木簡に九州年号の痕跡 「三壬子年」木簡の史料批判 古賀達也(会報74号)
続・最後の九州年号 -- 消された隼人征討記事 古賀達也(会報78号)
2006年8月20日 長野県地元紙「市民タイムス」より転載
木簡に九州年号の痕跡
「元壬子年」木簡の発見
古賀達也
長野県の『善光寺縁起』には「喜楽」「師安」「知僧」「金光」「定居」「告貴」「願転」「命長」「白雉」という、一見して馴染みのない年号が記されています。鎌倉時代に成立した『平家物語』にも「善光寺炎上」の段に「金光」という年号が残されています。これらの年号を、江戸時代の学者、鶴峯戊申はその著書『襲国偽僭考(そのくにぎせんこう)』で紹介し、「九州年号」という古写本から写したと書き留めています。
年号とは政治的権力者が発布するものですから、近畿の大和朝廷が未だ年号を作っていなかった時代(六世紀から七世紀)に、九州には年号を公布し得た権力者がいたことを、「九州年号」は指し示しています。この権力者を歴史家の古田武彦氏は九州王朝と名づけ、志賀島の金印をもらった倭奴国から卑弥呼の邪馬壹国へと続いた、古代日本列島を代表する王朝(倭国)であったとされました。
他方、古代史学界は九州年号を後代に偽作された「偽年号」扱いし、真正面から学問研究の対象としてきませんでした。ところが、九州年号の痕跡を有する木簡が、兵庫県芦屋市の遺跡から出土していたことが、判明したのです。
一九九六年、阪神淡路大震災の被災マンションの再建に伴い、芦屋市の三条九ノ坪遺跡が発掘調査され、木簡が出土しました。その木簡には紀年が記されており、当初「三壬子年」(『木簡研究』第,十九号)と解読され、一緒に出土した土器から七世紀中頃の遺跡であることが判っていたため、この「壬子年」は西暦六五二年であることが確認されました。当時、紀年銘木簡としては最古のものであり、マスコミでも取り上げられたほどです。
六五二年は『日本書紀』に記された孝徳天皇の白雉三年に相当することから、この木簡は「三壬子年」と判読されたのです。一方、九州年号にも「白推」が存在し、六五二年はその元年とされており、『日本書紀』の白雉とは二年のズレがありました。そこで、本年四月、わたしは神戸市にある兵庫県教育委員会埋葬文化財調査事務所で同木簡を見せていただきました。肉眼だけでなく光学顕微鏡や赤外線写真で精密に調査したところ、「三」と読まれていた文字は「元」であったことが判明したのです。『日本書紀』の白雉三年ではなく、九州年号の白雉元年を記した木簡だったのです。
この発見により、九州年号が偽作ではなく、古代において実際に使用されていたことが確認されました。今まで九州年号を偽作としていた古代史学界からはまだ何の反応もありませんが、学間上、九州年号真偽論争はこれで決着しました。
今回の発見について、九月三日の「古田史学の会・まつもと」主催による講演会にて詳しくご紹介いたします。
(古町史学の会事務局長、京都在住)
◇「古田史学の会・まつもと」は九月三日(日)午後一時半から安原地区公民館で。古賀達也氏が「『九州年号』木簡の発見ー九州王朝の副都『前期難波宮』の研究」の演題で講演。一般の聴講は資料代千円。
これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)、『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。
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