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『邪馬壹国の論理』


『「邪馬台国」はなかった』(ミネルヴァ書房
2010年1月刊行 古代史コレクション1

第二章 いわゆる「共同改定」批判

古田武彦

 一 禹の東治

 すべての「共同改定」を疑う

 倭人伝の中には、これまであやまりとされてきた個所が、「壹→臺」のほかにもいくつもあった。“
 倭人伝にはまちがいが多い”これが、「邪馬台国」学者の通念だったのである。
 この通念が、倭人伝を解読してゆくうえで、自分の説にとって都合の悪いところを、「これは原文のあやまり」として、軽々と「改定」するという、悪い癖を横行させたその根本原因だった。たとえば、「南を東に」「一月を一日に」というふうに。
 このように、別々の学者がほどこした別々の「改定」についてはあとまわしだ。今は、どの「邪馬台国」学者も共通して、「ここは原文のあやまり」ときめつけていた個所、つまり定説化している「共同改定」の個所を再検討しようというのである。
 その個所は三つある。
 第一は〈地名記事〉で、
  計其道里、当会稽東治之東
   (その道里を計るに、まさに会稽東治の東に在るべし)
の東は東のあやまりであるとするもの。

 第二は〈貢献年代〉で、
  景初二年六月、倭女王遣大夫難升米等郡、求天子朝献
   (景初二年六月、倭の女王、大夫難升米等を遣はし、郡に詣り、天子に詣りて朝献せんことを求む)
の景初二年は、景初三年のあやまりとするもの。

 第三は〈国名記事〉で、
  始度一海千余里、至対海国
   (はじめて一海を度る千余里、対国に至る)
  名曰瀚海
  (名づけて瀚海かんかいといふ、一国に至る)
の対国、一国がそれぞれ
  対国、一
のあやまりであるとするものである。
 いずれも、あまりにもささやかな「改定」に見えるだろう。
「治と冶」「二と三」「大と支」「海と馬」など、とるに足らぬことだ。 ーーおおような読者はそういうかも知れぬ。
 しかし、先にのべたように、まず「方法」の上で重要だ。倭人伝には“この種のあやまりが多い”ということになれば、学者はいっせいに、自説に都合のよいように、月を日に、南を東に、などの「改定」を各自はじめることになるからだ。つぎに実質の上でも重要だ。これらの「改定」 ーー実は「原文の書直し」によって、倭人伝全体に対する理解が大きく変ってきているからだ。つまり、倭国の位置についての地理観や方角観などに大きな「歪み」を与えているのである。さらには、倭人伝をつらぬく根本思想にも盲目にさせる、という重大な結果をもたらしているのである。
 その筆頭として、まず「会稽東治」の問題から入ってゆこう。

 

 会稽東治

  計其道里、当会稽東之東
  (其の道里を計るに、当に会稽東の東に在るべし)

 ここは、『三国志』各版本とも「治」だ。それを「冶」となおしたらどうなるか。「東冶」とよばれる地名があるのだ。
 地図を見よう(次ページ)。

会稽東治の東 に相当する領域図 いわゆる「共同改定」批判 『「邪馬台国」はなかった』 古田武彦 ミネルヴァ書房

 今の福建省[門/虫]侯(びんこう)県の東北、冶(や)山の北にある。ちょうど、台湾の北端の対岸に近い位置だ。
[門/虫]侯(びんこうの[門/虫](びん)は、門の中に虫。JIS第3水準ユニコード95A9

 では、「会稽東冶之東」とはどんな意味だろう。今まで、二通りの理解の仕方があった。
 第一は、「会稽から東冶までの東」という理解である。この場合、「会稽」とは杭州に近い会稽山だ。その緯度は、ほぼ九州南端の種子島・屋久島あたりの線。だから「会稽山から東冶県までの東」というと、倭国はほぼ九州南端から台湾北端にかけて存在することとなる。
 つまり、「南北に細長い島」である。“陳寿は日本列島をそのような形だと錯覚していたのだ”と考えるのである。
 第二は、「会稽郡の中の東冶県の東」という理解。『三国志』では、郡と県の関係が今の日本の反対だ。郡の中に県がある。いわゆる秦以来の郡県制度である。したがって、この書き方はたとえば「兵庫県神戸市」といったいい方と同じなのである。「兵庫県神戸市の東」といえば「結局神戸市の東」だ。同じように「会稽郡東冶県の東」といえば、結局「東冶県の東」ということなのである。
 この二つの理解の仕方は、どちらが正しいだろう。
 『三国志』全体を調べてゆくと、これはすぐわかった。『三国志』の大半は「列伝」の形で書いてある。つまり、三国時代の代表的な人物の伝記だ。伝記は、その人物の出身地から書きはじめられている。それは、たとえばつぎのようだ。
  董卓、字仲穎。隴西臨挑人也。
   (董卓とうたく、字は仲穎ちゆうえい。隴西ろうせい、臨挑りんとうの人也)〔隴西郡の臨挑県〕〈魏志六〉
  諸葛亮、字孔明。琅邪、陽都人也。
   (諸葛亮、字は孔明。琅邪ろうや、陽都の人也)〔琅邪郡の陽都県〕〈蜀志五〉
  劉鷂*、字正礼。東莱、牟平人也。
   (劉鷂*りゅうよう。字は正礼。東莢とうらい、牟平ぼうへいの人也)〔東莢郡の牟平県〕〈呉志四〉
劉鷂*(りゅうよう)の鷂*(よう)は、鳥の代わりに系。JIS第3水準ユニコード7E47

 この三つの例は、『三国志』の魏志・蜀志・呉志から任意に一つずつとったものだ。この書き方は、『三国志』のどこをパッと開いてもすぐ目につくといっていいほどなのである。つまり、地名を二つつらね、
 (A)地名(郡名)+(B)地名(県名)となっているとき、必ずそれは「A郡の中のB県」を意味するのだ。
 こうしてみると、先の第一の理解の仕方は全く無理だ。“陳寿は日本列島を南北につらなった形で理解していた”こういう発想がいかにその論者にとって魅力的であったにせよ、『三国志』の表記法の、この明快なルールを無視しないかぎり、こんな読み方は到底成立できない。
 そうすると、当然、第二の理解の仕方しかない。つまり、日本列島は台湾北端の緯度の線上に存在する、というのである。
 しかし、『三国志』の中をしらべてゆくうちに、この読み方もまた、結局成立できないことがわかった。それをハッキリさせる事実にぶつかったのである。
 それは、「呉志」にあるつぎの記事だ。
  (永安三年)以会稽南郡建安郡
   (会稽南郡を以て建安郡と為す)〈呉志三〉

 つまり、今の福建省(台湾の対岸)は、はじめ会稽郡の中に入っていた。ところが、永安三年(二六〇)会稽郡の南部にあたるこの地域は、「分郡」されて、建安郡と命名された。つまり、「郡名+県名」という、例のいい方からすると、永安三年以前は「会稽東冶」だが、この年以後は「建安東冶」としなければならない。
 しかし、理屈はこのとおりだが、『三国志』ははたしてそんなに厳密に書きわけているのだろうか。こう思って『三国志』全体をしらべていった。もちろん「会稽」・「東冶」・「建安」という言葉を一つ一つ抜き出してみたのである。
 結果は見事に出た。「永安三年」を境にキッパリと表記は分れている(次表に全用例をあげる)。

 

全用例

_____________________________
A 会稽(分郡より前)
(1).八月、会稽南部反す。〈呉志三〉(太平二年二五七)
(2).会稽の冶の賊、呂合・秦狼(しんろう)等、乱を為す。〈呉志十〉(太元二年二五二以前 ーー孫権の代)
(3).長子宏、会稽南部の都尉たり。〈呉志十二〉(太元二年以前 ーー同前)
(4).時に王朗、東冶に奔る。〈呉志十五〉(建安元年一九六)
(5).会稽東冶五県の賊、呂合・秦狼等、乱を為す。〈呉志十五〉(太元二年以前 ーー同前)
(6).会稽東冶の賊・随春、南海の賊・羅[厂/萬](られい)等、一時に並び起る。〈呉志十五〉(嘉禾四年二三五)
(7).鷂*(よう)の軍敗れ、儀、会稽に徙(うつ)る。〈呉志十七〉(太元二年以前 ーー同前)
羅[厂/萬](られい)の、[厂/萬](れい)は、JIS第3水準ユニコード53B2
劉鷂*(りゅうよう)の鷂*(よう)は、鳥の代わりに系。JIS第3水準ユニコード7E47

B建安(分郡以後)
(1).其の家属を建安に徙(うつ)す。〈呉志三〉(甘露元年二六五)
(2).督軍、徐存、建安より海道す。〈呉志三〉(建衡元年二六九)
(3).建安に送付して、船を作らしむ。〈呉志三〉(鳳皇三年二七四)
(4).建安に送りて、船を作らしむ。〈呉志八〉(元興元年二六四)
(5).抗、卒して後、竟(つい)に凱の家を建安に徙す。〈呉志十六〉(建衡元年二六九以後 ーー陸凱りくがいの死後)
(6).従兄の[示韋](い)と与(とも)に倶(とも)に、建安に徙す。〈呉志十六〉(天策元年二七五)
  [示韋](い)は、第4水準ユニコード7995

  〈注〉ただ、つぎの例は、後漢の代の「建安県」である。「漢興県」「南平県」と並ぶ。
   建安・漢興・南平、復た乱る。斉の兵を建安に進む。〈呉志十五〉(建安八年二〇三)

_____________________________

たとえば、永安三年より前の場合。

 (嘉禾四年〔二三五〕)会稽東冶賊・随春、南海賊・羅[厂/萬]等一時並起。
  (会稽東冶の賊、随春、南海の賊・羅[厂/萬]られい等、一時に並び起る)〈呉志十五〉

 これに対して、永安三年以後の場合。
 (鳳皇三年〔二七四〕)送付建安
  (建安に送付して船を作らしむ)〈呉志三〉

 このようにして、例外なく「会稽 ーー 建安」の表記は、一線によって明晰に画されているのである。“陳寿って人はなんて律儀なんだろう”こう思ったが、考えてみれば当然だ。「分郡」は公の行政問題だ。それをチャンと記載しておいて、それをまるで無視した書き方をするとしたら、・・・それこそ奇怪である。
 さて、このように表記のルールを確認した。そこで問題の個所を見てみよう。ここは永安三年より前か後か。
「その道里を計るに、当に・・・・に在るべし」

とあるように、これは著者の陳寿が地理的認識をのべた文だ。つまり、「地の文」なのである。だから、『三国志』の執筆時を当の時点とする文章だ。それは三世紀末、魏をうけつぎ、呉を併合した晋の時期なのである。もちろん、永安三年よりあとだ。そして、晋もまた呉の「分郡」をうけつぎ、会稽の南部を「建安郡」とよんでいた(晋書)。
 こうしてみると、ここを「会稽東冶」と改定したのはなんと、とんでもないまちがいだった。それが今は疑いようもなく判明することとなった。

 

 范曄の錯覚

 こんな明白なあやまりを最初におかしたのは、一体だれだろうか。
 その犯人はほかでもない、例の『後漢書』の范曄なのである。
  其地、大較在会稽東冶之東
   (其の地、大較おおむね会稽東冶の東に在り)

 ここでは明らかに「会稽東冶」とある。
 范曄は『後漢書』の倭伝を書いたとき、『三国志』の魏志倭人伝を文章構成上の主材料とした。倭人伝の文章にいろいろ取捨を加えて改定を行ないつつ、自分の文章を作っている。その一つとして、倭人伝の「会稽東治」を改定して「会稽東冶」としたのである。
 なぜ范曄はこんなミスをおかしたのか。むろん、根本は「永安三年の分郡問題」を見落とした点にある。これは、歴史家として致命的なミスだ。
 もっとも、范曄に対して同情すべき点が二つある。その一つは、一〜二世紀の後漢の時代には、東冶県はまさに会稽郡に属していたこと。その二つは、范曄の時代(南朝劉宋、五世紀)にもまた、「建安郡」という郡名はすでに行政上姿を消していたことである。
 つまり図にすれば次のぺージのようになる。

会稽東治〜建安東治〜会稽東治(一〜二世紀〜三世紀〜四世紀後半)うわゆる「共同改定」批判 『「邪馬台国」はなかった』 古田武彦 ミネルヴァ書房

 この事情が范曄の錯覚をさそったのである。しかし、一つの誤解は新しい誤解を生む。
 この范曄のささやかなあやまりは、二つのより重大なミスを誘発した。その一つは、『三国志』東夷伝の根本思想を見のがしたことである。これは次段にのべる。その二つは、里数概念の混乱である。これはもっとあとでくわしくのべることとなろう。
 今までの学者は、『後漢書』の范曄の権威に従いすぎ、『三国志』の文面を軽く見すぎていたことが、ここでも白日のもとにさらされることとなった。

 

 会稽王の教化

「では」と読者は問うだろう。「原文の“会稽東治(とうち)”なら、一体どういう意味になるのか? もともとそれが解けないから、“会稽東冶”と改定したのじゃないのか?」と。
 そのとおり。わたしもはじめはわからなかった。
 しかし、くり返し原文を見つめているうちに、ある日、つぎの個所にわたしの目はとまった。

 男子は大小と無く、皆[黒京]面文身(げいめんぶんしん)す。古より以来、其の使中国に詣るや、皆自ら大夫(たいふ)と称す。
 夏后少康の子、会稽に封ぜられ、断髪文身、以て蛟龍(こうりゅう)の害を避けしむ。今倭の水人、好んで沈没して魚蛤(こう)を捕へ、文身し亦(また)以て大魚・水禽(すいきん)を厭(はら)ふ。後稍ゝ(やや)以て飾りと為す。諸国の文身各ゝ異なり、或は左にし或は右にし、或は大に或は小に、尊卑差有り。其の道里を計るに、当に会稽の東治の東に在るべし。

 「会稽東治」の句のすぐ前にも「会稽」が出てくる。とすると、二回目の「会稽」は一回目の「会稽」をうけているのではないか。 ーーこう考えるのは、文脈理解の上で常道だ。
 この、わかりきったことが端緒となって糸はほどけはじめた。
「夏后少康」とは、夏の中興の英主とされている少康のことである。その子が会稽の王に封ぜられた。かれは水辺の民が蛟龍の害に悩んでいるのを見て、「断髪文身」つまり長髪を切り、身体にいれずみすることによってその害を避けることができる、と教えたというのである。
 ところが、今(三世紀、陳寿のころ)、倭人はこれと同じく、「大魚・水禽」の害をはらうために「文身」をしている、という事実に陳寿は着目した。そしてかれはその間に、今日の言葉でいえば「文化史的交渉」の存在を推量したのである。つまり、これは夏の感化が倭人に及んでおり、それが風習化して、今も倭人の中に伝えられているのであろう、と推定しているのである。
 このような関係の文脈で書かれた「会稽東治」だ。この「東治」の「治」は、直接には少康の子の「会稽王」としての「治績」をさしているのである。その君主の治績が倭人に及んでいた、というのであるから、これはもう「文化史的交渉」というような、間接的ないい方では適切でないかもしれぬ。
 夏の政治上の統治・感化が直接倭人に及んでいた。 ーーこれが陳寿の歴史観だったのである。
 このように理解すると、ここはやっぱり「東冶」などではなく、原文どおり「東治」でなければならぬ。この場合、「東治」は前文をうけているのだから、
 “一つの語句は、そこにいたる文脈のつながりの中で理解されねばならぬ” これは、いわば文章理解上のイロハであるにもかかわらず、人々は永くこれに目をつむってきたのである。

 

 訓読上の誤解

 このようにきわめて自然な理解が、従来、なぜ見すごされてきたのか。それには、ささやかな訓読上の誤解が影響を与えていたものと思われる。
 先の文中、「断髪文身、以避蛟龍之害」について、わたしは
  断髪(だんぱつ)文身、以て蛟龍(こうりゅう)の害を避けしむ

と読んだ。しかし、従来ここは
  断髪文身、以て蛟龍の害を避く。

と読むのが通例だった。たとえば、岩波文庫本の『魏志倭人伝』(和田清・石原道博編訳)も、そう読んでいる。
 むろん、原文には「使・令」といった使役の助動詞はない。だから、「以て ーー 避く」と読むのも、不思議はない。しかし、『三国志』全体の中には、この「以」をもつ文形によって「以て ー せしむ」という、使役の用法」をあらわしている所が多いのである。
 たとえば、東夷伝序文末尾の
  故撰次其国、列其同異、以接前史之所備焉。
   (故に其の国を撰次して、其の同異を列し、以て前史の未だ備へざる所に接せしむ

は、明らかに「使役の用法」として訓読すべきものである。『三国志』に限らず、一般の訓読法でも、このような「使・令」といった文字なしの使役文形の用法は認められているから、文法上には問題はない。
 だから、「使役」とみなすかどうか、という判別のキイ・ポイントは、前後の文脈上どちらが適切か、という解釈の問題にかかっているわけである。
 そこで、まず「以て ーー 避く」と読んだ場合を考えてみよう。
 少康の子自身が、「断髪・文身」というやり方で「蛟龍の害」を避けていた。今、倭人はこれと同じ風習をもっている。だから、“倭人はあるいは少康の子のやり口を学んだのではないか”と陳寿が考えたこととなる。
 つぎに、「以て ーー 避けしむ」の場合。
 少康の子が会稽王に封ぜられて、ここに統治を布いていたころ、水辺の民が蛟龍の害に悩んでいた。そこでかれは、「断髪・文身」すれば蛟龍の害を避けられる、と考え、この方法を水辺の民に教えた。その教化を倭の水人も学び、今に伝えている。こういうふうに陳寿が考えていることになるのである。
 この二つの状況を考えてみると、第一の理解はいかにも“漫画的”だ、といったらいいすぎだろうか。「会稽に封ぜらる」とあるのだから、会稽という封国の王だ。そして、夏の六代の天子少康の子というような人が、水中で魚をとる趣味でもあったのか、その趣味のために断髪した上に身体に「いれずみ」までするとは!
 これは、いかに古代とはいえ、あまりにも奇怪だ。冷静に考えれば、「断髪文身」は、水辺の漁人の風俗ではあっても、王自身のそれではない。
 それでは、と読者は問うだろう。断髪文身などという方法で、本当蛟龍の害が避けられるのか。そうでなければ、王がその方法を教えるなどということは無意味ではないか」と。
「蛟龍」とはなんだろう。むろん、恐竜時代の魚竜の類ではない。「水大なれば則ち蛟龍有り」という『呂覧りょらん』の文に対する注として、「魚二千斤に満つれば蛟となす」とあるように、大魚・水禽の類なのである。
 このような大魚の類に対して、断髪・文身ははたして有効であったのか? その有効性の判定はむつかしい。しかし、現代人の頭で“そんなもの!”と笑いとばすことが、はたして事の真相をついているか、疑問だ。
 なぜなら、漁師は赤いふんどしをつけていて、難船したときにはこれを長くたらし、ふかの難をさけるという。この話を、わたしはかつて室戸岬近くに住む老人から実地に聞いたことがある。とすると、まだこのような染料や布類のとぼしかった時代、文身もまた同じ目的のために有効でなかったとは断言できないであろう。
 まして難破のとき、破砕された木材や漁具の間をただよいながら、髪をからまれる危険を思えば「断髪」も軽々にその有効性を笑えぬであろう。少なくとも、戦時中の学徒工場動員のさい、女子学生が一瞬のすきに機械の中に髪をまきこまれていったのを隣に見たわたしにとって「断髪」の一句無意味の語として笑い去ることができないのである。
 このように考えてみると、「断髪・文身」は水辺の漁民にとって、不慮の危難をふせぐための、現実的であり、かつ切実な方法でありえたという可能性は無視できないのである。むろん、漁師たちにこの知恵を教えたのは、難船をのりこえてきた経験をもつ老漁夫であろう。むしろ、代々の「難破」こそ「凶暴な教師」であったと思われる。しかし、それを有効な方法として為政者が一般に勧奨し、普及させようとした、ということなら大いにありうることなのである。少なくとも、陳寿はそのようにみなして記述した、と理解することは、もっとも理にかなったことであろう。
「昔、会稽に断髪・文身という風変りな奇癖をもった王がいて・・・・」というような読み方より、はるかにつじつまがあっているのではあるまいか。
 こうしてみると、ここはやはり「以て ーー 避けしむ」と、使役形として訓読するのが正しいことがわかる。そうすると、これは純然たる治政(ちせい)・治績(ちせき)の問題となり、このあとの「会稽東」の用法にズバリつながってゆくのである。

 

 呉の太伯

 中国史書の最初の大著『史記』の中にも、この「断髪・文身」の話が出てくる。
 周の太王に三人の子があった。「太伯たいはく・仲雍ちゆうよう・季歴きれき」である。例の「伯・仲・季」の順位表示のついた名前だ。この中の末子季歴に昌という子があった。のちに周の文王として聖徳をうたわれ孔子に慕われた王者である。太王はこの昌を愛し、「季歴 ーー 昌」の系列に天子の位をゆずろうとした。この父の意志を察した長男の太伯は、呉の地(会稽山近辺)に行き、身をかくした。
 そこで
  文身断髪、示用。
   (文身断髪して、用ふ可からざるを示す)

と書いてある。
 これは明らかに、太伯自身が「文身・断髪」しているのである。この故事をとらえて、「夏后少康の子」や「呉の太伯」たち王侯が、みずからこのような習癖をもっていたかのようにのべてある本もある。
 しかし、これは明らかに『史記』の文の読みちがいだ。ここに「用ふ可からざるを示す」とある点がポイントだ。
 つまり、太伯は自分が長男ながら父の意を知って、天子の座を辞退せんとして都を去り、僻地にやってきた。しかし、それだけではまた老臣たちから「長男として」天子になることを求めて都によびかえされるのをおそれ、そのような都からの要望を決定的に断ち切るために、「文身・断髪」したのである。“もう自分は天子などにはなりえない身となったのだ”ということを示したのである。つまり、ふたたび都の貴族階級の中に復帰することを永久に拒否する、という意志を肉体の中に刻みこんだのである。いいかえれば、これは会稽の水辺の民とみずからを生涯等しゅうする、という意思表示なのであった。
 すなわち、この「美談」説話の背景をなすものは、「文身・断髪」は僻地水辺の統治階級の風俗であり、この風俗をもつものは、絶対に天子のような統治者にはなれない、という階級峻別の思想なのである。
 したがって、この文のあと、
  荊蛮義之、従而帰之。
   (荊蛮けいばん之を義とし、従ひて之に帰す)

とあり、荊蛮(会稽の地の原住民)が、この決断を行なった太伯の清潔な人格を慕い、これになついた、と書かれているのである。
 だから、この説話からすると、周代にはすでに、会稽水辺の民に「文身・断髪」の風習が存在していたことが示唆されている。
 逆に、この『史記』の記事から、周代には王侯も「断髪・文身」する風習をもっていたのだ、と考えたら、全く逆立ちの理解というほかない。

 

 禹の東巡

 「会稽東治」という一句は、その前文をうけて用いられている。以上によってそれが判明した。つまり、原句があやまりでなかったことがハッキリしたのである。
 しかし、陳寿は単に「いれずみ」の歴史的由来を推測するためだけに、この句を使ったのだろうか。こういう問いに立って『三国志』全体をかえりみると、かれ独自の歴史的世界観がこの句のバックになっていることを見いだすのである。しかも、それは倭人伝成立の根拠を示しているのだ。
 この問題を明らかにするために、しばらく『三国志』の構成を見つめてみよう。
『三国志』に魏志・蜀志・呉志が分れているのは、先にのべたとおりである。この三者は対等ではない。魏志以外に「帝紀」の存在しえないことはすでにのべた。このことは、魏志にだけ夷蛮伝があることとも表裏をなすものである。なぜなら、夷蛮とは“中国の外にあって、しかも中国の天子に忠勤をつくすべき存在”だ。これが中国伝来の夷蛮観である。だから「烏丸うがん・鮮卑せんぴ・東夷とうい伝」という夷蛮伝が魏志の末尾におかれている。そして巻頭の「帝紀」と相対せしめられているのである(当然、呉・蜀に対しても、事実としては西・南辺の夷蛮から貢納はあった。しかし、その場合は夷蛮伝を特立せず、もよりの列伝の中に記述するにとどめているのである。たとえば呉志四、士燮(ししょう)伝の華麗な貢納などはその例である)。
 ところで、『三国志』の夷蛮伝は二つの部分から成っている。第一は「烏丸・鮮卑伝」であり、第二は「東夷伝」である。陳寿はそれぞれに序をつけている。ここに夷蛮伝に対するかれの記述の立場が明らかにされており、二つの序文の内容はきわめて対照的である。
 第一の序では、烏丸・鮮卑等北・東北辺の種族は凶奴(きょうど)などと同じく、ながく中国の外患となってきた、と陳寿はいう。「久矣、其中国患也」(久しいかな、其れ中国の患たるや)という冒頭の一句は、あざやかにその主題を示しているのである。
 これに対し、第二の序では東夷が忠実に中国に対して貢納してきたことをのべている。
 この東夷伝序文は、倭人伝を解く鍵だ。著者が“なぜ東夷伝を書いたのか”を説明している文章である。しかも、その焦点は倭人伝にある。そのことを明らかにしているのである。したがって、ここにのべてある視点から倭人伝を見なければ、「陳寿の目を通しての倭人伝」を知ることはできないわけだ。それなのに、従来の倭人伝研究では、この序文は不当に軽視されている。倭人伝なら全文熟知しているような読者でも、案外、この東夷伝序文には不馴れな人が多いのではなかろうか。
 それほど長いものではないから、今、全文の書き下し文とその大意をつぎにあげてみよう。

〔東夷伝序文 全文〕
 (A) 書に称す、「東、海に漸(いた)り、西、流沙に被(およ)ぶ」と。其の九服の制、得て言ふべきなり。然して荒域の外、重訳して至る、足跡・車軌*(しゃき)の及ぶ所に非ず、未だ其の国俗・殊方(しゅほう)を知る者有らざるなり。
   軌*は、[車几]。車偏に几。JIS第3水準、ユニコード4844

 (B) 虞(ぐ)より周に曁(いた)る、西戎(せいじゅう)、白環之献有り、東夷、粛慎の貢有り。皆世を曠(むな)しうして至る。其の遐遠(かえん)なるや、此の如し。
  漢氏の張騫(ちょうけん)を遣はして西域に使ひせしむるに及び、河源を窮め諸国を経歴し、遂に都護を置き、以て之を惣領せしむ。然る後、西域の事具(つぶさ)に存す。故に史官詳載するを得。
  魏興り、西域尽(ことごと)く至る能(あた)はずと雖(いえど)も、其の大国、亀茲きじ・干[宀/眞]うてん・康居こうきょ・鳥孫うそん・疎勒そろく・月氏げつし・善*善ぜんぜん車師の属、歳として朝貢を奉らざる無し。略(ほぼ)漢氏の故事の如し。
  而(しか)るに公孫淵、父祖三世に仍(よ)りて遼東を有す。天子其の絶域の為めに、委(ゆだ)ぬるに海外の事を以てせしも、遂に東夷を隔断し、諸夏に通ずるを得ざらしむ。
   [宀/眞]は、ウ冠に眞。JIS第3水準ユニコード5BD8
   善*は、善に邑(おおさと)編。JIS第3水準ユニコード912F

 (C) 景初中、大いに師旅を興して淵を誅す。又軍を潜し海に浮び、楽浪・帯方の郡を収む。而して後海表謐然(ひつぜん)として、東夷屈服す。其の後、高句麗背叛す。又偏師を遣はし、討窮を致し、極遠に追ひ、烏丸・骨都を踰(こ)えて、沃沮を過ぎ、粛慎の庭を践(ふ)み、東、大海に臨む。長老説くに「異面の人有り、日の出ずる所に近し」と。
 
 (D) 遂に諸国を周観し、其の法俗を采(と)るに、小大区別し、各(おのおの)名号有り、得て詳紀すべし。夷狄(いてき)の邦と雖も、爼豆(そとう)の象存す。中国礼を失するも、之を四夷に求むるに、猶信あり。
  故に其の国を撰次して、其の同異を列し、以て前史の未だ備えざる所に接せしむ。

〔大意〕
 (A) 『書経』に、禹(う)の「五服」の制をしめくくる言葉として、「東、海に漸(そそ)ぎ、西、流れに被(およ)ぶ」という。この「五服」の拡充としての「九服」の制。それは「夷蛮朝貢」の変りなき典範であるが、われわれは、実地に夷蛮の地に至り得てこそ、その実質をいうことができるのである。
 (B) 舜より周までは、西域・東夷の朝貢は絶えなかった。ところが、その後、西域の場合は、漢の張騫が異域の実地に遠く使した働きによって、漢・魏にいたるまでこれらの国々の朝貢は続いている。
  これに反して、東夷の場合は、遼東の公孫淵の反乱により、東夷朝貢の道が断たれた。
 (C) そこで、景初年間、魏の明帝は軍を発して公孫淵を討った。さらに、魏の軍は高句麗等を追って、東の方大海を臨むところに至った。ところが長老が説くに、「異面の人がいる。かれらは日の出る所に近い」と。
 (D) そこで東夷の諸国を見わたすと、夷狄の国であっても、礼儀を保っている。「中国が天子に対する礼を失っても、四夷の方がなお天子への信をいだいている」と聖人がいったとおりである。
  故に、この国々のことをのべ、前史『史記』『漢書』の欠けている所に続かせようとしたのである。

 今、右の文中、注目すべき点をとりあげてみよう。まずこの序は、『書経』の句「東、海に漸り、西、流沙に被ぶ」の句の引用からはじまる。これは、「夏」の禹の治績をしめくくった有名な句である。堯・舜・禹の三代の治でよく知られている禹であるが、かれは会稽山に諸侯を集め、「五服」の制を布き、夷蛮が中国の天子に対して朝貢すべき礼の基準を定めた、といわれる。『書経』における禹の治政をしめくくった句がこれなのである。この句は、『史記』『漢書』と禹の話をのべるとき、必ずうけついで書かれている。
 今、『史記』の文をあげてみよう。
  〈本文〉
  帝禹東巡し、会稽に至りて崩ず。
   〈著者司馬遷の付言〉太史公曰く、「・・・・虞夏ぐかの時より、貢賦備はる。或は言ふ。禹、諸侯を江南に会し、計功して崩ず。因りてここに葬る。命じて曰く“会稽せよ”と。会稽は会計なり」

 この禹の創始した「五服」の制を拡充したものが、周代の「六服」「九服」の制である。陳寿はこれを、今にいたるも変りのない夷蛮朝貢の典範だ、というのである。
 つぎに注目すべきは、長老の言として引用された「異面の人」に関する説である。ここは(A)起、(B)承、(C)転、(D)結という模範的な構成のこの文において「転」の部に当り、この序文の眼目となっている。
 この「異面の人」は明らかに、顔にいれずみをした「[黒京]面」の民たる倭人をさしている「日の出ずる所に近し」という表現も、中国側の人の表現として適切であろう。この「長老」とはどこの長老だろうか。倭人を「日出」の方角として認識しているのだから、中国の長老、それも首都洛陽や江南地方(会稽山を中心とした地域)などの長老であろう。しかも、ここに「長老の伝承」としたことによって、「倭人に対する認識」が代々伝承されてきたことを、陳寿は示唆しているのである。
 第三に、結びとして陳寿は孔子の言をうけて、、中国に礼が失われても、かえって夷狄の方が信をたもっている」ということをのべている。この思想は、のちにくわしくのべるように、すでに『漢書』の倭人項がこの思想(孔子の言の引用)に立ってのべられている。ここでいう「礼」も「信」も、一般的な対人関係の道徳ではなく、天子に対する忠節をさしている。三国時代、魏は、劉備や孫権を蜀賊、呉賊と称した。正統の天子たる魏朝に従わないからである。『三国志』もこの立場に立っている。つまり、中国内部でも、三分の二は正統の天子に背叛して「礼」を失い、「信」を捨てているのである。これに対し、倭人は景初年間、遠路はるばる正統の天子である魏朝に貢をもってきた。これこそ、禹の定めた「五服」の制を倭人が今に伝えてきたことのあらわれだ。
 陳寿はこのようにのべているのである。
 この理解は、東夷伝全体の中で、倭人伝を除けば朝貢の記事が異常に少ないことによって裏打ちされる。今、そのすべてをあげよう。
 (1) 漢の光武帝八年、高句麗王使を遣はして朝貢す。始めて見(まみ)え、王と称す。〈高句麗伝〉
 (2) 又、果下馬(かかば)を出す。漢の桓の時、之を献ず。〈穢*伝〉
 (3) 其の(正始)八年、闕(けつ)に詣(いた)りて朝貢し、詔して更に不耐穢*王(ふたいわいおう)に拝せらる。居処雑(まじ)りて民間に在り。四時郡に詣りて朝謁す。〈穢*伝〉
 (4) 漢の時、楽浪郡に属す。四時朝謁す。〈韓伝〉
 (5) 其の俗、衣[巾責](いさく)を好み、下戸、郡に詣りて朝謁す。皆衣[巾責]を仮して自ら印綬(いんじゅ)・衣[巾責]を服す。千有余人なり。〈韓伝〉
   [巾責]は、JIS第三水準、ユニコード5E58
   穢*は、禾偏のかわりに三水偏。JIS第三水準、ユニコード6FCA

 この五項目が、東夷伝中の朝貢記事のすべてだ。その中でも、具体的に魏の年時を記した記事は(3)の穢*伝の記事だけなのである。これにくらべると、倭人伝の卑弥呼の景初二年、正始四年、および壹与の壮麗な貢献がいかに東夷伝中の自眉をなすか、一目瞭然だ。
 そのうえ、正始元年、正始八年には中国側からの遣使と告諭の記事がのせられている。魏の倭国への関心の深さを示すものである。
 わたしたちは、「倭人伝などといって、日本では大げさに騒ぐけれども、『三国志』全体という中国側の視点から見れば、倭人伝の記述など大した位置を占めていない」という声を時に耳にすることがある。しかし、これは『三国志』の事実に反する。倭入伝は『三国志』全体の中で一種ユニークな位置を与えられている。魏・蜀・呉三国対立への批判の「外心」をなし、魏志をしめくくっているのである。
 魏志は、『三国志』の中心軸である。その中心軸の結尾をなす位置に、倭人伝はおかれているのである。
 このようにしてみると、禹の「五服」の制を今に伝統し、孔子の予言のように中国内部に天子の礼が失われても、辺遠にあってこれを守ったもの、 ーーこれがどの国か、疑いの余地はないであろう。「異面の民」たる倭人がこれである。
 このような陳寿の東夷伝執筆の思想的立脚地から見ると、倭人伝の中に倭国の位置を「会稽東治の東」と記した、その消息はおのずから明らかであろう。
 先にのべた夏后少康は「夏」の中興の英主とされる。その「夏の始祖」こそ禹である。禹が会稽山に治績を大いにしたことを、古来「東巡」「東治」の名をもって示した(禹の都は、黄河の上流長安のあたりと伝えられる。ここから見れば、揚子江下流域は、「南」や「東南」でなく「東」というのがもっともふさわしい)。
 すなわち、夏の始祖禹は、東巡して会稽山にいたって「五服」の制を布き、神聖なる「東治」のもと、夷蛮を教化した。実に、その遺風を倭人が今に伝統している、と。
 「会稽東治」 ーーこの簡潔な一句によって、陳寿は『三国志』東夷伝をつらぬく思想性を表現しようとしていたのである。

 このように論証しきたった今、ふたたび『後漢書』の范曄をふりかえろう。かれこそ、「会稽東冶」と改定した最初の人だった。
 かれは、一面では「永安三年」という分郡の画期線に注意をおこたったとともに、反面では、『三国志』の基本をなす思想性を見すごしてしまったのである。歴史家として、致命的な失錯である。しかも、令名ある『後漢書』の著者であったから、その過失の影響は後代にまであまりにも遠くかつ大だった。ために、『三国志』の深い意味を蔵した「会稽東治」という原句まで、現代のすべての学者によって、「会稽東冶」と改定され、陳寿の地理的認識に対し、永く無実の罪を着せることとなったのである。
 さらにこの点を掘りさげてゆくと、「邪馬壹国」という表記の由来が明らかになってくる、という瞠目すべき問題の拡がりをもっているのである。しかし、このテーマの叙述ももはや長くなりすぎたから、それはいったんあとにまわし、つぎの局面に進もう。

 

二 戦中の使者

景初二年/五つの疑いを解く/明帝の急死/太平の史家/景初三年鏡への疑い

 

三 海彼の国名

対海国と一大国/国境の地名考


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『邪馬一国の証明』

『邪馬一国への道標』

『邪馬壹国の論理』

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