『天皇学事始め』(目次) へ

古代史と国家権力 ーー津田史学を批判する 古田武彦(『情況』1993年4月号)
『邪馬壹国から九州王朝へ』
『吉野ヶ里の秘密』 『よみがえる九州王朝』 『真実の東北王朝』  へ


『天皇学事始め』(論創社)第一部 報告

I 天皇家一元史観からの脱却

古田武彦

 はじめに

 古田でございます。どうも、日曜日の朝早くからおいでいただいて私共の話を聞いていただくということで、非常に喜んで伺いました。いつも私がやっております古代史の講演会、たとえばこの次の日曜にも東京で読者の会主催で企画された講演会がございますし、もうひとつ次の週には、大阪の方で、ここにも来ておられる藤田さんなどが肝煎りでやってくださる講演会があるわけですが、そういうのは、非常に古代史に関心のある方々が来ておられるわけです。ですから、私としては、その時点において一番新しい研究内容をお話するというようなことをして参ったわけです。
 ところが今日は、そういう方もいらっしゃるようですが、必ずしもそうではない、特に古代史について関心が深かったわけではない、そんなに本を読んだことがない、まして私の本なんかもちろんお読みになったことがないというような方が多いのではないだろうか。べースとしては、そういう会の性格ではないだろうかと思うわけです。
 しかも、さっき、司会の方からお話がありましたように、現在の社会における天皇の問題というものを考える上でひとつの深い手掛かり、根拠ある手掛かりを得たいという、そういうすばらしい趣旨で会を催して下さったわけです。
 実際のところ、こういう天皇制をめぐるシンポジウムのようなものは例年行われているようでございます。今年(一九八六年)も、例の四月前後(在位六〇年式典前後)、東京その他各地でかなり行われたように私は拝見しております。しかし正直に言いまして、私はその会にひとつひとつ出ていませんので、出ないで申すことは、まさに実証性を欠く恐れがあるわけですが、それを承知の上で、どうもそれらは的をついたものではないのではないか、と勝手な推測をしておるのです。何もお腹の中で持っていることを今こんなところで言う必要もないわけですが、しかし皆様とまずピントを合わせておくために敢えてそういうことに触れるわけです。
 といいますのは、例えば、天皇、天皇というけれども、「建国記念の日」のもとをなした神武天皇、あれは架空である、こういうことをPRしなければいけないという趣旨の会もあると思うのです。さらに神武天皇だけではなくて、いわゆる『古事記』、『日本書紀』、天皇家の所伝にあった神話ですね、これはいずれも歴史事実ではない、架空のことである、これは津田左右吉博士によって立証された。またそれを守ることが戦後の社会の実りある資産である。それを現在の政府は、無視してけしからん。非常に単純化した粗雑な言い方かもしれませんが、そういう感じでもたれている会もかなりあるのではなかろうかと、私は、出ないままで予想しているわけです。
 かつて私は、高等学校の教師をしている時は、そういう会にかなり出たわけですが、その時はだいたいそういう感じの会でございました。京都とか神戸とかで、日教組などの関係する会に出るとだいたいそういう感じで行われていたわけです。その点、現在でもそれほど変わっていないのではないでしょうか。これが間違った予想ならばたいへん結構なんですが、そういう予想をもって、街路や電柱にはってある広告を読む、大学、東大などに行った時に読むというようなことでございました。ただしかし、これは、あくまでその会場に実際に入ってみずに、かつて十年、二十年前に入ったことがあるというだけで予測しているんですから合っているかどうかはわかりません。
 しかしまあ、わからないことをくだくだ言う必要はないわけでして、要するに、簡単に言えば、神武天皇は架空の人物であるとか、神話は歴史と関係ないとか、そういった、たいへん非科学的な発想でもし運動を今なお、この現時点でもなお、進めておられる方がいるとすれば、これはかなり遅れている、あるいは歴史における科学性というものを本質的に見失なっておられるんではないか、ということをよそ事ながら心配しておったということなのでございます。
 そういう私を、こういう会にお呼びいただいたということは、私としては、非常に驚きでもあり、また感謝もするわけでございます。
 ということで私としては、このような運動もそろそろ戦後四十年を支配してきた誤まった歴史観、津田左右吉の下における「造作説」といわれる、神武天皇や神話を架空とするような誤まった歴史観を乗り越えて ーーやはり現実の運動は、あくまで歴史を科学的に見るという姿勢と無関係ではないどころか、歴史を非科学的な目で見たままで現実に対してリアルな運動ができるはずかない、というふうに私は思うわけでありますがーー 正しい歴史観に転換するという時期にあるのではないか、そのへんを察知していただいて、私にしゃべれというようなお声がかかったのではないか、と勝手に解釈しているわけでございます。

 

 1 津田「造作説」をのりこえる

 それで、限られた時間ですので何もかもお話するというわけにはまいりません。今の神武天皇の問題、神話の問題などもお話したいのですが、それをお話していると、一時間十五分ではとても足りませんので、そういう点で、もしさっきあんなことを聞いたがあれはちょっと意外だ、いったいどういうことを言ったんだ、これが右翼の会合に来たんならさっきの話はわかるけれども、ここに来ておかしい、そうお感じの方があれば、その方はシンポジウムの時にいったいあれは何だ、こうお聞きいただければ喜んでお話申し上げたいと思うわけです。
 そこで、私がまず申したいのは、戦前の皇国史観は天皇家をスーパー・スターに仕立て上げた天皇家一元史観に立っていた。これはもう、どなたもご異存がないと思うわけですが、実はそれにまさるものが、津田左右吉の学説の下に展開された戦後四十年の史学である、というこの事実を案外にご存じない方が多いのではなかろうか、ということなのです。
 それは、レジメにもちょっと書いておきましたけれども、一例をあげますと今度出雲から三五八本の銅剣 ーーと考古学者が言っておりますが、私は「出雲矛」という矛だと思うわけです。そういう問題はさておきましてーー が出現しました。それに対して、いわゆる考古学者 ーー奈良大学の水野正好さん、というような考古学者です。どっちかというと現代の考古学では本流に属する学者でございます。京大の名誉教授の小林行雄さんの愛弟子でございますからね。この方がーー がおっしゃるには、あれは、大和朝廷が大和で造ってそれを出雲へ配布したものである。だから出雲に何か大したものがあるように考えるのは全く幻想である、こういうことなのです。(一九八五年七月の斐川町のシンポジウム)
 さらに今年の三月、東京の有楽町のマリオンで行われたシンポジウムでは、その後見出された六個の前期銅鐸、高さ二十センチくらいの銅鐸ですが、これも大和朝廷が造って配布したものであるとおっしゃられた。
 また十六本の銅矛 ーー筑紫矛と呼ばれるものーー 同じくすぐ近くから出てきた、銅鐸と一緒に。これはだいたい鋳型が博多湾岸に集中しているものなのです。ところがこれに対して水野さんは、これもまた、大和朝廷が造ったものであるとおっしゃられた。
 なぜかといえば、大和朝廷が使者を博多に派遣して、博多の連中を使って博多で作らせた、だから鋳型が博多で出るのはあたり前だ、それを十六本ばかり出雲に分けてやれ、こういって博多の人間を使って運ばせたものだ。だから実物は出雲で出てきて、鋳型が博多で出てきても、すべて大和朝廷が造ったものである。こういう見事な、といいますか、理路整然とした説明をされたわけです。
 これが正しいかどうかということを論ずるのは今日のテーマではないですけれども、私にとって、ただ言いたいことは、なぜそんなことが言い得るのかということ、つまり、実は今言ったことは何ひとつ『古事記』『日本書紀』には書かれていない、神話や説話の中にも全く書かれていない、全く書かれていないのに何でそう言えるのかということなのです。それは“津田左右吉先生がおっしゃったように、『古事記』『日本書紀』の神話・説話は「造作」である、つくりものである、だからそれと矛盾することは何ら心配しなくていい、なくてあたり前です”ということになるのです。
 まだこれが戦前の皇国史観の人たちだったらたいへん葛藤があったと思うのです。つまり『古事記』『日本書紀』の神話・説話、あれは千古不易の大典であるというようなことで絶対化している。その絶対化しているところに、今の三五八本の銅剣を出雲に配ってやったなどという記事はないわけです。三五八本配るといえば大事件ですからね、一本や二本、地方豪族に分けるというのなら、こんなことを書いたらきりがないと言えますけれど、三五八本配るといえばたいへんなことです。ほかにそんな大配布はないわけですから。だのにそんな記事は全くない。
 ましてや博多に行って現地の人間を指導して、こき使って銅矛を造らせたなどという記事は全くない、出雲に配らしたなどという記事も全くないわけです。なくてもかまわないのです、戦後は。あれは「造作」だから、と。戦前の皇国史観の人はそうはいかなかったはずです。やはりそういう場合は苦しんで葛藤して何かこう、へりくつか何かしらないけれど、結局は「歴史の編述のさいの遺漏であろう、まことに遺憾の極みである」というようなことでごまかした。少くとも葛藤のうえでごまかした。ところが戦後の古代史学者は幸せです、全く葛藤なしなのです。葛藤なしに天皇家一元主義を堂々と貫徹できるわけですね。
 これは決して例外ではない、水野正好さんという人はいささか“勇ましすぎる”きらいはありますけれど、しかし例外ではない。その証拠は皆さんが新聞で見ておられるでしょう。朝日でも毎日でも読売でもサンケイでも大同小異です。何か考古学の資料、つまり物が出れば、これは大和朝廷から配布したものではなかろうか、そういう解説がしょっちゅう付くわけです。むしろ、そういう解説が何とか付けられる場合に記事になるわけです。
 記事を書くというのはそういうときだけではないですね。地方の現地の記者はその如何を問わず記事にして送るのですが、編集部、デスクはそのすべてを採用するわけではない。単なる一地方事件なら、しょっちゅうどこかから出てるのだからきりがない。ところがそれが「大和朝廷の何か」であろうということになると、これは出さないと具合が悪い、デスク採用の一理由なんですね。全部がこの理由とはいいませんけれど、これだと、たいへん重要な記事になるのはまちがいない。だから我々が見せられる記事はいつも、この出土物は大和朝廷の何とかであろう、というような解説がついてるのが非常に多くなるわけです。というようなのを皆さんは毎日見せられている。
 ですから、戦後は天皇家一元主義にとっては非常にありがたい時代になった。戦前には思いもつかなかったくらい、自由に徹底して天皇家一元主義を貫徹できる時代に皆さまは住んでおられる。このことについては、案外皆様の中に、今日私から聞かれるまで知らなかった方もあるのではないか、「現代の新聞に私は詳しい」「歴史はいざ知らず、新聞に出ている記事について私はよく知っている」と思っていらっしゃった方が、実はそういう非常に色のついた、いわゆる一元主義で塗られた、セレクトされた記事を毎日読まされているという、この事実をこれまで知らずにおられたのではないかと私は思うわけであります。
 こういうことで戦後社会というのは非常に誤まった歴史認識をもっている。自分には直接係のない時間帯の、戦前というのを批判するのは楽なんです、他(ひと)のことだから。ところが自分が現在いる社会がどんな制度の社会であれ、毎日ゆがめられた記事を、誤まっているものを読ませられていると、それが当たり前に見えてしまうという、よく知られた事実がここにも表われているわけでございます。
 しかしながら、最近では、かなり違った面も表われてきているようでございます。たとえばつい数日前ですが、私の大学に、ある代議士の方から、はっきり言いますと日本共産党の代議士の方なんですが、正森成二さんという方から手紙が送られてきました。非常に達筆で書かれておりました。その内容は、要するに、国会の委員会で、中曽根首相、竹下大蔵大臣に対して自分はこういう質問をした、その中であなた(古田)の学説によって質問をしたんだということを、予算委員会と大蔵委員会の詳しい記事を添えて送ってこられた。
 それを読んで、私としては驚いたわけです。九州王朝というようなことがあったんじゃないか、竹下さん、あなたの選挙区の所は出雲王朝なんだ、それをあなたは知らないのか、九州年号というものがあるんだ、九州年号の実例をあげてこういうものを知っていれば、総理大臣が言ったようなことは言えないだろう。そういう質問を、かなり長く展開しておられるわけです。ということで、あなた(古田)のお陰をこうむってこういう質問ができた、ということを非常に丁重な謝辞と共に送ってこられたわけです。
 だいたい、日本の学界は私の説に対して知らんふりをして、反論もせず賛成もせず、です。私の九州王朝説あるいは多元説 ーー 天皇家一元で日本の歴史を理解すべきではない、日本の歴史は多元的に成立してきた、その中のワン・ノブ・ゼムのひとつとして天皇家が生まれ出たにすぎないのだ、という私の多元説ーー に対して、賛成も反対も一切しない。「多元説はなかった」という顔で議論を展開してきている。この実例はたくさんあげることができますけれども、私としては非常に憤慨してきたわけです。
 聞くところによると、アメリカあたりでは新しい学説が、変わったのが出ると、大学がその人間を呼びつけて、まあ表面はご招待して、そこで、この位の人数だと思うんですけれども、大学の関係者が質問攻めにする。そして、そこでうまく答えられなかったらダウン、それを各大学でやるんだそうです、一年か二年かけて、全部クリアーできたら新しい歴史観だ、という認知を得るんだそうです。途中でダウンしたらこれは偽物だということになるんですね。そういう学界の慣例があるということを聞きましたけれども、まあ、あたり前の話ですけれども。
 ところが日本では全然そうではない。私が九州王朝説や多元史観というものを発表して十年以上たつわけなんですが、誰も呼びに来ないですね。呼んでいただいたらいつでも来ますよ、と他の大学の歴史学の研究室などに行ったときに、しょっちゅういっているのですが、一回も呼んでくれない。そういうような具合なのが、それがはからずも、国会というオフィシャルな、学会に劣らずオフィシャルな場ですが、そこで私の説をもとに質問する代議士が現われたということは、何党の誰である、ということとは別個に、それも関係あるかもしれませんが、別個に非常に意味深いことであろう、こう思っているわけです。
 これもまたシンポジウムの時に、もう少し時間があればご紹介してもよろしいのですけれども、こういうような新しい動きが明らかに兆しはじめているわけです。今日のような場にお呼びいただいたこと自身も、そのひとつと私は受けとめて参ったわけでございます。
 さて、前置きはそのくらいにしまして、時間がございませんので、私の申し上げたい多元史観ということを、古代史に興味がない、私の本ももちろんお読みになったことがないという方にも、端的におわかりいただけるような形で話を始めたいと思います。そして最後は、私の自分自身に課してあるルールでございますが、私の一番新しい発見という問題に到着させていただきたいと思うわけです。

 

 2 「日出づる処の天子」は誰か

 「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す、恙つつが無きや」という名文句は、皆さんご存じない方はないと思うんです。
 たしかきのうも、関東だそうですがツツガ虫が発生して死亡したという記事があったそうです。実は私、それを見なくて妻から聞いて、えっ、それはどこだ、といったのですが、妻もそこまで見てなかったということでわからないのです。また、知ってらっしゃる方があれば、教えていただきたいのですが。それで、この「恙無きや」という表現は東アジアの、中国も日本もツツガ虫で多くの人々が死んでいた時代の挨拶の言葉であったわけです。
 それはともかく、この名文句は、日本列島側のそれも大和の王者が自ら「日出づる処の天子」と称し、中国側の天子を「日没する処の天子」として、明らかに対等、ムードとしてはむしろこっちの方が上昇の身で、お前さんはもう落日の身だという、そういう態度で送った手紙だということは有名な話です。これは戦前にも戦後の教科書にも一貫して出ている。これに対しては教科書の執筆者も全く筆を変えない、もちろん調査官も全くチェックをしない。
 いわゆる教科書裁判でも、争っている執筆者と調査官の「仲良しグループ」、私の方から見るとまさに隔てなどないのではないかと思うほどの「仲良しグループ」と見えている地帯なんです。私の認識に誤まりがあったらおっしゃって下さい。どの教科書にも出ている、この「日出づる処」の個所をおかしいといって文句をつけた調査官は、私は聞いたことがない。またこれを書かないですました教科書の執筆者も聞いたことがない。必ず書いている、と私には見えているんです。
 ところが、私の方から見るとこれは真っ赤な偽物である。歴史事実とは違うというふうに考えているわけでございます。これは私の本にも何回も述べたところでございますので、簡単に申します。
 その「日出づる処の天子云々」の国書を送ったのは、この記事が出ております中国の歴史書『隋書』(七世紀前半)によりますと、倭国、正確には「イ妥たい国」、とこう申しますが、そのイ妥国の王者、多利思北狐(タリシホコ)ということになっております。多利思ヒコとなっているのがありますが、多利思ホコの方が厳密でございます。多利思北狐という人物、これは男の王様である。何故となれば彼には鶏称(きみ)という奥さんがいる、後宮の女何百人もいる、こう書いてありますから、まかり間違っても女である心配はない。
     イ妥*国のイ妥(たい)は、人偏に妥。ユニコード番号4FCO
 ところがこれまで、「日出づる処の天子云々」の国書は、推古朝、聖徳太子が出したものだ、というふうに戦前も戦後も一致して扱ってきた。しかし、推古天皇はいうまでもなく女王である。推古天皇が男子であったという説はどこにもない。そうすると推古天皇は多利思北狐でないことはもう明らかである。では、聖徳太子か。しかし、聖徳太子は「王」ではない。「王」というのは、最高権力者ですから。聖徳太子は一生、ナンバー・ワンになったことがないわけです。生涯太子として死んだ人、最後までナンバー・ツーなのです。ご存知のように聖徳太子のことを「法主」などと言っていますが、この「王」は、これはいわゆる「天皇のもとの王」、太子としての「王」であるということですから、ここで言っている「イ妥国の王」 ーーあるいは「倭国の王」といっても実態は変わりませんが、ーー その国の最高権力者、ナンバー・ワンの意味ではないわけです。そうすると、位取りからして聖徳太子であるはずはないですね、多利思北狐は。
 そして同時に多利思北狐などという名前は、聖徳太子にはないわけです。『日本書紀』に異名がだいぶ書いてありますが、それにも全く表われていないわけです。だから聖徳太子ではありえない、これは別にむずかしい理屈ではない、あたり前の話なのです。そうすると、推古天皇でもなく聖徳太子でもないわけですから、「日出づる処・・・」の国書を送ったのは近畿天皇家ではない。あたり前の話になるわけです。時代は七世紀前半、この時代は推古天皇(五五四〜六二八)の時代ですからね。
 のみならず、この『隋書』イ妥国伝にはさらに一歩進んだ文章が出てきている。といいますのは、この多利思北狐がいる場所を書いて、「阿蘇山あり、その石、故なくして火起り天に接する者、俗以て異となし、因りて[示壽]祭を行う」、「火起り天に接す」と、これはいかにも短いけれども実に中国人らしい漢文ですね。事実、中国人というのはあまり火山を知りませんから、その彼らが火山を見て仰天して、それを簡明な文字に記録したもの、そういう息づかいが伝わってくる文章であります。
     [示壽]は、示偏に壽。JIS第3水準ユニコード79B1
 ということは当然、阿蘇山というのは九州のどまん中にあるわけですから、その下にいる王者は九州の王者であると考えるのが、一番ナチュラルな考え方でございます。もしこれが大和、飛鳥であるならば、三輪山あり、大和三山ありとか、こう書いてなければいけないのにそんなものは一切ない。だからこれは、その点からみても大和や飛鳥ではありえない。九州の王者である。こう考えざるをえないわけです。
 ところがそれらの理由に一切目をつむって、戦前史学と戦後史学が手をつないで、「日出づる処云々」の国書を送ったのは推古朝の聖徳太子だと言い続けてきているわけでございます。
 これは多言を要しない明白な証拠、つまり七世紀前半に近畿以外に九州に王者がいた、しかも、その九州の王者は自らを「天子」と称して一歩も譲らなかった。これは、後に白村江の戦いという、七世紀後半の六六二年の戦いに突入する、一番の大義名分の理由なのです。
 中国というのは、決して他に「天子」を認めないわけです。自分に服従する「夷蛮の王」は認めますけれど、あくまで中国の天子の配下としての王なのです。これは我々からいうと極端ですが、ローマ帝国の王者さえも中国の天子からみると「配下の王」と見なそうとしたわけですね、それくらいのものです。ましてや、東アジア周辺の王には「天子」を認めようとしない。天子を称する者があれば断固撃つ、武力をもってこれを倒す。この鉄則を守っているのが中国の歴史であることは、少し中国の歴史の本をお読みになった方にはご承知の通りであります。
 ですから、天子対天子の衝突が白村江の戦いという形で激突して、いわゆる『隋書』でいう「イ妥国」、唐時代は「倭国」という名に帰っておりましたが、それが滅亡するという話になっているわけです。このことは、『旧きゅう唐書』、「くとうじょ」ともいいますが、唐時代の記録をもとにして、唐の滅亡直後といっていい時期に作られた歴史書にも印象的な姿を現わしております。といいますのは、倭国と日本国というのが別国であるというはっきりした書き分けで ーー目次を見ても書き分けてあるんですがーー 出てくるのです。

 倭国と日本国(旧唐書)
  倭国は古の倭奴国なり。京師を去ること一万四千里、新羅東南の大海の中に在り、山島に依って居る。・・・・四面に小島、五十余国あり、皆焉れに附属す。
  日本国は倭国の別種なり。・・・・或は云う、日本は旧もと小国、倭国の地を併せたりと。・・・・又云う、其の国界、東西南北各々数千里あり、西界南界は威な大海に至り、東界北界は大山有って限りを為し、山外は即ち毛人の国なり、と。

 「倭国は古の倭奴国なり」、倭奴国は志賀の島の金印の国ですから、九州の一角、北部九州のあの博多湾岸の国である、とこうはっきり言っているのです、冒頭から。それから「京師を去ること一万四千里、新羅東南の大海の中に在り、山島に依って居る」、ここは島だ、とこういうわけです、山の多い島だ。山というのは阿蘇山でしょうから。そして「四面に小島、五十余国あり、皆焉れに附属す」というのは、ひとつの島がポンとあって、それに島が五十いくつついて、そのひとつひとつの島々を国と称しているというのでしょう。倭国をそういうイメージでとらえている。
 ところがそれに対して「日本国は倭国の別種なり」。「別種」という表現は中国の歴史書で慣用的な表現で、「別の人種」ではない、しかし、政治、文化的には別、という時に「別種」という表現をするのです。だから倭国と血はつながっているが、政治、文化的には別の国である。そして途中ちょっと省略しましたが、つづけて「或は云う、日本は旧もと小国、倭国の地を併せたりと」。日本はもと小さな国だったが、倭国を併呑した。いつ併呑したかというのは後の記事でわかりますが、七世紀末、八世紀初めに日本国が倭国を併呑してしまった、つまり九州島まで支配して統一王権になった。もちろん日本列島全部ではありませんけれど、近畿を中心に東は中部、西は九州に及ぶ統一王権をなしとげた、関東も何ほどかその中に入りつつあったわけでしょう。
 それで、そう書きまして、「又云う、其の国界、東西南北各々数千里あり、西界南界は威な大海に至り、東界北界は大山有って限りを為し、山外は即ち毛人の国なり、と」。つまり「西界南界は威な大海に至り」というのは倭国を併合しましたから、九州の西南は海でございます。また「東界北界は大山有って」というのは、いうまでもなく日本アルプス、中部地方。「限りを為し」、つまり近畿を中心にする日本国というのは、東は限界があって、中部地方どまりである。そのむこうは毛人の国、これは要するに「毛野国」といいまして毛野君が支配する群馬、栃木を中心とする関東、これは「毛人の国」であって「日本国」ではないと言っているのです。
 これは皆さんが教科書で習ってきたこととは全然ちがいますよね。ところが、中国の歴史書に書かれたことを整理していきますと、このようになるのです。いわゆる志賀の島の金印時代(一世紀中葉)以来の倭国に、多利思北狐がいた(七世紀前半)。「日出づる処の天子」というのは、九州島に存在した、それの別種であった近畿の、我々の知っている天皇家ですが、それが八世紀の初めに白村江の戦い(六六二年)のあと九州を併呑して、これを支配するようになった。日本国が大きくなった。だから西・南はもう今(八世紀)では九州まで支配したけれど、しかし、東・北は日本アルプスどまり、そのむこうの関東地方の毛野国はまた別の政治圏、支配圏に属している。そういう記載になっているわけです。
 ではこれを戦前、戦後の学者はどう扱ったか。「うそを書いた」「誤まって書いた」というわけです。例えば岩波文庫の『旧唐書倭国・日本伝』などがありますから、五百円位でお買いになれます。本屋でお求めになれば解説が出ていますから、それを見ていただければわかります。“誤まってこんな不体裁なことを書いた”、こういう趣旨の解説がついているのです、東大系の学者による。
 しかし、私の理解からしますと、誤まっているなんていうのはとんでもないと思うのですよ。なぜとなれば、この『旧唐書』というのはさっき言いましたように、唐の王朝の公的記録をもとにして、唐王朝(六一八〜九〇七)の滅亡直後に作られたものです。唐王朝というのは、いうなれば白村江の戦いの勝者です。新羅と結んで、百済と連合している倭国と戦った当の相手だった。いわば「倭国」というのは、自分が死力を傾けてたたきつぶした相手なのです。捕虜もたくさん獲得しているわけです。その相手国のことを全然知らないで、歴史も、国境も間違えて理解したまま、それで勝った、などとそんな話がありますか。しかも、勝ったあとずっと長年たって記録がまとめられている。
 しかももっと言いますれば、あの阿倍仲麻呂(あべのなかまろ 七一六入唐、七七〇没)、遣唐使として唐に行き、そのまま唐に留まっていましたが、唐王朝は彼を官人に採用して ーー外国人を彼らは高官に用いましたーー 長安で優遇し、かつ後にはベトナムの大使にまでしている。西安(シーアン)に阿倍仲麻呂の記念碑か何かが建ったという話ですが、我々が行った時にこれから建つところだ、という話を聞きましたけれど、そういう人物が唐朝にはいるわけです、日本人の。
 阿倍仲麻呂が日本の歴史を知らないなどと、それはまあ細部までは知っていたかどうか分りませんが、歴史の基本をとんちんかんに理解しておった、国境まで全くまちがえて理解していた、こんなことが考えられますか。私はそんなことはないと思う。その阿倍仲麻呂が長安のどまん中にいるのですから、彼らが倭国に関する公的記録を書く場合のこよなき情報提供者です。
 と考えれば、この『旧唐書』の記事を「これはウソである」とか「とんでもない間違いだ」とか一笑に付する方がおかしい。なぜ一笑に付されたか。これはわかりますね。『古事記』、『日本書紀』(八世紀初頭)が正しいとされているからです。一見してすぐわかるように『古事記』、『日本書紀』は、天皇中心に書いてあります。それが正しい日本の歴史だということになっています、江戸時代以前から。まして明治政府は、それを江戸時代以上に拡大したわけですね。教科書にしたわけです。その教科書の常識に従って、天皇家中心の歴史観を明治から百年以上形成してきたわけですから、それを正しいとすれば、『旧唐書』の記事はとんでもないうそ、間違いです。だから「不体裁な」間違いだ、と書かれてある。
 それは決して実証的な手法の上から「うそ」だと言っているのではなくて、江戸時代の近世の歴史学 ーー後でまた問題になりますがーー から見て、いわんやそれを絶対主義で増幅した、明治百年の、天皇家中心史観の目から見て、ウソだと退けているのです。こういう史料の退け方は、果して科学と言えますか。私の科学というものに対する考え方から言えば、科学とは正面から相(あい)反するものである、そう考えざるをえない。
 だから、皆さんはもしかしたら科学と反対の歴史を今まで信じこんでおられたのではないか、戦前の皇国史観は間違っているが、戦後のあの歴史観は、津田左右吉さんの下のあの史観はいいんだ、と思いこんできたのではないか。
 ご存じのように津田左右吉という人は、すばらしい方です。戦争中に、早稲田大学の講義で「神話は造作である」「神武天皇も架空である」と時流に屈せずに言ったことはすばらしい業績ですし、勇気のいることだと思うのですが、にもかかわらず、反面、見逃がしてはならないことは、津田さん自身は自分で戦後表明しておられますように、天皇家に対する熱い尊崇を隠しておられない。のみならず、心情的な尊崇だけではなくて、日本の歴史は天皇家を中心に展開したのだ、これを私は疑わない、ということを強調されたわけです。有名な論文がございます。つまり、そういう立場に立って戦後史学は築かれてきたわけです。そうすれば、さっきの考古学者のような言い分も一見唐突に見えるけれども、決して唐突ではない、必然の成り行きであるということになってまいります。
 以上によって、時間の関係でそれ以外を多くは挙げられませんけれども、このいわゆる近畿天皇家一元史観というのが誤まっている、歴史の客観的な史料事実に反しているということはおわかりいただけたと思います。
 今ここではこれ以上多くをお話ししませんが、九州王朝と私が名をつけた存在、その分派としての近畿天皇家 ーーよく私は、イギリスに対するアメリカにたとえるのですが、アメリカの方が大きくはなった、しかしあくまで歴史の筋道の上では“イギリスから出たアメリカ”である、これと同じなのですねーー それはもとは、九州王朝の中の日向における一豪族であった。それもそこで食いつめ、九州ではうだつがあがらないと感じた青年達が脱出して、近畿の銅鐸圏に侵入をはかった。インベーダーとして侵入をはかった。これが神武たちなのです。当然ながら、九州の時代には九州王朝の臣下、それも筑紫の中央ではなくて、地方の分流豪族であったわけです。それを私は歴史事実であると考える。
 これをみな架空と消して、その上で、しかしながら天皇家中心に日本の歴史は展開しましたという津田史学の立場と私の立場とは、根本的に異なっているわけでございます。

 

 3 磐井も天皇だった

 さて、次にいわゆる「天皇」の名称の問題を話してほしいというご要望がありましたので、時間の関係で簡単にふれさせていただきます。
 まず、はっきりしていることは、「天皇」というのは当然のことながら中国の古典にある言葉でございます。「古えに天皇有り、地皇有り、泰皇有り」と『史記』(帝紀六、秦紀)に出てまいります。
 また「天皇・地皇・人皇、兄弟九人、九州を分ち天下に長たるなり」と『春秋保乾図』に出てきます。これにはちょっとご注目いただきたいのですが、「九州」という言葉がでてまいります。これは中国では伝統的な言葉でして、天子を中心にその統治下にある領域を「九州」といい、それ以外を「夷蛮の地」といいます。
 その「九州」という言葉を日本列島に持ち込んだのが、我々の知っている九州なのです。つまり、あの島を九州と呼んだのは、島の中に天子がいる、それを原点にしてのみ「九州」という言葉があてはまる。「近畿」とか「畿内」とかいう言葉がやはり中国の言葉であり、天子のいるところが「畿内」、その近所が「近畿」です。その言葉を、天皇家が持ち込んだのが近畿地方の「近畿」であり「畿内」であることは、皆さんご承知の通りであります。それと同じように、あの島を「九州」と呼んだ政府があったわけで、それは明らかに自己を天子と称していた政府でなければならないわけです。
 これは要するに結論から言いますと、筑紫の勢力である。もう少し申しておきますと、今の太宰府のそばに、「字あざ紫震殿」という「字」 ーー天子のいる御殿を紫震殿といいますねーー そういう「字」が残っております。
 さて、そういう話に入るとまた時間がかかりますのでもとへ帰ります。「夫れ越王勾践、雖も、亦、天皇の位に繋がるを得」(『越絶書』)というように、いわゆる越というのは、中国でいえば黄河流域ではないのですけれども、ここでも天皇という表現が出ております。また「皇帝を天皇と称し、皇后を天后と称す」(『称謂録』)というのが出てまいります。さらに注目すべきは、南北朝で分かれた北魏の方の歴史書を『魏書ぎしょ』というのですが、そこで「(皇始元年、三九六)呂光、僭して天王と称し大涼と号す」、また「(天興二年、三九九)呂光、其の子紹を立て天王と為す。自ら太上皇と称す」という記事が出てまいります。自分は「太上皇」といった、こういうのです。
 ところが実は、『日本書紀』の「雄略記」で、倭国の「天王」という記事が出てまいります。「蓋歯王、弟昆支王を遣わして、大倭に向い、天王に侍らしむ」。これは百済の蓋歯王の話ですが、この「大倭」というところは、今日は論証の時間がないのですが、実は九州王朝をさすわけでして、この九州王朝の中心人物を「天王」と称しているのです。これはだから、「東アジアの天王の表現」のワン・ノブ・ゼムである、ということが言えるわけです。
 次いで、これもやはり『日本書紀』に出てくるのですが、『百済本紀』というものを引用したところで、「日本の天皇及び太子・皇子倶に崩薨せぬ」という文字がある。いわゆる「磐井いわいの反乱」(六世紀前半)といわれているところの記事です。ところが実はこれは全く事実に反する。といいますのは、この天皇、この時の近畿側は継体ですが、継体にあてると全く事実に反しているわけです。
 つまり、継体とその太子 ーー太子とは長男ですーー それに他の王子が皆一緒に死んだとしたら大事件ですよ、ところが、こんな大事件は『古事記』、『日本書紀』にも一切書かれていない。ではこれは何かというと、磐井が斬られた(「石井を殺した」『古事記』継体記、「磐井を斬った」『日本書紀』継体記)わけですから、磐井を九州王朝の天皇と考えた場合にはこの記事がぴったり合ってくる。少くとも矛盾がない、という問題がでてくるわけです。
 しかしこれは、戦前の歴史観、皇国史観からすればとんでもないことである。それどころか皇国史観以上に天皇家中心主義に立っている戦後史学でもとんでもないことなのですが、史料事実からみると、これは筑紫の君磐井をさすと考えざるをえない。この論証は、『失われた九州王朝』(角川文庫)という本や、最近、朝日新聞社から出しました『古代は輝いていた』(全三巻)をごらんいただきましたら、詳しく書いてあります。
 さて、それに対して、いわゆる『金銅薬師仏造像記』というのが法隆寺にあるわけですが、ここに「池辺の大宮に天の下を治らす天皇(用明天皇)、・・・小治田の大宮に天の下を治らす大王天皇 (推古天皇)」という表現が出てきまして、この天皇は明らかに近畿の、大和の天皇である。これの一番早い例、と言ってもいいと思います。しかし、前の二つに比べると、非常に遅い、日本列島内でも遅い例である。
 ということは、まとめますと、“天皇という表現は東アジアでは、もちろん日本列島より先に各地で使われていた。中国周辺の、中国がいわゆる夷蛮というその王者が使っていた。その一環として、それに遅れて日本列島でも使われた。最初に九州王朝の王者がこれを使っていた。ところがそれの分派であった近畿の天皇家がそれを模倣して、天皇という表現を使うに至った”これが客観的な史料の示すところです。
 ところが、戦前はもとより戦後の史学はそれらを一切無視して、“天皇といえばあの近畿の天皇しかないのだ”、という非事実を教科書に書き、論文で主張してきた。そして、多くの人たちか、おそらく保守、革新を問わず、そういう誤まった歴史観を信じてきたというふうに私には見えているわけでございます。

 4 天皇家以外に朝廷あり

 さてそれで、時間もそろそろなくなりましたので、最後に、私が今夢中になっておりますテーマについて申し上げたいと思います。
 それは、『出雲風土記』というものについてでございます。『風土記』というものが、八世紀以降各地で作られたということは有名な話です。その中でも一番形式が完備しているといわれているものが、『出雲風土記』でございます。ところがその『出雲風土記』の中に、二回ばかり「朝廷」ということぼが出てまいります。「朝」という字に「廷」ですね。「朝廷」、「みかど」とカナをふって読まれております。

 三澤みさわの郷さと郡家こほりのみやけ西南ひつじさるのかた廾五里さとなり。大神大穴持命おほなもちみことの御子みこ、阿遲須枳高日子命あぢすきたかひこのみこと、御須髪八握みひげやつかに生ふるまで、夜晝哭きまして、み辭ことかよはざりき。その時、御祖みおやの命みこと、御子を船に乗せて、八十嶋やそしまを率ゐて巡めぐりてうらがし給へども、猶なほき止みまさざりき。大神、夢いめに願ぎ給ひしく、「御子の哭く由よしを告らせ」と夢いめに願ぎませば、その夜、御子み辭ことかよふと夢見いめへましき。則ち、寤めて問ひ給へば、その時「御澤みさは」と申まをしたまひき。その時「何處いづくを然しかいふ」と問ひ給へば、即やがて、御祖みおやの前を立ち去り出でまして、石川を度わたり、坂の上に至り留まり、「是處ここぞ」と申まをしたまひき。その時、其の澤さはの水活ながれ出でて、御身みみ沐浴かはあみましき。故かれ、國造くにのみやつこ、神吉事かむよごとまをしに朝廷みかどに参向まゐむかふ時、其の水活ながれ出でて、用もちゐ初むるなり。此れに依りて、今も産はらめる婦をみなは、彼の村の稲を食くらはず、若し食ふ者あらば、生うまるる子已すでに云ものいはざるなり。故かれ、三澤みさはという。即すなはち正倉みやけあり。(『日本古典文学大系2・風土記』岩波書店、二二七頁)

 一例を申しますと、おわりから三行目のところですね。「故かれ、國造くにのみやつこ」「くにのみやつこ」という読み方はきらいなのですが、「こくぞう」とか「くにつくり」と読むべきだと思いますか ーーその國造が「神吉事かむよごとまをしに朝廷みかどに参向まゐむかふ時」という表現です。もう一回出てきますが、これもだいたい同じような、国造が「神吉調かむよ(ちょう)ほがひに朝廷に参向ふ時」という表現で出てくるわけでございます。
 ところがこの「朝廷」について、従来、全ての学者、いわゆる「責任ある学者」、「信用できる学者」とみなされている、保守、革新を問わずそうみなされている学者は、全員がこれを大和朝廷と注釈し、またそういう用例として使ってまいりました。そして国造「こくぞう くにつくり」は出雲の国造であるというわけです。出雲と大和の関係を論ずる場合によく使ってきた用例でございます。
 ところが私は、これに対して疑問を抱きました。この「朝廷」というのは果して大和朝廷であろうか。「もしかすれば出雲朝廷であるかもしれませんよ」ということを、今年(一九八六年)三月の東京の有楽町マリオンのシンポジウムで、「最後に一言」と言われた時に申したわけです。
 『出雲風土記』というものの内容を見ると、そこにはスーパー・スターがいる。それは大穴持命、ふつう皆さんが知っている名前では大国主命、といわれる人物ですが、それが約三十四回登場する。それに対して次に登場回数が多いのが、須佐之乎(すさのお)命で約十二回、次は「神」に「魂」と書いて「かもすのみこと」、約八回です。あと六回とか五回、二回、一回、たくさんいるわけです。つまり、一位があってあと二位なし三位なし四位なし、五位ぐらいにふたり出てきて、というような感じなのです。いかに大穴持がスーパー・スターであるかということが、これは「説」じゃなくて事実の問題として明らかであると思います。
 ところが問題はそれだけではなくて、大穴持の子供ですね。「御子おんこ」という子供の話が六回出てくる。「御子」と書いてないけれど同一人物だというのを合わせると十回前後出てくる。それに対して孫ですね。これは三回、まあ絶対数二回といった方が正確かもしれませんが、二回ないし三回しか出てこないわけです。曾孫は全く出てこない。これも調査すればどなたがやっても似たような結果がでてくると思うのです。
 ということは何を意味するかと言いますと、この『出雲風土記』のストーリーは、大穴持の晩年でストップ、終わっているのです。これは、皆さんご自分の事でお考えになればわかります。私位の年齢、私は今年還暦を迎えるはずなのですが、私以下の年の人でも女の子を持っている人はもうすでにその経験をお持ちだと思うのですが、つまり孫がひとりできた、子供は何人かいるが、孫はひとりだけ、あるいは二人だけいたという「段階」がある。それをすぎたら孫はもっとたくさん、子供の数より多くなるわけです。曾孫はさらに多くなるわけです。しかし、その人の晩年のある一時点にはそういう「段階」があるわけです。つまり、これは大穴持の晩年の一段階以前のものだというわけです。それ以後の物語はもうないのです。こういう、非常に不思議というか、おもしろい状況を示している。
 しかし、その理由ははっきりしているのです。大穴持が出てくる最初のところで、大穴持が越の国 ーー今の越前、越中、越後の越ですーー を征伐して帰ってきて、そこで私の造って ーー「造って」というのは支配して、征伐してということですがーー 征服した国々を「皇御孫」(スメミマノミコト)ーー これが『古事記』、『日本書紀』でいう邇邇芸(ににぎ)命なんですがーー に譲る、といういわゆる国ゆずり神話ですが、そこで「譲る」、私は出雲で引退する、という言葉を言っております。これが第一回目に彼が登場する時の言葉なのです。ということは、つまり引退した後は、このストーリーはない、ということになっているわけです。
 さて、以上のような『出雲風土記』の時間帯から見ますと、どうも、『出雲風土記』というのは、上限は非常に古くからあるけれども、下限は今の大穴持の晩年でストップして、それ以前である。以後はない。そのストーリーの中に二回とも「朝廷」ということばが出てくる。そうするとその「朝廷」というのは出雲における朝廷ではないだろうか、という疑問を私は持った。だからその時、有楽町でそう言った。ところがその後、この問題は非常にはっきりしてまいりました。疑問ではなくなった。
 といいますのは、まず、『三国志』という例の「魏志倭人伝」の入っている本を調べておりますと、「朝廷」ということばがくり返し出てきます。当然なんですが、そこで、どこを指して「朝廷」と言っているかといいますと、まず漢の王朝を「朝廷」と呼んでいるのが何回か出てきます。これは当然ですね。『三国志』の始まりは後漢の終わりのところの記事から始まっておりますから。ついで魏ですね。三国というのは魏、呉、蜀なのですが、魏を朝廷と呼んでいる例が一番多い。これも当然で、『三国志』は魏を中心に書かれている。それは意外ではなかったのですが、私にとって意外だったのは、呉です。孫権の呉、南京、当時の建康ですね。ここを朝廷と呼んでいる例がでてくる。直接法の例ですが、出てくる。また蜀、今の成都の方ですが、ここを朝廷と間接的に呼んでいるような例もでてくる。言ってみれば、朝廷多元説といいますか、そういう立場で書かれている。これはちょっと意外でした。
 事実問題としては三国それぞれが自分を朝廷といっていたことは明らかです。大義名分の対立ですから。しかし『三国志』というのは、魏を受け継いだ西晋で作った歴史書だから、私は漢を受け継いだ魏だけを「朝廷」といっているかと思ったら、さにあらずであった。やっぱり頭で理屈で考えるより、実証が大事なわけですね。
 しかし、より以上に私がショックを受けましたのは、魏をうけ継いだ西晋の史官陳寿がこの『三国志』を書いたのですが、その西晋の王朝を「朝廷」と呼んだ例が全く存在しなかった、ということなのです。その西晋というのは『三国志』が書かれた執筆時点、三世紀の後半です。そして執筆対象は大ざっばにいいますと三世紀の前半、漢であり、魏、呉、蜀である。その執筆対象の権力中心を「朝廷」と呼んでいるが、執筆時点の「朝廷」、朝廷にはきまっているのですが、それを朝廷と呼んだ例はない。こういう事実を認識したわけです。
 さて、そうすると、こういう東アジアの歴史書の書き方からみますと、「朝廷」などという言葉は東アジアの言葉ですから、『出雲風土記』の「朝廷」はどこをさすのか。
 『出雲風土記』を見た場合、執筆時点は明らかに八世紀、これはもう疑いない。その時の朝廷が大和朝廷であることはこれまた疑いない。奈良時代直前の時期ですからね。それに対して執筆対象は弥生時代にあたるのでしょう。弥生時代もおそらく前半だと思いますが、大穴持の晩年以前。その執筆対象のストーリーに出てくる「朝廷」は、どっちの朝廷か。そうすると『三国志』の例で考えると、東アジアの歴史書の例で考えると、執筆対象の大穴持の時代の朝廷、つまり大穴持はスーパー・スターですから、そのいる所を「朝廷」と呼んでいた可能性が強いわけです。少くとも、どっちの朝廷だろうかと“迷って”もよかった、と私は思うのです。ところが一切迷った形跡はない。
 江戸時代の本居宣長、賀茂真淵、荷田春満といった、あの国学の人たちは、あの人たちにとっては「朝廷」は絶対に大和朝廷ですから、日本列島にそれ以外の「朝廷」は許さない立場ですから、あらゆる古典研究よりそのイデオロギーが優先しているわけですから、そういう注釈を書いた。そしてそのお弟子さんたちが明治の国語学者、国文学者、歴史学者の大家になった。皆、その立場をとった。それで、今の各大学の国語学、国文学、歴史学の教授たちは皆その孫弟子か曾孫弟子になるわけで、全員一致して「大和朝廷」と扱ってきた。つまり「執筆時点の朝廷」と扱ってきたわけです。東アジアの歴史書の書き方とは全く反して。
 少しはどっちだろうかという論争くらいあってもいいと思うのですが、全く江戸時代以来、私がごく最近見つけるまで、論争はない。私自身もそうでしたからあまり言えないですけれど、論争なしで来ていた。
 さて、それからもう一歩突っ込んでみますと、この大穴持命(=大国主命)が最初にでてきた時に、大穴持は注目すべき発言をしている。

  所天下大神(天の下を造らしし大神)(約三〇回)
  「我坐而命(複数)」(我が造りまして命らしし国)
  天下造り(国々造り)→朝廷(出雲朝廷)
  国造り→一国造り(仁多の国造)

 「我が造りまして命らしし国(複数)」と言っている。つまり、自分が征服して統治している国々、こういういい方をしているわけです。ここには、「国造」という「くにつくり」という概念がでてきているわけです。いいかえれば、大穴持は「くにぐにづくり」なのです。「国々造り」であるから彼には、約三〇回の中で何回も次の肩書きがついてまいります。「天の下を造らしし大神」、こういう肩書です。つまり「国々を造った」から、合わせて「天下を造る」こうなるわけです。ということは『出雲風土記』の術語では、「一国造り」の「国造」という言葉に対して、「国々造り」を「天下造り」と称している。大穴持はその「天下造り」の王者である。こういう立場に立って言葉を使っていることは明らかです。 
 以上でお分りのように、『出雲風土記』で「国造」が、さっき言いました「神吉事奏しに朝廷に参向ふ時」(神吉事を申すために朝廷に行く)という、その「国造」というのは「一国造り」でございます。「一国の統治者」のみである。その「一国」というのは、ちょっと言っておきますが、出雲国一国のことではありません。出雲の国、越の国、筑紫の国、とありますが、国というのはその三つだけではなくて、出雲国の中でも「何々郡」というのがありまして、それを大穴持は「その国は良き国なり」というように常に言っているわけです。だから、大穴持の時代には、八世紀以前における「郡」が「国」と呼ばれていた。ということはその「国の統治者」が「国造」です。だから、出雲の中にも国造がたくさんいるわけです。
 そして、ここの話は、仁多郡の三沢(みさわ)、もとは三津(みつ)の郷(こほり)という所の話です。後、三沢と改名されたと書いてありますが、そこの話です。冒頭に大穴持が、「この国はにたしき、湿地帯の多い国である、だから仁多というのだ」といったという話がでてきていますから、仁多郡は「仁多の国」なわけです。そうすると「一国造」の「仁多の国造」がむかうところ、「朝廷」とは、「国々造り」、つまり「天下造り」の大穴持である、と考えるのが『出雲風土記』という神話に密着する限り、もっとも客観的な判断である、こういうことになるわけでございます。
 それで、その最後の決め手としまして、もう時間の関係で詳しくは話せませんが、先ほどの物語(二八頁)です。大穴持の子供が生まれてから口がきけない。いわゆる唖というんでしょうか、口がきけない状態で大きくなっていた。父親が非常に心配してあちこちに彼をつれて医者や薬を求めて回ったわけですが、直らない。ある晩、神さまに、まあ、大穴持は我々からみると神さまですが、生ぎている時は人間だったらしくて、彼にとっての神様に祈ったら、神様が「よし、病気をなおしてやる」と。「やれうれしや」と思ったとたんに目が覚めた。そこで、となりにいる子供に、「おい」と声をかけると、子供が「三津」とこう言った。「三澤」というのは直してあるので、これは「三津」の方がいいわけです。「三津みつ」とこう言った。どこのことだ、こう聞きますと、立ち上がってさっと戸外に走り出した。追っかけていくと、川を渡って、斐伊川の上流あたりのところですが、そこを渡って、坂の上のところに泉が出ている。「是處ぞ」とこう言った。それでそこの水を使っているうちに、口のきけない病気が治った。こういうふうに書かれているわけです。
 そして、その次に、問題の「故、国造、神吉事奏しに朝廷に参向ふ時、其の水活れ出でて、用ゐ初むるなり」。つまり、仁多の国造が、自分が朝廷に行く時に、その泉の水で沐浴みして、出雲朝廷に向かう、出雲大社があるところ、そこへ向かう。そうすると、その出雲朝廷には大穴持がおって、口のきけないのが治った息子が横におるわけで、「あの泉で私は今朝、水浴びしてきました」「ああ、そうかそうか、あの水は大変霊験あらたかな良い水じゃのう」という形になって、この説話はいきいきとしているわけです。
 ところが、これを大和朝廷にしてしまったら、大和朝廷は何ら関係ないですから、全然話が“死んでしまう”わけです。“死ぬ”から、学者はしょうがないのでこれは何か宗教的な儀礼であったのであろうという、へんな、抽象的な理屈をつけてしまうわけです。地理的には、私もこの前に行ったところですが、とても山奥でね、そんなところにとても廻り道できるようなところではないのです。
 しかし「仁多の国造」だったら自分の領内ですから、しかもそれは斐伊川の上流ですから、その泉に行きましたら泉のすぐ下に斐伊川が流れている。それで舟に乗ったら、サッと、おそらく何時間かで出雲大社へ着くわけです。お昼すぎには、大穴持に会えるわけですね。話が実に生き生きしている。それを大和朝廷にした時には全然話が“死んで”しまう。
 ということで、実状からみましても、また大事な、話の整合性からみましても、やはり、この朝廷は出雲朝廷であるということに疑いなし、とこう考えている。だからそういう趣旨の論文を学術論文の形で今年はぜひ書きたいと思っているのですが、私にとってこれが非常に意味深いことであるのは、すなわち、これが「天皇家以外に朝廷あり」という確実な論証になるからであります。
 邇邇芸命の問題、これは今日は省略しますが、この「天孫降臨」という事件は筑紫にアマテラスが孫を遣わした、“壱岐、対馬から博多に遣わした”という事件です。そこで今度は「筑紫朝廷」に移った。「筑紫朝廷」に移ったとたんに、『出雲風土記』はストーリーをやめた、そういう姿になっているわけでございます。その「筑紫朝廷」に対する、日向の国、つまり宮崎県の分派、あるいは「地方豪族」、その一族が逃れて、九州で望みを失なって脱出して、近畿なる銅鐸圏に侵入をはかった、これが神武たち兄弟である、という話になっているわけでございます。

 

 5 書き変えられた『出雲風土一記』

 それで一番最後に、私にとって意義深い発見についてお話して、報告を結ぶことにいたします。『出雲風土記』の冒頭を見ておりますと、従来の『出雲風土記』の冒頭部といわれていたものはとんでもないインチキ、というと悪いのですが、まあ、遠慮して言ってもインチキはインチキです。つまり、真の『出雲風土記』にあらず、ということが分ってきたわけです。
 ふつう使われている『出雲風土記』は、岩波の『日本古典文学大系2』のような形です。岩波の『古典文学大系』というのは非常に学者が信用している本なのです。そこでは、二行目が「国之大體・・・・・・一百七十三歩」こうなっているのです。

 出雲風土記
 国之大體 首震尾坤 東南山2 西北属海、東西3一百卅九里一百九歩、南北一百八十三里一百七十三歩。
 (国の大き體かたちは、震ひむがしを首はじめとし、坤ひつじさるのかたを尾をはりとす。東ひむがしと南とは山にして、西と北とは海に属けり。東西ひのたては一百卅九里さと一百九歩あし、南北ひのよこは一百八十三里一百七十三歩あしなり。

 『出雲風土記』を読んだ方は皆これで覚えておられるというか、見覚えがあるはずなのです。ところが実は、『出雲風土記』にはこんな文章はないのです。そのことは実は、下の注釈を見れば出てはいるのです。つまり、小さい2ばんという所に、「『山西』二字、底・諸本『宮』。解による」という注釈がある。「山」という字と「西」という字、これは底本でも諸本でも「宮」という字である。次に、これは「解による」ですから、江戸時代の学者の内山真竜、彼等の注釈によって直した、こういうことを言っているわけです。
 では、今度は3ばん。「底・諸本『西』がない。訂などによる」とあります。「東西」とありますが、これも、底本も諸本も「西」がない。「訂などによる」、『出雲国風土記・訂』ですが、それによって直した、こう書いてある。つまりこの意味するところは、これは原文とは違うが、江戸時代の学者の説や千家俊信の『訂正出雲風土記』によって直した、とこう書いてあるわけです。
 では、原文はどうかといいますと、次に幾つかの写本の原文をお目にかけます。(『出雲國風土記の研究』昭和二十八年、皇學館大學出版部、口絵写真参照)

    (倉野氏本)
  国之大體首震尾坤東南宮北属海
  東一百卅七里一十九歩南北一百八
  十二里一百九十三

 「国之大體首震尾坤東南」「宮みや」でしょ、「山西」なんて字はない。そして、二行目の最初そして、は「東」であって「西」などという字はないでしょ。これは倉野氏本といって、たいへん古い写本だと言われている『出雲風土記』なのです。
 次いで、細川氏本。これはいちばん古い写本だと言われているものです。

     (細川氏本)
  国之大體首震尾坤東南宮北属海
  東一百卅七里一十九歩南北一百八
  十二里一百九十三

 一行目の下から四字目、「山西」なんて字はないでしょ、二行目の先頭も「東」であって「西」はないわけです。
 次の松下氏本。

    (松下氏本)
  国之大體首震尾坤東南宮山西北属海
  東西一百卅七里一十九歩南北一百
  八十三里一百九十三歩

 これも同じく「宮」なのですが、この場合注目すべきは「宮」の横に「山西」と小さな字で書き込んである。二行目の冒頭も「東」とあるのを「西」と小さな字で書き込んである。これは要するに、先ほどの意見にしたがって、ここを「山西」と直す、ここを「東西」と直す説があるということを、写本を写した人が追記しているわけです。だから、それがわかるように脇に小さな字で書いてあるわけです。
 同じく今度は萬葉緯本というもの。

     (萬葉緯本)
  国之大體首震尾坤東南北属海東西
  百卅七里一十九歩南北一百八十三里
  一九十三

 これもやはり「宮」である。この場合は「陸」と直そうとしているみたいです。「陸」ではないかと意見を書いている。「東西」の「西」がここにあるのではないかという意見をここに書いている。
 同じく、桑原氏本ですが、ここでも同じく「宮」である。そして「東西」の「西」はない。

     (桑原氏本)
  国之大體首震尾坤東南宮北属海東一百
  卅七里一十九歩南北一百八十三里一百
  九十三

 次の河村氏本、ここでも「宮」とあって、「東西」の「西」だけを意見として小さな字で書き込んである。

    (河村氏本)
  国之大體震尾坤東南宮北属海
  東西一百卅七里一十九歩南北一百八
  十三里一百九十三

 次の日御碕(ひのみさき)本というのが、出雲大社の近くの日御碕神社にある本ですが、これもやはり明白に「宮」である。そして、二行目の先頭も「東」であって「西」がないわけです。

     (日御碕本)
  国之大體首震尾坤東南宮北属海
  東一百卅七里一十九歩南北一百八十三
  里一百九十三

 だから要するにどの写本も「宮」であって「山西」というような写本はないわけで、「東」であって「東西」というような写本はないわけです。それはいずれも、後の意見として、こういう意見があるという形で、小さい字で追記されているにとどまるわけです。
 さて、それでは、その違いはいったい何を言いたいのかといいますと、地図(四九頁)を見て下さい。まず、直された、今、本文と考えられている文章でいいます。要するに、首、頭が震というのは、東を地震の「震」というわけで、東が頭である。「坤」というのは西南であり、西南がしっぽの方である、こういうことをまず言っているわけです。
 続いて、直された文でいいますと「東と南は山である」となります。「南は山」というのはいいけれど「東が山」というのは何となくぴんときませんね。美保の関の東は海ですし、陸地の方でも東は鳥取平野で平野です。「東が山」というのはぴんと来ないのですが、とにかくそういうふうに直しちゃった。そして今度はそれに対して、「北が海に属する」と。北は日本海だから海、それはいいとしましょう。次に、東西が何里、南北が何里、と東西南北というふうに直しちゃった。東西南北で形が整うように直した。
 さて、それでは、私の立場は、いわゆる「邪馬台国」問題でも論じたように、原本にないものをこっちの意見で直してはいけないということですね。邪馬壹国としか『三国志』にないものを、倭王は天皇家でしかありえない、というので、「邪馬臺国」と直して「ヤマト」と読んだのが、江戸前期の松下見林です。それで、「『ヤマト』というのは九州にもあるぞ」といって、筑後山門に当てたのが新井白石だった。それぞれ、いわゆる東大学派の筑後山門説、京大学派の近畿説のもとをなしたわけです。しかし、そういうふうに原文にないものを自分の都合で直して使うというのは正しい方法ではない、と主張したのは、『「邪馬台国」はなかった』(角川文庫)その他私の著書をお読みの方にはご承知の通りです。
 同じようにこの場合も、これだけたくさん写本があって、版本どころか写本があって、いずれも、「山西」「東西」なんてないのですよ。皆、「宮」と「東」なんですから、やっばり「宮」と「東」で読むべきなのですね。
 では、なんと読めるか。先ず「宮」というのはいったい何か、というと、実はこれは『出雲風土記』を見れば、「杵築きづきの宮」しかありえない。

 杵築きづきの郷さと 郡家こほりのみやけの西北いぬゐのかた廾八里さと六十歩あしなり。八束水臣津野やつかみづおみのみことの国引き給いし後、天あまの下した造らしし大神の宮を造り奉まつらむとして、諸もろもろの皇神等すめがみたち、宮処みやどころに参まいつどいて、杵築きづきたまひき。故かれ、寸付きづきと云う。(神亀じんき三年、字を杵築と改む。)〈出雲郡、杵築の郷〉
(『日本古典文学大系2・風土記』岩波書店、百八十一頁)

 これは時間の関係でいちいち言いませんが、一行目の終りから二行目に「天の下造らしし大神」、例の大国主ですね、その「大神の宮を造り奉らむとして・・・宮処に参集ひ」、これはいずれも杵築の宮、今の出雲大社のところを言っているわけです。

楯縫(たてぬい)と号(なづ)くる所以(ゆえ)は、神魂命(かむむすびのみこと)、詔(の)りたまひしく、「五十いそる天の日栖ひすみの宮の縦横の御量みはかりは、千尋ちひろの栲*縄たくなわちて、百結ももむすび結むすび、八十やそ結び結び下さげて、此の天の御量持ちて、天の下造らしし大神の宮を造り奉まつれ」と詔りたまひて、御子(みこ)、天の御鳥命(みとりのみこと)を楯部(たてべ)と為(し)て天下(あまくだ)し給ひき。その時、退(まか)り下(くだ)り来まして、大神の宮の御装束(みよそほい)の楯を造り始め給ひし所、是(これ)なり。仍(よ)りて、今に至るまで、楯(たて)・桙(ほこ)を造りて、皇神等(すめがみたち)に奉(た)てまつる。故、楯縫(たてぬい)といふ。
(『日本古典文学大系2・風土記』岩波書店、百六十七頁)
     栲*縄(たくなわ)の栲*は、栲の異体字。JIS第4水準ユニコード23465

 この文もそうでして、神魂命が言っている宮、これは私は出雲の隠岐島にあるものだ、と『古代の霧の中から』(徳間書店)で論証したのですが、それは今はさておきまして、その二行目に「天の下造らしし大神の宮」、四行目に「大神の宮」とあるのは当然、「杵築の宮」をさすわけです。だから、「宮」は他にもありうるが、「大神の宮」と言えばもうこの出雲大社、杵築の宮しかないというのが『出雲風土記』の立場なのです。

出雲風土記地図(日本古典文学大系二,岩波書店より)I天皇家一元史観からの脱却 古田武彦 『天皇学事始め』(論創社)
 となると、「宮」と一言で言った場合は、この「大神の宮」つまり「杵築の宮」をさすと考えざるをえないわけです。さて、それでは、「宮」を「杵築の宮」として読んでみましょう。地図(四九頁)を見て下さい。それで、「宮」の「坤」とか「震」とかいう言葉を使っているのですが、ふつうの東西南北の言葉でまとめて言うと、杵築の宮からみると、東と南にこの出雲の国は広がっている。「東南」というのは、その意味です。
 次に、「宮の北は海に属している」、それから今度は「東」とあって、「西」がないでしょ、それでいいのですよ。だって「杵築の宮」というのは西の端っこにありますから、「西」は海しかないわけです。「杵築の宮」を原点とすれば、「東」しかないのです。だから「東何里」とこうなっている。
 ところが南北は北がちょっとあるわけです。だから北を少しと南ずっと、今の備後の国、広島県の方、そこの距離をとって南北と言っているわけです。だから「東」、「南北」というのは「杵築の宮」を原点にすればたいへん正確な表現なわけです。そして、最初の「東」の方が頭で、しっぽの方が「西南」といっているのも、「杵築の宮」を原点にすればその通りですよ。だから、この原文で何の不思議もなかったわけです。
 なのに、何でそんなふうに変えたのか、また誰が変えたのか。国学者として有名な荷田春満、彼が『出雲国風土記考』というのを書いたのはよく知られています。宣長より早い人ですね。この人の『出雲国風土記考』を読んでみますと、「宮というのは穏当でない」と書いています。「私の頭で考えたところ、私のアイデアでは、これは『山西』という字ならよろしい」、とこう書いて自分のアイデアを示したのです。さらに、「東も『東西』と直したらよろしい」というわけです。
 その荷田春満の説を後の内山真竜 ーーこれは静岡県の人で『出雲風土記』の全体的な注釈をした人ですがーー が受け継ぎ、そして、以降の学者がこれによる、つまり荷田春満説、内山真竜説による、といって、原文を平気で直して使った。
 皆さんが手持ちのどの『出雲風土記』をとられても、国会図書館であろうと、東大図書館であろうと、どの図書館へ行ってどの『出雲風土記』を出しても、活字になっていれば、荷田春満が直したもの、内山真竜が直したものが原文になっているわけです。なぜかというと、この「宮」がもし伊勢皇太神宮や天皇家の宮城中心ならよろしいですが、それでないところを中心に『風土記』ともあろうものが記載するとはけしからん、だから東西南北の方が適当だろう、ということで書き直したのです。
 その書き直したものを、さっきも言いましたように、明治、大正の国語学者、国文学者、歴史学者が全部踏襲して、全ての大学の学者、研究者がそれを受け継いで、疑わずこれを原文として使っているわけです。それは、“日本では中心をなす「宮」は、天皇家の宮のみ”という、皇国史観の時代には当然都合がよかった。しかし、より都合いいのは、天皇家一元主義の戦後史学にとってなのでしょう。だから誰も反対しないわけです。
 だけど、今のように考えてみれば、どの写本にもないものを、だいたい、「壹」を「臺」のまちがいというのならまだしも、「宮」を「山西」のまちがいだなどと、よくも直したものですね。そんな風にまちがうはずは、まず絶対にないですからね。でも、それはかまわないのです。古典よりも、天皇家一元主義、皇国史観の方が大事なのですから、国学者たちは。近世の国学者たちはそれでいいのですよ。
 しかし、近代の国語学者や国文学者や歴史学者は、それではおかしいのではないでしょうか。これが科学と言えるのでしょうか。私は、言えないと思います。科学としての国語学や、科学としての国文学や、科学としての歴史学とは、私は言えないと思う。
 ということで、考えてみますと、やはりこの『出雲風土記』は「杵築の宮中心叙法」で書かれている。だから読む方は「杵築の宮中心読法」で読まなければいけない。となれば、「朝廷」とあるのは、この出雲朝廷、杵築の大宮であることは明らかであった。少くとも、別に不思議ではなかったわけです。
 私が永年かけて、どうもあの「朝廷」はおかしい、大和の朝廷とちがうのではなかろうか、と考えてやっと最近になって到着した見解ですが、実は冒頭からそういうインチキがなされていたわけですね。つまり、皇国史観や戦後の史学は、そういう古典を書き直して、自己のイデオロギーを貫徹するのをはばからずに来た、ということを、私は前から主張してきてはいたのですが、今回、いわゆる明確な史料による証拠でそれを挙げることができたことを、非常な喜びとしているわけでございます。
 これに関連していろいろおもしろい問題もございますけれど、時間が来ましたので、また、シンポジウムの際に申しあげられたら幸いと存じます。
 長時間どうもありがとうございました。
    (ふるたたけひこ)


『倭国の源流と九州王朝』 へ

『邪馬壹国から九州王朝へ』 へ

『吉野ヶ里の秘密』 へ

『古代の霧の中から』 へ

『よみがえる九州王朝』 へ

ホームページ へ


新古代学の扉 インターネット事務局 E-mailはここから。
Created & Maintaince by“ Yukio Yokota“