古田武彦
日本古代史の通路に立ちふさがる、巨大なスフィンクスがある。
それは「謎(なぞ)の四世紀」と呼ばれる“不明の世紀”だ。この一世紀間の暗闇(くらやみ)に乗じて、戦後多くの仮説が続々と生産された。たとえば「騎馬民族説」、たとえば「応神東征説」等々。しかし、この世紀の真相は本当に「謎」なのだろうか。果たして“不明”なのだろうか。本稿では、この問題に立ち向かいたいと思う。
まず問おう。なぜ、「謎の四世紀」などと、従来言われてきたのだろうか。その理由は、ほかでもない。何といっても“史料がない”とされたことだ。三世紀には『三国志』があり、その中の魏志倭人伝に邪馬壹国の女王卑弥呼のことが書かれている。一世紀間飛んで、五世紀になると、『宋書』がある。その中の倭国伝には倭の五王のことが書かれている。
この二書とも、同時代史料だ。まさにその時期の倭国のことが書かれているのだ。著者は、当時の中国側の朝廷内にあって、“倭国の使者に実際に会って”記録した人たち、もしくはその同僚たる史官である。従って史料としての信憑(しんぴょう)性は極めて高い。ところが、問題の四世紀の場合、そのような同時代史書がないのだ。
こう言うと、すぐ問いかえす人々がいるかもしれぬ。“そんな外国史料のことなど、言わなくてもいい。わが国には『古事記』『日本書紀』があるではないか?”と。しかし、『記・紀』は八世紀成立の後代史料だ。だから、史料批判なしに、その記事をそのまま「史実」として採用することはできぬ。とすると、問題はやはり、中国史料だ。倭国に隣接した、この稀代(きだい)の記録文明圏。その中国の中には、本当に“四世紀の倭国についての記録”は存在しないのだろうか? たしかに従来の古代史家は、“それはない”と言ってきた。しかし、わたしはこれに対し、ハッキリと“否!”と答えたい。 ーー“四世紀の中国史料は厳然と存在する”のである。
その第一は『南斉書なんせいしょ』倭国伝だ。
「倭国。(A)帯方の 東南大海の島中に在り。漢末以来、女王を立つ。土俗巳(すで)に前史に見ゆ。(B)建元元年、進めて新たに使持節・都督、倭・新羅しらぎ・任那みまな・加羅から・秦韓しんかん・〔慕韓〕六国諸軍事、安東大将軍、倭王武に除せしむ。号して鎮東大将軍と為せしむ」(「慕韓」は脱落。(A)・(B)は古田)
右の後半部(B)については、時として従来の論者もふれてきた。『宋書』の倭王武の上表文(昇明二年、四七八)の翌年の、南斉代の授号である。しかし、この前半(A)のもつ絶大な意義については、従来の論者は空しく見過ごしてきたのである。
この冒頭の一句「帯方の東南大海の島中に在り」が、同じく「倭人伝」の冒頭の左の句を下敷きとしていることは明白だ。
倭人は帯方の東南、大海の中に在り、山島に依りて国邑(こくゆう)を為す。(魏志倭人伝)
この先文を一句に圧縮しているのである。従って次の「漢末以来、女王を立つ」とは、卑弥呼・壱与のこと、「土俗已(すで)に前史に見ゆ」とは、直接には『三国志』の倭人伝を指すこと、一点の疑いもない。
さて、この『南斉書』の著者、簫子顕(しょうしけん 〜五三七、梁)は南朝の官僚である。南朝の宋・斉・梁の三朝に歴任している。「給事中」(天子の左右に侍し、殿中の奏事を掌(つかさど)る官)の職にあった(梁書第二十九)。すなわち、倭王武の使者たちに対し、中国の天子のかたわらにあって直接面接し、応答していた、当の三朝の史局を背景にした人物なのである。その人物が“この倭王武の王朝は、『三国志』の魏志倭人伝に記せられた女王たち(卑弥呼・壱与)の後継王朝である”そのようにハッキリと記述しているのである(これを以下、“『南斉書』の証言”と呼ぶ)。
この証言のもつ、史料としての信憑性はきわめて高い。だから、いわゆる「騎馬民族説」であれ、いわゆる「応神東征説」であれ、“三世紀の倭国と五世紀の倭国との間には、王朝の系列(権力の本質)において大きな断絶があった”、このような見地に立つ、従来のすべての仮説は、右の史料事実 ーー“『南斉書』の証言”をあまりにも安易に無視していたのである。
右の“『南斉書』の証言”の内実を、さらに具体化して考えてみよう。
いわゆる「邪馬台国=大和」説は、右の証言に一応はパスしている。なぜなら“三世紀も五世紀も、近畿に倭国の都があった”という立場だからである(もし、同じ近畿内に属する「大和→河内」間といった、都の〈微細な〉移転の場合なら、それは全東アジア的見地から見れば、いわば「コップの中の波紋」にすぎず、いちいちこれが中国史書に記載されねばならぬとは言いがたいであろうから)。
けれども、これに対して“四世紀段階に外部から近畿(都)への、大規模な侵入があった”というような仮説となると、話は別だ。右の“『南斉書』の証言”という史料事実を無視ないし軽視しないかぎり、容易には成立しがたい。ことに“その侵入者は、朝鮮半島から出発した侵入軍だった”といった話になると、なおさらだ。それは確実に“東アジア内部の勢力分布図の一大変動”をひきおこす、大きな事変であるというほかない。だからその一大変動が、中国正史の証言にいっさい反映していない ーーそんなことはどうしても考えがたいのである。「邪馬台国」問題で横行した、あの恣意(しい)的な「中国官人偽報告説」や「倭人虚言説」でも、“厚顔に”「復活」させないかぎり、それは到底不可能であると言わねばならぬ。
しかしながら、右の場合以上に、“頭から成立しがたい”ものは、「邪馬台国=九州、倭の五王=近畿」説だ。従来の「邪馬台国」九州説論者の、ほとんどすべてはこれに属していた。
けれども、右の“『南斉書』の証言”の指示するところに従えば、「卑弥呼=九州」説は、同時に「倭の五王=九州」説に帰着せねばならない。それが必然の道理だ。従来の「邪馬台国」九州説論者がこの一点に今後“目をそむける”こと、それはもはや許されないのである。
右の証言は、中国の正史たる同時代史料にもとづいている。だから、良心ある歴史探究者なら、決して無視することの許されぬ史料性格をもっている。
“だが、あまりにも、理屈っぽい。もっと両接の史料はないのか。四世紀に出来、まさにその世紀の倭国のことを書いた、生(なま)の史料は?”。そのように反問する読者もあろう。これにわたしは再び答えよう。 ーー“それは、ある”と。
『翰苑かんえん』の注記に引用された、『広志』がそれである(翰苑第三十巻、太宰府天満宮蔵)。
「広志曰[イ妾]国東南陸行五百里到伊都国又南至邪馬嘉国百女国以北其戸数道里可得略載次斯馬国次巴百支国次伊邪国安[イ妾]西南海行一日有伊邪分国無布帛以草為衣盖伊耶国也」(字画は太宰府原本のまま)
〔広志に曰く「[イ妾](=倭)国。東南陸行、五百里にして伊都国に到る。又南、邪馬嘉国に至る。百女国以北、其の戸数道里は、略載するを得可(うべ)し。次に斯馬国、次に巴百支国、次に伊邪国。安(=案)ずるに、[イ妾]の西南海行一日にして伊邪分国有り。布帛(ふはく)無し。草(革か)を以て衣と為す。盖(けだ)し伊耶国也〕
かつてある論者が、この史料によってわたしに反論したことがある(角林文雄氏「倭人伝考証」〈下〉「続日本紀研究」、一六七号)。その要旨はこうだ。
“倭人伝の「邪馬壹国」がここでは「邪馬嘉国」と書かれている。だから、古田が「『臺』と『壹』が書き誤まられることは全くない」というのはまちがいだ”と。このように主張されたのである。
先ず、わたしの説を“一般的な「壹 ーー 臺」問無謬説”としてうけとったのは、明白な誤解である(古田『邪馬壹国の論理』参照)。わたしはただ“『三国志』という史料において両字間の錯誤と認識しうるものがない”ことを実証的に確認しただけなのであるから。
しかし、誤解のもう一つの根本は次の点にある。この「邪馬嘉国」を倭国の“中心国名”だ、ときめこんだ点だ。わたしは直ちに反論を書いた(「邪馬壹国の論理と後代史料」「続日本紀研究」、一七六、七号)。ところがその後、これを見ないまま、依然同じ問題をくりかえしている人人が現われている(たとえば鈴木武樹氏「異説・珍説邪馬壹国論を斬る」「別冊週刊読売」、特集「邪馬台国の謎に挑む」所収、松本清張氏「東夷伝の世界」第二一回朝日ゼミナール特集「邪馬台国」第二部)。
そこでわたしの右の論点を先ずハッキリさせておこう。最大のポイントは、“この「邪馬嘉国」は「倭国の傍国」であって、決して「倭国の首都」とは言えない”この一点だ。なぜなら、この「邪馬嘉国」が「女王の都する所」だ、といった説明は、この文面に全くないからである。
ただ三字中の二字、つまり「邪馬=山」は確かに共通している。“だから第三字も一緒だろう” ーーこれが三氏のおちいられた陥穽(かんせい)なのだ。しかし、魏志倭人伝も、冒頭で「山島に依りて」と正しくのべているように、倭国は山多き島国だ。当然「山ーー」という地名は多い。九州北・中部だけでも、山口・山家・山門・山鹿・山田等々、数多いのだ。これらすべてを“同一地点だ”などといって一つにくくれるだろうか。無論、できはしない。こうしてみると、三氏の“思いこみ”の基礎はあまりにも脆弱(ぜいじやく)だったのである。
第二に、この文面の末尾を見よう。
「西南海行一日にして伊邪分国有り。布帛無し。草(あるいは「革」か)を以て衣と為す」
この伊邪分国は、岩波文庫本(魏志倭人伝等、九三ぺージ)も「分」に「久か」と注記している通り、屋久島のことだと思われる。のちの『隋書』流求国伝(第四十六、イ妥*国伝の直前)の大業四年(六〇八)の項に「夷邪久国」のことが出ている。その国人の用いる「布甲」をちようど中国に来朝していたイ妥*国(たいこく)使に判定してもらう、という話である。これは明らかに流求国の東北に当たる「屋久島」のことである(ただし、表記上は必ずしもこれを「伊邪久国の誤り」とする必要はない。なぜなら、この直前の「伊邪国」に対する“伊邪国の分国〈古代植民地〉”の意とも考えられるからである)。
右の事実から考えると、次の二点が注目される。(一)この史料は倭国の「傍国」の数々について書いている。(二)ことに魏志倭人伝にもない、九州の南方の島にまで筆致が及んでいる。
すなわちこれは、まぎれもなく「倭国の傍国史料」だ。 ーーこういう史料性格が浮かび上がってくるのである。
とすると、この「傍国史料」に出現する「邪馬嘉国」もまた、「倭国の傍国」である、という可能性がきわめて高い。そしてこの地名は、熊本県の「山鹿」の表音表記であるという可能性が高いのである。なぜなら、「伊都国 ーー 伊邪分国」問にこの地点は位置している。すなわち、伊都国を知り、さらに南方の舟まで書いた筆者が九州中部の「山鹿」のことを知っていて書いた、としても、何の不思議もないからだ(和名抄、筑後国風土記逸文等に「山鹿郡」〈夜万加〉あり)。
少なくとも、「ヤマ」の二音の相似から、この国を「倭国の中心国名」と見なす必然性は ーー論者の好みによる「恣意的な判断」は別としてーー まったくない。従ってこの文面に依拠して“見よ、ここにも「壹」または「臺」が「嘉」とあやまられている”。このように呼称することは、史料批判上の根拠を根本的に欠いているのである。
以上がわたしの先の反論の要旨であった。思うに、三氏とも、岩波文庫本が「又南至邪馬臺国」(圏点は訂正した文字ー原註 インターネットは青色表示)と原文改定して版刻した、その性急な誤断を不幸にも“いわれなき先入観”としたまま、自家の反論を不用意に出発させてしまわれたのではあるまいか。
以上がわたしの反論だ。だがその後、論証はさらに進展した。『翰苑』倭国項の構成全体を見ると、右の「傍国」説はさらに確かめられることが判明したのである。
(A)山に憑(よ)りて海を負(お)うて馬臺に鎮し、以て都を建つ。
注(1)後漢書曰「・・・其大倭王、治二邦臺一。・・・」
(2)魏志曰「〈後述〉」
(3)地の文(後述)
(B)邪(なな)めに伊都に届き、傍ら斯馬に連(つら)なる。
注、広志曰「〈今、問題の一三九ぺージの文〉」〈本文は唐の張楚金ちようそきん撰。顕慶五年〈六六〇〉。注は雍公叡ようこうえい〉
右の(A)は倭国の首都だ(ここに「馬臺」というのは、後代名称「邪馬臺国」にもとづく、唐代の著者の造文だ。「邪馬壹国」は三世紀、「邪馬臺国」は五世紀の国名表記である。次に(A)の注(1)の場合、『後漢書』の「古都記載」だ。これも、「邪馬臺国」が「邦臺」と“書き換え”られている。「唐代後漢書」の引文である。 ーーこの点詳しい分析は古田「邪馬壹国の史料批判」松本清張編『邪馬臺国の常識』毎日新聞社刊所収、参照)。
これに対し、(B)は明らかに「倭国の傍国」についての記事なのである。だから引用文も当然、これに相応している。従って当然、(B)の注の場合は、「傍国記載」の引文なのである。だのに、これを何の論証もなく、いきなり“首都記載の引文”と見なすことは、いかにしても史料批判上、軽率の観をまぬかれないのではあるまいか。
その後、分析はさらに進展した。一段ときめ細かくこの文面の内実を知りうることとなったのである。
この文面の根本性格は、先にのべたように「傍国記載」だ。では、まったく「中心国」はその姿を現わしていないだろうか。いや、現われている。それは左の句だ。
「百女国以北、其の戸数道里は、略載するを得可し」
わたしたちは、これと同型の文を知っている。「女王国より以北、其の戸数道里は略載す可し」(『三国志』倭人伝)『広志』の文面がこの倭人伝の文面を先範(モデル)としていることは疑えない。この「〜(より)以北・・・略載す可し」の文形は、まさに“中心国を原点とする”表記法なのである。すなわち、ここでは「百女国」が表記の原点となっているのだ。
(この点、岩波文庫〈九三ぺージ〉がここを原文もしめさずに、いきなり「自女〔王〕国以北、・・・」という形に原文改定して版刻しているのは、何としても校定者の“やりすぎ”ではあるまいか。原文面は明白に「百女国」なのであるから)。
では、この「百女国」とは、一体何物なのであろうか。すぐ思い浮かぶのは、「八女やめ」という類似地名だ。「伊都国 ーー 山鹿」間にある上、三世紀には筑紫において第二の量の(博多湾岸に次ぐ)(中)広矛・(中)広文の出土地となっており、四〜六世紀の間には、この地域が九州の中心領域となっていたことは、人形原等の石人・石馬古墳群によっても明白である。
しかし、最大の難点、それは“なぜ、中国人が「ヤメ」という現地音を「百女」と表記するか”という一点だ。 ーーここでわたしの探究はいったんストップしていたのである。
ところがある日、新しい通路が開けてきた。それは次の仮説だった。“これは表意的な表記ではないか?”と。
『三国志』の倭人伝に出てくる国名のほとんどは、“倭国の現地音に対する中国側の表音的表記”だ。これに異論はない。その同じ頭で、この『広志』という四世紀史料(後述)をも見ていたのだ。そこで今、この国名に対し“倭国側の表記がもとになっている表意的表記ではないか?”という一個の仮説を立て、その立場から考えてみたのである。
第一に、「ヤメ」に対し、わが国では普通「八女」の文字をあてている(「八女県」「八女国」「八女津媛」いずれも『日本書紀』景行紀 ーーこの個所が九州王朝の史書『日本旧記』からの転載であること、また倭国の文字使用の歴史については、古田著『盗まれた神話』及び『失われた九州王朝』参照)。
ところで、これは決して「八人の女」という意味ではない。むしろ“数多くの女”という意味だ。たとえば八百万(ヤホヨロヅ)の「八」と同じように。一方、中国側の「漢語」として見たとき、「百女」とは決して「百人の女」という意味ではない。やはり“数多くの女”という意味なのである。とすると、双方の意味を知っている中国側(もしくは倭国側)の人物(翻訳官、渡来人等をふくむ)が、「ヤメ」に対し、「百女国」という表記を与えたとしても、これは決して不思議ではない。“表意的表記”として、正確な翻訳なのである。
たとえば中国における翻訳手法の歴史を見よう。
『大無量寿経』の冒頭に出てくる“Grdhrakuta”(鷲(わし)の峰)は、先ず後漢訳(『仏説無量清浄平等覚経』月支国三蔵の支婁迦識の訳)では、「霊鷲山りょうじゅせん」と訳されている。表意訳である。ところが、今日の定本たる魏訳(康僧鎧訳)では「耆闍崛山ぎしゃくつせん」となっている。これは表音訳だ。このように、原理上、二通りの翻訳法が常に存在しうるのである(古田著『「邪馬台国」はなかった』第六章I参照)。
従って右のような「百女国=八女やめ」(表意表記)、「邪馬嘉国=山鹿やまが」(表音表記)という理解は、共に“中国側の表記として十分に成立しうる”のだ。
“だが、『広志』という同一文面中に二方式混在している、というのはおかしいではないか”。そのように問い返す論者があるかもしれぬ。しかし、実はその心配はない。なぜなら、右の魏訳では、仏弟子全三十一名に対し、表意(二十二人)と表音(九人)の両方式を同一文面中に混在させ、併用しているからである(古田の右著三四四ぺージ参照)。今、その中より各二例をあげてみよう。
〈表意〉了本際尊者、正語尊者
〈表音〉舎利弗尊者、阿難尊者
従ってここ(広志)の倭国名表記として、同一文面中に〈表意〉(百女国)と〈表音〉(邪馬嘉国)とが混在し、併用されていても、中国の翻訳手法上、何の不思議もないのである。しかも、『大無量経』のこの「魏訳」は、実際は西晋もしくは東晋期頃の成立とする説が強い。そうすれば、まさにこの『広志』成立の時期(晋朝 ーー後述)とピッタリ一致することとなろう。
以上の吟味によって明らかな通り、右の「百女国=八女」という国名解読は、方法上、必要にして十分に成立しうるのである。
ただし、このことは、「やめ」という倭語自体の語源が本来“多くの女”という意義であったことを意味するものではない。むしろ語源そのものとしては(鏡味完二著『日本の地名』による)、
や=沼地(安・野洲・夜須等の「やす」 )
め=流れを横切る所、または狭い場所(川目・沼目等の「かわめ」など) 。
というように、たとえば“川に近い沼地”といった風な語源をもつ地名である可能性が高いのではあるまいか。
ただ、一方で「八女」という漢字表記も、かなり古い淵源(えんげん)をもつことは、右の「景行紀」の記事が物語っている(『日本旧記』は六世紀前半に成立し、五世紀以前の記録を集成したもの ーー古田著『盗まれた神話』参照)。
しかし、わたしはこのような地名比定に“先ず依存する”ことは危険であると考える。なぜなら、“四世紀の中国の翻訳手法において、それは可能であり、かつきわめてふさわしい”と言えても、“確かにそうだ”とは、断定できないからである。それ故、この問題より先に、まずこの単語をとりまく文面全体の客観的位置づけを必要にして十分に確定しておく、それが最後の焦点だ。
最後の焦点、それは全文面の解読である。
この文はそのまますらすらと読み下そうとしても、通意しない。それはこれが『広志』の「原文面」そのままではなく、いくつかの「省略部分」をふくんでいるからである。
『翰苑』の注は、他文献の引用にさいし、かなり大胆な省略を行なっている。たとえば、先の(A)の(2)を見よう。
〈魏志に曰く「(A)倭人は帯方東南に在り。(B)倭地を[刀/火](参か)問するに海中洲島の山に絶在し、或(あるい)は絶え、或は連なり、周旋五千余里なる可し」〉
倭人伝と比べれば直ちに判明するように、右の(A)と(B)との間には、大量の長文が省略されている。だが、『翰苑』(天満宮写本)では、そのままストレートに接続した形で書かれている。この例から見ると、問題の『広志』の場合にも、同様の“大量省略部”があることは、当然予想される。それは左のようだ。
〈倭国。(省略部(1))東南陸行五百里にして伊都国に到る。(省略部(2))又南、邪馬嘉国に至る。百女国以北、其の戸数、道里は略載するを得可し。・・・〉
先ず、「倭国」という表題のあと、“伊都国以前の行程”が省略されていることは明白だ。ここの主文(翰苑)が「伊都国・・・」の記事であるから、注の引用も「帯方郡治〜末盧国」問を省略し、いきなり“伊都国直前の行路記事”からはじめたのである。
次に、省略部(2)は何だろうか。これこそ「倭国の首都圏」記事である。その理由は次の三つだ。
第一。ここは「倭国の首都」に関する引文でなく、「傍国」相当の引文であるから、「首都圏記事」は省かれて当然である。
第二。反面、この『広志』の「原文面」に、首都圏(倭国の中枢部)記事自体がなければ、「百女国以北・・・」という“首都圏以北”の行文は無意味である。
第三。「邪馬嘉国」の場合、“そこに至る道里”の書かれていた形跡がない。あれば、伊都国の場合のように、“〜より(方角)何里にして邪馬嘉国に至る”の形で書かれているはずだ。しかるにそれがない。この点からみると、この「邪馬嘉国」は、首都圏より「以北」でなく、「以南」の傍国に属するもの、と見なされる。
以上の必然の帰結点、それは“省略部(2)は「首都圏記載」であった ーーこの一点である。では、この「倭国の首都圏」はどのような範囲にあるのだろうか。それは当然、次の範囲だ。
伊都国と邪馬嘉国(山鹿)との間。
つまり、“博多湾岸と筑後川の流域”だ。いいかえれば、筑前中域より筑後にまたがる、筑紫の中心部なのである。これが「倭国の首都圏」だ。
(従って問題の「百女国」はこの首都圏内の南辺に存在することとなろう。すなわち「八女」付近である)。
[刀/火](参か)は、刀の下に火。
さて、この『広志』の成立年代を確かめよう。「晋(しん)の郭義恭撰、広志二巻」の存在したことはよく知られ、五世紀後半の『水経注』(後魏の麗*道元著)以下、唐宋代の各書(『後漢書』李賢注『文選』李善注『芸文類聚』『広韻』『初学記』『太平御覧』等)に引用されている。これらによって知りうる内容から判断すると、この本が四世紀頃、晋朝期の成立であることが分かる。
その根拠は左の三点だ。
(一)「韓国・夫余・悒*婁ゆうろう」といった呼び方で朝鮮半島南半等を書いている(五世紀の『宋書』では「百済・新羅」等)。 ーー四世紀末以前〈下限〉
麗*、麗に阜偏。第3水準ユニコード9148
悒*婁(ゆうろう)の悒*(ゆう)は、立心編の代わりに手編。第3水準ユニコード6339
穢*は、三水編に歳。第4水準ユニコード6FCA
長尾鶏は細くして長し。長さ五尺余。東夷の韓国に出づ(『初学記』巻三十)。
貂は扶余悒*婁に出づ(『芸文類聚』巻九十五)。
(二)会稽(かいけい)郡南部たる「建安」の名が出ているから、少なくとも永安三年(二六〇)の「建安郡」分郡以後の成立であることは明白だ。
(芭蕉)交趾(こうし)・建安に出づ。(『芸文類聚』巻八十七)
(三)さらに、「倭国伝」の内容からも『三国志』以後の成立であることは疑いない(陳寿は元康七年、二九七死)。従って『広志』の成立は早くとも三世紀末をさかのぼりえない。〈上限〉
以上によって、『広志』は三世紀末〜四世紀末間の成立であることが判明する(この点、別稿でさらに詳論する)。
以上の論証を要約しよう。
中国の正史たる『南斉書』の証言するところによれば、斉から授号された倭王武は、三世紀卑弥呼の後継王朝であり、両者間にさしたる王朝断絶の存在した形跡はない。
次に四世紀前後の晋代の書たる『広志』によると、その頃の倭国の首都圏は、筑紫(博多湾岸と筑後川流域)であり、「八女」付近は、その圏内南辺の中枢地となっていた。
従って右の二史料のしめす所、倭国は三〜五世紀を通じて筑紫の中枢部に都を有する王朝下にあった。わたしがかつて『失われた九州王朝』の中で提起した、九州王朝がこれだ。
四世紀の倭国は「謎」ではなかったのである。
〈補論一〉
『広志』には、もう一つの倭国記事がある(岩波文庫等にも紹介せられていない)。
「白玉の美なる者、以て面を照らす可し。交州に出づ。青玉は倭国に出づ。赤玉は夫余に出づ。瑜玉・元玉・水蒼玉(すいそうぎょく)は皆佩用(はいよう)す」〈『芸文類聚』巻八十三。『太平御覧』巻八百五は「瑜玉」以下無し〉
〔倭人伝にも「真珠・青玉を出だす」とある。両書の「倭国」は同一国であることがうかがえよう〕
〈補論二〉
『翰苑』の倭国伝(本文)を左に全文掲載する。
「山に憑(よ)り海を負(お)うて馬臺に鎮(ちん)し、以て都を建つ。職を分(わか)ち官を命じ女王に統ぜられて部に列せしむ。卑弥は妖惑(ようわく)して翻(かえ)って群情に叶(かな)う。臺與は幼歯にして方(まさ)に衆望に諧(かな)う。文身[黒吉]面(かつめん)、猶(なお)太伯の苗(びょう)と称す。阿輩鷄弥、自(みずから)ら天兒の称を表す。礼義に因(よ)りて標[ネ失](ひょうちつ)し、智信に即して以て官を命ず。邪(ななめ)に伊都に届き、傍(かたわ)ら斯馬に連(つらな)る。中元の際紫綬の栄を〈受け〉、景初の辰(とき)、文錦の献を恭(うやうや)しくす。」
〔解読については、古田「邪馬壹国の史料批判」〈前掲書〉参照〕
〈補論三〉
(A)の(3)の「地の文」を左に全文掲載する。
「四面倶*極海自営州東南経新羅至其国也」(四面、倶(とも)に海に極(きわ)まる。営州より東南、新羅(しらぎ)を経て其の国に至るなり)。
倶*の異体字。印刷字 JIS3水準、ユニコード4FF1
〔『旧唐書』は「倭国」と「日本国」を分かち、前者について「四面に小島、五十余国あり。皆焉れに付属す」と書いている。右の雍公叡注の「四面」云々の表現と共通し、両者が同一の「倭国」(九州王朝)であることをしめしている。
次に「営州」は遼東半島(ここは唐宋間の後梁〜後周時点〈九〇七〜五九〉の呼称か)。「新羅」は“統一新羅”とすれば九三五以前。雍公叡注成立の下限をしめすものであろう。『旧唐書』は劉[日句] (りゆうく)(〜九四六)撰〕
劉[日句](りゅうく)の[日句](く)は、JIS3水準、ユニコード662B
〈補論四〉
九州王朝の考古学的側面については、古田稿「九州王朝の銅鏡批判」別冊週刊読売(昭和五十一年二月刊)特集『古代王朝の謎に挑む』所収、『ここに古代王朝ありき ーー 邪馬一国の考古学』(朝日新聞社刊)参照。
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