『真実の東北王朝』目次へ


古田武彦・古代史コレクション10

第九章 歴史の踏み絵 ーー「東北王朝」

ミネルヴァ書房

古田武彦

 

よみがえる少年の日の感動

 暁が押し寄せてきていた。砂漠の朝だ。アスワンの空港である。
 わたしが日本を出たのは、平成元年十二月二十七日。本書の第八章までを書き終えて、成田発エジプト行きのポーランド航空、ロットに乗った。途中、モスクワを経由、ワルシャワで乗り換え、一路このアスワンを目指したのだ。このルートは、一年前、トルコのイスタンブールを目指したときと、ほぼ同じ便だった。
 トルコのさいは、焦点があった。いうまでもない、シュリーマンのトロヤだった。
 幸いにも、“予想”に反し、遺跡は当時のまま、見事に保存されていた。トロヤから見た、念願のエーゲ海の輝き。わたしには終生忘れえぬ感動だった。その上、周回したイズミール。カッパドキア、アンカラなどの周辺の古代遺跡からも、わたしの探究にとって、思いがけぬ、新鮮な衝撃が与えられることとなった。
 その点、今回は、いささかちがっていた。「牛に引かれて善光寺参り」ではないけれど、エジプトに関心をもっていた家族(妻)に引かれて、という趣きがあった。それが、思いもかけず、トルコの場合に勝る、重大な発見、わたしにとっての数々の歴史的経験に遭遇することとなったのだ。運命の神の導き、偶然ならぬものを感ぜざるをえないのである。
 それらについては、改めてのべる機会があろう。今は、ただ一つ、わたしのプライベートな思い出にふれさせていただきたい。
 かつて少年の日、ナポレオン伝を読んだ。その中で、ナポレオンがピラミッドのもとで兵士等に演説した一句がしるされていた。
「四千年間、ピラミッドは、この日の御身等の活躍を待ちつづけてきたのだ」
 少年の魂は躍った。将来、歴史を目指す志が、定まった。忘れていた思い出が、今、ここエジプトの地を踏んで、はじめて、よみがえってきたのである。わたしも、ピラミッドの魅惑にすでに早くからとらえられていたようであった。

蝦夷国と陸奥国の実体は同じ

 エジプトヘ向かう機内で、わたしの思いは「蝦夷国」にあった。
 あの多賀城碑に銘刻された国名。その実体は、何か。
 この問題である。
 そして従来の論者が依拠してきた「陸奥国」という国名。それとの関係は何か。
 それらを、機内の「夜」の中で、くりかえし反芻(はんすう)していたのである。そしてその想念の結節点、それは次の一語 ーー「蝦夷国と陸奥国の相補性」だった。
 すなわち、この両語は“別の実体”をもつ国名ではない。一方から見れば「蝦夷国」。他方から見れば、その同じものが「陸奥国」と呼ばれる。そういうことだ。「陸奥国」の方は、もちろん、近畿天皇家側からの“呼び名”だ。では、「蝦夷国」の方は。 ーーこれが、わたしの問いだった。
 この点、東京へ帰ってから、確認した。成田に無事帰着したのは、平成二年一月三日。一日間、時差ぼけ。それから『続日本紀』の中の「蝦夷」に没入した。
 してみると、意外。ここは、意外に“簡単”だった。今までも、くりかえし、読みかえしていたとき、感じていた通り。なぜ、この『続日本紀』をもとにして、“従来説”のような読解法が可能だったのか。不審だった。
“従来説”とは、多賀城碑に対する、従来の論者の読み方だ。
“「蝦夷国」を、岩手県以北とし、宮城県以南を「陸奥国」とする”。
 あの読み方である。この立場では、岩手県と宮城県の県境の近辺が、「蝦夷国界」と見なされているのだ。
 だが、もしこのような「政治地図」が真実(リアル)だとしたなら、当然、「蝦夷」には、少なくとも、二種類あることとなろう。
 (A)蝦夷国の蝦夷
 (B)陸奥国の蝦夷(陸奥の蝦夷)
 ところが、『続日本紀』の中の「蝦夷」(蝦狄・夷・夷狄の類をふくむ)の事例、七十四例(数え方で若干変動あり)を調べてみても、(B)の事例は数多いものの、(A)の事例は、絶無なのである。
 すなわち、『続日本紀』には、およそ「蝦夷国」という概念など、皆目“認め”られていないのだ。
 さらに、右の(B)に加えて、
(C)出羽国の蝦夷( (B) )からの「分国」。和銅五年〈七一二〉五月廿三日以降)
(D)越後の蝦狄(蝦夷)
(E)渡嶋の蝦夷(北海道の蝦夷)

といった類の表記が存在するけれど、(A)の表記は出現しないのである。
 では、「蝦夷国」とは、か。どこか。いうまでもない。「蝦夷の(居する)国」のことだ。すなわち、右の(B)・(C)・(D)・(E)の合計、それが「蝦夷国」なのである。
 簡単な理路だ。だからこそ、多賀城碑には、「陸奥国」はもとより、「出羽国」も、「越後国」も「渡嶋」も、共に出現していないのである。
 では、「陸奥」とは何か。右の「蝦夷国」中、近い(認識の早かった)「越後」と、遠い(認識の遅かった)「渡嶋」(北海道)を除いた領域、それを指す言葉だったのである。
 やがてその「陸奥国」の中から、「出羽国」が“分離”させられた。
(和銅五年九月廿三日)是(ここ)に於て、始めて出羽国を置く(『続日本紀』、巻五、元明紀)。
とあるごとくだ。
「陸奥」とは、本来は、「道の奥」。すなわち、東山道・東海道という「道」の果てる、その奥を指した。“西側の目”、“近畿天皇家側の目”に立った、漠たる表現だ。いわば、「西の目から見た、フロンティア」だったのである。

 「外つ国」とは福島県から先を言う

 先日、不思議な話を聞いた。昨年(平成元年)の十一月十二日、それは神戸での講演の翌日、久しぶりで山村光寿斉さんに会った。菊邑検校(きくむらけんぎょう)から、「筑紫舞(ちくしまい)」を伝授された方である。検校は筑紫のくぐつから、これを伝えた、という。わたしはこれを“九州王朝の舞楽”と解した(『よみがえる九州王朝』角川選書、参照)。
 現在、西山村さんは博多(福岡市東区)に住んでおられるけれど、月に一回・神戸(生田神社)へ来て、若い方々に教えておられる。中には、神戸から博多へ「留学」する娘さんも現われた様子。うれしいことだ(最近、西山村」を「筑紫」に“改姓”される、との話をお聞きした)。
 さて、その光寿斉さんの話。もちろん、菊邑検校から「直(じき)伝」の話だ。
 「福島県から向こうを、外(と)つ国と言います」
 これは、筑紫舞の伝授のさい、「外(と)つ国」という言葉が出た。それについて、少女だった光寿斉さんが、無邪気に質問した、それに対する答えだった、という。
「福島県は、入りますのん」
と、少女。
「いいえ、入りません。それから、先です」
と、検校。
 この応答を聞き、わたしは、頭がぶんなぐられたような、衝撃をおぼえた。なぜか。 ーーお分かりであろう。わたしの“多賀城碑に対する分析” ーー「蝦夷の西の国界は、宮城県と福島県との県境付近」、それと、ズバリ一致していたからである。
 この応答をお聞きした場所も、明記しておこう。神戸市中央区の虎連房。
 今、市民の古代の書記局長をしておられる高山秀雄さん。その友人の経営しておられる、ユニークな店だった。一緒にいたのは、宮崎学さん。他に三木カヨ子さん、丸山晋司さんなど。いずれも、“証人”である。
 そして念のため。光寿斉さんが、わたしの多賀城碑解読を御存知だった可能性は、ほぼない。そのとき、すぐ、わたしは、「自分の最近の研究と一致している」旨、緊張しつつのべた。もちろん、一切の解説抜きで。
 だが、光寿斉さんは、平然としたもの。
 「へえ、そうですか。わたしは、何や知りまへんけど、検校はん、そな、言わはりましたよ」
とのこと。
 もちろん、だから、どう、というものではないけれど、“不可思議の思い”にとらえられた、わたしの見聞として、しるしておきたい。
 なお、右のわたしの本以後、菊邑検校をめぐって、さまざまの新しい「発見」や「情報」があった。改めて、しるさせていただく機会もあろう(『市民の古代』最近号〈第十一集〉にも光寿斉さんのすぐれた“覚え書き”〈「孤高の人・菊邑検校」〉が掲載されている)。

 「蝦夷国」とは中国側の造字

 「蝦夷国」とは、何か。この問題を、さらに追いつめてみよう。先ず、誰が、この字面を構成したか。 ーーその答えは、ずばり言って、中国だ。決して近畿天皇家ではない。
 この点、従来の学者は、漫然と、つまり、確たる論証なしに、「近畿天皇家側の造字」と“信じ”て、叙述しているものが少なくない。おそらく、『日本書紀』や『古事記』に「蝦夷」の語が多出しているからであろう。
 しかしながら、忘れてならぬ史料がある。中国のものだ。
  「(顕慶四年〈六五九〉高宗)十月、蝦夷国、倭国の使に随いて入朝す」(冊府元亀、外臣部、朝貢三)
 これは、当然ながら“中国中心の目”から見た、「外臣」(中国は、周辺の国々の王者を「外臣」と称した)の記事。その「外臣」からの「朝貢」の記事である。その中に、この「蝦夷国」の表記が現われている。
 これと、並出している「倭国」も、当然ながら、中国側から見た場合、「外臣」である(それを“うけいれなかった”から、唐と倭国〈九州王朝〉との間に戦争〈白村江の戦〉が生じたのだ)。
 その「倭国」は、中国にとって「東」であった。その「東夷の、さらに、はるかなる彼方の夷」、それをしめすのが、「蝦夷」という字面の意義なのである(「蝦*」は“はるか”の意。「虫へん」は、“夷蛮用の加付”)。

蝦*は、虫編なし。JIS4水準、ユニコード53DA

 もしこれを、「近畿天皇家中心に製作された夷蛮用字」であった、としよう。そんなものを、中国が“採用”して記載するであろうか。考えられない。なぜなら、それは「近畿天皇家」をもって、“諸夷蛮の中心”たる「天子」として承認する。 ーーそのことを意味するからである。文字使用に敏感な、中国がそのことに“うっかり”気付かなかった。 ーーそんな事態を、わたしには考えることが不可能なのである。
 この点、この「蝦夷国」をもって、「九州王朝中心の造字」と見なした場合も、同じ矛盾に逢着する他ない。わたしには、そのように思われる。
 『日本書紀』も、『古事記』も、八世紀初頭の成立。右の「顕慶四年」より、半世紀もあとだ。もちろん、「冊府元亀」は、後の成立であるけれど、その収録原史料が、同時点(唐の顕慶年間)の「朝貢文書」によっていること、およそ、疑いがないところである。この点からしても、やはり、
「文字の記載者は、中国側」
 この帰結は動かしがたい。従来の論者(近畿天皇家中心の称呼と見なしてきた学者)が、なお自家の見地を「保持」しようとするなら、右のわたしの論証に対して、正面から反証してからにしてほしい。
(なお、当然ながら、わたしの主張に賛成なら、「古田の主張に賛成」の旨、明記してほしい。もちろん、「古田以前から、同様の主張を記していた」という方は、その旨、明記していただきたい。つつしんで、敬意を表させていただく。当然のことである)。

 「クイ」と呼ばれていたアイヌ族

 次は、表音の問題だ。中国側が「蝦夷」と造字した、として、その原音は何か、という点である。ここで原音というのは、現地者のことである。中国側に「蝦夷」という成語があったわけではない。だから、いきなりこの語が当てられたわけではなく、「カイ」に類する現地者があった、そういう可能性が高いのだ。つまり、
 (1) 中国側は、その国名、もしくは民族名を、「カイ」に類する音で“聞い”た。
 (2) それは、中国側にとって周知の「東夷」の人々(倭人をふくむ)の、さらに東方はるか向こうに居する人々であった。
 (3) 従って、右の (1)・(2) を合わせて、この「蝦夷」の造字を行った。

 以上だ。この「造字経歴」から見ても、この造字が「日本」側、ことに近畿天皇家側の情報のみにもとづくものでないことが判明しよう。
 なぜなら、近畿天皇家側の「言語教養」において、東北地方や北海道の住民を、このような「発音」で呼んだ形跡が存在しないからである。
 では、他の側から、あるのか。 ーー答えは、イエス。
 荻原真子(おぎはらしんこ)さんは、すぐれた民俗学者であるが、その小論「アムール下流域の『クイ』に由来する氏族について」(『フオクロア』第三号、ジャパン・パブリシャーズ刊、一九七八年一月、所収。当時は、旧姓小川。国際商科大学〈現、東京経済大学〉)は、佳篇である。その冒頭にいう。
  「アイヌに対して、アムール川下流、サハリン地域の住民のうち、トゥングース・満州系諸族はKui、ニヴヒはkuyiをもって呼称としている」
 このあと、氏は、「クイ」と呼ばれたアイヌ人たちが、黒竜江の中・下流流域に移り住んでいたこと、さらに、アイヌの神話・習俗がウリチ族などの習俗の中に、深刻な影響をとどめている状況を、手がたい手法で叙述しておられる。
 この指摘のもつ意味の重大さ、それは、この一両年、にわかにクローズアップされた。なぜなら、約二万年前、北海道の十勝石(黒曜石)が、この黒竜江中・下流流域に分布している。その事実が確認されたからである。
 もとより、荻原さんの分析と、この分布事実とが、果して正確な対応をなすか否か。未知だ。未知だけれど、注目せざるをえぬ。未来の課題。そのように見なすことは、おそらく許されるであろう。
 ともあれ、今の問題。それは、あの粛慎氏、黒水靺鞨(まっかつ)が、日本列島近辺のアイヌ族を「クイ」と呼んでいたこと、その可能性がきわめて高いことだ。
 その黒水靺鞨が、唐代「靺鞨」と呼ばれていたこと、「唐〜靺鞨」間に遣使・交流のあったこと、『旧唐書』靺鞨伝の詳細に語るところ。とすれば、この両国間に、この「クイ」族の存在が“情報交換”された可能性も、十分ありうるのではあるまいか。
 荻原氏は、この「クイ」の名が文献上に現われるのは、「元明朝以降」として、慎重な筆致を保っておられるけれど、もし、この、
「クイ → 蝦夷」
の関係が成り立つとすれば、「唐朝」にさかのぼる事例となろう。
 ともあれ、この場合も、もちろん「断案」となすことはできないけれど、問題解決のため、見のがしえぬヒントが、ここに隠されているのではあるまいか。
(すでにのべたように、『日本書紀』では「渡嶋の蝦夷」と呼ばれているのが、このアイヌ族のようである。従って「蝦夷」と「アイヌ」とは、全同〈百パーセント同じ〉ではないけれど、反面、無関係ではない)。

 敬称として使われた「えみし」

 では、「えみし」とは。これが、新しい課題だ。『日本書紀』の神武紀に、有名な一節がある。

愛瀰詩烏、[田比]壤*利、毛々那比苔、比苔破易陪廼毛、多牟伽[田比]毛勢儒。
えみしも ひだり ももなひと ひとはいへども たむかひもせず
(「ひだり」は“一人”。「ももなひと」は“百(もも)な人”。岩波『日本古典文学大系』本による。二〇五ぺージ)

壤*は、土偏の代わりに人偏 ユニコード58E4
[田比]は、JIS四水準,ユニコード6BD7

 この「愛瀰詩(えみし)」は、神武の軍の相手方、大和盆地の現地人を指しているようである。岩波本では、これに、
「夷(えみし)を」
という“文字”を当てているけれど、これは危険だ。なぜなら「夷」は、例の“天子中心の夷蛮称呼”の文字だ。このさいの“神武たち”は、外来のインベーダー(侵入者)だ。「天子」はもちろん、「天皇」でもなかった(「神武天皇」は、後代〈八世紀末〜九世紀〉に付加された称号)。
 第一、肝心の『日本書紀』自身、「夷」などという“差別文字”を当てていない。「愛瀰詩」という、まことに麗わしい文字が用いられている。これは、決して“軽蔑語”ではないのだ。それどころか、「佳字」だ、といっていい(「瀰」は“水の盛なさま”)。彼等は“尊敬”されているのだ。
 さらに、内容も、そうだ。
“この「えみし」は、一人で百人に当るほど強い”
といって、その武勇をほめたたえているのだ。もちろん、その結論は、
“そんなに強い、といわれる彼等さえ、わたしたち(神武の軍)には、全く抵抗さえしなかった”
という、自己賛美、いわゆる“手前味噌”に終わっている。しかし、その前提をなす「えみし」観、それは、以上のようだ。「軽蔑」でなく、「敬意」なのである。 ーーこれは、何か。
(青森市の「市民古代史の会」〈三内、鎌田武志氏方〉は、その会報〈月一回〉を『愛禰詩』と題しておられる)。

 歴史の推移を物語る「蝦夷」の二面性

 『爾雅』は、「周代以前」の史料を、漢代以降に収録した本だ。その中に、中国を中心にして、四方の人々を、一語で表現した個所がある。その詳細は別の機会にゆずるけれども、今は、その要点をしめそう。
 東方の人 ーー仁(日の出ずる所)
 西方の人 ーー信(日の入る所)
 南方の人 ーー智
 北方の人 ーー武
 右の「一字批評」は、いずれも、それぞれの特性をしめして、興味深い。だが、今の問題は、次の一点だ。ここには、後世(周代中葉以降)のような“軽蔑語”“差別語”がない。逆に、“評価”し、“敬意”をもった評語となっていることである。
 たとえば、あの『論語』。聖人至高の書とされて久しいけれど、その中には、「東夷・西戎・南蛮・北狄」という、中華主義にもとづく“差別語”が現れている。その点もまた、疑えない。たとえば、
 「子曰く、夷の君あるは、諸夏(中国)の亡(な)きに如(し)かざるなり」(『論語』、八いつ*篇)
のように。

いつ*は、人偏に八と月。JIS第三水準ユニコード4F7E。

 このような「中華思想」に汚染された世界、その中に孔子はいた。むしろ、そのただ中において、彼の思想は結実していったのである。しかしながら、これに反し、右の『爾雅』における「四方」観は、いまだ、その「汚染以前」の姿をしめしているのである。
 一つの文明が“偉大な成長”をとげるとき、直ちに、右のような「自己尊大、他者蔑視」の思想に侵される。それが常だ。“人間の弱さ”の現われであろうか。中国文明もまた、その例外ではなかった。
 この点、わが国の近畿天皇家もまた例外ならず、同じ「病」に侵された。近畿の先住者(銅鐸圏の住民)に対しては、“敬意”ある表現をなした「侵入者」だった。しかし、その近畿の地ですでに“偉大な成長”をとげるにつれ、東北地方周辺の勇者に対し、「蝦夷」と呼び、彼等に対し、さまざまの「差別用語」を累積し尽くすまでに堕落したのであった。
 「今夷狄愚闇ナル」(『続日本紀』養老七年九月十七日)
 「夫狼子野心ニシテ」(右同、宝亀十一年二月十一日)
 「逆賊首鼠之要害」(右同、宝亀十一年十二月十日)
 「夫狄俘者(は)、甚ダ奸*謀多シ。其ノ言、恒(つね)無シ。輙(たやす)ク信ズ可カラズ」(右同、天平九年四月十四日)

奸*は、JIS第4水準ユニコード59E7

 ここで一言、注意したいことがある。「蝦夷」の語は、
“字面では、差別字。発音では、佳語
 この二面性をもっていることだ。なぜなら、「えみし」という発音のしめすところ、決して「蔑語」の気配は見出されない。神武紀もしめしていたように、「佳字」と対応するもののようであるから。 ーーこれは、何か。
 わたしは、次のように考える。
 第一。日本列島内の関東及び西日本の人々、つまり一般庶民は、この東北地方周辺の人々を「えみし」と呼び、敬意を隠さなかった。これは、旧石器・縄文以来の「先進文明の地帯」がこの地帯であったから、当然であった。
 第二。ところが、弥生期以降、中国大陸・朝鮮半島から金属器文明が流入するに及んで、情勢は一変した。先ず、九州王朝、つづいて近畿天皇家(分王朝)が成立し、そこを新しき「文明中枢」として、かつての「先進文明地帯」に対する“差別主義の病”が発生した。
 中国の“発明”した文字(「蝦夷」)と共に、差別思想をもまた、浅はかに「輸入」し、無法に「模倣」することとなった。これが、『古事記』『日本書紀』『続日本紀』等に“満ちあふれた”「蝦夷」字使用の歴史的意義なのである。

 「歴史の踏絵」としての「東北王朝」

 わたしは、カイロの空港から日本を目指した。往路と同じ、ワルシャワ・モスクワを経由してから十三時間半、暇があれば眠っていた。窓外も、わずかに朝焼けが来て、また深い夜に帰っていった。そして成田。
 目覚めたとき、わたしの中の“迷い”も、覚めていた。「王朝」に関する迷い、だ。
 「東北王朝」 ーーこの言葉を採用すへきか否か。いや、歴史学的厳密性において、採用しうるのか。この迷いだった。
 従来の、日本の古代史学では、近畿天皇家にしか、この二字を“許さ”なかった。タブーだった。けれども、わたしはこれに反対した。「九州王朝」の語を創出し、使用したのである。その理路は、次のようだ。
 先ず、志賀の島の金印は、博多湾岸の王者(倭奴国の国王)に与えられた。また弥生の倭国の中心(邪馬壱国)は、筑紫にあった。倭の五王も、「日出ずる処の天子」も、筑紫の王者であった。これを「王朝」と呼ばずして、「分流」たる近畿天皇家にのみ「河内王朝」「大和朝廷」などの呼称を用いるのは、不当である、と。これだった。
 また「出雲王朝」の語を使用した。大国主命からニニギヘの「国ゆずり」を、重大な史的事件と、わたしは見なした。これ、「大義名分の移動」を、筑紫(九州王朝)側が主張したものである。とすれば、「ゆずられた」側のみに「王朝」の語を用い、「ゆずった」側に「王朝」の語を用いないのは不当。そのように思惟したのである。
 また、埼玉稲荷山の黄金銘鉄剣をめぐり、「関東に大王あり」とし、やがて「関東王朝」の理念に到着した。
 以上は、わたしの探究経験において、いずれも“鏤骨(るこつ)の苦渋”の結果、ようやく肯定しえたところであった。
 だが、今回、「東北王朝」の用語に対しては、以前以上の“ためらい”、否、むしろ、拒否反応がわたしの中に存在したことを、率直に告白しておきたい。
 しかし、今回、エジプトの古代文明にふれて感じたこと、それは、そこで用いられた「王朝」の語は、あくまで古代エジプト文明を理解するための、一つの物指しとして使用されている。この一点だった。

古代エジプト略年表
______________________
王朝     年号(B.C.) 時 代
       3100以前     先 王 朝
第 1     3100〜2890  初 期 王 朝
第 2     2890〜2686  初 期 王 朝
第 3     2686〜2613  初 期 王 朝
第 4     2613〜2494   古 王 国
第 5     2494〜2345   古 王 国
第 6     2345〜2181   古 王 国
第 7・第 8  2181〜2160  第1 中間期
第 9・第10 2160〜2040  第1 中間期
第11    2134〜1991   中 王 国
第12    1991〜1785   中 王 国
第13    1785〜1633  第2 中間期
第14    1785〜1603  第2 中間期
第15    1674〜1567  第2 中間期
第16    1684〜1567  第2 中間期
第17    1650〜1567  第2 中間期
第18    1567〜1320   新 王 国
第19    1320〜1200   新 王 国
第20    1200〜1085   新 王 国
第21    1085〜 945   第3 中間期
第22     945 〜 715   第3 中間期
第23     815 〜 715   第3 中間期
第24     728 〜 715   第3 中間期
第25     747 〜 656   第3 中間期
第26     664 〜 525   末 期 王 朝
第27     525 〜 404   末 期 王 朝
第28     404 〜 399   末 期 王 朝
第29     399 〜 380   末 期 王 朝
第30     380 〜 343   末 期 王 朝
第31     343 〜 332   末 期 王 朝
       332〜 305   マケドニア朝
       305〜 30 プトレマイオス朝
        30以降   ローマ時代

A・J・スペンサー著「死の考古学(法政大学出版局刊、酒井傳六・鈴木順子駅)繁9章より。

 左表にある、「三十一王朝」の呼称は、有名だ。前二八○年頃のエジプトの史家、マネトン(セベンニトス出身)による、とされる。
 しかし、その「三十」の一つ一つの実体は、全くちがう。たとえば、第一・二王朝の時代、ピラミッドも、王家の谷の繁栄もなき、草創期である。そしてピラミッドの絢爛(けんらん)と花ひらいた第三〜六王朝。この時代の勢威、圧倒的な支配領域、アフリカ大陸から中近東に及ぶ一大勢力から比較して見れば、微々たる一日本列島内の、果して、どの地の、どの権力が「王朝」とか「朝廷」とか“僭称(せんしょう)”しうるであろうか。到底できはしない。歴代の王者中、きわめて“低位”にして“微力”だったと思われる、あのツタンカーメン王の墓室から出土した莫大な黄金の量、それに匹敵する王墓が、果して日本列島内に存在するであろうか。
 もちろん、ない。それは、中国歴代の王墓すら、これに「比肩」しうるものは、多しとしないのではなかろうか。とすれば、「黄金」を基準とすれば、地球上、「王朝」はエジプトのみ、といった“主張”さえ、可能かもしれぬ。
 しかし、それは当然、ナンセンスである。日本列島内で「王朝」の語を用いるときは、当列島内のバランスで使用すべきだ。先ほどの各地に「王朝」の語を認め、東北にのみ、それを認めないとしたら、明らかにバランスを失しよう。なぜなら、ここは、旧石器・縄文文明以来の「先進文明地帯」である上、平安時代、実に九〜十一世紀まで“独立勢力”を保持しつづけた、本土内の最終地帯だったからである。
 その上、想起してほしい。秋田孝季の書写文書(語邑かたりむらの伝承)において、
 「筑紫の日向の賊・・・」
の表現があった。これは、九州王朝の「始祖」であると共に、その分王朝としての近畿天皇家にとっても「始祖」の位置におかれた、「ニニギたち」を指す言葉だった。
 一方の“輝ける始祖”が、他方の“賊”。この姿こそ、「大義名分」という名のイデオロギーのもつ、真の相対性、それをこれほど明確に物語るものは存在しないのではあるまいか。
 お分かりであろう。「ニニギの後継者」のみを「王朝」と称し、他(それを「賊」と呼ぶ者)を「王朝」と認めぬとしたら、それは、その論者が一方の「王朝」の“イデオロギー的加担者”であること、その一事を証言するに他ならない。すなわち、「御用学者」もしくは「御用知識人」もしくは「御用庶民」だ。
 それをよしとし、自任する人は、その人に任せよう。それを欲しない人は、この東北地方の一角に、独自の勢力、独自の政治思想、独自の軍事組織をもちつづけてきた、この文明中核に対し、いかに一見、弱小“無力”に見えようとも、「豪族」ではなく、「王朝」の名を呈せねばならない。
 理論物理学で「宇宙」に対して「反宇宙」の概念があるように、九州・近畿系の王朝に対して、いわば「反王朝」といえよう。 ーーこれは、わたしたちにつきつけられた「歴史の踏絵」である。

 一戸町の御所野遺跡が教えること

縄文中期の配列遺構が展開する御所野遺跡(一戸町教育委員会提供) 真実の東北王朝 古田武彦

 平成元年十二月八日、わたしは御所野(ごしょの)遺跡に立っていた。ところは、岩手県の二戸(にのへ)郡一戸(いちのへ)町岩館字御所野。最大の縄文遺跡か、との報道に接し、是非、と思って、来た。その甲斐はあった。いや、それ以上だった。
 そこには、広大な縄文中期の配石遺構が展開していた。あの大湯のストーン・サークルの祖型だ。大湯と同じく、二個の円型、輪環状の配石遺構が並列している。竪穴住居も、約百軒。構造的な配置である。北上川の上流、その支流に囲まれた地形だ。ここは、北上川流域の縄文人にとって、神聖な祭りと葬いの地だったのではあるまいか。
 意外な「発見」があった。この縄文遺跡群の中に、古墳群がある。奈良時代から平安時代にかけての古墳だ。縄文遺跡のただ中に、それとダブッている。そのこと自体は、格別奇異ではない。“よく”あることだ。だが、問題は、次の一点。
 古墳は、縄文の配石遺構を避けているのだ。
 本来なら、円墳だから、円い。当り前のこと。ところが、ここは、そうではない。円形が“虫くい”になっている。なぜか。その下に、前からあった配石遺構とぶつかった場合、その遺構をとりのぞかず、逆に、これを“避ける”形で、いわば“いびつ”な円墳が構築されているのである。これは、なぜか。
 わたしの理解は、次のようだ。
 第一、この古墳の埋葬者たちは、この地が縄文以来の「葬地」にして、「祭地」であったことを認識していた。
 第二、その中心的な、葬祭の地のただ中に、己が墓地(古墳)を建立することによって、現代(奈良・平安時代)における北上川流域とその周辺の支配者が、自家(古墳の被葬者たち)であることをしめした。
 第三、ただ、そのさい、現在の「縄文以来の聖地」を破壊せず、極力、それを「保存」しようと、努めた。

 以上だ。以上のしめす意味は、限りなく深い。たとえば、わたしたちは、「縄文中期の遺跡」といえば、その時代(縄文中期)の人々にとってだけのものだ、と思いやすい。考古学者ほど、“厳密に”そのように思考し、処理してきた。「縄文中期の遺跡」で、「縄文後期や晩期」のことを考えることなど、およそルール違反以外の、何物でもなかった。
 だが、そうではなかったのだ。この「縄文中期の配石遺構」に対する“認識”と“尊崇”は、実に「奈良・平安期」に至るまで、歴々と継続し、伝統されていたのだ。

御所野遺跡のストーン・サークル(一戸教育委員会提供) 真実の東北王朝 古田武彦

 

 古来の聖地との共存

 わたしは、これに反する事例を知っている。大和だ。橿原(かしはら)神宮に近い、大和国高市郡白橿村大字畝傍(うねび)に「イトクノモリ」という、不思議な小字がある。そこに一小前方後円墳があった。明治四十一年、その前方部の畑地が地下げされ、そこに人家が建てられた。その土木工事のさい、墓溝が現われ、中から土器や黒曜石の打製石器等が副葬品として出土した。
 この事実を紹介した、高橋健自日本考古学会長は、講演した。これは「この古墳に関係ある人を陪葬したに相違ない」と認定したのち、次の一点を強調した。

「而してこの事実を示した遺跡は皇祖建国の発祥地として伝へられてゐる畝傍山の麓にあるのである。吾輩はこの一小前方後円墳を以て建国当時のものといふのでは決してないが、之に徴して大和朝廷の成立が如何に遠い古しへに遡るべきかを推察し得るのである」(「考古学上より観たる耶馬臺国」、『考古学雑誌』第十二巻第五号、大正十一年一月五日)
 ここから高橋氏は、「邪馬台国、近畿説」を立論する。その立論のあやまりは、すでにいうまでもない。右の「イトクノモリ」に関する認定も、現代の考古学的水準から見れば、到底無理だ。なぜなら、氏が「陪葬」と考えたものは、「弥生以前の墓溝」であって、その上に構築された前方後円墳とは、時代を異にするからである(出土土器について、氏は「全部土師器で所謂弥生式土器の系統に属し」と言っておられるが、黒曜石の打製石器と共伴しているところからすれば、少なくとも「弥生以前」であろう)。
 状況は、次のようだ。ここ(イトクノモリ)は、天皇家(神武の軍)の侵入以前、「葬地」であり、「祭地」であった。侵入後、天皇家側は、その真上に、それを押しつぶす形で、前方後円墳を建立したのだ。従って、氏の「断定」したごとく、「大和朝廷の成立の古さ」を語るものではなく、「新しさ」を語るもの、さらにハッキリいえば、「外来の侵略者としての苛烈さと無礼」を語るものこそ、右の出土事実だった。わたしは、あの壮大な「応神陵」や「仁徳陵」の真下に何が“隠され”ているか、“押しつぶされ”ているか。それを思って、慄然(りつぜん)とせざるをえなかったのである。これが、征服王朝の常だ。あの壮大なピラミッドのもつ基本性格、あれと「同質」なものだった。
 これと「異質」なもの、それがこの御所野古墳群だ。確かに、「縄文時代からの継続的支配者」ではない。もし、そうなら、こんな古来の葬祭の聖地のただ中に、新しく古墳群を建立しはしないであろう。
 だが、反面、彼等は、大和の支配者、近畿天皇家のやり方とは、流儀がちがっていた。古来の聖地を破壊せず、共存する方法を「よし」としたのであった。
「奈良・平安といえば、やはり、安倍氏関係ということですか」
 わたしは、丁寧に説明して下さった、町の教育委員会の高田和徳さんに問うた。この方がいなければ、とても、現在の適確な認識はえられなかった。御自分の車で先導して、ここに案内して下さったのである。
 「そうでしょうね」
 短く、しかし、キッパリと、氏は答えられた。わたしは、それで十分だった。

 「墓の上に墓をおかず・・・」

 わたしたちは、しばしば「遺跡の巨大さ」に驚嘆する。「古墳の壮大さ」を賛美する。それはそれでよい。だが、そのような“感受性”はまた、しばしば「侵略と征服への賛美」を内蔵している。しかも、当人は、そのことに気づいていない。そのような心理的状況は、果して存在していないだろうか。
 ピラミッドにせよ、古墳にせよ、「巨大」にするには、「巨大」にせねばならぬ理由があったのだ。一言にして、それは何よりも「被征服民への威圧」ではなかったか。そしてそれは、しばしば「旧聖地の抹殺」をともなったであろう。被征服民の、かつての神聖の地は、それこそ“葬り去られた”のである。
 しかし、そのようでない地帯もあった。その一つがここ、御所野遺跡であった。「館」という旧石器・縄文時代風の大字、「御所野」という平安時代以降風の小字。その両者とも、この遺跡のしめす「共存関係」と、不思議な対応をしめしていた。
 わたしは、御一緒下さった、八戸市の下斗米弘さん、またわざわざ青森市から朝四時に起きて車で駆けつけて下さった柴野康生さんや五十嵐徹良さんと共に、丘陵部を下りながら、しきりに一つのことを思いつづけていた。それは、この奥床しき古墳の建立者たちの中の志だった。彼等は、
「墓の上に墓をおき、墓の下に墓をおく」
 そのような“無礼”をおかすこと、それを、人間として拒もうとした人たちだったのである。
(なお、付言する。この東北研究の旅において、書き尽くせぬ多くの方々の御世話になった。厚く感謝の意を表させていただきたい)
〈了〉


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