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『邪馬壹国の論理』
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邪馬一国の証明 角川文庫

倭国紀行

古田武彦

 筑紫の真相

 それは敗戦の年だった。昭和二十年十月、わたしは広島の家を出て西へと向かっていた。行く先は佐世保近く、針尾の海軍病院分室だった。そこに海軍軍医だった兄(孝夫)がいるはずなのに、連絡がない。心配した父母の意を受けて訪れたのである。わたしの最初の「倭国紀行」。十九歳を迎えた秋だった。
 着いてみると、病院とは名ばかり、バラックの検疫所だ。だが、兄は意気軒昂(けんこう)としていた。赤痢症状の患者をたくさん抱えているから、帰るわけにはいかない、と言い切った。院長ご自身も病人、二十三歳の兄がとりしきっていた。特攻機に乗りこむ直前、赤痢症状となった青年達が“どうせ死ぬんです。軍医殿、行かせて下さい”と言いはる。“馬鹿”と張り飛ばす。ふっ飛ぶ。何日間も食べていないのだから。話す兄に涙があった。わたしは兄の心事を諒(りょう)としてひきかえした。肥前から筑紫へ。だが、ここ筑紫が倭国の中枢部であろうとは、そのときは夢にも思わなかったのである。

 倭国を意識した旅行は、それから二十余年も後だった。兄はすでに亡くなっていた。その頃、博多の郊外春日市にいた親友の家に泊めてもらって、連日歩き廻った。太宰府(だざいふ)、糸島郡・基山等。少しでも土地鑑(とちかん)がほしかったのである。歩いてみて何が判るというものではないけれど。“犬も歩けば棒に当たる”と言うではないか。
 「棒」は親友の家にあった。中学生の可愛いお嬢さんがさし出してくれた。筑紫丘高校のことを「ツクシガオカ」と言うと、彼女はクスッと笑った。そして言った。「チクシガオカなんです」と。筑紫野市・筑紫神社、みな「チクシ」だ。意外だった。近畿に住むわたしは「ツクシ」と思いこんでいた。
 現地の文化人の方で、「ツクシが本来だ。現地のチクシはなまり」そう力説される方があった、けれども、わたしにはそうは思えなかった。確かに『万葉集』巻五(八六六)には“都久紫(ツクシ)”あるけれど、これは近畿(奈良)人の歌だ。これに対し、『隋書』イ妥*国伝では、
 ○(隋使ずいし)又、竹斯国に至る。
 これはどう見ても、「ツクシ」ではない。「チクシ」だ。七世紀前半、隋使が九州を訪れ、現地で耳にした発音を表音表記したものだ。すなわち、現地ではすでに「チクシ」と発音していたのである。万葉は八世紀後半、ずっとおそい。従って文献の前後関係を冷静に処理する限り、「ツクシ→チクシ」説は成り立たないのである。
 では「チクシ→ツクシ」か。否。わたしは両方とも“正しい”と思う。「チクシ」の「チ」は「千万」の「千」。美称だ。“美しい「クシ」の地”の意だ。「ツクシ」は「津クシ」。津島(対馬)のように。“港のある「クシ」の地”だ。いずれも本来の地名部分は「クシ」である。前者は現地の人間が自己の地をほめたたえた美称。後者は他地の人間からの称呼。いわば自称と他称だ。ちょうど日本とジャパンのように。
 真の問題はそのあとに来た。「筑紫」という字面はどちらの人問が作ったものだろう。当然、現地の「チクシ」と発音する人間だ。なぜなら「筑」(楽器)の音は「チク」であって「ツク」ではないのだから。筑前・筑後を考えても判るだろう。逆にもし、「ツクシ」と発音する近畿人間が字面を作ったら、どうなるか。それが「都久紫」だ。
 このような問題は筑紫だけではない。たとえば天照大神もそうだった。わたしたちはこれを「アマテラスオオミカミ」と読み馴れてきた。ところが、対馬(上県郡東南端)を訪れた日、そこには延喜式(えんぎしき)通り「阿麻氏*留(アマテル)神社」の額が今もあった。「アマテルオオカ」だ。すなわち、かの高名なる「天照大神」も、この海域を原産地とする、“現地仕立て”の字面、そう見ればピッタリなのである。
 しかもこれらは、『古事記』、『日本書紀』神代巻の最頻出(ひんしゆつ)地名・最中枢神名ではないか。ここには、『記・紀』を専ら近畿人風に訓読した本居宣長や記・紀神話を近畿人(天皇家の史官)の「造作」とのみ見なした津田左右吉、さらにそれをうけついだ戦後史家、彼等の“夢にだに見ぬ”歴史の真相が潜んでいる。
 「倭国」現地の旅は、だから楽しいのである(この点、古田『関東に大王あり ーー稲荷山鉄剣の密室』創世記刊、参照)。
阿麻氏*留(アマテル)の氏*は、氏の下に一です。第3水準ユニコード6C10
イ妥*国のイ妥*は、人編に妥。ユニコード番号4FCO

 

 天の下の秘密

 数年前、壱岐(いき)を訪れて記憶に残ったことがある。そこでは「上る」という言葉が日常語として使われていた。“この御神体は、もとあちら(道祖神)にあったのが、上ってきたもの”といった風に。
 京都あたりに住んでいるわたしには、この用語はなじみ深い。碁盤縞(ごばんじま)の京都市街では必須(ひっす)だ。「四条河原町上ル」など。“汽車の時刻表も”。そういう声もあろう。その通りだ。
 だが、これは古代史の世界でも重要な用語である。むしろ、現代の用法の淵源が、『記・紀』に現われている、といってもいいだろう。例の「天降る」という言葉がそれだ。
 本居宣長は『古事記伝』で、これを文宇通り“天からこの地上へ降りる”意に解し天照大神などのいる「天国(アマクニ)」は、文字通り天上だ、というのである。そして神代には、いかなる不思議があったか人智では測り知れないから、なまなかな人間のさかしらでこれを疑うな、と繰り返し書きつけた。
 しかし、人問に疑いを禁ずることほど、愚かな行為はない。いかなる権威も“疑うを禁ずる”という越権を犯したとき、腐敗しはじめるのである。
 宣長の“禁令”は、敗戦まで続いた。戦前の国史の教科書の冒頭を飾った「天孫降臨」図がそれだ。宣長の没後の門人、平田篤胤(あつたね)の“過激な”弟子たちが明治維新の新政府の教部省を支配し、その影響が明治・大正・昭和(戦前)の三代に及んだのである。
 今、そのような“喜劇”は背後におしやり、記・紀解読の一アイデアとして「宣長試案」を見ると、一の長所と一の短所をそなえている。長所とは、『記・紀』においてくからAへBへ「天降る」とき、その途中経過地を記さない。ストレートにB地に到着している。この点、天上説に有利だ。地上へ降りるのに、途中経過地などいらないからである。
 ところが、明白な短所がある。『記・紀』神代巻において「天降る」とされた到着地は、筑紫、出雲、新羅(しらぎ)の三領城に限られている。文字通り「天上」なら、こんなはずはない。大和や関東や四国に“天降って”もいいはずだ。しかし、それはない。やはり「天上」説は無理だ。
 一方、新井白石以来の中国や朝鮮半島説では、はじめの「途中経過地抜き」問題において矛盾するのである。
 わたしの答え。筑紫、出雲、新羅に内接するところ、すなわち壱岐・対馬を中心とする海上領域、それが「天国」なのである。この点、之狭手依比売(対馬)・比登都柱(壱岐)といった古地名がこれを裏づけた。この海上領域の島々のみ、「天の〜」という形で語られていたのである(「天一根」〈姫島〉はそれからの分枝)。
 以上は、すでにわたしの第三書『盗まれた神話』でのべたところ。今は新しい局面にすすもう。
 実は、『記・紀』とも、神武巻では、異なった「天降る」の用法が現われている。「九州→近畿」という方向の進路をとった神武やニギハヤヒにこの動詞が使われている。つまり九州は“拡大天国圏”とも言うべき領域なのである。そこから外圏(近畿)へ平和的もしくは武力的に進出するとき、その行為を「天降る」と呼んでいるのだ。では、“天降った”先を何と呼んだか。 ーーそれが「天の下」だ。「天降る」は動詞、「天の下」は名詞。一対(いっつい)の用法なのである。すなわち「天の下」とは、何も大層な意味ではなかった。九州外の「新植民地」、それを指す用法だったのである。
 このような帰結に達したとき、わたしははじめて『記・紀』の秘密の基本軸にふれた思いがした。なぜなら、第一代の神武だけでなく、以降(二〜九代)の各代とも、必ず「〜宮に、天の下治らしき」と書かれている。“大和を出た”形跡が一切ないのに。宣長はかまわず、代々の「全日本統治」を主張し、津田左右吉はこれを「後代造作」として疑惑した。しかし実は、宣長も左右吉も、「天下」を「テンカ」という中国語、その日本列島版と解していた。それがあやまりだったのである。これは「天降る」の名詞形。九州から武装植民した神武と後継者たちの支配する、ささやかな村々、大和盆地の一隅(いちぐう)を指す用語だった。
 わたしたちは長く目を蔽(おお)われてきた。しかし記・紀説話は、その基本において、古代的な宗教的・政治的術語によって語られ、明晰(めいせき)に記述されていたのである。

 

 卑弥呼の年齢その一

 今年(一九七九)のはじめだった(二月十一日)。NHKテレビで“ヤマタイ国幻想”という番組があった。若い卑弥呼と年老いかけた卑弥呼と、それぞれ二人の女優さんに扮装(ふんそう)させていた。“視覚に映った卑弥呼”に視点をおき、テレビの本領を生かした好企画だった。
 その中で、わたしが注目したのは、実は“もう一人の”卑弥呼像だった。一彫刻家(富永朝堂氏)の手になる苦心の彫像とのこと、見事な出来ばえだった。それを見て、わたしが ーー正確にはわたしたち夫婦がーー “アッ”と言ったのは、他でもない。その彫像の顔が妻の友人のAさんに“そっくり”だったからである。
 切れ上がった目、秀(ひい)でた眉(まゆ)など、関西の美人とは、またちがったタイプで、“卑弥呼って、あんな感じの人ではなかったかな”かねがね、わたしたちがそうささやいていたのが、Aさん。わが家では「筑紫の女王」とひそかに仇名(あだな)していたのである。彼女は博多出身、二十代からすでに歴年、司法界にあって活躍しておられる。
 テレビの解説によると、この彫刻家は、九州大学に保管されている、弥生(やよい)の女性などの人骨を何十体も参照・渉猟されたという。その結果がこれ、ということだったから、Aさんと相似たのも、偶然ではないかもしれぬ。芸術家の“迫真の技”は、こわいものだと思った。
    ×   ×
 さて、その卑弥呼の女王時代は、何歳くらいだったか。この問いに対して、幸いにわたしは今、実証的に答えることができる。即位したのが三十代半ば、それから約十年くらい在位したようである。
 その証拠は「年已(すで)に長大」(倭人伝わじんでん)の表現だ。『三国志』にこの表現はしばしば出てくる。なかでも、
 ○丕(曹丕そうひ)の、業を継ぐに逮(およ)ぶや、年巳に長大。(呉志七)

 の曹丕(魏の文帝)は、このとき三十四歳(文帝紀)。『三国志』の著者陳寿は、この表現を三十代半ばをさす用語として使っているのだ。同類の用例は他にもあり、同じ年齢をさししめしている(他の例については古田『ここに古代王朝ありき』朝日新聞社刊、参照)。従って魏使が面謁した卑弥呼は、女盛りのさ中にあり、彼等に鮮烈な印象を残したと思われるのである。
    ×   ×
 もっとも、卑弥呼が出てくるのは、『三国志』の倭人伝だけではない。高麗(こうらい)で十二世紀に成立した『三国史記』にも、一か所出ている。
 ○(阿達羅尼師今)二十年夏五月、倭女王の卑弥乎、使を遣わして来聘(らいへい)す。
 わたしはかねがね、この項に注目してきた(第四書『邪馬壹国の論理』朝日新聞社刊、参照)。ことに注意すべきは、この史料が倭人伝とは異なった、独自の史料であることだ。決して倭人伝からの“孫引き”ではないのである。なぜなら、
 第一、「中国 ーー 倭」、間の記事でなく、「新羅しらぎ〜倭」間の記事であること。
 第二、「卑弥呼」でなく、「卑弥乎」と表記していること。
 以上の二点から、この史料が独自の性格をもっていることがわかるであろう。
 ところが、問題は「年代」だ。もし、この時期(阿達羅王二十年、一七三)にすでに卑弥呼が在位していたとしよう。すると、倭人伝に最初に現われる景初二年(二三八)までに、すでに六十五年間もたっていることとなってしまう。とても「三十代半ば」どころの話ではない。この点、『三国史記』を「信用」して、わたしの説(三十代半ば)に不審をいだかれた方もあるから(平野雅廣氏、季刊「邪馬台国」2号、一九七九・十)、次にこの問題を追跡してみよう。

 

 卑弥呼の年齢その二

 前にとりあげた、『三国史記』に出てくる卑弥乎の「年代」についてのべよう。少し数字でゴタゴタするのを、お許し下さい。
 もし、この朝鮮半島側の史書の記述通り、阿達羅王二十年(一七三)にすでに卑弥呼が在位して朝鮮半島側に通交していたとすれば、はじめて中国の魏朝(ぎちょう)に使いを送った景初二年(二三八)までにすでに六十五年の経過があったことになる。もし在位時三十代半ばとすれば、百歳くらいとなろう(たとえ十歳くらいで即位したとしても、七十五歳の老婆だ)。
 この問題を考えてみよう。
 先ず「六十五年」という在位年数は、当然一見しても“長すぎる”。その上、さらに十年以上、在位しているから、なおさらだ。さらにおかしいのは、この六十五年間、一回も中国史書側に姿を現わさないことだ。一体、こんなことがありうるだろうか。いろいろ理由を“つけて”みることは当然できる。だが、率直に言って“おかしい”のだ。
  ×     ×
 だが幸いに、この謎(なぞ)も、今は解けた、とわたしは感じている。
 問題解決の鍵(かぎ)は、『後漢書ごかんじょ』の次の記事がにぎっていた。
 ○桓(かん)・霊の間、大いに乱れ、更々(こもごも)相攻伐(あいこうばつし)、歴年主無し。一女子有り、名を卑弥呼と曰(い)う。・・・・・是(ここ)」に於(おい)て共立して王と為す。(『後漢書』倭伝)
 この記事は有名だ。考古学の本で「倭国大乱」という言葉を使うとき、右の記事をもととしている。そしていまだに桓帝(一四六〜一六七)と霊帝(一六八〜一八九)の間頃、倭国に大乱が勃発(ぼっぱつ)した、そう考えている考古学者がいる。
 しかし、この記事の内実は“架空”だった。厳正な史料批判の立場に立つ限り、そう言わざるをえない。というのは、
 238-(70〜80)=158〜167
 この数式がこの問題の一切を解くカギなのである。右の数値を説明しよう。
 A(景初二年(二三八
  卑弥呼の第一回遣使。
 B住(とど)まること、七、八十
  男王の在位期間(二倍年暦=注)
 右のBは、『三国志』の倭人伝で、
 ○其の国、本亦(また)男子を以て王と為し、住まること七、八十年。倭国乱れ、相攻伐すること歴年、乃(すなわ)ち共に一女子を立てて王と為す。名づけて卑弥呼と曰(い)う。
 の一句だ。『三国志』の著者、陳寿は、
 ○(孫登)頼郷に到る。・・・住まること十余日。(呉志十四)
 のような語法で書いているのだから、ここも、当然男王の在位期間を指す。
 これを「倭国の大乱」期間と誤解したのが、范曄(はんよう)だ。そこで右の数式計算にもとづいて「桓・霊の間」(一六七〜一六八前後)という一句を“創出”したのである(この点、詳しく知りたい方は、古田『邪馬一国への道標』講談社刊に詳述したので、参照して下さい)。
 不幸にも、この“あやまれる范曄の判断”に依拠したのが、今問題の『三国史記』だった。そのため、この桓帝末・霊帝初の時点を「大乱」期と解した上、その直後に「卑弥乎」の記事を「設定」したのである。
 すなわち、貴重な断片史料を保存していた『三国史記』であるが、その「年代」の“あてはめ”という点に関しては、大きな狂いをもっていたことを認めざるをえない。
  ×    ×
“卑弥呼はやはり鬼気迫る妖婆(ようば)であった方がにつかわしい”“いや、十歳くらいの少女時代にすでに「共立」された、と考えた方が面白い” ーーこのような想像は随意だ。またそこにこそ、古代史好きの人々の味わいうる醍醐味(だいごみ)もあろう。
 わたし自身も、かつては何となく“老婆めいて”考えていたことがあったのである(『邪馬一国への道標』九五ぺージ)。
 しかし、“倭人伝(わじんでん)に出現する単語・成句は、『三国志』全体の用例に従って解する”。この王道を守るかぎり、わたしたち各自の“主観”のいかんにかかわらず、倭人伝の卑弥呼は「三十代半ばから四十代半ばまで」の盛りの日に、倭国の女王の位についていた。そう考えるほかないようである。
 (倭人は、一年に春秋二回、年齢(とし)をとる、独自の年齢計算をしていた。古田『「邪馬台国」はなかった』朝日新聞社刊・角川文庫所収、参照)。

 

 関東に大王あり その一

 先般(一九七九年十一日十日)、日帰りで上京した。東京大学で史学会大会があり、その第一日に公開の記念講演があった。井上光貞氏。現今、日本古代史学会の“ナンバーワン”と目される学者だ。論題は『稲荷山鉄剣と古代史学』。目下、わたしにとって“熱い”テーマだから、是非、と思ったのである。もちろん、当方の提出している論点に触れられることなどあるまい、と予想しながら、新幹線に乗った。
 当方の論点とは、“埼玉稲荷山の鉄剣銘文に現われた「〜大王」とは、近畿の天皇家の人物ではない。もちろん、雄略天皇などではない。関東内部で「統一権力」を行使していた関東圏の大王だ”そういう主旨だった。
 ところが、幸いにも、わたしの予想は“裏切られ”た。
 氏は「関東に大王あり、などとは、とんでもない。絶対にありえない」と力説され、冒頭の二〜三十分問をわたしの説への反論についやされたのであった。わたしは最前列でこれに聞き入りながら、ようやく“時勢の移りつつある萌芽”の現われたことを痛感せざるをえなかった。かつて山田宗睦氏、野呂邦暢氏など、“古田説に反論しない”ことの責任を学者に問う、切々たる高文を発表して下さって、当方恐懼(きょうく)するほかなかった。が、ようやく“反応”が現われはじめたようである。もっとも、その論旨・論点そのものは従来(昨年〈一九七八〉、「諸君」十二月号、井上論文)通りだったけれども。この講演の二、三日後、わたしの新著『関東に大王あり』(東京、創世記刊)は、井上氏の机下にとどけられたはずだ。氏の重ねての反論を切望しよう。
 思えば、わたしにとって、この稲荷山鉄剣銘文の解読には、たび重なる「倭国紀行」のおかげが大きかった。
 たとえば、博多のベッド・タウン春日市をおとずれたとき、そこに御笠(みかさ)川の流れているほとりに立ち、ここにも“春日・御笠”という重層地名があるのに愕然(がくぜん)とした。近畿に住むわたしには、大和なる“春日・三笠”しか頭になかったからである。ここから有名な「天の原ふりさけ見れば・・・・」の阿倍仲麻呂の歌は、この春日原近辺のことを歌ったものかもしれぬ、という発想が生じたのであった(右、新著参照)。
 このことは、日本列島内の「同音地名」の問題に、わたしの目を開眼させることとなった。そのため、鉄剣銘文内の「斯鬼宮」に対し、直ちに大和なる「磯城」に“飛びつく”ことの危険の深さを、みずからに戒めることとなったのである。
 つまり、埼玉近辺にも「シキ」の地名はないか。もしあれば、そこをさておいて、“大和なるシキ”をさす場合、「大和なる」の枕詞(まくらことば)が“ほしい”、そう考えたのである(事実、埼玉県南辺に「志木」市がある)。
 この点、さらに近く、埼玉稲荷山の“お膝元ひざもと”と言いたいようなところに、「磯城宮」のあることが見出された。栃木県藤岡町の大前神社、稲荷山から東北二十キロの地点である。
 研究史上の事実。 ーーそれは昨年の毎日新聞九月十九日夕刊で、「雄略天皇が日本統一」としで、第一報が報ぜられたとき、井上光貞氏も、岸俊男氏も、“お膝元に「磯城宮」がある”のを、全く、知らなかったことである。知っておられれば、当然「地元に『磯城宮』があるが、それはかくかくの理由で妥当しえない。やはり大和の磯城だ」という類の「論証」が、たとえ一片でも、必ず付せられていたはずだ。が、それはなかった。
 そして昨年の十月二十七日の夕方、わたしの本の読者にして地名研究家、今井久順氏が、わたしに電話を下さって、その事実を知らせて下さったのである。関東の地に「磯城宮」の字名(あざな)のあることを。
 その何日か前、大阪の読者の会(「古田武彦を囲む会」)の席上で、わたしが“この銘文の「大王」が関東内部の王者なるべき論理”を、「左治天下」の語の解明をもとにして、今井氏等にお話しした。その貴重な、すばやき反応だったのである。
 その十一月半ば、わたしは同地をおとずれた。平和な関東平野の一画、ひそやかなたたずまいの大前神社。その境内に、「大前神社、其の先、磯城宮と号す」と記された石碑を見出した。明治十二年の建碑であった。
 その帰途、西南の方、稲荷山古墳へと向かいながら、「同音地名」の不思議を思うて茫然(ぼうぜん)としたのである(ただ、雄略天皇の宮は「ハツセのアサクラの宮」であって、「磯城」ズバリではない)。

 

 関東に大王あり その二

 前にひきつづき、稲荷山鉄剣問題についてふれさせていただく。
 わたしが関東なる「磯城宮」に吸いよせられていった、もう一つの背景もまた、「倭国紀行」の経験にあった。はじめて糸島郡に行き、高祖(たかす)山の麓(ふもと)、高祖神社に訪れたとき、その鳥居の前で、わたしはハッとした。そこに「高祖宮」という額がかかっていたからである。中に入ると、石製の大きな八咫鏡(やたのかがみ)があり、そこにも同じ文字が鮮やかに躍っていた。
 近畿に住むわたしには、神社の額にこんな表記は見なれなかった。「〜宮」というと、すぐ、天皇の居所を思い浮かべるのだった。
 さらに住吉神社を訪れると、ここにも「住吉宮」。この種の表記は、この地帯に氾濫していた。もちろん、近畿でも、探せば類例はあろう。第一、神社のことを「お宮さん」と言うのであるから。
 けれども、ここ「倭国の地」では、一段とその表記は日常的であり、来訪者の眼前に“露骨”に呈示されていた。“「宮」号は、天皇家の住居用に特定される以前に、より一般的に用いられていたのではないか” ーーそういう示唆をわたしは得たのである。
 『古事記』にも同種のテーマを暗示する説話がある。雄略天皇が河内に行ったときのこと。
 「堅魚(かつを)を上げて舎屋を作れる家あり。天皇、その家を問ひ、『その堅魚を上げて作れる舎は、誰が家ぞ』と問ひしかば、答へて曰(いは)く、『志幾(しき)の大県主(おおあがたぬし)が家なり』と白(もう)しき。ここに天皇詔(の)りたまはく、『奴(やっこ)や、おのが家を、天皇の御舎に似せて造れり』とのりたまひて、すなはち人を遣(つかは)して、その家を焼かしむる時に・・・・・」
 右では“河内の大県主が、不謹慎に天皇家「専用」の堅魚を用いており、天皇がこれをとがめた”という話になっているけれども、
 この堅魚は、果たしてはじめから天皇家専用だったものを、敢えて“自家用に使った”のだろうか。わたしにはそんな“迂闊(うかつ)で馬鹿げたふるまい”は理解できない。 ーーむしろ“時間の順序”は逆なのではないだろうか。
 この種の堅魚は、はじめ在地権力者が用いていた。だのに、新しくこの領域を統一した、新来の権力者(天皇家)が、これを“禁止”し“独占”化しようとした。そのさいの“新旧の衝突”、それを暗示する事件。わたしにはそのように見える。
 「宮」号も同じだ。かつてはそれは在地権力者の住居に使用されていた(その跡地が「〜神社」の類だ)。それを後来、天皇家は、自家の「独占使用」するところ、とした。 ーーこういう時間の流れだ。その流れの中の、原初的な形態の痕跡(こんせき)、それが倭国に氾濫する、これらの「宮」号額なのではないか。これが、わたしの「倭国紀行」が与えてくれた貴重な示唆だった。
 この探究経験をもつわたしだったから、今回の稲荷山鉄剣銘文に「斯鬼宮に在り」という一文を見たとき、これを直ちに近畿なる天皇家の独占禁令下の「宮」号とは、到底“速断”できなかったのである。安閑紀にも、“武蔵国造(くにのみやつこ)の位をめぐって、笠原直使主(あたいおみ)と小杵(おき)が争い、最初、後者が上毛野(かみつけ)の君、小熊を、のちに前者が天皇家をバックにした”という、有名な記事がある。やっとこの時点(五三四)で、近畿天皇家がこの地域の政治支配に介入しえたように書かれているのだ。
 『日本書紀』は虚実まじえた性格の史書だ。他(九州王朝)の神話を転用して自家のもののように使用している(古田『盗まれた神話』参照)。その『書紀』ですら、右のていだ。それを現代の学者が自分の手かげんで、時間軸を遡(さかのぼ)らせ、安閑から六代前の雄略時代にも、“関東に「宮」号使用の権力者なし”と断ずるとは。『書紀』の作者をも驚倒させるていの“天皇権拡大史観”、そう言われても、仕方ないのではなかろうか。
 わたしはそう考え、そのような先入見にわずらわされず、ただ原文面を漢文としての意義通り、解そうとした。すなわち銘文のキイ・ポイント「左治天下」は、“名目上の主権者が幼弱もしくは女性であるため、ナンバー・ワンの実力者が代わって統治権を執行する”一貫してそういう用法だ(周礼しゅらい・倭人伝)。すなわち、銘文中の「〜臣」と「〜大王」とは“同一朝廷内にいる”と見なさざるをえなかった。
 そして果然、稲荷山の“お膝元”に「磯城宮」の地が見出されたのである(関東における、他の「宮」号地については、古田『関東に大王あり』創世記刊、参照)。

 

 韓国陸行

 かっては、わたしにとって異国だった九州の地も、近年は訪れることが多くなっただとえば「北九州古代史ツアー」といった企画で、解説役を仰せつかったりする。考えてみれば「異邦人」たるわたしだ。大それた話である。当然ながらわたし自身も、同行の皆さんと同じ一探究者だ。そのたびに新しい発見に出会う。
 時に困ることがある。運転手さんも、ガイドさんも、「道順」を知らず、わたしに聞かれるときだ。たとえば、筑後の石人山古墳。もちろん、あの石室には何回も訪れた。最初、一人で行ったとき、鉄格子(てつごうし)の外からのぞいたら、何やら文字らしいものが見え、驚いて、カギを求めて町役場に走った。といっても、御存知の通り、歩くには長い道のりだ。やっとお借りしてひき帰して、中に入ってみると、円形文様の中に「三」とか「中」とかの字が“刻み入れて”あったが、同時にローマ字まで反対側に刻んであって、ガッカリした。これではかりに、本来、文字があったとしたところで、識別できない。心ないことをするものだ。
 爾後(じご)、何回も足を運んだけれども、バスの上で「道順」を聞かれると、“判らない”のである。おそらく車を自分で運転して行ったのではない、せいであろうか。
 もっとも、わたしは日常生活では“方向音痴”の部類に属するらしい。一回通った道でも、後日、反対側から通ってゆくと、もう判らない。おそらく道を歩いているときも、何や“考えごと”にふけっていることが多く、あまり“道筋の人相”に注意をはらっていないのかもしれない。「そんなことで、よく倭人伝の道筋の解読ができたね」そう、家人に言われることがある。
 考えてみると、わたしの行路解読の方法は“道路かんの冴 (さ)えでピタリ”などというものではない。そんなかんのない人間だからこそ、一つのルールだけを頼りに、行路記事を辿(たど)ってみたのだ。そのルールとは“『三国志』全体の用例に従って倭人伝を読む”こと、それに尽きた。
 たとえば一つ、例をあげよう。
 倭人伝の行路記事において、「韓国水行」というのが、従来の「定説」だった。帯方郡治(ソウル付近)を出て、そのあと釜山まで、朝鮮半島西岸、南岸を“舟で”廻るのである(あの野性号一号が、このコースを通ったのは、この「定説」に従ったものであろう)。
 では、次の記事を見よう。
 ○(帯方郡治〈ソウル付近〉より)其の(倭の)北岸、狗邪韓国に到る、七千余里。
 ○(韓国)方四千里。(韓伝)
 もし、韓国の西岸と南岸を全水行したとしょう。そうすれば、それだけで、計「八千里」になろう。その上、帯方郡治から韓国西北端までの、文字通りの水行分(約千五百里くらい)をあわせれば、なおさらだ。
 以上によって判るように、「韓国を歴(へ)るに」とは、“陸上経由”、『三国志』全体の用例もそれ(領域内経由)をしめしている。たとえば、
 ○白檀(地名)を経(へ)、平岡(地名)を歴て鮮卑の庭を渉(わた)る。(魏志一)
 のように。このように理非明白なのに、わたしの『「邪馬台国」はなかった』以来、「賛成」を言う論者をあまり見ないのは、どうしたことだろう。
 逆にもし、この一点で、わたしの論を非とし、従来説(韓国全水行説)を再立証すれば、そのとき、わたしの説の全体系はガラガラと崩れ去らざるをえないのだ。
 なぜなら、「水行十日・陸行一月」を“帯方郡治から倭都までの全行程”と解するのがわたしの立場だ。その「陸行一月」の大半は“韓国内陸行”、そう考えている。すなわちわたしの「博多湾岸」説にとって、この「韓国陸行」説は、まさに“一蓮托生いちれんたくしょう”のキイ・ポイントなのであるから。
 それゆえわたしは、心ある全論者に対し、この一点への厳たる反論を望むのである(なお、付言すると、わたしの「韓国陸行ルート」は、西北端から東南端(釜山付近)まで、「階段式行路」を想定した。約五千五百里だ。これに対し、韓国内陸行の“道路かん”から、ある論者は、次のように言うかもしれぬ。「道路はそんな階段の形についていない」と。当然だ。しかし、これは『三国志』の著者たる、「陳寿の算法」の問題なのである(古田『「邪馬台国」はなかった』第四章VI参照)。

 

 陳寿反対派の証言

 倭人伝をくりかえし読み抜くうち、この伝の行路記事の骨格が透けて見えたような気がした。その経験が二つある。
 その第一は、島廻り半周読法だ。『三国志』全体の表記ルールから、
 〈主線行程〉帯方郡治→狗邪韓国(七千余里)狗邪韓国→対海国(千余里)対海国→一大国(千余里)一大国→末盧国(千余里)末盧国→伊都国(五百里)伊都国→不弥国(百里)
 計一万六百里
 〈傍線行程〉伊都国→奴国(百里)不弥国→投馬国(水行二十日)
 という構成になることは、分かっていた。しかし、
 ○郡より女王国に至る、万二千余里。
 と書かれた総計まで、主線行程の部分合計「一万六百里」では、まだ「千四百里」足りない。これが悩みだった。
 一九七〇年の夏のある日、
 対海国 ーー方四百里(半周、八百里)
 一大国 ーー方三百里(半周、六百里)
 計千四百里(半周は二辺)を見出したとき、“分かった! 分かった!”とこおどりしながら、階下の家人のところへと駆けつけたのであった。
 その第二は、「倭都到着」問題だ。
 ○正始元年(二四〇)、太守弓遵(きゅうじゅん)、建中校尉梯儁(ていしゅん)等を遣わし、詔書・印綬を奉じて、倭国に詣(いた)り、倭王に拝仮し、并びに詔(みことのり)をもたらし、金帛(きんばく)・・・・・を賜う。

 この明文による限り、魏使が倭都に到着し、卑弥呼に会ったことは、疑いない。とすると、倭都の入り口まで里程が書いてあるはずだ。それはどこか。 ーー不弥国だ。
 ここから、“不弥国は邪馬一国の玄関”という、わたしの命題が生まれた。これに対し、従来の読解は次のようだった。
 前半(不弥国以前)  ーー里程
 後半(不弥国以後) ーー日程(水行十日・水行二十日・陸行一月)
 しかし、ことの道理をよくよく見つめれば、“倭都に到着しているのに、前半だけしか里程で書かない”そんなはずはないのである。
 この点、『ここに古代王朝ありき ーー邪馬一国の考古学』(朝日新聞社刊)で力説した。ところが次のような反論があった。
 “「倭王に拝仮し」と、「仮」の字を使っているのは、魏使が卑弥呼に会っていない証拠だ”と(橋本文男氏、「世界日報」一九七九、八、一八)。
 そこで『三国志』を調べ直してみると、
 ○帝(明帝)寝疾す。乃(すなわ)ち爽(そう 曹爽そうそう)を引きて臥内(がない)に入れ、大将軍を拝し、節鉞(せつえつ)・都督中外諸軍事・録尚書事を仮す。(魏志九)
 という一文があった。明帝(卑弥呼に詔書を与えた魏の天子)が死ぬとき、腹心の曹爽を病床に呼んで、官位を授けたのだ。そのさい、「拝・・・仮」の語が使われている。“会っている”ときに「拝仮」が使われうる明証だ。“枕(まくら)もとで会う”ほど、密接な対面はないのだから。
 思うに、天子が洛陽(らくよう)での宮殿の公式の場で、正式に授与するのでない点を「仮」と言っているのであろう。卑弥呼の場合も、同じだ。卑弥呼自身が洛陽の宮殿内に詣(いた)って、天子から直接授与されたのではないから、「仮」の字が使われたのであろうと思われる。
 やはり“魏使は倭都に至り、卑弥呼に会った”この命題を否定することはできない。とすると、
 不弥国(博多湾岸西端、姪の浜付近)を最終到着地、すなわち倭都の入り口、と見なすほかはないのである。
 この点、実は思いがけぬ証人がいる。西晋(せいしん)朝内の反陳寿派の面々である。陳寿の晩年、彼の庇護(ひご)者だった張華が失脚し、ライバルの荀勗(じゅんきょく)が政権を握った。ためにすでに完成していた『三国志』は、散々あら探しされた。陳寿の死後、名誉回復の時が来て、やっと『三国志』は真価を認められ、西晋朝の正史とされたのである(晋書陳寿伝)。
 従ってもし、従来の論者の見てきたように、「前半里程・後半日程」「部分里程の総和が全里程に足らぬ」といった支離滅裂さをしめすのが倭人伝の文章だったとしたら、当然荀勗派の熾烈(しれつ)な攻撃をうけたであろう。また名誉回復に力を尽くした萢[君頁](はんいん)等はこれを合理的に「改定・補正」したことであろう。しかしその気配はない。ということは、洛陽の当時の読者は、現代の(わたし以前の)全論者のような“支離滅裂な”読み方をしていなかった、たとえ反対派といえども。 ーーそういうことになろう。
 これが“陳寿反対派の証言”である。


 子供でも分かる謎 その一

 電話がかかってきた。大阪の読者の会のNさんからだ。古代史に造詣(ぞうけい)深く、庭に「ミニ仁徳陵」を作っておられるという方である。
 「倭人伝には銅鐸(どうたく)の記事がありませんね。近畿説をとる人たちは、これをどう考えているんでしょう」
 こういう問いだった。確かに、子供でも分かる矛盾点だ。そしてそのような矛盾にハッキリ対面することこそ大切なのである。現代のわたしたちには、「邪馬台国」論争に酔い痴しれて、それがかえって見えなくなっているようだ。
 たとえば百年のちの人々が、今日の「邪馬台国」論争を見たら何と言うだろうか。“なぜ、こんな分かり切ったことに千万言を費やしていたのだろう”そういぶかるのではないか。 ーーそう思うことがある。
 なぜなら、倭人伝の中には“これ一つで決め手”といったポイントがいくつもあるからだ。列記してみよう。
 (一)卑弥呼は「女王」だと書かれている。ところが『古事記』『日本書紀』の初期の天皇には女性はいない。出現するのは七・八世紀になってからだ(推古・斉明・元明等)。三世紀の卑弥呼をまさかこれらのずっと後代の女帝に当てることはできまい。とすると、結局、卑弥呼は近畿の天皇家内の誰(だれ)かではありえない。すなわち、邪馬一国を「邪馬台国」などと“手直し”して、大和に当ててみても、もともと駄目(だめ)なのである。
 この点に、最初に“苦慮”したのが、他ならぬ『日本書紀』の作者(舎人とねり親王等)だったように思われる。彼等は「神功皇后紀」を特立し、その末尾に該当事項を“おし当てた”のである。

 「四十年。魏志に云う。正始元年、建中校尉梯携(ていけい)等を遣わし、詔書・印綬を奉じて倭国に詣(いた)らしむるなり。
 四十三年。魏志に云う。正始四年、倭王、復使大夫伊声者・掖耶約等八人を遣わして上献す。
 六十六年。是年(このとし)、晋(しん)の武帝泰初二年。晋の起居注に云う。武帝泰初二年十月、倭の女王、重訳を遣わして貢献せしむ」

 のように。だが、事実は頑固(がんこ)だ。そこには肝心の「卑弥呼」や「壱与」の名が出ていない。いや出せないのだ。神功皇后にはそんな名前がないのだから。現代の研究者のように、天皇にもあらぬ「倭やまと姫命」や「倭迩迩日百襲やまとととひももそ姫命」を「倭 」に当てはめる、そこまで「大義名分を平然と無視する」手法をとることは、さすが『書紀』の作者にはできなかったのである。
 (二)Nさんの問いのように、倭人伝には「銅鐸」の記事がない。倭国の風土・産物等、要領よく摘記しているのに。三世紀(弥生やよい期)の日本列島に巨大銅鐸(後期銅鐸)が分布していたことは、今目、考古学の通念だ。瀬戸内海岸・大阪湾岸等にも分布している。もし魏使(ぎし)が近畿なる大和へ行ったとすれば、途中でこれらの特色ある器物(祭祀品)を見聞しなかったはずはない。しかるに、全くこれについての記載がない。ということは、「邪馬台国」と原文を改定してまで大和に当ててみても、所詮(しょせん)駄目だ、ということである。
 この点、“魏使は伊都国にとどまっていて、倭都へは行かなかった”という使い古された弁明をしてみても、無駄だ。伊都国は「一大率」のいるところ、倭国の一大軍事拠点である。その倭国とは、近畿説に立つ場合、東は静岡県から西は広島県に至る「銅鐸圏」を当然ふくむはずだ。その一大拠点に「中・後期の大銅鐸」が一切姿を現わさぬ。 ーー到底弁じえぬ矛盾なのだ。
 まして「魏使の倭都未到着」説など、“そんな中枢記事を否定しておいて、他の好みの記事だけ、よくも手前勝手に利用できたもんだね”。後代の人々から、そのように評されるのではあるまいか。 ーー「倭王に拝仮す」と明記されているのであるから。
 (三)一方、卑弥呼の宮室は「兵」で守衛されていたと書かれている。「兵」とは兵器。「矛(ほこ)や弓矢」を指す、と倭人伝内に記されている。すなわち卑弥呼の国は、「矛の国」なのである。では、三世紀(弥生期)の日本列島で「矛」の中心地はどこか。文句なく、博多湾岸だ。何より「矛の鋳型」が百パーセント、この領域に集中しているのである。全く銅矛を出土しない近畿は“論外”だが、出土する九州でも、大分・筑後・島原等、幾多の「邪馬台国」候補地も、博多湾岸とは全然比較にならない。 ーー“今後出るだろう”そのような遁辞(とんじ)がいつまで純真な古代史愛好者を“なだめおおせられる”ものだろうか。おそらくある日、子供が叫ぶであろう。“あの王様は裸だ”と。これは子供でも分かる事実なのだから。いや、未来人たる子供の目こそ真にこわいのである。

 

 子供でも分かる謎 その二

 前につづいて書く。
 (四)卑弥呼の宮室は「兵」に守衛されていて、その「兵」は「矛(ほこ)と弓矢」だ。「矛」についてはすでにのべたが、一方の「弓矢」も重大だ。竹製や木製部分は腐蝕(ふしょく)しても、鏃(やじり)は残る。「骨鏃(こつぞく)(あるい)は鉄鏃」とあるが、縄文(じょうもん)にはない。弥生(やよい)の花形は何といっても、「鉄鏃」だ。
 ところが、近畿の大和には、全く鉄鏃の出現を見ないのである。弥生全期を通じて、そうだ。この事実を考古学者は何と見ているのだろう。鏃は戦の道具だ。山野に散乱する。すなわち「弥生の山野」に分布したはずだ。もし大和が卑弥呼の都の地だったとしたら、なぜそこに鉄鏃の出土が皆無なのだろう。全く理解できぬ。これに対し、「鉄鏃」をふくむ全弥生鉄器の出土中心、最密集地は、やはり筑前中域(糸島郡・博多湾岸・朝倉郡)なのだ(古田『ここに古代王朝ありき ーー 邪馬一国の考古学』朝日新聞社刊、参照)。
 後世の人々は“これほどハッキリしているのに、あの頃はなぜ”とそれをあやしみ、好奇の話題とするであろう。
 (五)卑弥呼を描く人々は、彼女のよそおいを“野卑に”仕立てすぎる。これがわたしの不満だ。先にのべた NHKの“ヤマタイ国幻想”や篠田正浩氏の監督された映画“卑弥呼”など、いずれもそうだった。
 たとえば、弥生の日本列島中で、卑弥呼の都の繁栄を証(あかし)するものは「錦にしき」だった。魏(ぎ)の明帝が卑弥呼に贈った品の中には、おびただしい「錦」類がある(絳地交龍錦・紺地句文錦など)。また卑弥呼や壱与も「倭錦」「異文雑錦」を魏の天子に贈っている。倭国は当時の東アジア中、中国周辺の「夷蛮いばん」の地では、出色の“錦の産地”だったのである。してみれば、彼女等が公式の席に立つとき、誇らしげに倭錦や中国錦を身につけていたこと、それを疑うことはできない(錦は“繻子(しゅす)などによる飾り絹”である)。では、弥生期の日本列島で「絹」を出土するところはどこか。全部で九例だ。そのうち筑前が八例、島原に一例。筑前では博多湾岸(春日市)が五例、東隣の立岩に三例。しかも、博多湾岸中の一例は、明白に紺地の中国絹であり、房糸をともなっているのだ(右書参照)。
 しかも、問題は次の一点にある。弥生期の日本列島には「木綿」が一般的だ。到る所に出る、といってもいいくらいだ。そのおびただしい大量例の中で、「絹」は右の九例だけなのである。この事実ほど、卑弥呼の都のありかをズバリさししめしているものはない。卑弥呼の宮殿は、織る絹の色あでやかに匂うがごとく繁栄した「錦の都」の中心にあったのである。
 (六)“魏使を乗せた舟は、なぜ博多湾に直接入港しなかったのか”これも、問題の核心を突く問いだ。
 倭人伝によると、魏使は末盧国(唐津付近)においてはじめて九州本土に上陸した。そして東南五百里の陸行ののち、伊都国に到り、そのあと博多湾岸なる不弥国へ着くのである。“ではなぜ、ストレートに舟のまま博多湾岸に来て上陸しなかったのか”中学生や一般の読者から、しばしばこう聞かれたことがある。これは至当の問いだ。
 もし博多湾岸からあと、さらに「水行二十日」(投馬国まで)や「水行十日・陸行一月」の長途の旅にのぼるとしたら、その直前の「陸行六百里」(末盧国 ーー 伊都国 ーー 不弥国。従来説では「伊都国 ーー 奴国」百里を加えて七百里)の意味は何か。全く、ナンセンスだ。旧来のあらゆる「邪馬台国」説は、この問いに対して答えるすべをもたないのである。
 これに対し、わたしの博多湾岸首都説の場合。“首都への直接入港”を避けるのは、当然だ。外国の使者団が首都に直接上陸する、それは軍事的には“危険”であり、外交的には“非礼”である。首都の前面の地で「郊迎」の礼をとるのが、当時の国際慣例であった(『失われた九州王朝』第一章II参照)。『三国志』夫余伝にも、その例が記されている。
 ○正始中、幽州の刺史・毋丘(かんきゅう)倹句麗を討つ。玄菟(げんと)の太守王[斤頁](おうきん)を遣わして夫余に詣(いた)らしむ。位居(夫余王)、大加(高官)を遣わして郊迎せしむ。
 倭国の場合、それが伊都国の地であった。かくしてその「郊迎」の地に到るための「陸行六百里」はきわめて“自然(ナチュラル)”となるのだ。推理小説好きの中学生なら、すぐ気づくこの謎(なぞ)、ここにも卑弥呼の都のありかを解く、あざやかなカギが秘められていたのであった。

王[斤頁](おうきん)の[斤頁]は、JIS第四水準、ユニコード980E

 

 卑弥呼と俾弥呼 その一

 今回は新しい探究へ手をのばそう。“『三国志』に卑弥呼という名前は何回出てくるか”これは一見、簡単なクイズだ。古代史通の方なら、すぐ答えを出されるかもしれぬ。そうでなくても、倭人伝の載った本を書棚からとり出して、“勘定”しはじめる人もあろう。たとえば、わたしの『「邪馬台国」はなかった』にも、各編冒頭に紹煕本(しょうきほん 二十四史百衲本ひやくのうほん)の倭人伝の写真が分割して掲載されている。やがてその答え「五回」を出されることであろう。だが、これは正解ではない。 ーー「六回」だ。ミソは“倭人伝に”でなく、“三国志に”と言ったところ。
 実は『三国志』では、倭人伝以外にもう一か所ある。しかも冒頭だ。
 ○(正始四年)冬十二月、倭国女王俾弥呼、使を遣わして奉献す。
 中国の史書は、帝紀(天子の各代別)・列伝(主要な臣下・夷蛮の国等の編目別)の二つに別れている(他に「志」のあるものもある。各種の事項別だ)。夷蛮(いばん)伝などは列伝の末尾にあるのが普通。倭人伝は夷蛮伝(烏丸うがん・鮮卑・東夷伝)の最末にある。
 さてその『三国志』冒頭の帝紀に出てくるのが右の記事だ。ところがここでは「弥呼」ではない。「弥呼」なのである。なぜだろう。
 はじめ、わたしはこれを重要視していなかった。“「共用」であって他意はない”そう思ってきたのである。ちょうど「倭」を志賀島の金印では「漢委奴国王」と刻してあるように。“帝紀の「俾」が正式の用字法で、倭人伝の「卑」はその略用だろう”あるいは、そんな風にも思っていた。
  ×     ×
 ところが、よく考え直してみると、これはおかしい。なぜなら、問題は倭人伝の中にのせられている、魏の明帝の詔書だ。卑弥呼あての、かなりの長文である。そのはじめに、
 「親魏倭王卑弥呼に制詔す」
 とあって、ここでは明らかに「卑」だ。「俾」ではない。
 「天子の詔書」に出てくる文面、これは何物にもまさる“正規の文面”だ。だから倭人伝は他の四回とも、その“正規の文面”によって書いているのである。周辺の諸民族を、「夷蛮」として下目に見下していた、中国側の中華意識にとって、この「卑」の字面はまことにふさわしい。倭人伝以外にも、「卑離国」(韓伝)「卑弥国」(同上)といった形で頻出(ひんしゅつ)する。「俾」ではない。この字は「しむ・せしむ」という使役の助動詞や「したがう・つかさどる」といった動詞などであって、必ずしも下目に見た「卑字」(いやしい文字)ではない。
 これは一体、どうしたことだろう。疑いはじめると、気になった。気になったまま、数年がすぎた。
 ところがある日、また倭人伝を読みかえしているうち、次の一節が目にとまった。
 ○(正始元年)倭王(卑弥呼)、使(魏使)に因(よ)って上表し、詔恩を答謝す。
 明らかに卑弥呼は上表文を書き、魏使に託しているのだ。言うまでもないことだが、上表文は手紙の一種。およそ「自署名」のない手紙はない。まして上表文となると、“自署名抜き”など考えられぬ。当然、卑弥呼の上表文には「卑弥呼の自署名」があったのだ。彼女の自筆にせよ、文字官僚の代書にせよ、それは必須(ひっす)である。では、その自署名には、どんな字が使ってあったのだろう。
 ここまで考えがすすんだとき、わたしは年来封じこめられていた暗がりの部屋から一歩を踏み出した思いがした。 ーー「弥呼」だ。この上表の直後の記事、それが問題の、帝紀「正始四年」の記事なのだった。
 ではなぜ、彼女は「卑」でなく「俾」を使ったのか。まず考えられるのは、文字通り“「卑字」をきらった”ということだ。だが、これだけでは、いやしくも天子の詔書の文字を“斥(しりぞ)ける”理由としては、弱すぎる。再び思いあぐねて何か月かたった。
 (念のために、倭国における「卑弥呼前」の文字習得史を大観すれば、次のようだ。建武中元二年〈五七〉後漢の光武帝は博多湾岸の倭奴(いど)国王に金印を授与した〈志賀島出土〉。少なくともこの時点において倭国側がここに刻された文字を「文字」として認識したこと、それを疑うことはできぬ。そしてその半世紀あまり後、延光四年〈一二五〉に倭国側の手で銘版に文字が書かれた。 ーー博多湾岸出土の「室見川の銘版」だ)。(この点、『ここに古代王朝ありき ーー 邪馬一国の考古学』朝日新聞社刊、参照)。

 卑弥呼と俾弥呼 その二

 前につづけて「俾弥呼」問題を書く。
 ある日、『尚書しょうしょ』を読んでいた。いや、正確に言えば調べていた。『尚書』は中国古代の帝王たちの言説を集録した本。古代統治の根本の書とされている。
 渉猟の動機は、昨年(一九七八)日本列島を震駭(しんがい)させた埼玉稲荷山の鉄剣銘文の解読問題だった。当初から「定説」のように流されていた「ワカタケル=雄略=倭王武」の説に、わたしがうなずけなかった根本原因、それは「左治」の一語にあった。
 すでに書いたように、この用語の淵源(えんげん)は“周朝第二代の天子、成王(幼少)と叔父の周公”の間に用いられたもの。「摂政」と同意語だ。従って「大王」を近畿の雄略天皇、「乎獲居臣」を埼玉の豪族、としたら、決定的に矛盾する(『関東に大王あり』創世記刊、参照)。
 この「左治」の語を求めて『尚書』を探索するうち、はからずも次の一句にぶつかった。
 ○「海隅、日を出だす。率俾(そっぴ)せざるはなし」。(周公の条)
 右の「率俾」は“天子に臣服する”意だ(諸橋の大漢和辞典)。つまり“海の果て、日の出るところまで、臣服しないものはいなくなった”というのである。これは何を意味するか。
 この『尚書』の冒頭部には「島夷とうい」の記事がある。
 ○島夷皮服(注、海曲、之を島と謂(い)う。其の海曲、山有り。夷、其の上に居るを謂う)。
 と書かれている。当然、右の言(周公)は、この島夷に関する記事だ。そう思ったとたん、わたしは気づいた。
 「長老説くに、異面の人有り。日の出づる所に近し、と」
 これは『三国志』東夷伝序文の一節。わたしが“倭人記事”として指摘したものだ(『「邪馬台国」はなかった』参照)。ところがこの記事の淵源が、何と右の『尚書』中にあったのだ。また倭人伝の先頭に、
 ○(倭人)山島に依りて国邑(こくゆう)を為す。
 とあったのも、実は先にあげた『尚書』冒頭部の「島夷」の項を背景にしていたのだ。
 これらは、よく考えてみれば、別段驚くべきことではなかった。なぜなら三世紀の陳寿も、その読者(洛陽のインテリ)も、共にその教養の基礎に『尚書』があったこと、火を見るよりも確実なのだから。けれども、わたしは『「邪馬台国」はなかった』を書くとき、これに気づかなかった。わたしに“『尚書』の素養”がなかったからである。
 では、三世紀倭国のインテリ(卑弥呼の朝廷の文字官僚)はどうだろう。やはり洛陽の場合と根本は同じだ。彼等の勉学の“目標”は、『尚書』にあったはずだ。何しろ『尚書』の知識なくして一国の文字官僚など勤まりはしない。とすれば彼等が“『尚書』を読んでいた”のは当然だったのだ。そしてその『尚書』中、東方海上の「夷蛮」のことを書いた部分は数多くない。右にあげた二か所くらいだ。従って彼等がこの個所に注目したのは当然。そしてそこに現われた由緒深い「率俾」の文宇の中の一語、「俾」を使ったのだ。
 この、倭国からの上表文中の、典拠ある文字使用を見た中国の天子と朝廷の官僚たちは、いっせいに『尚書』中の、周公の時代の「率俾」の故事を思い出したことであろう。
 (後漢の王充の論衡には「「成王の時・・・倭人、暢草(ちょうそう)を貢す」とあり、倭人が成王のとき、貢献したことがのべられている。このとき、「佐治」し、「摂政」の任にあったのが周公である。『邪馬一国への道標』講談社刊、参照)。
     ×     ×
 “三世紀倭国の朝廷内において、すでに『尚書』が読まれていた”これは、従来の日本古代史界の認識水準から見れば、何とも“とてつもない”事態であろう。だが、先入観を排し、史料事実をおしつめてゆく限り、この結論に至るほかはないようである(研究の方法論については、「わたしの学問研究の方法について」本書五四ぺージ参照)。
 このことはまた、卑弥呼の都のありかを、スッパリと割り出す、絶好の“決め手”をもふくんでいる。なぜなら、そのとき次のような問いを発しさえすればよいのであるから。
 “日本列島の全弥生遺跡中、文宇遺物が大量かつ集中して出土し、その地帯に文字認識のあったことを明確に証拠づけている領域はどこか”と。
 それは糸島・博多湾岸を中心とする「筑前中域」だ。そこからは前漢式鏡・後漢式鏡あわせて一二九面が出土し、全漢式鏡(一六八面)の約八割を占めている。そしてその半ばには“文宇が刻されている”のであるから。
 そのような“文字認識ある”地帯は、全日本弥生列島広しといえども、ここ筑前中域しかないのである。

 

 壁画古墳と石馬

 この十一月(一九七九)、肥後の装飾(壁画)古墳をまわった。博多の読者、西俣康さんの運転される車に乗せていただき、南は八代(やつしろ)の田川内(たのかわち)から、北は石貫(いしぬき)の穴観音横穴まで歴訪した。その中で感じたことを二つ、三つあげてみよう。
 古墳・横穴の壁画に描かれている器物(所在地は各一例のみ)をあげてみる。
 武器=矛(ほこ)・弓・矢(鍋田横穴)・刀(石貫ナギノ横穴)・靫(ゆき 城本横穴)・頭椎(くぶつち)の太刀(千金甲せごんこう古墳)
 鳥船=鳥船塚古墳
 馬=五郎山古墳
 旅を終え、家に帰ってから、『古事記』の中で“「天国あまくに」の器物”として書かれている品名を抜き出していた。そのとき、ふと気づいた。壁画中の器物と意外に共通しているのである。
 武器=天沼矛あめのぬぼこ・天之尾羽張(刀)・天之波波矢・天之麻迦古弓・天之石靫いわゆき・頭椎之大刀
 船=天鳥船
 動物=天斑馬あめのふちこま
 もちろん、すべて共通というわけではない。たとえば、壁画古墳出色のシンボルたる同心円文や蕨手文(わらびてもん)など、『古事記』にそれとして出現している風ではない。
 やはり『古事記』中で“「天国」の器物”とされているものは、弥生期、それも「弥生期前半」の様相をしめす(たとえば、「木綿」〈白丹寸手しろにきて・青丹寸手あおにきて〉は出てきても、「錦にしき」はない。これに対し、「弥生期後半」と見られる、三世紀卑弥呼の時代に「錦」の存在したことは、すでにのべた)。
 にもかかわらず ーー不思議にもーー 神話世界とこの壁画世界とは、明白に共有部分があるのだ。この点、“記・紀神話は、九州王朝の内部で、五・六世紀に記録され、『日本旧記』に集録されたもの”と見なす、わたしの立場に対し、興味深い“裏づけ”となっている。
 これに対して津出史学(及びそれにもとづく戦後史学)のように、記・紀神話を“六〜八世紀の近畿天皇家内の史官の造作”と見なす立場からは、どうだろう。近畿には壁画群は存在しないけれど、高松塚一つとってみても、すぐ感ぜられるように、『記・紀』の神話世界とは“似ても似つかぬ”風貌(ふうぼう)なのだ。
 ここにもまた、戦後の教科書を支配してきた津田史学の理念が、“実地の実証にそぐわぬ”現実 ーーその鋭い亀裂(きれつ)がある。
 次に石人・石馬。
 “石造物をもって墓を守衛する」この思想において、南朝劉宋(りゅうそう)と九州は共通する。同一の政治文明圏たる証(あかし)だ。すなわち南朝下の「倭の五王」の墓は、近畿天皇家の陵墓ではない。九州の石人・石馬をもつ古墳群だ”これがわたしの立場だった(『ここに古代王朝ありき ーー 邪馬一国の考古学』朝日新聞社刊、参照)。
 これに対し、貴重な「反論」を提供して下さったのが森浩一さんだ。“しかし、南朝に「石馬」はない。前漢(前二世紀)の霍去病(かくきょへい)の石馬やこれを「模作」した大夏(五世紀)の石馬、いずれも「北」にある。従って九州の「石馬」は、南朝の系列下の文物とは言えない”と(『古墳の旅』芸艸堂刊、参照)。
 だが、この森さんの視角には、二つの“盲点”があるのではないかと思われる。
 第一、南朝に現存する「獅子しし」の石獣は、「天子」の陵墓にふさわしい。これに対し、九州に現存する「石馬」は「将軍」たる身分にふさわしい。現に倭の五王たちは、安東大将軍等を授号されている(霍去病も前漢の将軍)。すなわち、“位取り”がそれぞれ双方に適合しているのだ。
 第二、南朝劉宋では、しばしば石人・石獣の禁止、とりこわし令が天子から出されている(宋書)。これが、南朝側に“配下の将軍たち”の「石馬」の現存しない理由である。以上だ。やはり、中国の南朝側と九州側、各々の墓を守衛する石造物群は、“両々相対応して”いたのであった。
 近畿の「天皇陵」古墳が南朝の文物と異なる点を指摘された森さんの、その問題提起に感謝したい(詳しくは「東アジアの古代文化」二二号、対談「日本古代の石造遺物」参照)。

 

 九州王朝 ーー卑弥呼の後裔

 いよいよ最終章をむかえた。昨年(一九七八)の埼玉稲荷山の鉄剣銘文発見の余波をうけ、忙しい一年半がつづいた。だが、探究者冥利(みょうり)に尽きることもあった。
 たとえば、銘文中に「〜大王寺、斯鬼宮に在り」とあって、すべての学者は困惑した。当然のことながら「〜宮に在り」とあればその主語は天子名や大王名そのものでなければならぬのだから。「明帝、東宮に在り」(魏志九)のように。「寺」を役所や朝延に解しただけで、おさまる話ではない。
 しかし幸いにも、わたしにとっては何の困難もなかった。「夷蛮いばん」の国王が“中国化”されてくると、中国風一字名称を名乗る。そのさいの定形は ーー烏累若[革是](うるいじゃくてい 民族名称)+単干(ぜんう 称号)+咸(かん 中国風一字名称)(『漢書』凶奴伝下)だと指摘してきたからである(『失われた九州王朝』第二章II)。
烏累若[革是](うるいじやくてい)の[革是](てい)は、JIS第三水準ユニコード97AE

 そして隅田(すだ)八幡の人物画像鏡にも「日十(ひと)大王・年」として、その定形が現われている、と指摘していた。従って今回も、何のまどいもなく、「加多斯 カタシロ大王かたしろ大王・寺」として“定形通り”に読みえたのである(なお、「寺」は「畤」〈シ。まつりのにわ。天地の神霊を祭る処〉などの省画という可能性もあろう。「左治」が「佐治」の省画であるように)。
 倭国における中国風一字名称は「壹与いちよ」にはじまっている。卑弥呼をついだ女王だ。「壹」は「倭」に代えて国号に用いたもの。“天子に対し、二心なく忠節”の意義をこめたものである。前回にのべた、『尚書』の「率俾そっぴ」(天子に臣服すること)に基づく「俾弥呼」の用宇法の伝統を継いだものと言えよう(「邪馬壹国」の「壹」も、この国号としての「壹」だ。「狗邪こや韓国」「[門/虫]越」などと同類の“中国表現法”なのである。倭国側で「ヤマイ」と発音し、一般に常用していたのではない)。とすると、「壹与」の「与」の字は、“中国風一字名称”そのはじまりだ(のちの「倭讃」〈宋書〉と同タイプ)。
 このような、わたしの積み上げてきた認識の石にピタリ“適合”する新発見に出会う。 ーーこれは探究者冥利(みょうり)に尽きた。

[門/虫](びん)越の[門/虫]は、門の中に虫。JIS第三水準ユニコード95A9
   ×     ×
 未見の世界へ一言、手をさしのべよう。
 第一、「邪馬壹国」は卑弥呼の時代の名称か、壹与の時代の名称か。
 第二、「邪馬壹国」の名称は、中国側がつけたものか、倭国側がつけたものか。
 これらの問いに答えてみよう。
 第一、「邪馬壹国」の名称は、壹与の時代の名称だ。なぜなら、この国号は「景初二年」といった魏(ぎ)の紀年項に現われるのでなく、「南、邪馬壹国に至る」という地の文に現われるからである。従って魏代(卑弥呼当時)でなく、『三国志』成立時点たる西晋(せいしん)代(壹与当時)の国号だということになる(『後漢書』の地の文の「邪馬台国」も三世紀時点でなく、『後漢書』成立時点〈五世紀〉の国号)。
 第二の問題は一層微妙だ。論理の歯車をおしすすめてみよう。答えはズバリ、“倭国側で作った「中国風国号」”だ。なぜなら、
 (1)「壹」は“中国の天子への二心なき忠節”をしめす字だから、倭国側造字にふさわしい。
 (2)先述のように、「壹与」の名も、倭国側造字だ。
 従って“「邪馬壹国」は「壹与」側の作った字面”そういう性格が濃いのである。“「邪馬壹国」の字面は、『三国志』の一版本だけ”いまだにそう信じている論者さえいるのだから、右の問題はあまりにも立ち入った分析かもしれぬ(当然ながら『三国志』は全版本とも、例外なく「壹」もしくは「一」)。
 しかし、反面、間断なく研究史は前進しつつある。先日も、愛媛大学の中小路駿逸さんからお便りをいただいた。中小路さんは「始めて知る、更に扶桑(ふそう)の東あることを」という、「日本」の使者に贈られた唐詩(八世紀)を紹介して下さった方だ(『関東に大王あり』創世記刊、参照)。これは“日本国(大和朝廷)は古来の倭国とは別国”という『旧唐書』の記述を裏書きする直接史料である。この「扶桑」とは倭国の雅名だ。
 今回のお便りに「いつか、ほんとに夜が明けるでありましょう」とあった。心ある人々の目には、在来説の無理が目立ってきているようである。たとえば、「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す、恙(つつが)きや」。この名文句は、多利思北孤(たりしほこ)という「男王」の国書だ。“その国は阿蘇山下にあり”とまで『隋書ずいしょ』は明記している。卑弥呼の後裔(こうえい)、九州王朝だ。その首(主語)だけをすげかえて「推古女帝」や「聖徳太子」の事蹟であるかのように、強引な“書き変え”を行なってきたのだ。かくも近畿天皇家一元主義のイデオロギーにぬりこめられた今日の教科書が、やがて書き直される日、それは意外にも、遠くないのかもしれぬ。 ーーわたしにはそう思われる。
  〈補〉「邪馬壹国」は、常用するときは「邪馬一国」でよい。


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邪馬台国論争は終わった=その地点から(『続・邪馬台国のすべて』)朝日新聞社 ヘ

邪馬壹国の史料批判(『邪馬台国の常識』松本清張編 毎日新聞社)ヘ

さらば「邪馬台国」よ 『よみがえる九州王朝』 へ

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