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古田武彦
邪馬壹国のありかがわかったら、“もうそれでいい”という読者もあろう。
しかし、それでは本当にこの国の真相を徹底的におしつめてゆくことにはならない。
前に「邪馬臺国」という改定名称はあやまっていることを論証したとき、“「臺」は『三国志』において、天子の宮殿とその直属の中央官庁を意味している。そんな神聖至高の文字を「邪・馬」といった卑字に連続して使うはずがない”といった。
それでは、原文の「壹」という字はどんな意味をもっているのだろう。つまり、中国側がこのような表記を行なった理由はなにか。これが今から解こうとする問題である。
『三国志』において、「壹」という文字は特別の由来(ゆらい)をもっている。それは、一に歴史的由来、二に同時代の政治状況にもとづく理由である。
まず、歴史的由来についてのべよう。
「会稽東治」の項(一二三ページ以下)でのべたように、陳寿は、禹のはじめた「五服」の制を夷蛮統治の基準とみなしていた。その「五服」は、周代に「六服」「九服」の制としてうけつがれた。
この古制は、陳寿の「東夷伝序文」にも最初に特記されている。
その「六服」の制の叙述の中に、「壹」字が反復使用されている。
邦畿は方千里、其の外は方五百里、之を侯服と謂ふ。歳に壹見す。其の貢は祀物。
又、其の外、方五百里。之を甸でん服と謂ふ。二歳に壹見す。其の貢は嬪ひん物。
又、其の外、方五百里。之を男服と謂ふ。三歳に壹見す。其の貢は器物。
又、其の外、方五百里。之を采服と謂ふ。四歳に壹見す。其の貢は服物。
又、其の外、方五百里。之を衛服と謂ふ。五歳に壹見す。其の貢は材物。
又、其の外、方五百里。之を要服と謂ふ。六歳に壹見す。其の貢は貨物。
〈『周礼』秋官、大行人〉
このように、諸侯・夷蛮が中国の天子に貢献することを「歳に壹見す」「二歳に壹見す」・・・・・「六歳に壹見す」というふうに、「壹見」の用語をもってあらわしている。「天子に対し、二心なく、相見まみえる」という意義である。
このような『周礼』の用字法は、のちの史書にもうけつがれた。
三歳に壹朝す。 〈『漢書』西南夷両粤えつ朝鮮伝、六十五〉
数歳に壹反す。 〈『漢書』地理志、八下〉
数年にして壹至す。 〈『漢書』西域伝、六十六〉
夷蛮の王の、中国の天子に対する貢献について、「壹朝」「壹反」「壹至」というように、いずれも「壹」字を用いた熟語で表現している。こうしてみると、『三国志』倭人伝中の左の表記も、深く歴史的由来を負うた用字法であることが知られよう。
其の(正始)四年、倭王、復た使大夫伊声耆・掖邪狗(えきやこ)等八人を遣はし、生口・倭錦・絳青[糸兼]こうせいけん・緜衣めんい・帛布はくふ・丹・木拊*もくふ・短弓矢を上献せしむ。掖邪狗等、率善中郎将の印綬を壹拝す。 〈倭人伝〉
[糸兼]は、糸偏に兼。JIS第3水準ユニコード7E11
拊*は、手偏の代わりに獣偏
つまり、倭人が禹の遺制・感化を守り、「中国正統の天子」にむかって、「遠夷朝貢」しきたったことを示す簡古な記述。それが、この「壹拝」の「壹」字使用の意義なのであった。
(わたしは、はじめ、第一論文「邪馬壹国」を書いたときは、この「壹」を「ひとしく」という意味に理解していた。この文字の、深い歴史的由来を見のがしていたのである)。
つぎに、魏の同時代における状況を見よう。『三国志』において、一番憎悪された文字は「貳に」である。この文字は、すでに『左伝』等において「盟からの離脱と他への加入」を示す用語として使用されている。
(小倉芳彦「貳と二心 ーー『左伝』の『貳』の分析」〔中国古代史研究第三所収〕では、藤堂明保の「貳」字に対する解「ハナレル・クッツク」をもととして、『左伝』の実例を検討している)。
この点、三国相対立し、離反・内応が絶えることのなかった三国期においては、この「貳」を悪徳としてにくむこと、はなはだしいものがあった。したがって、『三国志』中、この文字は左のように頻出している。
(1) 今仁等、重囲の中に処(お)りて死を守りて貳無き者なり。 〈魏志二十二〉
(2) 欽も亦感戴し、心を投じて貳無し。 魏志二十八〉
(3) 比能は別の小帥瑣奴(さぬ)をして豫(よ)を拒ましむ。豫進んで討ち、破りて之を走らしむ。是に由りて貳を懐く。〈魏志三十〉
(4) 其の国を挙げ、孤を諸葛亮に託するに及びて、心神貳無し。〈蜀志二〉
(5) 民夷、業に安んじ、或(うたが)ひ、攜貳(けいじ)する無し。〈呉志二〉
(「攜貳」は「はなれてうたがう」「そむきはなれる」こと)
(6) 姦讒(かんざん)、並び起り、更に相陥[對/心](あいかんたい)し、転じて嫌貳(けんじ)を成す。〈呉志七〉
(「姦讒」は「よこしまにそしる」、「陥[對/心]」は「おとしいれ、うらむ」、「嫌貳」は「うたがう」こと)
(7)孫[糸林](そんりん)、政を秉(と)り、大臣疑貳(ぎじ)す。〈呉志十〉
(「疑貳」は「うたがい、はなれる」)
(8)甘心景従(えいじゅう)、衆、擁貳する無し。〈呉志十六〉
(「甘心」は「満足するさま」、「景従」は「つきしたがうさま」)
[對/心]は、對の下に心。JIS第4水準ユニコード61DF
[糸林]は、糸偏に林。JIS第4水準ユニコード7D9D
これらの文面には、三国時代の支配者がいかに臣下や被統治階級の「貳」をおそれ、不安としていたかがありありとあらわされている。これはもちろん、いつの時代もかわらぬ「支配者の心理」ではあろう。しかし、三世紀の三国対立した軍事・政治状況が、その警戒心を一段と深刻化していたのである。
このように警戒され、排斥された“悪徳”である「貳」の反対語が「壹」である。すなわち、「貳無し」にとどまらず、積極的に臣下最上の徳目をしめす言葉こそ「壹」にほかならぬ。
右のように、「貳」がいつも警戒されねばならぬ同時代の政治状況下においてこそ、倭国の「遠夷朝貢」が魏朝の特別の歓迎をうけたのである。そして倭王の、中国の天子に対する、二心なき忠誠心を、『周礼』の「六服 ーー 壹見」以来の、由緒深い「壹」の字をもって、賞揚されることとなったのである。
これが「壹拝」の用字、「壹与」「邪馬壹国」という、「壹」字を使った語句が倭人伝中に頻出している、その思想的背景をなすものであった。
魏晋朝の「壹」字への好みは、ただ倭国に対してむけられただけではない。倭人伝末尾に裴松之の引文した『魏略』に、つぎの文がある。
西且弥(しょび)国・単桓(たんかん)国・畢陸(ひつりく)国・蒲陸(ほりく)国・烏貧(うどん)国、皆、車師後部王に并属(へいぞく)す。王、干頼(うらい)城に治す。魏、其の王壹多雑(いちたざつ)に守魏侍中を賜ひ、大都尉と号せしめ、魏王の印を受けしむ。
周辺の国々を統属し、朝貢してきた、この車師後部の王に対し、魏朝は「壹多雑」という表記を与えている。莫大な貢をもって朝貢してきた東なる倭国の女王に対し、「壹与」という表記が与えられたのと、東西、軌を一にしているのである。
前者は「多雑」、後者は「与」の字が「壹」字のあとにつづいている。いずれも“各種の小国”“幾多の与国”を意味する字面だ。すなわち、それらを統属して、魏晋朝の天子に対し、二心なく忠節をつくしてきた、という意義があらわされている。
もって、魏晋朝が「遠夷朝貢」の夷蛮の王に対し、好んでこの「壹」の字を表記として用いた状況が知られよう。
このようにしてみると、東夷伝中「天子にむかって二心なき朝貢」という事実が特筆大書された倭国に対し、「邪馬壹国」という表記が用いられたのは、けっして偶然ではないことが知られるのである。
以上のように、魏晋朝にむかって朝貢してきた国の国名や王名に「壹」字を用いてあらわす表記法には、対照的な先例がある。
それは、「貳」字を用いた国名・王名表記である。
西域中、「貳師」という国の存在は有名だ。この国が匈奴と漢との間において、離反をくり返した話は、『漢書』中しばしば語られている。すなわち、漢側の視点から見た場合、この国は「貳」という字をあてるにふさわしい存在として映じていたのである。
事実、陳寿も、『三国志』鳥丸・鮮卑伝序文において、
西、貳師・大宛を討ち、叩*竿*(きょうさく)。夜郎の道を開く。然るに皆、荒服の外に在り。
叩*は、口偏の代わりに工。JIS第4水準ユニコード736C
竿*は、干の代わりに乍。ハはなし。JIS第4水準ユニコード7B7E
とのべて、中国に背叛して西討をうけた国として、「貳師」を叙述している。
また、『漢書』西域伝(下)冒頭の鳥孫伝中に「日貳」という名があらわれている。
星靡(せいび)死し、子の雌栗靡(しりつび)、代つて小昆弥たり。烏就屠死し、子の拊離(ふり)、代つて立つ。弟の日貳の為に殺される。漢、使者を遣はして、拊離の子、安日を立てて小昆弥為り。日貳亡(に)げて唐居に阻む。漢、已校屯(いこうとん)を姑墨に徒(うつ)し、候(うかが)ひて便(すなわ)ち討たんと欲す。安日、貴人姑莫匿(こばくとく)等三人をして詐(いつわ)り亡げしめ、日貳に従ひて之を刺殺せしむ。都護の廉襃(れんほう)、姑莫匿等に金人二十斤・繪三百匹を賜ふ。
このように、「日貳」は漢にとって、背叛・敵対の行動に終始し、その「日貳」を謀殺した三名に対し、漢は厚くこれを賞美しているのである。したがってかれは、漢にとって、「貳」字にふさわしき人物として映じていたのである。
このように、『漢書』中、明らかに「貳」字は、この字に対する「憎悪」にふさわしく、あて用いられているのである。もちろん、固有名詞の「原音」の漢字表記である以上、その国や王の所業が背叛・二心的であるからという理由だけで、原音をはなれて、いたずらに「貳」字を用いることはできない。しかし、反面、「貳」字と同音の字は、他にも数多く存在するのであるから、この国や王のイメージと合致した「貳」字があてられているのは、偶然の「純音韻主義」的な漢字表記とはみなしえないのである。
すなわち、漢側から異蛮の国名・人名の「原音」を漢字表記する場合、漢側の政治・思想上の評価を基準にした漢字選択が行なわれた、という証拠をここに見いだすのである。
先の烏丸・鮮卑伝序文の例に見られるように、当然、陳寿たち魏晋朝の史官・記録官はこのような漢の先例を知っていた。
それゆえ、「邪馬壹国」「壹与」の場合の「壹」字使用が、「魏晋朝に対する、二心なき朝貢記載」という事実とまさに一致するのは、けっして偶然ではない、とみなすべきなのである。
「邪馬壹国」という国名は、いったい、なんと読むのか。この問いを発したら、読者は笑いだすかもしれない。“もう、所在地までわかってしまった、という今ごろになって、そんな問いを出しはじめるとは!”と。
しかし、これには深い理由がある。
従来の「邪馬台国」研究史では、「ヤマト」と読むことは自明だ、と前提していた。そしてその「ヤマト」は近畿大和か、筑後山門か、というふうに、発想は展開していった。すなわち、同音地名の選択に迷ってきたのである。新井白石が方法として一般化し、のちの学者の従ってきた、このような地名比定、ひらたくいえば「地名あて」のやり方こそ、学問の方法論上、わざわいのもとをなした。
このことはいくら強調しても、強調しすぎることはないであろう(この方法のもつ問題点については、すでに一応ふれたけれども、のちにより徹底的な形において、その根本問題を明らかにする)。
「邪馬壹国」研究は、この古き研究のあやまちを、ふたたびくり返すことを拒むことからはじまった。
それゆえ、国名の倭訓(日本語読み)を求めることを先とせず、もっぱら行路記事の客観的検証に徹することによって、自然にその到着点をえたのである。
けれども、すでに事の終った今、あらためて虚心に、この「国名表記の倭訓」(日本側の現地音)を探究しようと思う。
では、「邪馬壹国」に対する、日本側の「倭音」(現地音)についてのべよう。
「邪」 ーー 余遮よしゃ切〈集韻〉 yeh2
「馬」 ーー 「母下もか切〈集韻〉ma3
「壹」 ーー 益悉えきしつ切〈集韻〉i1
右のうち、「邪馬」はこれまでの「邪馬臺国」の場合と同じく、「やま」と読んでよいと思われる。
問題は「壹」である。これは倭音では「い」あるいは「ゐ」に当るものだ。だが、このうち、「い」と読んだ場合、その相当する倭語、倭名を見いだしにくい。それゆえ、これは「ゐ」の方に当るものだと思われる。すなわち、仮名書きすれば「やまゐ」である。また、漢字でこれに意味をあてれば「山倭」だと思われる。
その理由を以下にのべよう。
「倭」の音は、はじめ「ゐ」だった。のちに「わ」の音に転じたのである。この間の、音の時代的転移はつぎの史料によって明らかとされる。
如淳曰く「墨の如(ごと)く委面して、帯方東南万里に在り」・・・・(臣讃注、略す)・・・・師古曰く、「如淳の『墨の如く委面す』と云へるは、蓋(けだ)し、委字を音するのみ。此の音、非なり。倭の音は『一戈か反』。今猶倭国有り。魏略に云ふ。『倭は帯方東南の大海の中に在り。山島に依りて国を為す。海を度ること千里、復た国有り、皆倭種』と」
〈『漢書』地理志、倭人項の注〉
唐の顔師古は、魏の如淳の「委面」の表記に対して、批判を加えた。そこで師古は三つの理由をあげた。
その一、「倭」の発音は「一戈反」つまり「わ」である。
その二、当代(唐)において、当地に「倭(わ)国」が現存している。
その三、『魏略』に「倭国」と記されている。けっして「委国」ではない。
それゆえ、この三点が示すように、「倭」は今も昔も「わ」である。だから、如淳が「ゐ」としか読めない「委」字をあてて用いているのは不当だ、と。これが師古の主張である。
たしかに、如淳注は『漢書』本文の「倭」(「夫れ、楽浪海中、倭人有り」)を「ゐ」と読み、「委」と通じ用いた、と解されるのである。なぜなら、「委」に「わ」という音は古今共に存在しないからである。
けれども、今わたしたちがこの如・顔両者の「論争」を分析すると、後代の顔師古の側の誤断だったことが、つぎの二点から判明する。
(一) 言語学上、「倭」の音は上古(三世紀以前)「ゐ」であった。『周道倭遅ゐち』(『詩経』)のごときはその例である。
「倭」は、「委」に「ニンベン」が加えられた字である。本来、同義同音にして、「委の人」を意味するようになり、「わ」の発音が生れたものと思われる。したがって、唐代にはたしかに「わ」の音となっていた。しかも、「ゐ」という上古音の記憶はすでに失われていたのである。そのため、師古は後代音「わ」に固執して、上古音「ゐ」の存在を知らなかったのである。
(二) 右の事実は、師古を去ること遠き江戸時代、日本の志賀島で発掘された金印によって、劇的に証明されることとなった。
ここには「漢委奴国王」とある。明白に「委」字が用いられているのである。これは中国音による限り、今も昔も「ゐ」であって、「わ」とは読めぬ。
ここに、如淳が用いた「委」という表記が正しかったことが裏打ちされている。この金印の記事を記載した『後漢書』(范曄、五世紀)では、これを「漢倭奴国」として「倭」字で記していた。そのため、唐代の師古は、日本志賀島に眠る金石文史料が三世紀如淳の表記を支持している、という事実を夢想だにしえなかったのである。
右を要するに、魏の如淳は、当然、かれの時代の音である「上古音」に従い、唐の師古は、自分たちの属する時代の「後代音」に固執したのである。
以上によって、先の「邪馬壹国=山倭国」という等式が成立しうることが知られよう。
音韻問題は微妙な論点をいろいろふくんでいる。ことに上古音の問題は、上古の音韻史料が限られているから、一語一語についてみれば、なお未確定の要素をふくんでいることが多い。
したがって、その中の顧慮すべきいくつかの問題にふれてみよう。
第一、「邪馬」の読みについて。
「邪」には「徐嵯じょさ切」(シャ・ジャ)、「羊諸ようしょ切」(ヨ)、「詳余しょうよ切」(ショ・ジョ)等の音も『集韻』にのせられている。「馬」は「母下ばか切」(バ・メ)、「満補まんほ切」(ボ・モ)が普通である(いずれも『集韻』)。
こうしてみると、音だけからは、「邪馬」にすら、種々の読み方が可能なのである。上古音と後代音の区別を入れれば、問題はさらに困難となろう。たとえば、「邪馬」を「サマ」もしくは「カマ」と読む説もある(安藤正直「サマ・ザマ」、小田洋「カマ・サマ」)。
このような事実の示す教訓はつぎのようであろう。
すなわち、倭音にあてるための訓読は、漢字による原音表記の多様性のために、「絶対的な確かさ」は到底保証されえない、ということである。
このことはわたしたちにつぎの点を直ちに反省せしめる。すなわち、「倭音訓読にもとづく地名比定」を出発点とするような研究方法がいかに危険であるか、ということを。
「邪馬臺国」の場合、これが最大の陥穽(おとしあな)となった。しかし、これは「邪馬壹国」の場合も同じだ。これに相当する「地名比定」から出発してはならぬ。それは、研究途上において、いわば「最後まで保留すべき仮説」とみなされねばならないのである。
第二、金印偽作説と上古音の問題。
志賀島から発掘された「漢委奴国王」の金印には、一部に偽作説が存在する。しかし、後代の偽作であるかぎり、「委」でなく、「倭」を用いるはずだ。なぜなら、『漢書』『後漢書』『三国志』をはじめ、『晋書』『宋書』より唐宋代史書に至るまで、圧倒的に「倭」である。
このような状況の中で、偽作者が如淳注のみに従って、異例の「委」を用いて「偽作」することは不可解である。
しかも、その「偽作者」が唐代以後であれば、当然、『漢書』倭人項の顔師古注の、「委」字を非とする論も、その認識の中に入っていたと思われる。顔師古のもっていた学的権威にかんがみると、ますます、それに反して「委」字を用いた「偽作者」を想定することは不可能である。
中国上古音については、近代の中国音韻学における上古音研究の成果に立って、はじめて確認しえたところである。したがって、江戸時代もしくはそれ以前の「後代の偽作者」が近代「上古音研究」の成果に合致する「委」字を偶然用いたとは、いよいよ考えにくいのである。
このように、金印の印文上の、この「委」字問題だけからしても、「金印偽作説」は容易に成立しがたいのである。
また、現在、この金印の印文読解において、この「委」の字を「わ」と読んでいるのは正しくない。なぜなら、「委」に「わ」の音は今も昔も存在しない。そのうえ、この「委」を「倭」の代字と考えたにしても、「倭」の上古音は「ゐ」であって、「わ」ではないからである。
第三、「如淳注」問題。
『漢書』の倭人項に対する最初の注、しかも魏の時代の人の注として、「墨の如く委面して、帯方東南万里に在り」という如淳注は重視せられねばならぬ。
とくに陳寿が『三国志』を書くとき、もっとも大きな影響をうけたのは、『史記』とそれに次ぐ『漢書』であった。
とくに『漢書』は陳寿にとって直前の史書として、もっとも直接的な模範としての意味をもつものであった。
ところが、その『漢書』には、代々学者が注解をほどこしてきた。現在、『漢書』の倭人項を見ても、
(1)如淳(魏)、(2)臣讃(晋)、(3)顔師古(唐)
つまり、三者の注が書かれている。
この中で、臣讃と顔師古は、陳寿以降の人である。したがって、西晋の人である陳寿の机上におかれていた『漢書』は、如淳の注までついた『漢書』(倭人項)だったのである。
このように考えると、陳寿の倭人観を考えるうえで、『漢書』を重視すべきであるとともに、この如淳注の倭人観を“抜き”にして理解することはできない。
たとえば、陳寿の東夷伝中の「異面の人有り・・・・」という、倭人に対する暗示には、如淳注の影響がありありと感ぜられる。
「帯方郡 ーー 邪馬壹国」間の距離「一万二千里」も、この如淳の「帯方東南万里に在り」の表記を先例としていると見られるのである。
ところが、この如淳注の読み方が従来確定していなかった。「如墨委面」を「ヨモヤマ」と読み、日本人が俗に“よもやまの話”というときの「四方八方よもやま」という意味だろう、などという変った説も、学術論文として出ていたほどである(藤田元春『如墨委面考』)。
そこでこの文面について、わたしの理解しえたところを左にのべよう。
「如レ墨委面」の「墨」とは「墨刑」のことだ。顔に「いれずみ」を刻し、「[黒京]面げいめん」とする刑罰である。陳寿も、『三国志』巻十二において、
漢の律、罪人妻子、没して奴碑と為し、[黒京]面せしむ。漢の法、行ふ所の[黒京]墨の刑、古典に存す。
と記している。
「委面」には三つの意味がある。第一に「異面」のことであり、「[黒京]面」をさす。第二に、「倭人の顔」を意味する。第三に、「礼物を君前に致して臣となること」を意味する熟語である(「面」は、北面して臣となること)。
文若(ぶんじゃく)、独見の明を懐きて救世の心有り、と云云、故に覇朝に委面し、世事を豫議す。
〔注〕銑(せん)曰く、「質を委して北面し、以て魏朝に事ふ」〈袁宏『三国名臣序讃』〉
つまり、『漢書』本文倭人項にいう「歳時を以て来たり献見す」ることをさしているのである。
以上のように、如淳は簡明な「委面」の一語をもって、“[黒京]面した倭人が天子に対する礼を守り、歳時貢献している”という状況を集約したのである。
これによってみると、先にのべたように、陳寿の倭人観が如淳注に影響された跡は明瞭である。だから、陳寿が「東夷伝序文」で倭人を「異面の人」と表現したのは、当然、この如淳注の「委面」をうけついだ用語と見ねばならぬ(ここにふくまれた音韻問題については、のちにのべる)。
けれども、以上によって「音韻問題」は終ったのではない。「邪馬壹=やまゐ」という等式が成立するために、もっとも大きな障害と見える問題が二つある。一は、日本語の音韻から、一は、中国語の音韻から、提出される問題である。
まず、倭音側の音韻を考える場合、ただちに問題となるのは、橋本進吉の提起した母韻法則である。
「国語の母音は、子音と結合するか、又は音結合体の最初に立たない限り、十分の独立性ある音節を構成しにくい」(「国語の音節構造と母音の特性」、『国語音韻の研究』所収)
つまり、母音は単語の語頭にだけ現れ、語中や語末には存在しえない、というのである。この法則によるかぎり、「やまい」という倭語は、一応成立しがたいこととなろう。
しかし、実は橋本法則の、この問題に対する適用について、つぎの三点が注意せられる。
(1) 橋本みずから、右の論文において説いているように、右の法則は、すべての母音について均一の妥当率をもっていない。
中でも、「い」は、もっとも例外率の高い母韻の一つとされているのである(右の著書二〇九ぺージ)。
(2) 橋本法則の史料的基礎は、七、八世紀の大和朝廷系日本文献にある。それゆえ、これが三世紀の中国史書の音表記と、はたしてどれだけの相関関係をもつかは、学的厳密性において、不定である。
(3) 魏志倭人伝中、「三世紀の倭音」を直接、漢字表記したと見られる個所が二つある。
a 持衰(じさい)「之を名づけて持衰と為す」 ーーただし、「衰」は、「喪服」の意味のときは「さい」(「倉回そうかい切」)であり、「おとろふ」の意味のときは「すゐ」(「隻佳そうすゐ切」)である。
したがって、曾我部説(曾我部静雄「魏志倭人伝に見ゆる持衰の意味」)のように、後者に解するときは、末尾「ゐ」となる。
b 噫(「あい」または「い」)「対応の声、噫と曰ふ、比するに然諾の如し」
偶然にも、この二つが二つとも、「い」という母音を末尾にもつか、もしくは独立音として存在している可能性の高いものである。
このようにしてみると、ここでは橋本法則は十分の妥当力をもっているとはいえないように見える。しかし、実は橋本自身、その内実として「い・う」のような母音については、非妥当率の高い・・・をのべている。だから、その内実をふくんだうえで、厳密にいえば、この倭人伝の二例も、「橋本法則の全体」に反している、とはいえないこととなろう。
わたしにとって、最初「邪馬壹国」訓読について、この橋本法則が大きな問題点であるかに見えていた。ところが、右のような点検によって、この法則は問題解決の障壁ではないことが判明してきた。
しかし、その後問題はさらに進展し、「邪馬壹」は「やまい」ではなく、「やまゐ」(山倭)として訓読することとなった。それゆえ、この問題は、まったく橋本法則には関係しないこととなった。
それに代って、もっぱら中国音韻学側の問題が前面にあらわれることとなった。すなわち、和音の「ゐ」を中国側で「壹」と表記しうるか否か、という、つぎの問題である。
「橋本法則」という“前門の虎”の直前を通過してきたわたしたちは、ただちにさらに困難な“後門の狼”に直面することとなる。
なぜなら、以上のように、「邪馬壹」を「やまゐ」と読むについて、なお一個の疑問が存在するからである。
「壹」は「い」(i)であるのに対し、「委・倭」は「ゐ」(wi)である。だから、両者混用することは許されぬ、とする、中国音韻学上の見地である。
けれども、これに対し、二個の反証が成立する。
(一) 先の如淳注が「委面」と記したのをうけて、『三国志』の陳寿は「異面」と記している(東夷伝序文、前出)。
ところが、「委」が「ゐ(wi)」であるのに対し、「異」は「い(i)」である。陳寿は、両者の音の相異を知悉しながら、あえて換骨奪胎させて使用しているのである。文章の実際家である古代中国人は、現代音韻学者ほど、「音韻至上主義」ではなかったのである。
「壹」は「益悉切」と『集韻』で表現されているように、単純な「い」ではなく、むしろ「いッ(it)」ともいうべき発音の字である。
すなわち、音韻の問題をもっとも厳密に考えれば、「い」も「壹」とまったく同一ではない。
異なった音韻体系をもつ両言語間において、厳密に存在しうるものは、「音韻の一致」ではなく、「音韻の類似」である。
もちろん、現代の音韻学者は“もっとも適正な対応関係”を指定するであろう。それはそれとして正しい。しかし、根本の原理が「類似」である以上、歴史上の使用事実は、現代の「指定」に拘束されているとはかぎらないのである。
(二) このことは、『三国志』に陳寿が記載した、つぎのような印象的な史実によって、さらに証明される。
奔(もう)、大いに悦び、天下に布告す。更に高句麗を名づけて、下句麗(かくり)と為す。〈『三国志』東夷伝三十、高句麗伝〉
これは、前漢を「新」にかえた王奔の故事である。高句麗の叛を討伐し、その王の首を斬り、これを天下に布告した。その上、従来(前漢)の「高句麗」の名を改めて「下句麗」とした、というのである。
これは、原音(現地の高句麗人の、自国への呼び名)が変ったのではない。ただ、中国側の漢字表記が変っただけだ。しかし、この事件はつぎのような「原理」を三点において示している。
(1) 国号表記は、単に現地音の、純粋な漢字表記にとどまるものではなく、中国側から見た、その国に対する「価値観」が反映させられている。従来の「高」に代うるに、「下」をもって表記したのは、そのあらわれである。
(2) この場合、「純粋な音韻上の一致」は必ずしも守られない。「高」は「居労きょろう切」(『集韻』)(Kao)であるのに対し、「下」は「亥雅がいが切」(『集韻』)(hsia)である。明らかに両者異なった字音であるのに、同じ「原音(現地音)」の漢字表記として用いられているのである。
(3) しかし、なおこのさい、つぎの点が注意せられねばならぬ。「高」の反対語は「低」である。しかるに、「低句麗」と呼ばず、「上」の反対語の「下」を用い、「下句麗」としたのは、ほかでもない。「高」と「下」との「字音類似」によるものと考えられる。すなわち、「音韻上の純粋な一致」でなく、「字音の類似」が必要とされているのである。
以上のごとく、一見風変りで、かつ突発的ともいえる、この事件(「下句麗」の称は後漢になると、再び「高句麗」の表記に復帰した)の背後には、右のような、夷蛮の国号表記に関する「普遍的な原理」が存在している。一言にしていえば、この「普遍」なくして、右の「特殊」な事件はけっして成立しえないものなのである。
さらに注目すべきは、『三国志』の著者陳寿がこの事件を東夷伝中(倭人伝の前)に記載していることである。陳寿の知っていた、夷蛮国号表記の一例がここに示されているわけである。
以上によって、「倭」を「壹」という「魏晋朝側からの思想性」をもつ字面にかえ、「邪馬壹国」と表記した ーーそれについての音韻上の疑点は氷解する。
白石と宣長/消された中心国名/類縁地名/天皇期以前
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