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邪馬壹国の諸問題 ーー尾崎雄二郎・牧健二氏に答うーー 一〜九、十・十一、十二・十三、補注1,補注2、補注2の注、補論
古田武彦
十二
尾崎論文に対する再批判を終えた今、牧論文を検証しよう。
牧氏は先にあげた『龍谷法学』の論文(1)に加え、さらに相次いで出された論文「魏志倭人伝正解の条件」(『史林』53-5)の中でも、重ねてわたしの第一論文「邪馬壹国」への批判を行われた。
その全体については、わたしの前掲書における倭人伝解読がおのずからそれに対する回答に当たるであろう。
それ故、今は『龍谷法学』『史林』の両論文に共通して牧氏の提示せられた“「臺」の漢字表記”問題に限定して再検証を加えることとする。
(一)「リント」の地名表記について
牧氏の提示せられた史料はつぎのようである。
A 宛善馬絶不レ来。烏孫侖頭易苦二漢使一矣。(2)(『史記』第六十三、大宛列伝)
B 宛善馬絶不レ来。烏孫輪臺易苦二漢使一。(『漢書』第三十一、張騫李広利伝)
この二文の相似から、『漢書』が『史記』の文を襲(おそ)うていることは明らかである。ところが、『史記』の場合「侖頭」とあった地名が、『漢書』では「輪臺」と変えられている。
この点から、牧氏はつぎのように推論される。
「『史記』の“侖頭”が『前漢書』では“輪臺”になっているのは、両者が共に“リント”という同一の地名を表現しているからだろうと思うのである。(3)」(『龍谷法学』所収論文六二ぺージ)
つまり牧氏の考えでは、原地音「リント」が、一方では「侖頭」、他方では「輪臺」と漢宇表記せられた、として、ここに「豪」が「ト」の漢字表記として用いられた「疑いのない証拠(4)」がある、と言われるのである。
この牧氏の推論に対する反証をあげよう。
『漢書』は、西域伝等において、果たして“「ト」の音を「臺」で表記する”という表記方式をとっているであろうか。
左の『漢書』内の事例を見よう。
尉頭国王治二尉頭谷一。(『漢書』西域伝上、尉頭国)
其王烏頭労数剽二殺漢使一。烏頭労死、子代立。(『漢書』西域伝上、ケイ*賓国)
匈奴単于曰二頭曼一。頭曼レ勝レ秦、北徒十余年。(『漢書』匈奴伝上)
少子姑鶩*楼頭為二。右谷蠡王一。(『漢書』匈奴伝下)
鶩*は、鳥の代わりに目。JIS第3水準、ユニコード7780
ケイ*は、四頭の下に、厂。中に[炎リ] JIS第4水準、ユニコード7F7D
右において「尉頭国」「尉頭谷」「烏頭労」「頭曼」「姑鶩*楼頭」といったように、いずれも夷蛮の国名、地名・単于名・王名等を表記する場合、「頭」の字が用いられている。ことに「尉頭国」「尉頭谷」の場合、例の「侖頭」と同じ西域の地名である。したがって、同一個所を指す地名を「侖頭」から「輪臺」へと『漢書』の著者が書き変えたのは、「表音」上の理由からではないことが判明する。すなわち、“『史記』の著者は「ト」を「頭」で表記していたのに、『漢書』の著者は「ト」を「臺」で表記することとした”というような、“原地音の表記漢字の変化”という、単純な音韻上の理由ではない、と言わなければならぬ。
なぜなら、もしこれが“「ト」音表記が単に「頭(『史記』)→臺(『漢書』)」と移ったこと”の反映ならば、同じ『漢書』内に存在する、右の「尉頭国」「尉頭谷」「烏頭労」「頭曼」「姑鶩*楼頭」は当然、それぞれ「尉臺国」「尉臺谷」「烏臺労」「臺曼」「姑鶩*楼臺」という表記となっていなければならないはずである。
しかし、『漢書』の西域伝、匈奴伝内の事実はこれに反する。したがって、現地音「ト」の類の音は、『漢書』においてもやはり『史記』の場合と同じく、「頭」と表記されている、と見るほかないのである。(5)
それ故、『漢書』の著者がこの「侖頭」のみ「輪臺」と書き改めたのには、別の理由がなければならぬ。端的に言えば、『漢書』の段階では、侖頭の地が「輪臺」と呼ばれていたからである、と思われるのである。
その証拠はほかでもない。牧氏も言及された『漢書』西域伝にのせられている、武帝の「輪臺の詔」である。
悲痛常在二朕心一。今請遠田二輪臺一、欲レ起二亭隧一。(『漢書』西域伝下、烏塁)
このように詔勅内に「輪臺」の名が使われている。すなわち、漢側の正式の呼称であったことが判明する。
さて、右の詔において、「田」とは“屯田兵を置く”ことであり、「亭隧」とは“とりでの物見やぐらと地下道”のことである。(6) すなわち、輪臺は、漢側の屯田兵駐在の地とされているのである。(7)
さらに、この「武帝の詔」の直前に、征和中(前九二〜前八九、武帝末年)における、捜栗都尉桑弘羊等の奏言として、
臣愚以為、可下遣二屯田兵一詣二故輪臺一以東置二校尉三人一分護上。(『漢書』西域伝下、烏塁)
とある。
すなわち「輪臺」が漢側にとって西域支配の一つの中心的な拠点・城塞となっていたことが知られるのである。
このような状況から見ると、「侖頭」より「輪臺」への、つぎのような地名変遷が考えられる。
(A), 『史記』大宛伝に現れる「侖頭」の地名は、「リントウ」あるいは「ロントウ」の類の現地音に対応した漢字表記である。(この「侖頭」という字面の意義については、注に、詳記する。(8) )
(B), これに対して「輪臺」の場合は異なる。これは、現地音の漢字表記ではなく、漢側の命名によるものであると思われる。すなわち、先にのべたように、漢はここを屯田兵等の中心拠点としていたのであるから、その高臺(もりつち)の上に築かれた城塞に対し、この命名を行なったもの、と思われる。
(この「臺」の第一の字義として、
臺、観四方而高者也。〔説文〕とある。)
また、右の武帝の「輪臺の詔」をふくむ『漢書』西域伝下、烏塁項の冒頭には、
烏塁、戸百一十、口千二百、勝兵三百人、城都尉訳長各一人、与二都護一同治。
とある。
この「烏塁」の「烏」は「烏の地」たるをしめす語であり、これに城塞をしめす「塁」字を付して、もってこの拠点の呼称としているのである。
したがってこれと同じく、「輪臺」も、“侖頭の地に城塞の存する臺地”の意義をもって命名された、「中国側地名」ではないか、と思われるのである。
(この場合、「輪」はおそらく「侖」と同音であって、新たに「車」偏がつけられたのは、漢軍等の車馬の駐在の地となっていたことを反映しているのではあるまいか。(9)
○輪〈リン〉龍春切〔集韻〕luen
○侖〈ロン〉盧昆切〔集韻〕luen
〈リン〉龍春切〔集韻〕
また“辺境におかれた漢側の呼称による「臺」”として、『漢書』武帝紀につぎの記事がある。
(元封元年冬十月)(武帝)行自二雲陽一北歴二上郡・西河・五原一、出二長城一北登二単于臺一。至二朔方一臨二北河一勒二兵十八万旌旗一。径千余里。威震二匈奴一。
右の「単于臺」は匈奴側の呼称でなく、漢側の呼称である。すなわち、匈奴側が「ゼンウト」といった呼び方をしていたわけではない。“単于の塞、もしくは宮殿であったところ”、あるいは“単于の地に建てた高台の塞”の義から、「単于臺」と名づけたのである。つまり、この「臺」は中国語であって、現地音の漢字表記ではないのである。この点、同じ武帝紀に存する「柏梁臺」「通天臺」の「臺」と同義なのである。
このように考えてくると、「輪臺」もまた、西域における城塞として、漢側の命名によるものであると見なすことの自然であることが判明するのである。少なくとも、牧氏のように“「侖頭」も「輪臺」も共に同一現地音の漢字表記の移行にすぎない”という断案の容易に成立しがたいことが明らかとなろう。
さらに注目すべきは、『史記』における左の記事である。
匈奴単于曰二頭曼一。頭曼不レ勝レ秦。北徒十余年。(『史記』匈奴伝)
右の「頭曼」が、『漢書』においても、この文を承述しつつ、同じく「頭曼」と記せられていることは、先にあげた如くである。決して「臺曼」ではない。してみると、牧氏の「頭(『史記』) → 臺(『漢書』)」という、“表音表記漢字の移行説”は明白に否定せられねばならないこととなるであろう。 (10)
(1) 「古田武彦氏の『邪馬壹国』について」(『龍谷法学』2-2〜4、一九七〇年九月)
(2) 牧氏はこの「宛善馬」を「漢善馬」として引用され、これをみずから不審としておられる(中央民族学院研究部主編「歴代各族伝記会編」北京新華書店昭33によられた)。けれども、宋慶元黄善夫刊本(廿四史百衲本所収)による限り、『史記』も「宛善馬」であり、文意もそれでなければ通じない。よって今は右の宋刊本によって記した。
(3) 牧氏はこれに追加して現地音は「リト」かもしれぬと一言われている。
(4) 『史林』所収論文八三ぺージ。
(5) もっとも「頭」がいかなる現地音の漢字表記であるか、という問題は、この字の上古音の追跡によってはじめて確定し得るものである。
(6) 「亭」は宿駅を言い、「隧」は“深険の処に依りて行道を開通するもの”を言う。
(7) これは『漢書』西域伝序文に、つぎのようにあることによっても明らかである。
漢興至二于孝武一事征二四夷一広二威徳一。・・・於レ是自二敦煌一西至二塩沢一往往起レ亭。輪臺・渠犂皆有二田卒数百人一。置二使者校尉一領護、以給下使一外国者上。
(8) この「侖頭」の字面は有名な「崑崙山」に関連すると思われる。なぜなら、この「侖頭」の文の直前につぎの文があるからである。
漢使窮二河源一、河源出二于眞*一其山多二玉石一、采来。天子按二古図書一。名二河所レ出山一曰二崑崙一。(『史記』大宛伝)
眞*は、宀に眞。JIS第3水準、ユニコード5BD8
また同じ「大宛伝」末には司馬遷自身次のように記している。
太史公曰「禹本紀言『河出二崑崙一。』崑崙其高二千五百余里、日月所二相避隠」為二光明一也。・・・所謂崑崙者乎。」
この「崑崙」はまた「昆侖」とも記せられている(『漢書』地理志)。こうしてみると、この「侖頭」は“崑崙(昆命)山のほとり”といった意義の字面となっている。(「崙」は「侖」と同音であり、「崙」の方は「山」であることをしめすにすぎぬものと思われる)。すなわち「侖頭」の地理的位置と字義とがよく合致しているのである。
これは、先の尾崎論文再批判の第一にのべた
( i) 表音的段階(現地音に相当する文字群の選択)
(ii) 表意的段階(その名辞にふさわしい字面の一字選択)
という漢字の表音表記の二段階の経過によるものである。
(9) また注(7) の例にあるように、漢より外国に使する者の休養の拠点とせられていたのである。
(10) なお、この「侖頭→輪臺」という地名変遷は、史料批判上きわめて興味深い問題をしめしているのであるが、この点は別稿に詳述したい。
十三
「臺」の変遷と表音表記について
つぎに、牧氏の看過された重大な点は、『漢書』と『三国志』との間に存在する「臺」字使用の差異である。
すなわち、『漢書』に西域の地名ないし国名として「輪臺」のあることより、牧氏は、
「西域の地方はいわゆる西戎の地方であり、外夷の地である点では東夷の地と変わるところがないといわざるをえない。だから西戎の一国に用いた臺の字を東夷の一国において絶対に用いられないという理由はないと考えられるであろう。それで私は邪馬臺の臺の字は、前漢書の書例に従うて書かれた魏志の倭人伝では、最初から倭国の国都の所在地、即ち『女王之所都』であった『ヤマト』という国名の『ト』という音を表示するために用いられた文字であったのに相違なかろうと思うのである。(1)」
と論ぜられたのである。
前節の論証のように、「輪臺」の「臺」は「ト」の音表記ではない。これは漢側命名の「辺境の塞」名にもとづくもの(2)であるから、「臺」字が表音表記としてでなく、「臺名」として用いられることは、何等不思議なことではない。
○(元鼎二年)春起二柏梁臺一。
○(元封二年冬十月・・・)還作二甘泉通天臺・長安飛廉館一。
○(太初元年)乙酉柏梁臺災。
右のように『漢書』(第六武帝紀)中にも幾多の用例が存在するのみならず、先にあげた「単于臺」のように、「辺境の塞、もしくは高楼」の場合にも使用されているからである。
この際、問題の焦点は「表音表記漢字」としての「臺」字である。そして牧氏が『漢書』中における「臺=ト」の表記例として提起せられた「輪臺」は、実は当の問題に妥当しえないこと、今は明白となった。
しかし、さらにすすんで十分に明らかにしておきたいのは、左の点である。
それは、“もしかりに、『漢書』段階(漢代)で「臺=ト」という表音例が見出されたとしても、それは決して『三国志』中の問題(「邪馬臺国」表記の魏晋朝における適否)には妥当せしめえない”という一点である。
なぜなら、「臺」という字は
漢代 (1). 盛り土の義
(2). 臺地の上の高楼、宮殿の義
(3). 人名等
魏晋代(1). (2). (3).、右に同じ。
(4). 天子の宮殿及び天子直属の中央官庁
という、意義上の発展を見ている。(3)
しかも、魏晋朝においては、(4).の意義が代表的であり、かつ中枢をなした。それは「詣レ臺」(魏志倭人伝)という用例のしめすように、「臺」一字で、洛陽の天子の宮殿を指しえた、という一事からも判明するであろう。
このような状況下にあって、“「ヤマト」という現地名を「邪馬臺」と漢字表記する”ようなことは、魏晋朝の史官(陳寿等)にとって、絶対にありうべきことではなかった。
なぜなら、先にのべたように、現地音の表音表記の場合、
(i) 多字段階(音の相当する漢字群)
(ii) 一字段階(名辞にふさわしい意義をもつ一字選択)
という二段階の経過は不可避である。
そしてこの (ii) 段階において多数の「卑字」の使用されたこと、倭人伝に見る如くである。しかも、それは肝心の「邪馬壹国」という単語の中にも表れている。
しかるに、魏晋朝の史官が、その同一単語中に「臺」という魏晋朝至高の「貴字」を使用すること ーーそれは、まさにありうることではない、というほかないのである。
これを要約すれば、牧氏のあげられた事例は、
(一) 「輪臺」それ自身、現地音の表音表記例ではなかったから、当をえていなかった。
(二) 典拠が『漢書』であるから、この問題に関する限り、『三国志』の論証事例とはなりえないものであった。
この二点とも、わたしの論証に対する反論として、不適切であったことが判明したのである。
以上によって、尾崎・牧両論文に対する再批判を終えた。
最後に、両氏には文献関係や御教示において厚き恩顧をこうむっていることを謝し、さらに、後学に対し率直な批判をお寄せ下さった学問上の恩義に報いるために、この稿をしたためたことをとくに記させていただきたい。もし反証の途次、過辞あらば、学間のため、ひとえに御寛恕賜わらんことを伏して願う。
ことに尾崎氏はその論文の末尾に「それぞれの専門の分野に立ち戻り・・・いまは論争をやめることこそが必要なのではあるまいか」という「論争停戦の提案」を行われている。
しかしながら、学問にこそ小休止はない。いかなる論争も、共通の真実に逢着する日までやむことはありえないのではあるまいか。
それゆえ、わたしは両氏のさらなる反批判と御叱正を切願しつつ、一且筆を欄かせていただくこととする。
(1) 『龍谷法学』所収論文
(2) この「輪臺」は地名変遷とその史料的反映について、大略左のようであったと思われる。
(1). 「辺境の塞」としての漢側の命名。(武帝時代 ーーただし、『史記』の著者司馬遷段階では採用されていない。)
(2). 「侖頭」に代わる地名もしくは国名として一般化。(『漢書』の著者班固の段階)
(3). 班固は『史記』の文を承述するとき、すべて「侖頭→輪臺」と地名置換を行なって引用。
以上の点について、別稿で詳述したい。
(3) 古田第一論文「邪馬壹国」八、十六参照。
尾崎氏は、“倭人伝の倭語漢字表記においては、「一字一音主義」が守られている”という「仮説」を立てられた。これは氏にとって、“倭人伝の倭語表記漢字は純音韻主義的に使用されている”という命題の、具体的・技術的表現にほかならぬものであった。
けれどもその際、まず氏にとって「障害」としてたちあらわれたのはつぎの点である。
「単字表」(第二節参照)六十六字を純粋な音韻主義的表記と見なすために、氏にとっては、これらの字はすべて「異音」でなければならなかった。ところが、実は四組八字の同音字があったのである。
(1). 一と壹(一大、邪馬壹、壹与)
(2). 躬と弓(躬臣、卑弥弓呼)
(3). 觚と古(泄謨觚、柄渠觚、[凹/儿]馬觚、好古都、狗古智卑狗)
(4). 謨と模(泄謨觚、多模)
[凹/儿]は、JIS第3水準、ユニコード5155
この四組に対して、氏はつぎのような「論証」を展開される。
右の(1).(2).について。
氏は倭人伝を三段に分けられる。
A 第一段 倭の政治地理(「万二千余里」まで)
A 第二段 倭人の習俗(「周旋五千余里」まで)
Bー第三段 倭人の魏朝との交渉記録(末尾まで)
右について、氏は第一、二段(A)と第三段(B)とは別時異人の記録であると見なし、BはAとは「異質の材料にもとづく記述だと考える方が自然であろう」と言われる。
そして右の(1). (2).中の「一、躬」がA(第一段)に表れ、「壹、弓」がB(第三段)に表れることから、“これは異時別人の記録だから、「同音」でも、「一字一音主義」理解に矛盾しない”と言われるのである。
この場合、肝心の「邪馬壹」はA(第一段)に出ているのであるから、この氏の分類に矛盾する。しかし氏は「邪馬壱については、いまは問題にしない。私はなお邪馬臺のあり得べきことを、信じているのである。邪馬臺が正しいと信じているというのではない、それがあってもさしつかえないと思っているというのである。」と記して、この分析から除外しておられる。
“邪馬臺であっても「さしつかえない」”という理由から、「邪馬壹」の字面を無視し、A(第一段)には「壹」という漢字表記は存在しないこととして分類してゆく ーーここに氏の史料操作の“無造作さ”が端的にあらわれている。
その上、右のAとBが異時別人の記録だという論証、この肝心の論証を一切しめしておられないのである。そして逆に、右の(1).(2).の「同音」がAとBの各々にあらわれることを根拠として、「つまり、これらの文字(じつは音)を含む倭語が、異字別人の記録であることを示すといえないだろうか」と言われる。
これはまさに論理上無意義な同語反復である。なぜなら、氏の立論に不都合な「同音字」の存在という矛盾に対して、「異時別人の記録」による、という理由を付されながら、逆にその「異時別人の記録」であるという根拠を「同音字」がそれぞれに存在することに求めておられるからである。
これは“右手の潔白を証明するに左手をもってし、左手の潔白を証明するに右手をもってする”類の循環論法である。
(倭人伝がいかなる原資料を根拠にしていたか、という問題は、好個の研究課題ではあろう。しかし、他に同時代の第一次資料が現存しないだけに、その方法はきわめて慎重でなければならず、当然必要にして十分な史料批判を経過したものでなければならないであろう。)
つぎに「觚と古」について。
これについて、氏は「觚」が「平声」、「古」が「上声」であることをもって、「同音」ながら「異声」であるとしておられる。そして先記(第十節1参照)のように、水谷氏の論文を引いて「平声(この場合には觚)字は梵語の長母音に対応し易く、上声(この場合には古)字は梵語の短母音に対応し易い」と言われる。
しかし、三世紀において、これら「觚」や「古」によって表された倭音がはたしてそれぞれ「長母音」「短母音」であったかどうかという問題の立証を欠いている。(さらに、倭語の長母音と短母音が漢字表記における「平声」と「上声」という「同音異声」に反映しているとするならば、六十六字中、わずかこの一組しか「同音異声」例がないというのは、いささか不自然であり、さらに慎重な分析が望まれよう。)
それゆえ、もし音韻学者としてこのような立言を行われるならば、“倭人伝においては、一般に倭語の「長母音」「短母音」が、中国側において、それぞれ「平声」「上声」として「異声」で表記されている”という法則性を、必要にして十分な検証によって抽出し、その上に立ってこそ立証さるべきであろう。しかるに、氏はそのような基礎作業を一切行わず、先の循環論法をもってこれに換えておられるのは、中国語学の「専家」としていささか不用意たるをまぬかれないのではあるまいか。
つぎに謨と模について。
「謨」を『翰苑』所引の『魏略』において、「渓」と記してある点より、「言(編)」は「冫*(三水編)」にあやまりやすかったとし、原文の「謨」は「漠」のまちがいではないか、とせられる。つまり、「謨→漠」という「改定」を行われるのである。すなわち、この「漠」なら「模」とは「異音」だ、というわけである。
従来の邪馬台国研究者の「通弊」たる“自己の立論のための難点に当面すれば原文を改定して切り抜ける”という手法がここでも用いられている(古田前掲書一六四〜五ぺージ、三六八〜九ぺージ参照)。このような手法で「同音字」を「異音字」に切り替えることができるのなら、これまた、いかなる「同音字」も後代学者の“手かげん”による「改定」によって、即座に「異音」化できるであろう。氏にとって、『翰苑』『魏略』はいわば「改定」のヒントを提供したものにすぎず、氏はみずからどの史料にも存在せぬ「漠」字を創案し、もって自己立論の難点に対処しようとされたのである。
以上によって明らかになったように、氏が「一字一音主義」的理解のために行われた、各種の“同音字の異音化”作業は、いずれも史料批判の厳格な視点から見れば、遺憾ながらきわめて“恣意的な手法”に陥っている、と言わざるをえないようである。
冫*(三水篇)は、このように表示。JIS第4水準、ユニコード6C35
倭人伝の中に「ト」の音に相当する表記として「都」字が用いられている。「伊都国」がそれである。これは明らかに現地音の漢字表記である。今、この国名について簡明な論証を加えよう。
周知のように、倭人伝にはつぎの一節がある。
○南至二邪馬壹国一。女王之所レ都。
すなわち、邪馬壹国は倭国の王の「都」としてとらえられている。
一方、この「都」字は、右の「伊都国」にしめされている如く、現地音「ト」の類の音の漢字表記として使用されている。
都ト〔集韻〕東徒切
ツ 刀、又tu
刀、又tou
したがって、もしかりにヤマトという現地音の地名が倭王の治所であったとしたなら、そのとき、陳寿は、当然これを「邪馬都」と表記したものと思われるのである。 *
なぜなら、現地音の漢字表記のルールは、すでにしばしばのべた通り、
(i) 表音的段階 ーー 多字選択
(ii) 表意的段階 ーー 一字選択
の二段階を経過するのであるから、第二段階において、「ト」の現地音に対して、この場合「都」字以上にふさわしい文字はありえないのである。
ところが、この適切な文字を用いず、魏晋朝においては天子の宮闕を特定して指称した「臺」字 (2)、しかも倭人伝中にも「詣レ臺」として、天子指称の語として使用している「臺」字 (3)を用いたとしたら、これほど不可解・不適切の用字法は存在しないであろう。
このような、「表音表記」の視点からも、『三国志』の原文面に「邪馬臺国」をあてようとする説は完全に否定されざるをえないのである。
しかしながら、この問題は直ちにつぎの局面を提起する。それは“では、倭王の治所にあらざる伊都国をもって、なぜ「伊都国」と表記したのか”という疑問である。
たしかに、「ト」類の音の文字は数多いのであるから、ここに特徴ある「都」字の用いられていることは、まさに疑うべき問題なのである。
これについて左に解明しよう。 (4)
この「伊都国」という表記は、洛陽にあった史官陳寿にとって、深い典拠と類縁を有したものであると考えられる。なぜならば洛陽の近傍にこれと相関する字面をもつ「伊闕」の地があったからである。
A 十四年、左更白起、攻二韓魏於伊闕一。斬レ首二十四万、虜二公孫喜一。抜二五城一。(『史記』秦紀)
B 塞二環*轅伊闕之道一。(『史記』淮南王伝)
C 舜乃使下禹疏二三江五湖一闊二伊闕一導中廛澗上。(『淮南子』本経訓)
D 背二伊闕一。越二環*轅一。(曹植『洛神賦』)
E 中平元年、置二八関都尉官一。(『後漢書』霊帝紀)
〔注〕謂二函谷・広城・伊闕・大谷・環*轅・旋門・小平津・孟津一也。
F 霊帝中元元年以二河南レ何進一為二大将軍一率二五営士一屯二都亭一。置二函谷・広城・伊闕・大谷・環*轅・旋門・小平津・孟津等八関一。都尉官治レ此。
環*は、王編の代わりに車偏。JIS第4水準、ユニコード7758
この「伊闕」は春秋時代の周の闕塞に当たる。
○使三女寛守二闕塞一。(『左氏』昭二十六)
(注)洛陽西南伊闕口也。
そして右のE・Fにあるように漢の霊帝の八関の一であり (中元元年は西暦一八四)、洛陽の西南にあたる関塞であった。
「伊闕」の「闕」は、天子の居所たる宮殿の意義であり、「伊」は「伊邇」(イジ、“コレチカシ”の義で、近傍なるをしめす)の熟語にある発語の辞である。
○不レ遠伊邇、薄葬二我畿一。(『詩経』北* 風、谷風)
北*は、北に邑篇。JIS第3水準、ユニコード90B6
「伊」そのものに直接「近」の意義があるわけではないけれども、この『詩経』の著名な詩句のイメージからしても、首都洛陽なる宮闕の西南関を擁する地として、「伊闕」地名は、きわめてふさわしき字面として洛陽の人々には感ぜられていたであろう。(この地に「伊水」もある。 ーー『史記』秦本紀正義、注水経)しかも、先の淮南子の例Cにあるように、この「伊闕」をひらいたのは聖天子禹である、という伝承がともなっていた。この禹の東治、五服の制を典範としつつ、その古制(夷蛮の王の、中国の天子への朝貢の礼)を今に守る国として、倭国を描き、その中心国家として「邪馬壹国」の名をはじめて記したのが『三国志』の著者陳寿であった。
こうしてみると、この女王の都する国の西隣にあって、「郡使の常に駐まる所」として、その関塞の如き位置を占めた「伊都国」に対して、「伊都」の字面があてられたのは偶然ではないであろう。
すなわち、この「伊都」の「都」は、その地そのものを「都」と見なしているのではなく、ほかならぬ「邪馬壹国」のことを指しているのである。すなわち、「伊都」「都」とは「女王の都に遠からず伊邇たる地」の意義をもつのである。
これは中国側の「伊闕」が「宮闕」の存する当の地ではなく、中心地洛陽に隣接した関塞であったのと同様なのである。
わたしは前掲書において、邪馬壹国の所在地をもって、“博多湾に臨む平野部とその周辺山地”として指定した。この解読結果は、伊都国をもってまさに“隣接した近傍の地”とする点、この字面の意義ともよく適合しているのである。
以上の考察を要約しよう。
(i) 倭人伝で「ト」音として用いられているのは「都」である。
(ii) この「都」字は、意義上からも倭国の首都にあてる表記として、もっともふさわしい。
(iii) それ故、「女王の都」の現地音がもしかりに「ヤマト」(大和・山門等)であったならば、当然それは「邪馬都」と記せられたはずである。
(iv) しかるに『三国志』倭人伝に「邪馬都」というような表記が採用された痕跡は絶無である。
(v) それ故、この四点の論理から検しても、『三国志』倭人伝の中心国名を「ヤマト」という現地音の漢字表記と見なそうとする、一切の試みは遂に空しいことが確認せられるのである。
(1) 万葉仮名の表記において、同一音に対して甲類乙類の別あることはよく知られている(橋本進吉「国語音韻の研究」一九七ページ参照)。これによってみると、
(1). 伊都ー恰土ー山門(甲類)
(1). 耶麻騰・夜麻登・野麻登・夜摩苔・耶魔等(大和)(乙類)
となるから、『三国志』においても、一見表記を別にするのではたいかと見えよう。
しかしながら、『三国志』における表記法はけっして「純音韻主義」的表記ではない。すなわち (i)「音韻の一致」でなく、「音韻の類似」のみが必要とされている。 (ii)対象の内実にふさわしい字面の意義が重視されている。この二点を前掲書(第五章 I 参照)において立証した。
したがって「女王の都」の場合、現地音の甲類乙類の別にかかわらず、「ト」に類した音は「都」字で表現されるのがもっとも適切である、と見なすほかない。(倭人伝の漢字表記に甲類乙類が区別して表記されているという証拠 ーー表記法則性の立証ーー は存在しない。)
(2) 「都」には「天子の居する地」の意義がある。
天子治居之城曰レ都、旧都曰レ邑。(華厳経音義)
しかし、一般的な「王の居する所」の意義もある。
国城曰レ都、都者、国君所レ居、人所二都会一也。(華厳経音義)
『三国志』においても「京都」の場合は天子の居する洛陽を意味するが、「都」の字は「王の治する所」に用いられている。
高句麗・・・都二丸都之下一。・・・其国有レ王。(東夷伝中9。向句麗伝)
(3) 「詣臺」は直接には「天子の宮殿に詣る」の義であるが、その内実は「天子に面謁を乞う」ことである。すなわち「詣二天子一」と結局同義に帰する。
(4) 伊都国は「世有レ王、皆統二属女王国一」と書かれている。すでに「王の治する所」であるから、この地も「都」と称せられた、という理解も成立するかに見えよう。しかし、倭人伝の記載事実において「女王の都する所」とされて、明白に「都」と称されているのは、邪馬壹国のみである。また高句麗のような、他の東夷伝の例におい、「都」は一国につき一個所しか記載されていない。それゆえ“「邪馬壹国」と相並んで「伊都国」それ自身も「都」と見なされていた”という理解は結局成立しがたい。
本稿において対象とせられた尾崎・牧両論文とも、わたしの史料批判の方法に対して、その根本を異にしている。
そこでこの方法論の問題について簡明にのべよう。
眼前に一個の史料(α)がある。この中の一個所(A)が後代の研究者の目にとって“不当”に見えたとき、かれはこの(A)を実は(X)のあやまりであろうと見なす権利を当然もっている。
しかしながら、その場合、つぎの二つの条件が不可欠である。すなわち、
(i) 部分(A)のままでは、全体(α)に関する一貫した理解が絶対に成立しえない。すなわち「α ー A」間の矛盾の論証。
(ii) これに対し、もし部分(A)を部分(X)に改めれば、全体(α)とそのすべての各部分に対し、一貫して整合した理解が成立することの論証。
この二点である。したがって、この二条件を欠いている場合、「改定」説が成立しえないことは当然である。
それゆえ「改定」説は右の二条件を確実に所有しているか否かが常に検証せられねばならぬ。
これに対し、新しい研究者が右の「改定」説に対して疑いを抱き、
(ii') 右の「A→X 」の改定によっても、全体(α)についての一貫した理解が成立しえていないこと。
(i') かえって原文面の「αーA」のままで、一貫した理解が成立しうること。
この二点を提示したとしよう。にもかかわらず、依然として先の「改定」を正しとする論者が存在するならば、かれにとってなすべき義務 ーーそれは先の(i) (ii) の二条件を再び厳として確立することにつきるのである。
これを行わず、「原文面」と「改定文面」と双方とも成り立つ余地があることを述たり(尾崎説)、「改定文面」もまた可能であることを若干の徴証によって論弁しようとしたり(牧説)しても、それは論理上、「改定」説再建のための適格条件を構成しえないのである。このような論理上不十分の地点に両論文がとどまっているのは、両氏が方法論上「史料に依拠する立場」に立たず、逆に「定説に依拠する立場」に立っておられるからである。
すなわち、両氏は学界において改定説が「定説」とされているという現状況に依拠して、わたしの批判にもかかわらず、“このように考えれば、「改定」説もなお許容しうる”といった論をしめせば、それだけで「改定」説が保証されうるかのように錯覚されたのである。
本稿において、事実問題として、両氏のしめされた各徴証はそれが成立しえないことや不十分なものであることがそれぞれ論証された。しかし、もしかりにそれらの諸徴証もまた成立しうるとしても、右にのべたような論証の筋道において見れば、決して「改定」説は再建されたとなしえないのである。ここに両論文の方法論上根本の脆弱点が存在したのである。
わたしたちはあくまで史料の原状況を眼前にすえ、常に論理をそこから厳しく出発させねばならぬであろう。
なぜなら、「改定」者がいかにその説の研究史上を支配しえた長い時の「実績」を背景にしていようとも、それは終局において研究者という人間の側の問題にすぎず、代わって史料に対すべき研究者の義務、すなわち「改定」者のになうべき二条件をいささかも免責するものとはなりえないこと、明晰だからである。
古代史再発見1 卑弥呼と黒塚
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