし自身も「言素論」を利用して多くの仮説やアイデアを述べてきたこともあり、この「言素論」について整理する必要を感じています。そこでわたしの理解もまだ不十分ですが、「言素論」について見解をのべてみたいと思います。
 まず「言素論」成立のための基本的前提として、古代日本語の単語や文字表記において、一般的には「一字・一音節・一義」がより古い形態と考えることがあります。たとえば、「魚」という字で表記される意味はfishですが、音は「ぎょ」(音読み)と「な」「うお」「さかな」(訓読み)などがあります。このfishを意味する日本語のうち、「な」を最も古いとする、これが「言素論」の基本前提です。すなわち、「魚」という表記の訓みの「一字・一音節・一義」が「な」なのです。
 この基本前提に基づき、「一音節」ごとに言葉を分解し、その言葉の本来の意味の構成を明らかにするのですが、同時に「どうとでも言える」という恣意性に対する批判を避けられないのです。その「どうとでも言える」という恣意性に基づいて立てられた「仮説」は危ういという批判が西村秀己さんらから出されており、それに対して「言素論」の持つ先駆性による限界をわきまえた上で、その学問的可能性を追求すべきという反論があり、わたしはこの立場に立っています。
 この対立は、賛成反対を問わず、「言素論」を古代史研究に利用しようとする論者にとって重要な問題なのですが、残念ながら十分な理解がなされないまま、論文に「言素論」が使用されるケースが散見されます。こうした感想はわたしも西村さんも同様に抱いており、そこにおいてお互いの意見の違いはありません。誤解を恐れず単純化すれば、「言素論」使用に対して厳格な条件を要求する西村さんと、とりあえず作業仮説(思いつき)として利用する分には、あまり厳しいことは言わないでもよいのでは、とするのがわたしです。
 もっとも西村さんが指摘されるように、「一音節」に複数の意味があるケースでは、どの意味とするのかは個人の勝手な判断となりかねず、論証抜きの恣意的な判断となる、という批判はわたしも認めるところです。たとえば「洛中洛外日記」八二〇話で紹介しました瀬戸内海地方に散見される「○○じ(ぢ)」という地名の「じ(ぢ)」には共通した意味があるのではないかとする、わたしのアイデア(思いつき)においても、「ぢ」を神の古名である「ち」が濁音化したものとする理解もあれば、「道」を意味する「ぢ」かもしれず、どちらが妥当かは論証の対象であり、個人の勝手な判断で論を進めるのはあまり学問的態度とは言えません。

 

「言素論」の応用例

 「言素論」の学問的性格や方法論について説明したいと思いますが、抽象論ではわかりにくいので、なるべく具体論をあげるようにします。今回は応用例として「松」地名分析での経験を紹介します。
 語尾に「松(まつ)」がつく地名は全国にたくさんあります。たとえば有名な都市では浜松(静岡県)・高松(香川県)・小松(石川県)などです。いずれも海岸付近にあることから、何となく海岸に松林が多い所なのだろうと思っていたのですが、古田先生の「言素論」を知ってからは、考えを改めました。「松(まつ)」の「ま」は地名接尾語の「ま」、「つ」は港を意味する「津」のことと理解できたのです。従って、地名の語幹部分は「はま(浜)」「たか(高)」「こ(小)」となります。
 「ま」が末尾につく地名は、薩摩・播磨・須磨・有馬・球磨・三潴・朝妻・鞍馬・宇摩・但馬・生駒・門真・筑摩・詫間・群馬・多摩・浅間・中間・置賜・埼玉・大間など数多くあり、これらは偶然ではなく、地名の末尾に付くべき何らかの意味を持つ言葉であることは間違いないでしょう。現在でも、土間・床の間・応接間・居間・隙間などのように、一定の空間・領域を意味する言葉として「ま」が使用されています。従って地名接尾語の「ま」も同様に一定領域や空間を意味すると考えられます。さらに敷衍すれば、山(やま)・島(しま)・浜(はま)・沼(ぬま)などの基本的一般名詞末尾の「ま」も語原が共通している可能性があります。
 「つ」は現在でも大津(滋賀県)のように、港を意味する言葉として使用されています。以上の理解から、地名の末尾につく「松(まつ)」は、「ある一定領域にある港」とする理解でその多くは説明可能です。その証拠に、浜松・高松・小松の他、末尾に「松」を持つ地名の多くは海岸・湖岸・川岸付近にあり、この理解が正当であることを裏付けています。
 以上のように、「松」地名を松林が多い所とする浅薄な理解から、「言素論」により本来の意味に肉薄する深い理解が可能となるのです。これは「言素論」の応用例でも比較的成功した事例です。

 

「言素論」の困難性

 今回は「言素論」の学問としての困難性について説明します。それは古代における発音・音韻が現在のわたしたちにはわからないことが多いことと、残されている史料の文字表記と古代の音韻とが正確に対応しているかどうか、これもわからないケースがあるという点です。
 このことを具体例(わたしの失敗)で説明しますと、たとえば「洛中洛外日記」八二〇話で紹介した「○○じ(ぢ)」地名の音韻における、「じ」と「ぢ」の違いです。姫路や淡路、庵治、但馬、味野は「ぢ」と思われますが、「吉備の児島」の場合は普通「こじま」であり、「じ」です。わたしはこの「児島」も「こじ(ぢ)+ま」とするアイデア(思いつき)として述べたのですが、この点、倉敷市の「味野」地名を教えていただいた安田さんからメールをいただき、「ぢ」ではなく「じ」ではないかとのご指摘をいただきました。『古事記』の国生み神話に見える「吉備児嶋」は「嶋」ですから「こじま」と発音され、安田さんのご指摘はもっともなものでした。
 ただ、わたしには思い当たることがあり、あえて「吉備の児島」の「児島」を「こじ(ぢ)+ま」とするアイデアを述べました。それは『古事記』の国生み神話の「大八島国」の次に登場する六つの「嶋」(吉備児嶋・小豆嶋・大嶋・女嶋・知訶嶋・両児嶋)のうち、「吉備児嶋」だけは「嶋」(アイランド)ではなく半島で、しかも「吉備」という地名表記つきで、他の五つの「嶋」とは表記方法が異なっています。そこで、この「児嶋」は「嶋」と表記されていますが、本来は「こぢ+ま」という領域名であり、それを『古事記』編者は「こじま」として他の五つの「嶋」と同様に「児嶋」と表記したのではないかと考えたのです。
 しかし、わたしのこのアイデア(思いつき)に対して、西村秀己(古田史学の会・全国世話人、高松市)さんから「児島半島は昔は島で、戦国時代以降の干拓により半島になった」とのご指摘があり、わたしの思いつきは成立困難であることがわかりました。
 「じ」と「ぢ」に限らず、古代日本語の発音は現代の五十音よりも多く(たとえば万葉仮名の甲類・乙類など)、今のわたしたちの発音・音韻感覚によって十把一絡げに同音だから同じ意味とすることはかなり危険が伴うのです。ここに「言素論」を利用するさいの難しさの一つがあります。

 

「言素論」の方法論

 地名接尾語「ま」について、西村秀己さんから、「ま」が一定領域をあらわす言葉なら、なぜ「ま」が地名に付いたり付かなかったりするのか、地名そのものが一定領域を表しているのに、なぜ更に一定領域を意味する「ま」が付く必要性があるのかという鋭いご質問をいただきました。そこで、今回はこの地名接尾語「ま」についてわたしの考えを説明し、「言素論」の方法論について触れることにします。
 まず、「ま」を地名接尾語とするための条件としては、末尾に「ま」を持つ多数の地名の存在が必要です。数が少なければ、偶然の一致かもしれないという批判をクリアできないからです。すでに何度も紹介しましたように、日本列島にはかなり多くの末尾に「ま」がつく地名があり、これを偶然とするよりも、何らかの必要性があり、地名の末尾に「ま」を付けた文明や集団が存在したと理解する方が合理的なのです。
 次に、「ま」が付いたり付かなかったりする理由ですが、幸いにも末尾に「ま」が付いたり付かなかったりする例が現在もあります。「床の間」「土間」「居間」「客間」「応接間」というように「ま」が付くケースと、「玄関」「便所」「台所」のように「ま」が付かない場所が家の中にあります。前者は「間」が付くことにより一定領域(空間)であることと、それがどのような目的の領域であるかがわかる仕組みになっています。後者は「間」の代わりに「所」という一定領域(空間)であることを示す言葉が付加されています。あるいは漢語として目的と一定空間であることが明らかな「玄関」のような言葉には「ま」が不要であり、付加されていません。
 おそらく、これと同様に末尾に「ま」を付加することにより、ある集団などの一定領域を意味するケースとしての地名接尾語「ま」が付けられたのではないでしょうか。すなわち古代日本列島において、特定集団の領域を表す言葉として「ま」があり、その集団名などの末尾に「ま」を付ける慣習があり、その結果、末尾に「ま」を持つ地名が多数成立したのではないでしょうか。
 実はこれと同様の地名領域表現として、中国風の「国(くに)」「県(あがた)」「里(さと)」名称などが導入され、後には「評」「郡」「郷」が国家権力の行政単位として採用されます。このように、より古い時代に一定領域をあらわす言葉として地名接尾語「ま」などが発生したと、わたしは考えています。
 以上、地名接尾語「ま」の成立を「言素論」の視点から考察したのですが、もちろん他に有力で合理的な説明や仮説があれば、比較検証し、どの仮説が最も妥当かを判断すればよいと思います。「言素論」を古代史研究に使用する場合は、少なくともこの程度の学問的手続きと用心深さは必要でしょう。

 

「言素論」の可能性

 「言素論」は日本古代史研究に新たな可能性を秘めているのですが、古代中国の音韻研究にも寄与できる可能性もあります。たとえば音韻復元が未だ困難とされている『三国志』時代の音韻研究ですが、倭人伝の国名分析により解明できるケースがあります。たとえば、「奴国」などの「奴」の音韻が、通説の「な」や「ど」ではなく、「ぬ」あるいは「の」の可能性が最も高いということがわかってきました。
 『三国志』倭人伝に記された倭国内の国名に「奴」の字がよく使われています(奴国・彌奴国・姐国・蘇奴国・華奴蘇奴国・鬼奴国・烏奴国・狗奴国)。現在では「ぬ」「ど」とわたしたちは発音しますが、志賀島金印の「漢委奴国王」の場合は通説では「な」と訓まれています。倭人伝国名の末尾に「奴」が使用されていることが注目されますが、おそらく倭人の発音に基づき漢字を当てたものと思われますから、この「奴」が地名接尾語の可能性をまず考えるべきです。そうしますと、日本列島内の地名接尾語として多用されているのが、「ま」の他には「の」「さ」「な」などがあり、この中から「奴」の音の可能性があるのは「の」と「な」です。しかし、地名としては「の」が圧倒的に多いことから、「の」の可能性が最も高いと思われます。
 たとえば思いつくだけでも、昨晩地震があった長野をはじめ、吉野・熊野・日野・信濃・星野・茅野・真野・高野・美濃・小野・遠野・角野・中野などいくらでもあります。したがって日本列島内に多数ある「○○の」という国名が倭人伝に無いと言うことは考えにくいので、「奴」を「の」と訓むのは合理的な選択肢となります。ただし、古代から現代までの音韻変化という問題がありますので、ここでは「の」あるいは「ぬ」に近い音という程度にとどめておくほうが学問的には安心です。中村通敏さん(古田史学の会・会員、福岡市)も著書『奴国がわかれば「邪馬台国」が見える』(海鳥社、二〇一四年)で同様の考えを発表されています。好著ですので、ご一読をお勧めします。
 「奴」の発音を「の」「ぬ」と考えた場合、次に問題となるのが、その意味です。地名接尾語として何らかの共通した意味があったはずですから、「言素論」としてこの考察を避けて通れません。これまでは何となく「野原の野(の)」のことで、野原や広原の多い地名に接尾語の「の」が付けられたと考えていました。現に「○○野」という地名が数多くあります。もちろんこうした意味で「○○の」という地名が付けられたケースも少なくないと思われますが、倭人伝の「奴国」や志賀島の金印の「委奴国」の場合、かなり大きな領域の国名と思われますから、古代においては「の」「ぬ」に単に「野原」ではなく何か特別な意味があったのではないかと考えています。残念ながら今のところ良いアイデアはありません。
 古田先生が提唱された「言素論」は発展途上の先駆的学問領域であるがゆえの限界や欠陥、想定できない問題の発生を避けられませんが、同時に大きな可能性も秘めています。古田学派内での活発な論議や仮説発表を通して発展させていきたいと思います。

 

地名接尾語「さ」と「言素論」

 地名接尾語としての「ま」や「の」について論じてきましたが、まだよくわからない地名接尾語に「さ」があります。宇佐・土佐・稻佐・三笠・須佐・伊佐・石原(いさ)・麻・厚狭(あさ)・安佐・小佐(おさ)・岩佐・笠・加佐・笠佐・吉舎(きさ)・笹・奈佐・波佐・布佐・三佐・武佐・与謝・若狭など末尾に「さ」が付く地名は多数あります。従って、共通した何らかの意味を持つと考えられます。
 言葉の先頭に付く「さ」は、小百合や小夜曲のように「小さな」という意味の「さ」が知られていますが、地名接尾語の場合はそれとは違うようです。このように、「さ」の音に複数の異なる意味があることになるのですから、「言素論」で言葉を分析するさいに、どちらの意味を取るのかで恣意性が発生することもあり、こうしたケースは学問的に不安定なことがご理解いただけると思います。
 「さ」の意味を探る上で注目されるのが京都府福知山市の石原(いさ)という地名です。「原」という字に「さ」という発音はなさそうですから、音ではなく訓(字の意味)の一致から「さ」の音に当てたのではないでしょうか。そうであれば、「さ」は「原」(フィールド)の意味を持っていたことになります。そうしますと、「ま」(一定領域の意味)と似た意味となり、「○○さ」とは「○○」のフィールドということになります。まだアイデア段階ですが、地名接尾語「さ」の意味をこれからも考えていきます。

参考

「古田史学」の理論的考察 (「論理的考察」 は誤植) 古田武彦(会報116号)
「いじめ」の法則 -- 続、「古田史学」の理論的考察 古田武彦(会報117号)
古田史学の真実 -- 西村論稿批判(古田武彦会報118号)
続・古田史学の真実 -- 切言 古田武彦(古田史学会報119号)


新古代学の扉事務局へのE-mailはここから


『古代に真実を求めて』第十九集

ホームページへ


制作 古田史学の会